※この作品はR-18です。

夏の午後、微睡の記憶   作:Marks_Lee

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かけ違い

 夜が明けて、部屋の空気はやけに軽かった。
 

 けれどその軽さは、胸の奥にだけ沈殿している何かを浮かび上がらせてしまう。まるで、布団の中に残った体温の跡みたいに。

 

 キッチンで湯を沸かす音がして、私は壁にもたれながら髪を指で梳いた。

 
 鏡があるわけじゃないのに、意味もなく整えたくなる。

 
 昨日の……いや、あの“夜”のことがどうしても頭から離れないから。

 

(……あんなふうになるなんて)

 

 思い返すたび、胸の奥がゆっくり波打つ。

 
 求められること自体は、嫌じゃなかった。むしろ、あの瞬間の悠人の手の熱さは、今も皮膚のどこかに残っている。

 
 ただ――あんな勢いで、段階ごと飛び越えてするとは思ってもいなかった。湯気と一緒に、ため息がひとつ流れ落ちる。

 

「……沙耶さん、お湯……入れてもいいですか?」

 

 リビングの入口から、気まずそうに悠人が顔をのぞかせた。私と目が合った瞬間、彼はほんの一瞬だけ肩をすくめ、視線を逃した。

 

 ああ、反省してるんだ。

 

 そう気づいた途端、胸の奥がまた別の意味でひりつく。

 

「うん。ありがとう」

 

 そう返す声が、思っていた以上に落ち着いていて、私自身が少し驚く。

 
 本当はもっとドキドキしているのに。

 
 昨夜の情景を思い出すだけで、足の指先がじん、と熱を持つのに。

 

 カップを持つ悠人の手が、僅かに震えていた。怒っていると思われているのだろうか。嫌ったと思われているのだろうか。

 

(違うのに……)

 

 心の中で呟くだけで、声にはできなかった。関係は身体の方が先に繋がった。

 
 でも、心はまだうまく形を作れないまま、宙に浮いている。

 

 彼は湯を注ぎ終えると、どこか居場所を探すみたいに立ち尽くした。

 

「……昨日は、その……すみませんでした」

 

 ああ、言わせてしまった。

 

 胸の奥で何かがしゅっとほどけた。でも、同時にくすぐったい痛みみたいなものも広がる。

 

「謝らなくていいわよ」

 

 そう言いながら、私はカップを受け取り、少しだけ彼に近づく。

 
 その距離感すら、まだ手探りだ。
 彼の肩がびくりと小さく揺れた。

 

「嫌だったわけじゃないから」

 

 目を合わせると、悠人はほんの一瞬だけ、泣き出しそうな顔をした。

 
 言葉が胸に詰まったまま、口を開けたり閉じたりしている。

 

 ……多分、互いに同じくらい戸惑っている。求めすぎた側と、求められすぎた側。

 
 その境界が曖昧なまま、二人で朝を迎えてしまった。けれど今はその曖昧さを、急に形にしなくてもいい。そう思えた。

 

「まずは……落ち着こ?」

 

 そう言うと、悠人は小さく頷いて、ソファの端に腰を下ろした。

 
 私はその反対側に座る。距離はあるのに、昨夜よりずっと近い気がした。

 

 ◇◇◇

 

 お互い黙ったまま、ソファに腰を下ろして数分。
 

 テレビもつけていないから、外の車の走行音だけが遠くに流れている。その音が部屋の静けさをかえって強調していた。

 

「……あの、沙耶さん」

 

 沈黙に耐えられなくなったのか、悠人が小さな声で呼びかける。その声は、昨夜とは違う意味で震えていた。

 

「うん?」

 

「昨日……痛くなかったですか?」

 

 問いかけに、一瞬だけ言葉が止まった。

 
 彼がそこを気にしていたことに、胸の奥がじんと熱を帯びる。

「……すこしだけ苦しかったけど別にいいわ。そのあとはちゃんと気をつかってくれてたし」

 

 そう答えると、悠人は明らかにほっとした顔をした。でも次の瞬間、眉尻が落ち、また沈んだ表情になる。

 

