昼を少し過ぎた頃、沙耶は図書館へ向かった。 理由はあるようで、ない。少なくとも、口に出せる形では。
冷房の効いた自室を出た瞬間、夏の熱気が肌にまとわりつく。思ったよりも暑い。思ったよりも、戻りたい気持ちが強い。
それでも足は止まらなかった。昨日までなら、きっと違った。
偶然を装うこともできたし、会わなければ済む話だと自分に言い聞かせることもできた。
でも、もうできない。
自分が何を期待しているのか、沙耶はわかってしまっていた。
図書館に行く。 あの人がいるかもしれない場所へ、行く。
本を借りるつもりはあった。けれど、それは言い訳だ。本棚の前に立つ自分を想像すると、胸の奥がわずかにざわついた。
選んでいる。自分で、この午後を。
図書館の自動ドアが近づく。開く前の一瞬、沙耶は息を整えた。
逃げ道は、もう用意していない。
◇◇◇
館内に足を踏み入れた途端、外の熱と音が切り離される。空気がひんやりとして、どこか現実味を失う。 沙耶は足音を意識的に抑えながら、閲覧席の並ぶ方へ向かった。
探すつもりはなかった。それでも、視線は自然とそちらを捉えてしまう。
いた。
窓際の席。背中越しでも、間違えようがなかった。 本を開いたまま、ほとんど動かずに座っている。その姿が、この場所に妙に馴染んでいるのが、少しだけ腹立たしい。
今日は声はかけない。その選択に迷いはなかった。
代わりに、二つほど空けた席に腰を下ろす。近すぎず、遠すぎない距離。偶然ではないことを、自分だけが知っている距離だった。
鞄を足元に置き、探していた本を手に取る。ページを開いた瞬間、紙の匂いが立ち上る。 文字を追おうとしても、視界の端にある存在が、どうしても意識から外れなかった。
ここでは、何もなかったことにする。 そういう場所だと、二人とも知っている。
それなのに、同じ空間にいるというだけで、胸の内側が少しずつ温度を持ち始める。 沙耶は背筋を伸ばし、深く息を吸った。
選んだのは、自分だ。
この距離も、この沈黙も。
◇◇◇
文字を追っているはずなのに、内容が頭に入ってこない。
行をなぞる視線が、同じ場所を何度も往復していることに、沙耶は気づいていた。
静かすぎるのだ。
空調の音、遠くでページをめくる微かな気配。そうしたものの合間に、彼の存在だけが、妙に輪郭を持って浮かび上がる。
呼吸の間。椅子がきしむ音。ペンを持ち替えたのか、かすかな動き。
それらが、意図せず記憶を引き寄せる。
思い出そうとしてはいけないと、わかっている。 それでも、ふとした拍子に、夜の断片が滑り込んでくる。
暗さ。体温。言葉より先に触れてしまった、あの感触。
沙耶は視線を落とし、指先に力を入れた。紙がわずかに鳴る。
ここでは違う。
ここは図書館だ。
欲しいのは、記憶じゃない。思い出でも、体だけでもない。
それが何なのか、沙耶自身まだ言葉にできない。ただ、これ以上近づけば、何かが壊れると直感している。
それでも、離れようとは思わなかった。
抑え込んでいるはずの気持ちは、静寂の中でむしろ増幅していく。 微睡に似た感覚が、意識の縁を曇らせていった。
しばらくして、悠人が席を立った。本を抱えたまま通路を進み、沙耶のいる列の棚へ向かう。
近づいてくる足音を、数歩手前で察してしまう。 意図して気づかないふりをするには、もう遅かった。
視界の端に、彼の腕が入る。布越しに伝わる体温を、想像してしまう自分が嫌だった。
手を伸ばせば、触れる。ほんの数センチ。
けれど、沙耶は動かない。悠人もまた、動かない。
互いに本の背を眺めたまま、言葉を交わさずに時間だけが過ぎる。沈黙が、ここでは正しい選択として機能している。
司書の足音が近づいてきて、二人は同時に一歩引いた。
その動きが揃っていたことに、沙耶は胸の奥がわずかに締めつけられる。
いやでも守られているのだ、と理解する。この場所に。だからこそ、抑えていられる。
沙耶は本を一冊抜き取り、手に取った。 彼と視線が合うことはなかったが、そこにいる気配だけは、確かに残っている。
貸出カウンターで手続きを終え、沙耶は出口へ向かった。
背後を振り返ることはしない。それでも、ついてくる気配があるかどうかを、無意識に探してしまう。自動ドアの前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
ここを出たら、もう図書館じゃない。
扉が開く。
夏の熱気と、外の音が一気に押し寄せる。
冷えた空気に慣れていた肌が、急に現実へ引き戻される感覚。
胸の奥で、抑えていたものが形を変え始める。沙耶は振り返った。悠人が立ち上がるところだった。
目が合う。ほんの一瞬。何も言わない。それでも、伝わる。
ここでは終われない、という予感だけが、確かにあった。
沙耶は外へ踏み出した。
背後で、ドアが閉まる音がした。