エロ
あります
教室に足を踏み入れたことを、葵は後悔した。
初秋の心地よい空気に誘われて、少し勉強をしようと思ったのが大きな間違いだったのだ。
四十人ほどが入る教室には、葵の他に一人しか居なかった。
それも、葵が同級生の中で最も苦手とする男子の一人である緋勇龍麻だけが、
朝の光射す教室内に座っていたのだ。
葵は入らなければ良かったと後悔したが、もう龍麻と目が合ってしまった。
こうなったら鞄を置いたらすぐに教室を出て、生徒会室にでも行こう。
勉強はできなくなってしまうが、龍麻と二人きりになるのは嫌だった。
しかし、たった数歩を移動することさえ葵は許されなかった。
葵が姿を見せたときからずっと凝視していた龍麻が、
彼女が鞄を置くなり立ちあがり、右腕を掴んだのだ。
「大事な話がある」
充分な警戒はしていたつもりだった。
だが、いつもよりも低められた声と彼の表情の深刻さ、そして、
右の手首を掴まれたことが、葵の警戒心に一瞬の空白を生じさせた。
「ま、待って……!」
急速に身の危険が迫っていると恐怖した葵は、彼の手を振り払おうとするが、
声は空しく彼の背中に当たって消え、手は手錠のように硬く剥がせなかった。
教室を連れ出された葵は、大股で歩く龍麻に引きずられるようについていく。
こんなところを見られたら、すぐに学校中で噂になってしまうに違いない。
他人の評判などは気にしないとしても、龍麻と交際しているなどという噂は、
葵にとって忌避すべきものだ。
そのため大声を出して人目を惹くわけにもいかず、誰にも見られないよう祈るしかなかった。
永い、実際には三分にも満たない時間を経て葵が連れてこられたのは屋上だった。
まさかいかがわしい行為に及ぶつもりなのではと警戒する葵をよそに、
龍麻は手を離し、自分から距離をおいた。
そこで葵は龍麻がやつれていることに気がついたが、
それを指摘するよりも早く、彼は信じられないことを告げた。
「昨日、桜井が襲われた」
「……!」
彼の言葉が持つ意味を、すぐには受けいれられなかった。
頭の中で反響する忌まわしい言葉に五感を支配され、清涼な空が無色になり、
肌に快い秋風も感じなくなる。
低く喘いだ葵は、龍麻を強く睨んだ。
「襲われた……ってどういうこと?」
意味は明白でありながら葵が問い返したのは、
襲われたのではなく龍麻が襲ったのではないかと思ったからだ。
すぐにそんな犯罪を自分から告白する理由がないと思い違いに気づいたが、
入れ替わるように女性が襲われるという言葉の意味を理解し、不意に足が震えだした。
「詳しくは聞いていないが、醍醐を呼びだすために佐久間の手下にさらわれたらしい。
俺の家に来た桜井は、暴行の傷が酷かった」
龍麻の説明が頭に入ってこない。
コンクリートの地面に座りこんでしまいたいのを、かろうじて葵は耐えた。
「俺じゃ怪我を治すのは不得意だったが、なんとか二時間くらいかけて治したよ。
その後制服を買ってきて、泊まるかどうか一応訊いたが帰るって言うから送った」
龍麻は淡々と事実を告げる。
それが起こった現実の過酷さを和らげるための配慮であると葵は悟ったが、
だからといって彼に感謝したりはしなかった。
小蒔が戦いに参加することを龍麻は望んでおらず、何度も止めようとしたのを葵は知っている。
盲目者との戦いで小蒔に怪我をさせたことを悔いているのも。
だがそもそも、龍麻が転校してこなければ一切は始まらなかったのだ。
「……貴方のせいよ! 全部貴方のせい!」
葵は龍麻をなじった。
全ての責任が彼にあるかのように、激しく。
目を伏せて反論しない龍麻が、結果の重大さを認識しているようで厭わしく、
渦巻く激情を減じさせることなくぶつけた。
「どうして助けてあげなかったの!?
緋勇君なら、私を操るみたいに小蒔を操って助けることもできたのでしょう!?」
「……何を言っている?」
「とぼけないでっ!」
叩きつけるように叫んだ葵は、自分の声の大きさに驚いて口をつぐんだ。
するとこれまで黙していた龍麻が顔を上げた。
「俺は他人を操ることなんてできない。どういうことだ?」
龍麻の眼光が圧を強める。
葵は瞳の暗黒に呑みこまれそうになったが、親友のためには引き下がれなかった。
「貴方は氣を注いだ相手を操れるのでしょう?
盲目者との戦いの時に、小蒔にこっそり氣を注いで、それで」
「それで? 桜井から何か相談があったのか?
身体が勝手に動いて困るとか、俺に何かされたとか」
「それは……ないけれど……」
龍麻の眼に揺るぎはない。
彼の眼の影響から逃れようと、半歩後ずさったところで葵は手首を掴まれた。
しばらく感じていなかった熱が、手首を通して全身に伝わる。
それは葵に大きな混乱をもたらし、龍麻への怒りを別のものに変えていった。
「待て……お前、プールの時にも同じことを言っていたな?
あの時ははぐらかされたが、あの時点でもう、
何か心当たりがあったんじゃないか? 話してみろ」
それを言いたくなかったからこそ、葵はプールで話をした時逃げたのだ。
それからも龍麻が氣で人を操れるという前提で警戒していたのが、あまりの龍麻の剣幕に、
誤解だったのかもしれないと葵は思いはじめていた。
だが、もう逃げ場はない。
龍麻は怒っており、彼を納得させる以外に解決の道はない。
手首からの脈動が、心臓を通って脳へと伝わる。
自らが招いた頭痛であるのに、葵は、それが龍麻によってもたらされたと錯覚した。
「桜井のことは、どれだけ罵られても仕方がねえと思っている。
こんなことなら、佐久間を徹底的に潰しておくべきだった。
何か償いができるなら、なんでもするつもりだ」
沈痛な面持ちで告げた龍麻が、口調を一変させる。
「けどな、持ってもいない『力』のことでなじられるのは別だ。知ってることを全部話せ」
龍麻の圧力、特に底知れない黒瞳から感じる、丸裸にされてしまいそうな圧力に、
葵は半ば自動的に口を開いてしまった。
「わ、私……夏に入る頃から、身体が変になって……」
「変?」
「ひ、緋勇君が私に氣を注いだときみたいに」
「……ああ。それで?」
ついさっきまで龍麻を糾弾していたはずなのに、今や立場は逆転し、葵が難詰される側だった。
それでも、冷静になればまだ優勢に話をすすめることができたかもしれない。
しかし頭の中で鳴り続ける血流の音が、思考をひどく妨げた。
「それで……その、そうなる時はいつも、最初に緋勇君にそうされた時みたいに
右の手首が熱くなるから、緋勇君がそういう『力』を使ったんじゃないかと」
「……最初に俺がした時っていうのは、保健室のことか?」
「え、ええ」
顔を引きつらせつつ頷いた時、脈動が下腹に響いた。
それはまったく場違いな、今起こるべきではない反応であったにも関わらず、
もたらした影響は絶大で、ほとんど全ての感情的なものを根こそぎそちらに振り向けさせた。
葵は思わず膝を合わせたが、龍麻は気づかなかったようだ。
「なるほどな。大体解った」
逃げだしたい気持ちと聞きたい気持ちがせめぎあう。
だがそれは精神だけのことであって、右腕を掴まれている以上、逃げることは不可能だった。
怒気こそ薄れたものの、圧力はいささかも減じていない龍麻の瞳が葵を見据える。
「俺があの日お前を襲ったのは、校舎裏で眼が合っただろう?
あの時にお前がそういう人間だと解ったからだ」
「そういう人間って……?」
「お前が俺には逆らえない、本能的に従う……命令されたい性ってことだ」
「な、何を言って……」
この男は狂っている。
そう葵は断定せざるをえなかった。
転校してきて顔も全く見たことがないような人間同士が、互いの本質など見抜けるはずがない。
まして葵は龍麻に好意的な感情など持ちあわせておらず、彼の分析など的外れもいいところだ。
佐久間よりも外見は悪を醸しだしていないので今まで判断できなかったが、
この緋勇龍麻という男は、佐久間など比較にならない悪に違いなかった。
手を振りほどいて逃げるべきだ。
理性が発する警告に、葵は従えない。
どうしてなのかも解らぬまま、呆けたように口を開け、
龍麻がさらなる毒を吐きだすのをただ待ち受けた。
「蝙蝠にやられた時は別として、その後電車の中で触ったりしてもお前は抵抗しなかったよな。
その気になりゃ声を出すくらいはできたのに、振り払いもしなかった。それに」
龍麻が口を閉ざした時、葵は不意に風の冷たさを感じた。
それが身体が熱くなっているが故のことだと、気づく余裕もない。
「身体が変になった、って言ったよな? その時、何をネタにオナニーしたんだ?」
「――!!」
抜けるような朝の秋空にそぐわない、顔が見えない夜の闇の中でさえ
聞きたくないような下品な言葉に、葵は顔をしかめる。
絶対の秘密が侵食されようとしている恐怖は、かつて経験したことのないものだった。
「身体が火照るのを俺のせいだと思っているなら、俺にヤられる想像でオナる。違うか?」
「ち……違うわ」
「違わねえだろう? 氣ってのはあくまで即効性だ、
注がれた直後から火照りが続くことはあっても、時間を置いて、
特定の場所だけ火照らせるなんて不可能だし、まして他人を操るなんて芸当はできねえ。
なのにお前は保健室で掴まれた時のように右の手首が熱くなるなんて言いやがる。
どんな風に身体を触られたか、思いだしながらしてたんだろう?」
図星を言い当てられた葵は沈黙するしかなかった。
恥辱に肩が震え、彼の瞳の圧力に抗しきれなくなる。
そのまま気を失ってしまえたら、いっそ楽だったかもしれないが、
尽きかけていた気力を振りしぼって、葵は最後の抵抗を試みた。
「本当に……本当に、緋勇君は……何もしていないの……?」
「そんな事ができるんなら、さっさとお前を支配してるだろうよ。
何もお前が一人になった時を待たなくたって、どこででも操れるんだからな」
明らかとなった不都合な真実に、葵は親友の身に生じた悲劇さえ忘れて膝から崩れ落ちた。
倒れる寸前に龍麻に抱きとめられたが、払いのける気力もない。
間近に迫る彼の顔にも、抗えなかった。
この瞳に呑まれたら、どうなるのだろう。
自分が自分でなくなってしまうのだろうか。
龍麻の物となり、彼の欲望に奉仕するだけの人形となってしまうのだろうか。
……だとしても、犠牲は自分だけに留めなければならない。
「お願い」
葵はかすれた声で囁いた。
「小蒔にだけは、手を出さないで」
それは魂からの願いだった。
もう自分はこの悪魔から逃れることはできないかもしれない。
でも、小蒔だけは護らなくては。
悲壮な覚悟を胸中に宿した葵は、軽いため息が聞こえてきて、驚いて顔を上げた。
「勘違いしてるみたいだな」
「え……?」
「俺は桜井には何の感情も持ってねえ。従わせようだなんて思っちゃいねえし、
向こうも俺と目が合ったって何とも思ってねえだろう」
黒い瞳はごく微量色を薄めたようだったが、
龍麻が本心を語っているのか、葵には判らなかった。
安心させて籠絡するための嘘かもしれない。
葵がかつて対面したことのない邪悪な男は、
葵と小蒔の両方を手に入れようと画策しているかもしれないのだ。
だが、息がかかるほどの近さで受ける瞳の圧力は、葵から考える力を奪っていた。
「まあいい……お前には、そのうち解らせてやるさ」
解らせる? 何を?
訊かなければならない気がした葵が口を開こうとすると、予鈴が遮った。
龍麻も掴んでいた葵の手を離し、自ら校舎に続く扉を開ける。
「戻ろうぜ。今日はこのまま帰っちまいたいくらいだが、鞄を教室に置いてきちまった。
もう皆来てるだろうしな、仕方ねえから授業に出るだけ出るさ」
葵を待たずに龍麻は教室へと戻ってしまった。
一人残された葵は呆然と立っていたが、我に返ると慌てて自分も教室へと戻った。
授業が始まっても、葵は全く集中できなかった。
考えなければならないことが多すぎる。
最初に浮かぶのは、やはり小蒔のことだった。
小蒔は学校に来ておらず、龍麻の話は残念ながら正しいらしい。
最悪の事態には陥っていないようだが、彼女が受けた心の傷を思うと、
葵は胸が張り裂けそうになる。
連絡を取りたいところではあったが、今の時点ではまだ避けるべきだろう。
それにしても、醍醐を誘い出すために小蒔を利用したという佐久間の卑劣さには、
怒りを覚えずにはいられない。
この点に関する限り、葵は龍麻と意見が同じで、
もし佐久間が小蒔に跡が残るような傷を負わせていたら、彼を決して許さないだろう。
いずれにせよ大切なのは小蒔の容態で、彼女の元気な顔を見たいと祈る葵だった。
次に考えたくはなくても、どうしても避けては通れない龍麻のことを考える。
龍麻は葵を従いたい性だ、と評した。
彼にそんな妄想を抱かせるような態度を取ったことがあっただろうか?
あるいは、彼はめぼしい女性に片っ端からそうやって、
自分が優位に立てるような声のかけ方をするのだろうか?
前者には全く心当たりがないし、後者は確かめようがない。
少なくとも彼が真神に転校してきてからは、他の女性、
つまり『力』に関係する女性以外と親しくしているところは見たことがないし、
彼女達に対しても親密というほどではないようだ。
葵の知らないところで密会している可能性はもちろんあるが、
なんとなく葵は違うような気がしていた。
どちらにしても、葵にとってはありがたいことではない。
だが、この春からの体調の変化は龍麻が関係していなければ説明がつかず、
なんとか真相を究明したいと、これも真剣に願わずにはいられなかった。
どくり、と心臓が鳴る。
もし――もし、真相が葵の望まないものであったとしたら。
龍麻の言ったとおり、自分でも知らなかった一面があったとしたら。
その先を考えるのは、恐ろしかった。
だが、その先に道が続いていそうなのが、もっと恐ろしかった。
結局葵はこの件に関して、判断を先延ばしにするという彼女らしくない決断を下した。
そうするしか、もはや葵にはなかったのだった。
京一が醍醐と小蒔について龍麻から聞かされたのは、葵に遅れること四時間後だった。
龍麻は最初から葵と京一には別々に話すつもりだったが、
これほど時間が空いたのは京一がこの時間にようやく登校したからだ。
葵にはあえて伝えなかった、醍醐が佐久間を殺したということも話し、
事態の深刻さを余さず伝えた。
「佐久間の野郎、そこまで堕ちやがったか」
葵と同じ、屋上で龍麻から昨夜の件を聞かされるなり、京一は吐き捨てた。
金網が曲がりそうなほど強く掴み、しばらく動かない。
京一の脳裏には、先日醍醐と交わした会話が浮かんでいた。
京一と醍醐は、真神学園の屋上で放課後の一時を過ごしていた。
空はどこまでも青く、そこからくりぬいたような白い雲が所々に浮かんでいる。
どういう風の吹き回しか、普段なら何人かはいるこの場所は、二人だけだった。
本来なら龍麻がいてもおかしくはないのだが、なにか用事があるとかで、今はいない。
帰りに寄る予定のラーメン屋もまだ開いていないので、龍麻を待ちつつ、
それまでの時間潰しといったところだった。
「なあ、京一」
「なんだよ」
全く気のない返事にも、醍醐は気分を害した様子はなく、
空を見上げて、巨体に似つかわしくない、ためらいがちな声で続けた。
「お前、最近の佐久間を見ていてどう思う」
「知らねェよ。俺に男を観察する趣味はねェからな」
もっともな台詞に苦笑した醍醐は、しかしそこで話を止めず、空を見上げて続けた。
「俺はな、京一。この頃良く考えるんだ。
俺達が持つこの『力』は何の為にあるんだろう……ってな」
「……」
「『力』を持つ者と持たざる者──その違いは一体どこなんだろうって考えるのさ」
「またお前はそんな辛気臭ェこと考えてんのかよ」
金網に背を預けた京一は、全くこの秋空に似つかわしくないことを言う男にらしくない説教を始めた。
「いーじゃねェか、別に、どっちでもよ。別にあって困るもんでもねェだろうが。
──それによ、他人が持ってねェモンを持ってるってコトは、気分がいいじゃねェか」
軽口を叩いてみせる京一だったが、醍醐は乗ってこなかった。
腕を組み、遥か遠くを見つめてひとりごちるように呟く。
「お前らしいな。……が、そう考えられるお前がうらやましいよ」
「……ッたく、美里もだけどよ、お前ら余計なコト考えすぎだぜ」
「あぁ……そうかもしれんな。だが……生きていく上で、こんな『力』は必要なのか?
