二月も下旬に差し掛かり、暦の上では春の足音が聞こえてきてもおかしくない時期である。
しかし、現実は非情だった。
三寒四温という言葉を嘲笑うかのように、冬将軍が最後の悪あがきとばかりに強烈な冷気を日本列島に叩きつけている。
北風がヒューヒューと吹き荒れる深夜。
悪の組織・極東支部のアジトである、築数十年の木造古民家は、世界から隔絶された「時間の止まった場所」となっていた。
ミウという嵐のようなギャルが去ってから数日。
アジトには、祭りの後の静けさと、変わらぬ怠惰で生産性の欠片もない日常が戻っていた。
六畳間の中心には、もはやこの家の主と言っても過言ではない「こたつ」が鎮座し、その魔力によって住人たちを堕落の底へと引きずり込んでいた。
「……あー、平和だ。やっぱりアジトはこうでなくちゃな。あの騒がしいのも悪くなかったが、俺にはこの湿っぽい空気が性に合ってる」
黒野改蔵は、こたつ布団に肩まで潜り込み、仰向けになって天井のシミを数えていた。
彼の生態系は完全に完成されていた。
腹の上には、気まぐれで帰宅した猫怪人ミヤが香箱座りで鎮座し、喉をゴロゴロと鳴らしながら暖を取っている。重いが、動く気にはなれない。
足元には、姪浜メイがダンゴムシのように丸まり、改蔵の足を抱き枕にして寝息を立てている。
右腕は五十嵐イスズにホールドされ、彼女の豊満な胸が心地よい圧力をかけてくる。
そして左側では、小悪魔マナがみかんの皮を器用に剥き、改蔵の口へと運んでいる。
「はい、あーん。ビタミンCですよぉ、マスター」
「んぐ、もぐ……。果汁が染みるぜ……」
まさにハーレム状態。だが、ここから生み出される価値はゼロだ。
ただ時間を浪費し、カロリーを消費するだけの、至高の怠惰。
世界征服などという大それた野望は、このこたつの結界の前では無力化されていた。
ピロリロリン♪
ジジジ……。
その完璧な静寂と停滞を切り裂くように、ちゃぶ台の上のPCモニターが不穏なノイズと共に起動した。
画面が明滅し、そこに映し出されたのは、いつもの中間管理職、サイトウだ。
だが、今日の彼は様子が違った。
いや、明らかに「異常」だった。
目の下のクマは墨汁で塗りたくったように黒く沈み込み、頬は骸骨のようにこけ、ただでさえ寂しかった前髪は枯れ野原のように散らかり、目は充血して血走っている。
背景の悪の組織本部オフィスには、天井まで届きそうな書類の山が、まるでジェンガのように危ういバランスで積み上げられていた。
『……く、黒野君……。た、助けてくれ……』
第一声が、挨拶ではなく、魂の底からの悲鳴のような懇願だった。
その声は掠れ、乾ききっており、生命力を感じさせない。
「おいおい、どうしたサイトウ。ゾンビ映画のモブみたいな顔してるぞ。またヴォルグの旦那に『気合いが足りん』と怒られたか? それともミソスーの新作料理で腹を壊したか?」
『怒られるどころの話ではない……! 決算だ! 地獄の年度末決算が来たのだよ!』
サイトウが、手元にあった書類の束を鷲掴みにして叫んだ。
バサバサと紙吹雪のように舞い散る領収書たち。
『見てくれこの惨状を! 世界各地の戦闘員たちが提出してくる経費精算書が酷すぎる! 「武器代:ヒャッハー!」とか「交通費:キェェェ!」とか、金額も品目も書いてない! そもそもレシートですらない、チラシの裏に書かれた謎の象形文字だ! これをどうやって仕訳しろと言うんだ!』
「……そりゃあ、戦闘員に簿記を求めるのは酷ってもんだろ」
『インボイス制度にも対応していない! 税務署になんて説明すればいいんだ! 「これは世界征服のための必要経費です」と言って通ると思うかね!?』
サイトウは頭を抱え、机に突っ伏した。
画面越しにも、彼の胃液の匂いが漂ってきそうな悲惨さだ。
『私の事務処理能力はもう限界だ! 昨日は3時間しか寝ていない! いや、3時間も寝てしまった罪悪感で吐きそうだ! ……今も四天王の方々から矢のような催促が来ている!』
