※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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雨上がりの再会

 こないだの夜のことを、沙耶はいまだに胸の奥でうまく言葉にできずにいた。

 

 あの瞬間、自分は確かに拒まなかった。

 
 求められることが嫌だったわけじゃない――むしろ、嬉しかった。

 
 けれど、段階を踏まずに一気に距離がなくなったあの展開は、やっぱりどこか現実味が薄くて、夢の残滓みたいに指先へ熱だけが残っている。

 

 …連絡先を交換していなかったことが、じわじわと効いてくる。

 

 あのあと悠人から連絡がこないのは当然だ。自分から連絡する術もない。

 
 けれど、沈黙が続くほど、「あれは彼にとって何だったんだろう」と不安がひび割れのように広がっていく。

 

 仕事帰り、ひと駅歩こうと思って街を抜けると、雨上がりの匂いがまだ空気に残っていた。

 
 湿った風が首元を撫でていき、沙耶は肩をすくめる。――たぶん、もう会わない方が自然なんだろうな。

 

 そう思おうとするのに、どこかで期待してしまう自分がいる。ほんの少しでいい、彼がどう思っているのか知りたかった。

 

 マンションの通りへ曲がったそのときだった。アスファルトを踏む軽い靴音が、暗がりの向こうからゆっくりと近づいてきた。

 

 見覚えのあるシルエット。

 

 胸の奥で、鼓動がひとつ跳ねた。

 

 ◇◇◇

 

 悠人は少し驚いたように立ち止まった。
 傘を畳み、コンビニ袋を片手に握ったまま、目が一瞬だけ逸れた。

 

 沙耶の方が先に口を開く。

 

 
 「……さっきまで、雨すごかったわね」

 

 悠人は小さく頷き、声を出す。

 

 
 「はい、僕はちょうどコンビニにいたので、濡れずに済みました」

 

 沙耶は少しだけ微笑む。

 

 
 「よかったわね」

 

 でも、距離感は妙に遠いまま。言葉は交わしているのに、心がすぐには寄ってこない。

 
 雨上がりの湿った夜気が、二人のあいだの静かな空気をさらに重くしている。

 

 歩きながら、沙耶は思う。

 
 ――連絡先も知らないのに、会うことができるのは偶然だけ。

 
 この“偶然”が続く限り、何も解決しないんだ。

 

 悠人は何か言いたそうに、口を開きかける。でも、結局何も言わず、少し俯いたまま横を歩く。

 

 
 沙耶もまた、自然に視線を前に戻すしかなかった。お互いの胸の奥に、こないだの夜の記憶が熱を帯びたまま残っていることを、二人とも知らない。

 

 歩く距離が短く感じられ、二人の間に沈黙がまた落ちる。

 

 沙耶は心の中で、少しずつ勇気を出す。

 

 「……あの、悠人くん。避けてたわけじゃないの」

 

 
 声は小さいけれど、雨上がりの夜気にかき消されることはなかった。悠人は目を見開く。

 

 
 「え……?」

 

 
 その表情に、少し不安が混じっているのがわかる。

 

 「ただ……どうしていいか分からなくて」

 

 
 沙耶は少し俯き、靴先を見つめる。

 

 
 「自分で思っていた以上に急に距離が縮まったから、戸惑っただけ」

 

 悠人の肩の力が、わずかに抜ける。

 

 
 「……俺も、です」

 

 
 彼の声は低く、でも確かに届いた。

 

 雨上がりの道に、静かな温度が流れる。お互いに踏み込めないけれど、確かに同じ場所に立っていることを、沙耶は感じた。

 
 心の距離はまだあるけれど、ほんの少し縮まった気がした。

 

 マンションのエントランスが目の前に現れる。扉に手をかける前に、沙耶はふと立ち止まった。

 

 悠人もそのまま向かい側で止まっている。雨上がりの湿った夜気に、二人の間の静けさだけが漂っていた。

 

 「また……会えますか?」

 

 
 悠人の声は小さく、でも確かに届いた。沙耶は少しだけ戸惑いながらも、頷く。

 

 
 「……うん。もっとちゃんと話そう」

 

 扉を押して中に入ると、湿った夜気と街灯の光が入り混じる世界から、少し離れた気がした。

 
 振り返ると、悠人はまだ立ち尽くし、雨に濡れた夜道にひとり残っている。

 

 胸の奥に、甘くてざらつくような感覚が残る。距離はまだ完全には縮まっていない。

 

 
 でも、互いに向き合うための小さな一歩を、確かに踏み出せたのだと沙耶は思った。

 

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