洗濯機の回る音が、静かな部屋にリズムを刻んでいた。休日の朝は、決まって少し遅く起きる。カーテン越しの光がやわらかくて、時間の流れがゆるむようだった。
沙耶はベランダに出て、洗い上がったシャツを一枚ずつ干していく。
ふと、風に揺れるシャツの隙間から空を見上げたとき──先日の図書館で会った青年のことを思い出した。
悠人。
名前は知っているけれど、まだ一度も呼んだことはなかった。本の話をして、少し笑い合って、それだけの関係。
けれど、別れ際に見た彼の目の真剣さが、どうしてか心に残っていた。
「もう会うこともないかもしれないのに」
自分にそう言い聞かせて、沙耶はため息をひとつ落とす。思い出す必要なんて、ないはずなのに。
部屋に戻ると、テーブルの端に置いた文庫本が目に留まる。この本をすすめたとき、彼は「読んでみます」と少し照れくさそうに言っていた。
その言葉の響きが、今も耳の奥に残っている。
洗濯の音は、まだ止まらない。けれど、心のどこかではもう、別の鼓動が鳴っているのを感じていた。
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃、沙耶は図書館へ向かった。休日にしては人の気配がまばらで、館内はいつもより静かだった。
入口で手を消毒しながら、ふと背の高い影が視界をよぎる。目をやると、文芸書の棚の前に、あの青年がいた。白いシャツの袖をまくり、指先でページをめくるその横顔。
彼女の胸が、思わず微かに波立った。
──また、会ってしまった。
心のどこかで、そうつぶやく。
偶然だとわかっていても、運命のように思ってしまうのはどうしてだろう。
「……こんにちは」
声をかけると、彼は少し驚いたように振り向いた。 けれど、すぐに穏やかな笑みを見せて、軽く頭を下げる。
「この前の……」
「ええ、覚えてます。借りてみたんです、あの本」
沙耶の胸が少し高鳴る。 彼の手に握られていた文庫本は、確かに以前彼女が薦めたものだった。
「どうでした?」
「好きでした。あんな終わり方、ちょっと切ないけど、すごく良くて……」
言葉を選びながら話す彼の姿に、思わず口元が緩む。彼がどんな風に読んだのか、その想像だけで嬉しくなる自分がいた。
話題は自然と別の作家へと移り、ふたりの距離はほんの少しずつ近づいていく。
本棚の影が、彼らを静かに包み込んでいた。
図書館を出ると、午後の陽射しがまぶしく照りつけた。アスファルトがかすかに揺らめき、遠くで蝉の声が響いている。
沙耶は手に持った本を抱え直し、少しだけ息をついた。
「……あの」
隣を歩いていた悠人が、不意に足を止める。 白いシャツの袖を軽くまくり、その手に小さな紙袋を握っていた。薄いチョコレート色の包装紙に、控えめなリボンが結ばれている。
「これ、よかったら」
彼は少し照れたように笑って続ける。
「この前、本を教えてもらったお礼です。……甘いもの、好きかなって」
沙耶は瞬きをした。夏の陽射しの中、包装紙の金の箔がきらりと光る。ほんのり溶けかけたチョコの香りが、風に混じって漂った。
「……ありがとう。でも、気を遣わなくてもよかったのに」
「気持ちですから」
その言葉の真っすぐさが、胸の奥に静かに残る。 照りつける空の下、ふたりの影が並んで伸びていた。
「……このあと、少し時間ありますか?」
「え?」
「近くなんです、僕の部屋。冷たい飲み物でもどうかなって……」
彼の声は穏やかで、強引さはなかった。それでも、その一言に心が小さく揺れる。頬に汗が伝い落ちるのを感じながら、沙耶は小さく息を吸った。
「……少しだけ、なら」
そう答えた声が、自分でも驚くほど自然に出た。
蝉の声が遠ざかり、代わりに胸の鼓動が近くで響いていた。
アパートの階段を上がる途中、外気の熱がまだ肌にまとわりついていた。悠人の部屋のドアを開けると、冷房の涼しい空気が一気に頬を撫でる。
