※この作品はR-18です。

反魔人學園   作:SVX

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今回もエロなしです。
あの話なんでさすがに……


第十話

 昼間の喧騒も失せ、都会の中心であることが嘘のように静まりかえった新宿中央公園。

 その中を、一人の男が歩いていた。

瘴気めいたものを撒き散らしながら歩くその姿に、近寄ろうとする者などおらず、

運悪く通りすぎる羽目になった者も道の端へと避け、小走りで去っていく。

 男はそれらの者を一顧だにせず、酩酊したような足取りで、

偽りの光に満ちた歌舞伎町の方へと、灯りに誘われる蛾のように向かっていた。

「何でだ……何で、俺は……奴等に勝つことができねぇ」

 男は溜まった唾を吐き出した。

そうすることで忘れようとしたいまいましい奴等の顔は、

しかし消え去ることはなく、それどころか口に出したことでより鮮明さを増してしまう。

 緋勇。

 蓬莱寺。

 そして、醍醐。

 思い浮かんだ三人の顔は、悪意に満ちた笑みを浮かべていた。

葵を奪っていった奴。

自分を嘲笑っている奴。

そして、自分を見下している奴。

鬱屈する心情は日々内圧を高めていたが、それを発散する場を男は持たなかった。

それ故にその鬱屈は合わせ鏡のように自らを増幅していき、

もはや思考の大半を占めるまでになっていた。

「クソ……どうすれば、奴等に……」

 自覚の無いまま口を動かし、憎しみを形にする。

その鬱憤をわずかでも晴らすべく、刹那的な快楽を求めて歩を進める男の耳に、

突然囁きかける声があった。

「何を悩むことがある、我らが同胞よ」

「誰だッ!」

 男は立ち止まり、辺りを見回した。

誰もいない。

気配すらない。

薄暗いとはいえ、電灯もあり、人影程度なら容易に識別できる公園内にあって、

声が幻聴だったかのように周りには自分以外誰もいなかった。

 気に入らなかった。

姿を見せないのも気に入らなかったし、己の内心を覗かれたのも気に入らなかった。

暴力をふるうことでどす黒い欲望をいささかでも晴らしてやろうと、

男は必死に声の主を捜し求める。

しかし、声は耳のすぐ傍から聞こえてきているというのに、人影はどこにも見当たらなかった。

苛立ちを募らせる男に、更に声は語りかける。

「主の抱くその怨恨は、我らが鬼道の恩恵を得るに相応しい。

限りなく我らに近い魂を持つ男よ──」

 言っていることは半分も解らなかったが、声は、奇妙に心安らぐ響きを帯びていた。

苛立ちを、薄い膜が覆っていく。

「さあ、解き放て──そして、嬲り、殺し、そして食らうが良い。思いのまま、奪うが良い」

「奪う──?」

 何と快い響きか。

生きる為に命を食らい、牝を手に入れる。

己の欲望の赴くままに生き、他者から奪うことは、牡の、獣の本能であった。

脳の最も原初的な部分を刺激され、男の心が緩む。

その隙間に、声はぬるりと忍びこんだ。

「怖れることはない。『選ばれし者』よ、己の内に渦巻きし暗き念に身を任せるが良い」

 侵入してきた声が、頭の中を食い荒らす。

それは、ひどく甘美な感覚だった。

「恨め──憎め──殺せ──」

「なッ……なんだ、頭が……」

 男は地面に膝をつき、頭を抱える。

声はますます思考の隅々にまでその淫靡な触手を伸ばし、男から何もかもを奪っていった。

「堕ちるが良い、佐久間よ……変生せよ……」

「ぐッ……がァッ……ぐぉォおぉォ……ッッ!!」

 誰にも聞こえることのない囁きが、幾重にも反響し、男を食い尽くす。

 男が最後にあげた叫びは、獣の咆哮であった。

 

「それでは今日の授業はこれで終わりです。

昨日も言いましたが、佐久間クンを見かけた人は先生に連絡してください。

──それでは、Goodbye,everyone」

 生徒達が担任であるマリア・アルカードに唱和すると、

静かだった教室が一斉に騒がしくなる。

学校という拘束から解かれた彼らからすれば当然のことではあるとしても、

それにしても、欠席を続けている佐久間に誰も関心を払おうとしないのは哀れといえた。

 帰り支度を整える龍麻のところに、醍醐雄矢がやってくる。

彼が来た理由を龍麻は察したが、自分からは口にせず、彼が切りだすのを待った。

「一週間……だな。佐久間がいなくなって」

「ああ」

 龍麻は短く答えた。

 同級生達と同様、龍麻も彼に好印象を抱いてはいない。

なにしろ龍麻は転校初日に彼に因縁をつけられ、佐久間が恃む暴力の洗礼にさらされたのだ。

偶然居合わせた京一と共に彼らを退けはしたものの、

以来隙あらば復讐しようという陰湿な視線が途絶えることはなく、

うっとうしさは募る一方だった。

 粗暴で何度かの暴力沙汰を引き起こしている佐久間は、

真神学園全体でもほとんど全員に嫌われていた。

その中で、佐久間のグループに属する不良連中以外で最も中立に近いのは、

佐久間が形だけ所属しているレスリング部の部長を務める醍醐であったろう。

 自分が佐久間を嫌っていると知りつつ、彼の話題を出さねばならないということは、

事態の深刻さを物語っているのかもしれない。

そう推察した龍麻は、眼で醍醐に続きを促した。

「どうやら、自宅にも帰っていないらしくてな。

このままだと、警察に捜索願いを出すことになるらしい」

 と言うことは、親にも全く話していないということか。

 現在一人暮らしの龍麻は、週に一度親と連絡を取るくらいではあるが、

その時は大抵自分から電話をかけているし、仲が悪くなったこともない。

いくつかの事情があって割とあっさり反抗期を終えてしまった為に、

家出など考えたこともない龍麻には、佐久間の心境は全く解らなかった。

 その後も儀礼的に佐久間について醍醐と話したものの、

もちろん龍麻は失踪した彼の居場所など知るはずもなく、

会話は中途半端なものに終わらざるを得なかった。

 醍醐も彼の家に電話をかけてみたりはしているが、

ぞんざいな口調で親に知らないと言われればそれ以上のことは訊けず、

彼の子分達に訊いたところでまともな答えが返ってくるはずもない。

焦慮を覚えつつも、どうしようもないのだった。

 いつものように彼らのところにやって来た小蒔は、

あまり心楽しくない会話を続ける二人に、口を挟む気にもなれず無言で立っていた。

 掌に、苦い熱さが蘇る。

夏休みのある日、不埒にも葵を強引に連れて行こうとした彼を、

小蒔は激怒して張り飛ばしたのだ。

悪いことをしたとは思っていないし、

葵を護るためなら彼に嫌われようとどれほどのことでもない。

しかし、こうして佐久間が失踪してしまうと、

その原因のいくらかでもあの平手打ちにあったのではないかと、つい考えてしまうのだった。

 彼女らしくない、あまり健全ではない思考に陥っていた小蒔は、

頭を一つ振って佐久間のことを追いだし、

どうやら二人の話も一段落したらしいとみて口を開きかける。

ところがその拍子に目に入った時計の針は、それどころではない位置を示していた。

「ッと、もうこんな時間だ。葵、あーおーいッ」

 小蒔が呼ぶと、別の友人と話していた葵は、のんびりと龍麻達のところにやってきた。

「あら小蒔、まだ行かなくていいの?」

 何を話題にしていたのかいかにも楽しそうで、声にもそれが表れていて、

小蒔はやや沈んでいた気分を晴らすことができた。

「うん、今から行くトコ。ハイこれ、学校への地図」

「ありがとう、後から行くわね」

「今日何かあるのかよ」

 葵と小蒔の会話に割りこんだのは、蓬莱寺京一だ。

彼は六時限目の授業中爆睡していて今起きたところで、大きなあくびをしながらの質問だった。

 京一の喉の奥を見せられて小蒔は眉をしかめたが、映像記憶を消すかのように頭を一つ振ると、

京一ではなく龍麻と醍醐の方を見て答えた。

「あれ、言ってなかったっけ? 弓道部の練習試合なんだ、今日」

 少なくとも龍麻には初耳だった。

京一もどうやら同じようで、いかにもつまらなそうに二度目のあくびをしている。

もう少し観察すれば、醍醐はどうやら前から聞いていたらしいというのが

態度から窺えたのだが、その前に京一が三度目の欠伸が混じった声で言った。

「なんだ、そんなんかよ……俺はまたいよいよ小蒔が男子校に転校すんのかと」

「な・ん・でボクが男子校に転校しなきゃなんないのさッ」

「そりゃお前、その学校のボスに君臨して全国を支配すんだよ。

そしてそれに立ち向かう美形の剣士! かー、燃えるねェ」

 六時限目の夢の続きなのか、京一の言うことにはこれっぽっちも意味がない。

白けた目で京一を見た小蒔は、軽く頭を振って他の友人に説明した。

「はぁ……もういいや、バカはほっとこ。

真神と仲のいいゆきみヶ原高校でやるんだけどね、良かったらみんなも応援に来てよ」

 小蒔に無視されても堪えた様子もなくどこか遠くに旅立っていた京一だったが、

荒川区にあるというその高校の名前を聞いた途端、光の速さで戻ってきた。

「何ィッ! ゆきみヶ原っていやぁお前、二十三区でも指折りのお嬢様学校じゃねェかッ!

水臭ェなぁ小蒔、なんでさっさと言わねェんだよ」

「やっぱ、京一には教えなきゃ良かった……」

 処置無し、と短い髪を振る小蒔に、京一を除いた一同が笑う。

その笑いが収まったのを見計らって、小蒔は軽く手を上げた。

「んじゃ、ボクは行くね。他の部員も待ってるし」

 鞄を持ち直した拍子に、小蒔の腰についている小さな何かが揺れた。

目ざとくそれを見つけた京一が、素早く手を伸ばして確かめる。

彼の手の内に収まったのは、いかにも古ぼけたお守りだった。

「ん? お前こんなお守り前からつけてたか?」

「あ、これ? へへへ、醍醐クンに借りたんだ」

「醍醐に? なるほどねェ」

 京一の口調はおせじにも上品と言えるものではなかった。

京一だけでなく、葵と龍麻もらしくない好奇心を瞳に浮かべて醍醐を見やる。

「なッ、なんだその目は。それはだな、醍醐家に代々伝わるそれは由緒正しいお守りでだな、

俺はそれを持っている時は試合に負けたことが無いという」

「いやいや、わかったよ」

 いつになく饒舌な醍醐を遮って京一は顎を撫でた。

「ふんッ。役に立つかはわからんが、桜井が勝てるようにと思っただけだ」

 揃って同じ表情をしている三人に、弁が立つ訳ではない醍醐は諦めて腕を組み、横を向く。

まだ日に焼けている横顔は、少し赤らんでいるようにも見えた。

「えへへへ、ありがと、醍醐クン。今日は三年間の締めくくりだからね、雛乃にも勝たないと」

 京一からお守りを取り戻した小蒔は、いかにも大事そうにそれを結び直す。

そのお守りとそれをあげた人物を交互に見た龍麻は、

驚きっぱなしの心情をなんとか手繰り寄せて、全く別のことを聞いた。

「雛乃っていう子は、ライバルなのか?」

「うん、ゆきみヶ原の弓道部長で、一年の時からずっと互角なんだ。

実家が神社だから、巫女さんなんだよ」

「巫女か……俺には見えるぜ、竹箒を持った和風美人の姿が」

「緋勇クン、ちょっといいかな」

 お嬢様学校の弓道部長にして、巫女。

京一が妄想するのもある意味当然と言える。

また遠くに旅立った京一に目を細めた小蒔は、龍麻の耳を引っ張った。

「雛乃もなんだけどさ、ゆきみヶ原に行ったら京一が向こうの子に

ヘンなちょっかい出さないように見張っててくれる?」

 龍麻が笑って頷くと、小蒔は勢い良く身を翻した。

「それじゃ、後で向こうでねッ」

「気合が入ってるな」

 龍麻のつぶやきに葵が応じなかったのは、彼とはあまり会話したくなかったのと、

警戒は龍麻にこそ向けられるべきではないかと思っていたからだ。

 龍麻が異能の『力』によってゆきみヶ原高校の女子生徒を誑かす可能性は、ないとはいえない。

何しろ初対面に等しい葵に襲いかかったくらいなのだから、充分に注意しておく必要があるだろう。

 葵の心配をよそに、京一が醍醐の方を向いて声を張りあげる。

「……にしても、お守りとはな。もうちょっとマシなモンは思いつかなかったのかよ。

女にプレゼントすんのにお守りはねェだろ」

 話題をまぜっかえしつつ、友人のセンスの古さをこきおろす京一に、葵はすまして応じた。

「あら京一くん、小蒔、とっても喜んでたわよ。

醍醐くんに貰ったんだって、わたしに見せに来たくらいだもの」

「とッ、とにかく、深い意味はないんだからなッ」

 孤立無援であることを悟ったのか、

醍醐は巨体に似つかわしい大きな足音を立てて行ってしまった。

その地響きは、葵の髪をわずかに揺らすほどだった。

「行っちまったぞおい。醍醐、お前会場の場所知ってんのかよッ」

 大声で叫びながら、京一は醍醐を追って教室を出ていった。

 不器用な醍醐に葵は思わず小さく笑う。

その直後、もうこの場には龍麻しかいないことを思いだし、慌てて笑顔を収めた。

笑顔を誤解されていないかと、おそるおそる龍麻を見る。

 龍麻は驚くほど険しい顔をしていた。

鬼道衆に対してと同じくらいの、とても友人に向けるとは思えない表情に、葵は戦慄する。

なぜ彼がそんな顔をしているか、想像を巡らせた葵は、やがて、ある一つの可能性に思い至った。

 小蒔を狙う龍麻が、醍醐を邪魔者と考えているのではないか。

 対象が龍麻でなければ、葵は決してこのように人を疑わなかっただろう。

しかし彼は疑われても仕方ないだけのことを、葵に対してしでかしている。

もし想像通りに小蒔が狙われているとすれば、

どんな手段を用いてでも親友を護らなければならなかった。

「どうした、険しい顔して」

 龍麻に言われて葵は反射的に厳しく言い返しそうになった。

心を落ち着かせてから、せき止めた言葉を口にする。

「緋勇君が険しい顔をしていたから、驚いてしまって」

 龍麻にも自覚はあったのか、質問に質問で返しても怒りはしなかった。

「ああ、上手くいってほしいってちょっと強く願ったのが出ちまったかな」

 淀みなく答えた龍麻に、そんなはずがないとは言えなかった。

だが、想像を今突きつけるのは良くないと思い、葵は結局あいまいに答えるしかなかった。

「そうね……本当に、そう思うわ」

「俺達も行こう。一応、桜井に京一を見張っておくよう頼まれたからには、

役目を果たさないとな」

 龍麻に促され、葵は渋々彼と並んで京一達の後を追うのだった。

 