確かに俺達はこの力のお蔭で命を助けられたこともあった。
だが平凡な人としての生をまっとうできず、
愛する者をもこの力の為に失わなければならないとしたら、
俺は……そんな力は欲しくない」
「……」
「俺は、これ以上何かを失うのは御免なんだ」
言葉を切った醍醐は、話題を変えた。
「俺は──今の佐久間に、凶津を重ねて見ているのかもしれない」
「確かに佐久間はお前のことを良くは思ってねェだろうさ。
お前と自分との差を歴然と感じてんだろうよ」
醍醐の心配は、京一には危うく感じられるものだった。
佐久間は他人の努力を認めようとせず、自分に才能が無いことを受け入れられず、
ただ妬み、僻む。
恐らく最も醍醐とは相性が悪いタイプだろう。
はっきり言えば、全く関わらないのが一番の選択なのだ。
しかし京一は、それを口にはしなかった。
「お前があいつのコトを心配してんのは解るがよ、
それが佐久間に伝わるかどうかは別問題だろうよ。
佐久間にはお前の気持ちを受け入れるだけの余裕は無いと俺は見てるがな」
「……」
「あんまり甘ェこと言ってると、取り返しのつかねェコトになるぜ」
「……あぁ」
渋々一度は頷いた醍醐は、すぐにまた口を開く。
「京一、俺は──」
「俺はなァ、醍醐。何が起こるかわからねェ日常の中で、
絶対に護らなくちゃならねェモンを抱えちまったお前の方がよっぽど心配だぜ」
遮った京一の口調に、深い気遣いを感じ取った醍醐はそのまま沈黙した。
再び腕を組み、己一人の思索の路に入り込んだ醍醐を見やって、京一は頭を振る。
髪を、ほんの少しだけ冷たさを感じさせる風が揺らした。
乱れてしまった髪をかきあげ、京一は呟く。
「風が──強くなってきやがったな」
空に向けて放たれた京一の声は、すぐに秋の始まりを告げる風に乗って散っていった。
まだ薄れては居ない記憶を辿った京一は、
自分が酸味を効かせた表情をしていることに気がついて頭を振った。
過去の過ちを省みるのは、己の性向にふさわしくないと思っており、
また、それは全くの事実だった。
ここに居るのが龍麻だけで良かったと思いながら、
表情を整えるために京一は幾分龍麻を睨みつける。
「……で、醍醐はどうしたんだ」
「判らない。さっき電話してみたが、誰も出なかった」
「あの野郎、くだらねェモンを抱えこみやがるからな……でけェ図体してるくせによ」
もう一度金網を揺らした京一が、思いだしたように向き直った。
「まさかてめェも責任感じてやがるんじゃねェだろうな」
「感じてないわけねえだろ」
龍麻が断言したので、かえって京一は怒気を削がれた。
「けッ、まァその分ならいいだろうよ。降りるつもりはねェんだろ?」
「ああ、もちろん」
「ならいい、腑抜けたコト抜かしたらブン殴ってやるところだったぜ」
それは京一もまた降りるつもりがないということだった。
それを察したのか、龍麻は感銘を受けた風に京一を見た。
「なんだそのツラは」
「……いや」
龍麻が笑っていたら、京一は彼を殴っていたかもしれない。
かといってそうならなかったのもどこか面白くなく、その腹いせとでも言うべきか、
結局次の授業をサボることに決め、一人屋上に寝転がる京一だった。
「今日は目白と目青不動に行く」
最後の授業が終わるなり龍麻は京一と葵を呼び、そう告げた。
簡単に頷いた京一に対して、葵は即答を保留した。
朝の屋上での話もあり、うかつに龍麻と行動を共にするのは避けたかったのだが、
珍しく、龍麻はあいまいな返答を許さなかった。
「一緒に行くぞ」
「でも……小蒔と醍醐君が……」
「今日は摩尼を置いてくるだけだから、三人でも危険は少ないだろう」
反論を許さない強い口調だった。
葵は助けを求めて京一を見たが、彼もまた、頭を横に振った。
「しばらくは固まって動いた方がいいだろうな」
小蒔が葵と別れてから家までのわずかな時間に拐われたことを、葵は失念していた。
実行犯である佐久間の仲間達も今日は学校に来ていないが、鬼道衆は未だ全容を見せていない。
龍麻の用心深さを、葵は認めざるをえなかった。
「……わかったわ」
力なく頷いて葵は同行を承諾した。
目白までの電車内は、葵が危惧したようなことは起こらなかった。
電車は比較的空いており、卑劣な行為に及ぶ隙がなかったのだろう。
扉に背を向けて立っていた葵はいつ龍麻が魔手を伸ばしてくるか、
気が気でなかったが、彼はそれらしい素振りさえ見せなかった。
「どうした、降りるぞ」
「え、あ、はい」
警戒するあまりに目白駅に着いても構えていた葵は、反対側の扉が開いて慌てて龍麻に続いた。
江戸の鎮護を願って置かれた不動明王は、当初はこの金乗院ではなく
文京区にある新長谷寺にあったとされるが、
第二次世界大戦の戦火により寺が焼失した為現在の場所に移されたという。
弘法大師作と伝えられる不動像は左腕が無い断臂不動明王であり、
特に徳川三代将軍家光の信仰が篤く、目白と言う号を贈ったのも彼であると伝えられていた。
この場所に龍麻達が来た理由は、
彼らが持つ五色の摩尼と呼ばれる、鬼が封ぜられた宝珠を再び封印するためであった。
鬼道衆の手によって奪われ、陰氣を注がれて風角や水角といった人形を生み出す源となった宝珠。
龍麻達は醍醐が師と仰ぐ、筮竹によって未来を視る筮法師、新井龍山の勧めに従って、
元あった場所に摩尼を戻すために、東京の各処にある五色不動を回ることにしたのだった。
「緋勇、美里。こっちに祠があるぜ」
京一の声に、摩尼を安置する祠を三方に分かれて探していた龍麻と葵は彼の所に向かう。
京一は不動堂の裏手、訪れる者もなくひっそりとした場所の一角にいた。
「こいつだ」
「これが、龍山先生の言っていた祠かしら」
「さァな。けど他にそれっぽいのは見当たらねェ──おい、緋勇」
京一に言われて龍麻が袋から摩尼を取り出すと、
風角を斃して手に入れた珠は乳白色の光を放っていた。
「間違いねェみてェだな」
京一が無造作に祠の扉を開ける。
中には珠の色と同じ、乳白色の布団が置かれているだけで、他には何もなかった。
場所を空けた京一に代わり、進み出た龍麻は丁寧に摩尼を置いた。
手を離し、転がったりしないことを確かめてからゆっくり一歩下がる。
輝きこそ失せたものの、それ以上何も変化は起こらず、拍子抜けした京一が言った。
「これでおしまいか? なんか出て来たりすんじゃねェのかよ」
「……終わり……みたいだな」
肩透かしを食った気分なのは龍麻も同じだった。
扉を閉め、やはり何も変わらないことを確かめると、軽く肩をすくめる。
しかし他にどうしようもないので、三人は寺を出ることにした。
「小蒔と醍醐君……大丈夫かしら」
道すがら、葵が呟く。
それは三人で行動していることを咎めているのではなく、
純粋に二人を心配して言ったのではあるが、応じた京一の態度はどこか突き放すかのようだった。
「さァな。醍醐にも小蒔にも連絡がつかねェんじゃどうしようもねェし、
摩尼も俺達が持ってるよりさっさと封印しちまった方がいいだろ。
鬼道衆が取り返しに襲ってきたりしたらマズいしな」
「それは……そうだけれど」
葵は京一の正論にも納得した様子を見せない。
目白不動に出発する前に小蒔の家に電話をし、彼女がいることだけは確認できたものの、
具合が悪いとかで電話口にも出てもらえなかった。
家族も困惑しているのが伝わってきたので、葵はそのまま電話を切るしかなかった。
「別の日に出直すのも面倒くせェ、さっさと目青不動に行こうぜ」
頷く龍麻と京一に促され、釈然としないながらも葵は歩きだす。
すると、横合いからいきなり声をかけられた。
「それが五色不動の力って訳ね」
三人が驚いて振り向くと、そこにいたのは、フリーのルポライターを名乗る天野絵莉だった。
二日前に織部神社で会ったばかりではあるが、その時といい今といい、
神出鬼没と言うにふさわしい行動力だ。
「絵莉ちゃん……なんでここに」
「白蛾先生に聞いたのよ。あなたたちが不動巡りをするって」
「あのおしゃべりジジイ」
吐き捨てるように京一は言ったが、知られて困る行動でもなかったし、
基本的には美人に会えて嬉しいはずだから、単なる同族嫌悪なのだろう。
「天野さん、龍山先生とお知り合いなんですか」
代わって龍麻が訊ねると、絵莉は軽く手を振った。
「知り合いってほどじゃないけど、以前、仕事で占いの取材をした時にお会いしてね。
風水や陰陽道にも詳しいと聞いていたから、
今回の一連の事件のヒントが得られないかと思って昨日会いに行ってみたの」
「昨日? それじゃ、俺達と入れ違いかよ」
「そうみたいね。京一くんのこと、先生仰っていたわよ」
「どうせやかましい小僧が、とかそんなんだろ」
「ふふッ。──そういえば、今日は三人だけなの?」
笑いを収めた絵莉が訊ねる。
彼女にとってさえ自分達は五人一緒にいるのが当然であると映っていたようで、
他意はないだろう。
それでも事情を話すわけにもいかず、龍麻は返事を口篭もらせてしまった。
「え……ええ」
「そう……ま、いいわ。実は鬼道衆について判ったことがあるの。ちょっと時間ある?」
二人について追及されなかったのは、幸いといえた。
三人と絵莉は、境内の日陰になっている部分に場所を移した。
まだ夏の暑さが色濃く残る一日は、不快な汗を肌に浮かべさせる。
時折、思い出したように吹く微風を唯一の涼として、龍麻達は絵莉の話に耳を傾けた。
「実はね、鬼道衆の狙いがなんなのか、それを調べていたんだけど」
「東京の壊滅じゃねェのかよ」
何を今更、といわんばかりの京一の態度にも、絵莉は怒ったりはしない。
「ええ、それがひとつにあるのは間違いないわ。
でも鬼道衆の動きを見ていると、それだけじゃないように思えるの。
水岐君や他の人達を唆して事件を引き起こしたりしているのは、
何か別の意味があるんじゃないかっ……て」
「何か……?」
「二日前、織部神社であなた達に会ったでしょ。
あの時、神主の織部さんに見せて頂いたものがあるの。
江戸時代の古い書物なんだけどね、そこに気になることが書いてあって。
菩薩眼──って聞いたことある?」
ここ数日で色々新しい単語を覚えた龍麻達だったが、
また新しい一語を覚えなければならないようだった。
困惑した顔を浮かべる三人に、絵莉は微笑して小さく頷く。
彼女自身も、その書物を見て初めて知った言葉だったから、彼らが知らないのも無理はなかった。
「まぁ、当然よね。その書物には菩薩眼なるものの説明が簡単に記されていたんだけど、
菩薩眼──別名龍眼っていうのは、
元々風水の発祥の地である中国の客家という土地に伝わる話で、
地の龍──つまり龍脈が乱れる時その瞳持つ者が現れ、人を浄土へと導くと言われたらしいわ。
その眼は氣の流れを詠み、太極を視ると言われた。
でもその瞳は何故か女性にしか発現せず、風水に詳しい時の権力者達は、
こぞって菩薩眼の女を探したと言うわ。
そしてそれだけじゃなく、その書物には、
鬼達が菩薩眼の瞳を持つ女性を攫っている様子も記されていたわ」
「鬼達が……?」
「ええ。何故鬼が菩薩眼を狙っているのかという理由は記されていなかったけれど、
江戸時代、人と鬼の間でその菩薩眼を巡る闘いがあったらしいわね。でも」
絵莉はここで言葉を切った。
あれほど鳴いていた蝉でさえもが、彼女の言葉を聞き入ろうするかのように押し黙った。
「でも、私が驚いたのは、当時その鬼達が、町の人から何と呼ばれていたかなの。
書物にはこう記されていたわ。鬼道衆──とね」
三人は一瞬ではあるが、不快な暑さを忘れていた。
昨日龍山に聞いた話では、江戸時代に九角鬼修と言う男が幕府転覆を謀る為に組織したのが、
鬼道衆という人ならざる『力』を持つ集団なのだということだった。
今龍麻達が闘っている鬼道衆の棟梁も九角の血を引く者だろう、そう締めくくった龍山の話は、
これでいくらか補強されたことになる。
子々孫々に渡って受け継がれる恨み──その積年の怨念は、いかほどのものだろうか。
これまで人の恨みつらみというものに縁なく生きてきた龍麻達には、想像もつかない。
たまらず自分の肩を抱いた葵は、ふと心づいて絵莉に訊ねた。
「それじゃ、今私達が闘ってる鬼道衆の目的も、その菩薩眼の瞳を持つ女性を探そうと――?」
「その可能性はあるわね。今までの事件が菩薩眼の伝承と関係するとしたら、
鬼道衆の目的は東京の壊滅よりも東京を混乱させ、
龍脈を乱すことによって菩薩眼を持つ者を覚醒させることかもしれないわね」
「なんだそりゃ……そんなことの為に罪のない人間を苦しめてるってのかよ」
立ちあがった京一は、理解不能、と言った趣で叫んだ。
龍麻にも同種の表情が浮かんでいる。
その菩薩眼とやらがどれほど重要かは知らないが、無辜の人々を巻き込み、
東京を混沌の渦に叩きこむ行為など許されるはずがなかった。
鬼道衆に対して強い嫌悪と憤りを浮かべる龍麻達の顔を見て、
絵莉は胸に抱いていた想いを静かに吐露する。
「私ね、ずっと考えていたの。
何故……あなた達のような若者にだけ『力』が発現したんだろうって。
何故、大人ではなく」
それは彼女が渋谷で鴉が人を襲うという怪事件を縁に『力』持つ雨紋や龍麻達と出会い、
その後も東京の各処で起こる怪異を追いかけるようになってから、ずっと抱いていた疑問だった。
事件を起こした人間も、それを解決しようとする龍麻達も皆、
子供から大人への最後の階を上る寸前の年齢だった。
そこに何らかの意味があるのか──絵莉は考えると同時に、
ある種のやりきれなさをも感じていたのだ。
彼らだけに責を負わせ、何も出来ない自分に。