「どうぞ、狭いですけど」
「お邪魔します」
靴を脱ぎ、畳の上に一歩足を踏み入れる。部屋は小ぎれいで、学生の部屋というよりは静かな書斎のようだった。
テーブルの上には読みかけの本と、グラスに残った氷の跡。
「冷たいの、ありますよ。麦茶でいいですか?」
「ええ、ありがとう」
グラスを受け取ると、指先に水滴がひやりと触れた。それだけのことで、妙に胸がざわつく。
窓の外では、風鈴がかすかに鳴っている。遠くで蝉の声。昼下がりの静けさの中、ふたりの間にあるのは、冷たい飲み物と小さな紙袋だけ。
「溶けてないといいんですけど」
悠人が笑いながら、チョコレートを差し出した。 包みを開けると、香ばしい甘さがふわりと広がる。
「夏にチョコって、珍しいわね」
「そうですね。でも、なんか……こういう日に食べたくなる気がして」
その言葉に、なぜか胸の奥が熱くなった。意味なんてない、ただの会話なのに。
けれど、彼のまっすぐな視線が向けられるたびに、心の奥で何かが揺らいでいく。
グラスの氷が静かに溶けて、ぽちゃん、と音を立てた。沙耶は目を伏せたまま、そっと息をつく。
少しの沈黙。
それが、昼の静けさをいっそう際立たせていた。
冷房の風がカーテンを揺らし、淡い光が部屋に差し込んでいた。沙耶はグラスをテーブルに置き、手のひらに残った水滴を指先で拭った。
悠人は少し離れた場所に座り、視線を落として何かを考えているようだった。
「読書、進んでます?」
彼がふいに言った。
「はい。あなたが読んだって言ってたところ、昨日また開いてみたの」
「やっぱり、いい本ですよね」
そう答える彼の声が、静かな部屋にやわらかく響く。言葉の合間に訪れる沈黙が、なぜか心地いい。
「……暑くないですか?」
悠人が立ち上がり、カーテンの隙間を少し開けた。 光が差し込み、畳の上に夏の匂いが落ちる。風が少し動いて、沙耶の髪をふわりと揺らした。
「……ん」
思わず首筋に触れた指先に、汗の感触が残る。悠人が振り返り、少し困ったように笑った。
「……タオル、貸しますね」
差し出された白いタオルを受け取る。その瞬間、指先が軽く触れ合った。
ほんの一瞬。
けれど、時間が止まったように長く感じた。
「ありがとう」
それだけ言って、沙耶はそっと顔をそらす。視線を落としたまま、タオルの柔らかな感触を確かめるように指を動かした。
──この距離が、危うい。
けれど、離れようとは思わなかった。
窓の外で、蝉が一斉に鳴き始める。その声が、胸の鼓動と重なって響いていた。
◇◇◇
夕暮れが近づくにつれて、光の色が少しずつ変わっていった。カーテンの隙間から射し込む陽射しが、白から金に移ろう。
冷房の風がまだ涼しいのに、胸の奥だけが熱を帯びていた。
「そろそろ行かないと」
沙耶は立ち上がり、バッグの紐を肩にかける。言葉にした瞬間、胸の奥が少し締めつけられた。
「今日は、来てくれて嬉しかったです」
悠人の声は穏やかだった。その笑顔が、どこか寂しげに見えるのは、きのせいだろうか。
テーブルの上には、まだ少し溶け残ったチョコレートがある。包み紙の端が風に揺れて、光を反射していた。
「……チョコ、美味しかった」
「よかったです」
短い言葉のやり取り。けれど、その一瞬がどこか名残惜しかった。玄関で靴を履くとき、彼の影が背後に落ちた。
「また、図書館で」
そう言われて、沙耶はゆっくり振り返る。
「……ええ」
答えながら、微笑もうとした。けれど、唇の端が少し震えた。
ドアを開けると、外の熱気が頬を包む。夕暮れの陽射しが長い影を作り、遠くで蝉が鳴いている。
足を踏み出しても、胸の中ではまだ、あの部屋の静けさが響いていた。
──もう、以前の自分には戻れない。
そんな確信だけを、夏の風が運んでいった。