月曜日の朝。
それは、現代社会という巨大なシステムに組み込まれた労働者たちにとって、一週間で最も憂鬱で、重苦しい時間の始まりである。
鉛色の雲が垂れ込める都心のオフィス街、大手町。
午前八時半。
無機質な高層ビル群の谷間を、無数のサラリーマンたちが蟻の行列のように歩いていた。
死んだ魚のような濁った目。
顔色は土気色で、生気など欠片もない。
誰もが同じような濃紺のスーツを着て、同じような黒い鞄を持ち、同じような「帰りたい」という絶望を抱えて、地下鉄の改札からオフィスビルのエントランスへと吸い込まれていく。
満員電車の暴力的な圧迫感、胃をキリキリと締め上げるプレッシャー、終わることのないタスクの山、理不尽な上司の叱責。
彼らの背中には、目に見えない鎖が巻き付いているようだった。
そんな「日常という名の地獄」の上空に、一人の異形の影が舞い降りた。
バサァッ……!
ヒュオオオオオオ……。
漆黒の翼を広げた堕天使。
大悪魔怪人・ヤシロである。
彼女は、摩天楼を見下ろす最も高いビルの避雷針の上に、重力を無視してふわりと着地した。
その身に纏うのは、喪服を思わせる漆黒のドレスアーマー。
頭部には捻じれた角が天を突き、背中の六枚の翼は、ボロボロに傷つきながらも、太陽の光を遮るほどに巨大だった。
その手には、自身の身の丈ほどもある、歪んだ時計の針を模した大鎌が握られている。
「……あぁ。……聞こえるわ。……悲鳴が」
ヤシロは目を細め、街を見下ろした。
彼女の耳には、物理的な騒音を超えて、人々の心の奥底にある「魂の軋み」が聞こえていた。
靴音の裏側に張り付いた、「眠りたい」「消えたい」「もう歩けない」という、数万人の心の叫び。
かつての彼女自身が、毎日吐き出し、そして飲み込み続け、やがて心を壊していった呪詛の声だ。
「……可哀想に。……まだ、そんな無意味な『勤労』を続けているの? ……身体が悲鳴を上げているのに、心が壊れているのに、それでも足を止められないのね」
彼女は慈悲深い聖母のような、しかし絶対零度の冷徹さを秘めた声で呟き、右手を掲げた。
「私が解放してあげる。……もう、頑張らなくていいのよ。……全ての業務を、
ドォォォォォォォン!!!
彼女を中心に、黒いドーム状の波動が放たれた。
それは衝撃波ではない。
現実を侵食し、書き換える「概念汚染」の結界だ。
波動は瞬く間に拡大し、大手町、丸の内、霞ヶ関、そして東京全土を飲み込んでいく。
ガガガガガッ!
メキメキメキッ!
異変は劇的だった。
無機質なアスファルトの地面が、突然変質し、灰色のビニール
空を見上げれば、太陽は消え失せ、代わりに空全体が巨大な「蛍光灯」の光に覆われた。
そして、林立する高層ビル群が、飴細工のようにぐにゃりとねじ曲がり、互いに融合し始める。
窓ガラスが割れ、鉄骨が悲鳴を上げ、コンクリートが隆起する。
それらが再構築され、一つの巨大な「城」を形成していく。
『デモンズ・オフィス』。
それは、ヤシロの深層心理にある「終わらない仕事の牢獄」が具現化した、魔の要塞だった。
***
デモンズ・オフィス前、中央広場。
突然の変貌にパニックになることもできず、ただ呆然と立ち尽くす人々の中に、5つの影が疾風のように駆けつけた。
「待てェッ! これ以上の暴挙は許さん!」
正義戦隊ジャスティンジャーである。
レッド、ブルー、イエロー、ピンク、グリーンの5人が、変身後の姿で立ちはだかる。
彼らは都内での異変を察知し、急行してきたのだ。
「貴様が新しい怪人か! 罪もない人々を苦しめるなど、正義の名において許さん!」
レッドが叫び、正義の剣『ジャスティス・ブレード』を構える。
だが、ヤシロは城のテラスから、彼らを書類の不備を見つけた時のような、冷ややかな目で見下ろした。
「……正義? ……そんなもの、納期の前では無力よ」
「なんだと!?」
「あなた達も、大変ね。……こんな月曜の朝から、全身タイツを着て、大きな声を出して。……それも『業務』なんでしょ?」
ヤシロの声は静かだが、空間全体に響き渡った。
