高校の三年次となれば、一年後には大学受験か就職か、大きな人生の岐路が待っている。
いずれにしてもそれなりの努力が必要で、ナーバスになる時期だというのに、
こんな時に転校してくるのは、本人の不祥事か親の不祥事で転校を余儀なくされたかのどちらかであり、
どちらにしてもうかつに触れない方が良いに決まっている。
あるいは、自分たちのストレスのはけ口として利用するか――
どの運命の枝の先に辿りつくとしても、そこに実のなる可能性はなく、
感受性が豊かなこの年齢の若者には相当に苦しい一年となるはずだった。
ところが、緋勇龍麻という、聞いたことのないような苗字と、芸能人のような名前を携えて
真神學園三年C組に現れた男子学生は、イブが手にした禁断の果実のように、
人を惹きつける魅力に満ちていた。
細面ではないが自信と図太さ、一言で言えば古風な男っぽさを宿した面構えに、
百八十センチを超える筋肉質の締まった肉体。
そして、やや低い、良く通る声は、たった一言、自分の名前を名乗っただけで、
クラスの六割ほどの生徒の関心を、やや非好意的から好意的へと傾けさせた。
「緋勇龍麻です。一年間よろしく」
首をひねった生徒がいるのは、ひゆうたつま、という名を聞いて、
漢字を当てはめようとしたからかもしれない。
その光景を見慣れているかのごとく、黒板に向き直った龍麻は、
これもチョークさばきに慣れた様子で、自分の名前を黒板に記した。
そしてまっすぐな鉄の棒のように少しもぶれることなく回転し、頭を下げ、
最後に小さく笑顔を浮かべたとき、クラスの八割が彼に友好的になった。
こうして龍麻はわずか数分で自分の教室におけるポジションを確保した。
もちろんそれは自動車のレースで例えるなら、良いマシンが完成したというレベルで、
本選での順位どころか予選が満足に走れるかどうかも保証されたわけではない。
だがこの時季外れの転校生の、人を惹きつける才能が持って生まれたものだけではないと、
周囲に知らしめるのにさほどの時間は必要としなかった。
「席は美里サンの隣が空いているわね」
高校の三年次に転校してきた龍麻ほどではないが、外国人の、それも美貌の女性という
充分に珍しい個性を持つ、担任のマリア・アルカードが指し示す席に、龍麻は歩いていく。
彼の移動に合わせて集中する視線をごく自然に受けとめながら、
教室の半分ほどを縦断し、マリアが指し示した空席に腰を下ろした。
窓際のその席を、龍麻は気に入った。
良く陽が差しこむのと、多少は新鮮な空気を取りこめるからだ。
できればもう、一つか二つ後ろだと最高だったが、高望みは良くない。
満足して教室の方に向き直ると、隣の席の少女と目が合った。
「一年間よろしく、緋勇君」
彼女はずっとこちらを見ていて、話しかけるタイミングを待っていたのではないか。
そう龍麻が自省してしまうほど、少女の顔に邪心はなく、善意だけが浮かんでいた。
「えっと……美里さんだっけ」
いくらか声調を整えて龍麻が返事をすると、少女は穏やかに微笑んでうなずいた。
陽光さえ彼女の美を引き立てるべく励んでいるのではないかというくらい、彼女の顔は光り輝いている。
「ええ、美里葵って言います」
「よろしく、美里さん」
龍麻が軽く頭を下げ、先ほどの壇上で浮かべたよりも二割ほど友好的な笑顔を浮かべると、
葵もごく自然に、彼に対して好意を持つのだった。
それから休み時間のたびに、龍麻のところには男女問わず級友が集まり、彼を質問攻めにした。
前にいた学校やら誕生日やらに始まって、将来の目標や志望大学まで訊かれ、
この一日で緋勇龍麻という個人に関する情報は、ずいぶんと級友達に共有されてしまった。
三年次の転校生がよほど珍しいのか、それともすでに龍麻の印象がよほど良いのか、
授業が終わっても龍麻のところにやってくる同級生は後を絶たず、
龍麻が解放されたのは三十分以上が過ぎてからだった。
これほど喋った日は記憶になく、自嘲気味に独り笑いながら席を立つ。
帰ろうと出口を向いた途端、龍麻は、彼をじっと睨む眼光に出くわした。
身長は龍麻より二十センチ近く低く、一方で肩幅は龍麻と同じくらいだろうか。
均整の取れた身体の龍麻に対し、足が短く、おまけにがに股で肩をいからせているので、
ずいぶんと醜悪な印象を見る者に与えた。
