薄暗い一室に、二人の男女がいた。
しつらえられている調度品は豪華なものだったが、二人の関係に男と女のそれは窺えない。
男は初老であり、女は彼の孫ほどの年齢であったからだ。
もちろん、愛に年齢という障壁はない。
しかし、彼ら二人の関係は、恋人同士でも、血縁関係という訳でもなかった。
木製の椅子に座った少女が、ビロードのかけられた机の上に手をかざしている。
肌の浅黒い、インド辺りの出身を思わせる少女は瞼を閉じており、
何もない机の上で、パントマイムのように手を動かしていた。
その傍らに立つ老人は、一風変わった服を隙無く着こなしている。
日本の学生ならばそれほど違和感を感じないであろう襟の立った服は、
何かの組織、それも高度に統制のとれた組織に属していることを思わせる、
皺一つ無い制服だった。
口元にわずかな髯をたくわえ、白銀の髪を丁寧に後ろに撫でつけてある男が、
威厳の篭った口調で少女に訊ねる。
「視えるか……17よ」
男の問いにも数字で呼ばれた少女はすぐには答えない。
手を、それほど大きくはない机の上で忙しく行き来させ、時折手首が返る。
いくらかの想像力を持つ者なら、
彼女はカードのようなものをめくっているのだと考えることも出来たろう。
恐らく彼女以外には、いや、目を閉じている彼女自身にも見えないカードを、
全てめくり終えた少女は、ゆっくりと呟き始めた。
「女帝のカード……大いなる愛に満ち溢れた女帝のカードが視えます。
その近くに、白き力と戦車のカードが。そして、更に近くに太陽のカードも」
少女の呟きは、誰に向けて発せられたのか判らないほど弱々しい。
しかも意味不明の言葉の羅列であったが、男は微動だにせずに少女の言葉に耳を傾けていた。
「光が包んでいます。柔らかく、暖かい光が……ああ、あなたは、いったい……」
初めて少女の声に変化が訪れる。
それは恐怖であり、憧れであり、感情の発露だった。
「恐れることはない、女神よ」
男が口を開いた。
慄えの混じり出した少女の声を、なだめるような口調だ。
その声に慰められたのか、少女は恐慌を収め、押し黙る。
彼女を見下ろし、男は語り始めた。
「17よ……お前は殺戮と破壊を招く女神。世界を見通す『力』を持つ、選ばれし者。
お前のその汚れなき網膜に、大いなる『鍵』となる者の在処を焼き付けるのだ。
そしてその『鍵』を手にした時、我らゲルマン民族が再び世界を支配するのだ」
手振りを交え、狂熱を込めて語る男もまた、
少女と同じく目に見えない何者かに向かって演説を行っているかのようだった。
少女はそれを何も言わず、無表情で聞き入っている。
瞼は閉ざされたままで、彼女はもしかしたら目が見えないのかもしれなかった。
男が放つ異様な熱気に満たされつつあった部屋の、扉が突然開く。
「誰だ」
陶酔を覚まされた男は、鋭い声を開いた扉に向かって投げつけた。
男の、槍の如き怒りを受けたのは、まだ年端もいかない少女だった。
「20か……何の用だ」
白人の少女は、大抵の人間の庇護欲を刺激する可憐な外見だったが、
男の声からは熱が消え、氷点下のような冷たさになる。
それは男が、入ってきた少女が抱いているものを見ることで、更に温度を下げていった。
「……何だ、その猫は」
「拾ッタノ。雨ニ濡レテ、カワイソウダッタカラ」
「捨ててこい」
命じた男の声は、ほとんど最下限まで冷え切っていた。
眼光にも同種の侮蔑を湛え、少女の小さな身体に容赦無く突き刺す。
しかし、少女は激しく全身を戦慄かせたが、男の命令に従おうとしなかった。
「聞こえなかったのか、捨ててこいッ!!」
「イヤ」
「わしの言うことが聞けないのかッ!!」
声帯を振り絞って少女が抗うと、一転、男は氾濫する河のように激した。
少女は腕の中の小さな生命にすがりつき、懸命にその激流に耐えた。
「フン……出来損ないが」
少女を見る男の、深い皺の刻まれた顔には、愛情めいた物は欠片すら見当たらなかった。
徹底的な蔑視、あるいは憎悪のみを、
半世紀以上も歳の離れた少女に恥じる所なく投げつけていた。
すると、それまで無言だった、サラと呼ばれる少女が再び口を開く。
「学院長様。女帝のカードが示せし名が視えます。
美しき聖なる星に護られしその名は……ミサト アオイ」
男はマリィと呼んだ腹立たしい少女を無視し、サラを賞賛した。
「ふむ……良くやったぞ、17。その者が真に『鍵』たる者かどうか、確かめねばなるまい。
今まで二百人の『鍵』と出会ったが、真の『鍵』たる者はいなかった」
盲目の少女の顔が、わずかに曇る。
それを見た男は、穏やかに語りかけた。
マリィに対してのものと、同一人物とは信じられない優しい態度だった。
「別にお前を責めている訳ではない。わしは嬉しいのだ。
総統の成し得なかった偉業を成す喜び。
わしの老いた胸はその感動に打ち震えておる。
早速19と21を『鍵』の許に向かわせよう」
老人は興奮を隠そうともせず、インターホンに手を伸ばす。
しかし、まだ何事か手を動かしていた少女は、机上に盲目の視線を注いだまま更に告げた。
「お待ちください。あともうひとつ、微かですが、何か視えます。
ドラゴン……いえ、旅人を表す愚者のカード。
深い霧のようなものに遮られて、それ以上は視えません。
それが『鍵』にどのような影響を及ぼしているかは解りませんが、何かを感じます」
「ほう……お前の透視でも視えぬものがあるというのか」
老人は少女の告げた内容に、わずかな興味を抱いたようだった。
しかし彼の情熱は『鍵』にのみ注がれており、それ以外のものは、
例え黄金の塊であっても興味を示さなかっただろう。
「まあ良い、気にかける程でもあるまい。それよりも『鍵』の場所は」
「場所は……シンジュク……マガミ……ガクエン……」
頷いた老人は部下に出動を命じ、第三帝国復活の偉大なる一歩を踏み出した。
朝七時。
まだ空気が澄んでいる、人々も、街も本格的に目覚めてはいない時間に、
龍麻と京一、醍醐、それに鎧扇寺学園高校の紫暮兵庫を加えた一行は
江戸を鎮護する五色不動のひとつ、目黒不動へと来ていた。
目的は、先日岩角を倒して手に入れた五色の摩尼の一つを封印する為だ。
「着いたぞ。ここが目黒不動、下目黒瀧泉寺だ」
「悪かったな、紫暮。こんな朝早くから呼び立てて」
「いらん気を使うな、ここは俺の地元だぞ。それに朝の稽古のついでだからな」
聞けば紫暮の家は武道家揃いで、全員が朝早くから稽古を行っているそうだ。
だからなのか、龍麻がこんな早い時間から案内を頼んでも、二つ返事で引き受けてくれた。
龍麻の電話が稽古の誘いでないと知った時の紫暮の落胆は、只事ではなかったが。
今朝も待ち合わせの時間より前に一稽古してきたのだろう、紫暮は柔道着のままだ。
京一が彼にあまり近寄ろうとしないのは、どうやら汗の臭いが気になるらしかった。
龍麻が、さりげなく距離を置く京一を、同じくさりげなく睨んでいると、
紫暮が武道家らしい低い、しゃがれた声で言った。
「それより、お前ら男三人だけとは珍しいな」
「ま、たまには男の友情を確かめあうのもいいと思ってよ。なァ、緋勇」
葵達は何も最初から来ないことになったのではない。
目黒不動に行くという話が出た時、これまで通り学校帰りに行けば良いものを、
何故か京一が早朝に行こうと言い出して、その時点で朝があまり強くない小蒔は脱落を宣言した。
部活の朝錬にはきちんと起きているらしいのだから、
いかに摩尼の封印を軽視しているかが判ろうかというものだが、とにかくこれで一人。
京一は小蒔をたしなめるどころか、次になぜか葵を標的にし、
何も大勢でぞろぞろと行くことはないだの、
遠くまで行くから万が一生徒会長が遅刻でもしたらシャレにならないだの、
とってつけたような理由を幾つも並べ立てて彼女の同行を断ってしまったのだ。
渡りに船である京一の提案に葵が乗り、これで二人。
結局摩尼の封印には龍麻と京一、醍醐の三人で行くことになり、
案内役がいないのを不安に思った龍麻が、
紫暮に連絡を取って四人で目黒不動に向かったのだった。
朝から友情などと気色悪いことを言う京一に、龍麻は目を細めるだけで何も答えない。
朝ラーメンを食べたいとでも言った方がまだ信用できるというもので、
京一の魂胆を疑ってかかる、なまじ強い意思を宿す瞳は、
それが負の感情であっても同じ強さで光を放ってしまう為に、
その視線をまともに受けた京一は思わずたじろいでしまった。
「なッ、なんだよその目は」
「別に」
「わははッ、嫌われたもんだな、蓬莱寺。まぁいい、こんなことで良ければいつでも呼んでくれ。
緋勇、それに醍醐、今度は俺の練習につき合ってくれよ。じゃあな」
下駄の音を響かせて、紫暮は去っていった。
まさかあのまま学校に行く訳ではないだろうが、古風な音がいつまでも響く。
彼がいなくなった後も、なんとなく険悪な雰囲気を漂わせていた三人だったが、
自分達が何をしにここに来たのか思い出し、寺の中へと入った。
「よし、さっさと祠を見つけて摩尼を封印しちまおうぜ」
やる気のある京一、というのも不気味なものがある。
龍麻は自分よりも彼とのつき合いが長い男に答えを求めると、彼の返答はこうだった。
「トイレにでも行きたいんじゃないのか」
「なるほど」
深く頷いて賛意を表した龍麻は、醍醐と並んで京一の後をのんびりついていくのだった。
「お、あった。こっちだ緋勇」
祠を探し当てた京一が二人を手招きする。
龍麻と醍醐が到着するや否や京一は、以前行った金乗院と最勝寺と同じ、
小さな祠の扉をさっさと開けた。
あまりに適当な開け方に驚いた醍醐だったが、龍麻も無言で珠を置き、
またあっという間に京一が閉めてしまった。
「何も起こらんようだが……」
「ああ、お前は初めてだったっけ。封印つってもこんなモンだぜ。な、緋勇」
龍麻は頷く。
鬼を封じ、江戸を護るという大層な役割を与えられている割に、
封印といっても特殊な儀式を行ったりする訳ではなかった。
百葉箱に近い小さな祠の中に摩尼を置くだけだ。
置かれる摩尼の方も、輝きが失せ、
どのような技巧によってか中に彫ってある龍の紋様が消えるのがほとんど唯一の変化だった。
「それで、本当はなんでこんな朝に行こうなんて言い出したんだ?」
用事を済ませた龍麻に改めて問われ、京一はそっぽを向いて答えた。
「だから言ったじゃねェか。男の友情を確かめあおうってよ」
「そんなたわ言信じられるか」
「くッ……」
一万年もの間凍り続けた氷を両断するような龍麻の否定に京一は屈したが、
それでも口を開いたのは数歩歩いてからだった。
「この間ン時、お前の頭を殴っちまったからよ、ま、その、なんだ」
「なんだそりゃ、そんな理由か」
一応謝るつもりがあって、女性の前では切り出しにくかったのだろうか?
それにしても、龍麻には殴られた記憶がない。
岩角との戦いは激しかったので、乱戦中に間違えて当たったのだろうか。
首をかしげる龍麻に、醍醐が口添えした。
「ふむ、そういうことなら俺も謝らねばならんな。あのときは随分迷惑をかけた」
「別に、迷惑ってこともねえさ。あれから具合はいいのか?」
「ああ、何ともないな。気力というか、気分が昂ぶる時もあるが、
昔みたいに闇雲に暴力を振るいたくなるわけでもない。
滾っているのに頭は冷静というか……上手く説明できんが」
「一皮剥けたってことじゃないのか?」
「そうだったら嬉しいが、自力で壁を超えたという実感がないからな」
腕を組み、小難しげに考えた醍醐は、思いだしたように腕をほどいた。
「緋勇こそ大丈夫なのか? 京一に殴られて一旦は呼吸が止まったそうだが」
「あッ、馬鹿野郎」
龍麻は醍醐が伝染したような小難しい顔で京一を睨みつける。
受け流そうとして失敗した京一は、観念して顛末を語った。
「元はと言やァお前が悪いんだぞッ! 美里を護れッつったのに、突撃しやがって」
「呼吸が止まった……?」
容疑者の自己弁護を無視して、龍麻は目撃者に訊ねる。
「ああ、と言ってもすぐに美里が『力』を使って回復したから、ごく短い時間のことだったがな」
「……」
「や、思いっきりなんて殴ってねェからな俺はッ! こつんって程度だぞ」
「それほど軽くは見えなかったが」
「お前は黙ってろ醍醐ッ! べ、別になんともねェんだろ?
ならいいじゃねェか、水に流すってことでよ。
そうだ、この近くに美味いラーメン屋があるから行こうぜ。
腹も一杯になりゃあ細かいコトなんざ忘れちまうってモンよ」
「こんな時間にラーメン屋なんて開いてないだろう」
冷静な醍醐の指摘に、京一は顔を赤くして怒鳴った。
「うッ、うるせェな、腹が膨れりゃなんでもいいんだよこの際ッ!
こんな所で無駄話してねェで、さっさと行こうぜ」
殺人未遂事件を無駄話と言い切り、さらにどさくさに紛れて謝る相手に
飯を奢らせようとする傍若無人ぶりに呆れる龍麻と醍醐だった。
醍醐の指摘したとおり、早朝から開いているラーメン屋などなく、
結局二十四時間営業の牛丼チェーン店で朝食を済ませた龍麻達は、
それぞれ満足げな表情で店を出た。
もちろん、金額が少ないからといって自腹を切るような京一ではない。
大盛りにお新香までつけた代金を払う素振りすら見せずに店を出たのは、
いっそあっぱれというべきだった。
彼に比べれば、同じ大盛りにこちらは味噌汁をつけながら、
一応は財布を出してみせた醍醐の方がはるかに常識的だといえるだろう。
最初から代金を取り立てる気のない龍麻は、
笑って身を縮める巨漢に財布をしまうように言ったのだった。
三人とも模範的な学生というわけではなく、学校をサボることに抵抗はない。
一仕事終えたという達成感もあり、食欲も満たされたので、
ここから新宿に直行するのは面倒くさいという気分が鎌首をもたげてきていた。
揃って遊びに行くかどうかはこれから決めるとして、まずは今日は学校に行くのを止めよう。
同じことを考えた龍麻と醍醐が、できれば相手に言いだして欲しいなどと考えていると、
京一が振り返った。
「よっしゃッ、腹も一杯になったところで学校に行こうぜ。
今からならまだ一時限目には間に合うだろ」
信じられないことを言った京一に、龍麻と醍醐はお互いの顔を見て、更に揃って空を見上げた。
槍でも降ってくるのではないかと思ったのだ。
何かに感づいた表情で醍醐が、この男にしては意地の悪い笑みを浮かべる。
「珍しいな、お前が学校行きたがるなんて……さては出席日数が危ないのか?」
「ばッ、馬鹿野郎、ンな訳あるかッ。ほれ、なんだ、秋は勉強の季節とか言うだろうが」
京一の戯言など槍が降ってもまだ信じられるものではないが、
出席日数が足りなくて卒業できないのはあまりに哀れなので、
龍麻と醍醐は混ぜっ返すのはやめて、
学生の義務を果たすべく京一につきあうことにしたのだった。
目黒を出発した龍麻達が、新宿駅に着いた頃。
真神学園へ続く通学路は、まだ閑散としていた。
真神学園はそれほどランクの低い高校ではないが、登校の風景は他の多くの高校と大差ない。
学校へ向かう生徒の数は始業の十五分ほど前から急に増え始め、
五分ほど前にピークに達するのだ。
その中には京一や、時に小蒔の姿もある。
今は始業まで三十分以上あるので、喧騒とは無縁のこの時間の、
数えるほどしかいない生徒達の中に、ひときわ目立つ金髪の、
深紅のジャケットを着た女性がいた。
真神学園の英語教師である、マリア・アルカードだ。
その美貌と気さくな態度の為に全校生徒で知らぬ者はなく、
一説には彼女を一目見ようと、
彼女の出勤する時間に合わせて登校する生徒が多すぎて問題になり、
止むを得ずにマリアの方が時間を変えたと言われている。
今、その噂が真実であると証明するかのように、
彼女を見かけた数少ない幸運な生徒達は例外なく挨拶し、
マリアもそれに応えていたが、やがて彼女は一人の生徒の肩を叩いた。
「美里サン」
「あ、マリア先生、おはようございます」
「Good Morning. 今朝は一人なのね」
マリアは良く彼女──美里葵と、彼女の友人である桜井小蒔が一緒に通学しているのを見ている。
毎回、ではない。
小蒔が寝過ごして遅刻寸前に駆け込んでくる日が、
月に五日ほど──夏休みを過ぎて部活動が終わってからは、
もう一日二日ほど増えている──あった。
今日も、その何日かのうちの一日なのだろうか。
教師としてまっとうな感覚を持っているマリアは、生徒の遅刻などもちろん喜ばしいはずもなく、
扉を開けて彼女が駆け込んでくる、ごく近い将来を想像して内心で眉をひそめた。
しかし、どうやら問題児未満の教え子は、まだ夢の続きを愉しんでいる訳ではないようだった。
「はい、小蒔ったら後輩を扱くんだって弓道部の朝練に行ったんです」
「そう……桜井サンらしいわね」
内心のことなどおくびにも出さず、
マリアは朝という時間には似つかわしくないほど艶やかに微笑む。
葵もそれに応じて小さく笑ったが、マリアは、彼女の表情がすぐれないことに気がついた。
「美里サン、なんだか元気が無いけれど、何かあったのかしら?」
「あの……大事な腕時計を失くしてしまって」
「まぁ……」
物にはほとんど執着しないマリアは、葵の悲しみを完全には理解出来ない。
しかし、彼女の小さな染みのようであった不安が、顔一面に広がっていくのを見て、
それを推し量ることはできた。
目で促すマリアに、葵は落ち込んだ様子で語り始める。
「昨日、ボランティア活動をしている母と一緒に、
大田区の文化会館で行われたバザーの手伝いに行ったんです」
「バザー?」
「はい。世界中の恵まれない子供達の為のバザーで、
収益金は孤児院を建てる為の基金になるそうです」
恐らく葵は、世界中にいる孤児達を実際に見たことは無いだろう。
それを見る必要がないというのは幸せなことであり、
見たこともない子供達の為に慈愛の手を差し伸べる彼女の行為は讃うべきものだが、
マリアの口調には葵に対してだけではない憐憫が含まれていた。
「……戦争や災害といった混乱で最初に被害を受けるのは、いつの時代も……子供達。
愚かな──いえ、悲しいことね」
「ええ……」
葵の声は沈んでいる。
彼女を責めても仕方がないと、マリアは頭を振って話題を戻した。
「それで、腕時計はその時に?」
「はい。高校入学の時に父から贈られたものなんです」
そこまで葵が言った時だった。
突然、マリアの表情が険しくなる。
何事かと葵が驚いていると、極度の摩擦を与えられたタイヤが上げる、
けたたましい悲鳴が鼓膜を撃った。
ほぼ同時に、敬愛する教師の身体が覆い被さってくる。
彼女が纏う甘い薔薇の香りに五感を惹かれながら葵が見たものは、
停まった車から降りてくる幾人かの人間だった。
黒服の男達が二人、それに子供が二人。
一直線にこちらに向かってくる彼らは、どうやら自分達に用があるらしかった。
でも──どうして。
暴力の匂いを隠そうともせず近づいてくる男達を見ながら、葵はひどく冷静に考えていた。
マリアの腕の中という安心感と、彼女がもたらす薔薇の香りが、
恐怖を忘れさせていたのかもしれない。
『力』のせい──?
