※この作品はR-18です。

反魔人學園   作:SVX

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自HPにも書きましたが、寝る前の次ネタを妄想している時に、
「日本刀でマッパにされた葵さん」のイメージが湧きまして、
そこからこの苦難の旅がはじまりました。
まだ半分しか到達してないですけども。
到達できるかわからないですけれども。


第拾参話

 文京区は大聖山南谷寺。

江戸五色不動のひとつ、目赤不動が奉られている名刹を龍麻達は訪れていた。

目的はもちろん、鬼道衆が奪った、本来不動が守護すべき摩尼を再び奉納する為だ。

「これが祠なんだ」

 初めて摩尼を安置する祠を目の当たりにした小蒔は、物珍しげに横から覗きこんだりしていた。

それを押しのけ、もう三度にわたって封印を行い、

作業自体には何の興味も持っていない京一が扉を開ける。

「ね、ボクにやらせてよ」

 龍麻が摩尼を取り出すと、顔を好奇心で一杯にした小蒔が頼んできた。

珠を置くだけなのだから、誰が置いても封印はできるはずなので、龍麻は素直に摩尼を渡した。

「エヘヘ、ありがと」

 大事に受け取った小蒔は、そのまま丁寧に赤色の布団の上に宝珠を置いた。

龍麻達にとっては拍子抜けすることしきりだった封印も、

小蒔はそうでもなかったらしく、輝きが失せた摩尼に向かって拝んだりなどしている。

 やがて満足した小蒔が扉を閉め、龍麻達の方に向き直ると、

京一が肩に担いだ木刀の先端を揺らして言った。

「これで残りはあと一つだな」

「ああ」

 龍麻の重い返事に、京一は別の友人に向けて肩をすくめてみせた。

「なんだよシケた顔しやがって。

あとは雷角の野郎から手に入れた黄色の珠を目黄不動に納めりゃ全て解決……そうだろ?」

「だといいんだがな」

 龍麻の代わりに答えた醍醐の返事も、重く短い。

彼のみならず、龍麻や葵までもが似たような表情をしていて、京一は殊更に声を張り上げた。

「相変わらず心配性だな。龍山ジジイが言ってたじゃねェか。

鬼道衆を斃して珠を封印すりゃいいってよ」

「ほんっとお気楽だね。まだ鬼道衆は全滅したワケじゃないし、九角ってヤツがまだいるだろッ」

 小蒔に痛いところを突かれて京一は黙ってしまう。

彼女の言う通り、鬼道衆の一員である雷角や水角は倒してきた龍麻達だが、

彼らを束ねる首魁である九角はまだ姿を見せさえしていない。

彼を倒してこそ戦いが終わるはずで、それまでは片時たりとも油断してはならないのだ。

 重苦しい空気を振り払うように、醍醐が首を振る。

「まぁ、今はとにかく俺達にできることをやっていこう。

差し当たっては京一の言う通り、最後の珠を目黄不動に納めないとな」

 できれば今日中に目黄不動にも行ってしまいところではあるが、

もう秋も本格的な時期に入りつつあるこの季節は、つるべ落としとは良く言ったもので、

夕方があっという間に夜になってしまう。

今から江戸川区まで行くのは、諦めた方が良さそうだった。

「面倒くせぇな、江戸川まで行くのかよ。俺の青春が……」

 このところすっかり青春から縁遠くなっている京一がぼやく。

彼の求める青春とはある方向に著しく傾斜しているのはこの場にいる全員が知るところで、

どうでもいい愁嘆に同調する気など毛頭ない小蒔と醍醐は、冷たく吹く秋風を捕まえ、

京一に向ける自分達の視線を乗せて放った。

「なッ、なんだお前らッ、若人が色恋を求めて何が悪いッてんだ」

「京一の色恋なんて江戸川どころか世界の果てまで行ったって見つからないよーだ。ねッ、醍醐クン」

「うむ、そうだな」

「即答してんじゃねェッ!! 色恋のイの字も知りゃしねェくせしやがって」

 頭に血を上らせた京一が小蒔に掴みかかるが、

小蒔はひらりと身を躱して醍醐の後ろに隠れてしまう。

そびえ立つ醍醐越しに、とどめとばかりに舌を出した小蒔は、

京一などよりよほど大切な友人である葵の表情が優れないことに気づいた。

「ね、葵……大丈夫? 元気ないみたいだけど」

「え、ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」

「ううん、謝られるようなコトじゃないけどさ。もし調子悪いんなら、遠慮せずに言ってよ」

「そうするわ」

 そう答えたものの、葵はそれ以上話題を続けようとはせず、

小蒔も深く立ち入ることはできなかった。

 だが、小蒔がもう一歩踏みこんだとしても、

葵が胸の内を打ち明けることは決してなかっただろう。

 京一も醍醐も龍麻も、そして小蒔も少なからず怪我を負い、

時には死の可能性すらある鬼道衆との戦い。

その原因が春に転校してきた龍麻ではなく、葵にこそあるのだと、どうして告白できようか。

小蒔は間違いなく葵のせいではないと言ってくれるだろうし、

他の三人も葵の責任を追及などしないだろう。

それでも、自分のせいで小蒔が傷つくなど耐えられるものではなかった。

 葵が口を閉ざしたことで、気まずい沈黙が流れる。

ちょうどその時、この季節にしては冷たい風が吹き、五人の中で唯一腕を出している男が寒そうに腕をさすった。

「まッ、寒くなってきたことだし、今日は帰ろうぜ」

「京一はいつまでそんなカッコしてるの?」

「うるせェな、短ランがどっかいっちまってるんだよ」

「えッ、あんなのどっかいっちゃうモンなの!?」

 心の底から驚く小蒔に龍麻達は笑い、一人憮然とする京一と共に駅へと歩き始めた。

 

 新宿駅に着いたのは、ちょうど会社帰りのサラリーマンが増え始める時間であり、

龍麻達はどうにか話ができる場所に辿りつくまでに散々人の波に揉まれなければならなかった。

 頭髪を乱れさせた京一が、自分より酷い頭の龍麻に話しかける。

「明日は江戸川か……そういや江戸川つったらあの外人、

なんだっけ、ほれ、HAHAHAって笑う奴」

「アランか」

「そう、そいつだ。あいつどうしてんだろうな。緋勇、なんか知ってるか」

「いや」

 氣を弾丸として発射する霊銃使いのアラン・蔵人。

数奇な縁から龍麻は彼と共闘し、彼の村を滅ぼした仇となる盲目者を斃した。

その後、一応連絡先は交換したものの、

他者をなるべく巻きこみたくないという龍麻の意向により、

未だ連絡はとっていなかった。

「アランクンか……うるさかったけど、結構面白かったよね」

「あれが面白いって、どういう感性してんだお前は」

「えー、確かにちょっと葵にはしつこかったけどさ……」

 どうやら京一は本当にアランが嫌いらしく、

まだ話題を続けたいような小蒔を無視して龍麻の肩を叩いた。

「止め止めッ、男の話をするヤツなんざ放っといて飯でも食ってこうぜ」

「あッ、ずるいぞ京一ッ、ボクも行く」

 ほとんどの場合に天秤が傾く、食という名の重りを持っている小蒔は、

迷うことなく新たな話題に飛び乗った。

何しろ龍麻と食べに行くとなれば、食事代を気にしなくて良いのだ。

育ち盛りの小蒔にとって、逃すわけにはいかない機会だった。

 小蒔に笑って頷いた龍麻が醍醐に訊ね、さらにもう一人にも訊ねようとすると、

その前に葵が申し訳なさそうに言った。

「あの、ごめんなさい、私……今日は家族と一緒に外でご飯を食べる約束なの」

「そっか……」

「それじゃ、皆は楽しんできてね」

 約束があるなら仕方ない。

残念さを声に出さないように気をつけて言った小蒔は、葵の顔色がまだすぐれないのに気づいた。

とはいえあまり何度も心配を口に出すと、余計に葵に気を使わせてしまう。

帰ろうとする葵に中途半端に肩の高さまで手を挙げ、振ろうとした小蒔は、

名案を思いついて龍麻に眼差しを向けた。

「あ、うん、バイバイ……そうだ緋勇クン、葵送ってってあげなよ。ボク達お店探しとくから」

「えッ!? わ、悪いわ、ここからなら一人で帰れるから大丈夫よ」

 親友の、悪意のないが迷惑なおせっかいに、龍麻よりも先に葵が反応した。

龍麻と今二人きりになるのは、どうしても避けたかったのだ。

 しかし真剣な表情で小蒔を見た龍麻は、葵の望まない返事をした。

「そうだな、その方がいいだろう。行こう、美里」

 朝の通学途中に教師のマリア共々拐われてしまった葵だから、

それ以上龍麻と小蒔に反対することはできなかった。

「じゃ、後でな。三十分以上遅れたらトッピング全部乗せになるから覚悟しとけよ」

「三十分はキツくねえか」

 ぼやく龍麻に優位を確信したのか、京一の口調はいかにも軽やかだ。

「お前が美里にヘンなコトしねえためにだよ。んじゃなッ」

「後でね、緋勇クンッ」

「美里のことを頼んだぞ」

 醍醐も不公平な賭けを咎めようとはせず、

小蒔に至っては良い提案をしたとばかりに京一の腰を軽く叩く。

 よってたかって外堀を埋められてしまい、

葵は龍麻と帰らざるを得なくなってしまったのだった。

 賑やかに去っていく三人を見送ってから、龍麻に促されて葵は彼らとは反対方向に歩きだす。

しばらく龍麻は無言だったが、人通りの少ない路地に入ると話しかけてきた。

「今日は何か祝い事なのか? 誰かの誕生日とか」

「そうじゃないけれど、マリィの手続きが一段落したから、

そういう意味も少しはあるかもしれないわね」

 複雑な事情を抱えたマリィを養子とするには、ひとかたならぬ苦労と覚悟が要るだろうに、

娘からマリィについて告げられた葵の両親は、悩むどころか喜んで彼女を受けいれ、

煩雑な手続きの数々を葵も驚く手際の良さで処理していったのだ。

「ああ……それは良かった」

 嬉しそうに応じてから、龍麻は腕を組んだ。

「俺も勢いでマリィを引き取るなんて言っちまったが、

法的な手続きとかは全然考えてなかったからな」

「私も話だけ聞いたのだけれど、とても大変そうだったわ」

「美里のご両親には感謝しねえとな」

 マリィを親身に案じている龍麻は微笑ましく、葵はいくらか緊張を解く。

まったく、こうして葵と関係のないことを話すだけならば、龍麻は頼れる知人なのだ。

だが、この初対面の人間であってもさほど時間がかからず打ち解けられる、

人好きのする男は、葵に対してのみ悪魔ともいえるほどの卑劣漢に変貌する。

すんでのところで貞操だけは奪われずにいるが、常に警戒を怠ってはならないのだ。

 龍麻の半歩後ろから、葵は彼の横顔を伺う。

暗くて良くは見えない表情には、一体何が浮かんでいるのか――そして、その皮膚の奥には。

嫌悪しながらも龍麻のことを考えざるを得ない状況に、葵は小さく息を吐く。

開いた唇を閉じたとき、龍麻の足が急に止まった。

何か良からぬことをするつもりではないかと警戒する葵をよそに、

龍麻はじっと暗がりを見ている。

「どうしたの?」

 疑問を投げかける葵に答えたのは龍麻ではなく、鬼の面を被り、

時代錯誤な装束を着た集団だった。

怯えて龍麻の後ろに隠れる葵に、先頭の人物が静かに告げる。

「緋勇龍麻と美里葵に相違ないな。その命……我ら鬼道衆が貰い受ける」

 人数は五人。

衣装だけでなく台詞回しも時代錯誤だったが、彼らがふざけてなどいないのは、

葵ですら感じ取った殺気からも明らかだった。

五人は全く同じ動きで腰を落とし、武器を構える。

制服のボタンを外しながら葵の前に出た龍麻が、葵に脱いだ制服を後ろ手に渡した。

「持っててくれ……買い直さずに済むなら、その方がいいに決まってるからな」

 冗談だったのか、顔の左側を葵に向けて龍麻は小さく笑う。

極小の隙だが暗殺集団である鬼道衆が見逃すはずがなく、一斉に飛びかかってきた。

「緋勇くんッ」

 思わず叫んだ葵が見たのは、苦無に串刺しにされた龍麻ではなく、

旋風のように位置を変え、鬼道衆の一人に拳を打ち込む彼だった。

新宿区とはいっても路地を入れば街灯は一気に少なくなり、

上着を脱いでシャツで戦う龍麻の白い輪郭はまだしも、

闇に紛れることを目的とした忍び装束はかなり見づらくなっている。

そんな状況下で時折淡い光が浮かぶのは、龍麻が拳に氣を乗せて放っているからだ。

鬼道衆は龍麻を囲んで攻撃しようとするが、龍麻は先手を仕掛け、

新たな輝きが生まれると、小さな呻き声と倒れこむ音が葵の聴覚を刺激した。

 何ら有効打を与えられないまま二人を失った鬼道衆は、作戦を変更する。

三人で龍麻を囲んで同じように仕掛けると見せかけ、一人が葵を狙ったのだ。

 彼らの意図に気づいた龍麻は葵を助けようとするが、鬼道衆が立ちはだかる。

背後にも一人が回りこみ、一人を犠牲にして二人で勝利を得ようという捨て身だった。

 挟まれた龍麻だが、突進の速度は緩めない。

前方の敵に正面から突っこみ、相手の攻撃を躱さずに拳を放った。

腕と背中に激しい痛みが走る。

 身体に深々と突き刺さった苦無には目もくれず、

正面の下忍を氣による一撃で昏倒させた龍麻は、

今まさに葵と彼女に襲いかかろうとしている下忍との間に身体を割りこませた。

「……ッ!」

 龍麻の身体に三本目の苦無が突き刺さり、空気が帯電する。

よろけ、倒れそうになるところを踏みとどまった龍麻は、

自らの呼吸で帯電した空気を打ち破ると、

生じた一瞬の隙を衝いて下忍の腹を氣を溜めた拳で打った。

さらに間髪入れず、走り寄ってくる最後の一人である下忍の攻撃を、

今倒した下忍の身体を使って防ぎ、死角からの一撃で打ち倒した。

 静寂が再び訪れる。

倒れた五人の鬼道衆が動かないことを確かめた龍麻は、

刺さった二本の苦無を無造作に引き抜いた。

思ったよりも深く刺さっていた苦無に、痛みが再び炸裂する。

乱れる呼吸を意地で整え、背中に刺さる残りの一本も抜こうとするが、わずかに手が届かない。

一度息をつき、姿勢を変えてどうにか抜き終えると、大きくよろけ、遂には膝をついてしまった。

「緋勇君っ……!」

 さすがに見ていられず、葵は癒やしの『力』を使おうとする。

それを押しとどめたのは、他ならぬ龍麻だった。

「俺は……いい」

「でも」

「これから食事に行くんだろう? 血なんか付けていったら説明が大変だぞ」

 そんなことを気にしていられるほど軽い怪我ではないのは明らかで、

なお詰め寄ろうとする葵から、

制服の上着を受け取った龍麻は何事もないのだと誇示するように肩にかけると、

自分から距離を置いた。

「お前は怪我はしていないよな?」

「え……ええ」

「時間に遅れるだろう。自分で治すから、お前は行けよ」

「でも」

「大丈夫だ」

 重ねて強く言われれば、それ以上はどうしようもない。

血なまぐさい場を離れたいという願望にも後押しされ、葵はそそくさと立ち去った。

「そ、それじゃ、私行くわね。護ってくれてありがとう」

「ああ、また明日な」

 駆けていく葵の足音が聞こえなくなってから、龍麻はよろよろと歩き始める。

暗闇へと去っていく彼の後ろには、赤色の染みが転々と続いていた。

 