男の名は佐久間猪三――この真神學園において、おそらく最も嫌われている学生の一人だ。
だが、彼は紛れもなく三年C組、つまり龍麻と同じクラスの生徒だった。
歩み寄ってきた佐久間は、その小さな目で龍麻を睨んだ。
目が小さくとも相手をたじろがせる何かがある、濁った眼光だった。
「女に囲まれてずいぶんご機嫌じゃねえか、転校生よぉ」
龍麻の声とは対照的に、聞くだけで嫌悪を催させる声だった。
酒、煙草、それらの類似物で喉が灼けているのかもしれない。
しかしそれよりも、圧倒的に彼の声質を決定づけていたのは、どす黒い感情だった。
世の中か、他人か、あるいは自分自身か――
何一つ認めようともしない、そして変えようともしない、暗黒に染まった魂から
発せられる声は、聞いた者を闇に引きずりこむような陰に満ちていた。
蜘蛛の子を散らすように去っていく級友達を、龍麻は引き留めなかった。
彼らの反応を見れば、この男がどのように扱われているのか判る。
そして、自分がどのように対応するべきかも。
「何か用か」
「ヘッ、粋がるじゃねぇか。……ついてこい、てめェに真神のルールってモンを教えてやる」
充分にドスの効いた低い声にも龍麻は怯えなかったので、
苛立たしげに睨めあげた佐久間は、背を向けて歩きはじめた。
佐久間に続いて龍麻が廊下に出ると、すぐに五人の男に囲まれた。
佐久間ほどではないが暗い雰囲気をまとっており、彼の子分なのは間違いないだろう。
少しでも大きく見せようというのか、肩をいからせ、短い足を醜くがに股に開いて龍麻を威嚇している。
まるで意味のない威嚇はともかく、折に触れ小突いてくるのに龍麻は辟易しかけたが、
不良達が知っている、つまり学校関係者の目の届かない場所に着くまでは辛抱した。
佐久間が連れてきたのは、龍麻が居た校舎ではなく、隣に立っている別の校舎の裏手だった。
同時期に建てられたとは思えない、ひどく老朽化している校舎に龍麻は興味をそそられたが、
不愉快な佐久間の声に遮られた。
「逃げなかった度胸だけは褒めてやるぜ」
「転校初日で早速入院たァ、お前ェもついてねェな」
「これに懲りたらおとなしくしてるんだな」
佐久間に追随してはやし立てる手下の声に、この学舎に入って初めての不愉快さを覚えた龍麻は、無言で制服を脱ぎ始めた。
「手前ェ、いい根性してるじゃねェか……ッ!」
六人を相手に許しを請おうともしない龍麻に、不良達はたちまち触発され、龍麻を囲む。
本当なら龍麻は木陰に制服を置きたかったのだが、こうなっては地面に置くしかない。
ゆっくりと、その実隙のない動作で足下に置き、正面の佐久間を睨みつけた。
「……」
もはや無言となった佐久間がじりじりと近づいてくる。
手下達も呼応して包囲の輪を縮め、いよいよ拳が届く距離となった。
「右も左もわからねェ転校生相手に六人がかりたァ、ちょっとセコくねェか、佐久間よォ」
この場にいない何者かの声に、佐久間達が狼狽する。
龍麻でさえ予想外の事態に驚き、佐久間を殴るのも忘れて声の主を探したほどだった。
「蓬莱寺――!!」
声の主を見つけた佐久間が怒号を放つ。
龍麻が佐久間よりも声の主の発見が遅れたのは、蓬莱寺と呼ばれた男がちょうど佐久間の正面、
つまり龍麻の真後ろに立つ木の上にいたからだった。
「人が良い気分で昼寝してたのによ、こうウルさくちゃそれも出来ねェ」
六人分の憎悪と一人の好奇の視線を浴びながら蓬莱寺は、
地上から二メートルほどはあった枝の上から軽やかに身を躍らせて地面へと降りたった。
右手には竹刀か木刀か、一メートルほどの、紫色をした細長い包みを持っている。
包みを右肩に乗せた蓬莱寺は、誰が見ても挑発しているとしか見えない、
そのくせ尋常でない爽やかさを持った笑顔を浮かべた。
「蓬莱寺──手前ェ、佐久間さんに盾突く気かよッ!」
「さてね……」
子分の恫喝にもまるで怯んだようすもなく、蓬莱寺はその場から動かない。
龍麻か蓬莱寺か、標的が二つに増えて惑う子分達に、地面に唾を吐いて佐久間は吼えた。
「蓬莱寺……俺は、手前ェも前から気にいらなかったんだよ。スカした面しやがって」
「そうまで言われちゃ、見過ごせねぇな……それに、実はよ」
蓬莱寺は再び笑顔を浮かべた。
凛とした眉に力強い意志が宿る、凄烈な笑顔だ。
「俺もお前らの不細工なツラが気に入らなかったんだよ」
「手前ェ……ッ!!」
