世界の裏側、次元の狭間に存在する「悪の組織・総本部」。
そこは、人間界の常識で語れるような場所ではなかった。
光が届かない。
何百メートルあるのか想像もつかないほど高い天井は、永遠の闇に没している。
地平線まで続いているのではないかと錯覚させる、黒曜石で磨かれた床。
歩くたびにカツン、カツンと響く足音だけが、この広大な空間の静寂を強調する。
無数の柱が闇を支え、その奥には魔界の業火が揺らめく松明が点在している。
それはまさに、太古より続く恐怖と支配の象徴、悪魔的な神殿であった。
普段ならば、世界征服の計画を練る幹部たちの威圧的な声や、出撃準備に追われる戦闘員たちの活気に満ちている場所だ。
だが今、その神殿は、墓場のような重苦しい沈黙に包まれていた。
「……ひぃぃッ! ダメだ! 通信が繋がらない! 極東支部だけでなく、ニューヨーク、ロンドン、パリ……全支部からの応答が途絶えた!」
広大な神殿の一角に設けられたオペレーションエリアで、
空中に投影された複数のモニターに映し出されるのは、砂嵐か、あるいは石化した職員たちが転がる無残な映像だけだ。
「落ち着けサイトウ! うろたえるな! 余の前であるぞ!」
闇の奥、遥か彼方に鎮座する巨大な玉座から、重低音の咆哮が響いた。
悪の組織を統べる頂点、「首領・大悪魔」である。
その巨躯は闇と一体化しており、赤く輝く双眸だけが、不気味に浮き上がっている。
「は、はいっ! 申し訳ありません、首領様! しかし、事態は深刻です! システムが……何者かに掌握されつつあります!」
「掌握だと? この神殿の結界は、神代の魔法で守られておるのだぞ。たかだか怪人ごときに破れるはずがなかろう」
傍らに控える四天王筆頭、歴戦の人狼ヴォルグが鼻を鳴らした。
筋骨隆々の肉体は鋼鉄のような毛皮に覆われ、その爪はあらゆる物質を引き裂く。
彼は自信満々に腕を組んでいたが、その鋭い嗅覚は、既に異質な「匂い」を捉えていた。
「……いや、ヴォルグよ。……妙な気配がするブヒ。金の匂いがしない……。貧乏神のような、虚無の匂いがするブヒ」
金策担当の四天王、ミミガーが
彼は床に敷き詰められた金貨の山の上に寝そべっていたが、不安そうに身を起こした。
「お腹が空く気配ですねぇ。……生きる活力が吸い取られるような……」
その時だった。
ズズズズズ……。
地平線まで続く黒曜石の床が、微かに振動した。
神殿の入り口にある、高さ百メートルはある巨大な「魔界の門」が、軋んだ音を立て始めたのだ。
ギギギギギ……。
何万年もの間、外部からの侵入を許さなかった絶対の門が、ゆっくりと内側へ開き始める。
「……来るぞ! 総員、戦闘配置!」
ヴォルグが吠えた。
数千人の戦闘員たちが武器を構え、門へと殺到する。
だが。
ヒュオオオオオオ……。
門の隙間から吹き込んだのは、冷たい灰色の風だけだった。
その風に触れた瞬間。
先頭にいた戦闘員たちの動きが止まった。
「……え? あ、あれ……身体が……」
「……動か……ない……」
「……有給……欲しい……」
カチン。カチン。カチン。
次々と、戦闘員たちが石像へと変わっていく。
武器を振り上げたまま。叫び声を上げたまま。
彼らは一瞬にして、物言わぬ彫刻となり、黒曜石の床に転がった。
「な、何が起きた!? 魔法攻撃か!?」
サイトウが絶叫する。
「……いいえ。『業務停止命令』よ」
静かな、あまりにも静かな声が、広大な神殿に響き渡った。
開かれた門の向こうから、一つの影が歩いてくる。
漆黒のドレスアーマーに身を包み、背中にボロボロの六枚翼を広げた堕天使。
大悪魔怪人・ヤシロである。
彼女が黒曜石の床を踏むたびに、その足元から色が失われ、灰色の石材へと変質していく。
神殿の闇が、彼女の放つ「虚無」によって侵食されていく。
「ごきげんよう、旧・経営陣の皆様。……本日付けで、この組織の業務を全面的に停止させていただきます」
ヤシロは手にした巨大な時計の
カチリ、と秒針が進む音が、心臓の鼓動のように神殿内に響く。
「き、貴様が……ヤシロか!」
サイトウが腰を抜かして後ずさる。
「ふざけるな! 世界征服は我らの悲願! たかが新入りの怪人風情が、図に乗るなよ!」
ヴォルグが咆哮し、床を蹴った。
音速を超えるスピードでヤシロに肉薄する。その爪には、空間ごと切り裂く必殺の魔力が宿っている。
「我が爪は千の戦場を切り裂いてきた! 貴様ごとき、一撃で肉塊に変えてくれるわ! 『人狼拳・真空裂破』!」
「……千の戦場? ……過重労働ね」
ヤシロは避ける素振りすら見せなかった。
ただ、迫り来るヴォルグを、冷ややかな視線で見据えただけだ。
「……労災認定。『
バシィッ!
