※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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図書館の午後

 職場を出ると、空がまだ白く光っていた。
 初夏の陽射しは強くなりつつあるのに、空気の温度だけは春の名残を抱えている。

 
 沙耶は歩道橋を渡りながら、腕時計をちらりと見た。

 
 午後二時を少し回ったところ。

 

 特に予定があるわけでもなかった。

 
 ただ、まっすぐ帰るには気持ちが落ち着かない。
 誰かと話したいとも思わない。

 
 そんな日の行き場として、図書館はちょうどよかった。

 

 通勤路から一本外れた通りに、小さな市立図書館がある。

 
 新しくも古くもない建物。

 
 窓際には薄いカーテンがかかり、陽射しが柔らかく室内に滲み込む。

 
 その外観を遠くから見ただけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。鞄の中には、読みかけの文庫本と、しおり代わりのレシート。

 
 数年前、まだ誰かと一緒にいた頃に読んでいた作家のものだ。その続きを――別の形で、もう一度読みたくなったのかもしれない。

 

 角を曲がると、風に乗って緑の匂いがする。街路樹の葉がわずかに擦れ、遠くで自転車のベルが鳴った。

 
 ああ、こうして音を聞くのは久しぶりだ、と彼女は思った。誰かと過ごす時間ではなく、自分ひとりの静けさの中でしか感じ取れない音がある。

 

 図書館の自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 
 その瞬間、沙耶の呼吸が少し整う。
 外の世界と切り離された、小さな避難所のような場所。

 
 ここでは、時間がやさしく鈍っていく。

 

 入館証をかざし、薄く鳴る電子音のあと、足を一歩踏み入れる。

 
 中は思っていたよりも人が少なかった。
 

 平日の昼下がり。窓際の閲覧席にいるのは、新聞を広げる老夫婦と、ノートパソコンを前にした学生がひとり。

 

 沙耶は鞄の肩紐を持ち直しながら、文芸書の棚へと歩いた。この時間の図書館は、音というより“気配”の場所だ。

 
 ページをめくるわずかな擦過音、遠くで鳴るプリンタの作動音。そのすべてが、心臓の鼓動をゆっくりと撫でていく。

 

 指先が背表紙を辿る。

 
 白地に金の箔押し。

 
 並ぶタイトルの中に、見覚えのある名前を見つけて、ほんの少しだけ口角が動いた。

 

 ――この作家、まだ置いてあるのね。

 

 数年前に出版された恋愛短編集。
 当時は一緒に暮らしていた人が買ってきて、
 「これ、きっと君が好きそう」と言ったのを思い出す。

 
 その声の調子も、もう曖昧だ。
 けれど、文字の並びだけは確かに心のどこかに残っていた。

 本を抜き出してページをめくる。紙の香りとともに、記憶が薄く立ちのぼる。

 
 少しだけ、胸の奥が温かく――そして空っぽになった。

 

 窓の外では、陽射しが淡く傾き始めている。

 
 季節は進んでいる。

 
 自分だけが少し遅れているような気がして、
 沙耶は深呼吸をひとつした。

 

 そのとき。

 
 隣の棚の影で、誰かが小さく咳払いをした。顔を向けると、少し離れた場所に若い男性が立っている。

 
 年の頃は二十代前半、まだ学生のようにも見える。
 視線が合うよりも先に、彼の手にある文庫本の表紙が目に入った。

 

 ――同じ作家。

 

 偶然の一致に、心のどこかがかすかに鳴る。
 それはまだ、出会いとは呼べないほどの、
 静かな前触れだった。

 

 彼の指先が、本の背をゆっくりと撫でた。どうやら、迷っているようだった。

 
 沙耶がその場を離れようと一歩動いた瞬間、彼の口から小さな独り言が漏れた。

 

 「……どっちが先だったかな」

 

 声に導かれるように、沙耶はつい足を止めていた。聞き覚えのある作品名。


 思わず口にしてしまう。

 

 「それ、短編集のほうが先ですよ」

 

 青年は驚いたように顔を上げた。
 少し日焼けした肌、黒髪は無造作に伸び、
 瞳だけが不思議に澄んでいる。
 見た瞬間、彼の若さに少しだけ胸の奥がざわついた。

 

 「あ……そうなんですか。ありがとうございます」

 

 「この人の作品、最初のほうが少し苦いですよ。
  でも、あとになるほど穏やかになるというか……」

 