 翌朝、義妹のマリィと一緒に家を出た葵が最初に出会ったのは、

幼い頃から知っている近所の老人ではなく、数ヶ月前に知りあったばかりの龍麻だった。

「オハヨウ、タツマ」

「お早う、マリィ」

 親しげに挨拶を交わす二人に、やや消極的に葵も混ざる。

「イイナ、マリィもタツマとアオイオネエチャンと一緒に学校行きたい」

 昨日の一件を知らないとはいえ、無邪気に龍麻を歓迎するマリィの顔がふと曇った。

「タツマ、元気ナイ」

 義妹の指摘に初めて葵は龍麻の顔色が優れないことに気づいた。

昨日からずっとこんな顔色だったのだろうか。

葵の心配をよそに、龍麻は葵の義妹となった異国の少女に片目をつぶってみせた。

「せっかくマリィに会えたのに、すぐにバイバイしないといけないからさ」

「マリィも寂シイ」

 年端もいかない少女に対してさえ軽口を叩く龍麻と、

色恋ではないとしても嬉しそうなマリィに、葵はわずかながら苛立ちを覚えた。

「そうだな、今度家に遊びに来な。約束してからまだ一回も来てないだろ」

「……ウンッ!」

 いよいよ喜色満面の義妹に、葵はたまりかねて口を挟んだ。

「ほら、そろそろ戻らないとお母さんが呼んでいるわよ」

 名残り惜しそうにはしたものの、マリィは素直に言うことを聞き、

二人に手を振って家へと戻っていった。

 マリィの姿が見えなくなると二人も真神に向かって歩き始める。

「随分明るくなったな」

「そうね、家に来たばかりの時は少し戸惑っていたけれど、

今ではすっかり馴染んで、両親も喜んでいるわ」

「俺が引き取ったんじゃ、ああはならなかっただろうしな。良かったよ」

 葵は横目で龍麻の真意を伺ったが、言葉以上の意味は無いようだ。

どう応じれば良いか、葵が言葉を選んでいると、不意に龍麻の頭が揺れた。

倒れはしなかったものの、明らかに普通ではない。

「やっぱり、どこか悪いんじゃ」

 葵が訊ねると、マリィの時とは異なり、龍麻は今度はあっさり頷いた。

「昨日の背中に受けた傷が、手の届かない場所だった。悪いが学校に着いたら治してくれないか」

 葵はほんのわずかでも龍麻と登校したくないと思った自分を恥じた。

龍麻は自分を護ってくれたばかりか、怪我を負い、

その怪我を放置してまで葵の日常を脅かすまいとしてくれたというのに。

マリィにも心配をかけまいとわざと軽口を叩いたのだろう。 

彼の度量の大きさに葵は感じ入るのだった。

 教室に入った葵と龍麻は、鞄を置くとすぐに校舎の人目につかない所に向かった。

まだ登校している生徒も多くないとはいえ、見られて良いものでもない。

階段の陰で龍麻は上着を脱いで後ろを向いた。

葵が背中に触れるとシャツ越しでも肌が荒れているのが判る。

葵が意識を集中させて『力』を使うと、龍麻はすぐに調子を取り戻したようだった。

「助かった」

「あ、あの」

 すぐに上着を着ようとする龍麻に、葵は迷った末にではあったが声をかけた。

「どうした」

「他の怪我をしたところも、一応診た方が良いと思うの」

 龍麻は一瞬考える素振りを見せただけですぐに頷いた。

「そうだな、頼む」

 他に傷を受けたのは左腕と右の脇腹だという。

シャツの上から触れてみても背中のような怪我はなかったが、念の為に葵は『力』を用いた。

「身体が軽くなったような気がするな。ありがとう」

「ううん、私の方こそ」

 穏やかに応じる葵の前で、龍麻が顔をしかめる。

まだ全快していないのかという葵の心配は、最悪の形で裏切られた。

「お前の『力』は少し強すぎるみたいだな」

 龍麻の発言の意味がすぐには解らず、葵は困惑する。

するとにやりと笑った龍麻は、いきなり葵の手を掴み、自分の股間に押しつけた。

「……!! い、嫌っ!」

 葵が思わず叫ぶと、意外にも龍麻はすぐに手を解放した。

「言っただろう……『力』を悪用するのは嫌だってな」

 どうやら状態を確認させたかっただけらしく、葵にもその意味はすぐに解った。

 葵や龍麻が有する癒やしの『力』は、かなりの傷でも治してしまう強力なものだが、

過剰に『力』を使ったり注がれたりすると肉体の活性化が行き過ぎ、敏感になってしまうのだ。

興奮は一時的なものでいずれ収まるとはいっても、

特に若く健康的な肉体で一度生じた欲望を制御するのは難しい。

 『力』の加減を間違えて龍麻の性欲を惹起してしまった葵にも責任の一端はあるとしても、

いきなり股間を触らせる龍麻も充分に非礼であり、葵は怒るべきかどうかとっさに判断しかねた。

 すると、龍麻が再び笑う。

「お前が鎮めてくれりゃ助かるが、その気はなさそうだな。

いいから先に戻ってくれ、俺は屋上で冷ましてから戻る」

 もはや怒る余裕もなく、葵は駆け足でこの場を逃げだした。

 廊下を走り、階段を駆け下りた葵は、教室に入る前に洗面所に寄って呼吸を整えた。

小走りで戻ってきたことよりも、龍麻に受けた恥辱の方が心身に負担をかけている。

手を念入りに洗い、頬が赤くなっていないことを鏡で確かめた。

 龍麻は一体何を考えているのか、まるで分からない。

他人の好感を拒むかのように善意と悪意を気紛れに表出させる彼は、

他者が戸惑い、怒るのを楽しんでいるかのようにさえ見える。

関わらなくて良いのなら極力そうしたいところだが、

鬼道衆が狙っているのが葵当人であるのなら、彼の『力』は必要だった。

いくつもの状況が、葵にかつてない感情――苛立ちを芽生えさせていた。

 できれば顔を洗いたかったが、そういうわけにもいかず、

深呼吸と黙想でできるだけ平静を取り戻してから葵は教室に戻った。

すでに小蒔と醍醐が登校していて、何事か話している。

二人の仲の良さを羨みながら葵が自分の席に向かうと、すぐに小蒔か気づいて手を上げた。

「おはよッ」

「おはよう、小蒔、それに醍醐君も」

 葵が席につくと、小蒔が前の席に陣取る。

まだ教室に生徒は十人も来ていなかったが、小蒔は声を潜めて話しかけてきた。

「昨日ボク達鬼道衆に襲われたんだ」

「えッ、小蒔達も!?」

 驚く葵に醍醐が重々しく頷き、小蒔は彼を真似るように腕を組んだ。

「やっぱり、葵達もなんだ。見たところ大丈夫そうだけど、怪我とかしてない?」

「緋勇君が護ってくれたから。小蒔達はどうだったの?」

「うん。ボク達の方はほら、京一と醍醐クンだからなんともなかったんだけどね。

なんか鬼道衆が気の毒になっちゃうくらいあっという間に倒しちゃったし」

 龍麻が怪我をしたことを、葵は言いだしにくくなってしまった。

元はと言えば自分が単独行動をしようとしたのが良くないのだ。

皆も龍麻も決して指摘はしないだろうが、

固まって行動していれば龍麻は怪我をしなかったかもしれない。

そして今回は治せたが、怪我は致命傷となる可能性もあるのだ。

「そうか、そっちも襲われたのか。とにかく無事で良かった」

「あッ、緋勇クン、おはよ」

「おはよう」

 いつのまにか戻ってきた龍麻が話に加わっている。

先程の出来事などなかったかのように振る舞っている龍麻の顔を、

葵は気恥ずかしくて直視できなかった。

「桜井が言ってくれなかったら、美里を一人で帰らせていた。良かったよ」

「ううん、ボクの方こそ葵を護ってくれてありがと。

それにしても、あんな風にいきなり襲ってくるなんて今までなかったよね」

 しかめ面の小蒔に応じたのは龍麻ではなく、ようやく登校してきた京一だった。

「呑気なヤツだな」

「あ、京一……何が呑気なのさ」

 頬を膨らませる小蒔に、京一は肩をすくめて答える。

「あの後よ、家に帰るまでに二回、襲ってきやがった」

「えッ……?」

「家に着いてからもしばらく辺りを彷徨いてやがった。

下手に気を抜くと寝首を掻かれちまいそうだ。お前はどうだった?」

「襲われはしなかったが、気配はあったな」

「チッ、やっぱりか」

 明らかな人の気配は葵と別れてからもずっとつきまとい、家に帰ってもそれは消えなかった。

早くに電気を消し、闇の中でしばらく様子を窺ってみたが、

どうやらこれ以上の人的損耗は避けるつもりらしく、何もしてこなかったので肚を決めて寝た。

 そう龍麻が話すと、うそ寒そうに小蒔が両肩を抱いた。

「うそ……全然気がつかなかったよ」

 慰めるように醍醐が応じる。

「無理もないさ。奴ら、相当巧妙に気配を消している。

姿は見えんが、俺も昨日から尾けられているようだ」

「ちっとばかし厄介だな……なりふり構わずに来られると、こっちも防ぎようがなくなる」

 特に自分達は良いが、小蒔と美里に関しては。

言外にそう言った京一に、龍麻と醍醐は大きく頷いていた。

「とにかく、摩尼をさっさと返しちまおうぜ。そうすりゃ奴らも何か仕掛けてくるだろうし、

こっちも五人固まってりゃ対策が取りやすいってもんだ」

「京一の言うとおりだな。桜井と美里も、辛いかもしれんが辛抱してくれ」

 醍醐が言うと、小蒔と葵は顔を見合わせて頷いた。

「うんッ、ここまで来たんだから何が起こるか、最後まで見届けないとねッ。

大丈夫、みんな一緒なら、どんなヤツが来たって勝てるよ」

 無邪気とも取れる小蒔の態度に、葵は不安が表に出ないよう抑えつけねばならない。

勝つためには戦いが必要で、自分達と鬼道衆が戦う理由は葵にあるかもしれないのだ。

もしも自分のせいで近しい人が喪われるようなことにでもなったら。

深く葵の心を蝕んだその想像は、予鈴がなっても消え去ることがなかった。

 

 全ての授業が終わり、教室が賑やかになる。

猛々しいまでに騒ぐ生徒達は、青春の一日を友人と、あるいは一人で消化すべく、

数分もすると半分以上が教室を去り、残る半数も時間の問題といった体で支度をしていた。

 注意深く観察すれば、その中に無言の生徒が何人かいる。

彼らはそれぞれ帰り支度を済ませると、一人の生徒のところに集まった。

「それじゃ、行くとすっか。最後の不動へよ」

 教科書など一冊も入っていないのが一目で分かる薄い、くたびれた鞄と、

同じくくたびれた、しかしこちらには命より大事な物が入っている木刀袋を携えた京一が、

龍麻のところに集まってきた仲間を見渡して言った。

「うんッ、終わらせちゃおうッ」

 元気よく答えた小蒔が、同意を求めて親友を見る。

だがそこにあったのは、眉根を寄せた葵の顔だった。

「……どうしたの、葵。気分悪いの?」

「少しだけ。でも大丈夫よ。小蒔の言う通り、これで最後なのだから終わらせてしまいましょう」

 昼を過ぎた頃から、頭が疼いている。

それは大きさこそ小さいものの芯に響いており、他人の話し声でさえ不快に感じた。

しかし、何か──もしかしたら、その疼き──が、摩尼の封印を見届けよと命じている。

「朝も言ったけどよ、固まって動いた方がかえって危なくねえ。

辛いかもしれねェけどよ、今日だけ辛抱してくれ」

「ええ、判っているわ」

 表情には出さないよう努めたが、仲間達は一様に気遣わしげに自分を見ている。

その視線すら、葵には苛立たしく感じられた。

 

 最後の不動となる目黄不動は、江戸川区にある牛宝山最勝寺に奉られている。

さすがに緊張しているのか、五人の中でも特に賑やかな京一と小蒔も駅を出てからずっと黙している。

もちろん龍麻達も同様で、五人は彼ららしくない重苦しい雰囲気の中、最勝寺の門前に立った。

「いよいよ最後だね」

 小蒔の声は緊張を帯びている。

それに答える京一の声も、いつになく真剣味を含んでいた。

「早いとこ祠を探そうぜ。美里と小蒔はここで待ってろよ、俺達で探してくるからよ。

行こうぜ、醍醐」

 京一は醍醐を伴い、寺の中へと入っていく。

 無言で託された役割を理解した龍麻が、彼女達を護るように立った。

「鬼道衆……どっかでボク達のコト見てるのかな」

「どうかな」

 龍麻は既に、幾つかの気配を感じ取っている。

最初からいると意識していなければ判らないほど巧妙に隠されていたが、

確かに鬼道衆はどこかから自分達を見ていた。

京一と醍醐もそれに気づいたからこそ、先に中に入ったのだ。

むやみに緊張させてもいけないと考えてあいまいに答えた龍麻に頷いた小蒔も、

おぼろ気ながら気配を感じているようで、その表情は硬い。

その隣に立つ葵に至っては、元より良くなかった顔色が蒼白になってしまっていて、

今にも倒れそうなほどだった。

早く終わってほしいとそれだけを考える葵の背中に、何かが触れる。

驚くより先に感じたのは、暖かな氣だった。

「俺の『力』じゃ気休め程度だけどな」

「……ありがとう」

 実のところ、龍麻の氣が身体を巡っても、疼きはゴムのボールのようにいっとき小さくなっただけで、すぐに増大している。

それでも葵が素直に礼を言ったのは、

この際彼でも良いから縋りつきたいとまで思っていたからだ。

だが小蒔がいる状況では、龍麻も手を出してはこない。

理不尽な怒りを彼に対して抱きかけたとき、中から京一が呼ぶ声が聞こえてきた。

「おーい、見つけたぜ」

「あ、うんッ、行こッ」

 駆け出す小蒔をも疎ましく思いながら、葵も後を追いかけた。

 祠の前に五人が揃う。

これまで全く興味がなさそうだった京一も、

さすがに最後の一つとなると思うところがあるのか、緊張した面持ちで祠を見ていた。

龍麻が慎重に珠を置く。

全てを封印し終えた時はこれまでとは違う何かが起こるのではないかと見守る一同の期待をよそに、

摩尼が発していた光が消えても、他の四箇所の封印と同じく、祠に変化は見られなかった。

 祠には。

 学校からこの場所に来るにつれて強くなっていた疼きは、

祠の前に立つに至って葵の頭全体を苛んでいた。

それが人の声であると知った葵は、摩尼のことを脳裏から消し去り、

明瞭さを増す疼きを聞き取ろうと意識を飛ばす。

ただのガラス玉と化した眼が、祠の中に置かれる摩尼の色が消えるのを映した瞬間、

その声はいきなり音の洪水となって頭の中に氾濫した。

 

目醒めよ──

目醒めよ、菩薩眼の娘──

そして戻れ、我が元へ──

 

 繰り返される声が保とうとする意識を覆い尽くした時、葵の全身から力が抜けた。

 龍麻の背後で人が倒れる音がする。

「葵ッ!」

 それに重なる小蒔の叫び。

四人とも祠に集中していた為に、摩尼の光が消えた瞬間、

葵が糸が切れたように倒れるのを察知することができなかった。

力なくくずおれる葵を抱き起こした龍麻が、軽く揺さぶってみるが反応はない。

摩尼のことなど瞬時に忘れた四人は、葵を診てくれる場所へと走りだした。

 