しかし、今の龍麻達の表情を見て、絵莉はその意味をある程度理解したように思えた。
未来を見る、純粋な瞳。
良きにつけ悪しきにつけ、その真っ直ぐな想いは人生のごくわずかな期間にしか得られないものなのだ。
彼らの瞳に浮かぶ、いずれ失ってしまう貴重な輝きを、絵莉は眩しげに見やった。
「でもね、もう考えないことにしたの。あなた達は──選ばれたんだから」
「天野さん……」
龍麻達には、絵莉の寂しそうな表情の意味を推し量るだけの年輪が不足していた。
それはいみじくも彼女が感じた眩しさと一体のもので、
まさに彼らの年齢だけが持ちうる光は、その眩しさ故に影すらも生み出さないのだ。
年上の女性を慰める言葉など持たない龍麻達は、無言で絵莉を見るしかできなかったが、
続く彼女の言葉には力感が漲っていた。
「頑張って、みんな。あなた達にこの東京の未来がかかっているの。
私も出来る限り協力するけれど、東京を護って、未来を作るのはあなた達なんだから」
それは大人なら誰でも言いそうな陳腐な説教だったかもしれない。
しかし龍麻は、素直に感動し、彼女の督励を受け入れていた。
絵莉が真剣にこの東京の未来を案じ、
自分達に希望を託しているのがはっきりと伝わってきたからだ。
「協力はありがてェけどよ、また危険な場所に行くのかよ」
「大丈夫よ、今までだって結構ハードな現場をくぐってきてるんだから」
皮肉とも本気ともとれる京一の台詞に、
絵莉はおどけて胸を叩いてみせ、勢い良く立ちあがった。
その仕種こそ、龍麻達には眩しく映る。
「それじゃ、私は行くわね。
菩薩眼のことや、白蛾先生が仰っていた九角って人のことをもう少し調べてみるわ」
「俺達はこれから目青不動に行きます」
「ええ、何か判ったら連絡するわ」
絵莉は律動的な足取りで去っていく。
口では表しにくい、胸にこみ上げるものを感じながら、龍麻達は後ろ姿を見送っていた。
ふと京一が、顔はそのまま動かさず訊ねる。
「ところで連絡──ってどうやってすんだ? これまでは行く先々でなんか会ってたけどよ」
「俺の家の電話番号を教えた」
つまらないことを訊く、とばかりに龍麻が答えるや否や、京一は胸倉を掴みかかってきた。
静から動へ、鮮やかな豹変に龍麻も反応できない。
「何ィッ!! てめェ何抜け駆けしてやがんだッ!!」
「抜け駆けって何言ってんだ馬鹿野郎、聞かれたから教えただけだ」
「だ・か・ら・ッ!! いつ、どこで、どうして聞かれたんだってんだよッ!!」
馬鹿正直に答えようとして、それが何の意味もないことだと龍麻は気づいた。
教えた所で京一の、明らかに間違っている怒りが解ける訳もないのだ。
胸元を締めあげて詰め寄る京一を払いのけ、葵の手を掴む。
「行くぞ美里、とっとと次の不動に行かねえと日が暮れちまう」
成り行きを半分呆れて見守っていた葵は、突然巻きこまれて声も出ず、
引っ張られるがままになってしまった。
「あッ、この野郎ッ、話はまだ終わってねェぞッ!!」
さっきまでの静謐さが嘘のように京一の怒号が響き、釣られるように蝉も鳴きだす。
木陰の間を走りぬける三つの影は、時に重なり、時に離れながら去っていった。
豊島区から世田谷区へと移動した三人は、目青不動への道を歩いていた。
「えっと……確か、この先を右に行った所が目青不動よ」
道案内は葵が務めている。
京一も龍麻も寺社仏閣にあまり興味がなく、場所を調べるのすら怠っていたからだ。
葵の案内は正確で、三人は道を間違えることもなく目青不動に着いた。
「ここか? パッとしねェ寺だな」
「パッとする寺ってどんなんだよ」
「あぁ? そりゃお前、金ピカででっけェ大仏がいてよ」
東京にも幾つか大仏はあり、中でも板橋区の乗蓮寺にある、
いわゆる東京大仏は奈良、鎌倉の大仏に次ぐ大きさである。
京一の言うような金でできてはいないが、中々の威容で隠れた東京の名物になっている。
そこに較べれば今龍麻達が前に立っている寺は、確かに素朴ではあった。
もちろん寺の格は大きさや大仏の有無などで決まるものではないのだが。
「この目青不動は教学院最勝寺といって、由緒正しい天台宗のお寺なのよ」
「ふーん。ま、中に入ろうぜ」
相変わらず由来や縁起と言ったものに全く関心のない京一は、
葵の解説を聞き流して中に入っていく。
苦笑する葵に同じ顔で応えて門をくぐった龍麻は、
危うく誰かとぶつかりそうになってしまった。
「なんや、危ないな」
軽い身のこなしで避けた男は、軽妙な関西弁でそう言った。
驚いて顔を上げた龍麻は、どうやらその男が日本人ではないようだということに更に驚く。
男の関西弁はそれほど馴染んでいたのだ。
最初から笑っているように見える細長い目は、
左側の目に大きな刀傷があって奇妙な凄みがあるが、
時代遅れな鉢巻に、はだけた学生服の内側から覗く赤いシャツが、
いかにも趣味が悪いという印象だった。
その中で、右の肩から突き出ている包みがとりわけ異彩を放っている。
厳重に包まれてはいるが、中身は一体何なのだろうか。
これと似たような物を、どこかで──記憶を巡らせた龍麻は、すぐに答えに行き当たった。
京一が肌身離さず持ち歩いている木刀と、雰囲気が似ているのだ。
ならばこれは、武器なのか──京一以外にそんなことをしている奴がいるのか、
と龍麻は驚いたが、これは愚問だった。
何しろ彼の周りには雨紋や小蒔などがいるのだから。
「ん? んん?? ほうほう──」
余計なことを考えていた龍麻が、とにかくぶつかりそうにはなったのだから謝ろうとすると、
男は先手を取ってしげしげと眺めてくる。
それはほとんど観察であって、龍麻は薄気味の悪さを覚えずにはいられなかった。
「なんだ、お前の知り合いか?」
無言で首を振る龍麻に、京一は一歩進みでる。
初対面から馴れ馴れしい人間は、あまり彼の好みではなかった。
「おい、俺達になんか用かよ」
「ちょい待ち、そないな恐い顔せんといて。ちょっとこの兄さんがええ男やったさかい」
流れる空気が一気に変わった。
京一は前に出ていた分をきっちりと下がり、葵もさりげなく龍麻の影に隠れる。
一番下がりたいのは間違いなく龍麻のはずだったろうが、
逃げ遅れた犠牲者は気の毒にも生贄として捧げられる運命が待つのみであった。
ご丁寧に背中を押しだす京一に、龍麻が全身の力で踏ん張っていると、
男が嘆かわしげに額に手を当てる。
「なんや、そないに引かんでもええがな。
ま、それはそうと、兄さんたち、目青不動に用でっか?」
「おめェにゃ関係ねェだろ」
京一の声は威勢が良いが、腰が引けているので迫力はない。
怖い物などそうはないこの男も、趣味が違う相手となると、
触らぬ神にたたりなしと言った態度が精一杯なのだった。
「そりゃそうや。でも気ィ付けとき。この辺りは鬼が出る言われとるんや。
せいぜい食われんようにな」
「おい……こいつ大丈夫なのか?」
それは龍麻こそ聞きたかった。
ぎこちなく龍麻が首を振ると、男は急に興味を失くしたように背を向けた。
あっけにとられる龍麻達に向かって、歩き去りながら手だけを振る。
「ほな、またな」
あっけにとられる三人を残して、男は消えてしまった。
白昼夢でも見たような顔をしていた三人だったが、
男が消えて三十秒近くも過ぎてから、ようやく京一が呟く。
「鬼、ねェ……」
本物の鬼と闘っている京一達からすれば、
男の言っていることはいかにも幼稚に聞こえたのは無理からぬことだった。
手にした木刀で軽く肩を叩いて苦笑した京一は、
まだ固まったままの龍麻の背中を思い切り叩いて促した。
「ヘンなのに関わっちまった。さっさと奥へ行こうぜ」
中に入った三人は目白不動の経験を生かし、今度は最初から隅の方を探す。
その読みは当たり、それほど時間も浪費せずに隅の方にある小さな祠を見つけることができた。
「お、こいつじゃねェか」
「そうね、目白不動の祠と同じだわ」
「てことは」
龍麻が摩尼を取り出すと、やはり宝珠は蒼く輝いていた。
京一が祠の扉を開き、龍麻が納める。
ほのかな輝きは徐々に薄れていき、やがて完全に消えた。
「二つ目終わり──ッと。ちょろいもんだな」
再び京一が無造作に扉を閉めたことで、
龍麻達が持っている摩尼は二つとも封印完了となったのだった。
学校を出発する時は何が起こるのかとそれなりに緊張していた京一も、
封印とやらが単なる散歩に終わったことに気が抜けてしまい、大きく欠伸をした。
「んじゃ帰ろうぜ。後は明日、醍醐と小蒔が来たら決めようぜ」
「ああ……そうだな」
できることは全て終えたので、三人は新宿に戻ることにした。
二つの不動巡りを終えて龍麻達が新宿に戻ってきたのは、
辺りもそろそろ暗くなろうかという時刻だった。
既に秋も深まりつつあるこの季節は、駆け足で夜が訪れ、風も冷たくなってくる。
「夜は冷えるな、そろそろ」
「そうだな」
「こんな日は熱いラーメンを食るに限ると思わねェか」
京一の提案に龍麻は頭を振った。
「いや、今日は美里を送っていく」
「……ッと、そうだな、その方がいいか」
京一があっさり退いてしまったため、葵は自分で防御しなければならなくなった。
「あの、私は一人で帰れるから」
「駄目だ」
龍麻の口調は強く、重い。
邪な目的があったとしても、おくびにも出していなかった。
この意志を退けるには相当の口実が必要だと思われ、
葵はそれだけの理由をとっさに用意できなかった。
「しょうがねェ、今日は諦めるか。それじゃ、美里は任せたぜ。
……ッとそうだ、明日にでも醍醐ん家に行ってみねェか」
「ああ、わかった。それじゃあな」
龍麻の本性を知らない京一は、それが最善とばかりに葵を龍麻に委ね、帰ってしまった。
「行くぞ」
龍麻に促され、葵は仕方なく重い足取りで自分の家へと向かうのだった。
今いるところから葵の家までは、十五分ほどある。
はじめ葵は龍麻と話す気もなかった。
形式さえ取りつくろう気になれなかったのだ。
考えを変えたのは、彼が邪な欲望を自分に向けるかもしれないと気づいたからで、
何でも良いから気を反らした方が良いと思ったのだ。
だがこれが難題で、小蒔と醍醐の話は今はしない方が良いだろうし、
そもそも龍麻としたい話などない。
迷った挙句、葵は言葉の泉から浮かんだ語句を、ほとんど吟味せずに喋った。
「あっ、あの……緋勇君は、どうして戦うの? その、危険なのに」
その質問は、葵の意図と正反対の結果をもたらした。
龍麻は立ち止まり、葵を凝視したのだ。
殴られるのではないか、と葵は錯覚した。
そう思ってしまうほど、龍麻からは殺気が発せられていた。
夜であっても人型の輪郭が浮かぶほどの氣に、彼を怒らせたことを葵は後悔し、恐怖した。
だが、深いため息と共に怒りの氣を消した龍麻は、再び歩き始めた。
「……前の学校で」
低く下げられた龍麻の声は、離れていると聞きとるのが難しく、
葵は彼に近づかなければならない。
襲われるという懸念もあったが、彼が何を話すのか、好奇心が上回った。
龍麻は前を向いたまま語る。
「前の学校で、俺は普通の高校生だった。『力』なんてなく、特に目立ちもせず、
将来の目標なんてものもなく、そこそこの勉強と、友達と遊ぶだけの、普通のな」
真神に来てからの龍麻は、人当たりは良いが、
誰かと親しくしているところを葵は見たことがない。
強いて言うなら京一と醍醐だろうが、放課後はほとんど毎日一緒に行動している
彼らとさえ、ほんの少し隔意があるように葵には思えるのだ。
ただし、これは葵が小蒔とあまりに仲が良いため、少し基準が辛いかもしれない。
いずれにしても、今の龍麻から、彼が言う普通の生活というものを想像するのは難しかった。
「異変が起こったのは二年の二学期だった。夏休み明けで登校してこない生徒が六人居た。
全員女で、後から判ったことだが、六人とも手ひどくレイプされて、
その上治らない怪我までさせられたって話だった」
女性にとって忌むべき言葉に葵は眉をひそめる。
被害の当事者になりかけた身としては、加害者となっていたはずだった男の口から
その言葉を口にされれば警戒するのは当然だった。
龍麻は葵の微妙な反応にも関心を寄せる様子はなく、
ただ自分の過去を辿るのに集中しているようだった。
「大事件だ――が、六人はショックで口も利けなくなっていたのと、
それぞれ学年もクラスも別だったから、事件の発覚と関連づけるのは遅れた。
俺もこの時点ではそんな事件が起こったことすら知らなかった」
車が横を走り抜けていく。
再び静寂が訪れるまで待ってから、龍麻は話を続けた。
「俺が事件を知ったのは、七人目が狙われてからだ。
狙われたのは、俺の同級生だった。
それも単なる同級生ってだけじゃない、俺とそいつ、
そいつの幼馴染の男の三人はつるんで遊ぶ仲だった」
この時、龍麻の瞳に過去を懐かしむ色が浮かんだが、後ろにいる葵には見えなかった。
龍麻もまた、気配を閉ざすようにポケットに手を入れ、葵などいないかのように振る舞った。
「ある日の昼、血相を変えた男が俺の所に来て言った。
『アイツを探してくれ。学校には来たらしいんだが、どこにもいないんだッ!』
意味が判らなかったが、とにかく二人で学校中を探し回った。
三十分以上経って、ようやく音楽室で彼女を見つけた。
――彼女は裸で、宙に吊りあげられていた。
何の仕掛けも無しに、ただ身体が浮いていたんだ」
春までの葵なら、この時点で続きを聞く気を失くしていただろう。
荒唐無稽にも程がある龍麻の話を、だが、今の葵は信じている。
人知を超えた出来事を、葵も身を以て体験しているからだ。
「俺もあいつも訳が解らなかったが、誰の仕業かはすぐに判った。
音楽室に、俺達以外の奴がいたからだ。