ヴォルグの爪がヤシロに届く寸前、見えない壁に弾かれたように、彼の巨体が空中で静止した。
否、空間そのものに縫い付けられたのだ。
「ぐ、ぐあぁっ!? な、何だこれは!? 身体が……動かん!?」
「長年の勤続疲労よ。……身体が悲鳴を上げているのに、気合だけで動かしていたんでしょう? ……診断書を書いてあげるわ。全治永遠の休息を」
ドシュッ!
ヴォルグの全身が灰色の包帯のような光に包まれ、一瞬にして石化し、ドスンと床に落下した。
最強の武闘派が、一撃も入れられずに沈黙した。
石像となった彼の顔は、戦士の憤怒ではなく、どこか安らかな「眠り」の表情を浮かべていた。
「ヴォルグ!?」
ミミガーが叫ぶ。
「お、おのれ! ならば金だ! この世は金が全てブヒッ! 私の全財産を魔力に変えて、貴様を買収してやる!」
ミミガーが懐から無限に溢れ出る金貨を放った。
黄金の濁流となり、津波のようにヤシロを襲う。
『ゴールド・ラッシュ・ストーム』!
触れたものを黄金に変える呪いの嵐だ。
「……買収? ……私の心は、もうお金じゃ動かないわ」
ヤシロは大鎌を一閃させた。
ザシュッ!
黄金の嵐が、真っ二つに霧散する。
そして、舞い散る金貨が、ただの「石ころ」へと変わっていく。
「な、なんだと!? 私の金が! 価値がなくなっていくブヒッ!?」
「経済活動の停止。……お金なんて、使う時間がなければただの金属片よ。……あなたの資産、全て凍結します」
ヤシロがミミガーに指を向ける。
「……『
カチン。
ミミガーは、金貨を抱えたまま、巨大な「豚の貯金箱」のような石像へと変わり果てた。
その顔には、失われることのない富への執着と、それが無意味化した絶望が刻まれていた。
「ひぃぃッ! お、お料理! 美味しいご飯を作りますから、許してください!」
福利厚生担当のミソスーが、六本の腕で鍋とお玉を構えて命乞いをする。
巨大な体躯を震わせ、後ずさる。
「……食事? ……そんな時間、惜しいわ」
ヤシロの瞳から放たれた虚無の波動が、ミソスーを飲み込む。
「『ランチタイム終了』」
ミソスーは鍋を掲げたまま、料理の湯気さえも凍りついた石像となり、物言わぬ厨房のオブジェと化した。
瞬く間に、最強の幹部たちが全滅した。
残るは、玉座に座る首領・大悪魔のみ。
彼は顔を歪め、立ち上がった。
その巨体が放つ魔力は、神殿全体を揺るがすほどだ。
「ば、馬鹿な……。余の精鋭たちが……。貴様、一体何者だ……!? 悪の組織に弓引くとは、何が望みだ!」
「……望み? ……私は、貴方たちが生み出した『結果』よ」
ヤシロは、果てしなく続く黒曜石の床を歩き、玉座への長い階段を、コツ、コツと登っていく。
「世界征服という果てしないプロジェクト。……いつ終わるの? 終わったらどうなるの? その後もまた、管理と維持という名の労働が続くんでしょう?」
「そ、それは……! 支配こそが悪の喜び……!」
「無意味よ。……そんな自転車操業、私が畳んであげる」
首領が絶大な闇の魔力を放とうとする。
『デビル・エンド・バースト』。
世界を焼き尽くすほどの暗黒エネルギーが、ヤシロに直撃する。
だが。
ヤシロはそれを、掌一つで受け止めた。
いや、受け止めたのではない。「無効化」したのだ。
「……エネルギー効率が悪すぎるわ」
シュゥゥゥ……。
首領の放った魔力が、ヤシロの掌の中で霧散していく。
「な、余の力が……通じないだと……!?」
「……『
ヤシロが首領の額に指を当てた。
「……お疲れ様でした。社長。……永遠の有給休暇をどうぞ」
ズズズズズ……。
「そんな…バカな…。…え?余の出番…ホントに終わり?」
悪のカリスマであった首領の身体が、足元から急速に石化していく。
玉座と一体化し、巨大な石のモニュメントへと変貌する。
その表情は、恐怖に目を見開いたまま固まっていた。
悪の組織総本部、壊滅。
その時間、わずか10分。
神殿は、永遠の沈黙に支配された。
「……ふぅ。……整理完了」
ヤシロは誰もいなくなった(石像だけになった)神殿を見渡し、小さく息を吐いた。