 荒川区に来た龍麻達は、ゆきみヶ原高校まではすんなりと着くことができた。

女子校らしく、校門の前でたむろする、特に龍麻達男三人に向かって、

興味と警戒がミックスされた視線が何本も注がれる。

最初は愛想良く手など振っていた京一も、そのうちの幾人かが駆け足で去っていったところで、

ここに来た本来の目的を思い出したらしく向き直った。

「美里、弓道場の場所は書いてあんのかよ」

「ちょっと待って、ええと……書いてないわ」

 書くも何も、小蒔の地図は大雑把に駅から高校までの道が書いてあるだけで、

それ以上の説明などどこにもない。

それでも葵は親友の名誉の為になんとか手がかりがないかノートの切れ端を見ていたが、

とうとう諦めて京一に紙片を見せた。

 四角く囲って「えき」、そこから棒が二本伸び、

二度ほど折れ曲がってまた四角い囲みで「がっこー」。

それだけしか書いてないメモを見せられた京一は、思わず紙を破り捨てそうになってしまった。

「なんだこりゃあッ! ッたく、そそっかしい奴だな。どうすんだよ」

「そうね、困ったわね」

 あんまり困ったようには見えない葵に、

二の句を継ごうとして失敗した京一は、矛先を龍麻に向ける。

「ここでこうしていても埒があかねェし、よし緋勇、

中に入って誰かに聞いてみようぜ。なるべく可愛い子によ」

「しょうがねえな」

 葵が止める間もなく、京一は龍麻の腕を引っ張って行ってしまった。

 小蒔が去り際にしていった忠告を葵は思いだす。

京一と龍麻、別々に行かせたら小蒔と葵の危惧は現実のものとなったかもしれないが、

二人一緒ならかえって悪いことはできないだろう。

 葵の予測は当たって、二人はすぐに戻ってきた。

「校舎の裏側だそうだ。そこから入っていけるって」

 事務的に報告する龍麻に対して、京一の機嫌は悪い。

「くそッ、もう少し話したっていいじゃねェか、あの子だって俺達に興味あったぞ、ありゃ」

「今日は桜井の応援に来たんだろ。

それに、俺は桜井にお前から目を離さないよう頼まれているからな」

 龍麻の正論に加えて重々しく頷く醍醐に、

京一は舌打ちしながらもナンパを断念したようだった。

「ッたく、練習試合なんざ見たってしょうがねェだろうが」

 不用意な一言は醍醐を怒らせ、彼は京一の横にぴったりと張りついた。

「すまんが緋勇、京一が余計なものに気を取られないよう反対側についてくれないか」

「わかった」

「だーッ、暑苦しいんだよてめェらッ!」

 仲が良いのか悪いのかわからない、威圧感だけは抜群にある三人組が往く。

 ひとまず彼らが問題を起こしそうになくなったことに安堵しながら、

葵はその後ろをついていくのだった。

 

 なんとか弓道場まで辿りついた龍麻達は、入り口を探すうち、

道場の外で大きく深呼吸をしている小蒔を見つけた。

道着に弓道袴を着ている彼女は、制服姿とは違って随分凛として見える。

どうやら集中しようとしているみたいだから、

気を散らせないためにそっとしておいた方がいいか──

そう目で会話した龍麻と葵と醍醐をよそに、

京一はひとりずかずかと彼女のところに行ってしまった。

「何してんだお前、こんなトコで」

「あ……みんな」

 せっかくの配慮も台無しになり、仕方なく三人も彼女の許に行く。

 しかし、知り合いの顔を見て、小蒔は明らかに安堵したようだった。

「試合はいいのかよ」

「うん、これから。ちょっと外の空気を吸いにきたんだ」

「なんだ、緊張してんのか」

「そッ、そんなコトないよ。ないと……思う」

 小蒔はいつもなら反発するであろう京一の台詞にもやや弱気に答えるのが精一杯のようだ。

その表情に相当の緊張を見て取った醍醐が、陳腐ながらも心からの励ましを与えた。

「武道というのは精神的なスポーツだからな。

試合前から気持ちを乱していたら、本当の力は出せないぞ。自分を信じろ、桜井」

「う、うん、そうだよね、ありがと、醍醐クン」

 まだ表情は硬いものの、小蒔はなんとか笑っていた。

京一の無神経とも言える行動が、

かえって今の彼女には落ち着きを取り戻させる効果があったようだ。

京一がそこまで計算して行動したかどうかは、怪しいところではあるが、とにかく、

龍麻達がそれぞれの言葉で改めて小蒔を励ましていると、彼女を呼ぶ澄んだ声が聞こえてきた。

「小蒔様──ッ」

「雛乃の声だ」

 小蒔がライバルだと言う雛乃の声は、確かに教室で京一が言った通り

和風な赴きを感じさせるものだった。

声にやや遅れて姿を見せた雛乃は、学生服を着ている所が想像できない、

それほど和装が似合っている女性だった。

 多分解いたら腰まで届くのだろう、豊かで艶やかな黒髪を結いあげ、

その前髪は日本人形のように綺麗に切り揃えられている。

そしていかにも穏やかな眉目はこれも当然漆黒で、

特に瞳は深く静かに輝いており、折り目のついたたおやかさを感じさせるものだった。

 小蒔に気づいた彼女は、周りにいる龍麻達に深く一礼してからやってくる。

どこまでも物腰の柔らかい彼女に悪い印象を抱けるはずもなく、

京一などはみるからに鼻の下を伸ばしていた。

 近づいてきた雛乃は再び、先程よりも深く頭を下げる。

「こんな所にいらしたのですか、小蒔様。わたくし、探してしまいました」

「こ、小蒔サマ~!? お前いつからそんなに偉くなったんだよッ」

 驚く京一に、小蒔は恥ずかしそうに手を振った。

「雛乃は誰にでもそうなんだよ。止めてって何度も言ってるんだけど、ね、雛乃」

「ふふ、小蒔様は小蒔様ですわ」

 上品に口元に手をあてた雛乃の笑顔には、小蒔に対する深い信頼があった。

それを嬉しく思うものの、やはり恥ずかしい小蒔だったが、

三年前に初めて出会ってからずっとこう呼び続けてきた雛乃が今更変えるとも思わない。

軽く髪をかき上げた小蒔は、話題を打ちきって彼女がここに来た理由を訊ねた。

「もう……で、どうしたの? そろそろ?」

「はい、小蒔様の順番が近いので、呼びに参りました」

「うん、すぐ行くよ。じゃーね、みんな」

「それでは、わたくしも失礼させて頂きます。また後ほど、改めてご挨拶に参りますので」

 再び応対に困るほど頭を下げて去っていく雛乃の姿勢は、少しも乱れがない。

同性の葵でさえもが感嘆したほどだったから、京一などはすっかり骨抜きにされていて、

木刀に顎を乗せながら、いかにも眼福だった、と言った感じで呟いた。

「あれが雛乃ちゃんか……想像どおりの和風美人だったな。な、緋勇」

「まあ……そうだな」

「おッ、その反応は結構気に入ったカンジか?」

 からかう調子が強い京一の質問に答える気もないのか、

龍麻は彼を一瞥しただけで弓道場に入っていった。

「なんだよあの野郎……まさか、雛乃ちゃんを本気で狙うつもりなのか?」

「やれやれ、俺達も行こう、美里」

「ええ、そうしましょう」

「おい、なんだよお前らまでッ」

 殊更に彼を無視して弓道場に向かう醍醐と葵に、

理由がわからない京一が憤慨しながら後を追うのだった。

 道場は既に独特の緊迫感が入り口から吹き出すほど満ちており、

龍麻達は足音を立てないよう注意して隅っこに座った。

「小蒔はどこかしら」

「そうだな……お、いたぞ」

 京一が指差した先、ちょうど向こう正面に小蒔は座っていた。

表情に先ほど見られた不安や緊張の色はなく、

研ぎ澄まされた針のような集中が一身に漲っている。

事実、真正面に座っていた龍麻達は間違いなく視界に入ったはずであったが、目もくれなかった。

 前の射手が競技を終わり、小蒔が立ちあがる。

音もなく所定の位置に構え、遥か先にある的を見据える。

弦が大きく引き絞られた。

固唾を呑んで龍麻達が見守る中、小蒔は番えたまま微動だにしない。

やがて──右手が微かに動くと、大きな、乾いた音が道場に響き渡った。

 

「小蒔、凄かったわね」

「あぁ、あんな小さな的の真ん中に良く当てられるもんだ」

 先に校門まで戻った龍麻達は、揃って初めて見た弓道の試合の興奮を語っていた。

三十メートル近い距離の向こうにある、わずか五十センチにも満たない的に当てる様は、

武道を修めている龍麻達でも圧倒されずにはいられなかった。

特に醍醐は嬉しそうであり、その奥ゆかしい喜びようは龍麻達に好意的な眼差しを向けさせる。

「そろそろ出てきてもいい頃だとは思うが」

 何やら怪しい視線を六本ほど感じた醍醐は、それらから逃れようと校門の奥をうかがった。

すると、ちょうど小蒔が小走りでやって来るのが見えた。

「おっまたせッ」

「おめでとう、小蒔」

「うん、ありがと、葵」

 最初に葵に向かって礼を言った小蒔は、次に醍醐に、身体ごと向き直る。

その顔がわずかに赤らんでいるように見えたのは、彼女が走ってきたからでも、

秋の短い日が傾きかけて照らしているからでもないようだった。

「エヘヘ、きっと醍醐クンのお守りのおかげだよ」

「いや、桜井の実力の結果さ。日ごろ、怠らず精進した結果だ」

「そう言われるとちょっと照れちゃうね。ありがと、醍醐クン」

「うッ、うむ」

 重々しく頷く醍醐に、京一が気づかれないよう小さく肩をすくめる。

それに龍麻が肘打ちをくれようとした時、儚げな女性の声が小蒔を呼んだ。

「小蒔様」

 龍麻達が振り向くと、先ほど軽く挨拶を交わした、

今はゆきみヶ原の制服に着替えている、織部雛乃がそこにいた。

初めて見た時は制服姿など想像できなかったが、いざこうして見てみると、

セーラー服も実に良く似合っている。

 龍麻達の前に立った雛乃は、先程と同様、礼儀正しくお辞儀をした。

「もう、様はやめてよ」

「ふふ、そうは参りません。小蒔様は、わたくしの大切な人ですもの」

 友人達の前で呼ばれて心底恥ずかしそうにする小蒔だったが、雛乃は意に介した風もなく笑う。

案外彼女は、芯の強いところがあるのかもしれなかった。

「こちらが、小蒔様がいつも話してくださる御学友の皆様ですの?」

「うん、同じクラスの葵に、醍醐クン。それからこっちが緋勇クン」

「初めまして、皆様。織部 雛乃と申します。今後とも、よろしくお願いいたします」

 簡単にとは言え既に一度挨拶を済ませているのに、雛乃はまた深々と頭を下げる。

龍麻もそれに倣ってお辞儀すると、隣の京一が憮然として呟いた。

「あのー、桜井さん……誰か忘れてないでしょうか」

「ん? あ、そっか。雛乃、こっちが、いちおう友達の京一ねッ」

「俺はいちおうかッ!」

 堪えきれず笑い出す小蒔の隣で雛乃も笑う。

口元を手で覆った控えめな笑い方ではあっても、楽しそうなのは良く伝わってきた。

「そういえば雛乃、雪乃はどうしたの」

「はい、そろそろ来る頃だと思います」

 小蒔の質問に笑いを収めた雛乃が答える。

初めて耳にした名前に、京一は小蒔の袖を引っ張って尋ねた。

「おい小蒔、雪乃って誰だよ」

「雪乃はね、雛乃の双子のお姉ちゃんなんだ。性格は雛乃と正反対だけど。

薙刀部の部長で、師範代の腕を持ってるから、京一なんてナマスにされちゃうかもね」

「どんな女だそりゃ……」

「こんな女だよ」

 いかにも不機嫌そうな声に京一が振り向くと、

そこには声の持ち主にふさわしい、険しい顔をした女生徒が立っていた。

後頭部で結った、雛乃のそれに較べて少し赤みがかった明るい色の髪が

唯一女性らしさを感じさせた他は、細く急角度にそびえた眉、挑戦的な輝きに満ちている瞳、

微妙に不機嫌そうに湾曲している唇と、造作のほぼ全てが男らしさ、

というよりまだ二次性徴の表れていない少年のような趣だった。

特にいかにも女性らしい、というあやふやな言葉で表すことを唯一許されたような

雛乃の隣に立つと、その違いは際立つ。

しかしまた、隣に立つことで彼女達は、確かに双子であることを見る者に信じさせるのだった。

彼女が雛乃の双子の姉、雪乃なのは間違いなかった。

(おい、なんだか凄ェのが出てきたぞ)

 龍麻に対しての京一の耳打ちは声が大きく、明らかに褒めてはいないその台詞も

はっきりと本人に聞こえてしまっていた。

しかし雪乃はそれを聞いて新たに気分を害することもなく、

鼻を鳴らしただけであっさりと龍麻と京一を無視する。

ひどく挑発的な態度も、活力にあふれた彼女が行うと、小気味が良いくらいだった。

「これが小蒔の知り合いかよ」

「そうだよ。同級生の葵と醍醐クンと京一。あと、緋勇クン」

「ふーん、魔人学園の生徒か。ま、小蒔の友達なら俺にも友達だ、よろしくな」

 手を差しだしこそしなかったものの、それまでの態度とは打って変わった、

さっぱりとした笑顔を向ける雪乃には、雛乃と同様、悪い印象を抱けなかった。

 手短な紹介を一同が終えると、雛乃が育ちの良い笑顔を向ける。

「あの、皆様。よろしければ、これから神社の方へ遊びにいらっしゃいませんか」

 こんな笑顔で誘われて断れる訳もなく、京一が一同を代表して一もニも無く頷く。

すると雪乃が、とんでもないことを言い出した、というように雛乃を見た。

「お、おいッ、雛」

「小さな神社なのですが、古い歴史を持っております。ぜひ、いらしてください」

「待てって雛ッ。こっちの葵って娘だけならともかく──

こんなむさくるしい野郎共を家に呼ぶなんてとんでもねェッ!!」

 むさくるしいと言われた龍麻は、表立った反応はしなかった。

代わりに雪乃をじっと見つめる。

その眼差しは必ずしも挑発的なものではなかったが、雪乃にはそう映ったらしく、

足を半歩引いて構えをとった。

「なんだてめェ、やろうってのか」

 突如として緊迫した雰囲気が沸き起こる。

雛乃は姉が男の不良であっても怯まないことを、京一達は龍麻が意外と好戦的なのを、

それぞれ知っていたから、止めなければとは思っても、とっさには反応できなかった。

 全員が最悪の事態を想像する中、渦中にある男のほうが口を開いた。

「いや……お前、前に会ったことがないか?

