丑三つ時を過ぎた、深夜のアジト。
築数十年を数える木造日本家屋の六畳間は、普段なら主人のいびきと住人たちの寝息に包まれている時間だ。
だが今夜、その静寂は不気味なノイズによって侵食されていた。
ズリッ……ズリッ……。
古びた畳の上を、一人の女性が這いずり回っている。
マナに連れられてきた筑摩ヤシロだ。
彼女は玄関で靴を脱ぐことさえ忘れ、土足のまま上がり込み、まるで何かに取り憑かれたように室内を徘徊していた。
「……Wi-Fiが……飛んでない……。ここは……圏外ですか……? サーバー室は……どこ……?」
彼女の視点は定まっていない。
ボサボサの黒髪が顔の半分を覆い、その隙間から覗く瞳は、深海のように暗く、光がない。
彼女の精神は、ここがどこであるか、自分がどうなったかすら認識できていなかった。
ただ、「仕事をしなければならない」「納期を守らなければ殺される」という強迫観念だけが、壊れかけたモーターのように彼女の体を動かしている。
「……あ。……これ、サーバーラック……?」
ヤシロは、部屋の中央にある「こたつ」に手を伸ばした。
彼女の狂った認知には、暖かなこたつが、熱を放つサーバー機器に見えているらしい。
「……熱い……。オーバーヒートしてる……。冷却しなきゃ……。私の人生も……オーバーヒート……」
「ヒィッ……! マスター、この人、怖いですぅ……! お化けより怖いですぅ……!」
こたつの中にいたメイが、悲鳴を上げて飛び出し、改蔵の背中にヤモリのように張り付いた。
「……生体反応、異常。……生存本能と自滅願望が同時に最大値を振り切ってる。……完全にシステムエラーを起こしてる」
押し入れの隙間からクルミが顔だけ出し、青ざめた表情で計測器を見つめる。
「あらあら、顔色が土気色ですよ。死人みたい……。まずは温かいお茶でも飲んで、落ち着きましょう?」
イスズが心配そうに湯呑みを差し出す。
ヤシロはビクッとして振り返り、震える手でそれを受け取った。
「……あ、ありがとうございます。……これ、カフェイン入ってますか? ……エナジードリンクですか? ……眠ると、死ぬので……。眠ったら……明日が来ちゃうから……」
彼女は湯呑みを両手で包み込むように持ち、熱いお茶を一気に喉に流し込んだ。
熱さを感じている様子はない。ただ、喉を潤すという機能的な動作だけが行われた。
黒野改蔵は、食べかけのみかんをちゃぶ台に置き、あぐらをかいていた足を崩して立ち上がった。
彼が見下ろす先には、人間としての尊厳をすり減らし、ただの労働機械に成り果てた哀れな女がいた。
だが、その背中から立ち上るドス黒いオーラは、アジトの結界を内側から腐らせるほどに濃密だった。
「……おい、社畜。パソコンならあるぞ」
改蔵が、ちゃぶ台の上の通信用モニターを指差す。
ヤシロの首が、ギギギと錆びついた蝶番のような音を立てて動いた。
「……パソコン……! ……ありますか……! ……お借りします……! 資料作成……請求書……日報……! 部長に送らないと……!」
彼女は這うようにちゃぶ台へ近づき、モニターに縋り付いた。
だが、キーボードはない。
彼女は虚空を叩くように、畳の上で指を高速で動かし始めた。
タタタタタタタッ……。
幻覚のキーボードを叩く音。
伸びた爪が畳のい草を引っ掻き、ガリガリとささくれ立っていく。
その指先からは血が滲んでいるが、彼女は止まらない。
「……えへへ。……進んでる。……仕事が、進んでる。……でも、終わらない。……終わるわけがない。……私の仕事は、私が死ぬまで続くんだから……」
「……完全に狂ってやがるな」
改蔵は低い声で呟き、ヤシロの背後に立った。
彼女から発せられる瘴気は、腐った生ゴミのような疲労臭と、焦げ付いた回路のような怨念の匂いが混ざり合い、鼻をつく。
「……そこまでだ。残業は終わりだよ」
改蔵が、ヤシロの肩に手を置いた。
ビクッ!