「殺してやる……」
不良達が一斉にいきり立つ。
すでに龍麻など眼中にないようで、脇役に回らされた龍麻は苦笑いを浮かべた。
紫の包みを自分が上っていた木に立てかけ、蓬莱寺は指を鳴らす。
「今日はこいつは使わないでおいてやるよ。
お前らも新学期早々入院したくねぇだろうし、木刀が汚れちまうからな」
「てめェら二人とも、ぶッ殺してやるッ!!」
とどめと言わんばかりの挑発に、ついに佐久間が激発した。
蓬莱寺と不良達も一斉に動きだし、たちまち乱闘になった。
龍麻が制服を脱ぐ、数分前。
生徒会の用事で生徒会室から戻ってきた葵は、今日転入してきたばかりの転校生が、佐久間達と歩いていくのを見た。
良からぬ事態なのは明白で、助けを呼ぶ必要がある。
ここで葵は判断に迷った。
教師達に助けを求めれば、龍麻も当事者として事情を聞かれるだろう。
佐久間達の悪評は教師達も知っているだろうが、それでも、転校初日から騒ぎを起こせば
龍麻の心証も良くはならないだろう。
だからといって佐久間達を止められる人間は――
ひとりの人物を思いだした葵は、その人物が居る場所へ駆け足で向かった。
部活棟の端にある、レスリング部の部室。
訪れる者もほとんどいない部室に着いた葵は、軽く呼吸を整えると、忙しくドアを叩いた。
しかし中から返事はなく、葵はもう一度、今度はやや強めにノックする。
「誰だ。……ドアは開いているぞ」
返ってきた野太い声を、聞き終える前に葵はドアを開けていた。
部屋の中には様々なトレーニング器具が雑然と置かれている。
そのうちのひとつ、ベンチプレスを行っていた、部室内に居る唯一の男が、葵を見て目を瞠った。
「なんだ、美里じゃないか。どうした、こんなところへ」
「醍醐君、大変なの。緋勇君が佐久間君達に」
醍醐と呼ばれた男は上げていたバーベルを下ろし、上体を起こした。
Tシャツに包まれたはちきれんばかりの筋肉が、高校生離れしている。
体格も良く、タオルを取ろうと立ちあがった姿は、百八十センチを優に超える身長だった。
「どういうことだ……そもそも、緋勇とは誰だ? 聞いたことがないが」
一刻を争うというのに、葵は同じクラスだというのに今日一度も教室に顔を見せなかった同級生に事情を説明しなければならなかった。
とはいえ、佐久間の名前が出た時点で、醍醐にもおおよその見当はついている。
制服の上着を着こむと、事情は道すがら聞くことにして、佐久間達がたむろしているであろう
旧校舎裏へと向かった。
ところが、葵が醍醐と共に校舎裏に到着したとき、すでに事態は収拾がついていた。
それも葵の予想とは裏腹に、龍麻と、同じクラスの蓬莱寺京一のみが立っており、
佐久間率いる不良集団は全員が地に伏していたのだ。
佐久間や不良の男達が実際に強いのかどうか、葵は目にしたことがなかったが、
それにしても、たった二人で六人もの相手を叩きのめしてしまう龍麻と京一の強さは只事ではない。
血の臭いこそしないものの、暴力の吹き荒れた地に残る熱風に葵は圧されて声が出なかった。
「……」
暴力の中心地に佇立する龍麻が、新たに現れた二人に気づく。
振り向いた龍麻と目が合った葵は、この瞬間の彼の瞳を後々まで忘れることがなかった。
興奮して燃えあがっているのでも、つまらぬことをしたと醒めているのでもなく、
勝ち誇っているのでも、反省しているのでもない眼。
ただ起こったことを見据えるだけの、その代わりに決して迷いのない、
錆びすら発生しない超高純度鉄のごとき瞳は、敵であるはずのない葵を容赦なく貫いた。
視覚どころか五感の全てが、彼の眼光に射抜かれたようで、その場に立ち止まった葵はよろめく。
唇に当たる、いつのまにか薄く開いていた口から吐きだした呼気の熱さに驚きはしたものの、
それもどこか遠い場所で感じているような気がした。
あと数秒、彼の視線を浴びていたら、何か大変なことが起こっていたかもしれない――
そんな予感さえしてしまう葵だった。
「そこまでにしておくんだな」
喧嘩はすでに決着がついていたが、醍醐は場を諫めようと呼びかけた。
龍麻が視線を葵から彼へと移す。
安堵した葵は、視線から逃れるように醍醐から一歩離れた。
醍醐に敵意がないと見て取った龍麻は、構えを解いて口を開きかけたが、そのとき、
彼の背後から声がした。
「くそッ……手前ェ……ッ……!!」
