二月の寒空の下、凍てつく風が吹き荒れる夜。悪の組織・極東支部のアジトである古民家の六畳間には、いつものようにPCモニターから、中間管理職サイトウのヒステリックな怒号が響き渡っていた。
『緊急指令だ! 聞いているかね、黒野君!』
サイトウの顔面が画面いっぱいに広がり、唾が飛んできそうな勢いだ。
『先日の「豆腐作戦」の失敗、ならびに「新体操作戦」での収益ゼロにより、極東支部の財政は火の車だ! 本部の査定会議が迫っているのだよ! そこで今回は、手っ取り早く資金を調達する! 駅前の高級宝石店「ジュエリー・タナカ」を襲撃し、金目の物を根こそぎ奪取せよ!』
「……へいへい。強盗かよ。世知辛いねぇ」
黒野改蔵は、こたつに入ったまま、みかんの皮を剥きながら気のない返事をした。こたつの中には、すでに五十嵐イスズと小悪魔マナ、そして姪浜メイが潜り込んでおり、改蔵の足に絡みつきながら暖を取っている。
『頼んだぞ! 特に、新入りの「猫怪人」君! 君の夜目と俊敏性は、この作戦にうってつけだ! 期待しているぞ!』
サイトウが一方的に通信を切ると、部屋の
「……フン。人使いの荒い組織だニャ。アタシは泥棒猫じゃないんだけどね」
ミヤは不満そうに尻尾を振った。だが、その瞳は夜の闇に輝き、狩りの予感に微かに興奮しているようにも見えた。
「ま、いいか。ちょうど運動不足だったし、夜の散歩ついでに行ってやるよ」
「おう、頼んだぞ。……ただし、無理はするなよ。飽きたら帰ってきてもいい」
改蔵が適当に手を振る。
「言われなくてもそうするニャ。……首輪をつけられるのは御免だからね」
ミヤはニヤリと笑い、窓を開け放った。冷たい夜風が吹き込む中、彼女は弾丸のように夜の街へと飛び出した。
***
駅前大通り。深夜の静寂に包まれた高級宝石店「ジュエリー・タナカ」。防犯シャッターが下り、厳重な警備システムが作動しているその店に、一匹の怪人が忍び寄る。
「……チョロいニャ」
ミヤはビルの壁面を垂直に駆け上がり、通気口のダクトを爪で切り裂いて侵入した。赤外線センサーの網を、軟体動物のような柔軟性でくぐり抜け、ショーケースの前へと降り立つ。月明かりに照らされた店内には、ダイヤモンド、ルビー、サファイアが冷たい輝きを放っている。
「キラキラしてて綺麗だけど……。食えない石ころだニャ」
ミヤは興味なさそうにショーケースのガラスを爪で円形に切り抜き、手当たり次第に宝石を専用の巾着袋に放り込んだ。仕事は迅速かつ雑だ。彼女にとって、これは単なる「義務」であり、遊びではない。
「……ん?」
ふと、彼女の鼻がヒクついた。宝石の無機質な匂いの中に混じって、風に乗って漂ってくる、ある「芳醇な香り」。生臭く、鉄分を含み、そして脂の乗った濃厚な匂い。
「……この匂いは……」
ミヤの瞳孔がキュッと収縮した。彼女は宝石を詰め込む手を止め、匂いの元へと顔を向けた。通りの向かい側。そこには、早朝の開店準備のために搬入作業を行っている高級鮮魚店「魚勝」があった。店先には、解体前の巨大な本マグロが、氷の上に鎮座している。
「……マグロ……! しかも大トロ……!」
ミヤの口から、ジュルリと涎が垂れた。宝石の輝きなど、今の彼女にはどうでもよかった。あの赤い肉塊。脂の乗った断面。本能が叫ぶ。あれが欲しい。
「……予定変更だニャ」
ミヤは巾着袋を適当に肩に担ぐと、宝石店の窓ガラスを蹴破り、一直線に鮮魚店へと飛び込んだ。
「にゃあぁぁぁぁっ!」
「うわっ!? なんだ、でかい猫!?」 「泥棒だ! マグロ泥棒だ!」
店員たちの悲鳴を他所に、ミヤは巨大なマグロのブロック(中トロ部分)を爪で豪快に切り取り、口に咥えた。そして、宝石袋とマグロブロックの両方を抱え、屋根の上へと逃走した。