「でも……配慮とか、全部すっ飛ばしてしまったのは……その……」

 

 彼は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

 
 言葉を探している。でも探せば探すほど、余計に混乱しているように見えた。

 

 罪悪感。自己嫌悪。そして、まだ言葉にならない私への感情が混じっている。

 

(……自分ばっかり責めてる)

 

 その姿が苦しくて、私はつい口を開いた。

 

「ねえ、悠人」

 
「はい……」

 

「私が嫌がってないって分かったでしょ?」

 

 悠人は顔を上げた。
 その目に浮かんだ安堵と困惑のバランスが、彼らしい。

 

「……はい。わかった、というか……その……」

 

「伝わったわよ?」

 
 そう言うと、彼は今度は少し頬を赤くした。

 でも次の瞬間、彼の視線が揺らぎ、また落ちていく。

 

「でも……本当は、もっと段階というか順番があったんじゃないかって……」

 

 その言葉に、胸が僅かに痛んだ。

 

(わかってるんだ、ちゃんと)

 

 昨夜あの瞬間、理性が飛んだのは分かる。私だって驚いた。
 

 でも、あの時の彼の熱さを嘘だと思ったことは一度もない。

 

「順番なんて……全部決まってるわけじゃないわよ」

 

 そう言うと、悠人は一瞬だけ私を見る。目が、迷子のまま揺れていた。

 

「でも……沙耶さんが、引いてたら……俺……」

 

「引いてないって言ったわよね?」

 

 少し強めの口調になってしまって、彼がびくりと肩を揺らす。私はすぐに息を整え、言い直した。

 

「……驚いたのは本当だけど、嫌じゃなかったのも本当」

 
「……」

 

「だから、そんなに自分を責めないで」

 

 その言葉に悠人は口を開いたが、すぐ閉じてしまう。まるで、言いたいことが喉元まで来ているのに、どうしても外に出せないみたいに。

 

 彼の中で、昨夜の熱と今日の罪悪感が絡み合って、ほどけなくなっているのがわかった。

 

 私は少しだけ身を乗り出し、彼の手に触れようとして――寸前で止まった。

 

(まだ……触れたら駄目かもしれない)

 

 距離を戻すと、悠人も私を見つめ返していた。お互い、動くのが怖いみたいに。

 

 ぎこちないまま、でもそのぎこちなさの中に、昨夜の余熱がまだ残っていた。

 

 湯の入ったカップが、テーブルの上でほんの少し湯気を立てている。静かなのに、妙に息苦しく感じる沈黙だった。

 

 カップを手に取ると、指先が少し震えているのがわかる。昨夜のせいだけではなく、今の空気が落ち着かない。

 

「……あの、沙耶さん」

 

 意を決したように悠人が口を開く。けれど、言葉はまた途中で止まった。

 

「どうしたの?」

 
 優しく促しても、彼は目を伏せたまましばらく考え込んでいる。

 

「……こうやって向かい合うと、昨日の自分が情けなくて」

 

 その言葉に、胸の奥がじくりと痛んだ。

 

(情けなくなんてないのに)

 

 むしろ、あれほど真っ直ぐに求められたのは、久しぶりだった。

「無理に言わなくてもいいわよ」

 
「……言いたいんです」

 

 顔を上げた彼の目は、迷っているのに真剣だった。
 その視線に胸が僅かにざわつく。

 

「昨日、あんなふうに……止まれなくなって。でも今日になって、沙耶さんの顔を見たら……その……」

 

 また言葉が詰まる。その仕草が、昨日とは違う意味で胸を締めつけた。

 

「怖くなったんです。嫌われたんじゃないかって」

 

 それは、まったく予想していなかった言葉だった。

 

(……私の方が驚いていたのに)

 
 でも、喉元で言葉が止まった。

 

「嫌ってないわよ」

 

 口から漏れた声は、思っていたよりずっと弱くて、情けないほど揺れていた。

 

 悠人の目が僅かに開かれる。その視線が熱くて、また胸がざわつく。

 

「じゃあ……昨日のこと、後悔してないんですか?」

 