「給料はいくら? 残業代は出るの? 労災は? ……その怪我、本当に報われているの? ……あなた達のその『正義』は、誰かの『犠牲』の上に成り立っているんじゃないの?」
「うっ……!?」
ブルーが言葉に詰まる。痛いところを突かれた。
彼らはボランティアに近い薄給で、命を削って戦っている。公的な補償など微々たるものだ。
「うるさい! 俺たちは金のために戦ってるんじゃない! 人々の笑顔のために……!」
レッドが反論する。
「……笑顔? ……見てみなさい、あの人たちの顔を」
ヤシロが鎌の先で指差した先には、逃げ遅れたサラリーマンたちがいた。
彼らは恐怖に怯えているのではない。
「会社に行けない……」「遅刻する……」「部長に怒られる……」「電車が動かない……」と、虚ろな目で呟きながら、這ってでもねじ曲がったビルへ向かおうとしていた。
「彼らはもう、笑顔なんて忘れてる。……生きるために働いているのか、働くために生きているのか。……そんな世界、守る価値があるの?」
「貴様ぁぁッ! 黙れェッ! 人の心を踏みにじるな!」
レッドが激昂し、跳躍した。
必殺の炎を剣に宿し、ヤシロへと斬りかかる。
「ジャスティン・バーニング・スラッシュ!!!」
灼熱の斬撃が、ヤシロの首元に迫る。
だが。
ヤシロは動かなかった。防御姿勢すら取らない。
ただ、手にした時計の
「……『
キィィィィン!!!
不快な高周波音と共に、レッドの動きが空中でピタリと止まった。
炎が凍りつき、勢いが完全に殺される。
まるで、ビデオの一時停止ボタンを押されたかのように。
「な、なんだ!? 身体が……動かない!? 剣が……重い!?」
「……あなたの業務時間は終了しました。……これ以上の稼働は、労働基準法に抵触します。……強制的に、ログアウトさせます」
ヤシロが鎌を一閃させた。
ザシュッ!!!
斬撃ではない。
空間そのものが「切断」された。
レッドの変身スーツが、まるでノイズが走るように霧散し、強制的に変身が解除された。
「ぐわぁぁぁぁぁッ!!!」
生身の
スーツが裂け、変身ブレスから煙が上がっている。
「レッド!?」
仲間たちが駆け寄る。
「馬鹿な……! 変身システムが、物理的なダメージなしで強制終了させられただと!?」
ブルーがタブレットを見ながら驚愕する。「……エネルギー切れじゃない。……『変身する気力』そのものが遮断された!?」
「……次は、あなた達よ」
ヤシロが、残る4人を見据えた。
その瞳から、灰色の光線が放たれる。
「喰らいなさい。……『強制有給休暇ビーム(レイ・オブ・リタイア)』」
ドォォォォォォッ!!!
それは破壊光線ではなかった。
「やる気」「気力」「使命感」「責任感」といった、精神的支柱を根こそぎ奪い去る、虚無の波動だ。
頑張る理由、戦う理由、生きる理由。それらが全て「どうでもいい」という感覚に上書きされる。
「うわぁぁぁぁッ!?」
「ち、力が……抜けるぅぅ……!」
光線を浴びた4人の変身が、次々と解除されていく。
「……もう、いいや。……計算とか、めんどくさい」
ブルー(青野)はその場に座り込み、タブレットを放り投げた。
「……お腹すいた。……唐揚げ食べたい。……世界とかどうでもいい」
イエロー(黄田)は道端に寝転がった。
「……メイク直さなきゃ。……戦うと肌荒れるし。……もう帰る」
ピンク(桃井)はコンパクトを取り出し、戦場に背を向けた。
「……あ、これ新作のゲームじゃん。……レベル上げしなきゃ」
グリーン(緑川)はスマホを取り出し、ゲームに没頭し始めた。
戦意喪失。
完全なる
「……そ、そんな……。俺たちの正義が……通用しない……? みんな、立てよ! 戦うんだよ!」
生身の赤城が、震える手で地面を掴み、叫ぶ。
だが、立ち上がろうとする膝に力が入らない。
ヤシロの放つ圧倒的な「絶望」の前に、彼の心の火もまた、風前の灯火だった。
「……弱い。弱すぎるわ」
ヤシロは冷ややかに言い捨て、空を見上げた。
「邪魔者は消えた。……始めましょう。世界規模の『構造改革』を」
彼女が鎌を天に掲げる。