葵に無様な姿は見せられないと思ったのか、佐久間が立ちあがる。
とはいえ息一つ乱していない龍麻と対照的に、呼吸は乱れ、足下もおぼつかない様子だ。
すでに戦闘力は失われているのが明らかな佐久間にも、容赦なく再び龍麻は構えたが、
新たに現れた大柄な男が二人を制止した。
「待てッ。もういいだろう、二人とも」
佐久間はなお龍麻に敵意を向けていたが、龍麻と蓬莱寺に加え、
この醍醐という男まで相手にするのはさすがに無理と悟ったか、
大きな歯ぎしりを立てつつ龍麻達に背を向けた。
伸びていた不良達もなんとか起きあがって彼について去っていく。
彼らの姿が見えなくなって、十秒ほど置いてから、ようやく完全に構えを解いた龍麻は、
喧嘩の後だというのにいやにさっぱりした顔をしている、木の上から現れた男に話しかけた。
「一応礼を言っておくよ。一人じゃ全員は倒せなかったと思う」
「本気で言ってるようにゃ見えねえがな……ま、いいさ。ところで、お前誰だ?」
「……」
二秒ほど蓬莱寺を見つめた龍麻は、今朝に続いて自己紹介を再び行った。
「緋勇龍麻だ。今日真神に転校してきた」
「緋勇君は、私達と同じC組なの」
葵の補足は、男達をそれぞれの表情で驚かせた。
「するとお前、転校初日に佐久間に絡まれたってワケか。何やらかしたんだよ」
「別に……あいつの言い分だと、女に囲まれてたのが気に入らなかったみたいだが」
今度は龍麻を除いた三人が表情を変える。
醍醐は渋面を作り、葵は困った顔をし、蓬莱寺は愉快そうに龍麻の肩を叩いた。
「そいつァ災難だったな。まァ、あいつらもしばらくはおとなしくしてるだろうがな」
龍麻の制服を拾いあげた彼は、新たな同級生に手渡してやる。
「俺は蓬莱寺京一。このデカいのが醍醐だ。美里が言ったとおり、俺たちゃ同級生ってワケだ」
京一に胸を小突かれた醍醐は渋面のままだったが、小突かれたからではなかった。
「醍醐雄矢だ。佐久間が迷惑をかけたようで、済まなかったな」
その口ぶりに龍麻は疑問を抱かざるを得なかった。
「身内みたいな言い方だな」
「ああ……佐久間は同じレスリング部なんだ。学校側は更生させるつもりなんだろうがな。
それより、お前も多少は腕に覚えがあるみたいだが、あまり粋がらないほうがいいな」
「別に粋がってなんかいない」
何をどのように解釈したら、六人がかりで暴行を加えようとする輩に対して自衛しただけで
粋がっているという話になるのだろうか。
それよりも、仮にも同じ部だというのなら、そちらの管理責任の方が大きいのではないか。
そう反論しようとする龍麻に、京一が割って入った。
「まァ、いいじゃねぇか。とりあえずは片もついたんだしよ」
京一のとりなしは双方に肩すかしを与えたようで、頭を掻いた龍麻は、
もうここに居るべき理由はないとばかりに軽く手を挙げると、危なげない足どりで帰っていった。
残された三人は龍麻を見送るでもなく見送っていたが、
彼の姿が見えなくなると、葵が独り言のように、その実二人にはっきり聞こえるように呟いた。
「緋勇君……手を怪我していたわ」
「ああ、行ってやんな」
京一が同意すると、ほっとしたように頷いた葵は、小走りで龍麻を追った。
「おーおー、カワイイねえ、全く。真神の聖女にも春到来か?」
幾分邪気の混じった笑みを浮かべながら、京一は木に立てかけてあった木刀を取りに行く。
彼の背を見ながら醍醐が、同調はせずに話しかけた。
「そんなに強かったのか?」
木刀を担いだ京一は、花より喧嘩とでも言うべき、強さにしか関心のない同級生に、
今度は邪気のみの笑顔を向けた。
「あァ……動きが素人じゃねェ。拳法みてェなのをやってんだろうが、
それよりも何か変な技を使いやがる」
「変な技?」
「あいつら、ほとんど一発でノサれちまいやがった。二対六だったが、あいつが四人で俺が二人。
しかも、佐久間もあの野郎が獲っちまったし、反撃だってほとんどナシだ。
久しぶりに運動できると思ったのによ、拍子抜けだぜ」
「ふむ……」
腕を組み、右手を顎に当てる醍醐に、京一は苦笑する。
「おいおいタイショー、目の色が変わってきたぜ。次は自分の番だとか思ってんじゃねェだろうな」
「む、いや、しかし……それほどの技を使うのなら、一度見せて欲しいものだな」
「ま、焦んなくてもそのうちチャンスは来るだろうよ。佐久間だって黙っちゃいねェだろうしな」