素性なんて知らないが、とにかく彼女を救けようとあいつは突進した」
龍麻の声が低くなる。
それは学校で女子生徒に話しかけられて応ずる時のような、
耳に快い低さではなく、感情のゆらぎを悟られまいとするかのような抑制された低さだった。
「あいつがいきなり転んだ。何もないところで後から足を引っ張られたような
不自然な転び方だったが、あいつはすぐに立ちあがろうとした。
――できなかった。右手だけが異様な動き方をしたかと思うと、自分の左手の指を掴んで折った」
「――!」
「もちろん自分でそんなことをするはずがない。
さとみを吊るした奴が、『力』で比嘉を操ったんだ」
龍麻は友人達の名前を出してしまっていることにも気づいていなかった。
それほどの深い怒りに苛まれているのが、彼の輪郭を薄く滲ませている、
金色の輝きを通じて葵にも解った。
「絶叫が響いた。それでもあいつは進もうとした。
文字通り這ってでも、彼女を救けようとしたんだ」
突然、龍麻の声から力が抜けた。
葵が龍麻を知ってから初めて聞く、別人から発せられたように弱く、
小さく、死に瀕した子猫が出すような、か細い声だった。
「俺は進めなかった。あまりにも常識外れの状況に、足が動かなかった。竦んだんだ」
「やがてあいつの動きが止まった。その時になって初めて、
俺は友達二人を苦しめている奴に向かって突進した。
それも、怒りや義憤に駆られてじゃない。
恐怖の裏返しに過ぎない、逃げる方向を間違えただけの突進だった」
春からの戦いにおいて龍麻が怯えているところを、葵は見た覚えがない。
人ですらない敵に対しても、退却はおろか、仲間達よりも先に挑みかかっていく彼を、
喧嘩好きの不良に近い人物だと思っていたので、彼の独白は意外だった。
「あと一歩で奴を殴れる、というところで足が止まった。
殴るために握っていた拳が解かれて、自分の首を絞め始めた。
自分の手なのに振りほどけない。意識が遠くなって、死ぬ、と思った。
高笑いを始めた奴の顔を殴れない怒りで頭が一杯になった時、光が爆ぜた」
龍麻が立ち止まる。
彼の横に並んで立つか、葵は迷った。
それほど龍麻は悄然としていたのだ。
「そこから後は覚えていない。目覚めたら、病院のベッドだった。
そこにいた男――後に俺に『力』の使い方を教える奴が、状況を教えてくれた。
敵――俺達を襲った奴は、意識はあるが錯乱していて何も聞きだせないという話だった。
女友達の方は……外傷はなかった」
一呼吸の間が、葵に真実を悟らせた。
先の六人の女生徒は、全員襲われていた。
七人目の彼女も、外傷以外の傷を負わされたのだ。
「男友達の方は左手と右足に後遺症が残ると。
敵は『力』を持っていたこと、俺も『力』に目醒めたこと。
『力』を使って女を襲った奴を裁く術はないが、男が然るべき処置をすること。
そして、俺は『力』の使い方を学ぶ必要があるということを、男から聞かされた」
龍麻にも怪我はなかったという。
比嘉とさとみ、彼の友達だけが、一生残る深い傷を負ったのだ。
その事実は龍麻を苦しめた。
「どうしてあいつと一緒に突進しなかったのか。
どうして足を竦ませちまったのか。
どうして、もう少しだけ早く『力』を発動できなかったのか。
自分が許せなかった。だから、俺は初めて会った男の、命令にも近い申し出を受けた」
龍麻は敵――さとみを襲った相手を再起不能にしたことを悔いてなどいないが、
事実としては警察沙汰になっても不思議ではない傷害事件を起こしたということになる。
『力』の使い方を教えるという、鳴瀧という男の提案もあり、
龍麻は通っていた高校を休学することにした。
大怪我で入院という体裁だったので、比嘉とさとみに挨拶はできなかったが、
二人に合わせる顔もなく、龍麻は強い後悔を胸に十七年過ごした地を去るしかなかった。
修行は楽なものではなかった。
鳴瀧が言うところの『氣』というある種の生命エネルギーを体内で生成する方法に、
生成した氣を操る方法。
それに基礎体力の増強に、寝る時間以外は全て費やされた。
鳴瀧の教え方は懇切丁寧からは程遠く、出来なければ勝手に死ねと言わんばかりの
過酷なもので、龍麻は何度も怪我をして、中には命に関わるものもあった。
それでも逃げようとは思わなかった――平穏な生活が理不尽に奪われた憤りが、
怯懦のせいで友を半身不随にさせてしまった怒りが、倒れることなど許さなかった。
半年に及ぶ修行を終えた龍麻に、鳴瀧は真神學園に行け、
そこから全てが始まると告げた――
「奴はなぜ俺にこんな『力』の使い方を教えたのかは言わなかったが、俺は決心していた。
『力』を悪用する奴は、全員叩き潰すと。
それからこんな『力』を宿す奴が出てこなくなる方法があるなら、必ず探しだすと。
……これが俺の戦う動機だ」
龍麻の話に惹きこまれていた葵は、彼に抱いていなければならなかった警戒心を失念していた。
葵が自分の失策に気づいたのは、見慣れた自分の家を隠すように立ちはだかった龍麻に、
右の手首を掴まれてからだった。
龍麻の過酷な過去に冷えていた心が、一気に反転する。
否、反転したのは心だけではなかった。
「――や、やめて……放して……!」
「だから、俺はお前に『力』は使ってねえ。
身体が火照るっていうのはあくまでも氣を注いだ副作用に過ぎねえし、
俺が使えるのは氣、つまり生命力を操るだけだ。
それも、お前には怪我を治す時以外に使ってねえ」
意に介さない龍麻に、葵は心を覗かれている気がして赤面した。
掴まれた手首を本当に自由にして欲しいのか、解らなかったのだ。
拘束とはとても言えない、ほとんど重ねているだけの龍麻の手は、葵の身体を内側から灼く。
この春から馴染みとなってしまった、下腹に溜まる熱は、
このような場所で帯びてはいけないものだ。
この時間帯から歌舞伎町に群がりはじめる少女達とは異なり、
葵は十二分にそれを弁えているはずなのに、身体の欲求を抑えることができない。
渦を巻いて体内を巡る恐怖と昂揚に衝き動かされて、葵は龍麻を見た。
「手首が熱くなる、って言ったな。俺にこうやって掴まれてから」
「え……ええ」
「それなら、俺が『今日はどんなに火照ってもオナニーするな』って命令したらどうなる?」
「わ、わからない……わ……」
葵は口ごもったのは、本当に答えが判らなかったからであるが、
別の困惑があったからでもあった。
今こうしている間にも、不思議な火照りは身体を苛みはじめている。
全く受け入れられないことだとしても、龍麻に触れられた瞬間から生じた、
身体の敏感な部分に触れてみたい、そこに触れて得られる快感を享受したいという
欲求は無視できないほどに大きくなっていた。
龍麻の手が肌を滑り、手を包む。
守護天使の羽のように、あるいはイブを探す蛇のように、いつの間にか開いていた指の隙間に、
解きほぐされた指の腹に、甘美な暖かさを植えつけていく。
卑猥な言葉を投げつけられたばかりだというのに、
葵は危うく恍惚の吐息を漏らしてしまうところだった。
葵が相反する思考と欲求に葛藤している間にも、
龍麻の手は葵の手首から先を愛撫し続けている。
力づくで彼女を物にしようとした男とは思えない繊細さで、
甲をなぞり、指に絡まり、掌を包んで葵を更なる困惑に導いた。
「俺に他人を操る力なんかねえ。もしあったとしてもそんなものを使うつもりもねえ。
今、俺が氣を注いでいないのは判ってるな? ただ触ってるだけだ。
これで一晩お前が我慢できたんなら、俺は自分でも知らねえ『力』を
持ってるってことになる。その時は潔くお前に手を出すのを止めてやるよ」
龍麻の言い分は好条件に見せかけて、葵に恥辱を強いるものでしかない。
葵もそれに気づきはしたが、右手を嬲る龍麻の手が明瞭な思考を妨げていた。
指の間に入りこみ、ぴったりと嵌った彼を払いのける気力もなく、
薄暗がりでもなぜかはっきり見える彼の暗黒の瞳を、呆けたように見つめるだけだった。
瞳が近づいてくる。
龍麻の暗黒が自分を呑みこんでしまうほど巨大化したと思った葵が、
そうではなく、自分が引き寄せられているのだと気づいたのは、彼の胸に頬が触れてからだった。
ただ制服の黒のみが、葵の五感を支配する。
それは奇妙に心地よく、葵は、いつの間にか腰に回されていた腕を振りほどく気も失くしていた。
「いいな、今日はどんなに疼いてもオナニーはするんじゃねえぞ。
しなけりゃお前の勝ち、したら……解ってるな」
低められた声の振動が、葵の肉体を震わせる。
聞いたことをすぐにも忘れてしまいたい下劣な言葉であるのに、
顔も上げられず、ほとんど全面的に聞き入れてしまっていた。
朦朧とする意識の中を、ある種の衝動が閃光のようによぎり、
その光を追いかけてはいけない、と本能的に感じ、光から逃れるように龍麻の胸に顔を埋める。
だが、龍麻は無情にも葵の拘束を解き、彼女に光を取り戻させた。
「それじゃあな。家に入るまでは、見送ってやる」
一応は送ってもらった相手に、礼を言うことさえ失念して、葵はふらふらと家に帰っていった。
部屋に入るなり、着替えもせずにベッドに倒れこむ。
たったそれだけの動作でも、全身が渇望した。
もっと刺激を。
準備万端となった全身に、能う限りの快感を。
血液に乗って全身に伝わる命令を、葵は目を閉じて抑えこんだ。
目蓋の裏で、光が再び瞬く。
この光は正しい道を照らすものではない。
照らす先に待ち受けているのは、果てのない迷路なのだ。
そう解っているのに、光の誘惑に抗えない。
たった数時間の誘惑を耐え抜けば、以後は決して屈しないという確信があるのに、
瞬く光にじりじりと引き寄せられてしまう。
誘惑はあらゆる形をとって葵を苛む。
乾いた唇を舐めたい。
胸に手を当てて忙しく鳴る心臓を抑えたい。
火照る足の間に触れたい。
ひとつに耐えてもあぶくのように次々と現れる種々の囁きを、葵は必死に拒もうとした。
だがすでに足の指先にまで巣食ってしまった欲望を退けるのは容易ではなく、
いつしか、呼吸をするだけで肌に擦れる制服さえもが葵の理性を責めたててきた。
押し殺した息を、電気をつけていない部屋に吐く。
体内の熱気をいくらかでも排出したつもりだったが、もうその程度ではどうしようもなかった。
短い葛藤の末、腹の前で手を交差させる。
左手で龍麻がそうしたように右の手首を掴むと、そこは熱く脈打っていた。
自分の身体にはこれほど激しく血が流れていたのかと驚くほどで、
その強い脈動は、葵に一つの記憶を呼び覚まさせた。
忌まわしいはずの記憶が、写真のように正確に蘇る。
してはいけない。
暗い車道に飛びだすような、明確な破滅が待っている。
してしまったら最後、何もかもが終わってしまう。
強い警告は、だが、それ以上の甘美な囁きに妨げられる。
本当は、ずっとこうしたかったのだろう。
「違う……わ……」
声無き反駁は、頭の中で反響する笑い声にかき消される。
嘘を吐くな。
毎日のように自慰をしながら、龍麻のことを想っていたくせに。
「違う……」
乾いた唇を舐め、葵は己に逆らう。
だが押さえつける手の力に比例するように、嘲る声は大きくなっていく。
お前は龍麻を好いてなどいない。
なのに、龍麻に蹂躙される夢を見る。
命じられ、辱められ、服従することを望んでいるのだ。
「違うっ……!」
ならば、試してみろ。
緋勇龍麻は憎むべき男に過ぎず、ひとかけらの情も抱いてはいないのだと、
自らに証明してみせろ。
「……」
心の声の命令に、葵は従った。
そうしなければ、壊れてしまいそうだったから。
左手の拘束を解いた葵は、右手を頭上に掲げる。
右の手首に龍麻の圧力が蘇る。
数ヶ月前に龍麻に組み敷かれたときと同じ姿勢は、記憶とそれ以上のものをもたらした。
あの時は恐怖だけだった。
今は、違う。
右手は頭上に固定したまま、左手をスカートの内側へと潜らせる。
下着を履いたまま、あえて無造作に疼きの源に触れた。
「っ、あ……!」
大きな声が出てしまい、慌てて唇を噛んだ。
左手も右手も動かしたくなかった。
左手を動かせば直接的な快感が失われるし、右手を動かせば、
押さえつけられているのだという妄想による間接的な快感が失われる。
こんな風にあの時の事を思いだしながら自慰をするのは初めてだったが、たちまち没頭した。
あの時、もう少し時間があったなら、龍麻はどんな風に触ったのか、想像しながら左手を操る。
彼に痴漢された時のことも、夢の世界で抱きしめられた時のことも、
忌まわしいはずの記憶が万華鏡のように蘇り、その都度左手は動きを変えて葵を嬲った。
「あ、ぁ……あ、駄、目っ……!」
足が開かされていく。
スカートが捲れあがり、露になった太腿が無遠慮に撫でられる。
抗っても愛撫は止まらない。
あまりの快感に腰が浮く。
それでも、彼に押さえつけられた右腕だけは、釘で打ちつけられたように動かない。
左手が下着の中に潜りこんでも、指先が淫らな珠を執拗に弄んでも、
龍麻の熱が宿った右手は、彼の命令を忠実に実行していた。
オナニーはするな。
どれだけ疼いても、自分で慰めるな。
葵は従う。
彼の支配下にある右手以外を使って、彼に無理やりに襲われているという想像で、
燃えるように熱い肉体が求めるままに淫楽を貪る。
嫌っている龍麻を想い、自分に利があるはずの約束を破り、
何重もの矛盾を全て快楽の業火で焼きつくそうとするかのように、
足を大きく開き、卑しい水音が部屋に満ちるのも構わず指を動かした。
「あぁ……嫌、止めて……っ……!」
強引に。
だが、乱暴ではない。
これまで龍麻が触れたとき、痛かったことは一度もなかった。