自分を護っていた腕を解き、今度は背中に押し込めて盾となるマリアの、
美しい金色の髪が、そんなことを考えさせる。
どうして、私なのか──
どうして、誰か他の人じゃないのか──
春から幾度となく抱いてきた怨嗟の念が、鎌首をもたげる。
葵の心という巣穴から這い出してきたその蛇は、ある人物に向けて威嚇の音を鳴らす。
貴方のせい――
それは葵が今年になって覚えた負の感情。
しかも、本当はその人物のせいではないと、葵は知っている。
彼はきっかけに過ぎず、葵が巻きこまれている信じがたい事象の数々は、
あきらかな悪意を持つ者たちによって引き起こされているのだと。
それでも葵は彼を罵った。
罵っていれば、否定するために彼が現れるとでもいうように。
しかし、いくら彼が超人的な『力』を持っていても、
今は目黒区に行っているはずだから、来られる訳がない。
小蒔が行かないのを幸いに、自分も同行をやめたのを葵は悔いた。
葵と彼女を庇うマリアの前に、悪意を発散させながら男達が立つ。
その中の、白に近い金髪を短く刈り上げた目つきの鋭い白人の少年が、尊大な口調で命じた。
「Stop! Freeze.」
「What──are you doing?」
威圧的な少年の眼光に抗して、マリアが答える。
命令に詰問で答えながら、彼女は時間を稼ぐことを念頭に置いていた。
朝のこの時間だ、何分か稼げればきっと目撃者が現れてくれるに違いない。
マリアが緊張を隠し、暴力に立ち向かう決意を固めていると、
黒人の、まだ十五にはなっていないだろう子供が、早口でまくしたてた。
「Shut up.」
下品な音を立ててガムを噛みながらの台詞に、
マリアは彼の頬を思いきり張り飛ばしたい衝動に駆られた。
しかし、葵がいる状況下で激発はできない。
この子供はともかく、黒服の男二人、
そして白人の少年はなんらかの専門的な訓練を受けているのが容易に見て取れたからだ。
「Aoi Misato,Aren’t you?」
「Come on!!」
白人の少年が写真を取り出し、そこには恐らく葵が写っているのだろう、
本人と写真を見比べて同一であることを確かめると、黒人の子供が乱暴に葵の腕を掴んだ。
その手を彼女に代わって払いのけたマリアは、
教え子達には決して聞かせたことのない怒声を彼らに浴びせた。
「Kidnappers……Don’t be silly.
Let her go,and go away!!」
「Bitch!!」
「Freeze.」
子供はよほど躾が行き届いていないのか、今にも激発しそうであったが、
少年の方は対照的に恐ろしいほど冷静だった。
彼の命令に応じて、黒服の二人が銃を取り出す。
早朝の青空に鈍色の凶器は空想の産物ではないかと言えるほど浮いていたが、
それが本物であることはマリアも認めざるを得なかった。
抵抗を諦め、腕を上げる。
「Take her with us.」
「Hey bitch,《/rt》《/ruby》come on《rt》きやがれ《/rt》《/ruby》!!」
子供が下卑た笑い声をあげて腕を掴んだ瞬間抑えが利かなくなり、
マリアは彼の頬を音高く打ち鳴らしていた。
「Shit!! Fucker.」
頬を抑えた子供の身体から、異様な気配が立ち上る。
単なる怒りや憎しみとも違うそれに、マリアは思わず立ちすくんでいた。
マリアが子供を殴ったことに一瞬怯んだ男達も、
再び彼女と葵の腕を掴み、車に連れていく。
「Hey,21ッ!! Let’s go away.」
子供はなおも妖しい気配を周囲に撒き散らしていたが、
少年に呼ばれるとガムを吐き出して車に乗りこんだ。
マリアと葵を別々の車に押し込めた男達は力任せにアクセルを踏み込み、
来た時と同様スキール音を立てて去っていく。
そのスキール音が完全に消え去ってから、一人の少女が木陰から姿を現す。
真神学園の制服を着た、手にはごついカメラを持った少女は、誰あろう遠野杏子、通称アン子だった。
「と……とッ、特ダネだわッ!! この写真を週刊誌に売り込めば……
ううん、警察に持ってってコネを作っておくのも悪くないわね。
白昼の誘拐劇を目撃した美少女記者。ワイドショーとかの取材も来たりして」
ジャーナリストの悪癖として、全ての事柄をまず記事に置き換えてしまうというのがある。
他はともかく、その部分だけは充分にジャーナリストになる条件を満たしているアン子は、
友人と教師が攫われたという事実を前に、そのニュース性しか頭にないようだった。
興奮冷めやらぬ様子でまくし立て、撮影した特ダネ映像を収めた機械を愛おしげに見やる。
「ん……? ああッ!! カメラ、壊れてる……
どうして、いつも念入りに手入れしてあったのに」
カメラは彼女にとってペンの次に大切な物だ。
だから手入れはプロも舌を巻くほど丁寧に行っていたし、
何か故障があれば必ずチェックしてあった。
現に今も、ピントを合わせ、シャッターを切るまでは間違いなく動作していたはずなのだ。
それからわずか数分の間に故障するなどと、考えられないことだった。
マスコミデビューのチャンスを逃したアン子はがっくりとうなだれていたが、
気を取りなおして現場検証を始める。
「そういえばあいつらが逃げる時、何か光る物が落ちたみたいだったけど……あ、あった」
眼鏡を常用しているアン子は、もちろん決して視力が良いわけではない。
しかし、彼女の興味の対象である限り、その眼はどんな小さな事柄をも見落とすことはないのだ。
油断なく地面を見渡していた彼女は、
マリア達が誘拐犯と揉み合っていた場所に落ちている小さなものを拾い上げた。
「何コレ……バッジかしら。鷲……? でもどっかで見たことあるような気が……」
考えてみてもこの場では思い出せそうにないので、とりあえずポケットにねじ込む。
「これは面白くなってきたわね」
呟いたアン子は、事件を報告すべく、真神学園の、
自分の隣のクラスに向かって駆け出したのだった。
龍麻が自分のクラスの扉を開けると、もう九割がたの級友達が来ていた。
それも当然で、あと三分もすればマリアがやって来て朝のホームルームが始まる時間だ。
龍麻が軽く手を挙げて挨拶する友人達に応じていると、京一が全く焦った様子もなく入ってきた。
「ふぅ、ギリギリセーフってトコか」
「全く……朝から邪念が多すぎるんだ、お前は」
京一の後ろに続く醍醐が言っているのは、新宿駅に着いた京一が、
早朝の真面目さは混み始めた電車内で使い果たしたとばかりに、
OLやら女子高生やらの品評会を一人で始めて学校に向かわなくなってしまったことだ。
龍麻も醍醐も三大本能を片っ端から満たそうとする男など、
放っていくことにためらいを覚えなかったが、こんな男でも進級できないのはさすがに哀れだ。
二人で京一の両側を囲み、半ば連行するように連れてきたのだ。
「くそッ、お前らは真面目すぎんだよ」
「学校に行くのは学生として当たり前だろうが」
「何が学生だッ、お前だって散々サボってるくせしやがって」
早速口を尖らせて言い争いを始める二人を放って、龍麻は自分の席に向かう。
そこに友人達と談笑していた小蒔が、輪を離れてやってきた。
「おっはよ」
「おはよう」
「随分遅かったね。迷ったの?」
答えたのは龍麻ではなく、京一との不毛な争いを打ち切った醍醐だった。
「いや、そうじゃなくて京一がな」
「なんで俺のせいにすんだよ」
「お前のせい以外、他に何があるんだ」
力強く断言する醍醐に龍麻も首を振る。
黙らされた京一に、小蒔がしみじみと諭した。
「京一……あんまり醍醐クンと緋勇クンの足引っ張るなよ」
防戦一方に追い込まれた京一は、わざとらしく額に手を当てて教室を見渡す。
「そういえば、美里はどうしたんだよ」
「あ、うん……ボクも気になってるんだけど」
葵は遅刻したことがない。
時にはマリアより遅く教室に入ることがある小蒔とも違い、
始業ぎりぎりに来ることさえまずないといって良かった。
だから、この時間にまだ姿を見せていないということは、具合が悪くて休むのかもしれない。
龍麻と小蒔が揃いの表情を浮かべると、扉が叩きつけるような勢いで開かれた。
ちょうど扉の前に立っていた小蒔は、思わず飛び上がってしまう。
小蒔だけでなく、クラス全員を振り向かせた主は、隣のクラスの遠野杏子だった。
彼女がこうやって入ってくるのはいつものことなので、
驚いた生徒達もすぐに自分達の会話に戻る。
目の前に用のある四人が揃っているというのに、
アン子の声は教室の奥まで優に届くほど大きかった。
「ちょっとアンタたちッ、事件よ事件ッ!!」
「なんだアン子、新聞部が廃部にでもなったのか?」
京一の毒は、普段と較べて特に強かった訳でもない。
しかし龍麻達が見たのは、雷光の如き速さで繰り出されたアン子の掌と、
それが見事命中してよろめく京一の姿だった。
「それどころじゃないんだから余計なコト言わないのッ!!」
「どしたのさ、そんなに大変なコト?」
龍麻の肩にもたれて身を支える京一には一瞥をくれただけで、小蒔が訊ねる。
するとアン子は、雷速の手の動きをそのまま声に変換したようにまくしたてた。
「大変も大変よ、耳かっぽじって良く聞きなさいよ、
美里ちゃんとマリア先生が誘拐されたのよッ!!」
「誘拐……って」
高校生と教師が、この日本の中心で、早朝から。
いくらなんでも鵜呑みにするには引っ掛かる部分が多すぎる情報だった。
「ちょっとアン子、本当なのソレ? 冗談だったら趣味悪すぎるよ」
「本当も本当、あたしがこの目で見たのよッ!!
外国人の、まだ子供みたいだったけど、その二人と銃を持った男達が
美里ちゃんとマリア先生を脅して、無理やり車に乗せて連れ去ったのよ」
どうやらアン子が嘘を言っている訳ではないと知り、龍麻達は顔を見合わせる。
そもそもどれほど馬鹿げた話であっても、自分達は一笑に付せる立場ではないのだ。
そして事実、もうとっくにホームルームは始まって良い時間なのに、
まだ葵もマリアも姿を見せていない。
どうやら現実は、映画や小説などよりずっと性質の悪い脚本によって作られているようだった。
「詳しく話してくれ、遠野」
ついでにもう少し声を潜めて話すよう頼んだ龍麻に、
アン子は今度は極端に声を絞って話し始めた。
四人は円陣を作り、顔を寄せて彼女の話を聞いた。
「ミサトアオイって言ってたのが聞こえたから、多分狙いは美里ちゃんね。
マリア先生は一緒にいて巻き添えを食った可能性が高いわ」
「外人の子供二人に、銃を持った男か……営利目的か?」
腕を組み、醍醐が唸る。
龍麻は考えをまとめるために沈黙を保ち、仲間達が交わす意見を聞くのに専念していた。
「あたしが見た感じではそうじゃなかったわ。男達は子供に指揮されていたし、
その子供も一人は黒人、もう一人は多分ロシア系で学生服を着ていたもの」
「営利目的じゃないとすると、まさか、鬼道衆……?」
醍醐の目許に薄く憎悪が浮かぶ。
この手で同級生であった佐久間を葬ったという精神的外傷からは立ち直れたものの、
そうなるように仕組んだ鬼道衆に対する念は、消えることなく精神の奥底にたゆたっている。
憎悪の感情は己を歪めると、苦すぎる教訓を得ている醍醐は、
もう決してそれに支配されることはなかったが、
鬼道衆の名を聞くと泡のように精神の表層に浮かんでしまうそれを、
完全に抑えることまではできなかった。
「くそッ……今度は美里を狙ってきやがったか」
「それも早朝とはな、裏を掻かれたな」
拳を打ち鳴らす京一に、龍麻が応じる。
小蒔が夕方とはいえ一人になったところを拐われたのだから、
葵にも同じ危険が及ぶ可能性を考えて当然だというのに、
朝の警戒を怠ったというのは失態という他はなかった。
こうなったら、一刻も早く助けだすしかない。
「うーん……鬼道衆とも違うような気がするのよ。これを見て」
鬼道衆に対する憎しみを露にする三人だったが、アン子の見解は彼らとは異なっていた。
その理由をポケットから取り出し、五人の輪の中央に差し出す。
「誘拐犯が落としていったものなんだけど」
「なんだこりゃ、鷲……みたいだな」
「やっぱりそう見えるでしょ? 鬼道衆って組織がどんなのか知らないけど、
アンタ達今までこんなの見たことある?」
確かに、今まで鬼道衆を名乗った水角、風角、炎角、岩角は、
いずれも忍者装束を着ていて、それらはこのような鷲の紋章とは基本的に相容れない格好だ。
「いや……ないな。でも、じゃあ誰が」
「わからないわ。でもとりあえずはこれを手がかりに当たってみるしかないわね。
結構特徴的なものだから、部室へ行って調べてみれば何か判るかも」
「よし、俺達も手伝う」
差し当たっての行動が決まり、教師が入ってこないのを良いことに
級友達が話し続ける教室を抜けだして、龍麻達は駆けだした。
二台の車が大きな建物がそびえ立つ敷地の中へと入っていく。
一見ごく普通の寮か、あるいは小規模の学校のように見えるが、
門前に立つ警備員の目は険しく、建物自体にもどこか暗い雰囲気が漂っていた。
窓の全てに黒いフィルムが貼られた、見るからにいかがわしい高級車は、
この敷地内に入ってむしろ本来の居場所に戻ってきたように溶けこんでいた。
車が停まり、中から複数の人間が降りてくる。
彼らもまたこの建物に相応しい、とてもまっとうには見えない品格の持ち主だったが、
その中に、陰湿な雰囲気からはかけ離れた二人の女性の姿があった。
数十分前に誘拐された、マリアと葵だ。
別々の車によって連れてこられたマリアと葵は、
誘拐した犯人達が目的地に着いたことによってようやく再会していた。
しかし、それを彼女達が知ることはできない。
車に乗せられると同時に、目隠しをされてしまっていたからだ。
更に降ろされると今度は後ろ手に手錠を嵌められてしまう。
両脇を抱えられて連行された二人は、どこか部屋のような場所まで来ると、
乱暴に突き飛ばされた。
マリアが必死に身体を起こそうとすると、白人の少年の声がする。
「ただいま戻りました、学院長様。女は無事確保しました」
「ごくろう」
ここはジルが、『鍵』である葵を手に入れるよう命令した部屋であった。
傍らにはどのような『力』によってか、彼女が鍵であると見抜いた、
ジルには17と呼ばれるサラという少女もいる。
そしてジルに報告した白人の少年は、彼と同じ制服を着ていた。
この部屋の中で同じ服装をしているのがこの二人だけということから、
少年がジルにとって特別視されているのが判る。
新しく築かれるべき栄光の第三帝国に、有色人種は必要ないのだ。
報告に満足気に頷いたジルは、葵の傍らに伏す女に気づいた。
「うむ……? そっちの女はなんだ」
「はッ、目標と一緒に居た為に」
「目撃されたからよォ、ついでに連れてきちまった」
わずかに身を固くして答える白人の少年──イワンに、黒人の子供──トニーが声を被せる。
着崩した服装、ガムを噛みながらの応答に、ジルは誰にも判らないほど眉をひそめたが、
何かを言ったりはしなかった。
豚が醜いからといって腹を立てても意味のないことで、
肉さえ美味ならば手をかけて育てるのは当然のことだ。
この唾棄すべき黒人の子供は、ただその『力』にのみ存在意義があるに過ぎなかった。
「もうひとり、隠れていた女が写真を撮っていましたが、
その女のカメラは21の『力』で破壊しておきました」
イワンから報告を受けたジルは、『鍵』に恭しいまでの態度で話しかけた。
「ようこそ、我がローゼンクロイツ学院へ」
「ローゼン──クロイツ?」
葵はその名を聞いた覚えがあった。
確か、昨日のバザーを主催した学校が、その名前を持つはずだ。
会場には学院長のジルという男も来ていて、収益金を受け取っていたはずだ。
ならば目の前にいる男がそのジルなのだろうか。
善意の仮面の裏でこのような非道な行為をなし、自分と母親を裏切った男に、
葵は二重の衝撃を受けていた。
口を閉ざしてしまった葵に代わって、憤然とマリアが糾弾する。
「あなたたちッ! こんなコトをして、許されると思っているのッ!!」
「貴様……名は何という」
「私はマリア・アルカード。この娘の担任教師よ」
目隠しをされ、両手を括られて床に転がされていても、
マリアの威厳はいささかも損なわれることはなかった。
教師として葵を護り、大人として少女を庇うという気概にあふれている。
しかし悲しいかな、生徒達の英語の成績を押し上げる原動力となっている熱意も、
今の状況では空回りしてしまうだけだった。
ジルはマリアにそれ以上の関心を示さず、再び葵に語りかける。
「我々が用があるのは、ミサトアオイ──貴様の内に秘められた、強大な『力』だけだ」
「この娘をどうするつもりなのッ」
「どうもせんよ。ただ、我々選ばれた民の為、千年王国の礎となってもらうだけだ」
声を荒げるマリアに酷薄な笑みを浮かべたジルは、黒人の少年に命じた。
「死にゆく者にこれ以上話をしても時間の無駄だ。21、この女を始末しろ」
「OK」
相変わらずガムを噛みながら、21と呼ばれた少年は軽く頷いてみせた。
しかしすぐにジルは気が変わったのか、21を制止する。
「いや、待て──他の者にやらせよう。20──お前が殺せ」
「えッ……」
部屋の中にいたものの、誰からも存在を無視されていた少女は、
突然名前を呼ばれて哀れなほど身を震わせた。
彼女の腕の中にいる猫が、低く喉を鳴らす。
「聞こえなかったのか。お前が殺せと言ったのだ、20。
お前の火走りの能力を見せてみろ」
「マリィ……デキナイ……」
「この……出来損ないがッ!!」
拳を固めたジルは容赦無くそれを用いようとしたが、無機質な少女の声がそれを止めた。
「学院長様。この女性」
「どうした、17」
「この女性の発する原子核波動に分裂、不調和の波が見えます。
しばらく調査の対象物にされてはいかがでしょう」
