不思議と落ち着かない日が続いていた。 胸の奥に小さな棘のようなものが刺さっていて、抜こうにも指が届かない。理由は──言葉にすれば簡単で、でも言葉にしたくない種類のもの。
外を歩いていると、ふと足が止まっていた。 見上げた先には、いつもの図書館。
「べつに……会いたいとかじゃないし」
心の中で言い訳しながら、階段を上る自分の足取りが軽いのを自覚してしまう。
静かな館内に入ると、冷んやりした空気が頬に触れた。
窓際のいつもの席へ向かい──そして、息が止まる。
悠人が、そこにいた。
斜め前のテーブル。白いシャツの袖をまくり、眉を寄せながら本に視線を落としている。
図書館の静けさが似合う人だな、とふと思う。そんなこと思ったのは今日が初めてだった。
声をかけるべきか迷って、結局、沙耶は何も言わずに席へ向かった。
近すぎず、遠すぎず──心臓の鼓動が聞こえそうな距離。椅子に腰を下ろし、鞄から本を取り出す。
ページをめくる指先が微かに震えているのは、たぶん気のせいじゃない。
ここに来た理由は“静かに過ごすため”。そのはずなのに。──なんで、こんなに胸がざわついてるんだろう。
自分でもうまく説明できないまま、沙耶はそっと視線を落とした。
紙の匂いが、いつもより濃く感じた。
彼の正面に、見知らぬ女の子が立っていた。大学生くらいだろうか。
手にはムック本を持ち、楽しそうに何かを話している。悠人は困ったように笑いながらも、丁寧に応じていた。
──ああ、そういう顔をするんだ。沙耶は棚の影に身を寄せ、気づかれないよう距離を取る。
特別な場面でもなんでもない。ただ、本の感想を言い合っているだけだ。
それでも、胸の奥にすとん、と石を落とされたような重み が生まれる。
自分でも、理由がわからない。近づこうとも思わないし、邪魔をする気もない。ただ、立ち尽くしてしまう。
会話が終わり、悠人が本の棚に戻して歩き出す。女の子は軽く頭を下げて去っていった。
沙耶はまだその場から動けなかった。──なんで、こんな気持ちになるんだろう。
指先がかすかに震えている。このまま帰れば、きっと夜まで引きずる。
でも、帰れない。ほんの少し距離をあけたまま、こっそり悠人の方へ歩き出す。
沙耶は少し距離を置いたまま、悠人の背中を追いかけるように歩いた。まっすぐ伸びた通路の向こう、彼は次の本棚に向かっている。
──声をかけるなら、いま。
胸の奥でそう囁くような衝動が生まれる。でも、さっきの女の子の笑顔がちらついて、足が鈍る。
別に、嫉妬してるわけじゃない。
自分にそう言い聞かせながら、それが嘘だと気づいて落ち込む。
悠人が本を手に取り、ページをめくり始めた。指先の動きだけで、彼が本当に本好きなのがわかる。
その横顔を見ていると、胸の苦しさよりも「ちゃんと話したい」という気持ちが勝っていく。
大きく深呼吸して、歩き出す。ひとつ棚を回り込むと、ちょうど悠人が振り向いた。
「……あ」
お互い同時に小さく声が漏れた。目が合った瞬間、沙耶の胸が跳ねる。悠人はすぐに視線を逸らし、
「この前は……、その……」
と、言いかけて飲み込んだ。
その言い淀みが、痛いほどわかる。自分も、あの日のことをどう口にすればいいのかわからないから。
沙耶はかろうじて微笑んだ。
「……元気そうで、よかった」
その一言で精いっぱいだった。悠人は短く頷くだけ。会話は続かない。
静けさが落ちていく。
図書館の空気が、二人の間に薄い膜を張るようだった。沙耶は本を抱え直し、視線を床へ落とす。
「じゃあ……また」
小さな声で告げ、背を向けた。一歩歩くたびに、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
たった数十秒の会話なのに、ずっと触れたかったのに、 何ひとつ伝えられなかった。
──このままじゃ、だめだ。
階段へ向かいながら、沙耶は小さく唇を噛んだ。
◇◇◇
図書館を出ると、雨でも降ったのだろうか夕方の空気が思ったより肌寒かった。
バッグの肩ひもを握りしめながら、沙耶はゆっくり歩き出す。
胸の奥にうずく感情は、悔しさとも寂しさともつかない。あの短い会話のあと、悠人は本棚の奥へ戻っていった。
追いかける勇気は出なかった。建物の影に入ったところで足を止める。顔を上げると、秋の夕暮れみたいに薄い朱色が空に混ざっていた。
「……私、何してるんだろ」
小さく呟くと、喉の奥が熱くなる。泣きたいわけじゃない。ただ、自分の情けなさに胸がぎゅっと縮むだけ。
けれど、その苦しさの奥に、かすかな温かさもある。さっき、悠人と目が合った瞬間に生まれた、ほんの小さな灯みたいなもの。
──このまま距離が開いたままなんて、嫌だ。
ポケットの中で、指先が震える。手を伸ばしていいのかどうか迷っていた頃とは違う。
帰り道を歩きながら、沙耶は気づかないうちに歩幅が速くなっていた。
自動ドアの開閉音が背後で響いた。反射的に振り返ると、悠人が出てくるのが見える。
彼はこちらに気づいていない。
本を抱え、ゆっくりと帰路に向かっているだけ。その後ろ姿が、妙に遠く感じた。
沙耶は息を吸い、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
──行こう。
もう一度だけ話をしたい。あの日から止まったままの距離を、少しでも縮めたい。
歩き出すと、靴音が静かな道に溶けていく。
夕暮れの図書館前。 離れかけた二人の影が、ゆっくりと同じ方向へ伸びていった。そのまま、沙耶は迷いなく悠人のあとを追う。
“偶然を装う”という選択肢はもう無かった。