 葵は夢を見ていた。

夢、と自覚できたのは、出てくる人物が男性も女性も皆、着物を着ているからだ。

広がる街並みも現代のそれではなく、茶色を基調とした木造の家ばかりだ。

そこに葵はいた。

小蒔も、京一も、醍醐も、そして龍麻も。

服装も髪型も、そして顔も今の彼らと異なるのは、

もしかしたら当人ではなく血縁者なのかもしれない。

しかし、葵も含めた五人は今の自分達と同じように語りあい、笑いあっていた。

場面は変わり、どこかの寺の前や、大きな屋敷の前、それに富士山を近くに見ることもあった。

断片的ではあるが、とても懐かしい感じがする夢だった。

ずっと浸っていたくなる――だが、その夢の全てを知ってはいけないとも、

頭のどこかで理解していた。

 夢が薄れていく。

自分が目覚めようとしていることを葵は知ったが、

それが無意識の恐怖によるものかは判らなかった。

瞼を開けると、心配そうな小蒔の顔が飛びこんでくる。

「こま……き……?」

「良かった……」

 目許を拭う彼女に助けられ、葵は身体を起こした。

「ここ……私……一体……」

「ここは桜ヶ丘中央病院。目黄不動で摩尼を封印したら、いきなり倒れちゃったんだよ」

 小蒔の説明に小さく頷きつつ、葵は夢を反芻する。

未だ夢は残っていた――まるで記憶のように。

懐かしさと共に小さな痛みをも覚えて胸に手を当てると、それを契機としたかのように甲高い声が聞こえてきた。

「突然みんなで来るんだもん、ビックリしちゃったァ~」

「高見沢さん……」

「えへへッ、お久しぶりィ~。でも、意識が戻って良かったねェ~」

 男達と共に入室してきたのは、高見沢舞子だった。

春に知り合った、ここで働きながら看護学校に通っている彼女の笑顔は、

人を安心させる柔らかさに満ちている。

それが意識してではない、自然の笑顔なのが彼女の素質なのだろう。

彼女の笑顔に幾らか気分が落ち着いた葵は訊ねた。

「私……どれくらい眠っていたの」

「んっと……五時間くらいかな~」

 それまで、皆はずっと付き添っていてくれたということか。

葵は申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。

「ごめんなさい、結局皆に迷惑をかけてしまって」

「水臭いことを言うな。仲間を思いやるのは当然だろう」

「そうそう。摩尼は封印できたんだしよ」

 口々に言う京一と醍醐に葵が愛想笑いで応じていると、病室の扉が開いた。

入ってきたのは、ここの院長である岩山たか子だった。

「どうやら気がついたようだな」

 眠たげな眼を葵に向け、たか子は患者の容態を確かめる。

診察ではただの疲労だったが、春先から次々と問題を持ちこんでくる彼らに関する限り油断はできない。

国内における霊的治療の第一人者という裏の肩書きを持つ彼女は、表向きは至って冷たく訊ねた。

「どうだ、具合は」

「はい、もう大丈夫です」

 たか子は葵の優等生的な返事を鵜呑みにすることなく氣を見る。

多少は弱まっているものの、今は安定しているようだった。

「ふむ……確かに、大分良くはなったようだな。

こいつらに話を聞いたが、ローゼンクロイツ学院とやらに攫われた時の、

実験の後遺症が残っているのかもしれんな。

桜ヶ丘で治療を続けているマリィ──お前の義妹になったのだったか、

あの娘も薬物投与の後遺症から回復するのにはまだ時間がかかるからな」

 先日葵に伴われて病院を訪れた外国人の少女を見た時、たか子は驚きを隠せなかった。

まだ十歳前後にしか見えない少女は、激しい薬物によって成長が抑制されており、

本当は十六歳だというのだ。

彼女が持つ火走りという『力』は、成長すると能力が消えてしまうらしく、

それを維持する為に飲まされていたのだという。

その手の薬品事情にも通じているたか子だったが、

マリィに薬を飲ませたジルという男は薬学の知識もあったらしく、

彼が独自に調合したと思われる薬の成分を割り出すにはかなりの時間が必要と思われた。

「家の者には連絡しておいてやるから、今日はここに泊まっていけ」

「でも」

「医者の言うことは素直に聞くもんだ」

 ベッドから降りようとする葵を制止し、

たか子は狭い病室に五人もいる人間を鈍い眼光で睨みつけた。

舞子は病院の関係者なのだが、ひとまとめにされてしまっている。

もっとも彼女はたか子の眼光に、いつなんどきでも臆するところのないという貴重な才能を持っているから気にした様子はない。

「お前らはさっさと帰れ。大人数でいつまでもいられたら他の患者の迷惑だし、

だいいち産婦人科に男がいたら客が来ん。ただし」

「ただし?」

 思わず訊き返した龍麻達に、たか子はこの世のものとも思えない笑みを浮かべた。

「ただし、なんならお前達は泊まっていってもいいんだぞ。

わしも夜の相手が欲しいところだからな」

「いッ、いえ、帰ります。すぐ帰りますッ。お邪魔しましたッ!」

 この世のものとも思えない笑みに、地獄の釜が煮えたぎっているような笑い声が化合して、

龍麻達は一瞬で肝を凍らされ、我先にと飛びだした。

 脱兎よりも素早く部屋から逃げ出した龍麻達に、呆れて首を振った小蒔は、自分も立ちあがる。

「それじゃ葵、ボク達は行くね」

「ええ……今日は本当にごめんなさい」

「また明日来るからさ」

 たか子も去り、部屋に一人残された葵は、再び横になった。

どういう訳かひどく気だるく、五時間も眠っていたというのにすぐにまた眠くなってしまい、

欲求に屈して目を閉じた。

 それを待っていたかのように、頭の中に声が響き、再び往古の光景が蘇る。

思い出してしまったら、皆と一緒にはいられない──

そう拒む心は、脳裏の声に圧されて小さくなっていく。

 

目醒めよ──

目醒めよ、菩薩眼の娘──

そして戻れ、我が元へ──

 

葵は甘美な誘惑に慄きつつ、豊かな映像となって流れ込んでくる夢に自己を委ねた。

 

おい、聞いたか。いよいよ戦になるらしいぞ──

ああ、ああ、何でも幕府が人を集めているって話じゃないか──

京から陰陽師も招かれているという話も聞いたぞ──

そうなればここも危うい、御屋形様はどうなさるおつもりなんだろう──

あんな女など捨ておけばいいものを──

 

姫、どうかお考えなおし下さい──

九角めの申し出を呑む必要など御座いませぬ──

ただ今幕府が武士を募っております故、今しばらくの御辛抱を──

必ずや、九角めの首を取って御覧にいれます──

 

目醒めよ──

目醒めよ、菩薩眼の娘──

そして戻れ、我が元へ──

 

 目を醒ました葵は、自分が泣いていることにさえ気づかなかった。

他の感情が入りこむ余地を許さないほどの哀しみが、身体を満たしていた。

 菩薩眼の女達が辿ってきた宿命。

それらのいずれも辛く、険しい歩みを、葵は全て知った。

 新たな菩薩眼の女として。

 流れる数多の血と涙が大河を生み、戦乱を呼ぶ。

幾つもの時代、幾つもの刻に渡って同じような光景が繰り広げられ、繰り返されていた。

その中心に、菩薩眼の女がいる。

彼女達に仕える男、奪おうとする男。

苦悶の叫びを上げ、顔を歪ませながら、そのどちらもが死んでいく。

 自分を巡って。

 菩薩眼の女を手に入れる為に。

 夢だとは思えなかった。

彼女達の哀しみは、目が醒めた今でも心に深く刻まれているから。

 葵の手の甲に、新たな涙が落ちる。

それは仲間達を想って流れた、別離の涙だった。

 窓の外に、何者かの気配が生じる。

 誰もいなくなった病室で、カーテンが小さく揺れた。

 

 真神学園新聞部部長である、遠野杏子の朝は早い。

書かねばならない記事はいくらでもあるし、学校内で起こる事件は、

どんな些細なことでも掴んでおきたいからだ。

この日も他の生徒が登校するよりも、

まだ二十分以上も前の時間に学校への道を歩いていた杏子は、

前方に固まって歩いている集団を見つけて駆け寄った。

「おっはよーッ、今日も元気そうじゃない、皆の衆」

「おはよ、アン子」

「どうしたの? こんな朝早くから全員揃ってるなんて」

「うるせェな、あっちいってろ、しっ、しっ」

 露骨に嫌そうな顔をする京一を視界から消し去って、アン子は好奇心の赴くままに訊ねた。

「で、何があったの。もしかして美里ちゃんのこと?」

「ううん、今朝病院へ寄った時には元気そうだったから、大丈夫だとは思うけど」

「じゃ何よ」

 三人はあまり言いたがらないようであったが、アン子の勢いに押され、

遂に醍醐が腕を組みつつ言った。

「鬼道衆の奴らについて、少し気がかりなことがあってな」

「摩尼は五つとも封印したんでしょ? で、後残ってるのは九角って奴だけ。問題無いじゃない」

「それはそうだが、美里があの調子だからな。今仕掛けてこられるとこっちも身動きが取れん」

「それもそうね」

 そこまで話したところで、アン子に視界から消し去られた京一が頬を抑えつつ起きあがった。

「っ痛て……てめェら、何事もなかったように話を進めんじゃねェッ!」

「あら、いたの」

 この時のアン子ときたら、瞳に刃を仕込んだような酷薄無残な態度で、

京一になど滅多に同情しない小蒔ですら哀れまずにいられなかった。

 京一を無視して腕を組んだアン子は龍麻達に疑問を呈する。

「ところでその九角って奴は何者なのかしらね。素性も居場所も、何にも判ってないんでしょ?」

「うん……天野サンも調査してくれてるみたいだけど」

「天野さん? 誰よそれ」

 アン子は鋭く小蒔に訊ねた。

 とにかく自分の知らない単語が出てくると、アン子は闘犬のように食らいつく。

それが自分達を幾度も助けてくれた彼女の情報収集能力に繋がると判っていても、

朝からこうではうんざりもするというものだ。

「お前のボスみてェな人だよ」

「何よそれ。詳しく教えなさいよ」

 アン子が訊くと、先ほどの恨みか、京一は嘲るように拒絶した。

「ヘッ、やなこった」

「なんですってェ」

 再び手を振り上げる彼女の攻撃範囲から、京一は素早く脱出して更に挑発した。

本格的な追撃態勢に入ろうとするアン子を何も言わず見送っていた龍麻を、

背中から呼ぶ声がする。

「タツマ──!」

 少し癖のある発音で龍麻を呼んだのは、ついこの間葵の家族の一員になった、マリィ・クレアだった。

龍麻も彼女が美里家の養女になるきっかけとなった事件に関わっており、

マリィもどういうわけか葵の次に龍麻に懐いている。

 マリィは今はまだ養女となるための正式な手続きやら学校の編入やら

ローゼンクロイツ学院で投与されていた薬物の影響を調べるやらで忙しいらしく、

学校には通っていない。

だからこんな時間にここにいることは考えられないのだが、

龍麻は軽く腰を落として彼女を出迎えた。

「マリィじゃないか、どうしたんだ」

「タスケテ、タツマ。アオイオ姉チャンガ」

 息を切らせてそれだけを言うマリィに、目ざましく反応したのは小蒔だった。

「葵がどうかしたのッ!?」

「サッキ、病院ヘ行ッタノ。ソシタラ、アオイオ姉チャンガイナイノ」

「──!!」

「舞子オ姉チャンモ、イナクナッタノ知ラナイッテ。コレガベッドノ上ニ置イテアッタダケ」

 マリィが差し出した一枚の手紙を、龍麻はひったくるようにして読んだ。

 今までありがとう、さようなら──

手紙にはそれだけしか記されていなかった。

龍麻が手紙を小蒔に見せると、彼女は蒼白な顔で葵の字に間違いないと認めた。

 思いも寄らない事態に、龍麻達は立ち尽くす。

通学途中の他の生徒達が怪訝そうに見ていくが、そんな視線になど気づきもしなかった。

龍麻はマリィ以外に一番最後に彼女に会った人物に手掛かりを求める。

「桜井、朝会った時、美里に変わった様子はなかったか」

「う、うん……これといって」

 小蒔の声も沈んでいる。

彼女は親友を自負しながら葵の失踪の兆しに気づけなかった自分を激しく責めており、

その悔悟に駆られる想いは龍麻以上のものだ。

しかし、そこで絶望に沈んでしまったりせず、すぐに立ち直り、

葵を探し出すという決意を心に宿すことができるのが彼女の強さだった。

「オ願イ……アオイオ姉チャンヲ探シテ……」

「大丈夫だよ、マリィ。葵は絶対探し出すから。ね、緋勇クン」

 半べそをかいているマリィの頭を撫でた小蒔は、

意思の強さを宿した瞳を龍麻に向けて力強く言った。

「ああ、とりあえず桜ヶ丘に行ってみよう」

 しかし、走り出した龍麻達の前方に、程なく鮮やかな金髪の女性が現れた。

「アナタ達──どこへ行くの」

「げッ、まずい……マリアせんせー」

「そっちは学校とは反対方向よ」

 もちろんマリアは教師として生徒の集団不登校など見過ごせる訳がなく、

彼女の態度には少しの容赦もない。

仲間達の視線を受けた龍麻は、無駄な時間を浪費するのを避ける為に、簡潔に理由を述べた。

「美里を探しに行くんです」

「探しに……って、どういうことなの」

「昨日、具合が悪くなって一晩病院に泊まったんですけど、朝になったらいなくなったらしくて」

 手短に、かつ要点を抑えた龍麻の説明と、殺気さえ感じさせる真剣な態度に、

マリアは腕を組んで考えこんだが、長い間のことではなかった。

「……今日は欠席扱いにしておきます。

その代わり美里さんを探し出したら、何時になってもいいからワタシに電話すること。

いいですね」

「ありがとうございます、先生」

 頭を下げるのもそこそこに走り出した龍麻達を、マリアはじっと見送る。

その蒼い瞳は、様々な彩いろどりを乱反射していた。

 