どれほど利己的であったとしても、どれほど葵が嫌がったとしても、
龍麻の愛撫は少なくとも葵の肉体には悦びのみをもたらした。
彼の家であっても、電車の中であっても、全く不本意ながら葵は、
彼の手を拒みきれなかったのだ。
「そんなところ、触らないで……ああ……」
口先の拒絶とは裏腹に、葵の腰は浮き、指先は深く下着をまさぐる。
触ってはいけないところ、この数ヶ月ですっかり覚えてしまった淫楽の源を、
龍麻ならそうするであろう触り方で。
「ふっ……ん……!」
かつてない快感に、腰が浮きあがる。
これまではあえてしないようにしていた、龍麻に犯されているという想像は、
一気に葵を快楽の虜にした。
脳裏に龍麻の瞳が思い浮かぶ。
威圧でも劣情でも支配でも欲望でもない、ただ黒い瞳。
初めて目が合った瞬間から、葵はただならぬものを感じていた。
呑まれる――何もかもが、彼に取りこまれる感覚。
気のせいかと思った感覚は、その後彼と目が合うたびに抱く一方で、
小蒔や他の女性がそのような感覚を抱いたとは聞いたことがない。
それがつまり、従いたい性ということなのだろうか――
秘唇を弄りながら、葵は彼の言葉を反芻する。
いや、そんなはずはない。
男女は支えあうものであり、一方的な依存は健全ではない。
ごく普通の、互いを尊敬し、愛しあう両親の下で育った葵は、
男女の価値観も至って常識的なものを受け継ぎ、それを疑いもしなかった。
オナニーでさえ肉体の健全な成長に伴って数回したことがあるのみで、
どちらかといえば汚らわしい行為だと敬遠していたのだ。
だがそれは、偽りだったのか。
愛液に塗れた指を、日々培ってきた動きで忙しなく踊らせ、
淫戯に耽る葵の姿は堂に入ったものだ。
陰核に触れるたび、全身に走る電流めいた快感を存分に堪能し、
それが消え去る前に次の快感を求めて自らの秘所をまさぐる。
昨日までは、葵の自慰は控えめだった。
親と同居する当然の警戒として声は抑え、気づかれないよう慎重に行った。
だが、今、葵にそのような警戒心はない。
このタイミングで親が来ることはないという予測はあっても、
それ以上に、身体を蝕む快楽の虜となっていた。
染みでる愛液に指を浸し、性器をなぞる。
膣内に挿れるのは怖かったが、龍麻にされていると思うと止まらなかった。
「嫌、嫌っ……」
龍麻は犯す。
どれほど葵が嫌がろうとも。
親しく言葉を交わしたわけでも、同じ趣味を持つわけでも、
一緒の将来を夢見ているわけでもないのに、
当然のように葵がいずれ愛する相手に捧げる時まで、
大切に護ってきた純潔を踏みにじろうとする。
許されるはずがない。
許してはならない。
なのに、葵は龍麻を止められない。
のしかかる彼の身体を、押さえつける彼の手を、跳ねのけられない。
「あッ……う……ッ……」
腰が浮き、ベッドが軋む。
ほとんど裾を上げていない、膝丈のスカートは今や下着が見えるほど捲れあがっていたが、
直そうともせずにクリトリスを擦る。
「止めて……緋勇君っ、あ、あ……!」
黒い瞳が葵を睨む。
何よりも黒いその瞳は、葵を呑みこみ、咀嚼する。
永久の闇の、なんと快いことか。
明かりを灯すように伸びた舌が、唇を濡らしただけで消える。
咎めるように一度は閉じた口も、理性など必要ないとばかりにしどけなく開き、
熱された喘ぎをとめどなく吐きだした。
「はっ、あ……ッ、ん……!」
龍麻に無理やり触られているという妄想は、興奮をむしろ促進させる。
受け止めきれないほどの快感を、溢れだしてもなお、葵の意向など無視して与え続ける。
押さえつけた手首から熱を伝え、もがく様を愉しみながら、己の欲望のままにふるまうのだ。
快楽の波に浚われるのは決して本意ではなく、男の力づくに抗えないから。
龍麻の動きを模した手に、思うがまま劣情を貪らせる葵は、自らが欲する以上の淫楽に溺れた。
「くうッ……そんな、強く……ッ……」
龍麻の命令に従えば彼から解放されるというのに、彼に抗い、嬲られる。
そんな矛盾も快楽に目覚めた肉体と、本性に気づいた精神が融けあう前には意味をなさない。
ベッドから落ちそうなほど足を広げ、ナメクジのように身体をのたうたせて、
右腕だけは磔にされたかのごとく頭上に固定したまま、
葵は初めて具体的な想像を伴った自慰に酔いしれた。
「許して……ああっ……!」
いつしか喘ぎから拒絶は消え、懇願へと変わっている。
愛液に塗れた指も留まることを知らず、
はっきりと見たこともない性器の感じる部位を刺激し続けていた。
「ああッ、あッ、私、私、もうッ……!」
びくん、と不自然に身体が震える。
馴染みのある兆候に葵は一層刺激を強めた。
「うっ……あ、あッ――!!」
溜まっていた快感が一気に弾ける。
汚らわしいと決めつけるには、あまりにも大きな快楽。
足をぴんと張り詰めさせた葵は、腰を哀れなほど揺らして絶頂した。
泡沫の熱が去り、理性が居場所を取り戻す。
頭上に置いた右手を動かすと、それは、当然意図したとおりに顔の前に来た。
全身の熱と同時に、手首の熱も去っている。
代わりに押し寄せたのは、深い悔恨だった。
龍麻が葵を従わせる、何かしらの『力』を使ってはいないというのは真実だった。
別れ際に掴まれた、彼の熱が残る右腕は、葵の意思で頭上に固定され、
どんな強制力も働きはしなかった。
性器を弄り、淫楽に耽った左手は、あくまでも葵の意思で動かしたのだ。
「……」
ため息をついた葵は、これからのことに思いを馳せずにはいられなかった。
龍麻と交わした約束は、反故となった。
それはすなわち、今日葵が耽った妄想が現実になるということだ。
自慰を行ったことを認めれば、龍麻は今後も強引な干渉をするだろう。
逆に我慢できたと嘘をつけば、手を出すのを止めると言った。
たった一度嘘をつけば、大きな悩みのひとつは解決できることになる。
だが、他者の欲望から逃れるために自らの欲望を偽るというのは、あまりに浅ましい気がした。
どちらを選ぶにしても、容易に選べる問題ではなく、
選んだ後のことまで慎重に考えなければならない。
急に突きつけられた自己の内面に、葵の頬を一筋の涙が伝う。
それはもう歩めない未来への、決別の標だった。
翌朝、龍麻と顔を合わせたくない葵は、学校を休んでしまおうかとも思った。
そうしなかったのは、小蒔が学校に来るかもしれないという、祈りにも似た願望があったからだ。
小蒔に余計な心配をかけさせたくないという気持ちは、偽りのないものだった。
それでもいつもと全く同じように、というわけにはいかず、
葵が教室に入ったのは、朝のホームルームが始まる直前だった。
登校時間を遅らせた小細工が功を奏し、龍麻が話しかけてくる時間的余裕はない。
何人かの女生徒と慌ただしく挨拶を交わした葵は、滑りこむように席についた。
教科書を机にしまいつつ、素早く周囲に視線を走らせる。
空席は三つで、他の二つはともかく、小蒔の席が空いたままなのは葵を落胆させた。
これで今日学校に来た意味はほとんどなくなってしまった。
保健室に行ってしまおうか、と優等生らしからぬことを考えているうちに、
ホームルームは終わりに近づいているようだった。
「それではこれで朝のホームル-ムを終わります。
佐久間クンを見かけた人は、ワタシに連絡してください」
マリアの声は必ずしも事務的という訳ではなかった。
素行が悪くても佐久間は彼女の生徒であり、
親もどこへ行ったか知らないとあれば心配しない訳にはいかない。
にも関わらず、もう一週間以上も同じ台詞を繰り返しているため、
どこか諦めているような響きもそこにはあった。
同級生達の反応は更に寂しく、元から信望の乏しかった佐久間ではあるが、
静かになるのはマリアの声が教室に響く一瞬だけであり、後は彼を話題に出すことすらなかった。
彼らの無情さを嘆きつつも、マリアは話題を変える。
「それから、今日の欠席者も醍醐クンと桜井サン──」
こちらももう、馴染みになってしまいつつある報告だった。
醍醐と小蒔は日を同じくして突然学校に来なくなってしまい、
小蒔は連絡が取れたものの、醍醐の方は佐久間と同じで全く行方が判らず、
最も彼らと親しい龍麻や京一に訊ねてみても、
逆に親から何か聞いていないか問われる始末だった。
この状態がもう数日続けば、
マリアは二人の生徒の捜索願いを出すという不名誉な記録を樹立する羽目になる。
生徒達には聞こえない、極小のため息を形の良い唇から押し出して
マリアが教室を出ようとすると、向こうから扉が開いた。
「遅くなってすいません」
生気に乏しい声と共に入ってきたのは、桜井小蒔だった。
声だけでない、いつも薔薇色の頬も土気色に変わり、
豊かな感情を描く目鼻は枯れる寸前の花を思わせるほど力無い。
マリアはとにかく数日ぶりに教え子が姿を見せたことを喜びつつも、
あまりに別人のような彼女に心配を抱かずにいられなかった。
「桜井サン……もう具合はいいの?」
「はい」
必要最小限の返事だけをして、小蒔は席に向かう。
いつもなら何かしら話しかけてくる彼女が、逃げるように背を向けたことに、
マリアの心配は募ったが、今の小蒔にかけてやれる言葉を彼女は持っていなかった。
「そう……でも、あんまり無理はしないでね」
そういうのが精一杯で、後は彼女の友人達が彼女を励ましてくれるだろうという、
らしくない期待を抱きつつ教室を後にするしかなかった。
マリアの期待に応えようとした級友達は、話しかけようとして、
小蒔の周りに張り巡らされた不可視の壁に遮られ、あえなく粉砕されてしまった。
椅子に座った小蒔に近づいたはいいものの、
こちらを見上げるただのガラス玉のような瞳に恐怖すら感じ、いそいそと離れていく。
そんな中で、彼女の傍らに立ち、いつもと同じ挨拶を交わしたのは、
長く、美しい黒髪を持つ、この学校で最も彼女と交流がある少女だった。
「おはよう。もう平気なの?」
「う……うん」
しかし小蒔からは、彼女が普段から一番の親友であると公言している葵の質問ですら
避けようとしている態度が感じられた。
緩慢な動作で鞄から教科書を取り出す小蒔に、次はなんと言って話しかけようか、
葵が迷っていると、横から腹立たしいほど明るい声が割り込んでくる。
「なんだよなんだよ、シケたツラしやがって。お前は脳天気さだけが取り柄なんだからよ」
明らかに具合の悪そうな小蒔に対して、京一の物言いはいかにも無神経なものだった。
彼の隣に立つ龍麻も顔をしかめているが、さすがに葵が抗議しようとすると、
その前に小蒔が力なく答えた。
「うん……ごめん」
それは葵が彼女と知りあって以来、初めて耳にしたといっても良いくらい落ちこんだ声だった。
いくら京一の言葉に傷ついたにしても、こんな風になってしまうことはありえない。
言葉を詰まらせてしまった葵の耳に、同じくらい沈んだ京一の声が聞こえてきた。
「……チッ、やっぱり嫌な予感が当たっちまったか」
「え?」
「醍醐も休んでんだよ。お前と同じ日から、ずっとな」
一瞬だけ見開かれた小蒔の目はすぐに伏せられた。
それは彼女が醍醐の休んだ理由を知っていると、何よりも如実に告げていた。
しかし小蒔は何も言おうとはせず、葵の不安を募らせる。
言いたくないのなら、無理に聞かない方が良いのではないか──
そう葵が思ったのは、小蒔を傷つけたくないという、彼女を思いやってのことだ。
しかし逡巡する葵に代わり、京一が直線的なまでに小蒔に訊ねてしまった。
「その日のコトは、一応は緋勇に話を聞いてる。その上で、お前からも話を聞きてェ」
葵は咎めるような視線を京一に向けたが、小蒔は、むしろすがるように京一を見上げた。
「ボク──ボク、どうしていいかわからないんだ。醍醐クンが……っ」
一気に溢れでようとする感情を制御できず、小蒔の声に涙が混じる。
うろたえる龍麻と葵を横目で見た京一は、親指を天井に向けて立ててみせた。
「とりあえず屋上へ行こうぜ」
今から行けば、一時限目は出ないことになる。
しかし誰も、それについては何も言わなかった。
小蒔の話を聞くことは、授業などよりずっと大切なことであるはずだったから。
授業中の時間だから、屋上にはもちろん誰もいなかった。
それでも龍麻達は隅の方の、あまり目立たない所を選んで小蒔の話を聞いた。
龍山の許を訪れた帰り、佐久間と手下に襲われたこと。
助けに来てくれた醍醐が、突然人が変わったように佐久間に襲いかかったこと。
佐久間が水岐のように化け物に変わってしまったこと。
そして、その化け物を醍醐は容赦無く斃し、息の根を止めたこと。
その後醍醐は、どこへともなく行ってしまったこと。
それらのことを小蒔は、時間をかけて、ぽつりぽつりと話した。
すでに龍麻から聞いたことではあるが、本人の口から語られる辛さは比でなく、
葵は小蒔の顔を直視できなかった。
意外だったのは龍麻も同様に苦渋に満ちた顔をしていて、
小蒔を護れなかったという後悔は偽りでなさそうだった。
龍麻と葵が小蒔の受けた心の傷を思い、それぞれ心を悼める中、
京一の反応はやや異なっていた。
「あの野郎……手前ェ勝手なコトしやがって」
葵は初め、野郎というのが醍醐を指しているのだと解らなかった。
それほど京一の言葉には彼らしくない憤りが含まれていたのだ。
「醍醐くんはきっと、私達に迷惑がかかると思って」
「それが手前ェ勝手ってんだよッ!! そんなに俺達が頼りにならねェってのか」
小蒔のことを思えば言えるはずもなく、また殺人を犯したなどと相談できる訳もない。
京一の言うことは明らかに理不尽であったが、葵は引き下がった。
これ以上京一を刺激しても仕方なかったし、彼が怒る理由も理解はできたからだ。