京一に頷く醍醐の顔は、全く納得していなかった。
やってることは佐久間と変わらねェじゃねえか、と京一は内心で肩をすくめる。
とはいえ、転校初日から不良達を叩きのめした龍麻の動向が気になるのは京一も同じだった。
久しぶりに風が吹きそうな気がする。
それも、激しい風が。
傍にいれば巻きこまれるかもしれない――だが、遠くに離れてやり過ごすのも、良策ではないだろう。
どうせなら、ドでかい台風でも持ってきやがれ。
龍麻の去った方向を見つめる京一の、口の端が釣りあがる。
その表情は明らかに、嵐の到来を待ち望んでいた。
葵が龍麻に追いついたのは、彼が校舎の入り口に差しかかる頃だった。
葵は小走りで追ったのだが、龍麻の移動は妙に速く、
百メートル近くも進んでようやく声が届く距離まで近づけたのだ。
「緋勇君」
呼びかけに足を止めた龍麻は、ゆっくりと振り向いた。
「何か?」
鉄の瞳が再び葵を射抜き、葵は、少しだけ余分に息を整えなければならなかった。
「あ……あの、手を怪我しているみたいだから」
指摘されて初めて気がついたというように、龍麻は両手を順に見た。
左手の甲には少なくない血が滲んでいたのだが、痛いそぶりも見せなかった。
「ああ、本当だ。でも、放っておけば治る」
「駄目よ、そんなの。手当てしてあげるから、保健室に行きましょう」
龍麻は口の端をやや不満げに曲げ、即答しなかった。
余計なお世話だと葵も思った。
彼と親しいわけでもなし、大したこともなさそうなのだから、
喧嘩をして負った傷など、彼の言う通り放っておけば良いのではないか。
そう思いつつも、葵はこの色々と規格を外れている転校生をなぜか放ってはおけなかった。
保健室に龍麻を連れてきた葵は、彼を椅子に座らせる。
保健医は不在だが、龍麻が言ったとおり傷は大したことがなく、葵でも手当てはできそうだった。
消毒液とガーゼを用意し、彼の手を取る。
血を拭えばたった今喧嘩してきたとは思えない、綺麗な手だった。
葵は幾分緊張しながら治療を始めた。
「……」
龍麻は無言のままだ。
「あ、あの……ああいうことを、いつもするの?」
気まずさに耐えきれなくて苦し紛れに吐いた質問は、最悪の内容だった。
赤面する葵の、触れている手がわずかに揺れる。
葵が顔を上げると、龍麻が苦笑していた。
ずいぶんとおとなびた表情に、葵の頬はますます熱くなった。
「どこの学校でもああいう連中はいるもんだけど、転校初日に喧嘩を売られたのは初めてだな」
彼の言う通り、たとえ偏差値が真神學園よりはるかに上の高校でも、
落ちこぼれてしまう人間は必ず存在する。
内に篭るか、外に発散するか、折り合いをつける方法を見つけるか、
全てを拒んで他人に当たり散らすか。
二年間で最下層に落ちてしまった佐久間と、何もしないでも上層に留まれる龍麻が
出会ってしまったのは、確かに不幸と言うべきだったろう。
「あの……ごめんなさい」
「どうして君が謝る?」
なんとなく口にした謝罪は、シャープに両断されてしまった。
彼の顔を直視できなくなった葵は、治療に専念する。
「あいつは、クラスの他の子にも迷惑をかけているのか?」
「いえ……佐久間君はあまり学校に来ないし、来ても授業には出ないことが多いっていう話だから」
「ふうん……困っているようなら、次はもう少し手厳しくやってもいいんだけど」
葵は返答に窮した。
喧嘩を拒もうとしないのと、負けるとは露ほども思っていないらしい態度は、
決して葵の好むものではないからだ。
今日は佐久間から絡んできたのだとしても、二度三度と続くのなら龍麻にも責任がないとは言えなくなる。
これまでの人生で熾烈な競争や強烈な悪意というものに接してこなかった葵は、
喧嘩や暴力というものに対して当然否定的であり、その考えに疑いを持ったことなどなかった。
学校中から忌み嫌われている佐久間に対しても、クラスが同じになったのが今年初めてであり、
つまり、龍麻と同様、初対面であるわけだ。
だから佐久間の悪評は伝え聞いてはいても、そこまでの悪人とも思っておらず、
今回の件も大勢で喧嘩したのは卑怯だとしても、龍麻に対しても対応が悪かったのではないかと
非難する気持ちが皆無ではなかったのだ。
ではなぜ我関せずで済ませず、龍麻のみを治療しようとしたのか。
それは葵自身にも判らなかった。