ヤシロの身体が大きく跳ねた。
「……終わり? ……いいえ、終わりません。……終わるはずがないんです。……私が休んだら、誰がやるんですか……。……離してください……邪魔しないで……」
彼女は振り払おうとするが、改蔵の手は万力のように動かない。
「終わらせるんだよ。俺が、お前のその腐った回路を焼き切ってやる。強制シャットダウンだ」
改蔵は強引にヤシロの身体を引き起こし、正面から抱きすくめた。
そして、彼女のヨレヨレのスーツの襟を両手で掴み、一気に引き裂いた。
ビリィッ!!!
安い化学繊維の生地が悲鳴を上げて裂け、ボタンが弾け飛ぶ音が部屋に響く。
下に着ていたブラウスも、汗と脂で肌に張り付いていたが、それもまとめて引き剥がした。
彼女が身に纏っていた「社会人としての鎧」が、無惨に剥ぎ取られる。
「……あ……?」
露わになったヤシロの肌は、病的白い。
だが、その白さは美しさではない。日光を浴びていない不健康な白さだ。
所々にストレス性の湿疹や、自傷行為に近い引っ掻き傷、そしてあちこちにぶつけたであろう青あざがあった。
あばら骨が浮くほどに痩せているが、胸だけは妙に豊満で、重力に従って垂れるその肉感が、余計にアンバランスな生々しさを醸し出している。
「……何をするんですか……。セクハラですか……。コンプライアンス違反です……。人事部に……報告……」
彼女は抵抗しようとするが、その手には力が入らない。
ただ、虚ろな目で「規定」を口にするだけだ。
「報告なんて必要ねえ。今ここで、お前の中の毒を全部吐き出せ」
改蔵はヤシロを畳の上に押し倒した。
抵抗する力もない彼女の上に覆い被さり、その光のない瞳を至近距離で睨みつける。
「憎いんだろ? こんなになるまでお前を追い詰めた世界が。会社が。上司が。……そして、『No』と言えずに自分を殺し続けた、お前自身が」
その言葉が、ヤシロの心の殻に、決定的なヒビを入れた。
ピシッ。
仮面が割れる。
「……憎い……?」
ドロリ。
瞳の奥から、涙ではなく、黒いヘドロのような液体が溢れ出した。
「……憎い……。……辛い……。……苦しい……! ……どうして私だけ……! ……どうして誰も助けてくれないの……!」
「そうだ。その感情だ。もっと出せ! 綺麗事はなしだ、魂ごと絶叫しろ! お前はもう、イエスマンじゃねえ!」
改蔵はステテコを引き下げ、凶悪に勃起した剛直を、ヤシロの乾いた秘所に押し当てた。
前戯などない。
潤滑など必要ない。
痛みこそが、彼女を目覚めさせる唯一の鍵だ。
彼女の乾ききった大地に、暴力的なまでの生命力を叩き込む。
「……壊して……。……私を、壊して……ッ! ……この惨めな私を、殺してッ!」
ヤシロが初めて、能面のような表情を崩し、感情を露わにして叫んだ。
「おう、壊してやるよ! 跡形もなくな! 二度とデスクに戻れねえ身体にしてやる!」
ズドォッ!!!