その視線が、隅のコンソール下で震えているサイトウに向く。
「ひぃっ!? た、助けて……! 私はただの中間管理職で……! リクルート担当なだけで……!」
サイトウが脱兎のごとく逃げ出した。
神殿の裏口にある緊急脱出ポッドへ向かって走る。
ヤシロはそれを追わない。
彼のような小物は、「業務」の範疇外だと判断したのか、あるいは「生かして絶望を伝えるメッセンジャー」として見逃したのか。
***
同時刻、地上。
悪の組織本部の崩壊と呼応するように、地上界でも希望の光が消えようとしていた。
日本の郊外。
変身能力を封じられ、敗北したジャスティンジャーたちが倒れ伏す戦場に、新たな援軍が駆けつけていた。
聖乙女ヒカリ、聖剣姫キリハ、そして孤高の戦士・覆面ライダー。
彼らは最後の力を振り絞り、ヤシロの
「私が浄化します! 神よ、彼らに光を!」
ヒカリが錫杖を掲げる。
「私が斬る! 悪を断つ!」
キリハが刀を抜く。
だが、ヤシロは彼女たちを一瞥しただけだった。
『……神? 剣? ……そんな前時代的な精神論、私のオフィスには不要よ』
ズンッ。
空間が重くなる。
ヒカリとキリハの身体に、見えない鉛がのしかかったような重圧がかかる。
「きゃあぁっ!? な、何ですか……この重さは……!」
「剣が……上がらない……!?」
『それは「徒労」という重さよ。……あなた達の努力は、誰にも評価されていない。……成果の出ない業務は、カット対象』
ヤシロの言葉が、呪いのように彼女たちの心を侵食する。
神への祈りも、修行の成果も、全てが「無意味」だと感じさせられる。
「……あぁ……。神様……声が聞こえません……」
ヒカリの錫杖から光が消え、彼女はその場に崩れ落ちた。
「……私の剣は……もう、何も斬れないのか……」
キリハの手から刀が滑り落ち、彼女もまた膝をついた。
彼女たちもまた、石化こそ免れたものの、変身能力と戦う力を封印され、無力な少女へと戻されてしまった。
ブォン! ブォン!
そこに、バイクの爆音が響いた。
孤高の戦士、覆面ライダーだ。
彼は変身能力を持たない。鍛え上げられた肉体とバイクテクニックだけで戦う男だ。
「ヤシロォォッ! 仲間をよくも!」
ライダーがバイクで突っ込む。
だが、ヤシロの姿が、揺らめく陽炎のように歪んで見えた。
『……貴方は、見なくていいわ。……進むべき道を見失いなさい』
ヤシロが指を鳴らす。
『方向感覚喪失(ロスト・ナビゲーション)』。
その瞬間、ライダーの視界からヤシロの姿が消えた。
いや、そこにいるはずなのに、認識できない。
そして、東西南北の感覚が完全に狂った。
「なっ!? どこだ!? どこに行きやがった!」
ライダーはキョロキョロと周囲を見回す。
目の前にヤシロがいるのに、彼の目には「何もない荒野」しか映っていない。
「くそっ! 逃げたのか! 待てェェェッ!」
彼はアクセルを全開にした。
だが、彼が走り出したのは、ヤシロとは正反対の、山奥へと続く道だった。
「そっちは明後日の方向よ……!」
ヒカリが弱々しく叫ぶが、ライダーの耳には届かない。
「逃がさんぞォォォッ!」
ブォォォォォォン……!
ライダーは猛スピードで地平線の彼方へ消えていった。
彼もまた、戦力外通告を受けたのだ。
***
静寂が戻った戦場。
倒れ伏すジャスティンジャー。
膝をつき、涙を流すヒカリとキリハ。
そして、石化して動かない街の人々。
ヤシロ(の幻影)は、満足げにその光景を見下ろした。
『……業務終了。……世界は、静かになったわ』
彼女の姿が消える。
残されたのは、完全なる敗北と、絶望だけだった。
***
一方、崩壊した悪の組織総本部。
サイトウは、床に転がるヴォルグ(狼の置物)、ミミガー(貯金箱)、ミソスー(食玩)を必死にかき集め、鞄に詰め込んでいた。
「く、黒野君……! 君だけが頼りだ……!」
彼は涙目で緊急脱出ポッドに飛び乗った。
行き先は、世界で唯一残された「欲望の聖地」。
黒野改蔵の実家(アジト)である。
世界が「虚無」に沈む中、物語の命運は、最もやる気のない男に託された。