デモンズ・オフィスから、どす黒い波動が波紋のように広がっていく。
「全ての労働者に告ぐ。……業務は停止しました。……これより、永遠の休息を与えます。……二度と目覚めない、安らかな眠りを」
波動がビルを突き抜け、地下鉄を抜け、家庭へと届く。
それに触れた人々は、次々とその場に倒れ込んだ。
死んだのではない。
生きたまま、身体が石のように硬化し、灰色に変色していく。
「石化」。
思考と時間を停止させられた、永遠の安息。
「……あ、あぁ……」
「身体が……動か……」
「……部長……すいません……」
オフィス街のサラリーマンたちが、次々と石像へと変わっていく。
デスクで電話をかけるポーズのまま。
満員電車で吊革を掴んだまま。
路上で名刺交換をしようとしたまま。
彼らは物言わぬ彫像となり、街は静寂に包まれていった。
車のエンジン音も、電車の走行音も消え、ただ風の音だけが響く「死の都」が完成した。
***
一方、半壊した悪の組織のアジト(改蔵の実家)。
壁の大穴にはブルーシートが張られ、バタバタと風に煽られている。
寒風吹きすさぶ六畳間で、黒野改蔵たちは呆然とニュース映像を眺めていた。
「……おいおい。あいつ、マジでやりやがったぞ」
改蔵が呻く。
テレビ画面には、黒い霧に包まれ、人々が石化した都心の様子が映し出されていた。
「……あれは、『デモンズ・オフィス』。……ヤシロさんの心象風景が具現化したものです」
クルミが解析データを読み上げる。「……内部の魔力濃度、測定不能。……物理法則が歪んでる。……あの中では、『労働』以外の全ての概念が死滅してる」
「……最悪だ。俺の実家を壊しただけじゃ飽き足らず、世界中をブラック企業にしやがる気か」
ピロリロリン……!
その時、モニターに緊急通信が入った。
ノイズ混じりの映像。
そこに映ったのは、いつもの中間管理職、サイトウだ。
彼はまだ無事なようだが、顔面蒼白でパニックに陥っていた。
『く、黒野君! 見ているか!? 大変なことになったぞ!』
「おう、見てるぜ。お前の欲しがってた『事務員』が、世界を事務的に処理し始めやがった」
『冗談を言っている場合か! 経済が! 株価が! というか、世界が止まっているんだぞ! コンビニも閉まっている! 電車も動いていない! 私の通勤ルートが消滅した!』
サイトウが頭を抱えて喚く。
彼の背後にある悪の組織本部も、まだ襲撃は受けていないようだが、職員たちが窓の外を見て騒然としているのが分かる。
『それに、戦闘員たちが出勤してこない! 全員「今日は休みます」「身体が石になりました」と連絡が入っている! これでは世界征服どころか、組織の運営そのものが立ち行かない! 破綻だ! 倒産だ!』
「落ち着けよサイトウ。……ヤシロの狙いは『労働の否定』だ。悪の組織だろうが正義の味方だろうが、働いてる奴は全員ターゲットってことだ」
『な、なんだと!? ということは、本部も危ないということか!?』
「ああ。時間の問題だな」
改蔵は冷たく告げた。
画面の向こうで、サイトウが「ヒィッ!」と悲鳴を上げる。
『頼む、黒野君! なんとかしてくれ! 君が覚醒させた怪人だろう! 責任を取ってくれ! 私の年金と退職金がかかっているんだ!』
「……責任か。嫌いな言葉だが、今回ばかりはそうも言ってられねえな」
改蔵は立ち上がった。
半壊した実家の惨状。
そして、石化していく世界。
このままでは、彼の愛する「怠惰な日常」も、飯も、セックスも、全てが失われてしまう。
「俺の実家を壊し、俺の楽しみ(世界)を奪おうってのか。……いい度胸だ」
彼は半壊した壁から、灰色の空を見上げた。
「教えてやるよ、ヤシロ。……この世には、『労働』よりも強くて、『虚無』よりも重い、『欲望』ってやつがあるんだってことをな」
絶望の淵で、怠惰な
サイトウの悲鳴が響く中、通信が切れる。
外では、雪が降り始めていた。
だが、それは白い雪ではなく、石化した世界から舞い上がる、灰色の塵だった。
月曜日は来ない。
明日が来るかどうかも、今はまだ誰にも分からない。