 桜ヶ丘中央病院まであと少しというところまで来た時、

龍麻達は道路の反対側からの声に呼びとめられた。

「あら、皆」

「絵莉ちゃんッ」

 龍麻は声の主が誰か判っても、今は葵を探す方が先だと考え、止まる気はなかったのだが、

京一が立ち止まってしまった為に仕方なく絵莉と挨拶を交わした。

「学校はどうしたの? もしかして集団脱走?」

 絵莉の口調にはそれと判る冗談が含まれていたので、龍麻は苛立ちを隠せない。

普段なら彼女の冗談にも応じる余裕があるが、今この時はさすがに無理だった。

 龍麻の焦りを感じ取り、絵莉は態度を改める。

確かに彼女の方にも伝えなければならないことがあり、

朝から無駄な会話をしている場合でもなかった。

「そうね──それじゃ、伝えたいことがあるんだけど」

 絵莉が鞄から手帳を取り出し、ページをめくっている間に、

龍麻の後ろでアン子が小蒔の袖を引っ張った。

「ちょっと桜井ちゃん、この人誰よ」

「そっか、アン子は初対面だったっけ。このヒトがさっき京一が言ってた天野さん」

 自分の名前が出たのを耳ざとく聞きつけた絵莉は、

小蒔と同じ制服を着た初対面の少女に親しげに挨拶した。

「ルポライターの天野絵莉よ。よろしくね、記者の卵さん」

「え? どうしてあたしのことを知って──」

「あなたでしょ? 真神学園の新聞部部長って」

「そ、そうですけど」

 格の違いと言うべきか、アン子が押されている。

こんな光景など滅多に見られるものではない京一達は面白そうに二人のやり取りを見守ったが、

アン子はそれにすら気づかないほど緊張していた。

「やっぱりね、なんとなく同じ匂いを感じたの。噂はこの子達から聞いてるわよ、遠野さん」

「ルポライターで……天野絵莉って……あの、まさか、犯罪心理のコラムを書かれている」

「あら、私の記事読んでくれてるの? 嬉しいわ、ありがとう」

 物書きを志す者で、自分の記事を読んでいると言われて喜ばない人間はいない。

絵莉も例外ではなく、しかもまだ評判になりつつあるといった程度で、

確固たる地位を築いてはいないのに、そんな彼女の連載記事を読んでいると聞かされると、

アン子に嬉しそうに名刺を渡した。

 それを見た京一が自分にも貰えないかとさりげなく手を出してみたが、

やはりさりげなく無視されてしまう。

 それを更にさりげなく気づかないふりをして、京一は素早く話題を変えた。

「絵莉ちゃんっていろんなコトやってんだな」

「しがないルポライターですもの」

 どうやら誰にも気づかれずにすんだようだ、と京一が胸を撫で下ろしていると、

突然アン子が直立不動の姿勢をとった。

大地から垂直に突き立ったかのような、指先までぴんと伸ばした姿勢だ。

「あッ、あのッ!! 初めまして、真神学園新聞部部長の遠野杏子ですッ!!」

 朝の新宿に響き渡る大声で名乗るアン子に、絵莉は頷いたものの苦笑を隠せない。

アン子はそんな彼女にもお構いなしで、

今のところ最も尊敬する人物に会えた喜びを傍迷惑に表していた。

「ど、どうしましょ、本物よ、本物の天野さんに会えるなんて、感激だわッ!!」

「そ、そう、良かったね」

 何故か小蒔の手を取ってぶんぶん振りまわすアン子に、小蒔もそう言うのがやっとだ。

彼女の興奮は見てて微笑ましくなるものだったが、

残念ながら本人以外には少しの感興も呼び覚まさなかった。

「おい、感激のご対面なら後でやってくれよ。俺達ゃ急ぐんだからよ」

 うんざりしている様子の龍麻を見やって、京一が助け舟を出す。

幸いなことに、絵莉もすぐに乗ってくれた。

「急ぐって、どこかに行くの?」

「ええ、桜ヶ丘中央病院へ」

「桜ヶ丘中央病院? 何かあったの?」

「葵が病院からいなくなったんです」

「葵ちゃんが?」

「行き先が全然判らなくて、とりあえず最後に会った桜ヶ丘に行ってみようと」

 醍醐と小蒔に交互に事情を聞いた絵莉は、

ようやく龍麻が苛立っていた理由を知ることができた。

そしてそれは驚くべきことに、まさに彼女が伝えようとしていた情報に関連するものだったのだ。

 手帳をしまった絵莉は五人を見渡し、最後に龍麻の所で視線を固定させて言った。

「一緒に来てもらいたい所があるの。九角に関係する場所なんだけど」

「そんな暇は──」

「いいえ……もしかしたら葵ちゃんの手掛かりが掴めるかも知れないの」

 九角と葵がどう関係があるのか、興味がない訳でもなかったが、

とにかく今は葵の身柄を確保することが最優先であるはずだ。

だから龍麻は相当に渋ったが、絵莉に強引に説き伏せられ、

結局頷かざるを得なくなってしまった。

 それでも慎重に、彼女の予想が外れた時のことも考え、保険をかけておくことにする。

「遠野」

「なッ、何」

「遠野には桜ヶ丘に行って欲しい」

 龍麻の口調には静かな中にも激流を孕んだ、有無を言わせないものがあったが、

今のアン子にはそれでさえも抗わせるだけの理由があった。

「い……嫌よ、絶対嫌。せっかく天野さんとお知り合いになれたんですもの、

今日はついていかせてもらって取材のノウハウとか教えて貰うんだから」

 彼女にとっては生き神に等しい存在が目の前にいるのだ、

その決意を翻させるのは容易なことではなかった。

……生き神様の託宣を除いては。

「遠野さん、お願い。頼めるのはあなたしかいないの」

 生き神様にお願いとまで言われてしまって、杏子は頬を紅潮させる。

それでもなお即答はできないほど、絵莉の側で話を聞けるという機会は魅力的なものだったが、

遂に彼女は妥協点を見出した。

「……サイン」

「え?」

「サイン下さいッ! そしたら天野さんのこと諦められますッ!!」

 図々しすぎる申し出に、絵莉は困って龍麻達の顔を見た。

しかし彼らは一様に肩をすくめたり天を仰いだりしていて、全く役に立たない。

「サインなんて……書いたことないわよ」

「いいんです、天野さんの直筆だったら、もうなんだっていいんですッ!」

 目を爛々と輝かせて先程自分が渡した名刺を差し出すアン子に、

たじたじとなった絵莉は殴るように自分の名前を書きつけた。

もちろんこれは、彼女のサインの第一号になる。

「か……感激だわッ! これはもう家宝にしなきゃッ!!」

 名刺の裏側に名前を書いてもらったアン子はそれを掲げ、

口づけをしてから大事に大事に財布の中にしまった。

「いい、あんた達、天野さんの足引っ張ったらあたしが承知しないわよッ」

 腰に手を当てて、物凄い剣幕で檄を飛ばすアン子に、微笑さえせずに頷いた龍麻は、

いつのまにかついてきていたマリィの高さまで腰を落とした。

「マリィもこのお姉ちゃんと一緒に桜ヶ丘に行くんだ」

「イヤ」

「マリィ」

「イヤ。オ願イ、マリィモ連レテ行ッテ」

 マリィはアン子とは異なり、敵に立ち向かえる『力』がある。

しかしそれはもちろん彼女が戦いの場でも安全であるということではなく、

そもそも龍麻はこんな少女を戦わせたくないのだ。

とはいえ、アン子は利で説得できたが、駄々をこねる少女をどう納得させるか、

とっさには思いつかない。

強引に置いていってしまうか、と考える龍麻の、やや下の位置で碧玉色の瞳が輝いた。

「……」

 瞳はマリィのものではなく、彼女の飼い猫であるメフィストのものだ。

龍麻は猫と意志の疎通ができるなどと思ってはいないが、

なぜかこの時のメフィストの眼光には無視できないものを感じた。

マリィを困らせる奴は容赦しない――

自分の数十倍の大きさの人間にも臆せず威嚇する黒猫に、数瞬考えて龍麻は話しかけた。

「……しょうがないな、でもあんまり俺の傍から離れるなよ」

「ウンッ」

 甘いと言いたげな仲間達の視線に気づかないふりをして、龍麻は絵莉に訊ねた。

「行きましょう。どこなんですか? 九角に関係ある場所っていうのは」

「世田谷区の等々力渓谷よ。その地が九角と深い関わりを持っているわ」

 アン子と別れた龍麻達は等々力渓谷へと急いだ。

 

 等々力渓谷は、世田谷区という東京の都心にあって、

まるで別世界のような静かさと緑に満ちた場所だ。

駅からすぐの渓谷入り口から降りていくと、澄んだ空気と鳥の鳴き声が迎えてくれる。

そして奥には、今でこそ見る影もないが、

その轟くさまが等々力の名の由来となったとも言われる不動の滝が涸れることなく流れ続けていた。

絵莉は更に奥へと案内しながら、龍麻達をここに連れてきた理由を説明する。

「九角家は、天下分け目の合戦として名高い関ヶ原の合戦より前から

徳川家の忠臣として栄えた名門だったわ。それが十五代将軍の頃、幕命に背き、

謀反を企てたとして一族郎党皆殺しの上御家は取り潰し。

その時九角家の長だったのが九角鬼修。

鬼修は鬼道と呼ばれる外法を用い、江戸壊滅を目論んだと言われているわ。

その為に地の底から鬼達を甦らせたとも言われている。

でも結局鬼修は幕府が集めた武士達の手にかかってその命を落としたのだけど、

その子孫は脈々と怨恨の血筋を繋げてきた。

幕府への──いえ、江戸の街に対しての恨みを募らせながら」

「それじゃ、俺達の相手は祖先の復讐の為に」

 それは以前、醍醐の師匠である新井龍山に聞いた話と一致するものだった。

百五十年にも渡る恨みつらみというのは、

たかだか十八年しか生きていない龍麻達には到底理解できないが、

彼らが東京の壊滅を目論み、自分達を狙ってくる以上闘わざるをえない。

それに、絵莉の口ぶりでは葵の失踪の原因にも彼らが関わっているようで、

どちらにせよ許すことはできそうになかった。

「おそらくはね。……後、判っているのは相手があなた達と同じ高校三年生だということ」

「それ……本当ですか!?」

 付け加えられた新たな情報に、龍麻達は一様に驚き、絵莉の顔を見た。

絵莉は冗談の一片も浮かべずに頷き、集めた情報を提供する。

「世田谷にある私立龍州の宮高校三年、九角 天童。それが彼の名前よ」

 声も出ない様子の彼らに続ける。

「そこまで辿りつくのは苦労したわ。九角の祖父を追ってようやく辿りついたの。

今まで調査しても見つからなかったはずよ。

龍州の宮高校の名簿を探しても、九角の名前はないんだから」

「どういうことですか?」

「九角はその高校に存在していながら存在していない──

つまり、学校側が存在を知らないってことよ」

「んな馬鹿な」

 信じられない、と京一が声を上げ、小蒔も首を振る。

しかし絵莉は、自分の調査結果に自信を抱いていた。

「それだけじゃないわ。九角という名前は戸籍上にも存在しない。

どんな『力』が働いているかは解らないけど、

九角はこの東京の陰の中で人知れず生きているの。

もしかしたら、それも鬼道という外法の為せる業なのかもしれないわね」

「江戸時代の怨恨……そんなものの為に水岐や凶津……佐久間は踊らされたのか」

 醍醐の呟きには、深い憤りが込められている。

恨みや妬みなどというものからは縁遠いこの男は、

佐久間が鬼と化した理由がそんなものだったとは信じられなかったのだ。

「ええ……でも、そんなもの、ってだけではないの」

 絵莉の口調が重い。

「九角家が取り潰された理由、そして葵ちゃんがいなくなった理由……それはね」

 驚愕が、龍麻達の間に音もなく広がった。

 

 龍麻達が等々力渓谷の入り口に到着した頃。

病院を抜け出した葵は、渓谷の中にある堂の中にいた。

「御屋形様──女を連れて参りました」

「御苦労……下がっていいぞ」

 病院からここまで、自分を導いてきた気配が消える。

代わりに部屋の中に、濃密な、とぐろを巻いている気配が生じた。

様々な負の情念が絡みあい、鎌首をもたげている。

そばにいるだけで気分が悪くなる陰の氣に葵が動けないでいると、

その氣の持ち主が立ちあがった。

薄暗い部屋の闇を引き連れている男に、葵は今更のように後悔する。

しかし、これは自分が選んだ道だった。

「待ってたぜ……良く俺の申し出を受ける決心がついたな」

「本当に……これで他の人には手を出さないでくれるんですか」

 それだけが彼女の望み、この厭な場所から逃げださない為の心の拠り所だった。

 声を震わせながらも言った葵を男は鼻で笑い、むしろ面倒くさそうに頷いた。

「……いいぜ。約束しよう、他の奴には手を出さねェ」

 男は背が高く、龍麻よりももう数センチほど上背がある。

更に頭頂部で髪を小さく房にしており、

それも含めると醍醐と同じくらいの身長がありそうだった。

葵が恐怖に耐えながら男の顔を見ると、男は顎に手を当て、ふてぶてしく言った。

「それよりも挨拶がまだだったな。俺が九角 天童──鬼道衆の頭目だ」

「あなたは……何故こんなことをするの。罪の無い人を巻きこんで」

 葵の非難は、おびただしい陰氣に呑みこまれ、跡形もなく滅殺されてしまった。

 男の表情から余裕が消え、陰氣が膨らむ。

その宿怨の氣は見えない鎖となって葵の手足を縛り、心を嬲った。

「罪が無いだと? お前には聞こえないのか、この東京に眠る、

亡霊達の怨嗟の叫びが。不実の内に殺された者達の、魂の慟哭が」

 男の告発に唱和するように、不浄の響きが堂内に木魂する。

「俺には聞こえる──復讐しろ──破壊しろ──この街を滅ぼせ──ってな」

 言葉そのものが陰の力を持ったかのようだった。

音一つない空間に、九角の呪言が軋む。

「人の世に於いて、絶対の正義とは何か知っているか。

何が正義で、何が悪か──それを決めるのは神でも仏でもない。

それを決めることができるのは、闘いに勝利した者だけだ。

そうして歴史は作られる。勝者の正義という名の下に」

 九角の声には反論を許さぬ圧力があった。

 葵の脳裏に、夢で見た数々の戦が映る。

菩薩眼の女を手に入れる為に争い、死んでいった男達。

彼らは確かに、名すら残さず消えていった敗者だった。

 葵の顔に微小に浮かんだ理解の色を見逃さず、九角は語調を強める。

「俺は勝者となる。その為にお前の『力』が必要なのさ。菩薩眼の『力』がな」

「いや……止めて、近寄らないでッ」

 恐怖に駆られ、葵は叫んだ。

男の陰氣に、心も身体も食らい尽くされてしまう気がしたのだ。

すると九角はあっさりと動きを止め、手を引く。

「いいぜ。そうしたら約束もなしだ」

 九角の声には駆け引きを楽しむような響きすらあった。

葵は自分がどうしようもなく愚劣な選択をしてしまったことを悟ったが、

もう引き返すことはできなかった。

「俺は別にどっちでも構わねェぜ。俺が欲しいのはこの東京だからな」

 九角が身を引く。

身近に迫った危機が去ったと葵は安心しかける。

その刹那――瞬きさえすることのできない極小の時間に、九角が動いた。

音もなく、風が過ぎる。

何かはわからなくても、何かをされたと直感した葵は息を呑み、小さく喉を鳴らす。

するとそれを契機としたかのように、彼女の服が二つに斬れた。

真神の制服が、もうそこに帰ることはないのだというように、音もなく落ちていく。

「――ッ!!」

 突如として裸身を晒された葵は、とっさに胸と股間を隠してしゃがもうとした。

「隠すんじゃねェ」

 それを阻んだ九角の声は刃のように鋭く、葵は意思に反して身動きできなくなった。

誰にも見せたことのない生まれたままの姿が、今日会ったばかりの男に晒される。

制服を斬り、下着をも断ちながら肌には一筋の傷さえつけていない。

薄く透き通る血管も、楚々として下腹を覆う恥毛も、

全てが美里葵が生まれ持った完全な美しさのままだ。

凄まじい剣技だった。

 立ち尽くす葵の裸身を、九角の眼光が睨める。

龍麻にも似た暗い輝きは、しかし底無しの闇の龍麻とは異なり、強烈な陰を宿していた。

おぞましさに葵の唇がわななく。

葵に許されたのはそれだけで、九角が近づいてきても、威圧されて悲鳴すらあげられなかった。

葵の前に立った九角が、路傍の石を拾うかのように無造作に乳房を掴む。

「あ……ぁ……」

 ようやく絞りだされた悲鳴は、胸を掴んでいる九角の指先にすら届かなかった。

薄い笑いを浮かべた九角は、女を知った動きで豊かに実る肉果を弄ぶ。

圧倒的な恐怖に支配されていなければ、嬌声を漏らしてしまったかもしれなかった。

だか、一通り乳房を蹂躪した九角は、なぜかそれ以上のことはしようとせず、再び椅子に戻った。

「まだ少し時間がある……少し話してやろう」

 戸惑う葵をよそに、九角は膝に腕を乗せて語り始めた。

その口調には何故か憐憫が含まれており、葵の恐怖をいくらか和らげる。

近づこうとはもちろん思わなかったが、葵は彼の話を聞くことにした。

「美里葵――お前は菩薩眼の持つ真の意味を知っているか」

「意味……?」

「そうだ。菩薩とは仏教の開祖である仏陀釈尊の滅後、

広く衆生を救済する為に遣わされた仏神のこと。

菩薩眼とは、その菩薩の御心と霊験を有する者の証。

菩薩眼を持つ者は、大地が変革を求め乱れる時代の変わり目に顕現し、

その時代の棟梁となるべき者の傍らにて衆生に救済を与える。

その為江戸の昔から菩薩眼を巡って幾多の悲劇が繰り返されてきた。

菩薩眼の歴史は戦乱の歴史。江戸時代、我が祖先もその為に徳川と闘い、そして滅んだ。

実の娘である菩薩眼の女を護る為に……な」

「え……」

「徳川は、九角家の長女である菩薩眼の娘を手中に収める為、

九角の人間を皆殺しにし、屋敷を焼き討ちにしたという。

九角家が謀反を起こした訳じゃねぇ、徳川が欲望の為に九角家を滅ぼしたのさ」

「そんな、それじゃ」

「俺とお前は、遠い祖先で繋がっている──共に生きる縁を持って生まれたのさ」

 嘘よ──葵はそう叫びたかったが、どうしても声が出せなかった。

九角の話は、見た夢を裏づけるものだったからだ。

鬼道衆が、なんらかの『力』でそう信じ込ませる為に夢を見せたのかもしれない。

しかし、夢に出てきた仲間達、姿格好は全く違っても、魂が同じだと告げる仲間達は、

確かに過去見たものであり、現在見ているものだった。

だから、彼の話を信じざるを得ない。

 葵は俄に足が震えるのを感じた。

誰かに支えて欲しかった。

独りでは九角の話した真実に耐えられそうになかった。

しかし、仲間はいない。

自分が彼等と別れることを選んだのだ。

「俺はずっとお前を探していた。嘗て我が血筋より、徳川の手に奪われた菩薩眼の娘、

美里葵──お前をこの手に取り戻す為にな。

だから俺は祖先の意に従い、鬼道という陰の呪法を蘇らせ、

その全てを以ってお前を探していたのさ」

 再び九角が立ちあがり、近づいてくる。

後ずさりしようとした葵は、踏みとどまった。

自分が退がることで、彼が身を引いてしまったら、全ての意味がなくなってしまう。

 葵は覚悟を決め、眼を閉じた。

そうでもしないと、これから為されることを受け入れられなかったからだ。

 愚かさをあざ笑うが如く、葵の頬を冷たい涙が伝う。

 陰氣が美里葵の全てを犯した。

 

