※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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真昼の再会

 夏の午後、図書館の入口をくぐると、空調の涼しさが肌にまとわりついた。

 
 指先に微かに残る、昨日の夜の感触を振り払うように、沙耶は髪を耳にかけた。

 

 ――今日は、本を返しに来ただけ。

 

 そう自分に言い聞かせながら、カウンターで返却処理を済ませる。

 
 それでも、視線は自然とあの場所を探していた。新刊コーナーの、左側の棚。いつも彼が立っていたあたり。

 

 いない。

 
 少しだけ、肩の力が抜ける。

 
 安堵なのか、落胆なのか、自分でもわからなかった。

 通路を歩いていると、誰かの気配が近づいてきた。
 軽く擦れる靴音と、柔らかな声。

 

「……あれ? 沙耶さん?」

 

 振り返ると、悠人が立っていた。白いシャツの袖をまくって、片手に文庫本を持っている。
 その姿が、昨日夢の中で見た彼と重なって、一瞬、時間が止まった。

 

「久しぶりですね」

 

 彼はいつものように笑っていた。
 ほんの少し日焼けした頬に、夏の光が滲んでいる。

 

「ええ、偶然ね」

 
 声が少しだけ上ずった。沙耶は慌てて視線を逸らす。

 

 ――偶然。そう、ただの偶然。けれど、心の奥では、何かが鳴っていた。

 
 夜の熱が、まだ完全には冷めていない。

 

「今日は、どんな本を探してるんですか?」

 

 悠人がそう言いながら、棚の背表紙を指でなぞった。
 その仕草が妙に落ち着いて見えて、沙耶は返事をするのに少し間を取る。

 

「……特に、決めてないの。なんとなく、ね」

 

「なんとなくで選ぶの、いいですよね。僕、沙耶さんが前に薦めてくれた作家、けっこう気に入ってます」

 

「そうなの?」

 
 思わず、口元が緩んだ。嬉しい――それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。悠人は一冊を取り出して、背表紙を見せる。

 
「これも、その人の新作で。買おうか迷ってて」

 

「じゃあ、買いなさいよ。読む価値あるわ」

 

「沙耶さんも、読みました?」

 

「ええ、もちろん」

 

 そのやり取りのあいだ、ふたりの距離はわずかに近づいていた。


 触れるわけでもないのに、腕の内側が、相手の体温を思い出す。

 
 昼の図書館。静けさの中に、鼓動だけが妙に鮮やかに響いていた。

 

「……このあと、時間あります?」

 

 不意に、悠人がそう言った。
 声は穏やかだったけれど、そこに含まれた何かが、空気を変えた。沙耶は目を瞬く。

 
「え、どうして?」

 

「この近くに、ちょっと気になるカフェがあって。アイスティーが美味しいらしいんです。……どうかなって」

 

 ほんの一瞬、断ろうとした。でも、唇が動く前に、心が勝手に答えていた。

 

「……いいわ、行きましょうか」

 

 彼が笑う。

 
 その笑顔に、夏の光が透けて見えた。

 

 ◇◇◇

 

 カフェの扉を開けると、冷たい空気とコーヒーの香りが混ざって流れ込んだ。

 
 ガラス越しに射す光が、木のテーブルを柔らかく照らしている。

 

「ここ、落ち着きますね」

 
 悠人がそう言って席を選ぶ。窓際、外には通りを歩く人々の姿。
 静かな音楽が流れて、まるで時間が少し緩やかに溶けていくようだった。

 

「ほんとね……」

 
 沙耶はストローでアイスティーをかき混ぜながら、グラスの内側を伝う雫を見つめた。


 氷の音が、沈黙の間を繋いでいく。

 

「この前、読んでた本」

 
 悠人が切り出す。

 
「登場人物が、恋人に何も言えずに別れるシーン、印象に残ってて。何かを言えないままって、苦しいですよね」

 

 沙耶は少し笑う。

 
「そうね。……でも、言わない方がいいこともあるわ」

 

「たとえば?」

 

「言ったら、壊れちゃうようなこと」

 

 その瞬間、ふたりの視線が重なった。外の陽射しが強くなって、ガラスの向こうに白い光がにじむ。

 

 悠人は何か言いかけて、グラスの中の氷をひとつ指で弾いた。その小さな音が、やけに耳に残る。

 

「……そういうの、ありますか? 沙耶さんにも」

 

 心臓が、一拍遅れて脈打った。

 
「どうかしらね」

 
 そう返しながら、視線を落とす。
 彼の瞳を見てしまえば、何かが動いてしまう気がした。

 

 沈黙。

 
 外の光と、グラスの水滴だけがゆっくりと動いている。

 

「……もう少し、ここにいてもいいですか」

 
 悠人の言葉に、沙耶は小さく頷いた。

 

 ――何も起きていないのに、心だけが触れ合ってしまっている。

 

 そんな午後だった。

 

 ◇◇◇

 

 帰り道、夕立の名残りがアスファルトに残っていた。
 街灯の明かりが濡れた路面を照らし、ぼんやりと金色に光る。

 

 バッグの中には、彼が薦めていた本。買うつもりはなかったのに、気づけばレジに並んでいた。

 

 ――言わなきゃよかった。

 
 そんなことを思いながらも、どこか嬉しかった。

 

 彼の笑顔。テーブル越しに見た指先。氷を弾くあの仕草。

 
 ひとつひとつが、頭の中で反芻されるたびに、胸の奥で何かが疼く。部屋に戻り、明かりを落とした。

 
 カーテンの隙間から入る街の灯が、白い壁に揺れている。シャワーを浴びても、心の熱は引かない。

 
 タオルを手にしたまま、鏡の中の自分と目が合った。
 頬が赤い。唇が、少しだけ濡れている。

 

 ――あの子は、今ごろ何をしてるんだろう。

 

 そんなことを考えた瞬間、思考が止まった。胸の奥から、静かな波が広がる。

 
 触れられたわけでもないのに、肌が反応する。本を開いても、文字は目に入ってこなかった。

 
 ページを閉じ、ゆっくりとベッドに身を沈める。

 

 薄いシーツの感触が、肌にまとわりつく。手のひらが、自分の体温を確かめるように動いた。

 

 ――これは、彼のせいじゃない。

 

 そう思いながら、指先が震える。まぶたの裏に、悠人の笑顔が浮かんだ。

 

 外では、遠くで雷の音。

 
 その余韻の中で、静かに息を漏らす。

 

 夜が、長くなりそうだった。

 

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