深く考えるのは怖い気がして、葵は早く彼と別れようと思い、治療に専念した。
ふと気づくと、龍麻が見ている。
先ほどの旧校舎裏よりもはるかに近い、息がかかりそうな距離で、葵はまともに彼の眼を見てしまった。
「……っ」
彼の深い黒色の瞳に、呼吸が詰まる。
親愛も、欲望もない、何の変哲もない眼に、なぜこうも心騒がせられるのか。
知らぬ間に満ちた潮のように、何か恐ろしいものに心を侵蝕される悪寒に、葵は思わず立ちあがっていた。
「あ、あの、包帯を取ってきます」
追いかけてくる龍麻の視線から逃れるように、葵は身を翻した。
動悸が外に聞こえそうなほどに高まり、震える指先を隠して棚を開く。
渾身の力で引ったくるように包帯を掴み、振り返った葵の、目の前に龍麻が居た。
「……!!」
変化は急激だった。
音もなく動く龍麻が、淀みのない、熟練のダンサーのような動作で、
ほとんど衝撃も与えずに葵を押し倒す。
葵が状況を把握したときには、世界は九十度転回し、右腕は頭の上で押さえられていた。
豊かな前髪の奥に覗く、黒い瞳が葵を見据える。
さっきよりも近い距離で射抜かれた葵は、声も出せないでいた。
龍麻が顔色一つ変えぬまま、無造作に制服に手を入れる。
女性にとって大切な部分のひとつである胸のふくらみは、呆気なく占領されていた。
生まれてからこの方、誰にも触らせたことなどなく、いずれ誰かが触れるのだとしても、
その誰かの具体的なイメージさえなかった部分に、気持ちの悪い感触が伝わってくる。
それはまだ異性と交際した経験のない少女の甘い幻想を打ち砕くには充分で、葵の心を、
粘度の高い恐怖が塗りつぶしていった。
「や、やめ……て……」
掠れた声をあざ笑うように、胸が揉まれる。
自分の意志に寄らず形を変える肉体の気持ち悪さに、空気が固体になったように飲みこめない。
「中々大きいな」
果実の出来を品評するような龍麻に、葵はようやく反抗の意志を宿し、
空いた左手で龍麻の右手を掴んだ。
しかし、ようやく掴んだ手は鋼のように固く、制服から引っ張り出すことなどとてもできなかった。
「どうして……こんなことをするの……?」
「どうして、だって? 気づいていないのか?」
龍麻が何を言おうとしているのか、葵には全く理解できなかった。
そもそも龍麻とは会ってまだ数時間しか経っておらず、そのほとんどは授業中で、
会話を交わしたわけでもなく、お互い人となりなど知りようもないというのに、
何故彼は知った風なことを言うのか。
「わからないわ。わからないから、説明して欲しいの」
「なら、わからないままでいいさ。そのうち、嫌でもわかるだろうからな」
葵の懇願をにべもなく否定した龍麻は、右の掌を嫌らしく動かした。
手を一杯に広げ、全てをつかみ取ろうとするが、豊かな乳房は、
指の先にまで柔らかな質感を与えてなお余る。
指を沈めるように押し当て、逆に持ちあげるように掴む。
下から持ちあげるように掬い、餅を捏ねるように左右に揺らし、女体を堪能した。
「やめて……お願いだから……」
気持ち悪さしか感じない龍麻の行為に、葵の喉からは薄紙を裂いたような声しかでない。
彼の、このような狼藉に及んでいるにもかかわらず、いささかの揺るぎもない黒い瞳に、
底知れない恐怖を覚えたのだ。
葵は未だ男性の欲望にぎらついた瞳など見たことはないけれども、
龍麻のそれはあまりに冷徹で、ほとんど義務的に狼藉を働いているようですらある。
これが彼の本性ならば、凄まじい邪悪と言わざるをえなかった。
もう一度、葵は龍麻を押しのけようと試みる。
だが、頭上に押さえつけられた右手は石像と化したように全く動かせず、
ただ手首に篭る熱が増すばかりだった。
「その様子じゃ、まだ処女みたいだな。もしかしたら、男とつきあったこともないのか?」
恥辱で葵の頬が紅く染まる。
真神學園内で人気投票をすれば間違いなく上位に入るだろう葵は、彼の言う通り、
交際を申し込まれたことは幾度となくあっても、誰か特定の異性と交際した経験は未だ無かった。
親友が同様に異性に関心をみせなかったため、それに慣れてしまっていたというのもあるが、
葵の心を騒がせる異性が現れなかったというのも事実である。
そして目の前にいる、今日転校してきたばかりの異性は、
もっとも悪い意味で葵の心を騒がせたのだった。
「お願い……今なら、誰にも言わないから」