「……それじゃ、葵は」

 絵莉の話を聞いた小蒔は、喘ぐように言った。

京一達は声すら出せず、葵の持つ過酷な宿命に呆然としている。

「ええ。何らかの形で自分が菩薩眼の所有者であることを知り、

恐らくこれ以上あなた達に迷惑をかけないように九角の許に行った可能性が高いわね」

「そんな……」

 小蒔の中でさまざまな感情が渦巻く。

その中にはどうして相談してくれなかったのか、

どうして勝手に行ってしまったのかといった憤りに近い気持ちも含まれている。

けれども小蒔は陰の心に囚われることなく、今すべきことを迷わずに決断できた。

「そんなの間違ってる。ボク達は迷惑だなんて思ってない……そうだよね、みんな」

「たりめェだ、俺達ゃ好きでやってんだ」

「京一の言う通りだ。たとえ美里にそんな宿命があったとしても、

今ここに居るのは紛れもなく俺自身の意思だ」

 京一と醍醐に続いて龍麻も口を開いた。

「俺はなるべく他人を巻きこみたくないと思っていたから、美里の気持ちが少しは解る。

だからといって、美里一人を犠牲にして解決を図ろうだなんて微塵も思わない」

「……うんッ、そうだよねッ! ボク達で助けてあげないと」

 これまで共に戦ってきた仲間と意思を通じあえたことに、小蒔は喜色満面になる。

だがその笑顔も一瞬で消して、葵が待っているであろう階段の先を見据えた。

「この先が、九角家終焉の地。奥にある古びた御堂──そこが九角家の屋敷の名残だという話よ」

 殺気が漂っていた。

今にも破裂しそうな陰氣が、階段の向こうにひしひしと感じられた。

龍麻達は無言で心を引き締め、氣を練り始める。

 すると階の木陰から、四人の男女が現れた。

「待っていたよ」

「如月! どうしてここに」

「僕の定めは東京を護ること……これほどの邪妖の氣、見過ごすことはできない」

「アランも」

「ボクの中の『力』が言ったネ……等々力不動に行けと。そうしたら、ヒスイに会ったネ」

「雪乃に……雛乃さん」

「ついに鬼道衆とやらいうのと闘うんだろ、オレの出番ってことだよな」

「この地に集まる禍々しい氣……織部の巫女として、わずかな力ではございますが、

ご助力させていただきます」

 彼らはこの先に満ちる邪悪な氣を感じ、なお共に闘ってくれるというのだ。

『力』に極力他者を関わらせたくないと考える龍麻も、彼等の想いを無下にはできなかった。

「ありがとう……でも気をつけてくれ」

 四人に謝意を込めて頭を下げた龍麻は、陰氣を感じているのか、

メフィストを強く抱きしめているマリィの頭を撫でた。

「マリィはここで天野さんと待ってるんだ」

「イヤッ! アオイオ姉チャンガイルンデショ? マリィ、オ姉チャンヲ助ケルッ!」

 マリィの火走りの『力』は充分知っているが、それにしてもあまりに危険過ぎる。

だから無理にでも置いていこうと考えたが、マリィは頑なについていくと言い張った。

階上に満ちる陰氣はもう一刻の猶予もないほどで、

仕方なく、龍麻は説得を断念して連れていくことにした。

 不動尊の境内には、これから始まる闘いを察知して逃げたのか、生き物の気配はなかった。

人々の信仰が集まるはずの場所に、霧と見紛うほどの陰氣が漂っている。

「凄ェ妖氣だぜ」

「なんだ、空が急に暗く──」

 京一が思わず呟いたのと、醍醐が異変に気づいたのはほぼ同時だった。

 空だけではない。

等々力不動全体が、黄昏時の、夜にうつろう寸前のような紫色に染め上げられていた。

何らかの邪悪な『力』が働いているのは明白で、龍麻達は油断無く辺りを窺う。

 堂の前に、一人の男が立っていた。

この場にある陰氣の全てをこの男が生み出しているのではないかというほど、陰を纏った男。

彼が闘うべき敵であることは、見た瞬間に判った。

「そろそろ来る頃だと思ってたぜ」

 氣を漲らせる龍麻達に囲まれても萎縮する様子もなく、男は腕を組んで言い放った。

「俺は九角天童。お前らの敵、鬼道衆の棟梁だ」

「とうとう出やがったか」

 京一が木刀を構えるが、九角は腰に下げた、恐らく真剣だろう刀にまだ手を添えない。

京一には一瞥だけをくれ、最も強い氣を放っている龍麻に視線を止めた。

「お前が緋勇か……いい面構えじゃねェか。菩薩眼の女は本堂の中だ」

「そこを……どけ」

 龍が象られた籠手を装着する龍麻の、全身が金色に輝く。

彼が氣を体内で練りあげたとき、そのような現象が起こることを仲間達は知っていた。

すでに臨戦態勢に入っている龍麻に、彼等も戦いの準備を整える。

春から始まった数々の事件の首謀者である九角天童。

彼を倒せば、全てが終わるのだ。

「生憎と、そうもいかねェな。なァ、お前ら」

 誰もいない虚空に向かって九角は呼びかける。

すると一際濃い氣が彼の周りに集まり、昏い陰を形作った。

「なッ──お前らは……ッ」

「馬鹿な……確かに斃したはずだ」

 醍醐が叫び、如月が同調する。

無論驚きは彼らだけのものではなく、直接鬼道衆と闘ったことのない雪乃と雛乃、

マリィ以外の全員が驚愕を隠し切れず動揺していた。

 斃したはずの鬼道五人衆が、そこにいた。

斃す前と変わらぬ、鬼の面に忍者装束を着た姿で。

「これは怨念よ。てめェらに復讐したいと願うこいつらの憎悪、

悔恨、怨嗟の念が集い、形を取ったのさ」

 愉しそうに説明した九角は、人差し指と中指を立てて顔の前に構え、複雑な印を切り始める。

「目醒めよ……目醒めよッ」

 一度形を取った鬼道五人衆の姿が薄れていく。

しかし彼らは消え去ったのではなく、より恐ろしいものへと変生していた。

化け物。

五人の人型があった場所には、文字通りの化け物が現れていた。

巨大な百足のような化け物、古代の恐竜のような化け物、

獅子のようなたてがみを生やした化け物。

それらは角が生えているという以外は似ても似つかないもの達だったが、

紛れもなく鬼道五人衆が変生したものだと龍麻達に知らしめていた。

何故なら、額、腹、胸……場所は違えど、彼らの身体には鬼の面が張りついていたからだ。

それは面であり、顔ではないのかもしれない。

だが向きさえも逆さまについている面は、

龍麻達の生理的な嫌悪感をそそらずにはおかないものだった。

 自らの手で変生させた部下を満足気に見やった九角は、腰間の剣を抜き放つ。

「さァ、始めようか」

 薄暗い空間に、白刃が煌いた。

 雷光の如き刃を躱し、龍麻は九角と相搏つ。

京一達も武器を構え、それぞれ敵にあたった。

「これが……鬼……こんなんと、緋勇達は闘ってたのかよ……」

 足が竦む。

どれほど覚悟をしていたとしても、

実際に体験する鬼はそんなものを容易く打ち崩してしまうだけの恐怖を雪乃に与えていた。

かろうじて薙刀は構えているものの、その切っ先は大きく震え、

斬りかかることなど到底できない。

その切っ先が奏でる怯えに気づいたのか、鬼の一体が彼女めがけて近づいてきた。

自分の倍以上もある巨体には凄まじいまでの陰氣が張りついており、雪乃の恐怖はいや増す。

恐慌に囚われた彼女に誰かが危険を知らせたが、その声も全く届いていなかった。

 怨念の塊である鬼が、立ったまま動かない人間に向かって大きく拳を振り上げる。

「姉様っ!」

 雛乃も同じく人間が持つ異形への根源的な恐怖に足首を掴まれていたが、

姉に迫る鬼の魔手にいち早く精神を取り戻していた。

素早く矢を番え、宙に向かって射放す。

 小蒔と技量を競うほどの腕前にしては、その弓勢は弱く、

矢は何を狙ったのかもわからないほど虚空に舞った。

その矢筈やはずが、微かな音を立てる。

 既に激しい闘いを始め、

決して聞こえる大きさではないその音は、雪乃だけでなく、龍麻達全員の耳に届いていた。

彼らが聞いていたかどうか、意識すらさせずに直接伝わった幽玄の音色は、

彼らの闘いの興奮を醒まし、落ちつきを取り戻させた。

 その音はもちろん雛乃の双子の姉にも届いている。

心のどこかで何か音がしたのを感じていた雪乃に、急速に五感が戻ってきた。

手足が失っていた感覚を取り戻し、今まさに自分を叩き潰さんと振り下ろされる、

瘤の塊のような化け物の腕を飛んで躱す。

腕が大きな地響きをたてて元いた場所を殴りつけた時、

雪乃はもう一度飛び、鬼の懐に潜りこんでいた。

「せやぁッ!!」

 裂帛の気合と共に、腕を横に薙ぐ。

さっきはかたかたと震え、どうしようもないほど重かった薙刀は、

腕と一体化したかのように軽やかに動き、破魔の『力』を以って鬼を切り裂いた。

 ぱっくりと開いた化け物の断面から、陰氣が噴き出す。

勝機が、見えた。

「雛ッ!!」

「はい、姉様っ!」

 窮地を救ってくれた妹と、ちらりとだけ視線を交わす。

それだけで意思の疎通を終えた二人は、雪乃は前に、雛乃は後方へと移動した。

 鬼の正面から斬りかかった雪乃が、文字通り縦横無尽に薙刀を振るうと、

赤茶色をした化け物の身体に、棋盤のように桝目が刻まれていく。

そのいずれもから陰氣が噴き出したが、鬼は気にした様子もなく拳を揮い続けた。

もちろんこれらの攻撃で鬼が倒せるとは思っていない雪乃は、

苛立った化け物が両手を組み合わせ、渾身の力で自分を狙ってくるのを見て、

正確に距離を測った。

 巨大な膂力を撓めた鬼は、目に見えないほどの疾さで腕を打ち揮う。

その打撃は回避に専念していなければ到底躱せなかっただろうが、

両手を掲げて薙刀を構え、足首に意識を集中させていた雪乃は、舞うように後ろに跳んだ。

轟音が大気を震わせ、砂埃がもうもうと立ちこめる。

自分が立てた土煙によって敵の姿を見失った鬼が、ようやく自分の攻撃が的を外したと悟った時、

雪乃は既に地にいなかった。

かがんだ姿勢になってもなおニメートルを超す高さにある鬼の目に、

標的であるはずの人間が映る。

その姿は、見上げねば捉えられない位置にあった。

 鬼の腕を利用して高く跳んだ雪乃は、氣を込めた刀身を、鬼の眉間につい、とあてがった。

魔を斬るに力はいらん、ただ心を清め、清めた心を刃に重ねて討て──

何度も祖父に言われたことを思いだし、腕の力を抜き、破魔を念じて刃を下ろす。

そう言われても、これまでそれを用いる機会はなく、また彼女の気性もあって、

雪乃はほとんど祖父の教えを意識したことはなかった。

それが何故今、急に思い出されたのかは判らない。

しかし、初めて腕力に頼らず、妹と違って本当に持っているのかどうかも怪しい

破魔の『力』のみで揮った薙刀は、飴のように鬼の身体を切断していた。

 再び鬼の腕に降りた雪乃は、恐ろしいまでの自分の『力』に震える暇もなく跳び退る。

回避ではなく、次なる攻撃の為に距離を取ったのだ。

 すると鬼の、たった今自分が刻んだ傷口に一本の矢が突き立った。

線の破魔の『力』を以って開いた穢れに、点の破魔の『力』を以って清めの孔を穿つ。

自分の半身とも言える妹が、そら恐ろしいまでの正確さで貫いた急所に向かって、

『力』を撓めた雪乃はもう一度跳躍した。

染みのように浮き上がっている白い矢羽根を中心点として捉え、

斜めに斬撃を与えると、両足さえ地面に置かず三度目の跳躍をし、

逆方向から斜めに氣を振り下ろす。

閃光が鬼の躯に溶け、疵が大きく十字に刻印された。

雛乃が穿った破魔の孔によって、その疵は深く鬼の中心にまで達する。

「が……ごぉおぉぉぇああッ」

 断末魔の叫びを上げる鬼の躯が、闇に透けていく。

遂にそれは闇に呑みこまれ、完全に消え去った。

「雛……ありがとな」

「そんな……わたくしは何もしておりません」

 鼻をこすりながら雪乃が礼を言うと、

雛乃は姉に較べてほんの少しだけ丸みを帯びた頬を桃色に染めた。

「へへ……よし、他のヤツを助けに行こうぜ」

「はい、姉様」

 二人は同時に頷き、まだ数多感じる魔の気配を祓う為に武器を構えた。

「てめェとこうやって喧嘩すんのは久しぶりだな」

 醍醐と肩を並べた京一が、負の咆哮で威嚇する鬼を睨みつけて言う。

「そうだな……一年の時以来か」

 隣で氣を練り、指を鳴らす醍醐は、どこか楽しそうに答えた。

それに気づいた京一は、呼吸を乱さないよう口の端だけを軽く曲げる。

「お前……気づいてるか? 声が笑ってんぞ」

「そうかもしれん……強い奴と闘る時は、どうしてもな」

「けッ、ったくよ。けどよ……負けんじゃねェぞ」

「当たり前だ、俺はもう一度総番に返り咲きを狙っているからな。こんな所で負けていられん」

 こんな状況で冗談を言う醍醐に、京一は初めて面白そうに視線を向けた。

「……お前、変わったな」

「そうか? ……なら、緋勇のせいかも知れんな」

 京一は満腔の意を込めて頷き、襲いかかる鬼の初手を躱した。

巨体からは想像もつかない疾さで繰り出される拳を軽々と避け、返す刀で撃ちこむ。

一瞬も停滞することのない動きは流水の如く、静から動へと移ろう様は懸河の如く。

「まァ、こんなに暴れられンのはヤツのおかげッてのは間違いねぇな」

 対照的に醍醐は鬼の攻撃を真っ向から受け止め、荒ぶる肉体を以って弾き返す。

強引に作り出した隙に、鍛え上げられた豪腕に氣を乗せて鬼に叩きこんだ。

襲いかかる虎の如き猛撃を、呼吸の続く限り続ける。

 氣は個人の才能に拠る部分が大きいが、その中には肺活量も含まれている。

呼吸によって生み出すのが氣なれば、その元となる量が多ければ氣も強くなるのが理だ。

醍醐はその恵まれた体格と、宿星によって宿る白虎によって、量だけなら龍麻をも凌駕する。

練る、という技術においては劣っても、威力では決して龍麻に引けを取らないのだ。

「があッ……!!」

 乳白の氣を受け、醍醐の体躯をも倍する鬼の巨体が揺らぐ。

そこに阿吽の呼吸で京一の揮った木刀が、白い軌跡を重ねた。

吸い込まれるように消えた氣の刃は、斬れ味鋭く鬼の身体を断った。

紙を裂くように分かたれていく化け物の、胴体の方に醍醐がとどめとばかり体当たりを浴びせる。

「ぉぉぉぉ……っっっ」

 無念を遂げること叶わず、再び常世に還った鬼が、姿を薄れさせていく。

「よっしゃッ!」

 斃したことを確かめた京一と醍醐は、軽く腕を打ち合わせると、彼らの友の援護に向かった。

 