サイトウが虚空を指差して喚く。
『金策担当のミミガー様からは「帳簿が合わないブヒ! 俺様の金貨が一枚足りないブヒ!」と怒鳴られ、ヴォルグ様からは「戦闘データの集計はまだか!」と急かされ、ドクターヘルからは「怪人開発費の稟議書が遅い!」と劇薬を投げつけられる……! このままでは組織の財政が破綻する前に、私の精神と胃袋が破綻する!』
彼は画面に顔を押し付け、涙目で訴えた。
『黒野君、頼む! 優秀な人材を! 計算ができて、Excelのマクロが組めて、複式簿記を理解していて、何より文句を言わずに24時間働ける「事務員」を確保してくれ! 戦闘力はいらない! とにかく数字に強くて、真面目な社畜が必要なんだ!』
「事務員か……。ウチの連中は、どいつもこいつも頭より先に手が出るタイプだからなぁ」
改蔵は周囲を見渡した。
イスズはニコニコしているが、家計簿をつければ「あら、どんぶり勘定ですわ」と笑って済ませるタイプだ。
マナは知識はあるが、地味な入力作業をさせれば「飽きましたぁ」と3分で投げ出すだろう。
メイとミヤに至っては論外だ。字が読めるかも怪しい。
クルミはハッキングはできるが、経理ソフトの入力なんて頼んだら「……めんどい。サーバーごと爆破するほうが早い」と拒否するに決まっている。
「わかったよ。お前の胃袋が爆発して、この世から中間管理職という悲しい生き物が絶滅する前に、優秀な社畜……いや、事務員を見繕ってやる」
『本当か! ありがとう! 恩に着る! ……ああっ、またミミガー様が「金を数える音が聞こえないブヒ!」と暴れ出した! 金庫室に行ってくる! 失礼する!』
プツン。
通信が切れた。
ブラック企業よりもブラックな「悪の組織」の実態をまざまざと見せつけられ、六畳間には微妙な空気が流れる。
「やれやれ。悪の組織も世知辛いもんだな。……おいマナ、行ってこい」
改蔵はみかんの皮を屑入れに投げながら命じた。
「ちょっくらスカウトに行ってこい。条件は『数字に強くて、限界まで働ける(壊れている)ヤツ』だ。この東京砂漠には、魂をすり減らしたゾンビみてえな会社員がいくらでもいるはずだ」
「了解ですぅ! 深夜のオフィス街あたりを飛んでみますねぇ! 腐った
マナはこたつから飛び出すと、レオタードの背中から黒い翼を広げ、窓を開けて夜の闇へと飛び立った。
***
深夜2時。
都心のオフィス街に近い、とある地下鉄の駅の入り口。
終電はとうに過ぎ去り、駅のシャッターは半分閉まりかけている。
タクシー乗り場には長蛇の列ができていたが、それも今は途切れ、死のように静かな時間が流れていた。
ビル風が「ヒュオオオ」と不気味な音を立てて吹き抜け、アスファルトの上をコンビニのビニール袋がカサカサと転がっていく。
その駅前の、塗装が剥げかけた木製ベンチに、一人の女性が座り込んでいた。
「…………」
年齢は20代半ばだろうか。
本来ならば目を引く美人であろう整った顔立ちは、能面のように表情を失い、白蝋のような土気色をしている。
かつては艶やかだったであろう黒髪のロングヘアは、手入れが行き届かずに脂ぎってボサボサになり、肩にフケのように埃が積もっている。
着ている安物のレディーススーツはヨレヨレで、肩パッドが少しずれている。
黒いストッキングは伝線し、ヒールの踵は擦り減って中の金属が見えている。
そして何より異様なのは、その瞳だ。
光がない。
深海よりも深く、光さえも脱出できないブラックホールのように、全てを飲み込む完全なる「死んだ目」をしていた。
彼女の右手には、飲み干された500mlのストロング系缶チューハイ(アルコール度数9%)。
左手には、画面にヒビが入った社用スマホが、命綱のように強く握りしめられている。
彼女は、まるで彫像のように動かない。