一瞬、ジルは17が20を庇ったように感じ、不快に思ったが、
ようやく実用段階にまでこぎつけた貴重な番号つきを、
20はともかく、二人も失う訳にはいかない。
特に17は、有色人種であるのが惜しいほど自分に忠誠を尽くしている。
「……よかろう、この二人を収容施設に連れていけ」
そう命じたジルは全員が退出した部屋に一人残り、
壁に大きく掲げられた鉤十字に敬礼することで不愉快を晴らしたのだった。
一命を取り留めたマリアと葵は、石畳の部屋に移されていた。
部屋といっても灯りや一切の調度品はなく、扉は鉄格子製で、
このような一室があるだけでも、ローゼンクロイツ学院がまともな学校ではないと知れる。
「まるで牢獄ね」
マリアの呟きは、事実を正しく言い表していた。
冷たい床と薄暗い室内は健全な精神力を蝕んでいく。
目隠しと手錠が外されていたのがせめてもの救いだった。
教え子の様子を観察したマリアは、恐怖で顔が蒼ざめてはいるものの、
取り乱している様子はないのを確認した。
教え子の勁さに感嘆する彼女に、鉄格子の向こうを見つめていた葵が小声で呟いた。
「先生……ごめんなさい。私のせいで、先生をこんな目に遭わせてしまって」
マリアは思わず教え子の横顔を見据えていた。
本来なら教師が側にいながらこのような危険な目に遭わされてしまったことを責めてこそ当然なのだ。
それを彼女は、彼らの目的が彼女にあったとはいえ、年長の自分の方を気遣っている。
今まで接してきたどの人間にも、このような慈愛を持った者はいなかった。
だからマリアは、葵が本心から言っているのではない、と思ったのだ。
しかし彼女の瞳に嘘はなく、マリアは己を恥じる気持ちと、彼女への感動を胸の裡に抱いた。
「美里サン」
「は、はい」
「アナタのせいじゃないわ。
アナタが誘拐されなければならない理由なんて、どこにもありません。
だから、自分のせいだなんて言うのはお止めなさい」
「はい……すみません」
怒られた訳ではないがうなだれる葵に、マリアは励ますように微笑んでみせる。
硬質の笑いで応じた葵の表情が急に変化した。
「くしゅん」
確かにここは嫌な水気があり、空気も冷たい。
マリアは教え子の身体を優しく抱き寄せた。
「もっと……こっちにいらっしゃい」
ほんの少しだけ強張らせたが、葵はおとなしく身を預けてくる。
マリアは肩を包み、自らの温もりを彼女に分け与えてやった。
そして寒さだけが理由ではないだろう、全身を震わせている葵の髪を撫でてやりながら、
とにかく話すことが必要だと考え、静かに口を開く。
「彼ら……アナタの『力』のことを知っているようだったわね」
「はい」
葵の声が慄いている。
異能の『力』を持っているが故に狙われる──
それは普通の高校生にとってはとても受け入れられない事実に違いない。
ましてや彼女のような、心優しい性格では。
マリアは深い同情を瞳に湛えて彼女を抱きしめたが、
口にするのはどうしても彼女自身が抱く疑問になってしまう。
「ジルという男、一体何者なのかしら……それに、あの子供達の『力』。あれは──」
そこまで言ったマリアは、急いで口を閉じた。
誰かが近づいてくる足音が聞こえてきたのだ。
いざとなれば、彼女だけでも救わなければならない──
葵の肩を抱く手に力を込め、マリアは足音の主が姿を見せるのを待った。
足音はどうやら一人分のようで、それも軽さからいってあのジルという男や、
自分達を拉致した少年二人のものでもないようだ。
ならば、17と呼ばれていた少女か──
しかし予想は外れ、マリア達の前に現れたのは、20と呼ばれていた一番幼い少女だった。
ジルの部屋では目隠しをされていたマリアと葵が、彼女が20であると判ったのは、
彼女の腕に抱かれている小さな黒猫によってだった。
連れていかれた部屋の中で、低く、小さくはあったが場違いな猫の声を、二人とも聞いていたのだ。
そして、この少女が自分たちを殺すようジルに命じられた時、
「マリィ……デキナイ……」
と言ったことも。
鉄格子の前に立ったマリィは、辺りを窺いながら手を牢獄の中に差し出す。
開かれた掌の上には、小さなパンが乗っていた。
「Meals」
今更毒を盛る可能性もないだろうが、彼女はまぎれもなく学院長と呼ばれていた男の一味だ。
食べ物などと言われて受け取れる訳もなく、マリアは蒼氷色の瞳を険しく輝かせた。
しかし、あろうことか葵が立ちあがり、少女の許に近寄る。
制止しようとマリアが声を喉元まで出しかけると、その前に葵が少女の手からパンを受け取った。
「私達……に?」
「Yes」
葵ももちろん目の前の少女が自分を攫った一味の仲間だと言うことは解っている。
しかし、彼女はマリアを殺せという男の命令に従わず、結果的に救ってくれたのだ。
こんな、まだ年端もいかない少女だというのは驚きだったが、
自分を見つめる少女の、明るいグレーの瞳に敵意は感じられなかった。
どちらかというと、何かに怯えているような様子さえ窺える。
今はそばかすの浮いている、けれどきっと将来は美人になるだろう端整な顔は、
眉は曇り、瞳にも子供らしい輝きはなかった。
「あなた……日本語が判るの?」
少女の返事に、自分が日本語で話していたと気づいた葵は、表情を和らげて訊ねる。
少女はわずかに眉目を動かし、それがどうやら自分の顔を真似ようとしていると解って、
葵は更に微笑んだ。
ぎこちないながらも少女の顔に笑顔めいたものが浮かぶ。
「スコシ。コレ……食ベテ」
「ありがとう。あなた……名前は?」
「マリィ……マリィ・クレア」
「そう……素敵な名前ね。私は美里葵。ミ・サ・ト・ア・オ・イ。わかる?」
「ミサ……ト……ア……オイ……?」
「うふふ、そう。……あら、血が出てるわ。どうしたの?」
たどたどしい発音で名を呼ぶマリィの、額の端に小さな血の痕を見つけ、葵は眉をひそめた。
すると途端にマリィの表情も、元と同じものに戻ってしまう。
「ジル様ニ……叱ラレタ」
「そう……手当てしてあげるわ」
幼い少女にこのような仕打ちをするジルという男に新たな嫌悪を抱きつつ、
彼女の額に手をかざし、『力』を念じる。
柔らかな光にマリィは驚いたようだったが、すぐに目を閉じ、おとなしく治療を受け入れた。
「はい、これで大丈夫よ」
「アリ……ガト」
マリィは戸惑っているようだ。
それが『力』に対してなのか、それとも思わぬ親切を受けたからなのか、葵には解らない。
しかし、今は彼女をこれ以上怯えさせてはいけない、それだけを意識して葵は話しかけた。
「かわいい猫ちゃんね。この子の名前も教えてくれる?」
「メフィスト……マリィノトモダチ」
彼女の肩に乗り、人形のように身動きしない黒猫について訊くと、
初めてマリィは自分から嬉しそうに答えた。
猫はじっとこちらを見ている。
翠玉の瞳には少女と同じく敵意は感じられなかったが、
どうも観察されているような気がして、葵は妙な居心地の悪さを覚えた。
それを払拭すべく頭を振り、少女に微笑みかける。
「そう……ね、私もマリィの友達になってもいいかしら」
マリィは頷かない。
しかし、彼女の態度は拒絶しているのではなく、
戸惑っているように見えたので、葵は積極的に話しかけた。
「マリィは何歳? 十歳くらい?」
「……十六」
「……え?」
外人の子供は日本人から見ると年齢が判りにくい。
だがそれは一般的には発育が良いため実年齢より上に見えるのであって、
目の前の少女はまだ第二次性徴も表れていないようにしか見えなかった。
とっさに意味が呑みこめず、葵はニの句が継げなくなってしまう。
「イイ匂イ、スル……アノ時計ト同ジ」
「あの時計……って」
しかし、マリィは素早く立ちあがると、妖精のように身を翻して行ってしまった。
再び沈黙が訪れる。
食べ物を貰いはしたものの、それはマリィの善意に応えただけであって、
食べる気など全く起こらない葵は、無意識に奥の壁に背をつけて座った。
胸に、再び不安がせり上がってくる。
──助けて……
不安を堪える為に、葵は仲間達の姿を念じる。
その中には龍麻の姿もあった。
葵にとって彼は関わりたくない人物の一人である。
だが同時に、このような事態は見過ごさず、必ず助けに来てくれるという確信もあった。
救出された後のことはあえて考えないようにして、葵は念じ続けるのだった。
教室を抜け出した龍麻達は、
事件を目撃したアン子が手に入れた唯一の手掛かりである鷲の紋章について、
どんな些細なことでも載っていないかと新聞部の資料を漁っていた。
「あァッ、もうッ!!」
アン子が絶叫する。
情報収集、分析はジャーナリストを志望するなら必須の能力であったが、
これだけの手掛かりで膨大な資料を当たるとなると並大抵の苦労ではない。
アン子は醍醐や小蒔の数倍の早さで山と積まれた資料を片っ端からめくっていたが、
同じ紋章を見つけることはどうしてもできなかった。
「ないないない、小学校中学校高校大学短大公立私立総合学園専門学校、
どこにもないわッ!! 一体どういうことなのよッ!!」
「全国会社便覧……こっちにもないよ」
アン子が五冊ほど調べた頃、ようやく一冊だけ調べ終えた小蒔がぼやく。
醍醐も隣で同じような疲労を肩に浮かべ、龍麻だけが黙々と調べ続けていた。
否、龍麻だけではなかった。
最もこの手の作業が苦手であると思われる男も龍麻の横で山と積まれたファイルをめくっていたのだ。
「ねぇ……どうしたのかな、京一」
「うむ……朝食った飯が当たったのかもしれんな」
小蒔と醍醐が酷いことを言っても、反応すらしない。
いよいよこれは世紀末か、などと二人が悲観した時、京一がやにわに立ちあがった。
「あったッ!!」
「あったって……何が?」
間抜けなことを聞く小蒔を、京一はじろりと睨みおろした。
「何がじゃねェッ! こいつを見やがれ」
京一が指差した先にある記事を、小蒔は声に出して読んだ。
大田区文化会館で行われた世界孤児救済バザーは、盛況の内に幕を閉じ、
その収益金が財団法人の理事長、ジル・ローゼスさんに手渡された。
ジルさんは長年、孤児の育成と教育に携わり、自らも今春、
大田区内にローゼンクロイツ学院を創立。世界各国の恵まれない孤児達を引き取り、
熱心な教育と手厚い保護の元、日々救済に励んでおられる──記事にはそうあった。
そして記事に添えられた写真には、子供から目録を受け取る一人の初老の男が写っている。
規律よりも威圧を感じさせる、あまり良い印象を受けない制服の襟には、
まさに鷲を象ったバッジがあった。
「これ……!」
「そうよ、今日の新聞じゃないッ! あたしッたらなんで思い出さなかったのよ」
「お前、読んでたのかよ……だったらもう少し早く思い出しやがれ」
アン子が早く思い出していれば、肩の凝る作業をする必要もなく、
マリアと葵をより早く助けに行けたのだから、
皆がじっとりとした視線で睨んだのは仕方のないことだった。
「ま、まぁいいじゃない、見つかったんだから。それよりこれで行く場所は決まったでしょ」
「ああ、ローゼンクロイツ学院に行こう」
龍麻は勢い良く立ちあがる。
アン子を責めたところで意味がなかったし、犯人が判った以上、
一秒とて時間を浪費する気はなかった。
「気が早ェな──が、確かに怪しいな。行ってみようぜ」
「よォし、予備のカメラも持ったし、乗り込みましょうッ!」
部屋の片隅から二台目のカメラを取り出し、意気揚揚と立ちあがったアン子に、
目配せしあった四人は役割分担を決めて話しかけた。
「遠野。お前は残って美里とマリア先生のことを適当にごまかしておいてくれ」
「なッ、何よそれ」
「絶対に誘拐されたことを周りに知られんなよ」
「そうそう、そういうのは口が達者なアン子が適任だもんねッ」
記者の本質は真実に近づくことにあると信じているアン子は、
皆に口々に言われても引き下がらなかった。
「騙されないわよッ、またそうやってあたしを置いてくつもりなんでしょッ」
「頼む遠野、この件を警察沙汰にする訳にはいかねえ。
昼まででいいから、なんとかごまかしてくれないか」
龍麻が止めたのは、彼女の安全を慮ってのことだった。
相手は銃を持ち、誘拐のような荒事も平気で行う集団だ。
何の『力』も持たないアン子を連れていくのは、どれほど彼女が望んでもできない相談だった。
龍麻に負けないくらい強い光を眼鏡の奥の瞳に宿らせてアン子は抵抗していたが、遂に諦め、軽く俯いた。
「……もう、緋勇君にそんな顔されたらどうしようもないじゃない。
わかったわよ、こっちは上手くやっておくから。そのかわり」
「あぁ、マリア先生と美里は絶対助け出してくる」
力強く請け負った龍麻は、京一達と共にローゼンクロイツ学院へ急ぐべく部室を飛び出した。
可能な限りの早さで大田区へ移動した龍麻達は、
アン子が調べてくれた住所にある、灰色の塀に囲まれた建物を見つけていた。
「ここか……ローゼンクロイツ学院ってのは」
「学校……なんだよね一応。でも塀は高いし、無機質で、なんか嫌な感じだなぁ」
小蒔が塀を見上げて呟いた。
塀の上には鉄条網まであり、刑務所か収容所のようなたたずまいを見せている。
角から顔だけを出して正門を伺った京一は、仲間達に軽く首を振った。
「あぁ……警備員までいやがる。こりゃ簡単には中に入れなさそうだな」
「とりあえず塀を一周してみよう。他の入り口が見つかるかもしれない」
龍麻が口元に手を当て、少し考えてから言うと、醍醐が賛意を示した。
「そうだな……誘拐なんぞするような手合いだ、正面から入って通してくれるとも思えんな」
しかし、龍麻達が期待するような侵入口は、残念ながら見当たらなかった。
塀は三メートル近い高さがあり、更に鉄条網の為に、
乗り越えるのは不可能でないにしても困難だ。
やむを得ず、正門が見える位置まで戻ってきた龍麻達は、次の作戦を練ることにした。
「俺が壁を壊す。そうすりゃ警備員が出てくるだろうから、その隙に三人は中に入ってくれ」
「壁を壊すってお前、そんなコト出来るのかよ」
驚く京一に、龍麻は素っ気なく応じた。
「やったことはないが、『氣』を全開にすれば壊せると思う」
「全開ってお前、あの金色に光るヤツか? ありゃお前がぶっ倒れちまうじゃねェか」
龍麻が金色に光るのを二回、倒れるところも二回目撃している京一は、さすがに首を縦には振れなかった。
「お前がぶっ倒れたら救ける人間が三人になって二度手間じゃねェか」
「じゃあ他に方法があるのかよ」
押し殺してはいるものの、龍麻の語勢は強い。
作戦とすら言えないようなめちゃくちゃな策だったが、どうも龍麻は本気であるようだった。
「ねェけど落ち着けって」
本来京一は龍麻よりも短気で醍醐に抑えられる側だったのに、
最近は二人で龍麻を抑えなければならなくなっている。
とはいえ、理論や理屈などといったものは京一から縁遠いところに存在するもので、
それらをたぐり寄せるのも一筋縄ではいかない。
「あの警備員共をおびきだしゃいいんだろ? おい小蒔、お前ちょっと色仕掛けしてこい」
「なッ、なんでボクがそんなコト」
「ああクソッ、お前じゃダメだ、色気ゼロだからな」
一人で結論を出した京一の考えは龍麻以上に酷く、小蒔となぜか醍醐を憤慨させ、
龍麻を苛立たせるというマイナスの結果しか産まなかった。
四人全員が険悪な雰囲気になり、学院に侵入どころではない状況に陥りかける龍麻達に、
不意に背後から声がかかった。
「方法ならあるわ」
「誰だッ!」
学院の関係者に発見されたと思った龍麻は、鋭く誰何する。
しかし、そこにいたのは龍麻の良く知った女性だった。
「天野、さん……」
研ぎ澄ませていた氣が、一度に抜ける。
張り詰めていた心身も弛緩してしまい、
恨みがましく神出鬼没のルポライターを見る龍麻に代わって、京一が訊ねた。
「絵莉ちゃん……どうしてここに?」
「もちろん仕事よ。理想の福祉施設と名高いローゼンクロイツ学院の取材、ってね」
「え?」
「それと、その裏に潜む陰謀を暴くために……ね」
「陰謀って……やっぱここにはなんかあんのかよ」
絵莉は、同意というには大げさすぎる頷き方をした。
「何かどころか、この学院ほど叩いて埃が出る学校もないんじゃないかしら。
それはそうと、あなた達はどうしてここに? 何か、乗りこもうとしてたみたいだけど」
龍麻と京一が同時に言おうとして、同時に口を閉ざす。
それきり黙ってしまった二人に代わって、仕方なく小蒔が説明した。
「葵が……誘拐されたんです。
友達がそれを目撃して、そこに落ちてた校章がここのやつだったから」
「美里さんが?」
「はい。美里と一緒に、俺達の担任も」
「担任って──マリアが!?」
醍醐の補足を聞いた時の絵莉の反応は、只事ではなかった。
元より年齢よりも若い喜怒哀楽を見せる彼女だったが、
この時はほとんど小蒔と同じくらいの驚きようだった。
「絵莉ちゃん……マリアせんせー知ってんのかよ」
「えッ、ええ、まぁね」
友人──というよりも悪友に近い、
呑み仲間という関係を彼らに説明する気にはなれなかった絵莉は、
興味津々で自分を見る京一や小蒔の追求をかわさなければならなかった。
「それはいずれ機会があったら話すとして、そうね、そういうことなら協力するわ。
まずローゼンクロイツ学院についての情報を聞いてちょうだい」
「そんな時間は」
「ううん、絶対損にはならないから」
焦りと不満を斑に浮かべる龍麻を強引に説き伏せ、
絵莉はここに取材に来た動機となる、ローゼンクロイツ学院の裏の面について語り始めた。
「このローゼンクロイツ学院は孤児達を集めて英才教育を施し、
施設の面でも優れた評価を得ている学校なの。
でも、その実態はあまり知られていないわ。
わたしが入手した情報では、ドイツ人である学院長のジルは、
孤児を引き取り養育する福祉施設という仮面の裏で、
