夜が明けて、部屋の空気はやけに軽かった。
けれどその軽さは、胸の奥にだけ沈殿している何かを浮かび上がらせてしまう。まるで、布団の中に残った体温の跡みたいに。
キッチンで湯を沸かす音がして、私は壁にもたれながら髪を指で梳いた。
鏡があるわけじゃないのに、意味もなく整えたくなる。
昨日の……いや、あの“夜”のことがどうしても頭から離れないから。
(……あんなふうになるなんて)
思い返すたび、胸の奥がゆっくり波打つ。
求められること自体は、嫌じゃなかった。むしろ、あの瞬間の悠人の手の熱さは、今も皮膚のどこかに残っている。
ただ――あんな勢いで、段階ごと飛び越えてするとは思ってもいなかった。湯気と一緒に、ため息がひとつ流れ落ちる。
「……沙耶さん、お湯……入れてもいいですか?」
リビングの入口から、気まずそうに悠人が顔をのぞかせた。私と目が合った瞬間、彼はほんの一瞬だけ肩をすくめ、視線を逃した。
ああ、反省してるんだ。
そう気づいた途端、胸の奥がまた別の意味でひりつく。
「うん。ありがとう」
そう返す声が、思っていた以上に落ち着いていて、私自身が少し驚く。
本当はもっとドキドキしているのに。
昨夜の情景を思い出すだけで、足の指先がじん、と熱を持つのに。
カップを持つ悠人の手が、僅かに震えていた。怒っていると思われているのだろうか。嫌ったと思われているのだろうか。
(違うのに……)
心の中で呟くだけで、声にはできなかった。関係は身体の方が先に繋がった。
でも、心はまだうまく形を作れないまま、宙に浮いている。
彼は湯を注ぎ終えると、どこか居場所を探すみたいに立ち尽くした。
「……昨日は、その……すみませんでした」
ああ、言わせてしまった。
胸の奥で何かがしゅっとほどけた。でも、同時にくすぐったい痛みみたいなものも広がる。
「謝らなくていいわよ」
そう言いながら、私はカップを受け取り、少しだけ彼に近づく。
その距離感すら、まだ手探りだ。 彼の肩がびくりと小さく揺れた。
「嫌だったわけじゃないから」
目を合わせると、悠人はほんの一瞬だけ、泣き出しそうな顔をした。
言葉が胸に詰まったまま、口を開けたり閉じたりしている。
……多分、互いに同じくらい戸惑っている。求めすぎた側と、求められすぎた側。
その境界が曖昧なまま、二人で朝を迎えてしまった。けれど今はその曖昧さを、急に形にしなくてもいい。そう思えた。
「まずは……落ち着こ?」
そう言うと、悠人は小さく頷いて、ソファの端に腰を下ろした。
私はその反対側に座る。距離はあるのに、昨夜よりずっと近い気がした。
◇◇◇
お互い黙ったまま、ソファに腰を下ろして数分。
テレビもつけていないから、外の車の走行音だけが遠くに流れている。その音が部屋の静けさをかえって強調していた。
「……あの、沙耶さん」
沈黙に耐えられなくなったのか、悠人が小さな声で呼びかける。その声は、昨夜とは違う意味で震えていた。
「うん?」
「昨日……痛くなかったですか?」
問いかけに、一瞬だけ言葉が止まった。
彼がそこを気にしていたことに、胸の奥がじんと熱を帯びる。
「……すこしだけ苦しかったけど別にいいわ。そのあとはちゃんと気をつかってくれてたし」
そう答えると、悠人は明らかにほっとした顔をした。でも次の瞬間、眉尻が落ち、また沈んだ表情になる。
「でも……配慮とか、全部すっ飛ばしてしまったのは……その……」
彼は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
言葉を探している。でも探せば探すほど、余計に混乱しているように見えた。
罪悪感。自己嫌悪。そして、まだ言葉にならない私への感情が混じっている。
(……自分ばっかり責めてる)
その姿が苦しくて、私はつい口を開いた。
「ねえ、悠人」
「はい……」
「私が嫌がってないって分かったでしょ?」
悠人は顔を上げた。 その目に浮かんだ安堵と困惑のバランスが、彼らしい。
「……はい。わかった、というか……その……」
「伝わったわよ?」
そう言うと、彼は今度は少し頬を赤くした。
でも次の瞬間、彼の視線が揺らぎ、また落ちていく。
「でも……本当は、もっと段階というか順番があったんじゃないかって……」
その言葉に、胸が僅かに痛んだ。
(わかってるんだ、ちゃんと)
昨夜あの瞬間、理性が飛んだのは分かる。私だって驚いた。
でも、あの時の彼の熱さを嘘だと思ったことは一度もない。
「順番なんて……全部決まってるわけじゃないわよ」
そう言うと、悠人は一瞬だけ私を見る。目が、迷子のまま揺れていた。
「でも……沙耶さんが、引いてたら……俺……」
「引いてないって言ったわよね?」
少し強めの口調になってしまって、彼がびくりと肩を揺らす。私はすぐに息を整え、言い直した。
「……驚いたのは本当だけど、嫌じゃなかったのも本当」
「……」
「だから、そんなに自分を責めないで」
その言葉に悠人は口を開いたが、すぐ閉じてしまう。まるで、言いたいことが喉元まで来ているのに、どうしても外に出せないみたいに。
彼の中で、昨夜の熱と今日の罪悪感が絡み合って、ほどけなくなっているのがわかった。
