こないだの夜のことを、沙耶はいまだに胸の奥でうまく言葉にできずにいた。
あの瞬間、自分は確かに拒まなかった。
求められることが嫌だったわけじゃない――むしろ、嬉しかった。
けれど、段階を踏まずに一気に距離がなくなったあの展開は、やっぱりどこか現実味が薄くて、夢の残滓みたいに指先へ熱だけが残っている。
…連絡先を交換していなかったことが、じわじわと効いてくる。
あのあと悠人から連絡がこないのは当然だ。自分から連絡する術もない。
けれど、沈黙が続くほど、「あれは彼にとって何だったんだろう」と不安がひび割れのように広がっていく。
仕事帰り、ひと駅歩こうと思って街を抜けると、雨上がりの匂いがまだ空気に残っていた。
湿った風が首元を撫でていき、沙耶は肩をすくめる。――たぶん、もう会わない方が自然なんだろうな。
そう思おうとするのに、どこかで期待してしまう自分がいる。ほんの少しでいい、彼がどう思っているのか知りたかった。
マンションの通りへ曲がったそのときだった。アスファルトを踏む軽い靴音が、暗がりの向こうからゆっくりと近づいてきた。
見覚えのあるシルエット。
胸の奥で、鼓動がひとつ跳ねた。
◇◇◇
悠人は少し驚いたように立ち止まった。 傘を畳み、コンビニ袋を片手に握ったまま、目が一瞬だけ逸れた。
沙耶の方が先に口を開く。
「……さっきまで、雨すごかったわね」
悠人は小さく頷き、声を出す。
「はい、僕はちょうどコンビニにいたので、濡れずに済みました」
沙耶は少しだけ微笑む。
「よかったわね」
でも、距離感は妙に遠いまま。言葉は交わしているのに、心がすぐには寄ってこない。
雨上がりの湿った夜気が、二人のあいだの静かな空気をさらに重くしている。
歩きながら、沙耶は思う。
――連絡先も知らないのに、会うことができるのは偶然だけ。
この“偶然”が続く限り、何も解決しないんだ。
悠人は何か言いたそうに、口を開きかける。でも、結局何も言わず、少し俯いたまま横を歩く。
沙耶もまた、自然に視線を前に戻すしかなかった。お互いの胸の奥に、こないだの夜の記憶が熱を帯びたまま残っていることを、二人とも知らない。
歩く距離が短く感じられ、二人の間に沈黙がまた落ちる。
沙耶は心の中で、少しずつ勇気を出す。
「……あの、悠人くん。避けてたわけじゃないの」
声は小さいけれど、雨上がりの夜気にかき消されることはなかった。悠人は目を見開く。
「え……?」
その表情に、少し不安が混じっているのがわかる。
「ただ……どうしていいか分からなくて」
沙耶は少し俯き、靴先を見つめる。
「自分で思っていた以上に急に距離が縮まったから、戸惑っただけ」
悠人の肩の力が、わずかに抜ける。
「……俺も、です」
彼の声は低く、でも確かに届いた。
雨上がりの道に、静かな温度が流れる。お互いに踏み込めないけれど、確かに同じ場所に立っていることを、沙耶は感じた。
心の距離はまだあるけれど、ほんの少し縮まった気がした。
マンションのエントランスが目の前に現れる。扉に手をかける前に、沙耶はふと立ち止まった。
悠人もそのまま向かい側で止まっている。雨上がりの湿った夜気に、二人の間の静けさだけが漂っていた。
「また……会えますか?」
悠人の声は小さく、でも確かに届いた。沙耶は少しだけ戸惑いながらも、頷く。
「……うん。もっとちゃんと話そう」
扉を押して中に入ると、湿った夜気と街灯の光が入り混じる世界から、少し離れた気がした。
振り返ると、悠人はまだ立ち尽くし、雨に濡れた夜道にひとり残っている。
胸の奥に、甘くてざらつくような感覚が残る。距離はまだ完全には縮まっていない。
でも、互いに向き合うための小さな一歩を、確かに踏み出せたのだと沙耶は思った。