職場を出ると、空がまだ白く光っていた。 初夏の陽射しは強くなりつつあるのに、空気の温度だけは春の名残を抱えている。
沙耶は歩道橋を渡りながら、腕時計をちらりと見た。
午後二時を少し回ったところ。
特に予定があるわけでもなかった。
ただ、まっすぐ帰るには気持ちが落ち着かない。 誰かと話したいとも思わない。
そんな日の行き場として、図書館はちょうどよかった。
通勤路から一本外れた通りに、小さな市立図書館がある。
新しくも古くもない建物。
窓際には薄いカーテンがかかり、陽射しが柔らかく室内に滲み込む。
その外観を遠くから見ただけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。鞄の中には、読みかけの文庫本と、しおり代わりのレシート。
数年前、まだ誰かと一緒にいた頃に読んでいた作家のものだ。その続きを――別の形で、もう一度読みたくなったのかもしれない。
角を曲がると、風に乗って緑の匂いがする。街路樹の葉がわずかに擦れ、遠くで自転車のベルが鳴った。
ああ、こうして音を聞くのは久しぶりだ、と彼女は思った。誰かと過ごす時間ではなく、自分ひとりの静けさの中でしか感じ取れない音がある。
図書館の自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
その瞬間、沙耶の呼吸が少し整う。 外の世界と切り離された、小さな避難所のような場所。
ここでは、時間がやさしく鈍っていく。
入館証をかざし、薄く鳴る電子音のあと、足を一歩踏み入れる。
中は思っていたよりも人が少なかった。
平日の昼下がり。窓際の閲覧席にいるのは、新聞を広げる老夫婦と、ノートパソコンを前にした学生がひとり。
沙耶は鞄の肩紐を持ち直しながら、文芸書の棚へと歩いた。この時間の図書館は、音というより“気配”の場所だ。
ページをめくるわずかな擦過音、遠くで鳴るプリンタの作動音。そのすべてが、心臓の鼓動をゆっくりと撫でていく。
指先が背表紙を辿る。
白地に金の箔押し。
並ぶタイトルの中に、見覚えのある名前を見つけて、ほんの少しだけ口角が動いた。
――この作家、まだ置いてあるのね。
数年前に出版された恋愛短編集。 当時は一緒に暮らしていた人が買ってきて、 「これ、きっと君が好きそう」と言ったのを思い出す。
その声の調子も、もう曖昧だ。 けれど、文字の並びだけは確かに心のどこかに残っていた。
本を抜き出してページをめくる。紙の香りとともに、記憶が薄く立ちのぼる。
少しだけ、胸の奥が温かく――そして空っぽになった。
窓の外では、陽射しが淡く傾き始めている。
季節は進んでいる。
自分だけが少し遅れているような気がして、 沙耶は深呼吸をひとつした。
そのとき。
隣の棚の影で、誰かが小さく咳払いをした。顔を向けると、少し離れた場所に若い男性が立っている。
年の頃は二十代前半、まだ学生のようにも見える。 視線が合うよりも先に、彼の手にある文庫本の表紙が目に入った。
――同じ作家。
偶然の一致に、心のどこかがかすかに鳴る。 それはまだ、出会いとは呼べないほどの、 静かな前触れだった。
彼の指先が、本の背をゆっくりと撫でた。どうやら、迷っているようだった。
沙耶がその場を離れようと一歩動いた瞬間、彼の口から小さな独り言が漏れた。
「……どっちが先だったかな」
声に導かれるように、沙耶はつい足を止めていた。聞き覚えのある作品名。
思わず口にしてしまう。
「それ、短編集のほうが先ですよ」
青年は驚いたように顔を上げた。 少し日焼けした肌、黒髪は無造作に伸び、 瞳だけが不思議に澄んでいる。 見た瞬間、彼の若さに少しだけ胸の奥がざわついた。
「あ……そうなんですか。ありがとうございます」