身寄りのない子供達を利用した人体実験を行っているらしいの」
「人体……実験?」
小蒔の顔が嫌悪に歪む。
「詳しくは解らないけど、脳の成長が最も活発な、
十代前半までの子供達の右脳を人為的に操作する──平たく言えば、超能力に関する実験が」
「超能力……って」
小蒔は半信半疑といった風に腕を組んだ。
自分達の『力』も超能力の一種だが、それを研究するというのは、
こんな力などなくても一向に構わない彼女にとって理解しがたいことなのだ。
しかし絵莉は、いたって真面目に話を続けた。
「人間の隠された能力を開発する研究は、昔から行われているわ。
時には、国家機関でさえもが関わって」
うそ寒そうに首をすくめる小蒔に、
絵莉は悪いと思いつつも更に彼女が嫌悪を抱かずにいられないであろう話題を出した。
「学院長のジルは、福祉財団の理事長であると共に、医科学の権威としての側面も持っているわ。
その辺りも取材で聞き出そうと思っていたんだけど、
ヨゼフ・メンゲレの再来でないことを祈るしかないわね」
「めんげれ……? 誰だそりゃ」
京一が頭の悪い発音で首を傾げたが、今回は京一だけでなく、誰もその名前を知らなかった。
これは彼らが不勉強なのではなく、普通の高校生は全く知る必要のない人名だからだった。
「ナチスドイツの時代、あのアウシュビッツ収容所で人体実験に興じ、
死の天使と恐れられた狂気の医師よ」
その名はかつて人類に恐怖と絶望を植え付けたナチスドイツの関係者の中でも、
最悪な部類に属するもののひとつだった。
自らの欲望のままに人体実験を繰り返し、多くの無辜の人間を殺した医師。
彼の悪名は忘れてはならない負の遺産として後世に伝えられている。
自分でナチスの名前を出したことで、絵莉はもうひとつ、
その忌まわしい組織と今龍麻達が乗りこもうとしている学校との関係に思い至った。
「そういえば、ここの校章を見たって言ってたわね。あれについては何か知ってる?」
「ただの鷲じゃないんですか」
「ええ、鷲を紋章に使うのは特にヨーロッパの方に多いんだけど、
その中には──ナチスもあるのよ」
龍麻達の顔に、不安が色濃く浮かぶ。
ナチスについて詳しい訳ではなくても、
その名が不吉なものだと言うことくらいは知っているのだ。
しかし、ナチスといえば、あの有名な紋章なのではないか。
その疑問を京一が口にした。
「ナチスって……あれじゃねェのかよ、まんじとかいう」
「よく誤解されているけど、それは向きが反対なのよ。
ナチスの使ったのは鉤十字、ハーケンクロイツと呼ばれるものね。
でも、あまりにも鉤十字のインパクトが強いから目立たないけれど、
ナチスは鷲の紋章も良く使用していたわ」
子供を人体実験の材料にする、ナチスの亡霊──
それは最悪の組み合わせだった。
そして、そのような組織に囚われてしまった葵の運命は。
「超能力の研究……ということは、美里を攫ったのも俺達の『力』を知っての可能性が高くなったな」
「それじゃ──葵も実験に使われちゃうの?」
醍醐の低い声に答える小蒔に、普段の生気は全くない。
親友が実験材料にされるなど、想像することさえ耐えられるものではなかった。
龍麻もそれは同じで、爪が食い込むほど拳を握り締め、恐怖と怒りに身をわななかせる。
「急いだ方がいいわね」
険しい表情で頷いた絵莉は、彼らを学院内に入れるべく手早く作戦を立てた。
「方法は──そうね、わたしは取材許可を取ってきたから、
一応、ここへの来訪を許可されているわ。
だからあなた達は、ジャーナリスト志望の学生ってことにして、
今日は一日見習いとして一緒に中に入る。これでどうかしら」
「そうだな……そっちの方が良さそうだ。いいだろ、緋勇」
「……一つ問題がある。桜井は美里と同じ制服を着てるだろう。気づかれるんじゃないのか」
学園内に入ってからならともかく、入る前に気取られてしまっては意味がない。
強行突破を提案した男にしては慎重なことを口にしたが、絵莉は意に介さなかった。
「守衛さえパスしてしまえば、後はあなた達、どの道暴れるつもりなんでしょう?
醍醐君の後ろに隠れてれば大丈夫よ」
龍麻のそれと較べても劣らない大雑把な作戦に、醍醐と京一は思わず顔を見合わせた。
「マジかよ……絵莉ちゃんって意外といい加減なんだな」
「ふふッ、経験よ、経験。それじゃ、正門を抜けたら自由行動ってことでいいわね」
「でも、後で天野サンに迷惑がかかっちゃわない?」
もっともな小蒔の心配を、絵莉は一笑に付した。
「気にしなくていいわ。マリアはわたしの友人でもあるし、
ローゼンクロイツ学院は相当胡散臭い所みたいだから、
わたしのことなんて気にしないで好きにやっていいわよ」
そう言いきった絵莉は、龍麻達を従え、堂々と正門に向かって歩き出した。
彼女に気付いた警備員が、警戒を隠そうともせず身構える。
「こんにちは。学院長に面会をお願いしました、ルポライターの天野ですけど」
「身分証を」
愛想良く話しかけた絵莉にも警備員の態度は変わらず、
いかにも後ろ暗い場所を警備しているという印象を龍麻達に与えた。
絵莉が差し出した身分証を、警備員は嫌味なほど念入りに確かめてから返す。
「確かに。学院長は本日急用で外出しているので、替わりの者が話を伺うことになっている」
「わかりました」
早速中に入ろうとする絵莉だったが、さすがに警備員は見逃さなかった。
良く訓練された動きで絵莉達の進路に立ちはだかる。
「待ちなさい。その学生達はなんだ」
「あぁ、この子達はわたしの母校の後輩達で、ジャーナリストの卵なんです。
今日はわたしの助手として一緒に連れてきました」
「そんな話は聞いていない」
「はい、いつも頼んでいるカメラマンと助手が風邪で寝込んでしまって」
尋問のような口調の警備員にも、絵莉は動じることなく嘘を並べ立てる。
さすがにフリーのルポライターとして経歴を積んでいるだけあってか、
このようなことはお手の物であるらしかった。
「学院長は、今回の取材を学院の宣伝の一環だと仰っていました。
いい記事を書きますから、許可願えないでしょうか」
「しかし……」
なお渋る警備員に、絵莉は幾度か使い、効果のある戦法を使った。
「なんでしたら、わたしの方から学院長にお話してもいいのですけど」
最上位者に名前を知らされて喜ぶ組織の人間はあまりいない。
それが苦情や疑問めいたものなら尚更で、出世や勤務評定に関わることは極力避けたいのだ。
絵莉の読みは的中し、鉄面皮だった警備員の顔に微かな狼狽が生まれた。
「そんな事で学院長の手を煩わせる必要もない、止むを得んな、立ち入りを許可する。
ただし指定された場所以外に入らないこと、大きな声を出して騒がないこと。
以上は厳しく守らせるように。わかったな」
「ありがとうございます。皆、行くわよ」
明るい声を出して助手達を促した絵莉は、
こうしてまんまと龍麻達を潜入させることに成功したのだった。
無言のまま人気のない──敷地内はほぼどこも人の気配などなかったが──
場所まで来てから、絵莉はようやく息を吐き出す。
場数は踏んでいても緊張することに変わりはないのだ。
「ふぅ……上手くいったみたいね」
「ボク、ドキドキしたよ」
小声で興奮を語る小蒔に愛嬌のあるウィンクをしてみせた絵莉は、表情を改めて龍麻を見た。
「それじゃ、わたしは話を聞いてから怪しいところを探ってみるわ。あなた達も」
「はい……必ず二人を助け出します」
「お願いね」
龍麻の肩を叩き、絵莉は取材をするべく彼らと別れる。
この学院の実態を探る必要はあったし、
取材をすることでいくらかでも龍麻達への注意を逸らすことができるのだ。
友人の無事と救出を祈りつつ、絵莉は自分の役割を果たすため、伏魔殿へと入っていった。
絵莉と別れた四人も、足音を殺して建物の奥へと進む。
灰色の廊下に暗めの照明、そして小さく、数の少ない窓は、どうにも陰鬱な気分に彼らをさせた。
「なんか……とても子供達を養育する場所には思えないね」
小蒔の感想に、京一が辺りを見回して答える。
「ああ……冷たくて、嫌な感じだな。にしても結構でけェ建物だな……どっから探すよ、緋勇」
「そうだな、表向きは学校なんだから、そんな場所に拐った人間を隠したり、
実験なんかしないだろう。何かあるなら地下か奥だな」
「違えねェ……よし、先に一番奥まで行っちまおうぜ」
初めは見つからないよう慎重に進んでいた龍麻達が、
どうやらその必要はないようだと気づいたのは、ほとんど最奥部まで来てからだった。
「人っ子一人いないね」
「あぁ……病院だってもうちょっと人の気配はすると思うが」
教室の入り口らしい扉はいくつかあったものの、どれも覗き窓ひとつない重い扉で、
部屋の中の声など一切聞こえてこない。
天井の、かろうじて点いている照明がなければ、廃墟かと思ってしまうほどだった。
だから建物の一番奥のくらがりにひっそりとあった階段の前に、
鮮やかな赤い服を着た少女が立っているのにも全く気づかず、
彼女が振り向いた時にはもう隠れようがなかった。
「やべェ、見つかっちまったか」
慌てる京一を制し、龍麻は少女に近づいていく。
ここまで来たら、もう遠回りはできなかった。
「こんにちは」
「……アナタタチ、ダレ」
「俺達はこの学校を取材に来たんだ」
「シュザイ……?」
そうなった時には容赦なく昏倒させるしかないとしても、
大声で人を呼ばれさえしなければ、龍麻は彼女に危害を加えるつもりはなかった。
少女に日本語は通じるようであるが、難しい言葉は解らないようだ。
まだ十歳程度にしか見えない少女に、龍麻は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ああ。ここはとてもいい学校だって聞いているから、それを教えてもらおうと思って来たんだ」
努めて穏やかに話しかける龍麻の、少女は忍耐力を試すように小首を傾げるだけで何も言わない。
その時、後ろで彼女を見ていた小蒔から驚きの声が上がった。
「ね、緋勇クン。このコが持ってる腕時計……葵のだよ」
「本当か?」
「うん、間違いないよ。葵、入学祝いにお父さんから貰ったって嬉しそうに見せてくれたもん」
何故この少女が葵の時計を──努力も水泡に帰し、龍麻の口の端がゆっくりと曲がり始める。
しかし、葵という言葉に反応したのは龍麻だけではなかった。
「アナタタチ……アオイヲ知ッテルノ?」
この少女は、何かを知っている。
情報を引き出すため、龍麻は苛立ちを抑え、辛抱強く頷いた。
「美里は俺達の友達なんだ」
「トモ……ダチ?」
反応の鈍い少女に痺れを切らしたのは、龍麻より小蒔の方が先だった。
「ねぇッ、葵の居場所知ってるの? 知ってるんだったらお願い、教えてよッ」
「ドウシテ? ドウシテ、アオイヲ捜スノ?」
少女の問いに、小蒔は声を詰まらせてしまう。
それほど人間味のない、そして小蒔にとっては考える必要さえない問いかけだった。
「どうしてって……そんなの当たり前じゃない。
葵はボクの……ボク達の、大切な仲間なんだから」
「ナカ……マ?」
仲間という言葉に対する少女の反応は異常だった。
「仲間ハ、大切ジャナイヨ。ダッテ、新シイ仲間ハイクラデモ作レルモノ。
データサエアレバ、イクラデモ増ヤセル」
少女の日本語は片言で聞き取りにくかったが、
例え完全に発音されたとしても龍麻達は意味を理解することができなかっただろう。
京一がこんなガキ放っといて先に行こう、と目で促す。
それを無視して小蒔は膝をつき、少女の両肩を掴んで語りかけた。
「増やせる……って、何言ってるの? 葵は人間なんだよ。
ううん、人間だけじゃない、キミのそのネコだって、死んじゃったら増やせないんだよ」
「メフィストガ……死ヌ?」
身近な例えを出されて、少女は小蒔の言うことを理解したようだった。
腕に抱いた猫を見下ろし、眉を曇らせる。
「そう、生きているものは死んじゃったらもう帰ってこない。
メフィストがいなくなっちゃったら、悲しいでしょ?」
「カナシイ……ワカラナイ」
「お願い、葵の居場所を知ってるんだったら……教えて」
困惑したように頭を振る少女に、小蒔は懇願する。
すると想いが通じたのか、少女は指を下方に向けた。
「ソコノ階段ヲ……降リタトコロ。
デモ、ジル様ガ入ッチャ駄目ダッテイッテタ。実験スルカラッテ」
「──ッ!!」
最悪の想像に背中を鷲掴みにされた龍麻達は、
もう少女のことなど省みず、階段を争うように降りていった。
ただ一人この場に残された少女は、彼らが降りていった先をじっと見つめていた。
ジル様ハ入ッチャ駄目ダト言ッタ。
アオイ──メフィストト同ジ、トモダチ。
ジル様ハメフィストヲ殺セト言ッタ。
マリィノトモダチヲ助ケニ来タ、アオイノトモダチ。
アオイガ死ンデシマウト、アオイノトモダチハ言ッタ。
幾つもの考えが、幼い少女の頭の中を巡る。
どうすれば良いのか──今まで命令されるだけで、自分の考えで行動したことも、
またその自由も与えられなかった少女は、今、初めて自分の行動を、
自分自身で決めようとしていた。
考えることに慣れていない少女には、それはとても難しいことだった。
ジルの意に従うか、反するか。
トモダチを助けに行くか、見捨てるか。
たった二つの選択肢を、いつまでも選ぶことができず、マリィは、
考えるのを止めて、部屋に戻ってしまおうかと思いはじめる。
そうすれば、昨日までと変わらない日常だけは確保されるから──
そう思い、踵を返そうとしたマリィの腕の中で、メフィストが鳴き声をあげた。
「メフィスト……?」
まだトモダチになって数日とはたっていない黒猫は、低いうなり声を発している。
メフィストが自分の決断に異を唱えているのだとマリィが理解したのは、
腕に立てられた小さな爪の痛さによってだった。
「メフィストモ、アオイヲ助ケタイノ……?」
腕を引っかかれた拍子に離してしまったメフィストは、
マリィの問いに答えることなく、マリィとは反対方向に歩きだす。
軽やかに階段を下りていくメフィストに、マリィは見捨てられたような気がして心が竦んだ。
トモダチガ、イナクナル──
それはジルに怒られて鞭で打たれるよりも、罰として食事を抜かれるよりも、
もっとずっと辛いことだった。
「待ッテ、メフィ」
それを小さな友人に教えられたマリィは、黒猫の後を追う。
「ニャア」
踊り場を曲がったところで待っていたメフィストは、遅れてきた友人に一声鳴くと、再び腕の中へと戻った。
「ウン……行コウ、メフィ」
トモダチを離さないよう、しっかりと抱いたマリィは、
彼女にとって二人目の友人を助けるため、暗い地下室へと下りていった。
龍麻達が向かった地下の研究室では、今まさに実験が行われようとするところだった。
巨大なコンピュータが幾つも並び、その隙間に白衣を着た人間が何人かいる。
部屋全体は薄暗く、最小限度の照明が不気味に灯っているだけであったが、
その最奥部だけが不思議なほど明るかった。
床から天井まで、三メートルほどもある巨大なシリンダーが貫いており、
中に満たされた薄緑色の液体が、幻想的ともいえる輝きを放っていたのだ。
全部で五本あるシリンダーは三本が空であったが、
その内の一本には何か得体の知れぬ生き物が蠢いており、
そして、最後の一本には──裸の女性が入れられていた。
白い肌が薄緑色の液体に包まれ、筒の中に浮かんでいる姿は、女神像のような美しさであった。
彼女の前に、一人の男が立っている。
制服を着、直立不動で立つ男の瞳には、女神を崇拝する神官のような陶酔が浮かんでいた。
均整の取れた裸身を眺めながら、男は機械に向き合っている部下に尋ねた。
「様子はどうだ」
「はッ、ジル様。サイ粒子抽出機をテレモニターに接続。被験者の念波動を原子結晶化し、
抽出、培養、増幅。その後、粒子断面及び検出数値がモニター化されます」
「よし、続けろ」
男はローゼンクロイツ学院長、ジル・ローゼスであった。
己の邪な野望の為に攫ってきた葵を、
その『力』の秘密を探るべく実験にかけようとしていたのだ。
「フフフ……ミサトアオイか、素晴らしい、この『力』。実験せずともワシには解る。
こやつこそ、ワシが探していた『鍵』だ。よもやこんな島国で出会おうとはの」
完璧な素体を前にして、思わずジルは感嘆を漏らした。
目の前の女は、これまでに実験してきた二百人の素体などとは比べ物にならぬ素質を有している。
この女が長い間世界中を捜し歩いて求めてきた『鍵』であることは、疑いなかった。
「この『力』を解明すれば、我が帝国は更なる進化を遂げる。
シロウとやらはしくじったが、下等民族にはどの道必要のないものよ。
我ら優良種たるアーリア民族こそが大いなる『力』を手にするに相応しい」
「ジル様、ご覧くださいッ。超能力レベルが最高値に達しています。
このままではメーターが振りきれますッ!」
「構わん、続けろ。……素晴らしい、まことに素晴らしい。
この『力』──第三帝国復活の大いなる一歩となるであろうぞ」
ジルの声が興奮にうわずる。
訪れる第三帝国、そしてその指導者として君臨する自分を思い、
法悦の境地に浸っていると、研究室内に非常警報音が響き渡った。
「何事だッ!」
「侵入者です……男三名、女一名。こちらへ到着するまであと八秒……七……」
警備員が報告するより前に、ジルの傍らにいる盲目の少女が告げる。
彼女は常人にはない超感覚的な視力を有しており、
四人の男女が全速力でこちらに向かっているのを、どんなカメラよりも正確に捉えていた。
「何ということだ、神聖なる実験の最中に。……ここから生きて出られると思うな」
歯軋りしたジルは、実験を一時中断して、いまいましい侵入者を抹殺すべく指示を下し始めた。
ものものしい扉を見つけた龍麻は、一気に踏み込んだ。
すでに氣は練ってあり、この扉の向こうに誰が居ようと、容赦なく打ち倒す覚悟も決めている。