「今を過ぎたら誰にも言えなくなるのにか」
言葉尻を捉えられた葵は顔を青ざめさせ、一方で龍麻は勝ち誇ったように乳房を弄んでいた手を腹へと移動させた。
ブラジャー越しではない、肌に直接触れられる不快感は胸に勝る。
色気と美しさの完璧な均衡が取れた唇を歪め、葵は忌まわしき暴漢の手を排除しようとしたが、
暴れるすべさえ彼女には残されていなかった。
滑らかな腹部を龍麻の手は這いまわる。
弦楽器を弾くように肋骨の間を滑り、呼吸に合わせて上下する腹を、
花の種を運ぶ春風のように優しく撫でていく。
ゆるやかに、そして明確に、一定の方向を目指して。
龍麻の親指がスカートの上端に触れ、葵は新たな恐怖に首筋を掴まれた。
彼が最終的にどこを目指しているのか、遅まきながら気づいたのだ。
「ひっ、緋勇君……止めて……っ……!」
だが、龍麻の表情には変化がない。
薄い笑いも欲望にぎらついた眼も見せず、淡々といえるくらいに葵の身体を侵略しているのだ。
彼が人間の姿をしているだけの怪物にすら思え、絶望が心を浸していくのを感じた。
だが、不意に顔をしかめた龍麻は、押し倒したときと同様、滑らかな動作で身体を起こした。
葵の腕を取って彼女も起こすと、襲っていたなどとおくびにも出さぬようすで半歩離れる。
呆然としている葵の前で、入り口の扉が開き、保健医が入ってきた。
年配の保健医は数十秒前まで行われていた、穢れた行為に気づく気配もなく、
生真面目を装った龍麻に話しかけた。
「あら、どうしたの?」
「彼女が少し具合が悪いと言うので、連れてきました」
「そう……まだ用事があるのだけれど、付き添っていた方がいいかしら」
「いえ、もう大丈夫みたいです。な」
「え? え、ええ、はい、大丈夫です」
淀みない龍麻の返答を、保健医はすっかり信用したらしく、葵を頼むよう言って出ていった。
再び龍麻と二人きりになった葵は、壁を背にして警戒したが、
龍麻は、今日の所は陵辱をあきらめたようだった。
葵に学生鞄を渡し、自分の鞄を持つと、拍子抜けしている葵を尻目に、さっさと出口へ向かう。
「こういうのは、ムードも大事だからな」
あまりにも人を馬鹿にした言い種に、葵は思わず睨みつけた。
元来負の感情を浮かべるようにはできていない顔に浮かんだ憎しみの相は、
少しでも罪の意識があるのなら、許しを請わずにはいられない深い憂いをも帯びたものだったが、
龍麻は意に介した風もなく、颯爽とすらいえる足どりで保健室を出ていった。
両腕をかき抱いたままの葵は、彼の残影が消えるまでその場を動けなかった。
その夜、葵は中々眠ることができなかった。
瞼を閉じても夕方の出来事が脳裏に、熱量を伴って鮮明に浮かびあがってくる。
葵は近隣の学校にまで噂が及ぶ美貌の持ち主であるため、
学内外を問わず交際を申し込んでくる男は枚挙に暇がない。
真面目な学生からいかにも軽そうな男、文通から始めて欲しいなどという古風なものや、
かなりしつこく誘われたことも一度や二度ではない。
そうした彼らを断ってきたことで、対処する術は身につけたと思っていた。
だが、今日転校してきた緋勇龍麻という男は彼らのいずれもと違った。
今まで葵が関わった男達の、もっとも性質の悪い男でさえやらなかった、
いきなり襲いかかってくるという暴挙を、それも學園内で働こうとしたのだ。
葵に警戒心が足りなかったのは否定できないが、それにしても、
誰かに見つかれば停学では済まない狼藉に及ぼうとするなどと、常人の想像を超えている。
龍麻の顔を思いだし、葵は寝返りを打った。
悪相ではない――どちらかといえば整っている顔立ちだ。
量が多く、襟足と前髪が長めの、重さを感じさせるくらいの黒髪は、
流行の髪型ではないけれども、意志の強さをみなぎらせた眉目とシャープなラインで構成された骨格は、
流行り廃りに左右されない、普遍的な良さを持つ男の顔だった。
だから葵も同級生として自然に彼を受け入れたのだ。
それがゆえに佐久間達不良の不興を買ったというのは、まだ理解できる。
そして彼が見た目からは想像できない強さを有していて、数を恃んだ不良達を返り討ちにしたことも、納得はできる。
しかし、そのあと、純然たる好意で治療をしてやったというのに、
まさか恩を仇で返す――それも、女性にとってもっとも辛い仇で返そうとするとは!
