※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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距離感

 週がひとつ、ふたつ過ぎた頃だった。

 
 返却期限が近い本をバッグにしまいながら、沙耶は「行かなくちゃ」と小さく息をつく。義務のように言い聞かせた言葉は、どこか自分を誤魔化す響きを含んでいた。

 

 午後の図書館は、夏の名残りを引きずるようにまだ少し蒸している。自動ドアが開くたびに外気が流れ込み、紙の匂いに混じってどこか懐かしい温度が広がった。

 
 静かに歩みを進め、返却カウンターへ向かう途中――ふと視線が引かれた。

 

 書架と書架の隙間。ページをめくる気配。その奥に、見慣れた横顔。息が、胸の奥でひと拍遅れる。

 

 悠人だった。

 
 背筋を少し丸め、指先で注意深く紙を扱う癖も、前に会ったときのままだ。

 

 沙耶は一瞬だけ立ち止まる。
 返却に来ただけ。偶然。会いに来たわけじゃない――そう心の中で並べた言い訳は、自分に向けてのものだとすぐ気づく。

 

 その刹那、悠人が顔を上げた。

 
 目が合う。

 
 どちらも驚いたように瞬きをし、どちらもすぐに視線を逸らさない。

 

「あ……こんにちは」

 

 沙耶が声を発したのは、ほんの少しだけ先だった。
 肩の力を抜いた笑みをつくると、悠人も微かに口元を緩める。

 

「こんにちは。返却、ですか?」

 

「ええ……そう。期限ギリギリで」

 

 そこまで言ってから、沙耶は小さく息を吐いた。思ったより自然に話せている。

 
 前回まで胸に刺さっていたざらつきは、少しだけ薄まっているように思えた。

 

 ふたりの間には書架に遮られた静けさがあり、ほかの利用者の足音が遠くを流れていく。

 
 その静寂はぎこちないものではなく、再会を受け止めるための余白のようだった。

 

 返却カウンターの前で、沙耶は本をそっと置いた。
 悠人も同じように手元の本を差し出しながら、少しだけ視線を合わせる。

 

「最近、よく図書館に来るんですか?」

 
 沙耶は軽く微笑む。

 
「うん、勉強もあるし、読書もしたくて。悠人くんは?」

 

 悠人は少し肩をすくめた。

 
「僕も、ちょうど返却のタイミングでした」

 
 短い言葉だが、ぎこちなさはなく、自然な返答に聞こえる。

 

 二人の間には、言葉にしない確認の時間が流れる。
 あの夜のこと――身体のことも心のことも、まだ完全には交わっていない。

 
 でも拒絶されていないこと、距離を測れることを互いに確かめているような空気だった。

 

「この前借りた本、面白かった?」

 
 沙耶が問いかけると、悠人は少し考えてから頷く。

 
「はい、特に最後の展開が……」

 
 言葉を選びながらも、楽しそうに話す姿が目に入る。

 
 沙耶は心の奥で、小さく安心するのを感じた。返却手続きを済ませ、カウンターの端で少し立ち止まる。

 
 互いに視線を合わせながら、ぎこちない沈黙と柔らかい呼吸を分け合う。

 
 まだ完全に心は交わっていないけれど、この空気の中で二人は確かに歩幅を揃えているようだった。

 

 ◇◇◇

 

 返却を終え、二人は図書館の出口へ向かう。

 
 夏の午後の光が窓から差し込み、ほんのり温かい空気が漂っていた。

 歩道に出る直前、通路ですれ違った人の拍子で、沙耶の腕に悠人の手が軽く触れた。

 
 お互いに一瞬息を止める。

 

 驚きもあるけれど、以前のようなぎこちなさや焦りはない。

 

「……ごめんね」

 
 沙耶は軽く微笑みながら言う。

 

「いえ……大丈夫です」

 
 悠人も小さく返し、少しだけ肩の力を抜いたように見える。

 

 その瞬間、二人の間には言葉以上のやわらかな距離感が生まれた。

 
 心の中で、あの夜のざらつきや、ぎこちなさが少し溶けていくのを沙耶は感じた。

 

 通路の先に見える出口までの数歩の間、二人は自然に同じ方向を向いて歩く。

 
 肩や腕に触れることなくても、触れた瞬間の感覚が、心の距離をほんの少しだけ縮めていた。

 

 出口を出て、外の歩道に立つ。

 
 今年の夏の空気は例年より軽く感じ、図書館内とは違う柔らかさを含んでいた。

 沙耶は少しだけ立ち止まり、振り返らずに悠人に向かって言う。

 

「……また、ここで会えたらいいわね」

 

 悠人は驚いた顔を見せた後、穏やかな笑みで答える。

 

「はい、僕もそう思います」

 

 それだけのやり取り。余計な言葉は必要ない。

 
 互いに見つめ合う時間は短く、でも確かに心の距離は少し縮まった。

 歩き出す足取りは軽く、沙耶の胸の奥に、ほんのり温かい感覚が残る。

 
 以前のように怖さやぎこちなさに押しつぶされることはない。小さな前進──それだけで十分だと思えた。

 

 沙耶は振り返らず、空を見上げる。そして心の中で、自分からまた会いに行けるかもしれないと、静かに思った。

 

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