いかにも秘密めいた扉の向こうで龍麻を待っていたのは、
罠でも、不意打ちでもなく、よりおぞましいものだった。
遥か向こうの空間で、葵が、一糸まとわぬ姿で細長い容器に入れられていたのだ。
薄緑色の液体が満たされた筒に閉じ込められた彼女は、
数ヶ月前に死蝋という男の研究室で見た、忌まわしい実験の結果である生物を思いださせた。
「美里ッ!!」
胸糞の悪い想像に、龍麻の氣が爆発的に膨れる。
仲間達が物理的な圧力を感じたほど、それはこれまでの闘いのどれよりも膨大な氣だった。
膨大で、そして危険な陰氣。
闖入者に唖然とする白衣の男達を無視して、龍麻は一気に葵が収められたシリンダーの前に立つ
男の元へと走った。
その速度は仲間達をも置き去りにしている。
「ちッ……どの道ここまで来たらやるしかねェんだ、行くぜ、醍醐、小蒔ッ!!」
極めて狂暴な存在と化した龍麻に舌打ちした京一は、
周りが見えなくなっている彼を援護すべく後を追った。
醍醐と小蒔もすぐに続く。
邪魔な研究員を突き飛ばし、一直線に葵の許に向かっていた龍麻は、
彼女の前に立つ老人を視界に捉えた。
彼こそが葵を攫った犯人であるジル・ローゼスだと直感し、激怒を燃えあがらせて肉迫する。
しかし、あと数歩で間合いに入るという距離で、突然不可視の壁が立ちはだかった。
何が起こったか判らないまま弾き飛ばされた龍麻は再び突進する。
だが一切手加減なしの体当たりでも、壁を打ち破ることはできなかった。
再び吹き飛ばされる龍麻を、追いついた京一が起こす。
「何だこりゃ……これも『力』なのか?」
龍麻は答えず、無言でジルを睨みつける。
侵入者が17の築いた壁に空しく体当たりするのを、
微動だにせず見ていたジルは、嘲った笑みを浮かべた。
「フフフ……ここまで辿りついたのは褒めてやるが、所詮はその程度か」
「学院長様。この人間達にもアオイと同じ『力』が視えます」
「なるほど……17の予知に表れたのはこやつらか。
いいだろう、こやつらも実験材料にしてくれる。
19、21、やれッ、殺して構わんッ!!」
17の報告に得心して頷いたジルは、彼の忠実な兵士達に命令を下した。
「了解しました」
「ケケッ、オモシレエ。グチャグチャニ潰シテヤル」
二人の子供がジルの前に進み出る。
京一は彼らに奇妙な氣を感じたが、口ではこう言って挑発した。
「けッ、こんなガキ共で俺達の相手が務まるワケがねェだろうが」
「ここにいるのはワシが創り上げた革命の為の兵士達だ。
お前等如き、軽く屠ってくれるわ」
京一に人が持ちうる限りの悪意を凝縮した笑みを向けたジルは、拳を振り上げ、演説を始める。
それは彼が崇拝してやまない、総統アドルフ・ヒトラーの動きを寸分違わず模したものだった。
「ワシは大地を流れる大いなる『力』を長い間研究してきた。
そして創りあげた──『力』を授かるに相応しい人間を。
貴様等は特別な人間ではない。単に神が気まぐれを起こしたに過ぎぬのだ。
貴様等に『力』を使うだけの資格があると思っているのか? 下等民族の貴様等に」
傲然と言い放ったジルは、彼らの後ろにいる小さな人影に気付いた。
「20め……どこに行っておった」
ジルの声に、龍麻達は先ほど階段の前にいた少女がいつのまにかいることに気づいた。
明るいグレーの瞳は、数分前とはまるで異なる光にあふれている。
彼女と目の前の初老の男との関係は判らなかったが、
少女の目に浮かんでいたものは、自分達と同じ輝き、葵を助けたいと想う意思だった。
「何だその瞳は……よもや貴様、こやつらを手引きしたのではあるまいな」
「……」
「調整が足らなかったようだな。こやつらを始末したら、もう一度レベル2からやり直さねば」
吐き捨てたジルの目には、既に20は物としか映っていない。
大人が、子供に対して決して向けてはならない視線だった。
二人のやり取りを見ていた龍麻の心に、男に対する更なる怒りが加わる。
拳を衝き動かさんとするそれを制御し、龍麻はいつでも飛びかかれるよう身構えた。
男の前に立つ二人の子供もそれに呼応して構えるが、男は演説を続ける。
「崇高な力を持つワシの兵士、お前達は選ばれた民なのだ。
成長して汚れることもなく、いつまでも美しく輝く帝国の民。
永遠に純粋な残酷さを持ち続ける至高の子供達。
それなのに貴様は、汚らわしく俗な、甘い感情を捨てきれぬ。どうしようもない失敗作よ」
小さな身体を蝕む言葉の猛毒にも、マリィは唇を噛んで良く耐えていたが、
遂に決然とジルを、育ての親を睨みつけた。
「アオイ……マリィノコト、トモダチッテイッテクレタ。
アオイガ死ンジャッタラ、マリィ、悲シイ……ダカラ、アオイハマリィが護ルッ!!」
「貴様──その『力』の故に親に捨てられ、
のたれ死ぬしかなかった貴様を拾ってやった恩も忘れおってッ!!
貴様等兵器がこの学院から出て生きていけるとでも思っているのかッ!!」
「ワタシハ兵器ジャナイッ!!」
叫び声と共に、龍麻達の傍らを熱風が通りすぎた。
驚いた彼らがとっさに顔を庇うと、紅蓮の焔が龍麻の前方の空間に燃えあがる。
息苦しくなるほどの気流が消え去った時、龍麻の突進を阻んだ超物理的な壁は焼失していた。
17が生み出した壁が破られたことにジルは驚きの表情を見せたが、
すぐにより凄まじい侮蔑を取って代わらせる。
それは人の物とは思えない、悪鬼の顔だった。
「フン……『力』があればこそ使ってやってきたが、やはり失敗作は失敗作か。
19、21ッ! 20も始末しろ」
ジルの命令に応じてイワンとトニーが龍麻達の前に立ちはだかる。
龍麻達もそれぞれ武器を構えて彼らと対峙した。
先に仕掛けてきたのは21と呼ばれたトニーの方だった。
怒りで膨れ上がった膨大な氣をまだ纏めきれていない龍麻に向けて、悪意の波動を発する。
とっさに交差させて顔を庇う龍麻の腕に、強烈な圧力が加わった。
「く……ッ」
「龍麻ッ!」
龍麻の周辺に生じた異様な力場を見て、京一が跳ぶ。
下品な笑いを浮かべるトニーを叩き伏せようと木刀を振りかざすと、
横合いからいきなり打撃を受けた。
不意を衝かれ、たまらずもんどりうって倒れる。
「野郎……ッ」
起き上がった京一は矛先を変え、自分に一撃を与えたイワンを倒そうとしたが、
イワンの方が素早かった。
滑るように近づいてきたイワンは、筋肉の動きを無視したかのように連打をしてくる。
懐に潜りこまれては木刀の間合いを取れず、京一は防戦一方に追い込まれてしまった。
「京一ッ」
押されている京一など久しぶりに見た醍醐は、龍麻と京一のどちらを先に救うか迷う。
その彼の前に立ちはだかったのは、ジル・ローゼス本人だった。
「下等民族が」
ジルもまたイワンと同じく、圧倒的な疾さで醍醐を襲う。
総番の座こそ譲ったものの、その実力は決して龍麻に劣らない醍醐だったが、
ジルの打撃は空手の有段者に引けを取らないものだった。
「ぐ、お……ッ」
手数の多い攻撃を、遂に躱しきれずもらってしまう。
続けざまに二発目を受け、巨漢の膝が地に着いた。
「醍醐クンッ!!」
小蒔が叫ぶ。
この狭い場所では弓は味方に当たる恐れがあり、射ることはできない。
それでも、仲間達への想いに身を灼かれた小蒔は、無謀にも無手でジルに挑もうとした。
「来るなッ!!」
近づこうとする彼女の気配を察知し、醍醐は押し留める。
大切なものを護ることの出来ない『力』に、何の意味がある──
自分への怒りが、全身に満ちる。
下腹、胴体の一番下に溜まったその怒りは脊髄から頭頂へと抜け、
身体に収まりきらないほどの活力と、それに伴う圧倒的な快感、
そして敵を斃せという本能が心を支配していく。
「む……?」
止めの一撃を見舞おうとしたジルは、
醍醐の身体から異様な氣が発せられているのを感じ、攻撃の手を止めた。
目の前の男から発生しているのは、
彼がこれまで生み出した兵器のどれよりも強力な『力』だった。
この『力』は、手に入れねば──
既に勝利を確信しているジルは、殺すのではなく、気絶させるに留めようと拳を固める。
その時、ジルとほとんど同時に醍醐の異変に気づいた小蒔が叫んだ。
「醍醐クンッ、それはダメだよッ!!」
佐久間を斃した『力』。
その時の獣と化した醍醐を見ている小蒔は、後に訪れた彼の自己喪失の危機を思いだし、
あの悪夢だけは繰り返してはならないと、必死に止めようとした。
しかし、醍醐から放たれる氣は乳白色の輝きを、
今や一回り彼の身体を大きく見せるほど放っている。
また……また、醍醐クンが──
悲痛な表情を浮かべ、変貌を遂げるのを見守るしかない小蒔の前で、醍醐が動いた。
低い姿勢から体当たりを放ち、ジルを吹き飛ばす。
物凄い勢いで吹き飛んだジルを見て、小蒔は覚悟した。
みんな──ジルだけじゃない、ボク達も、醍醐クンに──
「何をしている、桜井ッ! 下がっていろッ!!」
「え?」
自分が怒られていることも気づかず、小蒔は訊ねた。
醍醐の声はいつもと変わらないものだったからだ。
「醍醐クン……なんともないの?」
「当たり前だ、俺はもう……陰の力には囚われん」
穏やかに、しかし確乎たる決意を秘めて醍醐は言い、再び立ちあがったジルに突進する。
その後ろ姿は、小蒔にはとても大きく見えた。
守勢に立たされた京一を、イワンの正確無比な拳が狙う。
全く無表情に、そして鋭い動作から生み出される打撃は、
これまで京一が受けたことのない、訓練された格闘術であり、
場数を踏んでいる彼でさえ受けきることはできなかった。
「く……ッ」
なんとか隙を見出し、反撃に転じようとするのだが、木刀を構える暇もない。
一方的に攻められて苛立つ京一の腹に、重い一撃がめり込んだ。
「がはッ」
落ちた頭に、止めの一打が飛来する。
本能でイワンに体当たりして痛打から逃れた京一は、遂に木刀を捨てた。
「調子に乗りやがって……」
血の混じった唾を吐いた京一に、
さほどのダメージも受けていないイワンが再び殴りかかってくる。
手本のように美しい軌道を描いて顔を狙う拳に、京一は蔦のように腕を絡ませた。
「……ッ」
鮮やかにクロスカウンターを決められ、イワンが初めて呻いた。
自分が攻撃を受けたのが信じられないように頭を振り、果敢に挑んでくる。
しかし、彼の攻撃は、もう京一にとって脅威ではなかった。
「……!!」
一打を受けたとはいえ、まだそのスピードは全く減じていないイワンの攻撃を、
京一は避け、受け流し、撃ち返す。
イワンの攻撃の全てを読みきり、拳を交わすそれは、ほとんど演武のような光景だった。
連打を浴びて足にきたところを、こめかみに狙い澄まされた一発を受け、
イワンの身体は機械に叩きつけられる。
しばらくは身動きもできないようだったが、
ジルの命令は本能よりも強いのか、敵を倒そうと立ちあがってきた。
「お前の攻撃はパターン過ぎるんだよ」
握り締める京一の拳が淡く輝いている。
それは、さながらボクシングのグローブのようだった。
「確かに疾くて重ぇから大概のヤツは倒せるんだろうが……ま、世の中は広いってこった」
諭すように京一は言ったが、イワンの耳には届いていなかった。
目だけを殺意にぎらつかせ、拳を放つ。
既に躱さなくても平気なくらい遅いそれを受け止めた京一は、
そのままイワンの腕を引き、彼の身体を引き寄せると、最後の一撃を腹に撃ちこんだ。
「う……ッ」
氣を込めた強打を受け、イワンは悶絶する。
よりかかってきた彼の身体を、京一は振り払わずその場に静かに寝かせてやると、
龍麻達を助けるため木刀を拾った。
骨が軋み、肉が縮む嫌な音が、龍麻の聴覚を激しく弄る。
「ケケケッ、潰レヤガレ」
トニーは蟻を踏み潰すかのような無邪気さで龍麻に『力』を加える。
その圧力は留まるところを知らず、龍麻の全身は外側から圧されて悲鳴を上げた。
「く、そ……ッ」
身体が収縮していくように感じる。
手足を動かそうとしても、強力なバネに抑えつけられたように微動だにしない。
大気の数倍の圧力を受け、龍麻の意識は朦朧とし始めた。
「死ネッ……!」
龍麻の抵抗が弱まったと見るや、トニーはさらに圧を強める。
物も、人も、彼の手にかかって潰せないものはない。
特に生物が爆ぜる時の感触に残虐な悦びを覚える彼は、いよいよ龍麻を握りつぶそうと、
前方にかざした手をゆっくりと絞っていった。
その手が完全に握られた時、彼の前には何も残らないのだ。
トニーの指が曲がり、指先が掌に近づく。
あと数秒もすれば圧殺が完了する。
龍麻の最後の抵抗すら愉悦とするトニーの幼い顔は、狂気に彩られていた。
その、陰影を増すチョコレート色の肌が、突然白く輝く。
驚いたトニーは集中を解いてしまい、あとわずかのところで獲物を逃してしまった。
窮地を脱した龍麻も、何が起こったのかとっさには判らず、呼吸を整えながら状況を確かめる。
左右で戦う京一と醍醐の他、後方から彼らを援護する小蒔の傍らに、
先程廊下で会った少女と目が合った。
まさか、彼女が助けてくれたのかと思う間もなく、背中に再び異常な圧力を感じる。
慌てて飛び退ると、トニーが憤怒の形相で再び龍麻に掌を向けていた。
接近して攻撃しようとした龍麻だが、トニーが展開する圧力空間は、
攻撃と同時にそこを通り抜けるもの一切を阻む強力な防御にもなる。
空間すら歪ませて見せるトニーの超能力の前では、
猪すら退けるであろう龍麻の突進も著しく減じられてしまい、ついには一歩も進めなくなった。
だが、トニーの邪悪な笑みも一瞬で霧消する。
彼の顔の前の何もない空間に突如として炎の球が発生し、彼を焼こうとしたのだ。
「Shit!」
トニーは集中を解いてしまい、龍麻を襲っていた圧力の場も消失する。
悪態をつきながらもう一度龍麻を潰そうとするトニーだったが、
三度目の機会は与えられなかった。
一気に間合いを詰める龍麻に、トニーはとっさに頭をかばってしゃがもうとする。
唯一の子供らしい仕種は、だが完了することはなく、腹に感じた激痛が、彼の最後の意識だった。
肉体的には九歳の子供に過ぎないトニーの身体は、
龍麻の氣を乗せた打撃に耐えることなど到底無理だった。
ジルに薬物を投与され、生きるには全く必要のない『力』を与えられた挙句、
攻撃衝動だけを肥大化させられた哀れな子供は、口の端から薄く血を流して倒れた。
動かなくなったトニーに極小の時間哀れみの目を向けた龍麻は、醍醐の加勢に回る。
トニーの攻撃を受けている間も、龍麻は彼の氣が爆発的に増えたのを感じていたが、
まだ二人の勝負に決着はついていなかった。
白虎の『力』を覚醒させても、なおジルの力が上回っていると言う訳ではない。
むしろ手数は醍醐が勝り、その中の何発かには致命的な打撃も入っている。
にも関わらず、ジルは打撃が当たった瞬間こそ苦悶の表情を浮かべるものの、
その動きが鈍ることはなく、すぐに体勢を立て直して反撃を与えてくるのだ。
それは龍麻が援護に加わってさえ変わらず、二人を相手取ってもなおジルは倒れなかった。
幾度目かの攻防を終え、三人は束の間対峙する。
激しい応酬にも関わらず三人とも息を全く切らしておらず、
もし観客がいれば、映画かゲームのような非現実的な感覚を抱いたであろう。
「ククク……素晴らしいな、その『力』。是非とも研究材料にしてくれるわ」
「……どうなってやがる」
思わず悪態をつく龍麻の隣で、醍醐はジルを睨んでいる。
すると彼の制服の内側、右の胸の辺りが、ほのかに光っているのに気づいた。
それは鼓動のように明滅しながら、ジルの回復に合わせて光を弱めていく。
何かが、醍醐の脳裏に閃いた。
「どうした、もう終わりか」
ジルの挑発に乗せられた龍麻が飛び出す。
それに加わらず機を測っていた醍醐は、ジルが龍麻との攻防に気が逸れたのを見逃さず動いた。
龍麻の拳を半身で躱し、正面に無防備な姿を晒したジルの、
奇妙な輝きがあった部位に、必殺の手刀を見舞う。
手刀と言っても、彼の丸太のような腕から繰り出されるそれは、
まともに命中すれば胸骨にひびくらいは入るかもしれないものだ。
その重い打撃がジルに命中した時、彼の身体から異様な音が聞こえてきた。
生物が発する音ではなく、何かの金属音だ。
それを聞いたジルの顔から余裕が失せた。
「クッ……貴様、聖杯を……ッ」
龍麻達にはなんのことだか解らなかったが、ジルの動揺からすると、
よほど影響のあるものらしかった。
ちらりと視線を交わした龍麻と醍醐は、同時にジルの懐に飛びこんだ。
二人の突撃をすんでのところで躱したジルは、
この場での勝利は諦めなければならないと悟っていた。
様々な奇蹟を生み出し、ヒトラーが捜し求めたと言われている聖杯。
ジルはそれを模して、超常的な力を封じこめた聖杯を作らせ、所持しており、
龍麻達に幾度も攻撃を受けてもたちまち回復するのは、これの効力だったのだ。
それが破壊されてしまった今、ジルに勝ち目は薄い。
この狂気の医師は己の身体にも赤血球増幅などの身体能力を向上させる処置を施していたが、
『力』を持った龍麻と醍醐は、それに劣らない動きをしている。
これほどの実験材料を見逃さなければならない無念にジルは歯軋りしたが、
今は逃げ出すことを考えねばならなかった。
明らかに動きの鈍ったジルに、ほとんど氣の塊となった龍麻が必殺の一撃を叩きこもうとする。
醍醐も巧みに側面に回りこみ、退路を断とうとすると、少女が身を呈して彼らの進路を塞いだ。
「学院長様、お逃げくださいッ」
「離せっ」
龍麻に暴力に恃む趣味はないが、闘わざるを得なくなったら、女性だろうと子供だろうと容赦はしない。
しかし今、腰にすがりついている少女はおそらく盲いており、しかも攻撃手段を持ってはいない。
ただジルに対する敬慕の想いのみで、彼を逃がそうと龍麻の前に立ちはだかったのだ。
彼女を倒すことは、龍麻にはできなかった。
華奢な身体を引き離し、十分に手加減して首を打つ。