ただ、口元だけが微かに動いていた。
「……あは。……終電、行っちゃった……。タクシー代……経費で落ちない……自腹……」
ヤシロは乾いた笑い声を漏らした。
彼女は今、35連勤目の帰宅途中だった。
いや、帰宅ではない。
数時間後、空が白む頃には始発で出社しなければならないのだから、これは「一時退避」あるいは「野営」に過ぎない。
家に帰っても、シャワーを浴びて着替える時間しかない。睡眠時間は移動時間の隙間のみ。
ブブブッ。
左手のスマホが振動した。
深夜2時を過ぎても鳴り止まない通知音。
『部長:資料の修正まだ?』『クライアント:明日の朝一までに再提出で』『同僚:私、明日休みますね(押し付け)』。
「……帰りたい。……いや、帰りたくない。……会社に行きたくない。……でも、行かなきゃ。……資料、まだ終わってない。……部長に怒られる。……クライアントに謝らなきゃ。……私が悪いんだ。……私が無能だから。……もっと効率よく……」
ブツブツと、呪詛のような独り言が漏れる。
彼女の精神は、過剰な責任感と、暴力的な疲労と、逃げ場のない絶望の狭間で、とっくに摩耗しきっていた。
指先の感覚はない。寒さのせいか、それとも神経が死んでいるのか。
胃がキリキリと痛むが、それすらも「生きている証拠」のように感じてしまう異常性。
「……壊れちゃえばいいのに」
ふと、彼女が夜空を見上げて呟いた。
「会社も。……電車も。……このビルも。……私も。……全部、粉々になればいいのに。……そうすれば、明日行かなくて済む。……隕石でも落ちてこないかな。……怪獣でも現れないかな。……世界が終われば、有給が取れるのに」
ドロリ。
彼女の身体から、インクをこぼしたような、どす黒いオーラが立ち上った。
それは単なる疲労ではない。
世界そのものに対する、深く、静かで、強烈な「憎悪」。
自分をここまで追い詰めた社会というシステムへの、怨嗟の塊。
彼女自身が、世界を終わらせる「災厄」になりかけていた。
「……おや? これはまた、凄まじい逸材ですねぇ。腐臭どころか、煉獄の匂いがしますよぉ」
上空から様子を伺っていたマナが、思わず身震いをして、街灯の上に降り立った。
彼女は悪魔として、多くの人間の負の感情を見てきた。
欲、嫉妬、怒り。
だが、この女性から発せられるオーラは別格だった。
熱い感情ではない。絶対零度の「無」への渇望。
世界を道連れにしてでも休みたいという、歪みきった生存本能。
(この人……。下手に触れると、私でも精神汚染されそうですぅ……。本物の悪魔よりタチが悪いかもしれません。……でも、間違いなくボスが求めてる『限界まで働ける(壊れている)ヤツ』ですね! 掘り出し物です!)
マナは意を決して、ベンチのヤシロに声をかけた。
「こんばんはぁ。お姉さん、こんなところで何してるんですかぁ? お家に帰らないんですかぁ?」
ヤシロは反応しない。
虚空を見つめたまま、壊れたレコードのように呟き続けている。
「……メール返信しなきゃ。……添付ファイル、圧縮して。……パスワードは別送で。……PCがフリーズした。……再起動。……私の人生も再起動したい……。ctrl+alt+delete……」
「あのー、もしもし? 生きてますかぁ? 人間の言葉、通じますかぁ?」
マナが顔の前で手を振る。
ようやく、ヤシロの死んだ目がゆっくりと、錆びついた機械のようにギギギと動いて、マナを捉えた。
「……あ。……新人さん? ……派遣の方ですか? ……名刺交換、しましょうか。……あ、名刺切らしてた。……すみません、すみません、殺さないでください……。納期には間に合わせますから……」
彼女の目には、マナの翼も尻尾も見えていない。
ただ、「自分を責める他者」としてしか認識していないのだ。
「殺しませんよぉ。……お姉さん、仕事、辛そうですねぇ」
