※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

6 / 13
雨の夕暮れ

 玄関のドアを閉めた瞬間、外の雨音が一段と強くなった。二人とも息を弾ませて、靴の先から水を滴らせている。

 

「……けっこう降りましたね」

 
 悠人が笑う。濡れた髪の先から、雫が頬を伝って落ちた。

 

「ここまで来るとは思いまわなかったわ」

 
 沙耶も苦笑しながら傘を畳む。シャツの袖は湿り、肌に貼りついている。胸の鼓動だけが、なぜか妙に大きく響いていた。

 

「タオル、持ってくるわね」

 
 脱衣所の棚から清潔なタオルを取り、沙耶は戻ってくる。

 

「ありがとうございます」

 
 悠人はタオルを受け取り、髪を軽く押さえる。
 けれど沙耶は、その様子を見ていられなくなり、思わず口にした。

 

「……貸して。ちゃんと拭かないと風邪をひくわ」

 

 そう言って、彼の前に立つ。指先で髪を梳きながら、水気を吸い取るようにタオルを滑らせる。

 
 近い距離。
 彼の呼吸と、濡れた髪から立つ体温の気配が、すぐそこにある。

 

「……沙耶さん」

 
 名前を呼ばれて、手が止まる。顔を上げると、悠人の瞳が近い。
 何かを言いかけた彼の唇を、沙耶は見つめたまま動けなかった。

 雨音だけが、二人の間を満たしている。
 外の世界が遠のいていくような、そんなひととき。

 

 ◇◇◇

 
 沙耶はリビングの奥へ歩き、湯を沸かす。
 キッチンの小さな音だけが、雨のざあざあという音に混じって響いた。

 

 二人分の湯飲みをテーブルに置き、
「熱いから、気をつけて」と言って向かい合う。

 

 雨はやまない。

 

 窓の外が淡くにじみ、午後の光が薄く滲んでいる。

 

「……こうしてると、時間が止まったみたいですね」

 
 悠人が何気なくそう言った。

 

「ふふ、どういう意味?」

 
 沙耶は笑って返す。けれどその声の奥に、わずかな震えがあった。

 

「なんというか……静かで、現実じゃないみたいで」

 
「……現実じゃない、か」

 
 沙耶は湯飲みを両手で包み込み、目を伏せた。湯気が頬を撫でていく。
 指先が少しだけ震えるのを、悠人は見逃さなかった。

 

 沈黙が落ちた。

 
 雨音が部屋いっぱいに広がる。

 

「……止まないわね」

 
「うん。まだ、帰れそうにない」

 

 その言葉に、沙耶の胸が一瞬だけ高鳴る。
 止まないで、と思った。
 この静けさが、もう少しだけ続けばいい。

 

 目を上げると、悠人がこちらを見ていた。
 まっすぐな瞳。視線が交わったまま、どちらも逸らさない。

 
 呼吸が、少し速くなる。

 雨の匂いと、湿った空気が肌にまとわりつく。
 その熱に似た感覚が、言葉を溶かしていく。

 

「……寒くない?」

 
 沙耶がそう口にした。
 彼女自身、部屋の空気が少し冷えたように感じていた。

 

「大丈夫です」

 
 そう答えながらも、悠人は濡れたシャツの袖を気にしていた。
 手首のあたりがまだしっとりとして、少し肌に張りついている。

 

 沙耶は立ち上がり、洗面所の方へ消える。戻ってきたとき、手には自分のカーディガンがあった。

 

「これ、よかったら」

 
 差し出す仕草は穏やかだったが、どこかためらいが混じっていた。

 

「いや、そんな――」

 
「いいの。風邪ひかれたら困るから」

 

 押し返す言葉を飲み込んで、悠人は静かに受け取った。指先がかすかに触れた。

 
 一瞬のことなのに、二人とも息を呑む。

 

 手の熱が残る。カーディガンを羽織る悠人を、沙耶はただ見ていた。

 
 視線を外せない。

 

「……なんか、変ですね」

 
「何が?」

 
「さっきまで、普通に話してたのに。今は……」

 

 悠人の声が途切れる。

 
 その沈黙が、かえって意味を持った。

 

 沙耶もまた、言葉を探せなかった。

 
 胸の鼓動がはっきりと耳に届く。ふと、窓の外で雷が鳴る。


 近い距離で、空気が一瞬だけ震えた。

 

「……怖いの?」

 
 沙耶が冗談めかして聞く。

 

「少しだけ」

 
「……ふふっ、子どもみたい」

 

 笑いながらも、沙耶はその手を伸ばしていた。

 
 悠人の髪に触れる。

 
 濡れた感触が、掌に残る。

 

 触れた瞬間、時間が止まった。

 
 その静止の中で、ふたりはようやく気づく。

 
 ――離れられなくなっていた。

 

 ◇◇◇

 

 雨脚は、いつの間にか弱まっていた。

 

 窓の外では街灯が滲み、細い水の筋がゆっくりと流れ落ちている。

 
 リビングの明かりはひとつだけ。柔らかい灯りの中、沙耶はソファの端に腰を下ろし、マグカップを両手で包んでいた。

 

「……少し、冷えたわね」

 
「はい。でも、なんか落ち着きます」

 

 悠人の声は穏やかだった。彼のシャツの裾が少し濡れていて、そこに目が行く。

 

 沈黙が続く。けれど、それは不快なものではなく、どこか甘やかな気配を帯びていた。

 
 沙耶は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

 

「……あなたって、本当に優しくて……少しだけ卑怯ね」

 
「え?」

 
「そうやってこっちから押していかないといけないのが、ずるくて卑怯だと思ったの」

 

 思わず笑って誤魔化そうとした悠人の目に、灯りの影が落ちる。言葉のかわりに、沙耶はマグカップをテーブルに置いた。

 
 そして、そっと手を伸ばす。

 

 指先が頬をかすめる。

 
 その温度が、どこか懐かしいように感じられた。
 彼の瞳が揺れ、ためらいがちに沙耶を見つめ返す。

 

「……沙耶さん」

 
 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。

 

 次の言葉はなかった。

 
 けれど、互いの距離がひとつ息分、近づく。

 
 雨の匂いと熱を帯びた空気が混ざり合い、静寂がふたりを包みこんだ。

 

 唇が触れたのは、ほんの偶然のようでいて、もう戻れない予感を含んでいた。

 
 時間が止まったような瞬間の中、沙耶は自分の心の奥で何かがほどけていくのを感じた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。