 後悔――。

 
 その単語に、思わず息を呑んだ。

 

(後悔なんて、してない)

 

 むしろ、あの夜に触れた彼の手の温度も、息が耳元をくすぐった瞬間の熱も、全部、今も身体のどこかに残っている。

 

 言えないけれど。

 
 言ってしまったら、また距離が崩れる気がした。

 

「……後悔してたら、こうして話してないわよ」

 

 そう答えると、悠人は息を詰めたように黙り込んだ。目だけがゆっくりと、私の手元へ、視線を落とす。

 

 そして――ほんの一瞬だけ、彼の指先が私の手に触れそうになって、止まった。

 

 その、触れもしない距離が、やけに熱い。

 

(触れてもいいのに……)

 

 そう思った瞬間、自分の胸の奥がじん、と疼いた。

 
 欲しいわけじゃない。

 
 でも、触れられたら、また昨夜の熱を思い出してしまいそうで。

 

「沙耶さん……」

 

 名前を呼ぶ声が、ひどく慎重で、ひどく切実だった。

 
 けれどその先の言葉は出てこない。

 

 私もまた、何も言えなかった。互いに距離を測るばかりで、どちらも踏み込まない。

 

 ――まるで身体の関係だけが先にどろりと溶けて、
 心だけがまだ固いまま取り残されているみたいに。

 

 カップの中の湯は、もうすっかり冷めていた。けれど、飲む気にはなれなかった。

 
 口をつけたら、この重い静けさまで飲み込んでしまいそうで。

 

 悠人は俯いたまま、何かを言おうとしてはやめて、そのたびに指先をぎゅっと握っていた。

 

(こんなに気をつかわせるつもりじゃなかったのに)

 

 胸の奥でそう呟いた時、ふと彼が立ち上がった。

 

「あの……今日は、一度帰ります。沙耶さんを困らせてばかりだから……」

 

 帰る、という言葉が妙に胸に刺さった。困らせているつもりはなかった。

 
 ただ、戸惑っていただけだ。

 

「困ってないわよ」

 

 反射的に口にすると、彼は目を丸くした。ほんの一瞬だけ、涙ぐんだようにも見える。

 

「……でも、俺……」

 

「ねえ、悠人」

 

 立ち上がって、彼のすぐ前まで歩み寄る。それだけで、空気がじわりと熱を帯びるのがわかった。

 
 昨夜の余韻が、まだ肌のどこかに残っているから。

 けれど私は、その熱に触れないように気をつけながら言った。

 

「距離を置きたいわけじゃないのよ」

 
「……」

 

「ただ、ちょっと……気持ちの整理が追いついてないだけ」

 

 そう言うと、悠人の肩がほんの少し落ちた。安堵なのか、力が抜けたのかは分からない。

 

「俺、沙耶さんのこと……本気で――」

 

 言いかけた言葉を、彼自身が途中で飲み込む。
 その飲み込む仕草が、なぜか胸に刺さった。

 

(言わせたくない……のに、聞きたい)

 

 矛盾した感情が、胸の奥で絡まってほどけない。視線をそらそうとした瞬間、悠人の手が、そっと私の手首に触れた。

 

 触れたのは、本当に一瞬。

 
 すぐに彼は「あ、すみません」と引っ込めた。

 

 でも、その掠めるような温度だけで、昨日の記憶がふっと蘇ってしまう。

 

 心だけがまだ追いついていないのに、身体はもう覚えてしまっている。

 

「……帰りますね」

 

 悠人は小さく息を吐き、玄関の方へ向かった。その背中に、呼び止めたい言葉が喉まで来て、結局、出てこなかった。

 

 扉が閉まる音がして、部屋が静まり返る。ソファに座り直すと、ようやく息がふっと抜けた。

 

(こんなの……どうやって整理すればいいのよ……)

 

 昨夜の熱と、今日のぎこちなさが、私の胸の中でまだくすぶったままだった。

 

 “終わった”わけじゃない。

 
 だけど“始まった”とも言い切れない。

 

 どろりと溶けた部分と、固いままの部分が、ゆっくり混ざり合い始めている気がした。

 

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