「最高だニャ! 今夜はマグロパーティーだ!」
***
一方、アジトの六畳間。改蔵たちは、クルミがハッキングした街頭防犯カメラの映像で、その一部始終を眺めていた。
「……おいおい。宝石盗むついでに、魚屋襲ってんぞあいつ」
改蔵は呆れつつも、その奔放な姿に目を細めた。モニターの中のミヤは、屋根の上を軽やかに飛び回り、追っ手をからかうように尻尾を振っている。
「ふふふ、野性味あふれる子ですねぇ。お刺身が食べたかったんでしょうか」
イスズがお茶を啜りながら微笑む。マナは「あーあ、計画がめちゃくちゃですぅ。サイトウさんに怒られますよぉ」と苦笑いしている。
そして、改蔵の足元では。姪浜メイが、モニターの映像ではなく、改蔵の股間を見つめてモジモジしていた。
「マスター……。あの猫……楽しそう……」
メイは改蔵のスウェットの裾を引っ張った。彼女はミヤの
「……わたしも、猫ちゃんみたいに……できます」
「あん? お前が?」
「はい……。ニャー……」
メイはその場で四つん這いになり、お尻を高く突き出した。そして、上目遣いで改蔵を見上げ、不器用に猫の真似をした。
「ニャー……。マスター……ごはん……ほしいニャ……」
それは猫というよりは、捨てられた子犬が必死に媚びているような、哀愁漂う姿だった。だが、その健気さと、突き出されたお尻の無防備さが、改蔵の嗜虐心をくすぐった。
「……ふん。座敷犬が猫の真似事か。……いいぜ、可愛がってやるよ」
改蔵はこたつ布団を跳ね除け、メイの背後に回った。そして、彼女の腰を掴み、自身の剛直をあてがった。
「ほら、お前が欲しがってる『またたび』だぞ」
「あっ……! マスターの……! 匂い……!」
ズプッ……。
背後からの一突き。メイは「ひゃぅ!」と可愛らしい悲鳴を上げ、畳に突っ伏した。
「よし、そのままモニターを見ろ。……あいつが逃げ回ってる間、お前はここで飼い主の愛を受けるんだ」
「は、はいぃ……! みてます……! ニャー……!」
改蔵が腰を動かすたびに、メイの身体が前後に揺さぶられる。彼女はモニターの中のミヤに対抗するように、必死に声を上げた。
「んんっ、ああんっ! わたしも……猫ですぅ! ニャンニャンですぅ!」
「よしよし、いい鳴き声だ。……マナ、お前も混ざれ」
「はーい! 私は黒猫のタンゴでいきますぅ!」
マナも服を脱ぎ捨て、改蔵の正面に回り込み、キスをねだる。六畳間は、奇妙な「猫カフェ」と化した。押し入れからはクルミが「……カオス。でもデータ収集は順調」と呟きながら録画を続けている。
***
再び、夜の街。屋根の上を逃走していたミヤの前に、五つの影が立ちはだかった。
「そこまでだ! 宝石泥棒め!」
正義戦隊ジャスティンジャー参上。レッドが指を突きつける。
「悪の怪人! 盗んだ宝石と、その……マグロを返せ!」
「ああん? 宝石はともかく、このマグロはアタシの獲物だニャ。誰にも渡さないよ」
ミヤは口に咥えたマグロブロックを大事そうに抱え直し、宝石の袋をチャリチャリと鳴らした。
「やる気か? ……アタシの爪は、ダイヤモンドより硬いんだよ!」
ミヤが身を低くし、臨戦態勢をとる。ジャスティンジャーが一斉にかかる。
「いくぞ! ジャスティン・スラッシュ!」
レッドが剣を振るう。だが、ミヤの動きは液体のように滑らかだった。ひらりと剣を躱し、レッドの背後に回り込むと、その背中を爪で軽く引っ掻いた。
ガリッ。
「うわっ!?」
「遅いニャ。止まって見えるよ」
彼女は戦闘を楽しんでいた。ブルーの射撃をバク転で回避し、イエローの突進をジャンプで飛び越え、ピンクとグリーンの連携を尻尾で撹乱する。それは戦いというよりは、猫がネズミをいたぶって遊んでいるような光景だった。