 音のない銃声が響き渡る。

氣の弾丸を撃ち出すことの出来る霊銃を持つアランは、巨大な翼を持つ鬼と相対していた。

巨体をものともとせず宙を跳びまわる鬼にも、氣の弾丸は狙いを外さず命中していたが、

鬼の表皮は甲殻類のように硬く、更に陰氣によって威力が著しく減殺されてしまっていた。

命中した弾丸をものともせず、猛禽のような体当たりをしてきた鬼を横転して躱す。

思うような効果を与えられず、

アランは陽気なラテン系の青年というのが仮面であるかのように苛立ちを剥き出しにしている。

すると彼の、グレーと黒の中間に位置する瞳に、くすんだ金髪が映りこんだ。

どう見ても十歳前後にしか見えない少女は、確かマリィと呼ばれていたはずだ。

龍麻達が何故こんな危険な場所に彼女を連れてきたのか、

アランは問い質したく思ったが、今はそれどころではなく、短く彼女に言うのが精一杯だった。

「Step back,lady.」

「Don't get in my way.」

 少女は下がるどころか、足を肩幅よりも少し広めに開いて、その場から一歩も動こうとしない。

鬼は両腕を開いて威嚇し、地上にいるアランとマリィ、二人を纏めて屠るべく舞い上がる。

鬼の攻撃を予想したアランは、彼女を抱いて避難するか迷った。

すると、彼の、鬼に向けていた方の半面がオレンジ色に彩られる。

腕を振り上げていた化け物は体勢を崩されて怯み、わずかに後退した。

 少女の『力』を知ったアランであるが、危険であることに変わりはない。

もう一度下がるよう促そうとすると、少女は再び意識を束ね始めていた。

『力』を用いる時に集中を乱されると、疲労が何倍にも増す。

これは例えば、わき目も振らず勉強していたのを中断してしまうと、

もう一度集中しようと思っても中々できないのに近い。

同じ『力』持つ者としてそれを熟知しているアランは、

全く言うことを聞かない少女に軽く腹を立てながらも、鬼に対して霊銃を構えた。

 狙点を定め、弾を意識する。

氣の弾丸と言えども発射してしまえば通常の弾丸と同じであり、直線にしか飛ばない。

違うのは空気の影響を受けない為、弾の速度は術者の氣の込め方のみで決まるのだ。

今、アランは少女を護ることを一義に置いていた為、それほど氣は込めずに銃を撃ち放した。

 それよりもわずか、時間にして一秒にも満たない前に、

マリィは巨大な鬼の一点を凝視し、そこが『燃えている』イメージを形作る。

 大きさ、色、火勢──自分が思った通りに火を点けることができると知ったのは、

ジルに拾われて以後だった。

それより以前、いたはずの両親の記憶はマリィにはない。

彼女が思い出せるのは、眼一杯に広がる赤く大きな焔、それだけだった。

 ジルに拾われてから幾度もさせられた、焔を生み出す訓練。

自分が考えることで物が燃え、燃えた物は元には戻らないと知ったのはその時からだ。

それが良いことか悪いことかさえ、マリィには解らなかった。

ただ、やらなければ食べ物を貰えず、鞭打たれる──

その恐怖と生存本能だけで『力』を使い続けていたのだ。

 今、マリィは焔を念じる。

ジルに命令されてではなく、アオイを、姉で、友達で、家族のアオイを助ける為に。

 マリィの念じた焔が、鬼の身体に着火する。

鬼の纏う氣によって防がれたため、完全にイメージした通りにはならなかったが、

三十センチ四方の焔が化け物の腕の付け根を燃やし始めた。

そこに、アランの撃った弾丸が命中し、紅蓮の焔の中心にドーナツ状の穴が開く。

一瞬、中心から広がった穴によって消えてしまうかと思われた焔は、

たちまち業火と化して鬼を燃やした。

「うごォッッ!」

 激烈な火勢は、アランとマリィ自身をも驚かせるものだった。

小さな面だった焔が、今や数倍の面積となって焚きつけられている。

「……!!」

期せずしてお互いの『力』がこれ以上ないほど相性の良いことに気づいた二人は、

初めて視線を交わし、別の場所を狙った。

「I never pardon if you go wrong.」

「OK.Don’t be too hard on me,lady.」

 叩きつけるように言うマリィにおどけて答えつつ、

アランは膝を落とし、狙点を定めたまま氣の弾丸を練り上げる。

 怒り猛った鬼が、固まって動かない二人に向かって突進してきた。

「Go along!!」

 化け物全体が燃えるイメージを作り上げたマリィは、一気にそれを解放する。

マリィ自身もこれまで使ったことのないくらい大きな『力』は、わずかな間を置いて彼女に応えた。

二メートルを優に超える鬼の身体が、一瞬で焔に包まれる。

そしてその焔は、一呼吸の間を置いて爆発的に勢いを増した。

 焔は、神火と化す。

鬼が宿す陰氣ごと浄化する神火は、普通の焔ではあり得ない疾さで鬼の身体を焼き払った。

「がッ……ごおぉおォッ!!」

 翼を、そして身体全体を燃やされた鬼は、火だるまになって落下する。

陰氣によって形を成した鬼は、肉がくすぶる厭な臭いも、燃えさかる音も立てず、

ただ静かに、浄火の中で燃え続けた。

 やがて焔が収まった時、巨大な躯はどこにもない。

敵を屠ったアランとマリィは、揃って安堵の息を吐き出す。

 異なる音程の吐息を聞いた二人はお互いの顔を見たが、

アランが人好きのする──と自分では信じている──笑顔を浮かべると、

マリィは怯えたように走っていってしまった。

「……」

 アランは一つ首を振ると、まだ闘っている仲間達を助ける為に走り出した。

 

 鬼の身体に、何本もの苦無と、それに倍する数の矢が突き立っている。

的確に急所のみを狙って放つ如月と、

大きな的に向かってとにかく矢を射放す小蒔がこの鬼と対峙していたが、

二人とも鬼に有効打を与えられていなかった。

如月の受け継ぐ飛水の技による水の術は水がないこの場所では使えず、

忍びの技では硬い皮膚を貫くことが出来なかったのだ。

小蒔も同様であり、生きている敵には有効である矢も、

痛みを感じない鬼の動きを止めることは出来ず、無駄に矢を消耗しているだけだ。

「如月クン、なんかすっごい忍術とかないの?」

 明らかに間違った期待をしている小蒔に、如月は冷たく答えた。

「ない」

「え~、がま蛙呼び出すとか、分身の術とかさ」

 彼女の忍びに対する認識を改めたいという誘惑に如月は駆られた。

もちろんその間にも鬼の攻撃を躱し、苦無で攻撃している。

しかしこのままでは埒が開かないのも確かで、如月は素早く思案をまとめ、彼女に伝えた。

「桜井さん。今から鬼の動きを止める。目を狙えるかい」

「え? うーん、できると思うけど」

「よし、それじゃ頼んだ」

 小蒔の返事を待たず、如月は飛ぶ。

空中で鬼の腕を避け、慎重に狙点を定めて苦無を投じた。

「って、ドコ狙ってるのさ」

 小蒔が思わず叫んだほど、投じられた武器は大きく鬼の身体から離れた地面に刺さった。

「今だ!」

しかし、如月が当然のように叫んだ為、小蒔は反射的に矢を番え、鬼の目に向けて射る。

巨体の割に俊敏な鬼には簡単に避けられてしまうと思われた矢は、

嘘のように簡単に目に刺さっていた。

「……え?」

「もう片方もだッ!」

 怒鳴られながら射た二本目の矢も、吸い込まれるように命中する。

訳が解らず小蒔が標的を見ていると、完全に動きの止まった鬼の上に、如月の影が見えた。

頭の上に乗った如月は、腰に括りつけた刀を抜き放ち、脳天にある角の裏側に刃を突き立てる。

根元まで刀を埋め込んだ如月は、鬼の頭から離れ、宙で小蒔に最後の指示を出した。

「眉間を狙うんだっ!」

 今度の反応は素早かった。

如月の語尾が消え去らないうちに、一本目の矢が正確に額の中央に突き立ち、

わずかな間を置いて二本目がその数センチ下に刺さる。

そして矢からは氣の焔が噴き出し、鬼の顔を燃やし始めた。

これまでの苦労が何だったのかというほどあっけなく鬼を斃した小蒔は、

そのきっかけとなった如月の技について尋ねる。

「ね、ね、何したのさっき?」

「影縫い……相手の動きを止める忍術さ」

「あ、それ聞いたコトあるよ! すっごーい、ボク本物の忍術見たんだ!」

 苦戦もどこへやら、感激に興奮する小蒔に苦笑した如月は、次の標的を定め、高く跳躍した。

 

 九角の斬撃を躱し、懐に飛びこむ。

学生服を斬り裂かれ、長めの頭髪を何本か犠牲にして得た機会を、龍麻は逃さなかった。

斜めに振り下ろされた九角の刀が戻るより疾く、手刀を撃ちこむ。

狙い違わず手首に叩きつけた手刀は、九角の手から業物を弾き落とした。

「ちッ──」

 九角が舌打ちする刹那に、龍麻は更に半歩踏み込んでいた。

身体を庇う九角の腕をくぐり抜け、腹に重い一撃を放つ。

さっき九角の手首に撃った一打で氣を放ってしまった為に、拳のみの力で九角を殴りぬいた。

九角は大きくよろめいたが、すぐに反撃してくる。

「──ッ!!」

 胃が悲鳴をあげる。

身体を抉られるかというほどの九角の剛拳に、龍麻は全身の力で耐えねばならなかった。

拳を固める余裕などなく、倒れないようにするのがやっとだ。

そこに九角が強烈な右フックを見舞う。

身体を沈めてそれを躱そうとした龍麻だったが、膝が言うことを聞かなかった。

頬に熱いものを感じ、目の前が暗転する。

龍麻は自分の頭が参道の石畳に激突する鈍い音を、どこか遠くに聞いた。

「龍麻ッ!」

 友人の声が遥か遠くから聞こえる。

だが、それは倒れた龍麻を助ける力にはならなかった。

 意識が遠のき、心地良い睡魔が瞼を重くする。

誘惑に負けそうになる寸前殺気を感じた龍麻がとっさに身体を横転させると、

腹のあった場所を九角の蹴りが通りすぎた。

それを見届ける暇さえなく、両手をついて身体を跳ね起こす。

優位を疑わない九角が矢継ぎ早に拳を繰り出したが、

そのいずれもを躱し、あるいは受け止め、龍麻は氣を練った。

 止めをさせないことに苛立ったのか、九角の攻撃に小さな隙が生まれる。

常人では見抜くことさえ難しい、動作の間にある一瞬の停滞に、

龍麻は己の右腕に全ての氣を乗せて叩きこんだ。

 氣が、心臓を撃ち抜く。

龍麻に劣らない膨大な陰氣によって防御してもなお、

その威力は九角の身体を大きく吹き飛ばすほどのものだった。

「やった……のか……」

 息を呑んで二人の攻防を見守っていた醍醐が、動かない九角を見てようやくそれだけを言う。

九角に対する好悪の念とは別に、圧倒的な闘いに、文字通り呼吸を忘れていたのだ。

「緋勇っ」

 肩で息をしている龍麻の名を呼ぶと、

倒れた九角を睨みつけていた龍麻が背中越しに小さく手を上げた。

振り向く余裕もないほど消耗しているのだと醍醐が判ったのは、

足を引きずりつつ本堂に向かう姿を見たからだ。

龍麻を助けるか迷った醍醐だが、まだ戦っている他の仲間を助けるため一旦踵を返した。

 