夏にプールで、妹を探してるけど見なかったかって俺に訊いてきただろ」

「あン……? あッ、お前あの時の野郎かッ!」

 奇妙な偶然に雪乃は驚いたが、雛乃の驚きは姉以上だった。

「姉様……知らない男の方に話しかけたのですか?」

 心底からの驚きは、雪乃の好戦的な部分を射抜いたらしく、雪乃は目に見えてうろたえた。

「べッ、別に、お前がどっかいっちまうから探さなきゃならねえし、

そん時たまたま近くにいた間抜けそうな顔のやつがこいつだったってだけだって」

 むさくるしいから間抜けそうな顔に称号が変わった龍麻だが、やはり怒ったりはしなかった。

 雪乃も諦めたように唇を尖らせ、妹に譲歩した。

「ちぇッ、こんなことなら声なんてかけなきゃ良かったぜッ、勝手にすりゃいいだろッ」

 鼻を鳴らして先に行ってしまった雪乃を、なんとなく全員で見送る。

 彼女の姿が見えなくなってから、小蒔は雛乃に改めて訊いた。

「雛乃、ホントに行ってもいいの」

「ええ、色々お話いたしたいこともございますし」

 姉の意向などまるで考慮に入れていないような態度で穏やかに微笑む雛乃に改めて促されて、

龍麻達は織部神社にお邪魔することにした。

 