「クソッ、ちょこまかと! 捕まらないぞ!」
「当たり前だニャ。猫は気まぐれなんだよ」
ミヤは屋根の上の給水塔に飛び乗り、月を背にして見下ろした。彼女の全身から黒い魔力が立ち上り、その姿を妖しく際立たせる。
「……ふぁぁ」
突然、ミヤが大きな欠伸をした。
「……なんか、飽きてきたニャ」
「なっ!?」
ヒーローたちが絶句する。
「オマエら、動きが単調なんだもん。遊んでてもつまんない」
ミヤはマグロを一口かじり、ペロリと舌なめずりをした。
「宝石はくれてやるよ。……重くて邪魔だし」
彼女は宝石の入った巾着袋を、無造作に放り投げた。ジャララッ! 袋が宙を舞い、イエローが慌ててキャッチする。
「わわっ! ほ、宝石!」
「その代わり、このマグロは持ち帰りだ。……じゃあな、負け犬ども」
ミヤはニヤリと笑い、闇の中へと姿を消した。
「ま、待て! 勝負はまだ……!」
レッドが追いかけようとするが、ミヤの姿はすでにどこにもなかった。残されたのは、取り返した宝石と、漂う魚の匂いだけ。
「……なんだあいつ。本当に気まぐれだな」 「宝石よりマグロが大事なのか……?」
ヒーローたちは困惑し、そして徒労感に包まれた。彼らは知らなかった。彼女が組織の指令などハナから無視して動く、制御不能な「野良」であることを。
***
アジト。モニターの映像が砂嵐に変わる。
「……へっ、宝石を捨ててマグロを持って帰ってきやがったか」
改蔵は、絶頂の余韻の中で苦笑いを浮かべた。彼の下では、猫の真似をして腰を振り続けたメイが、白目を剥いてピクピクしている。マナも「あはは……。サイトウさんに始末書ですねぇ……」と力なく笑っている。
ガララッ。
窓が開き、ミヤが帰ってきた。手には半分かじられたマグロのブロック。
「ただいまニャ。……いい運動になった」
彼女は悪びれもせず、ちゃぶ台の上にマグロを置いた。
「これ、土産だ。……イスズ、刺身にしてくれ」
「あらあら、立派な中トロですねぇ。すぐに捌きますね」
イスズが嬉しそうに包丁を取り出す。ミヤは改蔵の横に座り込み、その身体に鼻を近づけた。
「……ん。いい匂い。……オマエら、アタシがいない間に『いいこと』してたな?」
彼女は改蔵の胸に爪を立て、嫉妬深そうに目を細めた。
「アタシにもよこせ。……デザートは別腹だニャ」
彼女はマグロよりも甘い、改蔵の魔力を求めてその胸に飛び込んだ。アジトの夜は、まだ終わらない。
***
翌日。組織本部からの通信が入った。
『新名ミヤ君。君の戦闘能力は評価するが、命令違反と宝石の遺棄は重罪だ! よって、本部での再教育プログラムへの参加を命じる!』
サイトウが画面越しに叫ぶ。だが、ミヤは画面に向かって「あっかんべー」をした。
「誰がそんな窮屈なところに行くかニャ。アタシはアタシの好きなように生きるんだよ」
彼女は通信機の電源コードを爪で切断した。プツン。画面が消える。
「……さて。散歩に行ってくるか」
ミヤは窓から飛び出した。彼女は組織の一員ではない。かといって、正義の味方でもない。街を気ままに彷徨い、気が向けば悪事を働き、腹が減ればアジトに帰ってくる。誰にも首輪をつけさせない、誇り高き「野良怪人」。その存在は、街の人々にとっても、ヒーローにとっても、そして悪の組織にとっても、予測不能なトラブルメーカーとして語り継がれることになるのだった。
アジトの軒先には、彼女専用のダンボール箱が、いつの間にか「ミヤの別荘」として定着していた。そこには、メイがこっそり入れた「またたび」の小袋が置かれていることを、彼女はまだ知らない。