「野郎……探し出してブン殴ってやらねェと」
「探し出すのはいいけど……どうやって」
指を鳴らす京一に、小蒔が訊ねる。
全てを、一人で背負うには重すぎる事実を仲間達に話したことで幾らかは荷が軽くなったのか、
朝のような死人さながらの表情からは回復していた。
自分の受けた傷も確かに酷いけど、醍醐クンの方がもっと辛いはずだ。
だから、今はガッカリしてる場合なんかじゃない──
そう考えられるのが、彼女のかけがえのない強さだった。
醍醐を探し出す方法までは考えていないのか、京一は無言で小蒔を睨みつけるだけだ。
思案を巡らせた葵は、こういう時最も頼りになる人物を挙げてみた。
「ねぇ……アン子ちゃんやミサちゃんに相談してみたらどうかしら」
「他に方法はねェ……か。しょうがねェ、美里、もうすぐ一時限目が終わるからよ、
そしたら小蒔と一緒にアン子を捕まえてくれ。
そうだな……新聞部の部室で落ち合おうぜ。俺も後から行くからよ」
葵の提案に、京一はあまりいい顔はしなかった。
それは消極的な同意からも判ったのだが、龍麻には、
彼の拒絶がかなり深いところから生じていると感じられた。
「ええ、わかったわ。行きましょう、小蒔」
葵には感じ取れなかったらしく、小蒔を促してアン子達の所に向かう。
大きな音を立てて扉が閉まると、京一はこの場に残った龍麻に強く促した。
「なんだよ、お前も行けよ」
京一は明らかに龍麻が残るのを歓迎していなかった。
自分の予感に自信がなかった龍麻も、彼の態度でそれを確信に変えた。
京一は、一人で醍醐を探そうとしている。
それはきっと、醍醐の一番の友であるという想いからなのだろう。
しかし、京一が醍醐に対して怒ったように、
龍麻にも『力』を巡る戦いに巻きこんだ者に対する責任感がある。
たとえ彼らが自ら戦いに身を投じたとしても、そしてそのことを悔いていないとしても、
龍麻は彼らを護ると決心していた。
ゆえに、京一と醍醐の紐帯には及ばないかもしれないが、
誰にも──自分にも頼ろうとしない京一を、そのまま行かせる訳にはいかなかった。
邪魔者を見る京一の態度に刃向かい、龍麻は無言で立ちはだかる。
そのまま殴りかかってくるのではというほど殺気を漲らせて肩をいからせた京一は、
諦めたように髪を勢い良く掻いた。
「チッ、ッたく、勘がいいってのは良くねェな」
敗北を認めたようにぼやいた京一は、次の瞬間、手近にあった金網を力一杯殴りつけた。
何の罪もなく揺らされた網は仲間に被害を訴え、大きな音が屋上に鳴り響いた。
「野郎……俺にすら相談しねェなんてよ、
俺は──俺はあいつにとってその程度のモンだったってことかよ」
血を吐くような声が、青空に溶けていく。
龍麻は初めて見る、己を曝け出す京一を、ただ無言で見守っていた。
「……すまねェ」
荒れ狂う感情をどうにか鎮めた京一は、ぶざまなところを見せたと恥じる。
無表情で、視線をずらしてくれている龍麻の配慮がありがたかった。
最後にもう一度だけ頭を振り、思考を未来へと切り替えた京一は、
葵や小蒔には言わなかった事実を告げた。
「実はよ、前に水岐を追って港区の地下へ行ったことがあったろ。
あん時に如月が俺に言ったことがあってよ」
頷いて続きを促す龍麻に、京一は金網にもたれて続ける。
「奴は『醍醐から目を離すな』って言いやがったんだ。
意味がわかんねェから聞き直したらよ、
醍醐の氣がどうとかって余計わかんねェこと言いやがって」
「それで」
「それだけだ。もうちっと聞こうとしたら小蒔に呼ばれちまってよ。
そん時ゃ気にも留めてなかったんだけどよ」
確かに如月は、何かを知っている節がある。
今回の件について有益な情報を持っているかは判らないが、行ってみる価値はあるように思えた。
「如月……か。行ってみるか」
龍麻が賛意を示すと、京一は二つ返事では頷かなかった。
「なぁ龍麻、悪ィけどよ」
そこで言い淀んだ京一の意図を、龍麻は正しく理解した。
「あぁ……俺達二人で行こう」
「すまねェな」
葵達を騙すことになるが、あまり女性をこの件に立ち入らせたくなかったのだ。
仲間意識や友情とは異なる、説明のしにくい男の性のようなものが、
二人の裡には確かにあり、暗黙の了解となって龍麻と京一を衝き動かしたのだった。
如月骨董品店の扉を、京一は何の前置きもなく開けた。
手入れが行き届いている引き戸は勢い良く滑り、派手な音を立てる。
京一はそれを気にも留めずずかずかと踏み込んだ。
「如月、いるか」
さほど大きくはない店の隅々にまで届く京一の声にも、店主からの返事はなかった。
龍麻を振り返った京一は、焦りを転化させて罵る。
「くそッ、留守かよ。無用心なやつだな、鍵もかけねェで。なんか盗まれたらどうすんだよ」
「心配はいらない」
京一にとっては何の意味もない商品の一つを手に取り、
自分の言ったことが実行可能であると証明するように手の内で弄んでいると、
いきなり奥から声がした。
もちろん京一は本気で盗もうとしていた訳ではないが、虚を突かれたのは確かで、
品物を取り落としそうになってしまう。
「どわッ!! 居たら返事くらいしやがれ」
「ちょっと品物の整理をしていたんだ」
「学校はどうしたんだよ」
驚かされた腹いせだろうか、京一は皮肉を込めて言ったが、
如月は眉ひとつ動かさず受け流した。
「それは君達もお互い様だと思うけどね。どうしたんだい、二人だけで」
「あァ──実は訊きたいことがあってよ」
「醍醐君のことかい」
単刀直入に過ぎる如月の言葉に、二人は目を瞠った。
京一が商品を置き、如月に詰め寄る。
「知ってるのか」
「いや、ただ血相を変えて君達が入ってきたから、そうじゃないかと思っただけだ」
「頼む、醍醐に何が起こったのか、知ってるなら教えてくれ」
京一の声には龍麻が彼と知り合ってから、まだ幾度かしか聞いたことのない、
他人を心配する響きがあった。
いつもの飄々とした感じも失せ、焦った様子が滲み出ている。
彼らとは一年にも満たないつきあいでしかない龍麻は、二人の間にある、
年月のみが織りあげることが出来る絆を羨ましく思った。
「……僕が今から話すことは、君達の闘いにこれから深く関わることだ。
良く覚えておいて欲しい」
如月もいつになく真剣な京一の態度に表情を改める。
細面の彼が顔を引き締めると、女性の多くが魅了されてしまうであろう貌が浮かんだが、
如月は自分の容姿には全く関心を払わない性格だった。
もちろん龍麻達も如月の表情に興味はなく、彼が告げる真実にのみ注意を払う。
静まりかえった店の中に、如月の声が響いた。
「人は──生まれながらにして『宿星』というものを持っている」
「それが醍醐と何の関係が──」
たまらず京一が遮ったが、如月は強い調子で続けた。
「いいから聞くんだ。宿星は『星宿』とも言って、
元々は古代中国で星座を表す呼び方なんだ。
人はそれぞれ、天が決めたその宿星に導かれるままに一生を送ると言われている。
僕も──そして君達も、宿星を持って生まれてきているんだ。
そして特に強い宿星を持つ人は、大きな因果の流れの中にいると言ってもいい。
例えば──君達のように」
「宿命……ってやつか」
「そうだね。宿命という言葉はそこからきているんだ」
少し表情を和らげた如月は、龍麻達に質問した。
「君達は『四神』というものを聞いたことがあるかい」
「少しだけなら」
その言葉は数日前、織部神社の双子巫女である雪乃と雛乃から聞いた覚えがある。
確か、風水という占いの一種における、東西南北を守護する獣のことだったはずだ。
ただしその時の話の論点は、四神の中心にいる『黄龍』が象徴するという龍麻達の力の源、
龍脈の方だった。
龍麻がそう答えると、如月は組んでいた腕を解いて口調を改めた。
「そうか。それでは結論を言おう。
醍醐君は四神のうち、『白虎』の宿曜を持って生まれた人間だ」
「白虎ォ?」
いよいよ訳が解らなく京一は素っ頓狂な声を上げたが、
龍麻は小蒔の話のある部分を思い出していた。
──醍醐クンは人が変わったみたいに、ううん、獣になったみたいに佐久間に襲いかかって──
彼女は屋上でそう言っていた。
単なる比喩だと思っていたのが、そうではなかったということなのだろうか。
考える龍麻の内心を読んだかのように如月が言った。
「そうだ。醍醐君は杉並区で生まれたと言っていたね」
「それがどうかしたのかよ」
答えたのは京一だった。
頼って来た如月があまりに意味不明なことを言うものだから、
声には棘を通り越して毒が含まれている。
しかし如月は、顔色ひとつ変えずにその毒を吸収してしまった。
「杉並は、新宿の西──白虎は西の守護の星を持っている。
醍醐君は間違いなく白虎の宿曜を持っていると見ていいだろう」
「なんでそんなコト言い切れるんだよ」
「僕には解る訳があるんだ。それよりも」
この時の如月は、強引に話題を変えようとしているように龍麻には見えた。
その疑問を追及してみたく思ったが、如月は口を差し挟む隙を与えずに話を続けた為、
遂にタイミングを逸してしまう。
「醍醐君は不安定な龍脈の影響で急激に覚醒してしまい、
白虎の氣に呑み込まれてしまったんだろう。
今はきっと、文字通り生まれたばかりの虎のように自分の『力』に戸惑っているに違いない。
そこを鬼道衆が狙ってくる可能性は非常に高いと言えるだろう。まだ力を制御しきれない彼を」
一拍置いて、如月は二人に檄を飛ばした。
「急ぐんだ。彼を救えるのは君達だけだ」
「けどよ、やつの居場所が判らねェんだ」
「そう遠くへは行けないはずだ。多分、まだ新宿近辺にいるんじゃないかと思う。
この辺りで彼が身を寄せそうな場所に、心当たりはないかい」
如月の質問に、龍麻と京一は同時に同じ場所を思い浮かべた。
「一箇所、あるな……ジジイんとこがよ」
「行ってみよう、京一」
「ああ。すまねェな如月、急に来ちまってよ」
「いや、構わないよ。それより、僕にもそこの住所を教えてくれないか。
何か解ったら連絡するよ。それと、緋勇君」
如月は棚に置いてあるものを取り、龍麻に渡した。
「これは使う者の氣を増幅させる呪法が施されている篭手だ。
力無き者が使えばかえって重荷となるだろうが、君なら使いこなせるはずだ」
黒に近いくすんだ色をしている篭手は、如月の言うような力を秘めているとは思えない。
だが、龍麻は黙って腕に装着した。
「ありがとう、使ってみるよ」
「ああ、代金は効果を確認してからでいい」
まさか売り物だとは思っていなかった龍麻は、とっさに返事ができなかった。
言いたいことを色々呑みこんでから、ようやく答える。
「わかった」
「おい、早く行こうぜッ」
京一に急かされて、代金を訊くことなく龍麻は如月骨董品店を出る。
彼らを見送った如月は、店の扉を閉めると素早く身を翻し、店の奥へ姿を消した。
竹林を、龍麻達はひた走っていた。
「急ごうぜ。如月の言うコトを信じるワケじゃねェが、何か嫌な予感がしやがる」
二人は既に小走りをしており、これ以上速度を速めると、
もし鬼道衆と闘う事態になった時に対処できなくなる。
これが呼吸を乱さずにいられるぎりぎりの速さだったが、龍麻はもう少しだけ速度を上げた。
するとせっかく走りだしたところで、京一が急停止する。
「あッ」
文句を言おうと龍麻も立ち止まると、京一がその前に叫んだ。
彼が叫んだ理由を知った龍麻は、もう少しで自分も叫んでしまうところだった。
前方に、良く見知った人影があったのだ。
京一の声に気づいた人影は、立ち止まり、振り向くと、こちらに近づいてくる。
豪胆な京一が背後に隠れようとしてきて、押し返す龍麻も実のところ彼の背後に隠れたかった。
「緋勇クン……それに京一も」
前方を往く影は、葵と小蒔のものだった。
ばつの悪さを隠しきれず、京一は後頭部を掻く。
「へ……へへッ。ドコ行くんだよ」
「ドコ行くんだじゃないよ。いつまで待っても二人が部室に来ないから、
ミサちゃんに占ってもらって今から龍山のおじいちゃんのトコに行くんだよ。一体何してたのさ」
返ってきたのは矢のような怒声だった。
たまらず二人は首をすくめる。
理由はどうあれ、約束をすっぽかし、
更に彼女達に黙って醍醐の許に行こうとしていたとあっては、
どんな言い訳もできるものではなかった。
「あ……あァ。ちょっとな」
「……もう、これっきりにしてよ。ボク達は、五人一緒がいいよ。
一人だっていなくなるのは嫌だ」
「すまねェ」
京一は両手を合わせ、龍麻も頭を下げる。
彼女達、特に小蒔は相当に怒っているらしく、容易には許してくれそうになかったが、
今はそれどころではなかった。
「……悪かった。だけど、今は」
「うん……わかった。行こう、おじいちゃんの──醍醐クンの所へ」
小蒔もここで怒っても何にもならないことは判っている。
ただ、醍醐がいなくなり、これで龍麻と京一もいなくなってしまったらどうしたら良いのか、
という不安が抑えきれなくなってしまったのだ。
うっすらと滲む涙を隠し、小蒔は先頭に立って歩き始める。
その肩を、突然強く掴まれた。
「痛ッ……どうしたの、緋勇クン」
「気配がする──複数だ」
緊張した龍麻の声に、他の三人も身構える。
確かに、一般人のものではない禍々しい気配がいくつも前方から近づいてきていた。
「へッ、こりゃいよいよ醍醐はジジイの所にいるみてェだな」
木刀を袋から出しながら、京一が不敵に呟く。
醍醐の居場所さえ判れば、障害など排除すれば良いだけのことだ。
樫の木剣を握り締め、京一は仲間と共に鬼道衆が姿を見せるのを待ち構えた。
彼らの前に現れたのは、醍醐をも凌駕する体格の大男だった。