 ゆきみヶ原高校と同じ荒川区にある織部神社は、

雛乃の言う通りさほど大きくはなかった。

それでも鳥居は少しくすんではいても立派なものだったし、

木々に囲まれ、やや暗めの色調を持つこの空間は、厳かな空気で龍麻達を出迎えた。

「ここが、わたくし達の家です。……ふふ、こんなに大勢お客様がいらっしゃるなんて久しぶりです」

 嬉しそうな雛乃の声に、棘を含んだ雪乃の声が被さった。

「ん、誰だありゃ。こんな所に何しに来てんだ」

 語るに落ちることを自分で言ってしまったのにも気づかず、雪乃が目を凝らす。

やがてその人影が見知った人間のものであると判った時、

彼女は龍麻達があっけに取られるほど怒り始めた。

「──あのブン屋かよッ! 性懲りもなくまた来やがってッ」

 彼女に続いて人影に目をやった龍麻は、その人影が雪乃だけでなく、

自分達にとっても知り合いであることに気づいた。

「あれは天野さんじゃないか」

「なんだ、お前らの知り合いか」

「うん、ルポライターの天野サンって言ってね、ボク達に力を貸してくれてるんだ」

 小蒔の説明を聞いても、雪乃は到底納得したようには見えなかった。

棘はいよいよ鋭さを増し、声そのものも苛立ちにつれて大きくなっていく。

「そうか……あの女、最近うちの神社の周りをよくうろうろしてやがるんだ。

この間もうちのことを根掘り葉掘り訊いていきやがった」

 するとその声に気づいたのか、絵莉がこちらにやってきた。

「あら、緋勇君達じゃない。元気だった?」

 フリーのルポライターである天野絵莉は、時に情報をもたらし、時に助けを求めながら、

いつのまにか龍麻達と『力』について、浅くはない関係を築いている。

龍麻達も豊富な情報を有し、大人ぶって説教じみたことを言わない彼女を信頼しており、

歳こそ離れているものの、一種仲間めいた連帯感を抱いていた。

 しかし、気さくに手を上げた絵莉に、まず先陣を切って京一が話しかけようとすると、

その前に雪乃が肩をいからせて詰め寄る。

その剣幕は、絵莉をも驚かせるものだった。

「ちょっとあんたッ! 一体何が目的か知らねェけどよ、

今度うちの周りをうろついてたら承知しねェぜ」

「姉様ッ」

 雛乃にたしなめられて口こそ閉ざしたものの、露骨な警戒心を隠そうともしない。

絵莉はそれを、洗練された社交術で無視し、人好きのする笑顔を浮かべて挨拶した。

「あら、貴女達、織部さんのお嬢さんね。そういえば、こうして話をするのは初めてかしらね。

──天野絵莉よ、よろしくね」

「何でオレがよろしくされなきゃならねェ──」

「これはこれは、はじめまして。織部が妹、雛乃と申します。

今後とも、よろしくお願いいたします」

 姉の剣幕を押し退けるようにして雛乃が頭を下げる。

怒りを空回りさせられた格好になった雪乃は、妹の肩を掴んでたしなめた。

「何普通に挨拶してんだよ雛ッ」

「?」

「こいつは探偵だぞッ! きっとこの神社を潰すつもりに違いねェ」

「まぁ……」

 探偵がどうして神社を潰さねばならないのか、雪乃以外の全員がさっぱり解らなかったが、

雪乃は真剣そのものだった。

「こんなボロっちいトコ、放っといても潰れ……痛ッ」

 雪乃が激しやすい性格であることはごく短い時間で判っていたから、

火に油を注ぐような言動は慎まねばならない。

龍麻が思いきり京一の足を踏みつけると、反対側で小蒔が彼のわき腹に肘をくれていた。

加害者二人は苦悶にのたうつ京一の背後で顔を見合わせて小さく笑う。

どうにか京一は黙らせた龍麻と小蒔だったが、今度は雪乃を止めなければならない。

これがなかなかに難題で、小蒔でさえも雪乃の気性の激しさにはてこずってしまうのだった。

小蒔が中々突破口を見出せずにいると、雪乃が絵莉に向かって指を突きつける。

「おい探偵、いつでもオレが相手になってやるぜッ!!」

「んー、一応ルポライターなんだけどな」

 探偵と言われた絵莉は、人差し指を口に当て、上を向いてみせた。

少し子供っぽくも見えるその仕種は、例えば京一などには可愛らしく映ったようだが、

雪乃には逆効果となってしまったようだった。

「どっちでも同じだッ!!」

「やれやれ、随分嫌われちゃったわね。でも安心して、しばらくここには来ないと思うから。

元気のいい巫女さん」

 ますます盛んとなる雪乃の勢いに、さすがに辟易した様子で絵莉は苦笑した。

「なんだよ絵莉ちゃん、もう行っちまうのかよ」

「ごめんね、京一君。ちょっと調べたいことがあるの」

 調べたいこと、というのが京一ならずとも気になるところだ。

しかしそれを訊ねる前に絵莉は軽く手を上げ、言葉通り去っていってしまった。

 京一が肩を落とす一方で、雪乃は肩をいからせたままだ。

「嫌なカンジだぜ。じいちゃんも調子に乗って余計なこと話してなけりゃいいけどよ」

「考えすぎだよ、雪乃。天野サンはそんな人じゃないって」

「ヘッ、どうだか」

 小蒔がなだめても雪乃は疑いを解かない。

意固地になってしまっている雪乃をなだめたのは、彼女に最も近しい人物だった。

「姉様、おじい様もおっしゃっているではありませんか。

人を疑わば、信を得る事能わず、って。無闇に人を疑ってはいけませんわ。

織部家の御先祖様も、代々、この言葉を──」

「わかった、わかったよ。オレが悪かった」

「わかればいいです」

 滔々とうとうと語り始める妹に危険を感じたのか、雪乃は両手で妹を制し、

早足で家の中に入っていってしまった。

その足取りは過去に何かよほど嫌な記憶があるのでは、と一同に推察させるものだったが、

穏やかな雛乃の顔を見ていると、とても訊く勇気はないのだった。

「さあ、それでは皆様、どうぞお上がりになってください」

 龍麻達は数人が一度に入っても平気な土間に通された。

 コンクリートなど一切使われていない家屋は、柔らかな暖かさで迎えてくれる。

初めて踏み入れるこの場所に、龍麻が覚えたのは何故か懐かしさだった。

だが京一はそんなことはないらしく、感想というにはあまりに酷すぎることを言ってのけた。

「──にしても、古い建物だな。こりゃでかい地震でも起きたらひとたまりもねェぜ」

「うるせェな、うちは江戸時代からある由緒正しい神社なんだよッ。

それからほとんど改築されてねェんだぜ」

 とすると、この神社は少なくても百余年、多ければ四百年弱の歴史を有していることになる。

素直に感銘を受けた龍麻達四人は、改めて建物を構成している柱や壁に目をやった。

 木目が見えないほど黒ずんでいる柱は、それがいかに大切に扱われ、

磨かれてきたかを物言わず語っている。

すると壁のしっくいなども、ひびが入っているのがかえって趣を感じさせたりするのだった。

なんとなく暖かな気持ちになった四人だが、一人京一だけは相変わらず遠慮のないことを言う。

「どうりでボロいと思ったぜ」

「歴史があるッつってンだろッ!!」

「姉様、皆様を奥の間に案内しておいてください。わたくしは、お茶の準備をして参ります」

 たちまち声を荒げる雪乃に、絶妙の間で雛乃が話しかける。

さすがに双子と言うべきか、雪乃の感情を巧みに読み取り、

大事に至る前にさりげなくなだめる手腕は見事なものだった。

「こっちだ、ついてきなッ」

 怒気を未発のまま封じこまれた雪乃は、龍麻に向かって顎をしゃくって案内する。

 態度は怒っていても、歩き方にまで反映されていないのは、

彼女なりに家を傷めないように気を使っているのだろうか。

踵に体重をかけない足さばきに興味を持った龍麻は、彼女の背中ごしに声をかけた。

「この神社が好きなんだな」

「あン? ……そりゃ、自分が産まれて育ったところだからな。

確かに、ちょっとはボロいけどよ」

「いや、江戸時代からずっとあるなんて凄いじゃないか。風格を感じるよ」

 龍麻に褒められたことで雪乃は機嫌を直したようで、

八人ほどが一度に座れる大きな座卓が置いてある奥の間に着くと、

座布団を渡して座るよう勧めた。

「そこまで言われるとかえって照れちまうな。ま、適当に座ってくれよ」

 この座卓もまた年季の入ったものであることが容易に見て取れる、深い艶の光沢を放っていた。

それにしても、建物だけでなく家財までも江戸からのものなのではないか──

つい龍麻がそう思ってしまうほど、見渡す限りが年代物ばかりだった。

「ま、古いモノにはそれなりの歴史が刻まれてるって言うしな」

 腰を下ろした雪乃は、忙しく首を振る龍麻に微かな笑みを浮かべつつ言った。

すると廊下から、静かにそれを受ける声がする。

「ただ、歴史が──刻が流れたからといって、その物に価値が生まれるという訳ではありません。

時間の流れよりも大切なものを経て、初めて価値が生まれるのです」

「雛乃」

 現れた雛乃は、白と朱の和装に着替えていた。

弓道の袴姿も似合っていた彼女だが、この巫女装束を目にするといささか霞んでしまう。

それほど肌に馴染み、彼女の為人に合った服装だった。

龍麻達がなんとなくたたずまいを直したのは、彼女に魅了されたというだけでは必ずしもなく、

むしろ彼女の身体から自然に放たれている清廉な威に打たれたからだ。

 そんな龍麻達に、雛乃は煙るような微笑と共に茶菓子を供した。

「お茶が入りましたから、皆様どうぞ」

「ありがと。で、雛乃、時間の流れより大切なモノって?」

 この中では双子の姉である雪乃を除いて、最も雛乃とつき合いが長い小蒔は、

男連中と違って特に態度を変えることもなく、早速菓子を口に放り入れながら訊ねる。

 姉の横に正座した雛乃は、改めて真神学園の五人を見回し、

小蒔のところで視線を固定させて答えた。

「そうですね……例えばそこにまつわる人の想いや言い伝え、そして、そのものが持つ意味など。

それは時として、わたくしたち人間の為すべき道を指し示すのです」

 雛乃の言は一般論にしては意味深長なもので、龍麻の背筋は自然と真っ直ぐになった。

小蒔や京一も表情を引き締め、彼女の話に耳を傾ける。

「今日、皆様にお越し頂いたのは、皆様の持つ『力』について──

いくらかでもお役に立てれば、と思ったからです」

 やはり彼女は、ただ小蒔の友人と茶飲み話をするために自宅に呼んだのではなかったのだ。

しかし何故『力』のことを知っているのか、という疑問を、小蒔が説明する。

「前に雛乃と会った時にいきなり氣のコトを訊かれてね、相談したコトがあったんだ。

今まで黙っててごめん、みんな」

「わたくし達は巫女としての修行もいくらかは積んでいるのですが、

ある日、小蒔様の身体の周りにとてもはっきりとした氣が見えたものですから、お訊ねして……

緋勇様達のこともその時にお伺いしました」

 小蒔をフォローするように雛乃が言ったが、もちろんそんなことで怒る龍麻ではない。

小蒔は話して良いことと悪いことはきちんと区別できる人間であり、

雪乃ではないが、彼女が話したのなら雛乃は信用に値する、と龍麻は思っていた。

もっとも、雛乃が悪人であるという可能性は、例えまだ少ししか話していなくても、

全く無い、と言い切れるのではあるが。

ただ、雛乃は、氣を感じとることができ、『力』の存在を知っている、

という以上に何かを知っているように見えた。

「これからわたくしがお話しすることは、あくまで、この神社に伝わる言い伝えです。

それをどう思われるかは、皆様にお任せいたします。

わたくしはただ、今、この東京に起こりつつある異変を解く鍵となれば、と」

 そう前置き、軽く茶を含んで喉を湿らせた雛乃は、静かに語り始めた。

外界の音が遮断された部屋に、わずかな抑揚を伴った声が奏楽のように響く。

「昔、遠い昔のお話でございます。

この地方の武家に、ひとりのお侍様がいました。

そのお侍様は心優しく、民を思い、人々から慕われていたそうです。

ですが、ある日──道に迷った女性を助けた時から、お侍様は変わってしまいました。

お侍様は、その女性に恋をしてしまったのです。

その女性は都の姫君でした。

片思いとはいえ、そのような身分違いの恋が許されるはずもございません。

お侍様は呪いました。自分の身分を、そして、無力さを。

お侍様はその土地で奉られていた龍神様の力を呼び起こし、

姫を奪うために、三日三晩都に嵐を起こしました。

都の軍勢はお侍様のお屋敷に攻め込みましたが、

そこにお侍様の姿を見つけることはできませんでした。

都の人々が見たのは、醜くもおぞましい異形の者達だったのです。

それは大地の裂目から現れた鬼達と、自らも鬼に変わったお侍様でした。

──やがて鬼達は討ち取られ、お屋敷は焼かれました。

人々はお屋敷のあった場所に社を建て、お侍様の霊を弔ったそうです。

それが──この織部神社です」

 語り終えた雛乃が口を閉ざすと、感心したように小蒔が首を振った。

「ここに、そんな言い伝えがあるなんて知らなかったよ」

「そういえば、小蒔様にお話するのも初めてでしたね」

 そっと口元を綻ばせた雛乃は、静かに問いかけた。

「皆様──『龍脈』というものをご存知でしょうか」

 五人は互いに顔を見るが、知っている者は誰もいない。

雛乃はそれを予期していたようで、再び問いかけてきた。

「では、『風水』というのはご存知でしょうか」

「あ、それなら聞いたコトあるよ。

『幸運を身につける』とか『お金の貯まる』とかそういうヤツでしょ。

本屋さんで見たことあるよ」

 ようやく判る言葉が出てきて、小蒔が座卓に身を乗り出した。

すると雛乃の隣にいる雪乃が、束ねた髪を小さく揺らす。

「間違っちゃいねェけどよ、それはどっちかって言うと活用法だな。

本来の風水ってのは、昔の中国で生まれた地相占術なんだ」

「地相……占術」

 全く聞き慣れない言葉に、龍麻は発音してみるが、やはり想像もできない。

すると、続けて雪乃が説明してくれた。

「地相占術ってのは、そびえる山や流れる川の位置や、その土地の性質を視て、

家を建てる場所や社を建てる場所を決めて個人や、

その地を治める国家全体を吉相に導く呪法の一種さ」

「なんだ、ただの占いかよ」

 つい口を挟んだ京一を、雪乃がじろりと睨む。

その程度で恐れ入ることなどない京一はそれを睨み返し、不穏な空気が発生しかけたが、

雛乃が上手にとりなして事なきを得た。

「ふふ、蓬莱寺様、風水はただの占術とは違うのですよ。

風水というのは吉凶を占う法ではなく、確実に吉を得る為の手法なのです。

だからこそ、過去の為政者達は国の中枢を風水において最も吉相とされる地に

おくことに権力を注いできたのです。『四神相応』と呼ばれる場所に」

「四神……なにそれ」

 小蒔が訊ねる。

次々と登場する難解な単語に、龍麻や葵もついていくのが精一杯だ。

京一などは既に諦めたのか、話を聞いているようないないような、微妙な表情をしていた。

「四神ってのは東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。

各方位を守護する聖獣のことさ。

そしてそれらが護る中央には、黄龍って黄金の龍が眠るって言われてる」

「黄龍はそのまま大地の力そのものに例えられ、

地球を駆け巡るその力の通路のことを龍脈──と呼ぶのです」

 雪乃の説明を、雛乃が引き取る。

調子は違えど声質は同じ二人の声は、聞いている龍麻達に、

催眠術に近い不思議な感覚を与えていた。

更に話の内容も中々に幻想的なものであるから、ともすればぼんやりとしてしまう。

しかし話は、いよいよ本題に入るようであった。

「さきほどお話しした言い伝えでお侍様に力を授けた龍神様は、

この龍脈を指すのだとも言われております」

 雛乃が言い終えると、しんとした空気が満ちる。

彼女の話をまとめてみると、龍麻の脳裏にひとつの結論が生まれた。

「俺達の『力』が、その龍脈とやらに拠るものだってことか……?」

 驚いた京一達が、一斉に龍麻を見る。

龍麻も自分自身、飛躍しすぎではないかと思ったほどであったが、

雛乃の深く澄んだ瞳は、その突拍子もない考えが間違っていないと告げていた。

 春に起こった小さな事件をきっかけとして宿った、超常的な『力』。

それはより大きな事件に龍麻達を巻きこむ鍵となり、時に忌まわしく、時に支えとなってきた。

しかし当初から抱いていた疑問──この力は何の為に、誰が与えたものなのか──の答えは、

龍麻達の予想を遥かに超えたものだったのだ。

そしてその答えは、龍麻達にとってあまり喜ばしいものではなかった。

「だとしたら、ボク達も鬼になっちゃうの?」

 小蒔の悲鳴に近い声は、龍麻達全員の心境を代弁していたと言って良い。

勝手に『力』を与えておいた挙句に鬼に変えてしまうとは、随分な神様もいたものではないか。

 雛乃は親友の問いには直接答えず、わずかに乱れていた姿勢を正して言った。

「皆様。この地を護ろうとする『力』を大地より授かったのは、皆様だけではございません。

龍脈の活性化は乱世の始まり。そして、それを治めようとする者も同時に現れるのです」

 雛乃の口調に熱が篭る。

穏やかな湖の如しと思われた彼女の感情は、大河のごく一部を見ていたに過ぎなかったのだ。

黒瞳にその奔流を浮かべ、雛乃は龍麻を見やる。

「この東京が歩む道は二つ──陰と陽が互いに共存を目指す陰の未来か、

どちらかがもう一方を完全に殲滅するまで闘う陽の未来か。

緋勇様なら──どちらをお選びになりますか」

「共存って……鬼道衆は東京を壊滅させようとしているんだよ?

そんな奴らと共存なんて出来るはずないじゃない」

 龍麻が答えるより先に小蒔が激昂する。

鬼道衆との闘いは紛れもなく生命のやり取りであり、

雛乃の言葉は親友といえども、いかにも理想論に聞こえたのだ。

 京一や醍醐も、どことなく小蒔に賛同しているように見え、

黒い座卓を挟んで、龍麻達と織部姉妹は俄に対立を始めてしまったようであった。

 全員の視線が龍麻に集中する。

それら全てを受けとめた龍麻は、一人一人の顔を見返してから、

一語一語を選びながら口を開いた。

「共存……はできないな」

 我が意を得たりと小蒔の顔が輝き、対照的に雛乃はわずかに顔を曇らせる。

「殲滅させようとまでは思わないにしても、桜井の言う通り、東京を壊滅させようと目論み、

そのためには多くの人の命を奪うのも厭わないような連中とは、

とても共存なんてできないだろう」

「そう……ですか……」

 吐息とともに落胆がこぼれるのを龍麻は感じたが、

だからといって自分の考えを曲げるつもりはなかった。

「オレもそう思うぜ」

 龍麻に賛意を告げたのは、意外なところからだった。

雛乃の隣に座る、彼女の双子の姉である雪乃が、妹とは意見を異にしたのだ。

「小蒔から話は聞いてるけどよ、ずいぶんな悪党みたいじゃねェか、その鬼道衆って野郎共は。

そんな奴ら、ぶった斬ってやりゃあいいんだ」

「姉様」

「オレはこいつらについてくぜ」

「待った」

 見得を切る雪乃に、龍麻は慌てて口を挟んだ。

「俺はもう何度も大怪我をしているし、この間は桜井に怪我をさせちまった」

「うんッ、その前なんか石にされちゃったしね」

 混ぜっ返すかのようにリズム良く相槌を打つ小蒔に、若干顔をしかめつつ龍麻は続ける。

「悪いことは言わないから、ついてこないほうがいい」

「お前らは戦いを止めねェんだろ? それとも何か、オレじゃ足手まといだってのか」

 龍麻が即答しなかったのを、肯定していると受けとめたらしい。

やにわに立ちあがった雪乃は、仁王像さながらに怒っていた。

「上等じゃねェか、お前の実力がどんなもんか、オレが試してやるぜッ!」

 困り果てた龍麻はこの場で彼女を唯一止めてくれそうな、彼女の妹に視線で助けを求める。

だが、先に彼女の考えに同調しなかったのが気に入らないのか、

雛乃は黙したまま立ちあがり、姉の後をついていってしまった。

「……まいったな」

 事の成り行きに呆然としながら龍麻も渋々雪乃を追い、京一達も龍麻に続いたのだった。

 

 織部神社には薙刀の教室に使われている、板張りの床の離れがある。

 今、部屋の中心には龍麻と雪乃が立ち、壁際に京一達がいた。

薙刀を携える雪乃は、ゆきみヶ原高校の制服のままだ。

武道袴に着替えないのは、よほど頭に血が上っているからだろうか。

こちらも同じく学生服を着ている龍麻は、そんなことを考えながら京一達を見た。

 京一は結果が判っているのか、退屈そうにしている。

醍醐は何であれ試合という形ならば真剣に見届けようというのか、どっしりと構えていた。

小蒔は友人同士の諍いに落ちつかないようだ。

葵は試合の行く末よりも、小蒔を案じているように見えた。

「よしッ、準備できたぜ。こぶができるくらいは覚悟しておけよ」

 靴下を脱いだ雪乃が告げ、龍麻も構えた。

こうなったら勝負しないことには、収まりがつかないだろう。

「何でもありで来い」

 応じた龍麻は自ら氣を練りあげた。

生じた氣の圧に驚いた顔をした雪乃は、すぐに自身も氣を練りはじめた。

「ヘッ、その程度でオレがビビるとでも思ってるのか」

 薙刀の切っ先を龍麻の顔に向ける。

薙刀はもちろん練習用の、切っ先が刃になっていないものだったが、

わずかに薄青の光をまとっているのは、彼女の氣だろう。

輝きが明滅しているように見えるのは、まだそれほどには氣を扱えないのかもしれない。

「行くぜ……ッ!」

 気合と共に雪乃は薙刀を振り下ろしてきた。

初撃で決めようという強い意思が感じられる激しい一打を、龍麻は半身で躱す。

避けられた雪乃は素早く中段の構えに戻し、今度は横に薙いできた。

空気を断つような疾い薙ぎは、だが、龍麻の胴を捉えない。

左腕を跳ねあげ、雪乃の軌道を逸しつつ身体を沈めた龍麻は、

スライディングの要領で雪乃の足元を狙う。

氣によって強化された身体能力は、雪乃の想像を上回る疾さで襲いかかった。

 踏みだした右足にスライディングが当たる。

足を払われた雪乃は、顔から地面に倒れこんだ。

「姉様っ!」

 雛乃の悲鳴が室内を割る。

たおやかな彼女のどこから振り絞ったのかというほどの声量が消え去ったとき、

雛乃の姉は龍麻に抱きとめられていた。

龍麻が下になってはいるが、肩を掴まれた雪乃は身動きを封じられている。

「卑怯だぞッ!」

 屈辱で顔を赤くする雪乃に、龍麻は冷徹に告げた。

「試合じゃない、戦いでそんな綺麗事は通用しない。それに、薙刀だって脛を狙うだろう」

「……ッ!」

「大方面か胴で俺に勝って良い所を見せたかったんだろうが、技が綺麗すぎてどうしようもない。

人間じゃない化け物と戦うには、どんな手でも使って、そして生き残るって覚悟が要る。

勝ちました、でも大怪我をしました、では駄目なんだ」

 雪乃の白い喉が震える。

上体を起こし、雪乃の足の間から抜けでた龍麻は、

うなだれている彼女に幾分口調を和らげて言った。

「お前は充分強いよ。でなきゃ、スライディングなんて奇襲技は使わなかった」

 慰めのつもりでかけた言葉は、完全に逆効果だった。

龍麻がそれを悟ったのは、雪乃の怒りに歪んだ表情だった。

顔を上げた彼女は、耳まで赤黒く染めて言い放った。

「……オレは、お前についてくぞ」

「は?」

「オレの覚悟が半端じゃねェってところを見せてやるッ!