昏倒した少女を通路に寝かせ、ジルが逃げていった先を見ると、
彼は部下を見捨てて逃亡した後だった。
「逃げられたか……」
少女に対しては憐憫の想いもあるものの、葵を誘拐し、
歪んだ野心の実験材料としたジルは絶対に許せない。
彼が逃げた扉から追いかけようとした龍麻は、小蒔の緊迫した声に止められた。
「緋勇クンッ、今はそれより」
「そうだったな」
一時とはいえ闘いの陰氣に溺れ、救けるべき人間のことを失念してしまって、
羞恥に頬を赤らめた龍麻は、彼女が閉じ込められているシリンダーの前にある操作盤へと走った。
操作盤上にはいくつものボタンが並び、素人には何が何やら見当もつかない。
どれかが水を抜き、装置から葵を開放するボタンなのは間違いなかったが、
下手に手を出す訳にはいかなかった。
「どれを操作すればいいんだろ? 適当に押したらダメかな?」
小蒔が困惑しつつも考えを実行に移さないのは、
やはりかかっているのが親友の安全だからだろう。
とはいえ、ここで時間を消費するわけにもいかない。
覚悟を決めた龍麻は、シリンダーの前に立った。
「皆は下がってろ」
「どうする気だよ」
京一の疑問に、龍麻はシリンダーを見たまま答えた。
「割るしかないだろう」
「割るってどうやッ――」
京一が言い切るより早く、龍麻は上着を脱いで放り投げる。
反射的に受け取った京一が、さらに文句を言おうとした時、龍麻の身体は金色に光り始めていた。
それが膨大な氣を練っているのだと気づいた三人は止めようとしたが、
それよりも早く龍麻の手がシリンダーに添えられた。
マリィを含めた四人が目を開けていられないほど龍麻の発光が強くなる。
部屋を覆った光は、程なく収束した。
音もなく、爆発もなく、失敗したのかと訝る京一達の耳に、小さな破損音が聞こえた。
ガラスにひびが入った音だ、と理解すると同時にガラスが割れ、勢い良く液体があふれ出す。
巨大なシリンダーはほぼ満杯に液体で満たされていたため、シリンダーの周りは一時的に水浸しになり、
京一達は更に下がる必要があった。
その中で龍麻一人が水を浴びることも厭わずに立っている。
支えを失い、糸が切れた人形のようにふわりと倒れてきた葵の身体を、
両腕でしっかり抱きとめ、水とガラスの洪水から庇い、安全な場所に寝かせた。
呆然とする京一の手から制服を取り返すと葵の裸身にかけてやり、彼女の腹部に手をかざす。
一連の動作はあまりに滑らかだったので、芝居めいて見えたほどで、
びしょ濡れになるのをかろうじて回避した京一も、龍麻が葵に氣を注ぐに至ってようやく、
「くそッ、とんだ役得じゃねェか」
そう毒づくのがやっとで、しかも聞きとがめた小蒔に思い切り足を踏まれる始末だった。
背後でのやり取りになど一顧だにくれぬまま、龍麻は氣を注ぎ終える。
一同は固唾を呑んで葵が目を覚ますのを待った。
「緋勇……君……?」
朧な視界が像を結ぶ。
思考よりも先に眼が捉えたものの情報をそのまま脳に送ってきて、葵はやや混乱した。
なぜ龍麻の顔がこんなに近くにあるのか。
疑問は龍麻の発した声で一層深まった。
「落ち着け、もう大丈夫だ。気分はどうだ?」
「え……ええ……少し、頭がぼうっとするけど……大丈夫……」
一体何が起こっているのか把握しようと葵は辺りを見渡す。
そこには春からずっと一緒に行動している龍麻を含めた四人と、
数時間前に知り合ったばかりのマリィという少女がいた。
「葵、良かった……無事で」
安堵する小蒔を見て、蘇った記憶が波濤のように押し寄せる。
龍麻を押しのけなくて良かったと、葵は内心で安堵した。
若干落ち着いたところで、龍麻がびしょ濡れなのに気づき、
他の仲間達は濡れていない点を訊ねようとしたところで、小さくくしゃみが出る。
その拍子に龍麻の制服がずれ、葵は自分が裸であることを知って赤面した。
「あ、あの……向こうを向いて……」
葵に背を向けたまま、龍麻が話す。
「マリア先生がどこにいるか、心当たりはないか?」
葵はしばらく記憶を辿ってみたが、彼の望む答えは得られなかった。
「ごめんなさい……牢屋を出されてここに連れてこられるまで、
ずっと目隠しをされていたからわからないの」
「ワタシ、知ッテル」
片言の日本語が、その場にいる全員を振り向かせる。
一斉に集まった視線に少女は怯えたようで、彼女の抱える子猫が威嚇するように鳴いた。
「マリィ……本当?」
「ウンッ、階段ノ裏ニ隠シ扉ガアッテ、降リテイクノ」
マリィの情報は、確かに有用であったが、すぐには信じられない者もいた。
「信じていいのかよ? こいつ、この学校のヤツだろ?」
当然ではあっても容赦ない指摘に葵が反論しようとすると、先に龍麻が手を上げた。
「大丈夫だ。俺と彼女……マリィでマリア先生を助けに行く。
京一と醍醐は逃げた奴を追って、桜井は美里の着るものを探してくれ」
「美里だけじゃなくてマリア先生にもいいトコ見せようって腹か?
ま、しょうがねェけどよ。行こうぜ、大将」
龍麻の胸を軽く叩いた京一は、醍醐と部屋を出ていく。
龍麻もマリィを伴って後に続いた。
「よし、マリィ、案内してくれ」
「ウンッ」
信頼された嬉しさからか、マリィの声は弾んでいる。
子猫もおとなしくしているところを見ると、とりあえず龍麻は敵でないと受け入れたようだった。
四人が研究室から外に出ると、轟音が響いた。
研究室が防音だったのだろうが、それを差し引いても振動を伴うほどの音だ。
「なんだこりゃ、爆発するんじゃねェだろうな」
「いや……爆発音じゃなさそうだ。規則正しい……これはヘリの音じゃないか?」
龍麻が言うと、マリィを除く三人は顔を見合わせた。
「ッてこたァ、屋上か」
「急ぐぞ京一、飛ばれたらどうしようもない」
「マリア先生を見つけたら俺も行くッ!」
「よっしゃッ!」
龍麻達は二手に分かれて走りだした。
龍麻の制服を胸に抱えたまま、小蒔が服を探してくれるのを葵は待っていた。
見るともなく見た部屋の中は、得体のしれない機械で埋め尽くされていて、
龍麻達が来るのがもう少し遅れていたら、どのような実験が行われようとしていたのか、
想像するのもおぞましい。
床に残る、自分が浸けられていたという緑色の液体を、強い嫌悪を抱いて葵は頭を振った。
「あったよ、葵ッ! ……どうしたの、頭痛いの?」
「ううん、大丈夫よ、ありがとう」
部屋の隅に無造作に置かれていたという、制服と下着を葵は手にした。
「タオルは……ないのよね」
「あッ、うん、ごめんね、見当たらなかった」
濡れた身体を拭いてから服を着たかったが、仕方なく、葵はそのまま着替えた。
衣服が肌に貼りつく不快感を押し殺して、小蒔に話しかける。
「今何時頃か判る?」
「うーんと、十時半ごろかな? 十二時にはまだなってないはずだよ」
「そんなに早く来てくれたのね」
「当たり前じゃない! 場所を突き止めるのに手間取っちゃったけど、
って言っても探し当てたのは緋勇クンなんだけどね」
複雑な想いが葵の胸裏をかすめる。
助けたからといって、龍麻は恩に着せたり、
あるいは言うことを聞かせる材料にしたりはしないだろう。
彼はそんなことはしない――するのなら、有無を言わさず実力行使に及ぶだろうから。
本当は話題にも出したくない龍麻について、葵はもう一つ小蒔に訊ねた。
「緋勇君だけ濡れていたけれど」
「うん、葵はこの部屋で液体の入った容器に入れられてたんだよ。
どうやって助けようかって考えようとしたら、
緋勇クンがいきなり『力』を使って割っちゃったんだ。
葵がケガしないように割り方は考えたみたいだし、一応、
葵にかけてあげられるように上着は先に脱いだけど、ちょっと乱暴だよね」
小蒔の口調が非難がましいのは、親友が怪我をしたかもしれない危険性を慮ってのことだろう。
「そうね……でも、私は本当に何ともないから」
「それならいいんだけど」
引き下がる小蒔に、葵は不意に不合理な感覚に囚われた。
よりによって龍麻を弁護してしまったのだ。
苦い薬を飲んだような葵の顔を、小蒔は不思議そうに眺めている。
訊かれるとよりややこしいことになるのは明白なので、葵は自分から話題を変えた。
「私達も行きましょう」
「え、大丈夫なの? もう少し休んでたほうが良くない?」
「平気よ。私達がここにいるより、緋勇君達を探して合流したほうが早いと思うの」
「……うん、そうだね。それじゃ、行こっ」
内心で親友に謝りながら、葵は薄気味の悪い研究室を後にするのだった。
マリィの案内で龍麻は、葵とマリアが囚われていたという地下の牢屋に足を踏み入れていた。
牢屋は全部で四室あり、異臭が漂ってきたりはしていない。
それほど使われた形跡がないのは幸いだが、牢の中には誰もいなかった。
「ここの他に牢屋はあるのか?」
「ウウン」
明快な返答に龍麻は眉根を寄せる。
結論が導かれるまで、長い時間はかからなかった。
「……連れて行かれたのか」
龍麻は踵を返して地下室から脱出した。
一階に戻ったところで葵と小蒔に行き会った。
マリアの姿がないことに気づいた小蒔が顔色を変える。
「マリアせんせーはッ!?」
「居なかった。多分、あいつに連れて行かれた」
「……!! 急がないとッ」
「ああ」
四人は一丸となって階段を走った。
屋上への扉は叩き壊されていた。
龍麻が突入すると、京一と醍醐が目の前にいる。
前方にはヘリが着陸しており、その前にはジルとマリアが立っていた。
ジルの後ろには彼の部下が二人、マリアに銃を突きつけている。
この位置取りでは容易に踏みこむことができず、二人が動けないでいる間に、
ジルは着々と部下に資料を積み込ませていた。
「マリア先生ッ!!」
「フン──追いかけてきおったか。だがそこまでだ」
「皆ッ、逃げなさいッ! この建物には爆薬が仕掛けてあるのッ!!
だから早く逃げなさいッ!!」
マリアの叫びは焦慮と気遣いに満ちたものだったが、京一はむしろのんびりと龍麻を見やった。
目にかかる長めの前髪を風に舞わせている龍麻に、自分と同じ表情を見出して不敵に笑う。
「んなコト言われたってなぁ」
「ああ」
大きく頷いた龍麻は、更に隣にいる醍醐に表情を伝染す。
伝染されるまでもなく、巨漢の顔も既に、教師の指示に従わない不良生徒のものだった。
「肚を決めるしかあるまい。美里に桜井、お前達は」
風に妨げられないよう醍醐が怒鳴ると、短い髪を激しく巻き上げながら小蒔が怒鳴り返す。
「お前達は、何さ、醍醐クン」
「う、む……」
「マリアせんせーを置いて逃げるなんて、できるワケないでしょッ」
眉を逆立てて叫ぶ小蒔も、その隣で逆立ててこそいないものの強い決意を秘めている葵も、
どうしようもない不良だった。
あまり教育上は良くない絆を結びなおした五人に、ジルの怒りは煮えたぎる。
自分がひどく間抜けな道化師であるように思えたのだ。
「劣等人種どもめ……しかし遅いわ、既に点火の秒読みは始まっておる。
わしの崇高な研究を愚民どもに知られる訳にはいかんからな」
「てめェ……」
「動くなよ。動けばこの女の命はないぞ」
部下にマリアを脅させ、ジルはヘリににじり寄る。
劣等人種などと嘲りながら、女を人質に取って逃亡する己の醜さは気にならないようであった。
「わしはこんなところで捕まる訳にはいかんのだ。
この研究資料を持っていけば受け入れてくれる国はいくらでもある。
わしが在る限り、第三帝国復活は必ず実現されるのだ」
逃走を確信したジルは後ろ足でヘリに乗りこもうとする。
その背後から、いきなり火の手があがった。
猛烈な火勢に背中を焼かれ、たまらずよろめく。
「ぐお……ッ、20、貴様──」
念じた場所に焔を点火させる、火走りの『力』でマリィが彼の背中に火を点けたのだ。
ジルは風を起こしている回転翼のほぼ真下にいたため、
焔はたちまち燃え盛り、ヘリ自体にも燃え移る。
「先生ッ!」
京一が叫んだ直後、マリアの左肘が後ろで銃を突き付けていたジルの部下の頬を撃った。
振り向きざまにヘリの方へと男を突き飛ばし、自由を得たマリアは龍麻達の方へ戻ってきた。
「先生、大丈夫ですか」
無事を喜ぶ教え子達にマリアは微笑んでみせたが、そこには苦笑も混じっていた。
「ええ……ありがとう。でも先生の言うことは聞いて欲しかったわね」
同じく苦笑する龍麻達の前方が、ひときわ明るく輝いた。
本格的にヘリが燃え出したのだ。
ジルも既に全身を炎に包まれており、どう見ても助かる見こみはない。
建物の爆発も迫っていることであるから、龍麻達が逃げだそうとすると、
どこからともなく声が聞こえてきた。
「ははは、無様だな、ジルよ」
嘲笑を響かせて現れたのは、刈安色の装束を着た、鬼面の男だった。
色こそ違えどその姿は、もはや龍麻達の馴染みといって良いほどだ。
避けられない闘いを前に、木刀を晴眼に構えた京一が叫ぶ。
「やっぱりてめェらが絡んでやがったのか」
「お初にお目にかかる、鬼道五人衆が一人、我が名は雷角」
そう名乗った男の周りに、同じ服装をした下忍が六人現れた。
「美里とマリィはマリア先生と一緒に下がってろッ」
龍麻の叫びに小蒔は微笑で応じた。
「ボクには下がれって言わないんだね」
「言ったって聞かねえだろ」
「エヘヘッ、まあね」
根っから喧嘩が好きな京一と異なり、小蒔は必ずしも戦いを欲しているわけではない。
しかし今回は葵を拐うような卑劣な輩が相手だったから、許すわけにはいかなかった。
葵とマリィを庇うように彼女達の前に立った小蒔は、静かに矢をつがえた。
炎の勢いに合わせるかのように高まる緊張の中、見捨てられた、死にいく男が見苦しくもがく。
「た……助けてくれ、ほれ、研究資料なら渡す、だから──」
「莫大な金を湯水のように使い、何百人という子供を殺し、その結果がこれか。
もはや貴様が我らの為に役立てることはない。
貴様の奥底にとぐろ巻く、憤り、怒り、怨み──それを以ってこいつらを斃す他にはな」
どのような処置を施しているのか、
ジルは全身を猛火に焼かれながらもなお生にしがみついていたが、
酷薄にそう告げた雷角は、左手で印を切った。
燃えるジルの身体が、別種の光を放つ。
「なッ、何だ──」
「変生せよ──堕ちよ、ジル・ローゼス、狂気の医師よ」
光は彼の背後で燃えさかる炎よりも明るく輝き、龍麻達は一瞬目が眩む。
彼らが再び目を開けた時、ジルの姿はなく、代わりに醜い怪物が一体そこにいた。
「こいつは……」
醍醐の巨体が怒りに慄える。
目の前にいる化け物の姿が、
鬼道衆に弱い心をつけこまれた佐久間が変生させられた姿と極めて似ていたからだ。
ジルに同情の気持ちなどないものの、人の命を玩ぶ鬼道衆は決して許せなかった。
「緋勇」
雷角を睨みつけたまま、醍醐は言った。
「雷角は俺にやらせてくれ」
醍醐の声に動かしがたい意思を感じた龍麻は、作戦をわずかに変えた。
「解った。それじゃ京一は」
「あの化け物をやりゃあイイんだろ」
雑魚を、と言おうとした龍麻は、勢いのある京一の口調に遮られてしまった。
「お前はさっき役得があったんだから、今度は俺の番だ。譲らねェぜ」
「……桜井、俺が雑魚をやる。援護してくれ」
「うんッ!!」
説得を断念した龍麻は雷角の部下達と対峙する。
じりじりと輪を作り、包囲しようとする敵に対して、龍麻は跳躍して先制攻撃を仕掛けた。
虚を突かれた下忍は慌てて応戦しようとするが、低い姿勢で潜りこみ、
龍が首を伸ばすように突き出された龍麻の掌をまともに受け、
三メートルほども吹き飛ばされて悶絶する。
包囲陣を崩された下忍達は怒りに燃えて龍麻に襲いかかり、乱戦が始まった。
「行け、京一、醍醐ッ!」
「おうッ」
左右から放たれた攻撃を身を沈めて躱し、そのまま力を撓める。
右足を踏み出し、間合いに入ると同時に地面を撃ちぬくように蹴りつけ、
その方向に肘を乗せて上方に突き出した。
「ぎゃあッ!!」
顎を砕かれた下忍が吹き飛ぶ。
烈しく宙に舞い上げられた下忍が頭から地面に落ちた時、
既に彼の仲間は昏倒させられていた。
間を置かず三人が倒された鬼道衆は、作戦を変更したようだった。
二人が龍麻を牽制し、残る一人が小蒔達の方に走る。
当然小蒔達の方に駆けつけたい龍麻だったが、下忍二人は付かず離れずの間合いを維持し、
しかも龍麻が小蒔達に背を向けるような位置関係を保とうとする。
とにかく片方を倒そうとする龍麻は焦りのあまり攻撃が単調になり、
避けに専念する一方に有効打を与えられないまま、もう片方の敵に攻撃を受ける有様だった。
傷は深手ではないが出血しており、いずれ動けなくなるのは目に見えている。
その前に、せめて一人だけでも倒しておく――そう判断した龍麻は、
反転して今まさに斬りかかろうとしている下忍に攻撃対象を変えた。
刀は避けられないが、向こうも間合いを外せなくなる。
相打ち覚悟の攻撃だった。
振り下ろされる刀の軌跡から、致命傷となる分だけ避ける。
シャツに刃を滑らせながら下忍に肉迫した龍麻は、掌を彼の腹部に添え、
練った氣を一気に放出した。
「ぐええッ!!」
一瞬の後に全身に龍麻の氣が浸透した下忍は、腹を抑える余裕さえなくその場に崩れ落ちた。
下忍が倒れたことを確認した龍麻は、一息つきかけてもう一人敵が居たことを思いだす。
斬られた痛みを無視して小蒔達の方に向かった下忍を探すと、
彼は小蒔達から一メートルほどの位置で、変わり果てた姿になっていた。
全身を炎に包まれた下忍は、小蒔達にあと一歩というところで立ち尽くしている。
炎に焼かれているにせよ、動かないのは不自然だと龍麻が思った時、
下忍がゆっくりと後ろに倒れた。
その身体には矢が突き立っており、その一矢が下忍を進行方向とは逆に倒したようだった。
女性達の戦闘力に舌を巻きながら、龍麻は三人の無事を確認する。
「……怪我はないか?」
「うん、ボク達は大丈夫。それより、緋勇クンこそ怪我してるじゃないッ!