「鬼道五人衆がひどり、おでの名は岩角。ごの先、通ざない」
訛りのある、そして舌足らずな喋り方で男はそう名乗った。
朴訥さを感じさせもするが、紛れもない鬼道衆の一員であり、
醍醐の許へ行こうとする龍麻達を明らかに邪魔しようとしている。
斃すべき、敵だった。
「おで、命令されだ。九角様に命令ざれだ。おめだぢを殺ぜど」
岩角は淡々と、薪でも拾ってこいと言われたかのように、
人の命を奪うことを宣言する。
氣を練りながら、龍麻は一歩で間合いに飛び込めるようつま先だけで移動した。
すると、背後からも複数の気配を感じる。
危機を覚えた龍麻は、ことさら大声で岩角に訊いた。
「佐久間を唆したのはお前かッ!」
この場での指揮官である岩角と話している間は、手下も仕掛けてはこないだろうという判断だ。
「違う。それは炎角がやっだごどだぁ。
だども、炎角は佐久間の望みさ叶えだだげ。
あいづは強くなりたいと望んだだ。だがら、変生えてやっだ」
「そんなに自分の強さに自信がねえか。俺達がそんなに怖いか」
冷静さを失わせようと挑発気味に言ったが、岩角は巨体を揺らして嗤った。
「ぐへぐへぐへ、おめだぢなんで怖くねえ、だども捜しもんするのにおめだぢは邪魔だ」
「捜しもの? 何を捜してるんだ」
「女だ」
「女?」
「ぐへぐへぐへ、教えでやらね。おめだぢに教えだら九角様に怒られる」
頭は悪そうでも、どうやら最低限の知能は持っているらしい。
これ以上の情報収集は無理だと判断した龍麻は、作戦を素早く立て、仲間達に伝えた。
「俺と京一が正面突破する。二人は後に続いて、抜けたら桜井はそのまま醍醐を呼びに行け」
「え、でも……」
龍麻と京一、二人だけではいかにも分が悪く、小蒔は渋ったが、
龍麻はそれ以上彼女の意見を聞かなかった。
「美里は残れ。お前の『力』が無いと、さすがにこの人数は厳しい。
その代わり、絶対怪我はさせねえ」
「は、はい」
龍麻の威に打たれた葵も、異論なく頷く。
氣を練る龍麻に呼応するように、岩角と同じ、
茶色の装束を着た忍者の集団が十人ほども姿を現した。
さらに後方にも六人ほどの気配がある。
緊迫する状況の中、京一が小蒔に笑いかけた。
「いいか小蒔、醍醐が眠てェコト言ってやがったらケツ蹴っ飛ばしてやれ」
「……絶対醍醐クンを連れて戻ってくるから、それまで待ってて」
「アホか、この程度の野郎共、俺と緋勇で充分だってんだ……行くぜ、緋勇ッ!」
言うなり京一は岩角に斬りかかっていった。
「逃がさねえど……ッ」
厭いやらしい笑いを浮かべて行く手を遮る岩角に、木刀が一閃する。
不意を衝かれた岩角は、倒れこそしなかったものの大きくよろめいた。
「どけよ」
京一の声に凄みが漲る。
「俺は今機嫌が悪ィんだ。手加減できねェから覚悟しやがれ」
敵の只中に突入した京一は、手当り次第に木刀を振るい、敵に当たっていった。
後ろに続く龍麻も、篭手から氣を迸らせて忍者を狙い、道を開いていく。
少人数の龍麻達の方から仕掛けてくるとは思っていなかった鬼道衆の忍者達が、
わずかに怯んで統制を乱す。
その隙を逃さず門を守護する仁王のように左右に別れて立った龍麻と京一は、
葵と小蒔に向かって同時に叫んだ。
「今だ、行けッ!!」
二人の間をくぐり抜けた葵と小蒔は、小蒔がそのまま龍山の庵へと走っていき、
葵は少し離れたところで立ち止まる。
それを見届けた龍麻と京一は門を閉じるように素早く葵の前に立ち、鬼道衆に正対した。
「へへッ、これで後はこいつらをブチのめすだけってわけだ」
初手は成功したとはいっても、敵は東京を滅ぼすために暗躍している、闇の殺人集団だ。
数も多く、二人だけではいかにも分が悪いが、陣形を縮めてくる敵を京一は平然と見渡した。
「半分はお前にくれてやる――それくらいなら、お前でも何とかなるだろうよ」
声には寸毫の震えもなく、虚勢を張っているわけでないのは明らかだったが、
龍麻の返答は京一の想像を超えていた。
「ノルマは八か。なら、あのデカイのを倒した方がラーメン奢りって事だな」
「……おい、そりゃ話が別だろ」
自信とは関係なくラーメン代は龍麻が持つものだと決めていた京一は、
自分の財布の中身を思いだして思わず素に戻っていた。
そこに眼前で漫才を始められて、怒りが頂点に達した忍者の一人が、苦無を投じる。
眉間を狙った苦無を、動じる色もなく木刀で叩き落とした京一は、
そのまま苦無を投じた鬼道衆に突撃した。
「ラーメンの為だ、てめェら死にやがれッ!」
本気とも冗談ともつかない鬨の声を上げて戦いを始める京一に、
一瞬笑顔を閃かせた龍麻も、自身を囲む敵に挑みかかっていった。
醍醐の意識は、昏い中にあった。
深い、足場の無い常闇。
足掻いても足掻いても抜け出すことの叶わない闇の中に、醍醐は浸かっていた。
怠惰と退嬰が支配する闇は、母親の手の如き生ぬるい温かさで醍醐を迎える。
出たくなければ、ずっとここに居ればいい──そう囁く甘美な声。
それが自分自身が生んだ落とし子であると知りつつ、醍醐は抗おうとさえしなかった。
厭だった。
わずかでも意識を、理性を取り戻せば、思い出してしまうものがある。
永遠に自分を苛むであろうそれを思い出すくらいなら、
何もかもを捨てて闇の中に逃げ込むほうがましだった。
だから醍醐は世界を捨て、己を捨て、全てを捨てる。
しかし、その、全てを捨てて逃げ込んだはずの意識の中に、
どこからか入りこんで来た声があった。
「白虎よ──」
「やめろ……俺をそんな名で呼ぶなッ!」
口元がわずかに動いたが、声は発せられていない。
己の内面に向かって叫ぶ醍醐を無視して、声は再び語りかけた。
「思い出せ……己の内の黒い欲望を。柔らかき肉の感触を」
「やめろ……やめてくれ」
永久の楽園を追い出されようとしている醍醐は、内なる声に向かって弱々しい悲鳴で抗った。
しかし声は、手足をばたつかせて必死に逃げようとする醍醐に、
薄絹を纏った妖婦のようにまとわりつき、意識の最も深き部分をぬらりと愛撫する。
閉ざしたはずの意識を、肉の記憶が占めていった。
鋼と化した己が腕をたやすく呑みこみ、捧げられた供物。
興奮を刺激して止まない血の匂い。
生々しく蘇る記憶から醍醐は逃れようとするが、
ひとたび獲物を捕らえた声は決して離れようとしなかった。
「食らえ──殺せ──」
「やめ……て……くれ……」
「さあ来い、白虎よ。来るがいい」
我を失った醍醐は、声に導かれるまま精神を委ねた。
闇から新たなる闇へと己を捧げることへのためらいが薄れ、
ただ引かれるままに精神をうつろわせていく。
その時別の方向から、奇妙な抑揚を持った声が響き渡った。
「オンキリキリ オンキリキリ」
遠くもなく近くもなく、あらゆる所から聞こえ、どこからも聞こえない。
その不思議な言に、醍醐は無反応だったが、彼の意識の内にいるもうひとつの声は反応を見せた。
取り込みつつあった醍醐から離れ、わずかに怯む。
すると奇妙な抑揚は、更に不可思議な韻律を奏で始めた。
「ナウマクサラバタタ ギャティビャクサラバ ボッケイビャクサラバ
タタラタセンダ マカロシャダケンギャキサラバ ビキンナンウンタラタ カンマン」
言葉そのものが力を持ち、不可視の縄となって醍醐を誘う声を縛る。
空となっている醍醐の意識の内に荘厳に響いていたのは、
真言と呼ばれる、宇宙の真理を集約した音であった。
「不動明王呪か……老いぼれが」
醍醐をかどわかしていた声の質が変ずる。
それまでの蜜のようにねっとりとしたものではなく、言葉の端々にまで毒素を滲ませた呪詛だ。
しかしその毒も、いよいよ大きさを増す真言の前には無力であるようだった。
「ナウマクサマンダ バサラダンセン ダマカロシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」
「まあいい。そうしていられるのも今の内だ」
声は、なおしばらくその場に留まっていたが、やがて唐突に一切の気配が消えた。
真言の方も、こちらは徐々にその勢いを弱めていく。
完全に真言が止むと、護摩壇に焚かれた火の音だけが空気を震わせた。
「退散しおったか。鬼道衆め……人の弱き心につけこむとは、何と卑劣な」
護摩を終えた龍山は、結跏趺坐を解いて護摩壇から降りる。
筮法師であると共に密教の行者でもある龍山は、
佐久間を己の手にかけたショックで意識を閉ざした醍醐を狙う鬼道衆の手から、
不動金縛りの法によって愛弟子を護ったのだ。
「雄矢よ」
呼びかける声に、数日前に龍麻達と接した時のような張りはない。
「雄矢よ、己の内に閉じこもったままでは何も解決せぬ。
このままではお主の精神は、確実にあやつらに囚われてしまうぞ」
醍醐の反応はない。
聞こえているかさえ疑わしかったが、龍山は構わず続けた。
「わしにはこうして護ってやることしか出来ぬ。
強き精神を持ち、立ち向かう意思を取り戻さねば、その精神の檻から出ることは叶わぬのじゃ」
息子に語りかける以上の愛情を込めて、龍山は心を閉ざした醍醐に呼びかけたが、返事はない。
深く嘆息すると、護摩の修法を行った影響で鋭敏さを増している五感が、
何かが近づいてくる気配を察知した。
「ふむ……客人か」
氣は小柄な人間のもので、邪悪なものでもない。
そのまま待つことにした龍山の前に現れたのは、
数日前に醍醐達と一緒にここを訪ねてきた少女だった。
名は、桜井小蒔といったはずだ。
挨拶もせず入ってきて、勢い良く襖を開ける小蒔の無礼を、龍山は咎める気にはならない。
この少女がどれだけ醍醐のことを案じているか、その短い動作だけで充分に伝わってきたからだ。
「おじいちゃんッ!!」
「おお、嬢ちゃん。どうしたんじゃ、そんなに息を切らせて」
恐らく竹林の入り口からここまで全力で駆けてきたのだろう、小蒔は両肩で息をしている。
髪は乱れ、汗を額に張りつかせた酷い格好だったが、この上もなく美しい姿だった。
「醍醐……クン……醍醐クン、ここに来ませんでしたか」
「雄矢も幸せな奴よの。こんな可愛い嬢ちゃんにそこまで心配してもらって」
「おじいちゃんッ」
好々爺ぶりを発揮して龍山が茶化すと、小蒔は鬼の形相で睨みつける。
微笑ましい若さに、龍山は眦を下げておどけてみせた。
「おお、くわばらくわばら。雄矢なら、ほれ──」
「醍醐クンッ!!」
「三日前、庭で倒れておってな」
「醍醐クン……良かった……」
指し示す龍山も既に忘れ、数日ぶりに再会した仲間に、
小蒔は泣きそうになるのを堪えて近づいた。
しかし醍醐の顔に表情はなく、開かれた瞳も死人のように濁っている。
異常に気づいた小蒔が龍山を見ると、
醍醐の師はさっきまでとは全く異なる沈痛な面持ちで告げた。
「じゃが、それからずっと意識が戻らぬ。身体に異常がある訳ではない。意識だけが戻らぬのよ」
「そんな……なんとかならないの」
「残念じゃが……わしらにはどうすることも出来ん」
自分自身で壁を破らない限りは──そう言おうとした龍山は、
いつのまにか部屋に入り込んでいた新たな気配に気づいた。
小蒔と話していたとはいえここまで接近を許すとは、自分の耄碌ぶりを悔やむほかない。
「嬢ちゃん──雄矢と奥に下がっておれ」
突然険しくなった龍山の声に、小蒔がとっさには反応できずにいると、
部屋の隅から一つの影が浮かび上がった。
「くくく……勘の鋭い爺め」
嘲笑と共に姿を現したのは、紅蓮の色をした忍者装束に身を包んだ男だった。
「久しぶりだな……」
「お前は……ッ!!」
男が着ている服の色に、記憶を呼び起こされた小蒔が叫ぶ。
比良坂兄妹をたぶらかし、利用価値が無くなるや地下の研究室に火を放って証拠を隠滅した卑劣な男。
小蒔の瞳に、あの時の炎にも劣らない怒りの焔が宿った。
「どうやら覚えていてくれたようだな。嬉しいじゃねェか」
「嬢ちゃん──雄矢を連れて逃げるのじゃ。こやつはわしが食い止める」
恐らく、勝ち目は薄いだろう──
しかし、醍醐と小蒔の前途をこんな所で失わせる訳にはいかなかった。
彼らを護れるのなら、老いた自分の命など安いものだ。
しかし、龍山の悲壮な覚悟は、生命力に溢れた小蒔の声に簡単に弾き返されてしまった。
「おじいちゃんを置いていけるワケないじゃないッ。
それにボク、皆と約束したんだ。醍醐クンを連れて帰るって」
「威勢がいいじゃねェか、小娘。いいだろう、俺様が相手してやろうじゃねぇか」
孫ほどに歳の離れた小蒔に怒られて、素直に感銘を受けた龍山は、
彼女を挑発する炎角を目を細めて見やっていたが、
おもむろに袂から一枚の札を取り出し、小蒔に渡す。
「これを使いなさい。ちょっとしたお守りじゃ」
「それは……爺……」
「赤い装束など着おって、自分の得手を晒すなど小物のやりそうなことじゃ」
「言うじゃねェか……地獄で後悔させてやるぜ」
その名に相応しく激情を燃え上がらせる炎角に、弓を取り出した小蒔が叫んだ。
「お前の相手はボクだッ!!」
「ああ、いいぜ」
鷹揚に頷いた炎角は、後ろの空間に向かって顎をしゃくってみせた。
「おい野郎共ッ!! この爺を始末しろ。白虎は九角様の所へ連れて行く」
「卑怯だぞッ!! お前の相手はボクのはずだッ!!」
裏切られたと気づいた小蒔は、荒れ狂う怒りをそのまま言葉にして叩きつけたが、
炎角は動じる色も見せなかった。
「だから、おめェの相手はしてやるだろうが。
だが俺の手下のことまでは、言ってなかったよなぁ」
「こ、の……卑怯者ッ!!」
奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りする小蒔に、炎角は彼女の怒りを上回る激情で返した。
「誰と話をしてると思ってやがるッ!