保健医が来てくれなければ、葵の貞操はあの場で奪われてしまったかもしれないのだ。
布団の中で小さく身震いした葵は、さらに記憶を辿る。
何故こんなことを、と訊ねた葵に、龍麻は言った。
「わからないままでいいさ。そのうち、嫌でもわかるだろうからな」と。
それはまるで、葵にも責の一端があるような口ぶりだった。
そんなことを――男性の欲望を誘発するようなことを、知らぬうちにしてしまったのだろうか?
常識的に考えればあるはずがないことを、葵は律儀に考えてしまう。
それほど龍麻の狼藉は、これまでおよそ人間の陰というものを、知りさえせずに生きてきた
葵にとって衝撃だったのだ。
陰。
彼の黒い瞳を葵は思い起こす。
あれが悪人の眼というものなのだろうか。
休み時間に転校生が物珍しい同級生達と、十年来の友人のように親しく語らっていた姿は偽りで、
女に対して一方的に欲望をぶつけようとする姿こそが真実である男が持つ、漆黒の闇なのだろうか。
葵にはわからなかった。
ただ、彼の眼を見て身がすくむような感覚に、一度ならず囚われたのは事実だ。
容易に気を許してはならない――そう考えるのは、哀しいことだったけれども。
教師や他人に今日の一件を報告するつもりがない以上、これ以上は考えても仕方のないことだ。
記憶を辿るのを止めた葵は、龍麻が改心してくれることを願いつつ、眠ろうとした。
忌まわしい記憶を努めて忘れようとする葵に、不意にある衝動が涌き起こった。
信じがたいそのような衝動が生じたことに愕然とし、寝返りを打って消し去ろうとする。
だが、噴火し、隆起する火山のように急速に心の一角を昂ぶらせる衝動は、その程度では解消できない。
眠りに落ちてしまって欲しいという願いも空しく、目は冴えるばかりだ。
耳鳴にも似た鼓動が頭の中を激しく叩き、落ちつこうと深く吐いた呼気の熱さに驚き、
被りなおした布団の中で、得体の知れない興奮に囚われ、ついに葵は衝動に屈した。
強く目を閉じなおし、これからすることは記憶に残さないという決意を胸に、布団から右腕を出す。
自分も含めて誰も見ていないというのに、ひどく怯えながら、葵は右腕を頭の上に置いた。
それは数時間前、龍麻によってなされた、意に染まぬ姿勢の再現だった。
なぜこんな姿勢を取りたくなったのか、己の心に何回訊ねても葵は回答を得られない。
これは暴漢による、女性を辱めるための姿勢に他ならないというのに。
現に今、自分から取ったこの姿勢に、葵は嫌悪を感じている。
一瞬の油断で押し倒され、息がかかる距離で見た男の顔に抱いたのは、激しい恐怖だけだ。
なのになぜ、もう彼の圧力はないのに、再び、魂を束縛されたように右手を挙げてしまうのか。
解答を見つけだせないまま、葵は低く喘ぎ、閉じていた目をゆっくりと開いた。
広がる黒い闇は、何故か葵の記憶を刺激し、刺激された記憶は、右の手首に不思議な熱を呼び覚ました。
痛くはなかったが、吸いついたように離れなかったのは、この熱のせいなのか。
再び目を閉じた葵は、左手で右の手首に触れてみた。
そこにはほのかな熱と、普段よりもはっきりと感じられる脈拍があった。
音さえ聞こえてきそうな脈拍の理由を、葵は知ろうとはしなかった。
むしろ考えてしまうことを怖れるように、腕を戻し、
固く眼を閉じて再び寝返りを打ち、無理やり眠ろうとした。
陸に上がった軟体動物のようにベッドの上でのたうち回った末、
葵は彼女が望んだ闇の世界へと沈んでいく。
その右の手首に感じる熱は、意識を手放す直前まで、はっきりと残っていた。
壱話なのでエロは控え目です。