いいなッ、オレは絶対にお前に勝ってやるからなッ」

 何を聞いていたんだ、と呆れる龍麻に、雛乃までもが異を唱えた。

「緋勇様、姉様を助けるためにわたくしもご同行させていただきます。

この織部神社は、東京に点在する他の社寺と同様、

東京を護るために打ち込まれた、楔のひとつなのです。

その巫女として、少しはわたくしも皆様のお役に立てるはず。

織部が二人、未熟かもしれませんが、必ず緋勇様のお役にたってご覧にいれます」

「いや、そうじゃなくてだな……」

 思惑とは正反対となった事の運びに、さすがに苛立った龍麻ははっきりと断ろうとする。

「まあ、いいじゃない。二人だって興味本位でついてくるって言ってるワケじゃないんだし」

 雛乃の考えに反対だったはずの小蒔が、いつのまにか彼女達の擁護に回っている。

それでも、龍麻はなお彼女達の同行に反対した。

「盲目者との戦いで、俺は自分の油断から桜井に怪我をさせちまった。

ああいうのはもう嫌なんだよ」

「たいした怪我じゃなかったし、別にボクは緋勇クンが悪いだなんて思ってないよ。

それに、いざとなったら葵が治してくれるしね。ね、葵」

「え、ええ、そうね」

 この件に限っては、葵は龍麻と意見を同じくする。

得体のしれない『力』などあまり使いたくはないのだ。

だが、表立って龍麻に賛成するのも気が進まず、控えめに小蒔の肩を持つに留めた。

 小蒔に渋面を作る龍麻に、京一が笑いかける。

「へへッ、もう諦めろよ。こんな可愛い雛乃ちゃんが一緒に戦ってくれるっていうんだ、

小難しいこと考えずに来てもらえばいいじゃねェか」

 ついに醍醐以外全員に賛成されてしまい、龍麻は折れた。

「俺達が相手にしてるのは、得体のしれない化け物だぞ……本当にいいのか?」

「おうッ、望むところだぜッ」

 威勢が復活した雪乃に軽いため息をついた龍麻は、同時に上体を起こして雛乃を見る。

「殺そうとしてくる相手に情けなんてかけてたらこっちがやられる。

情けをかけたいのなら、まず勝つ――それも、相手がそれを受け入れるしかないほど

圧倒的な力の差で。それだけは忘れないでくれ」

「はい」

 深く、勁く頷く雛乃に、やはり彼女達は双子なのだと説得を諦めた龍麻は、

雛乃と同じ表情で座っている雪乃に手を差し伸べた。

「足首は大丈夫か。痛いようなら治療する」

「えッ!? あッ……べッ、別になんともねえよ」

 顔を赤くした雪乃は龍麻の手を取ることなく、逃げるように妹のところに行ってしまった。

なぜ急に機嫌を損ねたのか、さっぱりわからない龍麻に説明したのは小蒔だった。

「ボク、雪乃が照れるところなんて初めてみたよ」

「ばッ、馬鹿野郎ッ、オレは照れてなんてねェッ」

「照れる? どうしてだ?」

「どうしてって、雪乃たぶん男の人の手を握ったことないんじゃないかな」

 龍麻が小蒔から雪乃に視線を戻すと、彼女はいよいよ顔を赤黒く染めて叫んだ。

「うるせェッ! ンなこたァ鬼道衆とかいう奴らをぶった斬るのに関係ねェだろッ!」

 発覚した雪乃の意外な弱点に、龍麻達は思わず顔を見合わせ、小さく笑うのだった。

 笑いを収めた龍麻達は、改めて集まる。

全員を見渡して龍麻は言った。

「鬼道衆の目的が何か、まだ判らない。だが、化け物を喚びだしてまで

東京を破壊しようとする奴等だ、放っておけるもんじゃない」

「うんッ、これ以上犠牲者を出さないために、

ボク達の『力』で止められるんなら絶対止めなきゃねッ」

「人を不幸にしない為の『力』……か」

 小蒔に続いて醍醐が重々しく頷く。

この男もまた、望まぬ形で与えられた『力』について、その意味を求め悩んでいたのだ。

 さらに京一が軽く口の端を曲げる。

「俺もこの東京が薄汚ねェ連中に土足で踏み荒らされるのは気に食わねェ。

しかも暴れた後のメシ代は緋勇が持ってくれるってんだ、派手に暴れてやるぜ」

「本当かよッ!?」

 雪乃が訊いたのは京一ではなく龍麻だ。

「ああ、メシで釣る訳じゃないが、メシ代は俺が全部出してる」

「そりゃ良いこと聞いたぜ。鬼道衆とかいう野郎共、ガンガンぶった斬ってやる」

 手を打ち鳴らす雪乃の制服の袖を恥ずかしげに引っ張ったのは、彼女の双子の妹だった。

「姉様」

「なんだよ、別にいいだろ」

 食事のために戦うというのはあまりにはしたないと雛乃には思えたらしく、

健康的な肌の雪乃に較べると、むしろ彼女の姉の名前にこそふさわしい、

白雪に近い肌を先程の雪乃に劣らぬくらい染めてうつむいてしまう。

京一の図々しさにすっかり慣れている龍麻などには、それが随分初々しく見えるのだった。

 途中からはすっかり予想もつかない展開となったが、

織部神社に来たことは龍麻達にとって大いなる収穫だった。

その後もしばらく話しこんだ龍麻達が気づけば外は暗く、完全に夜になっていた。

「もうこんな時間か。今日はありがとう、二人共」

「いえ、こちらこそ長くお引き止めしてしまって」

 そこまで見送ってくれるという雪乃と雛乃と共に、織部神社を辞去する。

 道場の外に出ると、まず京一が大きく伸びをした。

「まったく、難しい話の連続で俺はもうクタクタだ」

「俺は結構興味深かったがな。な、緋勇」

 京一との差を見せつけようとするかのような醍醐に笑って龍麻が頷くと、

面白くなさそうにそっぽを向いた京一は、その先にひっそりとたたずむ小さな建物を見つける。

「そんなもんかねェ。──ん? 雛乃ちゃん、あの建物は」

「あそこには、曾御爺様が乃木様より御預かりした、大切な物が安置してあります」

 乃木、という珍しい苗字に反応したのは醍醐だった。

「乃木って──乃木大将のことか」

「醍醐様は御存知ですか」

「いや、俺もじいさんから名前を聞かされたことがあるくらいだが」

 乃木 稀典まれすけ。

幕末から明治初期にかけての軍人であり、日露戦争では大将として陸軍を指揮した。

奥津城おくつきは青山霊園だが、彼を奉った乃木神社が日本の何ヶ所かにある、

当時の日本人に慕われた人物だ。

江戸からあるという織部神社だから、乃木大将の名が出てもおかしくはないが、

やはり歴史を感じずにいられない。

「乃木様は、曾御爺様と懇意にされていたらしく、

露西亜に遠征される前に曾御爺様を訪ねられたそうです。

その時に乃木様は、こんな事を話していらっしゃったと言います。

『もうすぐ『塔』が完成する。その塔が地上に姿を見せた時、我が帝の国は変わるであろう』と」

「『塔』?」

 日本史の授業でそんな塔なんて出てきただろうかと龍麻は首を捻ったが、

これは教科書に載るような類の話ではないようだった。

「はい。乃木様と、同じく当時海軍大将の東郷様が中心となって、

何かの研究を極秘裏に進めていらっしゃったと聞いております。

御預かり物というのも、それに関係する物だと。

乃木様と東郷様がお持ちになっていたそれぞれの品は、

ひとつは護国の象徴である新宿靖国神社に。

そしてもうひとつが、この織部神社に預けられたのです」

 雛乃は結局その大切な物が何か、とは教えてくれなかった。

部外者には教えられないのかもしれないし、雛乃自身も知らないのかもしれない。

いずれにしても、あまり深く訊ねるべきではないと思われた。

 龍麻が再び歩き始めると、京一が同意を求めてくる。

「けど、乃木だ東郷だって言われても、誰だかわかんねェよな」

「京一ィ……キミ、一応日本史勉強してんだろ」

 呆れかえって小蒔が尋ねても、京一は動じなかった。

「もちろんだ。俺の日本史は、俺が産まれた時から始まってるからな」

「……帰ろう、みんな」

 これ以上身内の恥を晒さない為に、雪乃と雛乃に再会を約束して

龍麻達は織部神社を後にしたのだった。

 

 電車の扉に龍麻は背を預ける。

まずまず混んでいる車内では、ついたため息など雑音に紛れてしまうはずだったのに、

どう聞きつけたものか、京一が目を合わせてきた。

「雛乃ちゃん達が仲間になるのが、まだ不満なのかよ」

 京一の問いに龍麻は小声で、しかし声を荒げて答えた。

「どいつもこいつもどうして首を突っこみたがるんだ? 死ぬかもしれないってのに。

おまけに共存を目指すなんて腑抜けた考えじゃ、鬼道衆には立ち向かえねえだろう」

「そりゃ、お前が悪い」

 目を細める龍麻に、京一は当然とばかりに告げた。

「お前、あの勝負で『負けたら仲間にはしねェ』なんて言わなかっただろ?

それに足元掬うなんて一番怪我しねェやり方、しかもご丁寧に受けとめやがって、

尻もちぐらいつかせてやりゃ良かったのによ」

「……! それは……でも、解るだろう普通!?」

「ンなこたァ俺じゃなくてあのオトコ女に言えよ。ま、お前はそういうところがヌけてるからな」

 実力差を――少なくとも、

すでに鬼道衆との戦いを経験している人間との実力差を見せつけることで、

雪乃の意思を挫くという龍麻の目論見は、負けて怯えず、

従うを良しとしない彼女の苛烈ともいえる気質と、

京一の指摘したとおりの龍麻のミスによって脆くも崩れ去ったのだった。

 雪乃の強情に腹を立てていた龍麻は、自分にも非があると気づかされて空しく口を開閉させる。

 そんな龍麻を、京一は遠慮なく笑い飛ばした。

「ま、諦めるんだな。お前はどうも怪しい奴等を引き寄せるみてェだからな。

せいぜい面倒を見てやるこった」

 自分を棚に上げて龍麻の下に集う仲間達をこき下ろした京一は、

消沈する龍麻を遠慮なく笑い飛ばすのだった。

 新宿駅に到着した龍麻達は、改札口を出て人気のないところに移動する。

 会話ができるようになった途端、小蒔が興味津々で訊ねた。

「ね、京一と電車の中で何話してたの? なんか楽しそうだったけど」

 まだ自失から回復していない龍麻に代わって答えたのは京一だった。

「お前の祝勝会をどこでやろうかって相談してたんだよ」

「わッ、ホント!? あ、でも、今日はダメだなあ、試合の結果を家のみんなに報告しなきゃ」

「主役が来れないんじゃしょうがないな。祝勝会は別の日にしよう」

 自失から回復した龍麻が言うと、京一が肩をすくめた。

「ちッ、しょうがねェな。今日は普通にラーメン食って帰るとすっか」

「エヘヘッ、ごめんね。それじゃね、みんなッ」

「私も今日は帰るわ。もう遅いし、家で夕飯を用意していると思うから」

 すかさず小蒔に倣った葵に、京一も龍麻も疑問を抱かなかったようだ。

「なんだよ、つき合い悪ィな。しょうがねぇ、醍醐はつき合えよ」

 苦笑しつつも頷いた醍醐は、続けて口を開いた。

「それより明日なんだが、皆に会わせたい人がいるんだ。

俺の師匠みたいな人でな、爺さんだが、いろいろ世情に詳しい。

西新宿の外れに一人で暮らしているんだ」

「へぇ……そんな人いるんだ」

 小蒔が言うと、醍醐はどこか恥ずかしそうに続ける。

「俺が杉並から越してきたばかりで、まだどうしようもない頃に世話になった人でな。

易をやっているんだ」

「占い師かよ。お前ヘンなの師匠にしてんだな」

 興味の無いものには全く容赦のない京一の態度に、醍醐の口調が荒くなる。

「龍山先生はただの占い師じゃないぞ。

易の世界では結構有名人らしいしな。実は前から一度、皆で行こうと思っていたんだ。

龍山先生ならきっと、俺達の力になってくれるはずだ。

ただ、何回か手紙を出しているんだが、返事が無くてな」

「もう死んでんじゃねェのか」

「失礼なことを言うなッ! ……まぁ、京一の言うようなことにはなっとらんと思うが、

その辺りも兼ねて、な」

 小蒔は小首を傾げたが、長い間ではなかった。

「ふーん……ボクはいいよ。葵は?」

「え、ええ、私も明日は大丈夫よ」

 小蒔が行くと言ってしまった以上、彼女を一人にはできない葵は当然そう答えるしかなかった。

「よし、決まりだな。それじゃ、二人とも気をつけてな」

「うん、じゃーね」

「さようなら、みんな」

 明日の再開を約した五人は、男達は夜の街に、女達は家へと足を向けるのだった。

 

