※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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日暮

 不思議と落ち着かない日が続いていた。
 胸の奥に小さな棘のようなものが刺さっていて、抜こうにも指が届かない。理由は──言葉にすれば簡単で、でも言葉にしたくない種類のもの。

 

 外を歩いていると、ふと足が止まっていた。
 見上げた先には、いつもの図書館。

 
「べつに……会いたいとかじゃないし」

 
 心の中で言い訳しながら、階段を上る自分の足取りが軽いのを自覚してしまう。

 静かな館内に入ると、冷んやりした空気が頬に触れた。

 
 窓際のいつもの席へ向かい──そして、息が止まる。

 

 悠人が、そこにいた。

 
 斜め前のテーブル。白いシャツの袖をまくり、眉を寄せながら本に視線を落としている。

 
 図書館の静けさが似合う人だな、とふと思う。そんなこと思ったのは今日が初めてだった。

 

 声をかけるべきか迷って、結局、沙耶は何も言わずに席へ向かった。

 
 近すぎず、遠すぎず──心臓の鼓動が聞こえそうな距離。椅子に腰を下ろし、鞄から本を取り出す。
 

 ページをめくる指先が微かに震えているのは、たぶん気のせいじゃない。

 

 ここに来た理由は“静かに過ごすため”。そのはずなのに。──なんで、こんなに胸がざわついてるんだろう。

 

 自分でもうまく説明できないまま、沙耶はそっと視線を落とした。

 
 紙の匂いが、いつもより濃く感じた。

 

 彼の正面に、見知らぬ女の子が立っていた。大学生くらいだろうか。

 
 手にはムック本を持ち、楽しそうに何かを話している。悠人は困ったように笑いながらも、丁寧に応じていた。

 

 ──ああ、そういう顔をするんだ。沙耶は棚の影に身を寄せ、気づかれないよう距離を取る。

 

 特別な場面でもなんでもない。ただ、本の感想を言い合っているだけだ。

 

 それでも、胸の奥にすとん、と石を落とされたような重み が生まれる。

 

 自分でも、理由がわからない。近づこうとも思わないし、邪魔をする気もない。ただ、立ち尽くしてしまう。

 

 会話が終わり、悠人が本の棚に戻して歩き出す。女の子は軽く頭を下げて去っていった。

 

 沙耶はまだその場から動けなかった。──なんで、こんな気持ちになるんだろう。

 

 指先がかすかに震えている。このまま帰れば、きっと夜まで引きずる。

 

 でも、帰れない。ほんの少し距離をあけたまま、こっそり悠人の方へ歩き出す。

 

 沙耶は少し距離を置いたまま、悠人の背中を追いかけるように歩いた。まっすぐ伸びた通路の向こう、彼は次の本棚に向かっている。

 

 ──声をかけるなら、いま。

 

 胸の奥でそう囁くような衝動が生まれる。でも、さっきの女の子の笑顔がちらついて、足が鈍る。

 

 別に、嫉妬してるわけじゃない。

 
 自分にそう言い聞かせながら、それが嘘だと気づいて落ち込む。

 

 悠人が本を手に取り、ページをめくり始めた。指先の動きだけで、彼が本当に本好きなのがわかる。

 

 その横顔を見ていると、胸の苦しさよりも「ちゃんと話したい」という気持ちが勝っていく。

 

 大きく深呼吸して、歩き出す。ひとつ棚を回り込むと、ちょうど悠人が振り向いた。

 

「……あ」

 

 お互い同時に小さく声が漏れた。目が合った瞬間、沙耶の胸が跳ねる。悠人はすぐに視線を逸らし、

 
「この前は……、その……」

 
 と、言いかけて飲み込んだ。

 

 その言い淀みが、痛いほどわかる。自分も、あの日のことをどう口にすればいいのかわからないから。

 

 沙耶はかろうじて微笑んだ。

 

「……元気そうで、よかった」

 

 その一言で精いっぱいだった。悠人は短く頷くだけ。会話は続かない。

 

 静けさが落ちていく。

 
 図書館の空気が、二人の間に薄い膜を張るようだった。沙耶は本を抱え直し、視線を床へ落とす。

 

「じゃあ……また」

 

 小さな声で告げ、背を向けた。一歩歩くたびに、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。

 

 たった数十秒の会話なのに、ずっと触れたかったのに、
 何ひとつ伝えられなかった。

 

 ──このままじゃ、だめだ。

 

 階段へ向かいながら、沙耶は小さく唇を噛んだ。

 

 ◇◇◇

 

 図書館を出ると、雨でも降ったのだろうか夕方の空気が思ったより肌寒かった。

 
 バッグの肩ひもを握りしめながら、沙耶はゆっくり歩き出す。

 

 胸の奥にうずく感情は、悔しさとも寂しさともつかない。あの短い会話のあと、悠人は本棚の奥へ戻っていった。

 
 追いかける勇気は出なかった。建物の影に入ったところで足を止める。顔を上げると、秋の夕暮れみたいに薄い朱色が空に混ざっていた。

 

「……私、何してるんだろ」

 

 小さく呟くと、喉の奥が熱くなる。泣きたいわけじゃない。ただ、自分の情けなさに胸がぎゅっと縮むだけ。

 

 けれど、その苦しさの奥に、かすかな温かさもある。さっき、悠人と目が合った瞬間に生まれた、ほんの小さな灯みたいなもの。

 

 ──このまま距離が開いたままなんて、嫌だ。

 

 ポケットの中で、指先が震える。手を伸ばしていいのかどうか迷っていた頃とは違う。

 

 帰り道を歩きながら、沙耶は気づかないうちに歩幅が速くなっていた。

 

 自動ドアの開閉音が背後で響いた。反射的に振り返ると、悠人が出てくるのが見える。

 

 彼はこちらに気づいていない。


 本を抱え、ゆっくりと帰路に向かっているだけ。その後ろ姿が、妙に遠く感じた。

 

 沙耶は息を吸い、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 

 ──行こう。

 
 もう一度だけ話をしたい。あの日から止まったままの距離を、少しでも縮めたい。

 

 歩き出すと、靴音が静かな道に溶けていく。

 

 夕暮れの図書館前。
 離れかけた二人の影が、ゆっくりと同じ方向へ伸びていった。そのまま、沙耶は迷いなく悠人のあとを追う。

 
“偶然を装う”という選択肢はもう無かった。

 

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