 本堂に入った龍麻を出迎えたのは、鬼道衆ではなかった。

「緋勇……君……」

 陽ひかりの届かぬ場所から、仲間達の死闘を一糸まとわぬ姿で凝視していた葵が、

顔を腫らし、倒れる寸前の龍麻を見て駆け寄る。

「九角に何かされたのか」

「い、いいえ、服を斬られただけ」

 裸身を晒していることに気づいた葵が慌てて身体を両手で隠すと、

龍麻が自分の上着を脱いで着せた。

そこに全ての敵を倒した小蒔達がやってくる。

「葵ッ、大丈夫ッ……てうわッ」

 男子制服の上着だけを羽織う葵の姿を見た小蒔は、慌てて彼女に続く仲間達を押し留め、

後ろ手で本堂の扉を閉じた。

完全には閉じずに残した隙間から、改めて親友の無事を確かめる。

「葵……怪我はない?」

 気遣わしげな小蒔にも、弱々しい微笑で応えただけの葵は、

視線を落とすと消えそうな声で言った。

「お願い、緋勇君……それに皆も。私のことはもう……放っておいて」

 葵の言葉が聞こえた者で、理解できた者は一人もいなかった。

小蒔などは九角に何か良からぬ法を施されたのではないかと疑ったほどだ。

「葵……どうしちゃったのさ。九角に何かされたの!?」

「私のせいで、たくさんの人が死んでいく……私のこの、呪われた『力』のせいで……」

 葵は恐慌に陥っているのか、頑なに拒む。

「私も……きっと今に、この『力』で皆を傷つけてしまう。

だからもう、皆とは一緒に行けない。私のことは……忘れて」

「葵……」

 知り合って三年、初めてこれほど感情を露にする葵を見た小蒔は、

どうしたら良いか解らず立ちすくんでいた。

他の仲間達も葵の異様な興奮状態に圧されて、

わずかに開いているだけの扉を葵が閉めようとしても、声すら出せなかった。

ただ一人を除いては。

 葵と小蒔の会話に口を挟まなかった龍麻が、閉じつつある扉を止めて逆に開け放つ。

不意を突かれた葵はよろめき、彼に抱きとめられた。

「離して……ッ!」

 もがく葵に放たれたのは、音高い平手打ちだった。

頬を押さえて呆然とする葵に、龍麻は低い声で諭す。

「俺はこの『力』で不幸になる人間がこれ以上出ないようにするために戦っている。

そこには当然お前も含まれている……お前は『力』を悪用する気はないんだろう?」

「……でも」

 反抗期の子供のように、意味のない反発を続けようとする葵に、龍麻はゆっくりと続けた。

「戦いは避けられないとしても、俺達はこれまで誰もやられていない。

それがお前の『力』のおかげなのは皆解ってる」

「そッ、そうだよ、葵は『力』を悪用なんかしてないし、皆を治してくれたじゃないッ!」

 平手打ちをした男とされた女の双方に目を丸くしていた小蒔が、龍麻の説得に慌てて同意した。

「お前に敵が群がっても、俺達が全部蹴散らす。

そのうちこんな『力』も消えるだろう。それじゃ駄目か?」

 その危険を避けるためにこそ皆と離れる、という理屈を正面から砕かれた葵に、

もはや考えを押し通す気力はなかった。

「わた……し……」

「帰ろう、真神に」

 龍麻の声が閉ざしていたはずの心に沁みる。

彼に対する嫌悪も一時忘れ、葵は彼に縋りついた。

「ううっ……あああッ……!」

 あふれる膨大な想いは、泣くことによってしか表現することができなかった。

 全ての想いを流し尽くした葵は、龍麻の胸から離れる。

新たに生まれてくる想いに、陰はなかった。

ただ仲間達を愛しむ想い。

そっと目許を拭って堂の奥から彼らの所に戻ると、仲間達は笑顔で迎えてくれた。

「オ姉チャンッ!」

 涙声のマリィが飛びついてくる。

それを受け止めてやると、同じく目を赤く腫らしながら笑う小蒔に軽く肩を小突かれた。

「……心配したんだからッ」

 京一も、醍醐も、他の仲間達も笑っている。

まだ目許に涙を溜めたまま葵が微笑むと、後ろから龍麻がやって来た。

「帰ろう」

 だが頷く前に、葵は確かめておかねばならないことがあった。

「九角は……」

「斃した」

 龍麻の言葉は短く、聞き間違いようのないものであり、葵は小さく息を呑んだ。

それを誤解したのか、京一が陽気に言ってみせる。

「これで俺達の闘いも終わったってコトさ」

 しかし、彼の声に被さるように堂の外から悪しき響きが聞こえてきた。

「まだ……これしきのことで、俺は斃れんぞ」

「九角……ッ」

「来いよ……俺達の闘いは殺るか殺られるかじゃねェと終わらねェ……そうだろ?」

 葵は訴えかけるように龍麻を見たが、龍麻の表情は変わらなかった。

彼だけでない、京一も、醍醐も、小蒔も。

彼を斃さねば終わらないという覚悟が、全員の顔に浮かんでいた。

「凄ェ瘴気だな」

 堂へと続く階段を最初に降りた京一が、毒素さえ感じさせるほどの氣に眉をしかめる。

続こうとする龍麻を押しのけて外に飛び出した葵は、九角に向かって叫んだ。

「もう止めて、こんな闘いはッ」

 返事はなかった。

肌を灼かれるような陰氣の只中に立ち、両手を掲げ、

何物かに向かって呼びかける九角の声が葵の悲痛な叫びを粉々に砕いた。

「来い……この地に漂いし怨念たちよ。俺の中に巣くうおぞましき欲望よ、俺を食らい尽くせッ」

 彼の身体に陰氣が凝縮していく。

長身を瞬く間に覆った陰氣は、なおも集まり続け、

九角が鬼道五人衆を変生させた時よりも昏い陰が彼のいた場所を侵食する。

「いと憎き、徳川の地よ。いと恨めしき、我が宿命よ。

我が悲願叶わぬなら、この現世を我に相応しき鬼共の這う地獄に変えるまで。

見るがいい、我が真の『力』を──ッ!!」

 その姿は、まさしく鬼そのものだった。

赤黒い肌に鋭い牙、隆々と盛りあがった筋肉、三メートルに届こうかという体躯。

鬼道五人衆が変じたのとは全く違う畏怖を呼び覚まされ、京一達は誰一人として動けなかった。

それは初めて鬼を見る雪乃は無論、魑魅魍魎の類は幾度となく見ている如月でさえ例外でなく、

人の心の奥底にある原初的な恐怖が形となった鬼に、竦みあがっていた。

 その中でただ一人、動いた人物がいる。

立ちこめる闇を、龍麻がまとった金色の輝きで払いながら、鬼と化した九角に突進した。

「はあああッ──」

 大地を踏みつけた力を打撃に変換し、練った氣を拳に乗せて鬼の腹に撃ちこむ。

ありったけの氣を込めて放った一撃だったが、悪鬼と化した九角には致命傷とならなかった。

 無防備になった一瞬、鬼の爪が、横薙ぎに龍麻を払う。

大木ほどもある、筋肉がいびつに盛り上がる腕から繰り出された攻撃は、

龍麻の身体をぼろ屑のように吹き飛ばした。

防御の体勢すら取れずにそれを受けた龍麻は、為す術なく木に叩きつけられる。

したたかに頭と背中を打ち、そのまま根元に倒れ伏した。

「緋勇!」

 何かの冗談のように軽々と吹き飛ばされた龍麻が、醍醐の瞳に映る。

「ヒユー!」

 友人がやられるのを、アランは助けられなかった。

「緋勇君!」

 邪妖の氣に折伏された黄龍を、如月は見る。

「タツマッ!」

 マリィがアオイとパパとママの次に好きなお兄ちゃんが、痛がってる。

 鬼に倒された龍麻に、四人は震えた。

怒りに。

彼を護りたいという、宿星に。

「うおおお……ッ」

 如月と醍醐は、聖獣の『力』が、魂の奥底からひとりでに噴き上がってくるのを感じた。

そしてそれは、近くに感じる別の氣と共に昇華していく。

「What……?」

「身体ガ……熱イ……」

 アランとマリィは、初めて感じる己の中の凄まじい『力』に戸惑いを隠せなかった。

もし彼らが一人で覚醒してしまったなら醍醐と同じく暴走してしまったろうが、

彼らの氣は同じ四神の宿星を持つ醍醐と如月の氣によって制御され、

あふれ出す膨大な氣にも自我を失うことはなかった。

 四方を守護する聖なる氣が、龍を護る為に覚醒する。

辺りに満ち満ちていた陰氣さえも取りこんだ四神の『力』が、鬼の身体を包み込んだ。

「ぐおおッッ!!」

 四色の、淡い輝きが巨大な鬼を覆う。

陰氣を食らうことで鬼と化した九角は、相反する氣に身体を切り刻まれ、苦悶にのた打ち回った。

「う……」

 気を失っていた龍麻が身体を起こす。

まだ朦朧とする中、鬼と化した九角を囲む仲間が目に映る。

四人の攻撃は大きなダメージを与えているが、倒すには至らないようだ。

 龍麻は大きく息を吸い、九角と決着をつけるべく氣を練った。

「緋勇ッ」

「ダイジョウブデスカ、ヒユー?」

「緋勇君」

「タツマオ兄チャン、良カッタッ」

 喜ぶ四人に応えた龍麻は、もう充分に練り上げた氣を更に高める。

質量共に圧倒的な氣が龍麻の身体から発せられ、四人が下がった。

彼らの瞳、否、身体全体を、黄金の光が照らし出した。

荘厳な輝きは、眩いにも関わらず目を開けていられる。

今や彼らだけでなく、等々力不動全体をも照らし出す曙光に、仲間達は等しく勝利を確信した。

 感覚が、失せる。

九角を斃そうと氣を練った龍麻は、

途中から自分が生み出す以上の氣が流れ込んでいることに気づいた。

制御しようとしてもどうにもならないほど多くの氣に、龍麻は抗うのを止める。

すると流れ込んでくるそれらの中に、仲間達の氣が微かに感じられた。

京一、醍醐、小蒔、如月、アラン、雪乃、雛乃、マリィ、そして、葵。

彼らの想いは膨大な氣の流れの中で自我さえ失いつつあった龍麻を繋ぎとめ、

それに導かれるように氣が収斂していく。

「──ッ!!」

 基底と頭頂の前に手をかざし、

己が下に戻ってきた氣を両の掌に乗せ、全てを終わらせる為に鬼に向かって放った。

 陰が、陽の中へと取りこまれていく。

陽に呑みこまれた鬼はそこから逃れようとしたが、陽は巨体を包み込んでなお大きさを増し、

遂に鬼の姿を己の中に消し去った。

 

 全ての氣を放った龍麻は、立つだけの力も失くしてしまっていた。

膝が砕け、その場に座りこんでしまいそうになる。

すると、肩が力強く支えられた。

「……っと。見届けるまでは、倒れんじゃねェぞ」

 京一の肩を借りてどうにかその場に立つ。

少し乱暴に感じる支え方は、気のせいではなかった。

「ッたく、やられるんならもうちっと早く言えよ」

 言い返そうとした龍麻は、こちらを向いていない京一に、彼の真意を理解した気がした。

京一は、龍麻を救えず、その後も醍醐達に見せ場を奪われた自分に怒っているらしいのだ。

だから龍麻が倒れそうになった時、誰よりも早くそれを察知して支えてくれたのだ。

「今度からそうする」

 龍麻が小さく笑って答えると、京一は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 龍麻と京一、そして醍醐や他の仲間達の見ている中で、光が消えていく。

「見事……だ……人の『力』、見せて貰ったぞ……」

 それと共に色を取り戻していく景色の中心に、人に戻った九角の姿があった。

しかし完全に人の姿に戻った九角の身体からは、なお瘴気が散っている。

陰の氣を取りこむ外法を用いることで鬼と化した九角は、

もはや彼の部下であった鬼道衆の怨念と同じく、陰氣のみで己を成していたのだ。

陰氣が浄化された今、彼に助かる術はない。

だが片膝をつき、龍麻を見る九角の目には、奇妙な安らぎがあった。

「これで……ようやく俺も長き呪縛から解放される。

俺は……ただ欲しかっただけなのだ……我が一族の安息の地が」

 遂に身体を支えることもできなくなり、九角は倒れる。

葵が近寄ろうとすると、それを制して九角は続けた。

「お前らも覚えておくがいい。人の世に復讐の念が絶えぬ限り争いが終わることはない。

人の世に陽が照らす限り、陰もまた消えることはないのだ。

努々……忘れるな……陽と陰の闘いに終わりはないことを……」

 彼の最期の声は、ほとんど風に散って聞き取れなかったが、

龍麻達は聴覚によらずそれを聴いていた。

倒れた九角の身体が、薄くなっていく。

水岐や佐久間と同様、外法によって変生した身体は塵となって消えた。

「終わった……な……」

 醍醐が呟く。

それは九角や佐久間、この闘いで斃れた者達全てに向けられた、鎮魂の呟きだった。

 

 江戸から続く負の情念が引き起こした、現代の東京を恐怖に陥れた一連の事件は、

こうして幕を下ろした。

解決の立役者となった少年達は、それを誇るでもなく、

ただ元の平穏な生活に戻ることをのみ願う。

それこそが、彼らの『力』の源であった。

「さて……帰るとすっか」

 明るい京一の声に皆頷き、それぞれの生活に帰る為に踵を返す。

 たった今凄まじい闘いが行われた残滓など一片も残っていない境内に一人たたずんだ葵は、

九角が斃れた場所に向かって静かに手を合わせた。

「こんな格好で電車に乗せる訳にはいかないからな。美里は俺が送っていく」

 等々力渓谷を出たところでそう告げた龍麻は、折良く通りかかったタクシーを止めると、

仲間達に挨拶もろくにしないまま去ってしまった。

「なんだあの野郎、良からぬコトでも企んでるんじゃねェだろうな」

 祝勝会という名目で、ただでラーメンを食べるチャンスを逃した京一が憎まれ口を叩く。

「緋勇クンに限ってそんなコトはないと思うけど……」

 小蒔の擁護も歯切れが悪いのは、龍麻の手並があまりに鮮やかだったからだ。

それに万事に気が回る彼が、葵と同居するマリィを置いていったのも、

意図的ではないかと疑ってしまう。

「ノー、ヒユー……抜け駆けは良くない……」

 とはいえそこまで心配もしておらず、悲しげに頭を振るアランの可笑しさに、

小蒔はこれ以上真剣に考えるのは止めた。

「くそッ、あの野郎……事の顛末は絶対に聞きだしてやる」

「あッ、ボクにも教えてね」

 その時は緋勇クンにラーメンを奢らせるのも悪くない。

そう未来に思いを馳せる小蒔だった。

 

