二月に入り、寒さがいっそう厳しくなったある日の午後。日本のどこにでもある長閑な田舎町。その町外れにひっそりと佇む、悪の組織・極東支部のアジトである古民家は、静寂ではなく、不穏な物音に包まれていた。
カリカリ……チュウ……。タッタッタッ……。
天井裏や床下から、小動物が走り回るような音が響く。
「……あー、うるせえ! 全く落ち着かねえな!」
六畳間の主、黒野改蔵は、読みかけの週刊誌を畳に叩きつけた。彼は煎餅布団の上で胡座をかき、不機嫌そうに天井を睨みつけた。
「このボロ家、またネズミが増えやがったか。柱をかじる音で昼寝もできやしねえ」
築数十年の木造家屋であるアジトは、冬になると暖を求めて侵入してくる野ネズミたちの天国と化していた。悪の組織の魔力が充満しているため、普通のネズミよりも少しばかり栄養状態が良く、図太くなっているのが厄介だ。
「ひぃっ! マスター! いま、あそこ! あそこ通りましたぁ!」
改蔵の足元で、姪浜メイが悲鳴を上げ、ガタガタと震えながらしがみついてきた。彼女はサキュバス怪人だが、ネズミが大の苦手だった。
「ほら、メイ。お前、行って退治してこい。サキュバスだろ?」
「む、むりですぅ! ネズミさん怖いですぅ! 尻尾がニョロってしてて、目が赤くて……食べられちゃいますぅ!」
メイは涙目で首をブンブンと横に振る。彼女は改蔵のスウェットの中に頭を突っ込み、現実逃避を決め込んだ。全く役に立たない。
「あらあら。ネズミさんたちも、越冬に必死なんですねぇ。……でも、乾物袋を食い破られるのは困りますね」
台所から五十嵐イスズが顔を出した。彼女の手には、袋の端がかじられた
「駆除業者を呼ぶ金もねえしなぁ。……猫でもいりゃあいいんだが」
改蔵は溜息をつき、煙草に火をつけた。紫煙をくゆらせながら、ぼんやりと呟く。
「猫がいいな。気まぐれで、しなやかで、でも獲物は逃さない鋭い爪を持った、優秀なハンターだ。……そこの役立たずの
「んぅ……。メイ、やくたたずじゃないもん……。夜はがんばるもん……」
スウェットの中でメイが拗ねたような声を出すが、改蔵は無視した。
「マナ! いるか!」
「はいはーい! ここにいますよぉ! ちょうど屋根裏でネズミと追いかけっこしてましたぁ!」
天井の点検口から、小悪魔マナが顔を逆さまに出した。手には埃まみれの
「マスター、猫が欲しいんですかぁ?」
「ああ。アジトの警備と、ネズミ駆除。ついでに俺の癒やし担当だ。……とびきり可愛くて、でも野性味あふれる『猫』をスカウトしてこい」
「なるほどぉ! 普通のペットショップの猫じゃ、悪の組織の番犬ならぬ番猫は務まりませんもんねぇ」
マナがニヤリと笑い、くるりと宙返りをして畳に着地した。
「任せてくださいっ! 路地裏や公園には、飼い主を待ってる寂しがり屋の『野良猫』がいっぱいいますから。……とびっきりの子を、拾ってきますね!」
マナは黒い翼を広げ、窓から寒空の下へと飛び出した。北風が吹き込み、メイが「さむいぃ」とさらに深く改蔵の股間に潜り込んだ。
***
町内の小さな公園。冷たい風が吹き荒れ、遊具には誰もいない。ブランコがキーキーと寂しげな音を立てて揺れている。その片隅にあるベンチに、一人の少女が丸まっていた。
新名ミヤ。彼女はこの近くのカフェ(という名のメイド喫茶風の店)でアルバイトをしている店員だ。特徴的なのは、その髪型。明るい茶髪を左右の高い位置で尖らせるように結い上げ、まるで猫耳のようなシルエットを作っている。顔立ちは愛らしいが、吊り上がった大きな瞳には、常に周囲を警戒するような鋭い光が宿っている。
「……ケッ。やってらんないニャ」
ミヤは缶コーヒーを握りしめ、悪態をついた。彼女は今、バイトをサボっている最中だった。制服の上にダウンジャケットを羽織っているが、下は短いフリルスカートとニーソックスで、寒さに震えながら膝を抱えている。
「店長もうるさいし、客もうざい。『もっと愛想よくしろ』だの『笑顔で萌えキュン』だの……。アタシは愛玩動物じゃないっつーの」
彼女は本来、群れるのを嫌う孤高の性格だ。だが、生活費のために仕方なく接客業をしている。客に媚び、愛想笑いを振りまく毎日は、彼女のプライドをガリガリと削り取っていた。
「……あーあ。猫になりたい。一日中日向ぼっこして、腹減ったら誰かに餌もらって、気に入らない奴は引っ掻いて……。そんな生活がしたいニャ」
ミヤは空を見上げた。雲の隙間から、わずかな陽光が差し込んでくる。彼女は本能的にその光を求め、ベンチの上で背伸びをした。
グゥゥゥッ……。
背中を反らせ、手足を伸ばすその仕草は、まさに猫そのものだった。身体が柔らかく、しなやかだ。
「……おや? 可愛い猫ちゃんがいますねぇ」
不意に、頭上から声が降ってきた。ミヤがビクッとして振り返ると、ジャングルジムのてっぺんに、黒い服を着た小柄な少女が座っていた。マナだ。
「ああん? 誰だオマエ。……アタシは猫じゃねえよ」
ミヤが威嚇するように睨みつける。だが、マナは動じることなく、フワリと地面に降り立った。
「ウフフ、強がりなところもそっくりですねぇ。……仕事、サボり中ですか?」
「……オマエに関係ないだろ。あっち行けよ」
ミヤはそっぽを向き、再びベンチで丸まろうとした。だが、マナはポケットから「あるもの」を取り出した。
それは、ただのねこじゃらし(エノコログサ)。だが、マナが少しだけ魔力を込めて振ると、その穂先はまるで生き物のように、あるいは極上の獲物のように、不規則で魅力的な動きを始めた。
フリフリ、ピョン。
「……ッ!?」
ミヤの視線が、吸い寄せられるようにねこじゃらしに釘付けになった。瞳孔がキュッと収縮し、黒目がちになる。
「どーれ、こっちかな? それともこっちかな?」
マナが左右に振る。ミヤの首が、それに合わせてカクッ、カクッと動く。
(な、なんだこれ……。目が……離せない……!)