葵、緋勇クンを治してあげて」
「ええ」
葵が癒やしの『力』を使って傷を治している間、龍麻はマリィに話しかけた。
「その『力』を使っても、マリィは何ともないのか? 頭が痛くなったりとか」
「ウン、平気」
「そうか。とにかく、助けてくれてありがとうな」
無事な方の手でマリィの頭を撫でると、
少女は腕に抱いている黒猫が驚いて鳴いたほど顔を輝かせた。
「ウンッ!!」
少女に笑顔で応えた龍麻は、治療が終わった肩を二度ほど回して具合を確かめ、
今度は葵に礼を言った。
「完全に治ったみたいだ。助かった」
「ええ」
「制服を預けておいて良かった、また買わなきゃいけないところだった」
冗談に応じず、葵が制服を返そうとすると、龍麻は首を横に振った。
「もうちょっと持っててくれ」
まだ醍醐と京一は戦っており、どちらか、あるいは両方を助けに行くべきだったからだ。
しかし、もう彼らに支援は必要ないようだった。
「せいッ」
敏捷な動きで雷角の刃を躱した醍醐は、彼の背後を取る。
固めた両腕に力を凝縮し、一気に雷角の身体を持ち上げ、後ろに放った。
綺麗な弧を描いて頭から地面に激突した雷角は、そのままぴくりともしない。
コンクリートの地面に受身も取れずに叩きつけられては、致命傷となって当然だ。
「……」
白虎の『力』だからこそ為せる大技ではあったが、一歩間違えば死の危険すらある闘いの中で、
観客に魅せる為に洗練されてきた技を用いた醍醐に、龍麻は呆れて物も言えなかった。
「せやあッッ!!」
醍醐が殺人投げで雷角を葬ったのと時を同じくして、
京一の気合いが氣の刃を生み出し、化け物と化したジル・ローゼスの身体を両断した。
遠目からでも判るほど濃い氣の軌跡が、化け物の巨体を縦に斬る。
あまりにも凄まじい斬撃に、斬られた化け物はすぐに倒れず、
何秒かの間を置いてから左右に分かれていった。
「……」
化け物はもちろん難敵のはずで、それを軽く屠った京一に龍麻は言葉もない。
もちろん、普段の状態であったなら京一も苦戦を免れなかっただろうが、
皮肉にもイワンとの闘いが彼に変化を与えていた。
拳に氣を集め、操る技術はより精密なレベルでの氣の制御を可能とさせ、
更に、彼との闘いで溜まった欲求不満が氣の増幅を促したのだ。
「ま、素手喧嘩も悪くねェけどよ、やっぱ俺は木刀の方が性に合ってるな」
大きな地響きを立てて倒れた化け物を見下ろし、京一はそう呟いたのだった。
「終わった……か」
自分達以外に立っている者がいなくなると、龍麻達はお互いの無事を確かめあった。
大した怪我がないのを喜んだのも束の間、大きな爆発音と、それに続く揺れが襲いかかる。
「ヤベェ、爆発のコトすっかり忘れてたぜッ!」
「逃げるぞッ、美里はマリィを頼む」
龍麻達は急いで屋上を後にする。
最後に階下へ続く扉をくぐろうとした龍麻は、雷角の身体が光を放っていることに気づいた。
「早くしろ緋勇ッ!」
「先に逃げろッ、摩尼を回収するッ!」
どのような術によってか、鬼道衆は死ぬと摩尼に変ずる者がいる。
もしかしたら摩尼に術をかけて仮初の命を与えているのかもしれないが、
いずれにしても、摩尼は本来安置されるべき場所である、五色不動に還す必要があった。
すでに雷角の死は確実とはいえ、最後にどのような反撃があるかもわからない。
龍麻は慎重に雷角の手が届かない位置に立った。
龍麻の足元から、雷角の呪詛が響く。
「美里……美里葵……そうか、こんな処に居たとはな……
お前はもう逃げられぬ……九角様がお前を待っておる……ぞ……」
「……おい、どういうことだ……!?」
敵の口から突然葵の名前が出たことに驚き、龍麻は屈んで話を聞こうとしたが、
もはや龍麻の存在すら感知できないらしく、不気味な怨み言を残したのみで雷角は消え去った。
「……」
無言で摩尼を拾った龍麻は、踵を返して紅蓮の炎に包まれる屋上から脱出した。
転げるように学院の敷地から出ると、建物が本格的な崩壊を始めた。
ここにいては怪しまれるので、龍麻達は少し離れた場所まで行ってから状況を確かめる。
「ふぅ、間一髪だったな」
「ああ……皆、怪我はないか」
マリアも含め、ここにいる全員は龍麻を除いてかすり傷程度しか負っていなかった。
後は一人別行動を取っていた絵莉が気にかかるところだ。
しかし、さすがに建物には近づけず、無事を祈るしかない。
家に戻ったら龍麻が彼女に連絡を取ってみることで、彼らはひとまず納得せざるを得なかった。
「……ま、抜け目ないから大丈夫だと思うけどよ」
「そうそう、京一なんかよりよっぽどしっかりしてるもんね」
明るい声で小蒔が言い、ようやく龍麻達に日常が戻ってきたのだった。
均等に五人を見回したマリアが、思慮深げに言う。
「それにしても、アナタ達……その『力』、春に見たときよりも遥かに強くなっているわね」
「こんな『力』、無くなればいいと思ってるんですが、
どういうわけか『力』絡みの事件に巻きこまれてばかりで」
龍麻の返答をマリアは危険だと叱ることも荒唐無稽だと笑うこともせず、
妙に睨めるような眼光で彼を見るだけだ。
もっとも、その眼差しは二秒ほどで消えたので、眼差しを浴びた当の龍麻ですら気づかぬほどだった。
「……何か、意味があるのかも知れないわね……アナタ達が『力』を使えるようになった理由が」
「俺もそう思います」
二人の会話は教師と生徒ではなく、男と女でも無論なく、求道者のような重みを有していた。
二人のただならぬ雰囲気を皆察したが、ただ一人、能天気なほどの声が割って入った。
「あーあ、腹減った、とっとと新宿に帰ろうぜ」
「アナタ達……学校はどうするの」
京一に答えるマリアの声は、もう普段教室で聞く彼女の声と変わりなかった。
そして、声が戻ったのと同様に、態度も生徒を見守る教師のそれに戻っている。
となれば当然、このまま解散しようとする龍麻達を見逃しはしなかった。
これだけの大事件の後で、見上げた教師根性と言うべきだったが、
京一と龍麻と小蒔は思わず顔を引きつらせる。
そんな彼らを、蒼氷色の瞳をどんな不正も許さないという輝きで見つめていたマリアは、
いきなり吹き出した。
「……ま、今日は仕方ないわね。皆格好がぼろぼろだし」
話せる担任を持ったと、京一が小さく口笛を吹く。
その隣で小蒔が、満面の笑みを湛えて言った。
「マリアせんせーもサボるんでしょ? 頭ぼさぼさだもんね」
頭に手を当てたマリアは、その惨状に美しい眉目を曇らせ、今度は大きなため息をついた。
「そうね……これじゃとても人前には出られないわ。
はあ……明日、何て説明したらいいのかしら」
「ま、なるようになんだろ。帰ろうぜ」
全く他人事のように京一が言い、更に大きなため息をマリアがついたことで、
一同は笑いを必死に噛み殺さなければならないのだった。
誰かが通報したのだろう、消防車やパトカーがサイレンを鳴らして集まってくる。
長居は無用と、龍麻達は新宿に帰ることにした。
その中に一人、帰るべき場所が無くなってしまった少女がいる。
親に捨てられ、ジルに拾われて異国の地へと連れて来られたマリィは、
今その育ての親さえ失い、どうして良いかわからず、大粒の涙を瞳に浮かべて所在無く立っていた。
「この子……どうしようか」
耐えかねて口火を切った小蒔に、一同は顔を見合わせた。
親に見捨てられたマリィが日本で生きていくのは不可能に近い。
助けてやりたいとは思っても、同情でどうにかできる問題ではないのだ。
残酷だとしても、公的な施設に預けるしかない。
だが、誰がそれを年端も行かない少女に告げるか。
小蒔達が目配せしあう中、ただ一人顔を見合わせなかった龍麻が事も無げに言った。
「マリィ。うちに来るか?」
「えッ!?」
全員の視線が集中する。
「あんまり贅沢はさせてやれないけど、成人するまでなら……マリィは今何歳なんだ?」
「十六」
「十六……って、とてもそんな風には」
悲しませてはいけないと思いつつも、小蒔はついそう言ってしまった。
するとマリィは悲しそうな顔をして、彼女が実年齢よりもずっと幼く見える理由を述べた。
「研究……成長止メル。大キクナルト、『力』ガ弱クナルッテ。デモマリィ、薬モ注射モキライ」
マリィは、ジルの極めて利己的な動機によって成長を抑制されていたのだ。
その恐ろしく、そして哀しい理由に、小蒔は涙を抑えることができなかった。
腕を組んで何事か計算するように上を向いていた龍麻が、視線をマリィに向ける。
「だとすると、あと三年か。後半年くらいで俺が卒業すれば、
また化け物退治で金を稼いでもいいし、なんとかなるだろう」
確かに最大の問題点は解決できるかもしれないが、
その他の問題点も無視してよいものではない。
龍麻が気づいていないのかと思った小蒔が、注意を喚起した。
「ま、待ってよ。緋勇クンって一人暮らしだよね?」
「ああ、だから問題ないだろう? 一人と一匹増えるくらい、場所はある」
「いやいやマズいでしょ、男女が同じトコで暮らすのは」
「男女ってあのな、何考えてんだお前」
半ば呆れ、半ば怒る龍麻が見たのは、小蒔と同じ懸念を浮かべる京一達の眼だった。
彼らの誤解に抗議するべく頭をかき回した龍麻は、マリィを引き取る理由を説明した。
「マリィは『力』を持っている。何もないところに火を点ける能力を」
「マジかよ……! 急にヘリが燃えたのはそのせいだったのか」
「俺はその『力』に助けられたからな。放ってはおけねえよ」
「けどよ、俺の貴重なアジトが」
『力』を持つがゆえに不幸な人生を強いられている少女の未来と、
単に自分の邪な欲望を満たしたいだけの男のそれとは天秤にかけるまでもない。
恨みがましい京一の視線を、龍麻はきっぱりと無視した。
「それくらい我慢しろ、別に来るなとは言わねえから」
「……」
そうは言っても男だけの楽園に女、それも子供が居たのでは大きく価値が下がる。
京一はがっくりと肩を落とし、醍醐や小蒔も極めて消極的ながら龍麻の案を受け入れたのだった。
「それじゃあまた明日学校でな。行こうぜ、マリィ」
「ウン」
マリィの手を引いて龍麻が帰ろうとしたとき、小さなくしゃみが聞こえた。
くしゃみをしたのは葵で、顔色は良くなく、震えている。
見れば制服は濡れていて、それが原因なのは明らかだった。
「美里も俺の家で少し休んでいけよ」
「でも」
「服を乾かさないといけないだろうし、ついでにシャワーも浴びていけ」
この場には教師であるマリアもいるのだが、龍麻の口調に下心が感じられず、
またマリィに関する決断が高校生、というより常人離れしていたため、
そちらに気を取られて口を挟むタイミングを逸してしまっていた。
彼女が我に返ったのは龍麻と葵とマリィと子猫が居なくなってからで、
今更ながらに教え子の素行に疑問を持った彼女は、他の教え子に答えを求めた。
「緋勇クンと美里サンは、交際しているわけではないのよね?」
「それは……ないと思うケドなあ。京一はどう思う?」
「いやァ、ねェだろ。もしンなことになってんなら、俺に隠し事してるってことだからな。
アイツに限ってそりゃねェだろ」
「どうしてそんな自信満々なのさ、いつもご飯おごってもらってるくせに」
「それこそ友情のなせる業だろうが。お前にゃちっとハードル高い話だろうけどな」
「ボクだっておごってもらってるもんッ!」
期せずして教え子の別の素行不良を知ってしまったマリアは、
彼らにまっとうな人生を歩んで欲しいと願わずにいられないのだった。
龍麻とタクシーに乗って戻ってきた葵とマリィは、龍麻の家に入るなり浴室に向かわされた。
龍麻に対する警戒心はあっても、晴れた日にずぶ濡れで、しかも午前中に帰ってくれば、
いくら娘を信じている親でも、疑問を投げかけずにはおかないだろう。
龍麻の提案に乗るしかなかった。
「ついでだからマリィもシャワーを浴びちまいな。洗濯機の使い方は判るだろう?」
「……ええ、行きましょう、マリィ」
一時間前には想像もつかなかった事態に戸惑っているであろうマリィを促し、葵は浴室に入った。
「一緒ニ入ルノ?」
「ええ。マリィは日本のお風呂に入ったことはある?」
「ウウン、初メテ」
マリィを引き取るという龍麻の決断に全面的な賛成はできなくても、
この薄幸の少女を不必要に不安がらせることはないと思ったのだ。
「それじゃ、入り方を教えてあげるから、先に服を洗濯機にかけましょう」
葵が制服を脱いでも、マリィはじっと葵を見ている。
同性のしかも子供だから恥ずかしくはないが、不思議に思って葵は訊ねた。
「どうしたの?」
「アオイ、オッパイ大キイネ」
思いもよらない言葉に、葵は絶句する。
だが、マリィに邪念は感じられず、自分と違うものを見つけた子供が疑問をそのまま口にしたのと変わらない。
彼女の十六歳だとはとても見えない、貧相な身体を葵は抱きしめた。
「マリィもきっと大きくなるわ。
緋勇君が、診てくれるお医者さんを探してくれるって言ったでしょう?」
「……ウン」
マリィの返事に元気がないので、葵は、日本語がうまく伝わっていないのかと思ったが、そうではなかった。
「デモ、マリィ注射キライ」
笑いそうになるのをこらえて、葵は再び少女を抱きしめる。
強く抱きかえしてきてマリィが言った。
「ゴメンナサイ、アオイ。時計ヲトッテシマッテ」
「ううん、いいのよ。マリィはちゃんと返してくれたでしょう?」
「ウン」
「あの時計はあげられないけれど、そうだわ、私がマリィに時計を買ってあげる」
「Really!?」
顔を輝かせるマリィの、くすんだ金色の髪を葵は撫でた。
少女のいじらしさは誘拐された上に危うく実験材料として使われかけて荒んだ心を癒やしてくれる。
シャンプーを手に取り、マリィの髪を洗ってやりながら、
葵はこの異国の少女のために、できる限り力になってやろうと決心したのだった。
他人の家の風呂など、それも苦手な男の家の風呂など心安らげるものではないはずだが、
マリィは初めての風呂と初めての友人で少し興奮しているのか、ずいぶんとはしゃぎ、
気がつけば葵も一時間近く風呂に入っていた。
乾燥機に入れた制服も乾いていて、葵は人心地つく。
マリィはといえば風呂から出るなりうとうとし始め、
居間にたどり着くのが限界だったらしく、床に崩れ落ちてしまった。
急いで布団を敷いてマリィを寝かせた龍麻と葵は、思わず顔を見合わせて苦笑した。
「布団も買わないといけないか……用意するものを書き出さないとダメだな」
天井を仰いで嘆く龍麻に、葵は改めて疑問をぶつけた。
「本当にマリィと一緒に暮らすの?」
「そうだな。嫌な言い方になるが、
金を持ってなかったら一緒に暮らすなんて言い出せなかっただろうな。
施設に入れて、せいぜい頻繁に会いに行くくらいがやっとだろう」
龍麻が幾ら持っているのかを葵は知らず、
また、葵自身、これまで金銭的に不自由した経験がないため、
少女一人を養うのがどれほど大変なのか想像できないが、
一介の高校生にはほとんど不可能なほどの困難であることは明らかだ。
仮に龍麻が大金を持っていたとしても、邪心もなく今日知り合ったばかりの
他人に惜しげもなく使えるだろうかという懸念は、葵でなくとも抱いて当然だった。
ためらいつつ葵が懸念を口にすると、龍麻は天井から視線を葵に向けて答えた。
「マリィは『力』のせいで大変な目に遭ってるわけだし、
今持ってる金は『力』を失くすまでに使っちまおうってのも嘘じゃねえ。
この家を溜まり場にするつもりだった京一には悪いけどな」
「……そう」
龍麻は再三この『力』を消滅させたいと口にしている。
以前葵が聞いた彼の過去からも、それは本心なのだろう。
そこまでは信じて良いように思われた。
「面倒を見るとは言ったものの、俺には姉妹もいねえし、何をどうしたら良いのか、
実のところ全くわからねえ。できる範囲でいいから、助けてやってくれねえか」
龍麻の提案に葵は頷かなかった。
いくばくかの勇気を溜め、返事がないことを不審がっている龍麻に、
彼の顔を正面から見返して決意を告げた。
「……あの」
「どうした?」