 道無き道を、龍麻達は歩いていた。

五人は昨日醍醐が提案した、彼の師であるという人物に会いに、西新宿を訪れていたのだ。

 小さな林の中にあるという住処への道は、

木々が陽射しを遮ってくれているので暑さはそれほど感じない。

それに、鬱蒼と茂る竹は風が吹くたびにある種不気味とも言える音で包みこみ、

車やその他の騒がしい響きから遠ざけてくれる為に、

ともすれば東京にいることを忘れてしまいそうだった。

 普段中々味わえない静謐さに、それぞれ思索に耽りながら歩く四人を、

けたたましい男の声が破る。

「おい醍醐ッ! 何が歩いていける距離だッ!!」

「歩いているじゃないか」

「ふざけんなッ!! もうどんだけ歩いてると思ってやがるッ!!」

 実は京一が怒るのも無理はない。

龍麻達はもう小一時間ほども歩き続けていたのだ。

ゴールに美女でも待っていればまた話は違うのだろうが、

生憎と会いに行くのは老人で、しかも行けども行けども目にするのは竹ばかりとくれば、

気の短い京一などは、もともと乏しい歩く気力も使い果たしてしまうというものだろう。

 しかし、それを相手させられるほうはたまったものではなく、

十分に一度はぶつくさ言っていた京一を聞き流していた小蒔も、ついに怒って手厳しく反発した。

「もう、うるさいな。文句ばっかり言うなら、途中から帰れば良かったんだよ」

「くッ……」

「軟弱者が」

 小蒔に続いて醍醐に吐き捨てるように言われ、京一は黙らされてしまう。

助けを求めて龍麻を見ると、頼みの綱は小難しい顔で竹を見ていた。

頼りにならない友人に、京一は腹いせに小石を思いきり蹴とばした。

放りこまれた小石に、竹やぶがざわざわと大きな音を立てる。

「へッ、気色悪い音出しやがって」

 自然現象にまで悪態をつき始めた京一になど誰も構わなかったが、

たしかに薄気味の悪い物音に引っ張られた雰囲気を変えるためか、醍醐が知識を披露した。

「この竹林は古い物でな、なんでも江戸時代からあるそうだ」

「ふーん……なんか凄いね」

 感心する小蒔に、やりこめられた恨みか、京一がまた小石を蹴飛ばした。

幸か不幸か、蹴飛ばす小石はいくらでもあった。

「竹なんてどうでもいいからよ、いい加減そのジジイの家に着かねェのかよ」

「はははッ、ここを抜ければすぐだ、もう少し我慢しろ」

「ッたく、こんな竹ばっかり生やしやがって……パンダでも飼ってんのかよそのジジイは」

 苛立っているために滅茶苦茶なことを言う京一に苦笑しつつ、

醍醐は龍麻達を促して再び歩き始める。

それから十五分ほど歩いたところで、竹の向こうに一軒の家が見えた。

「見えてきたぞ、あれが龍山先生の家だ」

「うへェッ、こりゃ昨日の織部神社に負けず劣らずボロい所だな」

「趣があると言わんか。それに、ああ見えて中は綺麗なんだぞ」

 醍醐には悪いが、土壁に茅葺屋根の小さな家は、確かに立派とは言い難かった。

ただしこんな竹やぶの中にいきなりコンクリートの家があっても、それはそれで違和感があるだろう。

「龍山先生──ッ、居ませんか」

 小さな、庵と言っても差し支えない建物の外から、醍醐が呼びかける。

竹がさざめく音しか聞こえないこの場所にあって醍醐の声は良く響き渡り、

中にいる人間が例え昼寝していても目覚めたであろうが、庵の中から返事はなかった。

「留守か」

「おいおい、こんな所まで連れてきておいてそりゃねェだろ」

「いいさ、中で待たせてもらおう」

 焦るでもなく醍醐は中に入った。

 建物にふさわしい古い引き戸は、もちろん鍵などついていない。

泥棒が来たら一切合財持っていかれそうな感じであったが、

こんな所まで盗みに来る輩などいるはずもないだろう。

 先頭に立って案内した醍醐は、一同を居間に通した。

五人が入ると結構窮屈さを感じてしまうのは、ただ小さいというだけではなく、

部屋の中央に現代の東京には珍しいものが置いてあるからだった。

「うわぁ凄い、囲炉裏があるよ」

「本当、素敵ね」

 天井から鍋こそ吊るしてないものの、正方形にくりぬかれた床に、灰が敷き詰められている。

今はそれほど寒くはないが、冬になればこれが唯一の暖房器具なのだろう。

初めて目にする囲炉裏を興味深く眺めていた小蒔は、指で灰を触ってみたりしていた。

彼女に倣って龍麻達も腰を下ろす。

「しかしよ、醍醐」

「なんだ」

「お前みてェな頭の固いヤツの師匠だっていうからには、さぞかし頑固ジジイなんだろうな」

 敬老精神のかけらもない京一に醍醐が反論しようとすると、廊下から別の声が先に答えた。

「こいつの頭が固いのは、わしの所に来る前からじゃ」

「うわッ!」

「全く、爺い爺いとうるさい小僧よ」

 不意打ちを受けて飛びのいた京一に、現れた老人は悪戯が成功した小僧のように笑った。

茜色の着物に揃いの頭巾を被り、真っ白な美髯を心地良さげに揺らしているこの老人が、

醍醐の師であるという龍山という人物に違いなかった。

京一ではないにせよ、醍醐を更正させたというからにはそれなりに厳しい人柄なのだろう、

という龍麻の先入観は外れ、龍山の話し方に堅苦しいところは全くなかった。

 慌てて立ちあがろうとする葵を制した龍山は、自分も囲炉裏を囲む輪の中に入る。

「いらっしゃったのなら返事をしてくださればいいのに、盗み聞きとは人が悪い」

「何をぬかすか、ぱったりと顔を見せなくなったと思えば、

こんなに大勢でぞろぞろと押しかけてきおって」

 龍山は醍醐に、年長者というよりも歳の近い先輩のような態度で接している。

醍醐も口調こそ改めているものの、明らかに心安くしており、

龍麻は彼の意外な一面を見る思いだった。

「あの、すみません、突然お邪魔してしまって」

 立ちあがるのを制された葵が、龍山に挨拶する。

(雄矢、お前のこれか?)

