※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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チョコレートを渡す午後

洗濯機の回る音が、静かな部屋にリズムを刻んでいた。休日の朝は、決まって少し遅く起きる。カーテン越しの光がやわらかくて、時間の流れがゆるむようだった。

 

 沙耶はベランダに出て、洗い上がったシャツを一枚ずつ干していく。
 

 ふと、風に揺れるシャツの隙間から空を見上げたとき──先日の図書館で会った青年のことを思い出した。

 

 悠人。

 
 名前は知っているけれど、まだ一度も呼んだことはなかった。本の話をして、少し笑い合って、それだけの関係。

 
 けれど、別れ際に見た彼の目の真剣さが、どうしてか心に残っていた。

 

 「もう会うこともないかもしれないのに」

 
 自分にそう言い聞かせて、沙耶はため息をひとつ落とす。思い出す必要なんて、ないはずなのに。

 

 部屋に戻ると、テーブルの端に置いた文庫本が目に留まる。この本をすすめたとき、彼は「読んでみます」と少し照れくさそうに言っていた。

 
 その言葉の響きが、今も耳の奥に残っている。

 

 洗濯の音は、まだ止まらない。けれど、心のどこかではもう、別の鼓動が鳴っているのを感じていた。

 

 ◇◇◇

 

 昼を少し過ぎた頃、沙耶は図書館へ向かった。休日にしては人の気配がまばらで、館内はいつもより静かだった。

 
 入口で手を消毒しながら、ふと背の高い影が視界をよぎる。目をやると、文芸書の棚の前に、あの青年がいた。白いシャツの袖をまくり、指先でページをめくるその横顔。

 
 彼女の胸が、思わず微かに波立った。

 

 ──また、会ってしまった。

 

 心のどこかで、そうつぶやく。

 
 偶然だとわかっていても、運命のように思ってしまうのはどうしてだろう。

 

 「……こんにちは」

 
 声をかけると、彼は少し驚いたように振り向いた。
 けれど、すぐに穏やかな笑みを見せて、軽く頭を下げる。

 

 「この前の……」

 
 「ええ、覚えてます。借りてみたんです、あの本」

 

 沙耶の胸が少し高鳴る。
 彼の手に握られていた文庫本は、確かに以前彼女が薦めたものだった。

 

 「どうでした?」

 
 「好きでした。あんな終わり方、ちょっと切ないけど、すごく良くて……」

 

 言葉を選びながら話す彼の姿に、思わず口元が緩む。彼がどんな風に読んだのか、その想像だけで嬉しくなる自分がいた。

 

 話題は自然と別の作家へと移り、ふたりの距離はほんの少しずつ近づいていく。

 
 本棚の影が、彼らを静かに包み込んでいた。

 

 図書館を出ると、午後の陽射しがまぶしく照りつけた。アスファルトがかすかに揺らめき、遠くで蝉の声が響いている。

 
 沙耶は手に持った本を抱え直し、少しだけ息をついた。

 

 「……あの」

 
 隣を歩いていた悠人が、不意に足を止める。
 白いシャツの袖を軽くまくり、その手に小さな紙袋を握っていた。薄いチョコレート色の包装紙に、控えめなリボンが結ばれている。

 

 「これ、よかったら」

 
 彼は少し照れたように笑って続ける。

 
 「この前、本を教えてもらったお礼です。……甘いもの、好きかなって」

 

 沙耶は瞬きをした。夏の陽射しの中、包装紙の金の箔がきらりと光る。ほんのり溶けかけたチョコの香りが、風に混じって漂った。

 

 「……ありがとう。でも、気を遣わなくてもよかったのに」

 
 「気持ちですから」

 

 その言葉の真っすぐさが、胸の奥に静かに残る。
 照りつける空の下、ふたりの影が並んで伸びていた。

 

 「……このあと、少し時間ありますか?」

 
 「え?」

 
 「近くなんです、僕の部屋。冷たい飲み物でもどうかなって……」

 

 彼の声は穏やかで、強引さはなかった。それでも、その一言に心が小さく揺れる。頬に汗が伝い落ちるのを感じながら、沙耶は小さく息を吸った。

 

 「……少しだけ、なら」

 

 そう答えた声が、自分でも驚くほど自然に出た。

 
 蝉の声が遠ざかり、代わりに胸の鼓動が近くで響いていた。

 

 アパートの階段を上がる途中、外気の熱がまだ肌にまとわりついていた。悠人の部屋のドアを開けると、冷房の涼しい空気が一気に頬を撫でる。

 