どうせてめェもあの世に逝くんだ、爺も一緒に送ってやるだけのこったッ!!」
炎角は指図し、手下を龍山と醍醐に向かわせた。
二人を護ろうと小蒔は動こうとするが、炎角に阻まれてしまう。
多勢に無勢で、小蒔一人ではどうすることもできなかった。
「醍醐クン……おじいちゃんッ……!!」
小蒔の目の前で、炎角の手下が醍醐を両側から抱え起こす。
物のように担がれ、運ばれていく醍醐を止めようと小蒔が動くと、突然熱風が吹いた。
「うあぁッ!」
炎角が放った炎の氣が、小蒔を撃ったのだ。
龍山から渡された札の効力によって火傷は防いだものの、
氣による打撃の痛みまでは消すことができず、たまらず悲鳴を上げる。
「てめェの相手は俺様がしてやるっつってんだろうがッ!!」
勝ち誇り、哄笑する炎角の眼前で、山が動いた。
連れ去ろうとしていた下忍の一人が、庵の外へと吹き飛ばされる。
突如生じた火山の噴火に、この場に居る全員が等しく驚き、戸惑っている間に、
もう一人の下忍が打ち倒された。
九角より命じられた指令の一つが失敗してしまったことに、
炎角は大きな音を立てて舌打ちした。
「ちッ……白虎の力だけ暴走しやがったか」
そうではなかった。
乳白の氣を纏う醍醐の瞳には、強い意思が戻っていたのだ。
瞬く間に部屋の中の鬼道衆を、炎角を除いて倒した醍醐は、静かに小蒔と龍山に向き直った。
「桜井……心配かけて済まなかったな。龍山先生も」
「馬鹿もんが。ぎりぎり間におうたから良いが、
もう少しで嬢ちゃんまで危険な目に逢わすところだったんじゃぞ」
「すいません」
「醍醐……クン……」
小蒔の声は掠れ、目からは大粒の涙が浮かんでいる。
それをこの上なく尊いものに感じ、醍醐は万感の想いを短い礼に込めた。
「お前の声が聞こえたよ。……ありがとう、桜井」
「うん……うんッ」
懸命に目を擦りながらも、次から次へと涙が溢れてしまい、
収拾がつかなくなっている小蒔を微笑寸前の表情で眺めた醍醐は、炎角に静かに宣告した。
「表へ出ろ……貴様らが這い出てきた地の底へ、もう一度送り返してやる」
鬼道五人衆の中でも炎角の戦闘力は群を抜いていたが、
その炎角でさえも覚醒した醍醐の敵ではなかった。
人の理性に、聖獣たる白虎の力を宿した醍醐の前では、
いかなる攻撃も躱され、あるいは弾かれてしまったのだ。
術の無くなった炎角の頸に、重い一撃がめりこむ。
「そんな馬鹿な……人間如きが俺様を……」
無念の怨を残し、炎角は消えた。
倒れ伏した身体が輝き、一個の珠となる。
醍醐がその珠を拾いあげると、闘いを見守っていた龍山と小蒔が寄ってきた。
「全く、未熟者めが」
「仰る通りです、先生。いろいろご迷惑をおかけしてしまって」
「馬鹿もん、謝っとる暇があったらさっさと行かんか」
「そッ、そうだ、緋勇クン達が岩角達と闘ってるんだ。行こう、醍醐クン」
龍山に言われてやっと小蒔は思いだす。
緊張の連続で無理からぬことであったし、
すぐに龍麻達を助けに行くことに気を取られてしまったから、
何故龍山が先に事情を知っていたかに気づく余裕はなかった。
慌しく走っていく二人を見送った龍山の前に、一つの影が降り立つ。
「如月君──と言ったな。雄矢の──彼らのこと、よろしく頼みますぞ」
「いえ──僕の方こそ、今後は彼らに助けて貰うことになるかもしれません。
……では、御免ッ」
音も無く消えた如月が立っていた場所から視線を転じた龍山は、
今度はそこからいつまでも動かそうとはしなかった。
時間を稼ぐことを主眼として送りこまれた岩角の手下共は、
龍麻達に体力を浪費させるべく素早い動きで二人を翻弄する。
そして隙あらば二人を、そして葵を狙おうとする彼らと闘っているうち、
半分ほどは倒したものの、いつしか二人は肩で息をするまでに追いこまれていた。
「畜生……大丈夫か、緋勇」
「なんとかな。お前はどうなんだよ」
答える龍麻の手足は鉛のように重い。
葵の『力』は疲労をも癒してくれるが、彼女の氣とて無限ではなく、
やがて彼女自身に疲労の色が見え始めたのに気づいた時、
これ以上頼る訳にはいかなくなっていた。
「馬鹿野郎、俺は平気に決まってンだろうがッ。
……けどよ、醍醐をブン殴る分も取っとかねェといけねェからよ」
京一は虚勢を張りつつ木刀を握り直す。
既に指先に力はほとんど無かった。
大きく息を吐き、体内に残ったわずかな氣を練り上げて束ねる。
しかし、木刀の刃の部分に集まったのは、思わず笑ってしまうほどわずかな氣だった。
弱々しい輝きしか放たない得物の先端から、その延長線上にいる岩角へと視線を移す。
腕を組んで闘いを指揮していた岩角は、中々倒れない二人に感心したように言った。
「おめだぢ、ながながやるな。水角と風角を斃じだだけのごどはある。
だども、息が上がってっぞ」
岩角の指摘に、龍麻は答えなかった。
その手間すら、呼吸に回したかったのだ。
しかし通常の身体の酷使に加え、氣をも用いて闘う分消耗は激しく、
いくら酸素を取り込んでも呼吸は全く回復しない。
恐らくもう一合、保っても二合。
それまでに小蒔が醍醐を連れてこなければ、この闘いは敗北を免れないだろう。
同じことを考えていたのか、京一が独り言のように呟いた。
「もうすぐだ……もうすぐ醍醐が戻って来る。そうすりゃ」
京一は自分が喋ってしまっているとも気づいていないらしい。
希望を――弱気を口にするなど、武道家として許されざることだ。
恐怖が龍麻の足首を浸したが、それを振り払う力は、もうなかった。
事実、既に京一を動かしているのは友への想いだけであったが、その気力も今、
鬼道衆の手によって刈り取られようとしていた。
「おで、闘う。おめだぢを斃じで九角様に褒めでもらう」
岩角の指示の元、いよいよ包囲を狭めてくる鬼道衆に、
龍麻は場違いなほど明るい声で言った。
「京一」
「なんだ」
「俺より先にやられたら覚悟しておけよ。醍醐に言いふらしてやるからよ」
「ヘッ、上等じゃねェか。てめェこそ先にくたばって楽しようだなんて考えてんじゃねェぞ」
京一は言葉を切り、龍麻の首をぐいと手繰り寄せる。
「あのデカブツは俺が殺る。美里を護れ」
だが、龍麻を置き去りにしようとした京一は、
より強い力で引っ張られてバランスを崩してしまった。
「何しやがるッ!」
叫ぶ京一を二歩離したところで龍麻は息を吸い、氣を練る。
身体に残ったわずかな氣を集め、岩角の前で立ち止まって最後の氣も練りあげると、
篭手を打ちあわせ、溜めた氣を一気に解放した。
龍麻の身体が金色に輝く。
目を開けてはいられないまばゆい光は、だが、闇を払うには至らない。
異界の生物である盲目者をも切り裂いた聖光は、
群がってきた鬼道衆を数人は吹き飛ばしたものの、
岩角を含めて四人が生き残った。
力を使い果たした龍麻は、殺到する敵を他人事のように待ち受けた。
濃緑の忍者装束が金色の輝きを覆う。
「緋勇ッ!」
消失する輝きを追いかけるように叫ぶ京一も足が動かない。
すでに京一も戦える状態ではなく、立っているのがやっとだったのだ。
下忍が手にする苦無と刀が、龍麻の身体を貫く。
三ヶ所から同時に鮮血が吹きだし、龍麻は地に膝をついた。
刀を手にした下忍を一人、さらに倒したが、それで打ち止めとなる。
それでもなお戦おうとする龍麻に、岩角が近づいてきた。
「これで終めにしてやる」
岩角は固めた両拳をゆっくりと振りかぶった。
氣は宿っていなくても、大ぶりの玄翁にも匹敵する巨大な拳は、
ただその力のみで龍麻の頭を簡単に破砕するだろう。
「くそッ、お前は逃げろッ!!」
葵に言い捨てて加勢しようとした京一は、一歩踏みだしてよろけてしまう。
木刀を杖代わりにしてさらに一歩を踏みだしたが、龍麻までの数メートルが絶望的な遠さだった。
二人が、死ぬ。
知人――少なくとも、同じクラスの人間二人が、血まみれとなって殺されるという
非現実的な光景は、葵から思考能力を奪っていた。
今にも直視できない凄惨な光景が現出するというのに、京一の逃げろという命令も、
まばたきすらも忘れて、絶望に足をすくませていた。
十メートル先も見えないような暗がりの中で、岩角の振りおろす拳がはっきりと見える。
だが、それは幻覚だったに違いないとしても、その拳が龍麻の頭を砕く瞬間は、訪れなかった。
「痛えっ……?」
鋭い音と共に飛来した矢が、岩角の腕を貫く。
腕を突き抜けて飛び出た矢じりを、不思議そうに見つめた岩角は、
突然自分に向かって吹き飛んできた自分の部下と、まともにぶつかった。
思わぬ方向から攻撃を受けた下忍の一人が振り向こうとすると、
その暇も与えられず大きな塊に吹き飛ばされる。
更にその塊は、圧倒的な疾さで別の下忍に膝蹴りを叩きこみ悶絶させた。
前方に現れた白い輝きをまとう男と、後方から赤い氣を宿した矢を放った少女の正体を
確かめた葵は、満身創痍の龍麻と京一に、そして半ば自分に告げた。
「小蒔……それに……醍醐くん……」
葵の声が、京一に力を与える。
京一だけでない、遠くに倒れ、聞こえるはずのない龍麻までもが葵の告げた事実に呼応し、
崩れ落ちかけていた身体を起こした。
無論体力が回復した訳ではなく、どうにか立ちあがるだけの気力を取り戻したにすぎない。
しかし京一は、木刀を支えにしながらも、大地を踏みしめて還ってきた友を出迎えた。
「醍醐……てめェ、遅いんだよ……」
友への悪態が、京一に活力を与えていた。
あれほど重かった身体が、嘘のように軽くなっていく。
木刀を握る腕に、力が戻っていく。
大きくその場で一呼吸だけ整えた京一は、再び岩角に挑みかかっていった。
醍醐の奮闘もあり、龍麻と葵を取り囲んでいた敵は瞬く間に全滅の憂き目に遭っていた。
仲間が──友の存在が、龍麻達の『力』を、足すのではなく掛けていたのだ。
下忍を片づけた二人は、素早く視線を交わすと、一人奮闘している京一の許へと走った。
残された葵の許に、遠間から弓を放っていた小蒔が駆け寄ってくる。
「葵ッ! 大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫よ。小蒔こそ、なんともなかった?」
「うん、鬼道衆の炎角ってヤツが襲ってきたけどね、醍醐クンが護ってくれたんだ」
嬉しそうに言う小蒔に、葵も笑って頷く。
自分の気力はほとんど限界まで使い果たしてしまったが、
小蒔の笑顔でいくらかは癒される葵だった。
その彼女の背後で、とどめを刺しきられていなかった下忍の一人が、微かに上体を起こす。
彼はもう助からないと自分で解っていたが、鬼道衆として、
最後の忠誠心で苦無を投じようとしていた。
龍麻達は岩角と闘っていて、葵と小蒔も気づいてはいない。
下忍は最も手近にいた葵の、無防備の背中に向けて狙いを定め、
致命傷となる一撃を与えようとした。
しかし、彼の手から得物が投げられることはなかった。
どこからか音も無く飛来した、正に今彼が放とうとしたものと同じ形をした武器が、
下忍の絶命の急所となる一点に正確に刺さったのだ。
悲鳴すら上げることも叶わず、下忍は息絶える。
葵の窮地を救った如月は、離れた木の上から龍麻達の闘いを見守っていたが、
闘いの場を見渡し、趨勢を見定めると静かに姿を消した。
如月の見立ては正確だった。
四神の宿星に目醒めた醍醐と、友の帰還により力を取り戻した京一によって、
岩角との闘いは一気に決着がついたのだ。
京一が岩角の肩口から反対側の腰まで、一気に木刀を振り下ろす。
氣の刃で袈裟斬られてよろめく岩角に、醍醐の全体重を乗せた拳が打ち下ろされた。
「投げろッ、醍醐ッ!」
京一の指示をあらかじめ予期していたかのように、間髪入れず岩角の巨体を担ぎ上げた醍醐は、
膝を落として弾みをつけると、一気に岩角を宙に放り投げた。
「行くぜェッ!」
木刀を下段に構えた京一が、落下する岩角を斬り上げると同時に、
撓めた氣を一気に解き放つと、木刀から噴き上げた氣の刃が岩角を両断した。
「ぐ……おぅ……」
真剣に勝る鋭い斬撃を受けた岩角の肉体が、落ちる。
だが巨体が地響きを立てることはなく、二つに分かれた肉片は、
地面に着く前に黒い霧となって消え、後には、水角や風角と同じように、
黒色の珠が後に残された。
「俺達にケンカ売ろうなんざ、百億年早ェんだよ」
摩尼を拾いあげた京一は、そううそぶいてみせる。
そこに、醍醐が近づいてきた。
「いろいろ迷惑かけて、すまなかった」
巨体を縮める醍醐を無言で睨んだ京一は、小蒔に摩尼を放ると、
空いた手で俄に友を殴り飛ばした。
「京一ッ!!」
小蒔が叫ぶ。
葵が息を呑む。
早くも赤くなり始めている頬もそのままに、醍醐は加害者を見た。
「今更どの面下げて戻ってきやがった」
京一の顔には、やり遂げた男の表情が浮かんでいた。
「いきなり姿くらませたと思えば、いきなり現れやがって、勝手なコトばっかしてんじゃねェぞ」
さらに京一は倒れている龍麻の頭も殴る。
「てめェもだッ!! また一人で突っこみやがって、挙げ句やられてりゃ世話ねェぜ」
毒づく京一に龍麻の応答はない。
「ちょ、ちょっと、緋勇クン息してないよ」
事態の深刻さに気づいたのは小蒔で、龍麻が虫の息であることに気づくと、
慌てて葵に治療を頼んだ。
葵が『力』で龍麻を治す間、小蒔は京一を非難する。
「緋勇クンが死んじゃったらどうすんのさ」
「けッ、何回言っても聞かねェ奴なんざ、三途の川でも見てくりゃいいんだ」
「そんなコト言って、最後に殴ったの京一だから、捕まるんなら京一だよね」
「ぐッ……」
京一がぐうの音も出せなくなっている間に治療は無事済んだようで、
龍麻は息を吹き返し、身体を起こした。
「痛てて……なんで頭が痛いんだ……?」
しきりに頭をさする龍麻を見て、小蒔が京一の脇を肘でつつく。
何食わぬ顔で龍麻に手を差し伸べた京一は、殊勝にも制服の汚れを払ってやった。
「あと一歩ってところだったが、悪いな、賭けは俺の勝ちだ」
「……そうみたいだな」
素直に頷いた龍麻の肩に馴れ馴れしく腕を回し、新宿に向かって指をさす。
「よっしゃッ、こんなシケたところからはとっととおサラバしてラーメン食いに行こうぜ」
「しょうがねえな」
しかし、京一の威勢はそこまでだった。
龍麻が彼の腕を肩から振りほどくと、京一はそのまま地面に倒れてしまったのだ。
龍麻の次は京一かと動揺した小蒔達だったが、程なく寝息が聞こえてきて、
どうやら、疲労の為に気を失ってしまっただけのようだった。
「ッたく、殴るだけ殴って寝るなんて……何考えてんだろ、このアホは」
小蒔が呆れたように言うと、苦笑いで応じた醍醐は、静かに京一を背負う。
「まぁ、これくらいは覚悟していたからな。皆にも謝るよ。すまなかった」
「エヘヘッ……おかえり、醍醐クン」
小蒔と共に龍麻と葵も、それぞれの笑顔で還ってきた仲間を迎えた。
赤面した巨漢は、背中ですっかり気持ち良さそうに寝ている京一を背負いなおす。
「こいつは俺が家に送るよ。それが心配かけた、せめてもの償いだ」
「でも、京一が途中で起きちゃったら怒るかもね。
『なんで男に背負われなきゃならねェんだッ!』って」
「『俺のラーメンはどこ行ったッ!』かもな」
京一を真似る小蒔と龍麻に、ようやく日常が戻ってきたように思われ、醍醐は笑った。
醍醐と小蒔が前を歩き、龍麻と葵は後ろで並んで歩いている。
四人とも口数は少なく、聞こえるのは竹林のさざめきだけだ。
不気味ではあったが、小声で話してもよく聞こえてしまう今の状況は、葵にとって好都合だった。
龍麻も醍醐や小蒔の前では、下劣な話はしないだろう。
龍麻は一言も発しない。
傷は治したとはいえども激しい戦いの後であり、
疲れているようでもあるから無口なのかもしれない。
それならばよいが、龍麻が話しかけてこないならこないで葵には不安もあった。
龍麻は昨日の賭けの結果を確信しているのではないか。
彼にするなと命令されたにも関わらず、身体の疼きを抑えきれず自慰してしまったことを、
疑っていないのではないか。
訊かれた時に嘘を吐く準備と覚悟はしていた――とっさの嘘でさえほぼ使ったことがなかった
葵にとって、あらかじめ嘘を用意するというのは、随分と悪いことをしている気分にさせられた。
それでも、報酬の魅力を考えれば、それだけの価値があると自分を納得させ、
龍麻との受け答えを想定しておいたのだ。
なのに龍麻は一言もその話題に触れてこない。
予想外の一日であったのは確かだが、葵は怖くなっていた。
嘘を吐くための覚悟を、明日も持続できるかどうか自信がなかった。
もしも龍麻がそこまで考えていて、あえて訊いてこないのだとしたら、
そんな悪魔のような知恵を巡らせる相手に抗するのは、もうほとんど無理なのではないか。
葵の悲観的な考えを煽りたてるように、竹林は不気味なさざめきをいつまでも奏でていた。