玄関のドアを閉めた瞬間、外の雨音が一段と強くなった。二人とも息を弾ませて、靴の先から水を滴らせている。
「……けっこう降りましたね」
悠人が笑う。濡れた髪の先から、雫が頬を伝って落ちた。
「ここまで来るとは思いまわなかったわ」
沙耶も苦笑しながら傘を畳む。シャツの袖は湿り、肌に貼りついている。胸の鼓動だけが、なぜか妙に大きく響いていた。
「タオル、持ってくるわね」
脱衣所の棚から清潔なタオルを取り、沙耶は戻ってくる。
「ありがとうございます」
悠人はタオルを受け取り、髪を軽く押さえる。 けれど沙耶は、その様子を見ていられなくなり、思わず口にした。
「……貸して。ちゃんと拭かないと風邪をひくわ」
そう言って、彼の前に立つ。指先で髪を梳きながら、水気を吸い取るようにタオルを滑らせる。
近い距離。 彼の呼吸と、濡れた髪から立つ体温の気配が、すぐそこにある。
「……沙耶さん」
名前を呼ばれて、手が止まる。顔を上げると、悠人の瞳が近い。 何かを言いかけた彼の唇を、沙耶は見つめたまま動けなかった。
雨音だけが、二人の間を満たしている。 外の世界が遠のいていくような、そんなひととき。
◇◇◇
沙耶はリビングの奥へ歩き、湯を沸かす。 キッチンの小さな音だけが、雨のざあざあという音に混じって響いた。
二人分の湯飲みをテーブルに置き、 「熱いから、気をつけて」と言って向かい合う。
雨はやまない。
窓の外が淡くにじみ、午後の光が薄く滲んでいる。
「……こうしてると、時間が止まったみたいですね」
悠人が何気なくそう言った。
「ふふ、どういう意味?」
沙耶は笑って返す。けれどその声の奥に、わずかな震えがあった。
「なんというか……静かで、現実じゃないみたいで」
「……現実じゃない、か」
沙耶は湯飲みを両手で包み込み、目を伏せた。湯気が頬を撫でていく。 指先が少しだけ震えるのを、悠人は見逃さなかった。
沈黙が落ちた。
雨音が部屋いっぱいに広がる。
「……止まないわね」
「うん。まだ、帰れそうにない」
その言葉に、沙耶の胸が一瞬だけ高鳴る。 止まないで、と思った。 この静けさが、もう少しだけ続けばいい。
目を上げると、悠人がこちらを見ていた。 まっすぐな瞳。視線が交わったまま、どちらも逸らさない。
呼吸が、少し速くなる。
雨の匂いと、湿った空気が肌にまとわりつく。 その熱に似た感覚が、言葉を溶かしていく。
「……寒くない?」
沙耶がそう口にした。 彼女自身、部屋の空気が少し冷えたように感じていた。
「大丈夫です」
そう答えながらも、悠人は濡れたシャツの袖を気にしていた。 手首のあたりがまだしっとりとして、少し肌に張りついている。
沙耶は立ち上がり、洗面所の方へ消える。戻ってきたとき、手には自分のカーディガンがあった。
「これ、よかったら」
差し出す仕草は穏やかだったが、どこかためらいが混じっていた。
「いや、そんな――」
「いいの。風邪ひかれたら困るから」
押し返す言葉を飲み込んで、悠人は静かに受け取った。指先がかすかに触れた。
一瞬のことなのに、二人とも息を呑む。
手の熱が残る。カーディガンを羽織る悠人を、沙耶はただ見ていた。
視線を外せない。
「……なんか、変ですね」
「何が?」
「さっきまで、普通に話してたのに。今は……」
悠人の声が途切れる。
その沈黙が、かえって意味を持った。
沙耶もまた、言葉を探せなかった。
胸の鼓動がはっきりと耳に届く。ふと、窓の外で雷が鳴る。
近い距離で、空気が一瞬だけ震えた。
「……怖いの?」
沙耶が冗談めかして聞く。
「少しだけ」
「……ふふっ、子どもみたい」
笑いながらも、沙耶はその手を伸ばしていた。
悠人の髪に触れる。
濡れた感触が、掌に残る。
触れた瞬間、時間が止まった。
その静止の中で、ふたりはようやく気づく。
――離れられなくなっていた。
◇◇◇
雨脚は、いつの間にか弱まっていた。
窓の外では街灯が滲み、細い水の筋がゆっくりと流れ落ちている。
リビングの明かりはひとつだけ。柔らかい灯りの中、沙耶はソファの端に腰を下ろし、マグカップを両手で包んでいた。
「……少し、冷えたわね」
「はい。でも、なんか落ち着きます」
悠人の声は穏やかだった。彼のシャツの裾が少し濡れていて、そこに目が行く。
沈黙が続く。けれど、それは不快なものではなく、どこか甘やかな気配を帯びていた。
沙耶は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……あなたって、本当に優しくて……少しだけ卑怯ね」
「え?」
「そうやってこっちから押していかないといけないのが、ずるくて卑怯だと思ったの」
思わず笑って誤魔化そうとした悠人の目に、灯りの影が落ちる。言葉のかわりに、沙耶はマグカップをテーブルに置いた。
そして、そっと手を伸ばす。
指先が頬をかすめる。
その温度が、どこか懐かしいように感じられた。 彼の瞳が揺れ、ためらいがちに沙耶を見つめ返す。
「……沙耶さん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
次の言葉はなかった。
けれど、互いの距離がひとつ息分、近づく。
雨の匂いと熱を帯びた空気が混ざり合い、静寂がふたりを包みこんだ。
唇が触れたのは、ほんの偶然のようでいて、もう戻れない予感を含んでいた。
時間が止まったような瞬間の中、沙耶は自分の心の奥で何かがほどけていくのを感じた。