私は少しだけ身を乗り出し、彼の手に触れようとして――寸前で止まった。
(まだ……触れたら駄目かもしれない)
距離を戻すと、悠人も私を見つめ返していた。お互い、動くのが怖いみたいに。
ぎこちないまま、でもそのぎこちなさの中に、昨夜の余熱がまだ残っていた。
湯の入ったカップが、テーブルの上でほんの少し湯気を立てている。静かなのに、妙に息苦しく感じる沈黙だった。
カップを手に取ると、指先が少し震えているのがわかる。昨夜のせいだけではなく、今の空気が落ち着かない。
「……あの、沙耶さん」
意を決したように悠人が口を開く。けれど、言葉はまた途中で止まった。
「どうしたの?」
優しく促しても、彼は目を伏せたまましばらく考え込んでいる。
「……こうやって向かい合うと、昨日の自分が情けなくて」
その言葉に、胸の奥がじくりと痛んだ。
(情けなくなんてないのに)
むしろ、あれほど真っ直ぐに求められたのは、久しぶりだった。
「無理に言わなくてもいいわよ」
「……言いたいんです」
顔を上げた彼の目は、迷っているのに真剣だった。 その視線に胸が僅かにざわつく。
「昨日、あんなふうに……止まれなくなって。でも今日になって、沙耶さんの顔を見たら……その……」
また言葉が詰まる。その仕草が、昨日とは違う意味で胸を締めつけた。
「怖くなったんです。嫌われたんじゃないかって」
それは、まったく予想していなかった言葉だった。
(……私の方が驚いていたのに)
でも、喉元で言葉が止まった。
「嫌ってないわよ」
口から漏れた声は、思っていたよりずっと弱くて、情けないほど揺れていた。
悠人の目が僅かに開かれる。その視線が熱くて、また胸がざわつく。
「じゃあ……昨日のこと、後悔してないんですか?」
後悔――。
その単語に、思わず息を呑んだ。
(後悔なんて、してない)
むしろ、あの夜に触れた彼の手の温度も、息が耳元をくすぐった瞬間の熱も、全部、今も身体のどこかに残っている。
言えないけれど。
言ってしまったら、また距離が崩れる気がした。
「……後悔してたら、こうして話してないわよ」
そう答えると、悠人は息を詰めたように黙り込んだ。目だけがゆっくりと、私の手元へ、視線を落とす。
そして――ほんの一瞬だけ、彼の指先が私の手に触れそうになって、止まった。
その、触れもしない距離が、やけに熱い。
(触れてもいいのに……)
そう思った瞬間、自分の胸の奥がじん、と疼いた。
欲しいわけじゃない。
でも、触れられたら、また昨夜の熱を思い出してしまいそうで。
「沙耶さん……」
名前を呼ぶ声が、ひどく慎重で、ひどく切実だった。
けれどその先の言葉は出てこない。
私もまた、何も言えなかった。互いに距離を測るばかりで、どちらも踏み込まない。
――まるで身体の関係だけが先にどろりと溶けて、 心だけがまだ固いまま取り残されているみたいに。
カップの中の湯は、もうすっかり冷めていた。けれど、飲む気にはなれなかった。
口をつけたら、この重い静けさまで飲み込んでしまいそうで。
悠人は俯いたまま、何かを言おうとしてはやめて、そのたびに指先をぎゅっと握っていた。
(こんなに気をつかわせるつもりじゃなかったのに)
胸の奥でそう呟いた時、ふと彼が立ち上がった。
「あの……今日は、一度帰ります。沙耶さんを困らせてばかりだから……」
帰る、という言葉が妙に胸に刺さった。困らせているつもりはなかった。
ただ、戸惑っていただけだ。
「困ってないわよ」
反射的に口にすると、彼は目を丸くした。ほんの一瞬だけ、涙ぐんだようにも見える。
「……でも、俺……」
「ねえ、悠人」
立ち上がって、彼のすぐ前まで歩み寄る。それだけで、空気がじわりと熱を帯びるのがわかった。
昨夜の余韻が、まだ肌のどこかに残っているから。
けれど私は、その熱に触れないように気をつけながら言った。
「距離を置きたいわけじゃないのよ」
「……」
「ただ、ちょっと……気持ちの整理が追いついてないだけ」
そう言うと、悠人の肩がほんの少し落ちた。安堵なのか、力が抜けたのかは分からない。
「俺、沙耶さんのこと……本気で――」
言いかけた言葉を、彼自身が途中で飲み込む。 その飲み込む仕草が、なぜか胸に刺さった。
(言わせたくない……のに、聞きたい)
矛盾した感情が、胸の奥で絡まってほどけない。視線をそらそうとした瞬間、悠人の手が、そっと私の手首に触れた。
触れたのは、本当に一瞬。
すぐに彼は「あ、すみません」と引っ込めた。
でも、その掠めるような温度だけで、昨日の記憶がふっと蘇ってしまう。
心だけがまだ追いついていないのに、身体はもう覚えてしまっている。
「……帰りますね」
悠人は小さく息を吐き、玄関の方へ向かった。その背中に、呼び止めたい言葉が喉まで来て、結局、出てこなかった。
扉が閉まる音がして、部屋が静まり返る。ソファに座り直すと、ようやく息がふっと抜けた。
(こんなの……どうやって整理すればいいのよ……)
昨夜の熱と、今日のぎこちなさが、私の胸の中でまだくすぶったままだった。
“終わった”わけじゃない。
だけど“始まった”とも言い切れない。
どろりと溶けた部分と、固いままの部分が、ゆっくり混ざり合い始めている気がした。