「せッ、先生ッ」

 小指を立てて訊ねた龍山は、慌てる醍醐を措いて葵の方を向いた。

その表情は醍醐に対してとは全く違う好々爺ぶりだった。

「あんたが、美里さんだね。よう来なすった」

「は、はい……初めまして」

「わしは新井 龍山と申す。白蛾翁と呼ぶ者もおるがの。

──手紙に書いてあった通り、良い娘さんだ」

「何だ先生、手紙、読んでいたんですか? だったら返事をくれても」

「馬鹿もん、何でわしがむさ苦しい男に手紙なんぞ出さねばならんのじゃ」

 龍山は相変わらず醍醐には冷たいほどの反応で返す。

それでも醍醐が腹を立てないのは、よほど龍山に心服しているのだろう。

 なんとなく龍麻は、半年足らずではあったが彼の師となった人物のことを懐かしんだ。

半ば強引に自分を鍛え、古武術だけでなく様々なことを教えてくれた師。

敬愛するというには、身体中につけられた痣が多すぎて難しいのだが。

 龍麻がそんなことを考えている間も穏やかな眼差しで葵を見ていた龍山は、

胸元にまで達している髭を撫でた。

「美里さん」

「はい」

「あんたのその瞳……いや、なんでもない」

 奇妙なことを言う龍山に葵は首を傾げたが、老人はそれ以上何も言わず、

今度は葵の隣に座っている龍麻に顔を向けた。

「お主が緋勇龍麻か。……縁とは、不思議なものじゃの」

「縁……ですか?」

 もしかしたら幼い頃にこの老人と会ったことがあるのだろうか。

龍麻は失礼にあたらないよう龍山の顔を観察し、急いで記憶の扉を片っ端から開いてみたが、

どこにも彼の顔はなかった。

どう応じれば良いか判らず、龍麻は申し訳なさそうに龍山を見る。

しかし龍山も、龍麻の過去に触れたことがある訳ではないようで、

続く話題は全く別のものとなっていた。

「うむ。織部の嬢ちゃんたちにはもう会ったか?」

「おじいちゃん、雪乃と雛乃を知ってるの?」

 意外な縁に小蒔が驚くと、龍山はまず喜んでみせた。

「おうおう、おじいちゃんとな。あんたみたいに可愛い娘さんに呼ばれると、悪くないのう」

「エヘヘ、おじいちゃんもありがと」

 どうやらこの中では小蒔と最も意気投合したらしく、龍山は嬉しそうに頷いた。

横で京一は面白くなさそうにしているが、龍麻も相手はしない。

初対面の、それも老人に対する礼儀を守る方が優先だったし、

それに京一の機嫌などラーメン一杯で直る程度のものだと判っていたからだ。

「ところで質問の答えじゃが、知っとるも何も、わしはあの二人の名付け親じゃ。

わしとあの二人の爺さんとは知り合いでな」

「そうなんだ」

 ますます目を丸くする小蒔に、龍山は腕を袂に入れて語った。

「あの神社は、熊野の神である須佐乃男命とともに、

大陰陽師である安倍晴明を祀っておる。

陰陽道の基礎となる、陰陽五行、八卦といったものは風水においてもまた祖となる。

それ故、嬢ちゃんらは風水のことにも詳しかったろう」

「先生、今日お伺いしたのはそのことで」

「わかっておる」

 易を生業としているからか、あるいは醍醐の手紙である程度は予測していたのか、

龍山は龍麻達が訪ねてきた理由を知っているようだった。

自然と息を呑む龍麻達に向かって、龍山は静かに語る。

「醍醐よ。お主の手紙に書いてあったことじゃがな、鬼道衆と言ったか、そいつらのこと、

心当たりが無い訳でもない」

「本当ですかッ!!」

「でかい声を出すな。全くすぐ興奮しおって、日頃の鍛錬が足りんようだの」

「す、すいません」

 巨体を縮める醍醐を軽く睨んだ龍山は、思案深げに目を閉じた。

「ふむ、では少し話してやるとするかの。鬼にまつわる忌まわしき話を。

──まず『鬼道』とは、古くは邪馬台国の女王、卑弥呼が用いたとされる呪法じゃ。

現代では原始的なシャーマニズムと解釈されておる」

「しゃーまにずむ? なんだそりゃ?」

 早速京一が口を挟んだ。

「ようは巫女である卑弥呼が霊的存在、つまり神の意志を聴き、

託宣や予言、病気を治すなどということをやってのけたのじゃ。

今でもあるじゃろう? 神懸りや降霊などと言ったものが」

 龍山の話はいきなり難解な所から始まり、

龍麻達は昨日に続いて理解するのに全力を傾けねばならなかった。

 しかも龍山は、それらについてあまり詳しく説明しようとはしなかった。

これらの話は枝葉であり、より重大な、語らねばならないことが後に待ち構えていたからだ。

「そうやって超自然的な脅威から人々を奇跡によって救うことにより、

卑弥呼は支配者として絶対的な権力を手に入れていたのじゃ。

卑弥呼が用いた鬼道──その力の源がどこにあったのか。

人間にも『力』はある。じゃがそれは小さなもので、自然現象を治められようはずもない。

卑弥呼は研究の末、地球そのもののエネルギーを利用する法を編み出したのじゃ。

つまり、龍脈を利用する方法を……な」

「龍脈って、昨日雛乃が言ってた」

 小蒔に龍山は頷いてみせたが、それは先ほどの好々爺ではなく、

年齢に相応しい皺が刻まれた、重い表情でだった。

「うむ。卑弥呼は龍脈の交わる場所に自分の宮殿を建て、

それに付随するように楼観という塔を建てておる。

そうすることによって、より強大な龍脈の力を得ようとしたのじゃ」

 龍脈──地球そのものの力であり、 自分達の特殊な『力』の源になっているかもしれないもの。

それが古代日本から存在し、教科書に載っているような人物と関係があるというのは、奇妙な感覚だった。

 その感覚は日本史を一応は勉強している葵において顕著であり、

春に突如として押しつけられたこの『力』が、

千五百年以上も前から受け継がれてきたという認識は、

たしかに嫌悪だけではない意識の変革をもたらした。

とはいえ、なぜ自分が、なぜこの時期に、という疑問も未だ拭えはしない。

 ふと葵は、隣に座っている龍麻の横顔を見た。

この『力』は彼がもたらしたと信じていたが、どうやら違うのかもしれない。

かといって転校初日に龍麻が葵を襲ったのは事実であり、その点の疑いが晴れたからといって、

彼を好きになりようもないのもまた、事実だった。

 なのに自分は、こうして龍麻の横に座っている。

好悪でいえば佐久間よりも嫌いであるはずの彼に、かなり強引にとはいえ行動を共にし、

鬼道衆とやらいう殺戮集団と戦うなど、正気とも思えない。

これに関しては小蒔が率先して戦おうとしているため、

彼女が怪我した場合を考えると同行するしかないというのも一因ではあるが、

自己犠牲も厭わずに戦っている龍麻の姿は、深刻な嫌悪すら束の間忘れてしまうほど雄々しく、

不本意ながら見惚れてしまうことを認めざるを得ない。

そして――そしてあろうことか、身体の疼きを葵は、彼を使って慰めている。

純血を奪おうとした男の手の動きをなぞり、

女を欲望のはけ口としか見ていないような男の瞳を想い、

毎夜の昂りを醒ましている自己矛盾を、葵は未だ解消できていなかった。

むしろ彼を憎いと思うほど、その彼になすすべなく身体をまさぐられる妄想が強くなり、

親友である小蒔にも相談できないまま、ただれた時間だけが積み重なっているのだった。

 あちらこちらにさまよう思考を、葵はなんとか半分ほど龍山の話に戻す。

幸いなことに、どうやらまだそれほど聞き逃してはいないようだった。

「龍脈の力とは、つまるところ地球という巨大な生命を動かすための力よ。

卑弥呼は鬼道によってその力を使ったが、人ごときがその強大な力を理を曲げて使えば、

どこかにしわ寄せが来る。やがてそれは、龍脈の流れに乱れを生むことになったのじゃ。

太陽神の化身と称された卑弥呼の陰に、闇が産まれた。

闇は人の欲望や邪心を映し、ゆっくりと息づき始めた。

それこそが、『鬼』と呼ばれし輩──龍脈の乱れと鬼道の『力』が産んだ、異形の者どもじゃ」

「龍脈の乱れが、鬼を……」

 醍醐が呆然と呟く。

程度の差こそあれ、龍麻達の顔には醍醐と同じものが浮かんでいた。

龍山の話は、昨日小蒔が抱いた危惧を図らずも裏づけるものだったのだ。

 龍脈を操った卑弥呼の心の闇に、鬼が産まれる。

ならばその龍脈から『力』を与えられた自分達も同じく、

邪心に溺れれば鬼と化してしまうということなのだ。

「そうじゃ。そうして霊力の衰えた卑弥呼の死と共に、再び倭国には乱世が訪れたのじゃ」

「恐ろしい話ですね」

「うむ。始めは雨乞いをし、天候の安定を祈るなどと言ったささやかなものであったのじゃろう。

じゃが尽きることのない人の欲望が鬼道を生み、龍脈の乱れが鬼を産んだのじゃ」

 ここで一息ついた龍山は、若者達の顔を見渡した。

驚き、うっすらと恐怖を浮かべている者もいるが、真摯に考えこんでいる者もいる。

それで良い──彼らの中には、より重い宿命を背負っている者もいるのだ。

辛い話ではあったが、ここで怯えているようでは、

この先に待っているものになど到底耐えられるはずもなかった。

彼らに対して、孫を見るような表情を美髯の下に浮かべた龍山は、

宿命に立ち向かわなければならない彼らに、更なる知識を授ける。

「話はまだ続きがあってな。卑弥呼が鬼道を修めてから数百年。江戸──徳川の時代のことじゃ。

歴史の彼方に埋もれたはずの、

その呪法を蘇らせることに成功したひとりの修験道の行者が現れた」

「修験道?」

 醍醐の問いかけに頷いた龍山は説明を加える。

「修験道というのはな、山に篭り、自然に宿る神霊に祈りを捧げ、

苦行の末、験力──つまり、特殊な『力』を身につけるための修行の道よ」

「また『力』……かよ」

 少しうんざりしたように京一が呟く。

彼を視線で一撫でした龍山は、彼らの中の一人にとって、極めて関係の深い名前を告げた。

「男の名は九角 鬼修」

「九角……ですか!?」

 龍山の口から放たれた名に、思わず龍麻は大声を上げていた。

それまで無言だった龍麻が叫んだことに、京一が興味を込めて尋ねる。

「知ってんのかよ龍麻」

「いや……水角と風角がその名前を言ったのを覚えてただけだ」

 大して知りもしないのに大声を出してしまった龍麻は恥ずかしそうに俯いた。

軽く目を細めて龍麻を見やった龍山は、いよいよ話の核心に触れた。

「鬼修は、外法にも精通していたという。外法──外道は仏道に背く道。

その道士は、鬼神や悪霊を使役する呪術を使うという。

九角はかねてから大地を流れる龍脈の力に目をつけており、その力を我が物にして、

江戸を支配しようと考えていた。その為に使ったのが、長い修行で得た験力と、

外法として蘇らせた『鬼道』よ。そして九角が幕府転覆の為に組織したのが──

鬼道衆と呼ばれた、人ならざる力を持った者どもじゃ」

 龍麻達の驚愕が鎮まるのを待たず、龍山は一気に結論まで語った。

「お主らが相手にしている鬼道衆と名乗る輩も、決してただその名を騙っている訳ではあるまい。

おそらくその頭目は、九角の血を引く者であろうよ」

 そして、その人物は──言おうとして龍山は止めた。

今はまだ、その時ではなかった。

「お主らも解っておろうが、今、東京では異変が起こっている。

それらは全て、『鬼道』によって龍脈が乱れたせいじゃ。

そして鬼道衆の目的は、おそらく東京の壊滅じゃろう」

 鬼道衆との闘いで多少は知っているのか、

東京の壊滅という彼らの目的を聞かされても龍麻達は動じなかった。

 心に一つ頷いた龍山は、重要な件を思い出して醍醐に訊ねた。

「そういえば、雄矢。手紙に珠を手に入れたとかあったの。持ってきておるか」

「はい」

 頷いた醍醐は、かつて水角と風角を倒した時、

死んだ彼らが変じた珠を取りだした。

それは龍山にとっても初めてみる球であったが、一見してなんらかの呪力が込められていると判る。

醍醐から球を受け取った龍山が射しこむ陽光に透かしてみると、珠の内側に精巧な龍が浮かんだ。

「ふむ……この龍の紋様、もしかしたらこれは、五色の摩尼やもしれんな」

「摩尼……ですか」

「摩尼というのは梵語で宝珠を意味する言葉でな、江戸時代、

徳川に仕えた天海大僧正なる男が江戸の守護の為に使った珠よ。

五色の宝珠は、もともと天海のいた天台宗の東叡山喜多院に納められていたものでな。

五色とは黄、白、赤、黒、青。それぞれ地、水、火、風、空に対応して、

密教ではこの五色を以って宇宙の基本構造を表しておる。

そして、江戸末期に幕府転覆を企んだ九角が、

鬼道によって使役した五匹の鬼が封じられているのも、

その五つの珠だと言われておる。

その後、鬼を封じた宝珠は天海によって江戸の繁栄と天下泰平の祈願の為に、

それぞれ、江戸を取り巻く五つの不動尊に鎮守されたという。

それが、江戸五色不動と呼ばれておるものよ。

鬼の霊力によって、更なる鬼や邪の侵入を防ぐ方陣としたわけじゃな」

「この珠にそんな意味があったのか……」

 斃した水角や風角がこの珠に吸いこまれるように消えたことから、

ただの珠ではないとは思ってはいたが、それほど重要なものだとは龍麻達の想像を超えていた。

小蒔などはよほど驚いたのか、おっかなびっくり置かれた珠を突ついたりしている。

「とりあえずお主らは、その宝珠を持って不動を巡ってみることじゃ。

境内の奥の方に宝珠を納める為の祠があるはずじゃ。

そこに宝珠を納めれば、不動の霊力が再び宝珠を護るであろう。

それぞれの寺に話は通しておくから安心せい」

 長い話が終わった頃、辺りは薄暗くなっていた。

 昨日に続き長話を聞かされた京一は、いかにも苦痛から解放されたというように欠伸をする。

相変わらず失礼な京一を醍醐はたしなめようとしたが、彼の師は京一に関心を払っていなかった。

「葵さんよ」

「はい」

「お主はあまり、この『力』を良く思っておらぬようじゃの」

 頷いて良いものかどうか、葵は迷った。

龍山翁の話は『力』を肯定しているようにも受け取れたからだ。

特別な力を授けられたのだから、戦えと。

 だが葵の眼を見た龍山は、彼女に戦いを使嗾しなかった。

「それで良い……人の身に、過ぎたる力は必要ないとわしは思っておる。

人は己の努力で人生を全うすべきなのじゃ」

「それなら……どうしてこんな『力』が私達に宿ってしまうんですか?

私はこんな『力』欲していません。戦わなければ傷つきもしないのに、

どうして戦わなければならないんですか!?」

 なまじ龍山の言い方が諭すようであったために、かえって葵は想いが昂ぶってしまった。

龍麻や京一のように望んでいたわけでもないのに『力』を押しつけられ、

死ぬかもしれない危険な戦いに身を投じなければならないという、

この春からずっと葵の裡でくすぶっていた理不尽が、一気に噴出したのだ。

 かつて龍麻に同じ問いをぶつけたが、その時は答えを得られなかった。

この老人ならば何らかの答えを得られるだろうと、葵はすがるように龍山を見た。

「なぜお前さん達に『力』が宿ったのかは、答えられん。

宿命と言う他はないが、そんな答えでは納得できんじゃろう」

 露骨に失望を浮かべる葵に、龍山は激昂したりはしなかった。

「じゃが、お前さんではなく、お前さん達に力が宿ったということを良く考えて欲しい。

そして、できるなら皆で力を合わせて困難に立ち向かって欲しいのじゃ……

『力』が必要なくなる、その日まで」

 老人特有のはぐらかしをされた気がして、葵の不満は収まらなかった。

しかしこれ以上なじったところで意味がないのも確かであり、

葵は唇を引き結んで会話を打ち切った。

 葵を痛ましげに見つめていた龍山は、一度目を閉じ、今度は龍麻を見る。

「緋勇よ」

「俺ですか?」

 声をかけられるとは思っていなかった龍麻は、少し大げさに振り向いた。

だがそこで見た龍山は、殺気を感じるほど強張った表情をしていた。

「またここに来ることがあれば、お主に話したいことがある。

それまでは、己が信じた道を歩むが良い」

 実に思わせぶりな龍山の態度に、つい龍麻は訊ねてしまう。

「今じゃ駄目なんですか?」

「そうだ、ケチケチしないで教えてやりゃあいいじゃねェか」

 京一が賛同したのは、またこの道のりを歩くのが嫌だったからに違いない。

しかし龍山は、顔を綻ばせはしたものの、どうしても今言うつもりはないようだった。

「ふむ、そう急くな。まだ──宿星が輝いておらん」

「……?」

 何のことだか判らなかったが、とにかく今日のところは帰るしかないようだった。

 にぎやかに帰っていく龍麻達を見送った龍山は、彼らの姿が見えなくなるとため息をつく。

彼らの未来を思いやって零れたそれは、年齢よりも老いを感じさせる、深く、大きなものだった。

 

 再び龍麻達が新宿に戻ってきたのは、もう辺りがすっかり暗くなってからだった。

「あぁ、やっと都会に戻って来たぜ。どうも田舎は調子が狂っていけねェ」

「そうかな、京一なんてマンモスとでも戦ってる方が似合ってそうだけど」

「俺は原始人じゃねェッ!」

 相変わらずな京一と小蒔のやり取りを聞き流しながら龍麻が時計を見ると、

針は六時を指していた。

「今日は不動巡りは無理だな」

「そうだな……ま、明日からにすっか。新宿からだと一番近いのは、どこだ美里」

「えっと……豊島区の目白不動かしら」

 京一に訊かれて葵は思わず即答してしまった。

「よし、んじゃ明日学校終わったらそこから行ってみようぜ」

 葵は横目で小蒔を見たが、彼女は当然行くつもりであるようだ。

となれば同行するしかなく、葵は内心でため息をついた。

 明日の予定も決まったので、解散しようかというところで、醍醐がおもむろに龍麻に訊ねる。

「ところで緋勇。先生はどこかお前のことを気にしているようだったが、

思い当たる節はあるのか」

「いや、全然」

「でも、なんか初対面とは思えない感じだったよね」

 そう言う小蒔に向かって、龍麻はまさにその通り、と頷いた。

そう感じていたのは自分だけだと思っていたのだが、どうやら皆同じ感想を抱いていたようだ。

と言ってやはり龍山と以前に会った覚えはなく、彼との接点は全く見出せなかった。

 次第に気になって考えこむ龍麻に、醍醐がとりなすように言う。

「先生は易者だからな、お前の顔に何か特別な相でも観たのかもしれん」

 それならそれで説明してくれても良さそうなのに、

と龍麻がおどけて答えると、四人は笑って頷いた。

 笑いながら何気なく自分の腕時計を見た小蒔が、顔色を変える。

「あ、いっけない、もうこんな時間だ。

ごめん、ボク、これから弓道部のみんなと昨日の打ち上げなんだ」

「遅くまで付き合わせて悪かったな」

「ううん、おじいちゃん面白いヒトだったし。それじゃね」

 手を振って去っていく小柄な姿は、たちまち闇に紛れて見えなくなってしまった。

葵も別れを告げ、後には男三人が残ると、それを待っていたかのように京一が口を開いた。

「しかし厄介だな」

「何がだ」

 京一は訊ねた醍醐ではなく、今は龍麻が持っている袋を見ながら言った。

「この珠だよ。じじいの話だと、珠は五つあるんだろ? てことは、あと三人はいるんだろ」

 京一の言葉に、龍麻は水角と風角が現れた時のことを思い出していた。

確かに彼らは、自分達を鬼道五人衆が一人と名乗ったのだ。

京一の言う通り少なくともあと三人、そして恐らく、彼らを束ねる首魁がいるに違いなく、

鬼道衆との闘いはまだ半分も終わっていないのだ。

向こうも仲間を二人斃され、本腰を入れて襲ってくるに違いない。

 厳しい表情で龍麻が決意を新たにすると、醍醐と京一もそれぞれ頷く。

これからの闘いの激しさを予感しつつ帰路についた三人だったが、

鬼道衆は彼らの想像を超える早さで次の手を打ってきていたのだった。

 

 龍麻達と別れ、醍醐は急ぐでもなく家への路を歩いていた。

男の十八歳ともなれば、多少は遅く帰ってもとやかく言われることはない。

 龍山に聞いた話を反芻しながら歩いていた醍醐は、さりげなく歩幅を変えた。

巨体の割に足音が小さくなったことに、注意深い人間なら気づいたかもしれない。

しかし彼の足音に続く、もうひとつの足音の持ち主は注意深くはないらしく、

いつのまにか自分の方が醍醐よりも大きな音を立ててしまっていることに気づいてもいなかった。

失笑を抑えながら醍醐は人通りのない通りへと進路を変え、

追跡者が出て来やすいよう舞台を整えてやってから足を止めた。

「話があるなら出てきたらどうだ」

「チッ」

 醍醐の呼びかけに観念したのか、物陰から一人の男が姿を現す。

醍醐と同じ学生服を着崩した、いかにも素行の悪そうな男だった。

「下手糞な尾行だな。何故俺を尾け──ん? お前、確か佐久間と一緒にいた」

「おめぇ、あんまり佐久間さんを甘く見んじゃねェぞ。

あの人は変わったんだ。もうてめェなんか目じゃねェんだよッ!!」

 小物の恫喝など恐れる醍醐でもない。

ただ、居なくなってもう一週間になる佐久間の居場所をこの男が知っているのなら、

聞きたいと思った。

しかし、それがいかに甘い考えであったかを、

すぐに醍醐は凍てつくほどの後悔と共に思い知らされた。

「まぁいいさ。俺はあの人にこれを渡すように言われただけさ。ほらよ、受け取んな」

 男が放り投げたものを、醍醐は受け取る。

 くすんだ赤の、古ぼけたお守り。

「これは──ッ!!」

 小蒔が持っているはずのこれを、どうしてこの男が──

認めたくない現実が、呼吸を奪う。

視界が暗転し、醍醐はもう少しでよろめいてしまうところだった。

佐久間、小蒔──酸素を求めて喘ぐ脳が、二人の顔を交互に照らしだす。

結びつけてはならない想像を、振り払うことができなかった。

 醍醐は目の前に男がいることも忘れ、細胞のひとつまで蒼ざめさせて立ち尽くす。

とうに機能を停止した聴覚に、男の声が虚ろに響いた。

「真神の体育館裏で佐久間さんが待ってるぜ。

ヘヘヘッ、早く行かねェと知らねェぜ、もう遅いかもなぁ」

「糞ッ……佐久間……ッ」

 下卑た笑いを浮かべる男を殴り飛ばしたいのを堪え、醍醐は走りだした。

佐久間と、宿命が待ち構えている場所へ。

 