 「どうぞ、狭いですけど」

 
 「お邪魔します」

 

 靴を脱ぎ、畳の上に一歩足を踏み入れる。部屋は小ぎれいで、学生の部屋というよりは静かな書斎のようだった。

 
 テーブルの上には読みかけの本と、グラスに残った氷の跡。

 

 「冷たいの、ありますよ。麦茶でいいですか?」

 
 「ええ、ありがとう」

 

 グラスを受け取ると、指先に水滴がひやりと触れた。それだけのことで、妙に胸がざわつく。

 

 窓の外では、風鈴がかすかに鳴っている。遠くで蝉の声。昼下がりの静けさの中、ふたりの間にあるのは、冷たい飲み物と小さな紙袋だけ。

 

 「溶けてないといいんですけど」

 
 悠人が笑いながら、チョコレートを差し出した。
 包みを開けると、香ばしい甘さがふわりと広がる。

 

 「夏にチョコって、珍しいわね」

 
 「そうですね。でも、なんか……こういう日に食べたくなる気がして」

 

 その言葉に、なぜか胸の奥が熱くなった。意味なんてない、ただの会話なのに。

 
 けれど、彼のまっすぐな視線が向けられるたびに、心の奥で何かが揺らいでいく。

 

 グラスの氷が静かに溶けて、ぽちゃん、と音を立てた。沙耶は目を伏せたまま、そっと息をつく。

 
 少しの沈黙。

 
 それが、昼の静けさをいっそう際立たせていた。

 

 冷房の風がカーテンを揺らし、淡い光が部屋に差し込んでいた。沙耶はグラスをテーブルに置き、手のひらに残った水滴を指先で拭った。

 
 悠人は少し離れた場所に座り、視線を落として何かを考えているようだった。

 

 「読書、進んでます?」

 
 彼がふいに言った。

 
 「はい。あなたが読んだって言ってたところ、昨日また開いてみたの」

 
 「やっぱり、いい本ですよね」

 

 そう答える彼の声が、静かな部屋にやわらかく響く。言葉の合間に訪れる沈黙が、なぜか心地いい。

 

 「……暑くないですか?」

 
 悠人が立ち上がり、カーテンの隙間を少し開けた。
 光が差し込み、畳の上に夏の匂いが落ちる。風が少し動いて、沙耶の髪をふわりと揺らした。

 

 「……ん」

 
 思わず首筋に触れた指先に、汗の感触が残る。悠人が振り返り、少し困ったように笑った。

 

 「……タオル、貸しますね」

 
 差し出された白いタオルを受け取る。その瞬間、指先が軽く触れ合った。

 
 ほんの一瞬。

 
 けれど、時間が止まったように長く感じた。

 

 「ありがとう」

 
 それだけ言って、沙耶はそっと顔をそらす。視線を落としたまま、タオルの柔らかな感触を確かめるように指を動かした。

 

 ──この距離が、危うい。

 
 けれど、離れようとは思わなかった。

 

 窓の外で、蝉が一斉に鳴き始める。その声が、胸の鼓動と重なって響いていた。

 

 ◇◇◇

 

 夕暮れが近づくにつれて、光の色が少しずつ変わっていった。カーテンの隙間から射し込む陽射しが、白から金に移ろう。

 
 冷房の風がまだ涼しいのに、胸の奥だけが熱を帯びていた。

 

 「そろそろ行かないと」

 
 沙耶は立ち上がり、バッグの紐を肩にかける。言葉にした瞬間、胸の奥が少し締めつけられた。

 

 「今日は、来てくれて嬉しかったです」

 
 悠人の声は穏やかだった。その笑顔が、どこか寂しげに見えるのは、きのせいだろうか。

 

 テーブルの上には、まだ少し溶け残ったチョコレートがある。包み紙の端が風に揺れて、光を反射していた。

 

 「……チョコ、美味しかった」

 
 「よかったです」

 
 短い言葉のやり取り。けれど、その一瞬がどこか名残惜しかった。玄関で靴を履くとき、彼の影が背後に落ちた。

 
 「また、図書館で」

 
 そう言われて、沙耶はゆっくり振り返る。

 

 「……ええ」

 
 答えながら、微笑もうとした。けれど、唇の端が少し震えた。

 

 ドアを開けると、外の熱気が頬を包む。夕暮れの陽射しが長い影を作り、遠くで蝉が鳴いている。

 
 足を踏み出しても、胸の中ではまだ、あの部屋の静けさが響いていた。

 

 ──もう、以前の自分には戻れない。

 
 そんな確信だけを、夏の風が運んでいった。

 

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