 「へえ、そうなんですね。読んだこと、あるんですか?」

 

 「昔。少しだけ」

 

 そう答えて、沙耶は笑った。それ以上でも以下でもない会話。けれど、図書館という静けさの中では、その短いやり取りが、驚くほど長く胸に残る。

 青年はしばらく背表紙を眺めていたが、やがてその短編集を手に取って、ページをめくった。

 

 「……じゃあ、これにしてみます」

 

 「うん。きっと好きになると思う」

 

 それは、まるで何かを渡すような言葉だった。青年が軽く会釈して去っていく。残された空間には、紙と陽光と、微かな香りだけが漂っている。

 

 ほんの少し、心臓の音が速くなっているのを自覚した。誰かと話すことを、こんなふうに嬉しいと感じたのは、

 
 いったい、いつぶりだろう。

 

 ◇◇◇

 

 その週の金曜日。
 仕事を早めに切り上げた沙耶は、またあの図書館へ足を向けていた。

 
 理由は――特になかった。ただ、日中の喧噪をやわらげるために、静けさの中へ身を置きたいというだけの、ささやかな衝動。

 

 夕方の図書館は昼よりも少し賑やかで、学生たちのざわめきと、閉館前の放送準備の気配が入り混じっていた。

 
 返却カウンターの前を通り過ぎたとき、視界の端で、見覚えのある後ろ姿が目にとまった。

 

 ――あの青年。

 

 彼は貸出機の前に立ち、あの日と同じ短編集を手にしていた。その表紙を見ただけで、あの短い会話が脳裏に蘇る。

 

 沙耶は迷った。声をかける理由も、きっかけもない。けれど、口元が自然と動いてしまう。

 

 「……どうでした?」

 

 彼が振り返る。少し驚いたように目を見開き、それから笑った。

 

 「……あ、覚えてくれてたんですね。すごくよかったです」

 

 「よかった。あの作家、読んでる人少ないから」

 

 「なんか、あの“寂しさ”がすごく自然で。
  読み終わってもしばらく静かになりました」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。たぶん彼の感想が、昔の自分の読後とよく似ていたからだ。

 

 「よかったら、他の作品もありますよ」

 

 「ほんとですか? 教えてもらえます?」

 

 二人で並んで棚に向かう。背表紙を指で辿りながら、彼が隣に立つ。その距離は、思っていたよりも近い。

 

 気づけば、彼の香水でも柔軟剤でもない、肌の匂いのようなものがふと鼻を掠めた。

 
 それだけで、呼吸が浅くなる。

 

 ――なんて若いのだろう。

 

 そう思った瞬間、沙耶は小さく笑って首を振った。ほんの少し、時間を忘れたような気がした。

 

 本を選び終え、二人で貸出カウンターへ向かう途中、
 青年がふと立ち止まった。

 

 「……あの、よかったら今度、お礼させてください」

 

 「お礼?」

 

 「本をすすめてもらったから。ほんとに、久しぶりに“読んでよかった”って思ったんです」

 

 言葉の調子は真っ直ぐで、下心の影がなかった。けれど、そこに漂う若さの熱が、沙耶の胸の奥をわずかに揺らす。

 

 「そんな、大げさなことじゃないですよ」

 

 「じゃあ……チョコレートとか、どうです?今度、持ってきます」

 

 「チョコレート?」

 

 「甘いもの、苦手じゃないですよね?」

 

 その言い方が少しだけ可笑しくて、沙耶は笑ってしまった。

 
 「ええ、嫌いじゃないです」

 

 「じゃあ、決まりですね」

 

 青年が笑うと、図書館の蛍光灯の光が彼の頬をやわらかく照らした。その笑みが、あまりに自然で、沙耶は思わず視線を逸らした。

 

 ――こんなふうに誰かと約束をするの、いつぶりだろう。

 

 その後、別れ際に名前を交換した。彼は「悠人」と名乗り、少し恥ずかしそうに会釈をして去っていった。

 

 残された沙耶の掌の中には、小さな温度の名残だけがあった。

 

 図書館の外はすっかり夕暮れで、沈みかけた陽が、街路樹の影を長く伸ばしている。

 
 彼女はその道をゆっくり歩きながら、知らず知らずのうちに指先で頬を触れた。

 

 頬にまだ、熱が残っていた。

 

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