改蔵は躊躇なく、腰を打ち付けた。
乾いた肉を無理やり押し広げ、太い杭が深々と突き刺さる。
肉が裂ける音と、畳が軋む音が重なる。
「ギィッ……!!!」
ヤシロの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
裂けるような痛み。
だが、その痛みが、麻痺していた彼女の神経を焼き焦がし、強制的に再起動させる。
「仕事の辛さ」という鈍い痛みではなく、「生の実感」としての鋭い痛みが、彼女の脳髄を貫く。
「痛い……ッ! 痛い……ッ! でも……分かる……ッ! 私、生きてる……ッ! まだ、死んでないッ!」
彼女は改蔵の背中に爪を立てた。
ガリガリと皮膚を削り、血が滲む。
ミヤのような甘噛みではない。殺す気で、あるいは溺れる者が藁を掴むような必死さでしがみついている。
「あはぁッ! あははははッ! もっと! もっと滅茶苦茶にして! 昨日の記憶も、明日の予定も、全部消えるくらいにッ! 頭の中を真っ白にしてぇッ!」
ヤシロは狂ったように笑い、泣きながら腰を振った。
それはセックスというよりは、魂の嘔吐であり、悪魔祓いの儀式だった。
溜め込んだストレス、怨念、殺意、そして抑圧された性欲。
何年も何年も、澱のように溜まっていたヘドロが、快楽という出口を見つけて一気に噴出する。
「重てえな……! こいつの魔力、鉛みたいに重くて濃いぞ! 普通の人間なら即死するレベルだ!」
改蔵でさえ、そのプレッシャーに脂汗をかいた。
吸い取っても吸い取っても、底なしの沼のように闇が湧き出してくる。
彼女一人で、一体どれほどの理不尽を飲み込んできたのか。
「忘れたいッ! 忘れたいッ! 忘れたいッ! 納期も! 予算も! 満員電車も! パワハラも! 孤独も! 全部消えろォッ! 私を……私を解放してぇッ!」
ヤシロは首を左右に振り乱し、髪を振り乱して絶叫する。
その叫びに呼応するように、アジトの電球がバチバチと明滅し、ガラス戸がガタガタと震え、PCモニターからは火花が散り始めた。
畳が黒く変色し、彼女の背中から漆黒の翼のような影が広がり始める。
「……警告。魔力係数、測定不能。……アジトの結界強度を超過。……マスター、危険。これ以上は、家が保たない」
クルミが警告音と共に叫び、PCを抱えて避難する。
「いやぁぁ! お家が壊れちゃうぅぅ!」
マナとイスズが柱にしがみつく。
「知ったことか! 乗りかかった船だ、最後まで付き合うぞ! お前の絶望、全部俺に寄越せェッ! 俺が喰らってやる!」
改蔵はヤシロの両手首を掴み、畳に縫い付けると、獣のように腰を叩きつけた。
ドパンッ! ドパンッ! ドパンッ!
激しい衝撃が、ヤシロの脳髄を揺さぶる。
「ひぐッ! ぁあ゛ッ! 壊れるッ! 私という個体が、崩壊するぅぅッ! 会社員としての私が、死ぬぅぅッ!」
「死ね! そして新しくなれ! お前はもう社畜じゃねえ! 誰にも縛られねえ、魔王だ!」
「魔王……! そう……私は……誰の命令も聞かない……! 私が……ルールだぁぁぁッ! 私が……社長だぁぁぁッ!」
ヤシロの瞳から、ついに理性の光が完全に消え失せ、代わりに禍々しい紅蓮の炎が灯った。
それは、全ての労働を否定する、虚無の炎。
「イくッ! 世界と一緒に、イッちゃえェェェェッ!!!」
ズドォォォォォォォン!!!
改蔵が、渾身の力で最奥に魔力を解き放った。
ドピュッ! ドピュルルルッ!
白濁したエネルギーが、ヤシロの子宮という焼却炉に注ぎ込まれる。
その瞬間。
カッッッッッ!!!
六畳間が、漆黒の閃光に包まれた。
魔力の爆発が物理的な衝撃波となり、アジトを内側から破壊する。
襖が吹き飛び、障子が破れ、こたつが宙を舞い、鴨居が折れる。
「きゃあぁぁぁッ!?」
「神主様ぁぁぁ!」
イスズとマナが吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
光の中心で、ヤシロの身体が重力を無視して浮き上がった。
ボロボロのスーツが灰となって消滅し、黒い
バリバリバリッ!