ミヤの理性が警鐘を鳴らすが、本能がそれを無視する。あのフワフワした穂先を捕まえたい。爪を立てて、引き裂きたい。じゃれつきたい。
「や、やめろ……! アタシを馬鹿にしてんのか……!」
ミヤは歯を食いしばり、ベンチの手すりを掴んで耐えた。だが、身体は前のめりになり、お尻がムズムズと動いてしまう。
「あらあら、我慢しなくていいんですよぉ。……ほーら、捕まえてごらんなさい?」
マナがねこじゃらしを、ミヤの鼻先スレスレで振る。
シュッ!
「にゃっ!?」
ミヤの手が勝手に出た。鋭い手刀が空を切る。だが、マナはひらりと躱し、一歩下がる。
「惜しいですねぇ。もっと本能に正直にならないと、獲物は逃げちゃいますよ?」
「く、くそっ……! 待てっ! その草を寄越せっ!」
ミヤがベンチから飛び降りた。四つん這いに近い姿勢で、地面を蹴る。その動きは、もはや人間のそれではない。完全に狩猟モードに入った猫の動きだ。
フリフリ、サッ。フリフリ、パッ。
マナは踊るように後退しながら、ミヤを公園の奥、死角となる茂みの陰へと誘導していく。
「ハァ……ハァ……! 捕まえる……! 絶対に捕まえる……ニャ!」
ミヤは涎を垂らしそうな勢いで飛びついた。だが、飛び込んだ先には、ねこじゃらしではなく、大きな「ダンボール箱」が待ち構えていた。
スポッ。
「……え?」
ミヤは頭からダンボール箱に突っ込んだ。ちょうどいいサイズ感。狭くて、暗くて、四方を囲まれた安心感。
(……あ、落ち着く……)
本能が告げている。ここは
「ウフフ、一丁上がりですねぇ」
マナが箱の上から覗き込む。
「い、いや……違うんだ。これは……その、罠で……」
ミヤが言い訳しようとするが、身体は箱の底で丸くなり始めている。マナはマジックペンを取り出し、ダンボールの側面にサラサラと文字を書いた。
『拾ってください。噛み癖あり』
「いい飼い主、見つけましたよぉ。ご飯も寝床もあって、思う存分爪研ぎができる素敵なお家です」
「……飼い主? アタシはペットじゃ……」
「でも、今の職場よりずっと『自由』になれますよ? 愛想笑いなんてしなくていい。……ただ、ご主人様に甘えて、喉を鳴らすだけでいいんです」
マナが優しく頭を撫でる。ミヤは抵抗しようとしたが、その手つきが妙に心地よくて、力が抜けてしまった。
「……ご飯、うまいのか?」
「最高ですよぉ。特に『ミルク』は濃厚で絶品です」
「……ふん。見てやるだけだニャ。気に入らなかったら、すぐに逃げ出してやる」
ミヤは強がって見せたが、箱から出る気配はない。マナはニッコリと笑い、軽々とダンボール箱を持ち上げた。
「それでは、お持ち帰りぃ〜!」
***
アジトの六畳間。ネズミの音が止み、改蔵がうとうとしていると、玄関が開く音がした。
「ただいま戻りましたぁ! 改蔵様、ご注文の『野良猫』、お届けにあがりましたよぉ!」
マナが大きなダンボール箱を抱えて入ってくる。ドサッ、とちゃぶ台の横に置かれた箱。中から、ガサゴソという音と、警戒するような気配が漂ってくる。
「……ほう。早かったな」
改蔵が身を起こし、箱を覗き込む。そこには、猫耳ヘアーの少女が、膝を抱えて丸まり、上目遣いでこちらを睨みつけていた。
「……なんだ、オッサン。オマエが新しい飼い主か?」
ミヤはシャーッと威嚇音を出す。だが、その目は改蔵の持つ独特の「強者のオーラ」と、アジトに満ちる魔力の匂いに敏感に反応していた。
(……このオッサン、ただ者じゃないニャ。……それに、なんかいい匂いがする)
改蔵はニヤリと笑い、箱の中に手を伸ばした。
「元気のいい猫だ。……だが、
彼の手がミヤの顎を撫でる。ゾクッ。ミヤの背筋に電流が走った。
「にゃっ……!?」
「アジトへようこそ。……今日からここが、お前の縄張りだ」
野良猫少女と悪の組織のボス。奇妙な同居生活の始まりだった。足元では、メイが「あたらしいライバル……!?」と危機感を抱き、イスズが「あらあら、可愛い猫ちゃんですねぇ、お魚焼かなきゃ」と微笑んでいた。