「マリィを、私の家に引き取りたいの」
龍麻が転校してきてから、おそらく初めてとなる表情を葵は見た。
彼は全てを呑みこむような漆黒の瞳を大きく見開き、呆然としたのだ。
その表情から、彼がマリィを軽い気持ちで引き取ったのではないと知れる。
龍麻の気分をなるべく害さないよう、言葉を選んで葵は続けた。
「あの子は、幼いうちに両親に棄てられて、親の愛情に飢えているわ。
私の両親はボランティアに理解があるし、きっとマリィを迎えいれてくれると思うの」
葵の決意を龍麻は一蹴したり嘲笑したりはしなかった。
驚きを収めた彼は、顔の筋肉を一筋も動かさずに考えこみ、むしろ葵を気遣うように答えた。
「そりゃ、その方がマリィにとっても良いだろうが、ご両親は大丈夫なのか?」
「……なんとか頼んでみるわ」
言外に含まれた意図を汲み取った葵は、頬が紅くなるのを感じた。
マリィを気遣う気持ちは龍麻に負けていないと思うし、
両親にしてもはじめは驚くにしても、すぐに受け入れてくれるだろうという確信がある。
だが、それ以上に龍麻には金銭的な余裕があり、美里家にはないかもしれないのだ。
こればかりは高校生の身分ではどうしようもないと思うが、
同じ歳の龍麻は特殊な才能があるからといえども少女一人を養えるだけの財力があるのだ。
お金のせいでマリィを引き取れなかったら恥ずかしいという若さゆえの、
そして場違いな自尊心が血流となって葵の身体を巡ったのだが、
龍麻はその点を嗤ったりはしなかった。
「それなら、ご両親が引き取っても良いってことになったらマリィに話そう。
それまでは俺の家で預かる。ぬか喜びさせたら可哀想だからな」
「そうね、そうしましょう」
龍麻が提案を呑んでくれたことを、葵は感謝した。
マリィに関しては、彼と心が通じあえたのだ。
龍麻を失望させないようマリィの面倒を見なければならないし、葵には十分その覚悟があった。
「ああ、それと」
「何かしら」
「マリィは薬で成長を止められてるって言ってたよな。あれもなんとかしてやりたいんだ」
「ええ、それは私もだけれど、でもどうしたらいいかしら」
「前にお前が夢の世界に囚われたことがあっただろう。
あの時に世話になった病院の先生なら、そういった特殊な事情も診てくれると思う」
「そうなの」
春に、夢に干渉する『力』を持った嵯峨野麗司という少年に葵が狙われた時、
倒れて目覚めなくなった葵を診察してもらったのが桜ヶ丘中央病院だった。
そこの院長である岩山たか子という女性は、葵が倒れた原因を超常的な『力』によるものと見抜き、
原因を取り除くよう龍麻達に指示した上で、それまでの間葵を診てくれていたのだ。
「あの先生ならきっとマリィを治す方法を見つけてくれると思う」
「わかったわ」
マリィに関する事柄だけに過ぎないが、
初めて葵は龍麻と同志めいた連帯感を抱くことができた。
龍麻も同様なのか、ソファに背中を預けて大きく吐きだした息には、
問題が片づきそうだという安堵が込められているようだった。
上半身を起こした龍麻が、再び口を開く。
「それで、お前の具合はどうなんだ?」
「ええ、特に悪いところはないわ」
「……まさか、朝から狙ってくるとはな。油断していた」
龍麻はひどく反省しているようで、葵には意外だった。
「明日からは朝も迎えに行こうと思うんだが」
「ううん、そこまでしてもらわなくてもいいわ」
マリィの件では心を通わせても、それ以外の部分では、葵は龍麻を信用していない。
朝から彼と顔を合わせるなど、よほどの事態でなければ避けたかった。
ところが、提案を断られた龍麻は渋面を崩さない。
断った葵が不安を覚えるほどで、困惑しつつも自分から話題に触れるのはためらっていると、
龍麻が真っ向から彼女を見た。
暗黒の瞳が葵を不安にさせる。
「今回の件、気になっていることがある。……あのジルとか言う奴、
お前一人を標的としていたかもしれねえんだ」
「そんな……たまたま私だったのではないってこと?」
「現に俺達は襲われていない。
アン子に聞いたが、あいつらはお前だって確認して拐ったんだろう?」
「……」
葵は返事ができなかった。
思いだしたくはないが、確かに今朝、白人の子供は「美里葵だな」と訊ねてきた。
一緒にいたマリアは、訊かれていないはずだ。
「それにもうひとつ。摩尼を回収しようとした時、今際の際に雷角がお前の名前を出して、
『こんな処に居たとはな』って言ったんだ」
「どういうこと……?」
「判らねえ。そのまま雷角は死んで摩尼になっちまったからな。
だが、鬼道衆はお前を探してる可能性がある。心当たりはないか?」
「あるわけないでしょうッ!」
葵は思わず叫んでいた。
自分でも聞いたことのない金属質の声に、不快感が入れ子のように増幅していく。
二つの不快感をあえて切り分けないまま、葵はさらに言い募った。
「どうして私が狙われなければならないの!?
理屈から言えば、緋勇君こそ狙われるはずじゃないの!?」
それは龍麻が転校してくる前なら絶対に使わなかった、
他人に責を求めるという葵らしからぬ論法だった。
言い終えた直後に染みだしてきた、不快感に含まれる苦味めいた成分に冷静さを取り戻した
葵は悔いる表情をしたが、なじられた龍麻は怒らなかった。
「そうだな、お前の言う通り、俺だけを狙ってくれるんなら話は簡単だったんだけどな」
『力』を巡る戦いは、龍麻が真神に来たことで始まったのだとしても、
彼は原因ではなく、きっかけに過ぎない。
しかも龍麻は初めのうち、京一や小蒔を巻き込むまいとしていた。
彼らの好奇心に押し切られて以後は諦めたようだが、
なるべく彼らに怪我をさせまいとしている龍麻の努力は、葵も認めざるを得ない。
その彼を詰問するのは、さすがにおとなげない行為だった。
だからといって、葵が鬼道衆などという常軌を逸した集団に狙われる理由など思い当たるはずもない。
もしそれが事実だとすれば、葵こそが災厄の中心であり、
小蒔や友人達を危険に巻きこんでいるのは龍麻ではなく葵ということになってしまう。
理性と本能の両面から、葵は強硬に否定した。
「誰が狙われているにせよ、護ることに変わりはねえ。
ただ、京一や醍醐を護るのと、桜井やお前を護るのじゃ、心構えが少し変わるってくらいだな」
龍麻の主張は正しく、葵は反論を諦めた。
龍麻も一度口を閉ざし、微妙な沈黙が流れる。
帰るなら今かもしれない、と未だ気まずさを引きずる葵が切りだそうとすると、
龍麻が先に口を開いた。
「ところで」
絶妙に機先を制された葵はつい耳を傾けてしまう。
「賭けの話はどうなったんだ? オナニーせずに我慢できたのか?」
「……!」
瞬間、視野が暗転するほどの怒りに葵は囚われた。
今日あったばかりの異国の少女に対する善意と同じ口から吐き出されたとは思えないほどの下劣な
言葉の泥は、臭気さえ放つかのようだった。
手元に飲み物がなかったのは幸いで、もしあったなら、
葵は彼の顔にかけてしまっていたかもしれない。
「ええ、しなかったわ」
背筋を伸ばし、用意してあった嘘を葵はついた。
嘘をつくことに慣れていない葵は、その時が来ても上手くつけるかどうか不安だったが、
龍麻の見せた二面性があまりに強烈だったので、怒りが羞恥を包みこんでためらいなく言い放つことができた。
「……」
葵の語勢に龍麻は殴られたような表情をしている。
このまま押し切れるかもしれない、と葵が思ったとき、龍麻が口を開いた。
「つまり、俺の『力』には他人を操る能力があったってことか……」
どう答えようもない葵が黙っていると、龍麻が立ちあがる。
武道を修めている者特有の、気配を感じさせない体の移動に、葵の反応は一瞬遅れた。
その一瞬に加えて、危険を察して逃げようとするまでの二瞬。
時計の針が音を立てる暇さえない間に、葵は龍麻に手首を掴まれていた。
「い、嫌っ……何をするの……!?」
彼の掌から感じる確かな熱に怯える葵に、龍麻が低い声で告げる。
「今ここで服を脱いでみせろ」
「……! そ、そんなこと……できるわけないわ」
「それなら、俺の命令に強制力なんてないってことを認めるんだな?」
「……っ! 騙したのね……!」
葵は悔しくてたまらなかった。
龍麻は最初から引き下がるつもりなどなかったのだ。
劣情に負けて自慰をしたなどと葵が答えられるはずがないことを見抜き、
二段構えの卑劣な策略で葵を陥れたのだ。
「嘘をついたのはそっちだろう。
俺は自分の『力』に他人を操る能力なんてないことを知ってただけだ」
嘘をついたという指摘に葵は黙らされてしまう。
掴まれた手を振りほどくことも忘れ、彼の視線から逃れるので精一杯だった。
「それに言っただろう。俺は『力』を悪用するつもりなんてねえってな」
「……」
嘘をつき、暴かれたという恥ずかしさと、手首から広がる熱が混ざり、
何も考えられなくなった葵は、ソファに背中を押しつけられてしまう。
そのまま右手を持ち上げられ、ソファの座面に固定されて、ようやく龍麻の顔を見た。
欲望に取り憑かれても、冷めきってもいない、不思議な表情。
黒い瞳は葵を塗りつぶそうとも曇ってもなく、ただ葵を吸いこもうと鈍く光っている。
その引力に抗うには、もう近すぎた。
「止め……て……」
「お前には、まだ左手が残ってる。本当に嫌なら、突き飛ばすなり平手打ちするなりすればいい」
龍麻の右手が葵の左頬に触れる。
暴力が嫌なら、この手を払いのけるだけでいい。
龍麻は暗黙のうちにそう言っているのだ。
だが、左手に力が入らない。
彼の言う通り、意志に従って左手を動かして彼を拒絶すれば良いのに、
左手は麻痺したように動かなかった。
いや、左手だけではない。
感覚があるのは掴まれている右の手首だけで、
両足は彼を蹴飛ばそうとせず、身体も彼から逃れようとしない。
五感が集う頭さえ彼の視線に囚われたまま、まばたきさえできなくなってしまっていた。
「わた……し……」
自分は何を言おうとしているのか?
恨み言か? 最後の抵抗か? それとも?
葵自身にさえ興味があった言葉の続きは、永遠に聞こえない。
代わりに葵にもたらされたのは、静寂と手首以上に熱い、唇の熱だった。
熱が溶ける。
頭上にある手首から、溶けた熱が身体に落ちてくる。
それは最初から奔流であり、終えるところを知らない新たな流れだった。
葵が経験したことのないそれは、唇から流れこむ支流とひとつになって葵を押し流す。
すでに足の指先まで、どこにあるかわからないくらい感覚を喪失していた。
葵が自己を認識するのは、龍麻によってだ。
手首と唇、そしてもう一箇所、龍麻の右手がまさぐる場所。
左頬から耳朶、首筋、肩。
そこから胸を経て腹へと至り、制服の内側に入りこんで再び乳房へ。
あらかじめ定められていたかのように淀みなく過ぎる彼の手によって、
葵は自分の肉体の形を嫌でも認識させられていた。
肌の上を滑る指先は、葵を恍惚とさせる。
自分で触れるのとはまるで違う、気が遠のくような快さに、たちまち溺れていく。
もう、龍麻のことを好きか嫌いかはどうでも良くなっていた。
唇が離れていく。
遠ざかる気配に葵が目を開けると、龍麻の顔がそこにあった。
彼の黒い瞳を見て、葵は小さく呻いた。
この暗黒から逃れることはできない。
光も熱もないはずの闇に、温かさを感じてしまったから。
即物的な、偽りの温かさであっても、葵はそれを求めている。
そのことに、葵は気づいてしまった。
龍麻の親指が、胸の頂を撫で回す。
葵が抵抗しないことを確信した、微細な動きだ。
やがて頂は硬さを増し、それにつれて指の動きもより複雑になる。
いいように乳首を弄ばれながら、葵は龍麻の瞳から眼を逸らすことができなかった。
果てのない暗黒は、葵を嘲りはしない。
快楽に負けて嫌っている男に身体を許そうとしている惨めな女だと嗤ったりせず、
どうすれば葵が感じるのか、ただ観察しているように見える。
手首、頭、そして胸で響く血流の音が、葵の思考を奪っていた。
押しのけ、逃げなければならないという意思が、鳴動にかき消されて不確かなものになり、
肉体の悦びだけが確かになっていく。
乳房を包んでいる掌が、腹部へと降りていく。
臍を撫で、横腹を滑り、そして太腿を辿る手は、岩肌から滲みでる水のように緩慢な動きで、
いつでも逃れてよいと暗黙のうちに告げていた。
それでも、葵は動かない。
龍麻に嬲られている葵の全身の筋肉を硬化させていたのは、恐怖ではなかった。
スカートを辿って一度膝の近くまで降りた手が、スカートの内側へと潜る。
太腿全体を微弱に、そして丁寧になぞっていく。
葵が本当は何を欲しているか、その答えを引きだそうとするかのように、
細胞のひとつひとつに問いただしていくかのように、龍麻の手は動く。
考えがまとまらない。
彼の掌と五本の指に、脳を直接触られているかのような感覚に葵は囚われていた。
右の手首と左の太腿を、快感が繋ぐ。
以前嵯峨野麗司によって夢の世界に囚われ、
彼の精神が生みだした鎖に拘束されたこともある葵だが、
その時とはまるで異なる感覚だった。
恐怖はなく、代わりにあるのは熱。
身体を斜めに貫いた快感の帯は、葵の唇を自然と開かせる。
押し殺した、それでもわずかに呼気の混じった吐息は、
葵のまとまらない思考に一つの方向を与えつつあった。
龍麻の手が、下着に触れる。
女の一番大切な場所に手をかけられても、葵は抵抗できなかった。
「本当は、もうとっくに気づいていたんじゃないのか」
囁きが下腹を振動させる。
そのさらに下からは、甘美な愛撫が伝わってくる。
自慰とは比較にならない、魂をねぶられるような恍惚に、葵は打ち震えるばかりだ。
「自分がどうしたいのか。どうされたいのか」
淫裂を単調に往復するだけの動きは、返事を待っているのだと葵に気づかせる。
葵が一声発すれば、龍麻はたちまち求める以上のものを与えてくれるに違いない。
その誘惑はもはや抗いようもない、肌が粟立つほどの期待を葵にもたらしたが、
同時に、一度屈すれば二度と元には戻れないという、
彼の瞳の如き暗黒に対する恐怖も同等に芽生えさせていた。
「私……まだ、わからないの」
快楽に喘ぐ唇を無理に動かす。
「緋勇君の言う通り……なのかもしれない。
他の男の人とは違うものを、確かに緋勇君には感じているわ。
でも、まだ違うって、そうじゃないかもしれないって、心のどこかで思っているの」
ここで踏みとどまらなければ、果てのない暗黒に堕ちるだけだと本能が察知したのか、
恐怖に抗うために、ほとんど出まかせを葵は口にした。
それが嘘であることは、何よりも身体が白状している。
龍麻の愛撫に紅潮し、すっかり彼を受け入れている肉体は、
ともすれば自分から擦りつけてしまいたくなるほどだ。
される側の自分がこれだけ焦れているのだから、
する側の龍麻はもう我慢できないかもしれない――
まとまりもなくそんな風に考えていた葵だから、
龍麻が手首を離し、身体を起こした時、葵は驚かずにいられなかった。
「答えは出たように思えるけどな。今日はお前も大変だったし、少し休んだ方がいいかもしれねえな」
執着もなく解放した龍麻に葵は理不尽な苛立ちを覚えた。
口を開きかけ、慌てて閉じる。
龍麻の魔手から逃れたといっても、身体の火照りはしばらく収まる気配もなく、
苦労して身体を起こし、乱れた服装を整えた。
立ちあがった際に足が擦れ、思わず反応してしまったが、
幸運にも龍麻は気づかなかったようだった。
「送っていくから支度をしろ。マリィも連れて行くから、説明してくる」
「一人で帰れるわ、緋勇君はマリィと一緒に居てあげて」
「駄目だ」
裁断機のように龍麻の返答はにべもなく、その口調の強さが、
鬼道衆に狙われているのは自分なのだと葵に思い起こさせた。
他の仲間達を危険に巻き込んでいるのは、龍麻ではなく葵なのだ。
その事実は龍麻に屈しかけたことよりも葵を打ちのめした。
一体、自分はどうすれば良いのか――
容易に答えの出ない難問に葛藤する葵の足取りは、
奈落に向かうかのようにどこまでも重さを増していくのだった。