空間が裂ける音が響き、アジトの天井に亀裂が入る。
「……変身プロセス、エラー。……規定値オーバー。……制御不能。……これは、怪人じゃない。……魔神クラス」
クルミのPC画面がブラックアウトした。
やがて、黒い靄が晴れると。
そこには、一人の異形の存在が浮遊していた。
身長は2メートル近くまで伸び、肌は透き通るような蒼白。
頭部には、捻じ曲がった巨大な二本の角が生え、背中には蝙蝠のような、しかしボロボロに傷ついた漆黒の翼が六枚、大きく広がっている。
身に纏うのは、喪服を思わせる黒いドレスアーマー。その装甲は、書類の束や万年筆、キーボードのキーなどが融合したような、歪なデザインをしている。
その手には、巨大な鎌のような形をした、歪んだ時計の針が握られていた。
『大悪魔怪人・ヤシロ』。
それは怪人という枠を超えた、災厄の化身だった。
「……ふぅ。……スッキリしたわ」
ヤシロが、瓦礫と化した六畳間を見下ろして呟いた。
その声は冷徹で、鈴を転がすように美しいが、感情の温かみは一切ない。
かつての死んだ目のOLの面影はなく、そこにあるのは絶対的な「虚無」を纏った女王の威厳だった。
「おい、ヤシロ。……いい顔になったじゃねえか」
改蔵がステテコを直しながら声をかけた。
一仕事終えた満足感と共に、彼女を配下に加えようと手を伸ばす。
「さあ、俺の組織に入れ。これからは俺のために……」
「……お断りします」
ヤシロは、改蔵を見向きもせずに言い放った。
その瞳は、改蔵ですら「消耗品」としか見ていないような冷たさだった。
「え?」
「私はもう、誰の下にもつきません。……上司も、部下も、クライアントもいらない。……この世に必要なのは、『完全なる休息』のみ」
彼女はゆっくりと、アジトの壁に手を向けた。
その掌に、黒い球体が収束する。
「世界は騒がしすぎる。……納期も、ノルマも、希望も、絶望も。……全てを『無』に還しましょう。それが、私の働き方改革」
ドォォォォン!!!
衝撃波が放たれ、アジトの壁一面が、柱ごと粉々に吹き飛んだ。
寒風が吹き込み、粉塵が舞う。
築数十年の、改蔵の生まれ育った実家が、無惨に半壊した。
「なっ!? おい! ここは俺の実家だぞ!?」
改蔵が絶叫する。
悪の組織のアジトである以前に、ここは彼の思い出の詰まった(そして固定資産税のかかる)実家なのだ。
「ふざけんな! 柱に刻んだ背比べの傷が! 親父が大事にしてた床の間が!」
「ごきげんよう、元・クライアント様。……貴方のくれた快楽は、悪くなかったわ。経費で落としておいて」
ヤシロは翼を広げ、破壊された壁の向こう、夜の空へと舞い上がった。
「私は行きます。……この世の全ての『業務』を停止させるために」
彼女は月を背にして、黒い流星となって飛び去っていった。
その行き先は、煌々と輝く都心のオフィス街。
「……マジかよ。とんでもねえのを起こしちまったな」
壁の大穴から入ってくる寒風に震えながら、改蔵は呆然と立ち尽くした。
半壊した実家の惨状に、彼の心は世界征服の失敗以上に痛んだ。
「……マスター。あの子、制御リミッターが壊れてました。……野生のラスボスです」
クルミが壊れたPCを抱えて呟いた。
「家が……お家がスカスカですぅ……」
マナが天井を見上げて泣きそうな声を出す。
机の上には、ヤシロが飲み干した缶チューハイの空き缶だけが、転がっていた。
それが、世界の終わりの始まりだった。