朝の光がカーテンの隙間から差し込む。 昨夜のことを思い出すと、胸の奥がじんわり熱くなる。
あの夜、誰かに名前を呼ばれたような、けれど届かない声に包まれた感覚――
夢の中のことなのか、現実なのか、曖昧で心が揺れる。悠人の連絡先を私は知らない。会う約束も特になければ、連絡を取る術もない。
それでも、胸の奥では、自然と彼を探してしまう自分がいた。
朝の支度をしながら、ふと指先を眺める。昨夜、知らずに触れてしまった自分の手に、まだ熱が残っている気がした。
通勤途中、電車の窓に映る自分の顔を見る。
思わず息を止める。
どこか寂しそうな表情が映っていて、思わず微笑む。 それでも心の奥には、どうしようもない期待と疼きがある。
――今日も、会えるかな。
――いや、会えなくても、いい。
そんな矛盾した思いが、胸をざわつかせる。
仕事場に着くと、普段通りに振る舞う。 でも心の奥で、無意識に悠人のことを思い浮かべてしまう。
彼の存在が、静かに、しかし確実に日常を侵食しているのを感じながら。
◇◇◇
休日の午後、沙耶はなんとなく図書館へ足を向けていた。 理由は特にない。けれど、心のどこかで、また彼に会えるかもしれないと思ってしまう自分がいる。
静かな書架の間を歩きながら、沙耶は本の背表紙を眺めるふりをする。その時、ふと視線の端に動きを感じた。
――誰かが、同じ空間にいる。
「……こんにちは」
声を聞いて振り向くと、悠人が立っていた。互いに少し驚いたように目を見合わせる。
でも、以前よりも視線を逸らさなくなっている。
わずかな沈黙の後、二人は自然に同じ棚の前に並ぶ。 言葉は少ない。
けれど、互いの存在を意識してしまう距離感が、胸をじんわり熱くする。悠人がふと手を伸ばして、同じ本を取ろうとした瞬間。
指先がほんの少し触れそうになる。それだけのことなのに、沙耶の心臓は跳ねた。
「……また、偶然ですね」
沙耶は軽く笑って答える。 本当に偶然なのか、それとも無意識にここへ導かれたのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
書架の間の沈黙は、会話よりもずっと重い。 互いに言葉を探す必要はなく、存在を感じるだけで十分だった。
図書館の明かりが少しずつ落ちていく。二人は同じ通路を歩きながら、話題を探すように本棚を眺める。
「この前、街で見かけた映画、観ました?」
悠人がぽつりと言う。沙耶は少し驚きながらも、思わず笑う。 「ええ、観たわ。意外と面白くて、少し考えさせられた」
短い会話だが、互いに笑顔を交わす。本や映画の話は、重くなく、二人の距離を自然に縮めるだけで十分だった。
ふとした瞬間、肩と肩の距離が少し近くなる。 言葉はなくても、互いに相手の存在を感じている。 静かで、だけど確かな熱を帯びた時間。
閉館のアナウンスが響く。
もう帰らなくてはならないけれど、外はまだ夏の夕立が降り始めている気配。
沙耶は心の中で、次の瞬間が少し楽しみになる自分に気づく。
外に出ると、夏の夕立が降り始めていた。アスファルトに跳ねる雨粒、湿った風が頬を撫でる。
「……傘、持ってないんですか?」
沙耶は自分の小さな傘を差し出す。悠人は少し驚いたように笑った。
「ありがとうございます……じゃあ、少しだけ、雨宿りさせてもらってもいいですか?」
近くの沙耶の家の軒先まで二人で駆け込み、傘の下で肩がかすかに触れる距離。
雨音だけが二人を包む静かな時間。
「……もう止みそうですね」
悠人が微かに笑い、沙耶も小さく頷く。言葉は少なくても、互いの存在を意識するだけで、胸の奥がざわつく。
「……せっかくですし、よかったら上がってください」
沙耶は少し勇気を出して、自分の家へ案内する。悠人は軽く頷き、二人は玄関を抜けて中へ入る。
玄関のドアが閉まる瞬間、雨音は遠くなり、静かな室内だけが二人を包む。
肩や腕が近くにある距離感。
言葉はなくても、心臓の音だけが確かに響いていた。