夏の午後、図書館の入口をくぐると、空調の涼しさが肌にまとわりついた。
指先に微かに残る、昨日の夜の感触を振り払うように、沙耶は髪を耳にかけた。
――今日は、本を返しに来ただけ。
そう自分に言い聞かせながら、カウンターで返却処理を済ませる。
それでも、視線は自然とあの場所を探していた。新刊コーナーの、左側の棚。いつも彼が立っていたあたり。
いない。
少しだけ、肩の力が抜ける。
安堵なのか、落胆なのか、自分でもわからなかった。
通路を歩いていると、誰かの気配が近づいてきた。 軽く擦れる靴音と、柔らかな声。
「……あれ? 沙耶さん?」
振り返ると、悠人が立っていた。白いシャツの袖をまくって、片手に文庫本を持っている。 その姿が、昨日夢の中で見た彼と重なって、一瞬、時間が止まった。
「久しぶりですね」
彼はいつものように笑っていた。 ほんの少し日焼けした頬に、夏の光が滲んでいる。
「ええ、偶然ね」
声が少しだけ上ずった。沙耶は慌てて視線を逸らす。
――偶然。そう、ただの偶然。けれど、心の奥では、何かが鳴っていた。
夜の熱が、まだ完全には冷めていない。
「今日は、どんな本を探してるんですか?」
悠人がそう言いながら、棚の背表紙を指でなぞった。 その仕草が妙に落ち着いて見えて、沙耶は返事をするのに少し間を取る。
「……特に、決めてないの。なんとなく、ね」
「なんとなくで選ぶの、いいですよね。僕、沙耶さんが前に薦めてくれた作家、けっこう気に入ってます」
「そうなの?」
思わず、口元が緩んだ。嬉しい――それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。悠人は一冊を取り出して、背表紙を見せる。
「これも、その人の新作で。買おうか迷ってて」
「じゃあ、買いなさいよ。読む価値あるわ」
「沙耶さんも、読みました?」
「ええ、もちろん」
そのやり取りのあいだ、ふたりの距離はわずかに近づいていた。
触れるわけでもないのに、腕の内側が、相手の体温を思い出す。
昼の図書館。静けさの中に、鼓動だけが妙に鮮やかに響いていた。
「……このあと、時間あります?」
不意に、悠人がそう言った。 声は穏やかだったけれど、そこに含まれた何かが、空気を変えた。沙耶は目を瞬く。
「え、どうして?」
「この近くに、ちょっと気になるカフェがあって。アイスティーが美味しいらしいんです。……どうかなって」
ほんの一瞬、断ろうとした。でも、唇が動く前に、心が勝手に答えていた。
「……いいわ、行きましょうか」
彼が笑う。
その笑顔に、夏の光が透けて見えた。
◇◇◇
カフェの扉を開けると、冷たい空気とコーヒーの香りが混ざって流れ込んだ。
ガラス越しに射す光が、木のテーブルを柔らかく照らしている。
「ここ、落ち着きますね」
悠人がそう言って席を選ぶ。窓際、外には通りを歩く人々の姿。 静かな音楽が流れて、まるで時間が少し緩やかに溶けていくようだった。
「ほんとね……」
沙耶はストローでアイスティーをかき混ぜながら、グラスの内側を伝う雫を見つめた。
氷の音が、沈黙の間を繋いでいく。
「この前、読んでた本」
悠人が切り出す。
「登場人物が、恋人に何も言えずに別れるシーン、印象に残ってて。何かを言えないままって、苦しいですよね」
沙耶は少し笑う。
「そうね。……でも、言わない方がいいこともあるわ」
「たとえば?」
「言ったら、壊れちゃうようなこと」
その瞬間、ふたりの視線が重なった。外の陽射しが強くなって、ガラスの向こうに白い光がにじむ。
悠人は何か言いかけて、グラスの中の氷をひとつ指で弾いた。その小さな音が、やけに耳に残る。
「……そういうの、ありますか? 沙耶さんにも」
心臓が、一拍遅れて脈打った。
「どうかしらね」
そう返しながら、視線を落とす。 彼の瞳を見てしまえば、何かが動いてしまう気がした。
沈黙。
外の光と、グラスの水滴だけがゆっくりと動いている。
「……もう少し、ここにいてもいいですか」
悠人の言葉に、沙耶は小さく頷いた。
――何も起きていないのに、心だけが触れ合ってしまっている。
そんな午後だった。
◇◇◇
帰り道、夕立の名残りがアスファルトに残っていた。 街灯の明かりが濡れた路面を照らし、ぼんやりと金色に光る。
バッグの中には、彼が薦めていた本。買うつもりはなかったのに、気づけばレジに並んでいた。
――言わなきゃよかった。
そんなことを思いながらも、どこか嬉しかった。
彼の笑顔。テーブル越しに見た指先。氷を弾くあの仕草。
ひとつひとつが、頭の中で反芻されるたびに、胸の奥で何かが疼く。部屋に戻り、明かりを落とした。
カーテンの隙間から入る街の灯が、白い壁に揺れている。シャワーを浴びても、心の熱は引かない。
タオルを手にしたまま、鏡の中の自分と目が合った。 頬が赤い。唇が、少しだけ濡れている。
――あの子は、今ごろ何をしてるんだろう。
そんなことを考えた瞬間、思考が止まった。胸の奥から、静かな波が広がる。
触れられたわけでもないのに、肌が反応する。本を開いても、文字は目に入ってこなかった。
ページを閉じ、ゆっくりとベッドに身を沈める。
薄いシーツの感触が、肌にまとわりつく。手のひらが、自分の体温を確かめるように動いた。
――これは、彼のせいじゃない。
そう思いながら、指先が震える。まぶたの裏に、悠人の笑顔が浮かんだ。
外では、遠くで雷の音。
その余韻の中で、静かに息を漏らす。
夜が、長くなりそうだった。