 自分の足の遅さを痛烈に嘆きつつも、なんとか真神学園に着いた醍醐は、体育館の裏へと急ぐ。

体育館裏などに灯りはなく、更に今夜は月も出ていない為に、辺りはほぼ真っ暗だった。

佐久間も小蒔も見当たらない。

雨粒が顔に当たりはじめるが拭いもせず、醍醐は不安に急かされるまま、

呼吸を整えることすら忘れて佐久間の名を呼んだ。

「佐久間、どこだッ、佐久間ッ!!」

 しばらくして、闇の中からのそりと佐久間が姿を現す。

その気配は、すぐに判るほど以前とは異なっていたが、

冷静さを欠いている醍醐には気づけなかった。

「待ってたぜ、醍醐」

「佐久間……桜井はどこだッ」

「けッ、格好つけんじゃねェよ。久しぶりに会ったんだ、ゆっくり話でもしようじゃねェか」

 佐久間のふざけた言動になど、つき合う気はない。

だが、小蒔の姿が見えない段階で軽率な真似はできなかった。

 拳を握り締めはしたものの、それ以上動こうとはしない醍醐に、

佐久間はうっすらと口の端を歪めた。

「ええ、醍醐? 俺はもう手前ェの手下じゃねェんだよ。

いつまでも一番だと思ってんじゃねェぞ」

「俺は、そんなことは──」

「うるせェッ!! 前から手前ェのその善人面が気に入らなかったんだよ。

そうやって俺を嘲笑いやがってよ」

 突然激発した佐久間は、感情の抑制ができていなかった。

以前からその傾向はあったが、今の佐久間は、明らかに精神のバランスを欠いていた。

「結局手前ェも他の連中と同じだったのさ。信じた俺が馬鹿だったぜ」

「佐久間、俺は──」

「俺が、手前ェの影でどんな思いをしていたか、手前ェは知りもしねェだろうよ。

俺はもう真神にも部にも戻れねェ」

 自分が追いこんでしまったのかも知れない──佐久間の自分勝手な言を聞いて、

小蒔を攫さらった男に深い怒りを抱きつつ、なお醍醐はそんな風に考えていた。

それこそが彼を追い詰めていったのだとは、醍醐には決して解らなかっただろう。

 自分は荒れ、そして立ち直った。

だから佐久間も、きっと立ち直ってくれる──それがある種の傲慢であることに、

心根は優しい好漢である醍醐は、絶対に気づけなかったのだ。

 醍醐がもっと絶対的な立場から佐久間に接すれば、あるいは効を奏したかもしれない。

しかし醍醐は、佐久間を同格として扱おうとした。

それは卑屈な劣等感を持つ人間にとっては、逆に見下されているとしか感じられないとは、

劣等感を持たない人間には理解できないことだったのだ。

「そんな目で俺を見るなッ!!」

 佐久間の眼に異様な光が宿る。

 決して満たされない渇望の輝き。

 決して追いつけない嫉妬の輝き。

それらをはじめとするいくつもの負の情念が、佐久間の濁った眼を危険な彩りに飾り立てていた。

「俺は『力』を手に入れたんだ……あいつらから、手前ェを越える『力』を手に入れたんだよ」

 醍醐から目を離さず、佐久間はじりじりと横に動く。

影になっていて見えない場所から佐久間が無造作に掴んだのは、一人の少女だった。

引きずり出されて力無く倒れた少女は、佐久間に再び髪を掴まれて無理やり起こされる。

 それは紛れもなく、桜井小蒔だった。

しかし三十分ほど前に別れたばかりの面影はどこにもない。

生気に満ちた瞳は腫れた瞼によって閉ざされ、

小さな身体にあり余るほどだった活力も今の彼女には微塵も感じられず、

手足は操り人形のようにだらりと垂れ下がっている。

そして制服は無惨に破れ、肌のほとんどが露になってしまっていた。

それだけでも怒りが沸騰するマグマとなって、

醍醐の身体を内側から灼き尽くさんばかりだというのに、

小柄な少女の華奢な全身にはむごたらしい痣が何ヶ所もあった。

「佐久間……貴様、桜井に……」

 握り締めていたままのお守りが、手の内で潰れる。

肝心な時に彼女を護ってくれない神など、必要無かった。

「醍醐、手前ェ、この女に惚れてんだってなぁ」

 人として最低の部類に属する下卑た笑いを浮かべた佐久間は、

ナイフを取り出し、小蒔の頬に当てる。

一瞬醍醐の心が恐怖に冷えたが、佐久間はそこまではするつもりではないようだった。

しかし、次に彼が行ったことは、あるいは醍醐の想像よりも酷いものだった。

「この女、俺のことを叩きやがってよ」

 佐久間は手にしたナイフで制服を縦に切り裂いた。

小蒔の肌にこそ傷はつかなかったものの、上半身は下着のみになってしまう。

更に佐久間はその下着にまでナイフを走らせ、自らの欲望のままに女を裸にした。

小蒔はよほど酷く暴行を受けたのか、いつもの気丈さは無く、

佐久間のなすがままにされてしまっている。

もしかしたら気を失ってしまっているのかも知れなかった。

「へへへ、気分がいいなァ、醍醐よォ」

 勝ち誇った佐久間は小蒔の胸を掴む。

佐久間の好みはこんなものではなく、もっと肉感的な乳房であったのだが、

憎む男の目の前で惚れた女を嬲るというどす黒い快感は、性的な欲望すら上回るものだった。

満たされつつある欲望に打ち震えながら、佐久間は手にしたナイフを醍醐に投じた。

 暗闇の中、佐久間の投げたナイフは正確に醍醐の腕に刺さる。

人を刺し、傷つける為にのみ作られた凶々しい刃は深々と肉を抉る。

たちまち多量の血が噴き出したが、醍醐は全く痛みを感じていなかった。

ただ目の前の小蒔と、小蒔をこんな目に遭わせた佐久間への怒り、

そして自分自身の不甲斐なさへの憤怒だけが今の醍醐を支配していた。

「まずは手前ェを殺って、それから蓬莱寺と緋勇だ。美里は俺のモンだ……誰にも渡しゃしねぇ」

 瞳を狂気に染め上げた佐久間は、小蒔を突き飛ばした。

顔から倒れた小蒔は、そのまま微動だにしない。

無惨に伏した少女の姿が、醍醐の網膜から消えた。

 自身の狂気によって陶酔している佐久間は、醍醐の変調にも気づかずまくしたてる。

「ヘッ、手前ェをブッ倒して、この女を目の前で犯ってやるぜ!」

「佐久間……貴様ァァッッ!!」

 心臓が、爆ぜる。

その鼓動はより大きな生命を求めて、巨大な醍醐の身体でさえ物足りぬと咆えたかのようだった。

 抑えきれないほどの氣を、抑えようともせずに解き放つ。

全身に張り巡らされた血管、その全てが異様なまでに脈動し、

指先のひとつひとつにまで熱が篭った。

強くなる雨でさえ醍醐を避けるかのように、彼の周りに水蒸気の膜が生じた。

 右腕の血の流れを塞いでいた金属の塊を、身体組織が弾き飛ばす。

筋肉の力で無理やりナイフを抜いた為に、開いた傷口から血が一気に溢れだしたが、

それすらも醍醐は感じていなかった。

ただ高まる熱、そして狂おしい欲求に心を灼かれ、バランスを崩してよろめく。

方向を持たずに暴れまわった圧倒的なエネルギーが、醍醐の意思を無視して噴出したのだ。

「なッ……なんだ、手前ェ……こけおどしなんかしやがって」

 ほとんど手元に返ってくるような勢いで抜かれたナイフに、

ようやく醍醐の異変に気づいた佐久間は、慌てて数歩の距離を取ろうとする。

その瞬間、佐久間の身体は不様に吹き飛ばされた。

「ひッ……な、なんだッ!?」

 恐慌に駆られた佐久間は醍醐を見る。

醍醐は一歩も動いておらず、何が起こったのか佐久間には全く理解できなかった。

 醍醐は、己の氣の力だけで佐久間を弾き飛ばしたのだ。

春に得た『力』の使い方を、醍醐は完璧には程遠いながらも身に着けていた。

体内で氣を練り、拳や脚の延長線上に乗せるようにして放つ。

それでも思い通りに練った氣を操ることは難しく、

龍麻のようには使うことができなかったのだが、

醍醐は今、指向性すら持たない氣で佐久間を打ち倒していた。

あまりにも膨大な氣が、膨らむ風船のように触れる者を押し退けたのだ。

 尻餅をついた佐久間は、人質を取っていたという圧倒的有利も忘れて逃げようとした。

しかし、彼の中の本能が、もはや彼を助けることはなかった。

なまじ小蒔を襲い、欲望をわずかでも刺激してしまっていた為に、

鋭敏さを増していた本能は、

死の恐怖に触れたことでかえって足枷となって佐久間の動きを封じたのだ。

「ちッ、近寄るなッ!! なぁ醍醐、ちょっとふざけただけじゃねェか、な?

ほら、この女も返してやるよ。まだ何にもしてねェんだからよ、水に流そうじゃねェか」

 この期に及んで佐久間は惨めたらしく許しを乞うたが、

もはや醍醐の耳にその声は届いていなかった。

 頭の中から閃いた白光は、その更に奥、醍醐の深奥に向かって収束していく。

身体中に満ち溢れていた氣が、基底から頭頂のチャクラへと抜ける。

小さな袋に入っていくように点となったその光が、一気に反転した。

「な、なんだこいつ……化け物……?」

 醍醐の身体は、今や乳白色に輝いていた。

信仰心など欠片ほども持たない佐久間でさえ、それが神聖なものだと理解できる、

眩いまでの光は、まるで醍醐の内側から生じているようであった。

自分は罰せられるのではないか、という原初的な畏れに慄く佐久間の頭に、声が響き渡る。

「変生せよ……」

 恐怖に打ちのめされている佐久間の思考は、それを拒むだけの力を既に失っていた。

「堕ちるが良い、佐久間よ……変生せよ……」

 逃れたい一心で、佐久間はその囁きに身を捧げる。

それが、佐久間の最期だった。

「がッ……ががぎぎぎいぃいいッッ!!」

 穢されていく。

どれほど小蒔に非道な行いをしていても、佐久間は人間であった。

しかし、今佐久間があげている叫びは、人の発することの出来るものではなかった。

 佐久間の身体がくすんだ輝きを発し始める。

それは奇しくも醍醐のそれと良く似たものであったが、佐久間から放たれる光は、

彼にふさわしい濁った灰色であった。

宿主を食らおうとするかのように、光は佐久間を包みこんでいく。

その光が闇に溶け、消え去った時、もう佐久間はどこにもいなかった。

 一匹の醜い怪物。

かつて水岐涼という男がされたように、佐久間もまた、

鬼道衆の手によって怪物へと変生させられてしまったのだ。

疣で埋め尽くされた皮膚、大きく裂けた口から垂れる舌、

幾重にも重なる脂肪がたるむ腹にはもう一つの口。

佐久間自身の歪んだ氣が鬼道衆の手によって増幅された結果生まれたのは、

欲望だけをその身に宿した異形だった。

「おご……ううぐぃ……ごる……」

 生まれたばかりの怪物は、自分の置かれた状況を理解できないようだったが、

やがて目の前に立っているものに気づく。

思考とすら呼べない鈍い考えが、それは敵だと教えた。

一度は警戒の素振りを見せた怪物は、敵がこちらに関心を払っていないようだと判断すると、

短い足をよたよたと動かして襲いかかった。

 怪物が近づいてくるのも眼中になく、醍醐は最後の理性をも奪おうとする、

迸る氣に必死で抗っていたが、空から落ちてきた雨粒が彼の頬を濡らした。

 刹那。

 怪物が敵だと判断したもの、

醍醐の形はかろうじて留めているが別の存在へと成り果てたものは、

その巨躯から想像もできない疾さで動いた。

怪物が認識すらできない間に、懐に潜りこんで全体重を乗せた蹴りを見舞う。

「ぐぇぇ……っ」

 汚らしい悲鳴を残し、怪物が吹き飛んだ。

バランスの悪い身体は倒れてしまうと起き上がることが難しいらしく、じたばたともがく。

一撃でほとんど決着は着いたようなものだったが、

醍醐は五メートルほども吹き飛ばした怪物のところまで一気に跳躍し、膝を叩きこんだ。

「おごぉおぉっっ!」

 胃液を吐き散らした怪物は白目を向いて悶絶する。

醍醐であった獣はなおも攻撃の手を休めず、手刀を怪物の腹に突き立てた。

穿った孔をねじり、拡げ、新たな孔を穿つ。

怪物の身体はたちまち孔だらけになり、血に塗れていった。

「がぁぁっ」

 致命傷を受け、怪物の悲鳴は既に弱々しいものだった。

放っておいても何分もしない内に息絶えただろう。

しかし、醍醐であったものはそれすら許さず、一際振り上げた手刀を、

心臓が在る位置へと正確に貫き通した。

敵の生命が、手の中で消えていく。

それは、果てしないほどの快感だった。

放っておいてもすぐに散ってしまう灯火を、握りつぶす。

生命を思うがままに陵辱した獣は、その快感の咆哮を闇に轟かせた。

 

 雨は、激しさを増していた。

身体を芯から冷やすような冷たい滴は、

ぼろぼろにされたスカートを纏っているに過ぎない小蒔にも、

人でありながら獣と化した醍醐にも、既に佐久間とも呼べない、

醜い怪物の屍にも平等に降り注いでいた。

 醍醐の咆哮によって意識を戻した小蒔は、二匹の獣の闘いの一部始終を見ていたが、

ひどく殴られたせいで、それは夢なのではないかと疑っていた。

あるいは、それは疑いではなく、願いだったのかも知れない。

しかし暴行を受けた傷に当たる雨粒は痛く、

醍醐の前に横たわっている怪物も残念ながら夢ではないようだった。

 佐久間を、もうとうに佐久間とは呼べなくなっていたが、

佐久間であったものを己が手にかけた醍醐は、その業の重さに、ただ慄えていた。

他に小蒔を護る手段はなく、佐久間が化け物に変生していたとしても、

仲間を、少なくとも自分は仲間と見ていた人間を殺した事実は変わらなかった。

「醍醐……クン……」

 全身で哭いている醍醐の許に、小蒔は自らの痛みも忘れて近寄ろうとする。

「寄るなッ!!」

 およそ醍醐らしくない、鞭のような声に、小蒔は打たれたように立ち止まった。

それでも、痛む身体を懸命に操って、前に進もうとする。

しかし、足はどうしても動かなかった。

 降りしきる雨は、醍醐の身体を朧なものに変えていく。

立ちあがった醍醐は、制服のボタンを、外すのではなく引き千切り、

脱いだ上着を彼女に放ってやった。

受け取った小蒔が礼も言わず、ただ震えていると、

醍醐は魂を失くしてしまったかのような、虚ろな足取りで去っていく。

「醍醐クン……待ってよ、どこ行くのッ!!」

小蒔は彼の後を追おうとしたが、広い醍醐の背中は、全てを拒絶していた。

 制服を羽織るのも忘れ、小蒔は暗い夜の中立ち尽くす。

 雨は、止む気配を見せなかった。

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