「この人の作品、最初のほうが少し苦いですよ。 でも、あとになるほど穏やかになるというか……」
「へえ、そうなんですね。読んだこと、あるんですか?」
「昔。少しだけ」
そう答えて、沙耶は笑った。それ以上でも以下でもない会話。けれど、図書館という静けさの中では、その短いやり取りが、驚くほど長く胸に残る。
青年はしばらく背表紙を眺めていたが、やがてその短編集を手に取って、ページをめくった。
「……じゃあ、これにしてみます」
「うん。きっと好きになると思う」
それは、まるで何かを渡すような言葉だった。青年が軽く会釈して去っていく。残された空間には、紙と陽光と、微かな香りだけが漂っている。
ほんの少し、心臓の音が速くなっているのを自覚した。誰かと話すことを、こんなふうに嬉しいと感じたのは、
いったい、いつぶりだろう。
◇◇◇
その週の金曜日。 仕事を早めに切り上げた沙耶は、またあの図書館へ足を向けていた。
理由は――特になかった。ただ、日中の喧噪をやわらげるために、静けさの中へ身を置きたいというだけの、ささやかな衝動。
夕方の図書館は昼よりも少し賑やかで、学生たちのざわめきと、閉館前の放送準備の気配が入り混じっていた。
返却カウンターの前を通り過ぎたとき、視界の端で、見覚えのある後ろ姿が目にとまった。
――あの青年。
彼は貸出機の前に立ち、あの日と同じ短編集を手にしていた。その表紙を見ただけで、あの短い会話が脳裏に蘇る。
沙耶は迷った。声をかける理由も、きっかけもない。けれど、口元が自然と動いてしまう。
「……どうでした?」
彼が振り返る。少し驚いたように目を見開き、それから笑った。
「……あ、覚えてくれてたんですね。すごくよかったです」
「よかった。あの作家、読んでる人少ないから」
「なんか、あの“寂しさ”がすごく自然で。 読み終わってもしばらく静かになりました」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。たぶん彼の感想が、昔の自分の読後とよく似ていたからだ。
「よかったら、他の作品もありますよ」
「ほんとですか? 教えてもらえます?」
二人で並んで棚に向かう。背表紙を指で辿りながら、彼が隣に立つ。その距離は、思っていたよりも近い。
気づけば、彼の香水でも柔軟剤でもない、肌の匂いのようなものがふと鼻を掠めた。
それだけで、呼吸が浅くなる。
――なんて若いのだろう。
そう思った瞬間、沙耶は小さく笑って首を振った。ほんの少し、時間を忘れたような気がした。
本を選び終え、二人で貸出カウンターへ向かう途中、 青年がふと立ち止まった。
「……あの、よかったら今度、お礼させてください」
「お礼?」
「本をすすめてもらったから。ほんとに、久しぶりに“読んでよかった”って思ったんです」
言葉の調子は真っ直ぐで、下心の影がなかった。けれど、そこに漂う若さの熱が、沙耶の胸の奥をわずかに揺らす。
「そんな、大げさなことじゃないですよ」
「じゃあ……チョコレートとか、どうです?今度、持ってきます」
「チョコレート?」
「甘いもの、苦手じゃないですよね?」
その言い方が少しだけ可笑しくて、沙耶は笑ってしまった。
「ええ、嫌いじゃないです」
「じゃあ、決まりですね」
青年が笑うと、図書館の蛍光灯の光が彼の頬をやわらかく照らした。その笑みが、あまりに自然で、沙耶は思わず視線を逸らした。
――こんなふうに誰かと約束をするの、いつぶりだろう。
その後、別れ際に名前を交換した。彼は「悠人」と名乗り、少し恥ずかしそうに会釈をして去っていった。
残された沙耶の掌の中には、小さな温度の名残だけがあった。
図書館の外はすっかり夕暮れで、沈みかけた陽が、街路樹の影を長く伸ばしている。
彼女はその道をゆっくり歩きながら、知らず知らずのうちに指先で頬を触れた。
頬にまだ、熱が残っていた。