「辛い……? ……いいえ、辛くなんてないです。……これが普通ですから。……私が無能なだけですから。……みんなやってますから。……もっと頑張らなきゃ。……死ぬ気で頑張れば、いつか終わる……はず……。定年まであと40年……」
ヤシロは虚ろな笑顔を浮かべた。
頬の筋肉が痙攣し、ひきつったその笑顔は、泣き顔よりも遥かに痛々しく、そして不気味だった。
魂が悲鳴を上げているのに、社会人としての仮面がへばりついて取れないのだ。
「……もう、頑張らなくていいんですよぉ」
マナが耳元で甘く囁く。
それは悪魔の誘惑。だが、今のヤシロにとっては、天使の救済よりも甘美な響きだった。
「私たちのところに来れば、もう満員電車に乗らなくていいんです。嫌な上司もいません。理不尽なクライアントも、終わらない資料作りもありません。……ただ、貴女のその『憎しみ』を解放してくれればいいんです」
「……解放? ……憎しみ……?」
「ええ。世界を壊してしまえば、もう出社しなくて済みますよ? 明日の朝、会社がなくなっていれば、貴女は自由です」
その言葉が、ヤシロの琴線に触れた。
プツン。
彼女の頭の中で、理性のヒューズが焼き切れる音がした。
瞳の奥底に、小さな、しかし消えることのない暗黒の炎が灯る。
「……出社しなくて、いい……? 会社が、なくなる……?」
「はい。……さあ、行きましょう。新しい
マナが手を差し出す。
ヤシロは、糸が切れた操り人形のように、ふらりと立ち上がった。
その足取りは幽霊のように覚束ないが、マナの手を握る力だけは、万力のように強く、骨が軋むほどだった。
「……行きます。……どこへでも。……会社以外なら、地獄でも構わない。……連れて行って……」
「ふふふ、地獄よりは楽しい場所ですよぉ」
マナはヤシロの身体を抱き抱え、夜空へと舞い上がった。
ヤシロは空中に浮いても、眼下に広がる夜景を見ても、驚きもしない。
ただ、遠ざかるオフィスの灯りを、氷のような冷たい瞳で見下ろしていた。
***
アジトの六畳間。
マナに連れられてやってきたヤシロは、玄関に立つなり、靴も脱がずに崩れ落ちた。
彼女は這いつくばったまま、畳の目を数えるように顔を近づけた。
「……Wi-Fiは。……電源はどこですか。……始発までに資料を作らないと……。PCを……キーボードをください……手が震えて……」
彼女は畳の上を這いずり、ちゃぶ台の上のPCモニター(サイトウとの通信用)に縋り付いた。
画面に映る自分の顔を見ても、何も感じていない。
完全に
「おいおい、マナ。とんでもねえのを拾ってきたな。生きてんのかこいつ。腐敗臭がするぞ」
改蔵がみかんを食べながら、ヤシロを見下ろした。
ボサボサの髪、隈だらけの目、異臭を放つほどに煮詰まった疲労感と、安酒とエナジードリンクの匂い。
だが、改蔵の魔眼は見抜いていた。
彼女の奥底に眠る、世界を滅ぼしかねないほどの巨大なエネルギーを。
マグマのように煮えたぎる、社会への復讐心。
「……ああ、生きてるさ。死にながら生きてる。一番タチの悪い『亡者』だ」
改蔵はニヤリと笑った。
「こいつは化けるぞ。……俺たちの想像を超える『化け物』にな。サイトウが欲しがっていた事務員としては優秀すぎるかもしれんが……まあいい」
ヤシロが虚ろな目で改蔵を見上げる。
「……あなたは、クライアント様ですか? ……納期は……いつですか……? 今すぐ……やりますから……」
「納期? そんなもんはねえよ」
改蔵は優しく、しかし残酷に告げた。
「俺が欲しいのは、書類仕事じゃねえ。……お前の中に溜まった、そのドス黒いヘドロだ。全部吐き出させてやるよ」
シリーズ最強最悪の怪人候補、筑摩ヤシロ。
彼女の「覚醒」の時は、刻一刻と迫っていた。
アジトのPCモニターが、彼女の怨念に反応して、ジジジ……と激しいノイズを走らせ、画面に亀裂が入り始めていた。
六畳間の空気が、重苦しく淀み始めていた。