 龍麻と葵の関係は、周囲が思っているよりはずっと深刻だった。

何しろ葵は初対面の龍麻に襲われ、あろうことか学校で貞操を喪うところだったのだ。

その後も性的な嫌がらせを受け、更には葵の持つ癒しの『力』を利用するために戦いに駆りだされている。

幾度かは彼に危機を救われているとはいえ、

女性として彼に好意を持つのは極めて難しいはずだった。

 その葵が、龍麻と二人きりになっている。

 龍麻の家に入るまで、葵は無言だった。

タクシーから降りると羽織っている龍麻の制服をしっかりと握りしめ、うつむいて歩く。

龍麻も話しかけてはこず、手早く鍵を開けると葵を招き入れた。

 居間に通された葵は、部屋の中央に立つ。

龍麻が座るよう促したが、黙ったまま動かない。

「何か飲むか」

「……」

 再度の提案も無視された龍麻は気にした風もなく、台所に向かって一気に水を飲み干すと、

新たなコップに水を注いでテーブルに置いた。

「さてと、まずは制服を一着注文しねえといけねえな。

服屋の親父、俺のことをすっかり上得意として見てやがって、

俺だと判るなり猫なで声になりやがる」

 軽口を叩いて電話機に向かった龍麻が覚えてしまった電話番号を押そうとすると、

背中に軽い衝撃を感じた。

わずかに背を反らせ、同時に傾げた首で葵を見やる。

 葵は龍麻を見ていなかった。

シャツを掴む己の手を見つめたまま、意思を絞りだそうとするかのように身体を震わせ、

それが手を通して彼に伝わる前に口を開いた。

「……緋勇君、私……わかったの」

 葵の囁きが部屋に響く。

無言で受話器を戻した龍麻が、静かに葵の方を向いた。

 二人の視線が真っ向から重なる。

龍麻の黒い瞳は、いささかも揺るぐことなく葵を見ていた。

「緋勇君の言う通りだったわ。私は……私は、緋勇君に……」

 覚悟は定まっていても、口にするのはためらいがあった。

あるいは、それが最後の防波堤なのかもしれなかった。

 龍麻が防波堤を乗り越えてくる。

壊すでもなく、勢いをつけてでもなく、防波堤をなぞるように静かに。

龍麻の手が手首ではなく腰に回された時、葵は抗わず彼に寄り添った。

 龍麻を受け入れるという告白を終えて緊張が緩んだからか、葵の全身から力が抜ける。

けれども少女の肢体が床に触れることはなかった。

「あ……」

 葵が気づいた時、身体は龍麻の腕の中にあった。

誰にも許したことのない近さに怯え、小さく喘ぐ。

だが同時に、自分の体重が喪失したかのような不思議な昂揚をも感じていた。

 肩から龍麻の制服が落ちる。

彼が落としたのか、それとも自分で脱いだのか――

判然としないまま、葵は龍麻に包まれていた。

 布団を敷いた龍麻が服を脱ぎはじめる。

今更羞恥を覚えて慌てて布団に入った葵は、一人用の布団のどこに居ればよいか、

彼女らしくもなく混乱していた。

友人達のその手の話にもう少し耳を傾けておけば良かったと後悔し、

親友の小蒔ともそんな話は俎上に上ったこともなかったと後悔を積み重ねる。

埒もないことを考えるのは、明らかに現実逃避の一種だったが、

龍麻が布団に入ってきた音で、葵は容赦なく現実に引き戻された。

「布団は二セット用意しておくべきだったな」

 至近で顔を合わせた龍麻の第一声が冗談なのかどうか、葵には判断がつかなかった。

龍麻の声は普段どおりで、薄暗い部屋では表情も見えなかったからだ。

 どう答えてよいか分からない葵が沈黙していると、龍麻が指を絡めてくる。

彼の体温は幾らか緊張をほぐし、葵は自分から話題をふった

「あの人に……九角さんに服を斬られて裸にされた時、手首を掴まれたの。

でも、緋勇君の時とは違って、ただ冷たくて……怖いだけだったわ」

 九角の瞳にあったのは、強い欲望と際限のない怒り。

それは見る者を灼かずにおかない、紅蓮の炎であったのに。

 葵は顔を上げ、龍麻の瞳を見る。

あるのは暗黒――宇宙の始原のような無だ。

その奥に一体何があるのか、想像もつかない。

葵はこれまで、その瞳に呑まれるのを怖れていた。

だがそれは龍麻の怖ろしさではなく、自分自身がどう変質してしまうかという怖れだったのだ。

そのことを、九角天童との邂逅で葵は知った。

龍麻には何も告げず、自身の裡に怖れを封じこめてしまうこともできただろう。

こんな変質などしても嬉しくはないし、まして他人に知られたくなど絶対にない。

 しかし今、葵の心は冷えていた。

九角天童に奥底まで冷やされた心は、温もりを欲していた。

たとえ表層的なものでも、たとえ偽りのものだとしても。

「実のところ、俺は少し腹が立っている」

 口唇が触れる寸前、龍麻が告げた。

「あれだけ俺に従うのを嫌がっていたくせに、九角のところへはあっさり行った」

 それは子供じみた嫉妬に聞こえたけれども、葵は笑わなかった。

「それは……九角さんの狙いは私だと思ったから」

「どんな理由があるにせよ、残された俺達がお前を放っておくわけがない。

それくらい想像がつくだろう?」

「……」

 龍麻の言う通り、京一に醍醐、それに小蒔は葵を取り戻そうと万難を排して九角の元にやってきたに違いない。

落ち着いて考えれば想像できただろうが、自分こそが仲間を危険に晒していたという衝撃は、

冷静な思考力を奪ってしまっていたようだった。

軽率な判断を悔いる葵の、頬に龍麻の手が触れる。

その手は怒っているわけでも、慰めようともしていない。

 ただ触れただけ――寝室で男が女を宥なだめようとしているにすぎなかった。

 あるいは、キスの前ぶれ。

だがその温かさは、真実だった。

 自分の吐息で葵は我に返った。

唇を合わせただけで、それほど深く没頭したことに赤面する。

そしてこれが龍麻との初めてのキスではないことを思いだし、さらに顔が熱くなった。

一度目で怒らなかったのだから、二度目で怒る筋はないとしても、

これではあまりにも――

 葵の思考などお構いなしに、龍麻が三度目のキスをする。

触れた唇の熱さは、まとまりのない思考などたやすく溶かしてしまうのに充分だったが、

突如もたらされた異様な刺激は、定まらない思考さえ粉々に砕いた。

「あ……ッ、んッ……!」

 ぬらりとした何かが唇を這う。

未知の感触に葵が固まっていると、それはためらうことなく葵の口腔に入ってきた。

「うッ……ん……」

 唇に続いて口内までもが侵食され、おぞましさが全身の毛穴から泥のように吹きでて、

龍麻の舌が自分のそれに触れた時、葵は半ば気を失いかけた。

「はッ……はッ、は……ッ……」

 いっそ気を失っていたほうがましだったのかもしれない。

犬のように喘ぐ自分の声と、口の中を無尽に蠢く粘質の塊は、

葵をこれまで彼女が存在さえ知らなかった奈落へと堕としていった。

歯を、舌を、意識させられる。

本人も知らなかった美里葵を、龍麻にまさぐられてゆく。

乱暴にではないが、抵抗は許さない圧力で、口の中の隅々までを龍麻の舌は侵食していった。

 服従を、強いられる。

逃げ場を失った舌を絡め取られた葵は、彼のしたいようにさせるしかなかった。

息がつまり、悲鳴さえも封じられる。

根源的な恐怖が脳をおびやかす中で、不思議な感覚が彼方の星のように瞬いた。

湯舟に浸かった直後に似た、全身の緊張が解れる心地よさ。

単なる快感ではない、もっと深いところからの法悦。

一瞬で消えてしまったそれを、名残惜しいと葵は思ってしまった。

 離れていく漆黒の瞳を、葵は見つめる。

あれだけ蹂躪しておきながら、瞳の色は何も変わっていなかった。

優しくも、冷たくも、怒りも狂熱もない。

龍麻に揺るぎがないことが今の葵には嬉しく、呼吸を整える間、ずっと彼の瞳を見ていた。

「怖いか?」

「ううん、怖くはないわ……少し緊張はしているけれど」

 葵の返答に龍麻は薄く笑い、彼女の手首を掴んだ。

ゆっくりと、状況を認識できるだけの時間を与えながら、頭上に掲げる。

途端にこの数カ月て馴染みとなった、細胞が燃えるような火照りが葵を灼きはじめた。

この情動をどう処理すれば良いのか決断できないまま、葵は左手で胸を隠す。

龍麻はその手を払いのけようとはせず、葵が意外に思っていると、龍麻が低く囁いた。

「お前、オナニーはどんな風にするんだ」

「……ッ!!」

 恥知らずにも程がある、想定外の問いに葵は絶句する。

たまらず左手で龍麻を平手打ちしようとしたが、その前に龍麻に手首を掴まれてしまった。

そのまま左手も掲げられ、束ねられた両手首は龍麻の左手ひとつで固定されてしまう。

剥きだしの胸に視線を感じて、白い肌が恥辱に燃えた。

「は、離して……ッ!」

「質問に答えるのが先じゃないか?」

 薄く笑った龍麻は、葵の痴情を煽るように右手で腕をなぞった。

肘から二の腕の内側を、脇にかけてゆっくりと。

恥ずかしさに身悶えした葵は、龍麻から逃れようともがくが、

体重をかけられるとどうしようもなかった。

「落ち着けよ」

 冷静な声が葵を一層興奮させる。

自分から龍麻に従うと決めたにも関わらず、赤子のように暴れた。

 葵を鎮めようとした龍麻は、それが不可能であることを悟ると、

辟易したように頭を振って彼女が落ちつくのを待った。

「そんなに性的嗜好をバラすのが嫌なのか?」

「あ……当たり前でしょうッ!」

「もうお前はこうやって最初に襲われた時のことを思いだしてオナニーするって白状してるのにか?」

「そ、それとこれとは……」

 激情が急速にトーンダウンするのを葵は感じた。

まだ冷却が間にあわない耳朶に、低い声が流れこんでくる。

「皆に告白しろって言ってるわけじゃねえ」

 例え誰であろうと告白できるものではない。

だが、龍麻の暗黒の瞳を見ると、あの闇の向こうからは、

いかなるものも出てくることはないのではないかという気もするのだ。

考えをまとめきれないまま葵が浅く二度呼吸すると、唇を龍麻に塞がれた。

「……っ……!」

 頭の中に漂っていたもの全てが塗り変えられてしまう。

変化は永続的なものではなかったが、生命活動に必要なものも含まれていて、

唇を塞がれていたのはそう長くはない時間であったのに、

龍麻から解放された途端、葵は大きく息をつかねばならなかった。

 呼吸の合間を縫うように、龍麻が囁く。

「言ってみろよ……どんな風に俺にされると想像してオナニーしてるのかを」

 オナニーという聞き間違いようのない卑猥な語句が耳朶をなぶる。

それが頭に到達したとき、汚らわしいという考えが浮かんだが、同時に、

夜毎慰める自分の恥態も浮かんでいた。

口外するべきではないことなのに、龍麻にどう言えば上手く伝わるか、などと考えてしまう。

 頭を振って邪な思考を追い出そうとする葵を邪魔するのは、龍麻の愛撫だった。

脇腹から臍へ、そこから上に戻って胸の中央を、梳くように撫でる。

鎖骨を滑り、首筋から耳の下を爪の甲で辿る男の指先が、葵には不愉快だった。

 想像の龍麻は、そんな風には触らない。

想像と現実、あるいは精神と肉体の乖離が、葵を苛立たせる。

それを正すには、どうすれば――

答えはひとつしかなかった。

「あ、足は少しだけ開いて……」

「パジャマは着たままか? 下着は?」

「着たまま……よ……」

 裸で自慰を告白させられるという異常が、鼓動を速くする。

身体が火照り、乾いた唇を舐めると、溜まっていた言葉がひとりでに口を衝いた。

「始めはゆっくり……強く触らないようにして……」

「こんな感じか?」

 耳朶を弄んでいた龍麻の手が、股間に触れる。

ただ触れられただけで、目眩がするような快感がほとばしった。

「はぁ……っ……」

 打てば響くように喘いでしまうのも、初めて男に、

それも恋愛関係にはない男に触られて感じてしまうのも、おかしいとは思わない。

そんなことを考える余裕もないほど、葵は龍麻の愛撫に溺れた。

これまで拒んでいたのが馬鹿らしく、これほどの快楽を知らなかったのが悔しく、

葵は潤んだ瞳で懺悔するように龍麻を見た。

「……」

 龍麻は何も言わず、ただ手首を握る力をごく僅か強める。

「ああ……」

 痛みはない。

あったのは、理解。

龍麻に従うという意味。

葵は足の指先に至るまで、それを理解した。

龍麻が触れている手首と股が、同じ熱を持つ。

後はどこまでも高まっていくだけだった。

龍麻の指が女に設けられた溝を往復する。

すでに豊かな蜜を湛えている秘密の渓谷は、

自分で訪れる時とはまるで異なる悦びを絶えず葵にもたらしていた。

 刺激は自分でする時よりも弱く、物足りないくらいだったが、

そんなことを言えるはずもなく、目を閉じてごまかした。

 龍麻は追及してこない代わりに、愛撫を止めない。

ほどなく葵は龍麻の罠にかかってしまったことを悟った。

一定のリズムで繰り返される刺激は、いつまでも欲求を満たしてくれない。

くすぶる熾火は燃えあがるための風を必要としているのに吹かず、

自分で風を起こすこともできないのだ。

「あ……ぁ……」

 もどかしい刺激に葵は腰を浮かせる。

精一杯の主張だったが、龍麻の愛撫に変化はなかった。

色のついた息を漏らしてしまうほど、更なる快楽を求めているというのに、

龍麻は揺らして赤子を寝かしつけるかのように快い、快いだけの愛撫しかしないのだ。

渇望に耐えかねて葵は目を開ける。

その途端龍麻が持つ暗黒が視界を覆った。

呑まれる――龍麻さえ居ない暗黒に。

欲望も快楽も、自分一人のものだ。

そう思った時、唇はひとりでに動いた。

「もっと……乱暴に……足を、押し開いて……」

 イメージ通りに足が開かれる。

自慰をする時ではなく、自慰をする時に空想するとおりに。

ほとんど毎日寝る前に空想の中で葵の足を開くのは他の誰でもない、龍麻だった。

「指は挿れるのか?」

「クリ……クリトリス、だけで……あうッ……!」

 円を描くように刺激し、時折強く押したり引っ掻いたりする。

求めるあらゆる動きが違うことなく再現されて、葵の意識と現実は混然としていった。

「何度も……何度も擦って……たまに、動きを変えて……っ」

 気持ちいい。

 たまらない。

漆黒の瞳に自分を沈めながら、葵は大きく開いた股をくねらせる。

逃れるように、求めるように、昂る心を隠さずに晒けだす。

「あ、ああッ……! う、ンッ……!」

 喘ぎが大きくなりすぎて唇を噛む。

少しずつ、龍麻の愛撫が自慰と乖離していく――

だが、それは望まぬ方向にではなく、無意識に欲していた方へだ。

激しさを増す手の動きに、身体が浅ましいほどに反応する。

「あ、あぁ、緋勇……君っ……!」

 跳ね上げようとした右手が動かせないことに気づき、

そして求める以上の快感がもたらされた時、葵はあっけなく絶頂を迎えた。

「あ、ぁ……わた、し……?」

 自慰を上回る快感の波に浚われ、茫洋とする葵の顔を、龍麻が覗きこむ。

「おい、大丈夫か?」

「え、ええ……」

「いつもこんな派手にイクのか?」

 龍麻が心配する理由を知った葵は目を合わせられなかった。

「まあいいさ。これから判ることだろうしな」

 押さえつけられた手首が、発車を告げるベルのように鳴る。

無意識に動いた指先が、何かを掴もうとしたことには気づかなかった。

 足の間に龍麻が陣取る。

離れた位置から見下ろす男と目が合ってようやく、葵は手首が解放されていることに気づいた。

元より痛みはなかったが、自由になった右手には奇妙なしこりが残っていて、

動かそうかどうか迷う。

結局そのままの姿勢を維持すると決めてシーツを掴むと、龍麻が面白そうに見下ろしていた。

「掴まれてないと落ち着かないか? 余程強い印象を受けたんだな」

「そう……なのかしら」

「『お前は俺に従いたがっている』とは言ったが、

手首の話はお前から聞かされるまで知らなかったからな」

 龍麻の言う通りかもしれない。

それまで異性と手を繋いだこともなかった葵にとって、

押し倒されて身体をまさぐられたというのはあまりに強烈な体験だった。

それが葵の性的嗜好を捻じ曲げてしまった可能性は大いにある。

ただ、普通は心的外傷になるくらいの出来事のはずなのに、

龍麻を嫌いはしてもついにはこうやって彼を受け入れるというのは、

あるいは彼と共にやって来た、尋常ならざる非日常が影響したのだろうか。

だが、奇妙な間のあいだに湧きおこったその疑問の答えを、

葵は知りたいとは思わなかった――少なくとも、今は。

「それで、次はどうするんだ?」

 龍麻は物慣れぬ男として聞いているのではない。

女の望みを叶えるために聞いているのだ。

唇を湿らせて葵は答えた。

「胸を……揉んだり……」

 晒けだした欲望は、間を置かずに叶えられる。

「んっ……」

 一杯に広がった手が乳房全体を掴んだ。

彼の手を模した自分の手とは、大きさも力強さも違う。

もちろん快感も異なり、熱い掌の中で形を変える乳房と、

その最中に巧みに弄ばれる乳首がもたらす悦びは、自慰の際には押し殺せた声を漏らさせた。

「っ、ん……あ……」

 心持ち胸を反らせて葵は喘ぐ。

乳房に沈む指の熱さが快い。

荒っぽい手つきは、正に葵の望んでいたものだ。

逃れたくても押さえつけられた両手はびくともしない。

股を割られ、なすすべもなく犯される。

「い、や……っ……」

 掠れた悲鳴にも凌辱は止まらない。

 止まるはずがない。

 求めているのだから。

 従っているのだから。

 形が変わりそうなほどに乳房を揉みしだかれる葵の、いつしか息が上がっている。

何度か荒い呼気を吐きだすと、腹に何かが当たっていることに気がついた。

直接は見えないそれが、男性器であることを葵は瞬時に理解した。

勃起という興奮状態にあることも。

顎を引いて龍麻を見ると、手の拘束が解かれ、彼の上体が離れた。

仰ぎ見た黒い瞳はなお揺らいでおらず、九角のような冷たい怒りを孕んでもいない。

黒い双眸は、ただ葵を見据えているだけだった。

それなのに葵の肉体は、狂おしいほどに灼かれている。

初めての愛撫に蕩け、受け入れる準備を整えている。

保健室で襲われかけた春の日から数ヶ月、葵は己の変わりように慄きつつも、

もはや省みようとは思わなかった。

「挿れるぞ」

 身勝手な宣言と裏腹に、龍麻のそれは葵に恐怖と痛みを与えなかった。

腹を押し拡げられている異物感はあるが、

それがもたらしているのは若干の息苦しさと奇妙な昂揚だった。

「あの……?」

 一般的な知識として初めては痛いと思っていた葵は、思わず何かを聞こうとしてしまった。

戸惑い気味の葵に、龍麻の口の端が全てを察したように吊りあがる。

「痛くねえんなら、それに越したことはねえ。それとも、痛い方が好きなのか?」

「ち、違うわ、そんなこと……ないわ」

 自分も知らない何かを見透かされた気がして、葵は慌てた。

そして、望んでいない――少なくとも好きではない男に抱かれて処女を喪失したというのに、

当然持つべき恨みや憎しみといった負の感情がほとんどないことに、

心情の整理がつけられなかった。

 どう答えたら良いか判らないでいる葵の顔を、龍麻が覗きこむ。

黒い瞳は相変わらずどんな感情も浮かんでいないように見える。

しかし葵は、この瞳は深淵までも何もないのではなく、膨大すぎる感情が圧縮されているがために

容易には他人に窺い知ることができないのではと不意に思った。

それは知らないうちに虫に刺された箇所がいつの間にか腫れていることに気づいたような驚きをもたらしたが、

痒みを覚えるよりも先に、下腹に鈍い衝撃が訪れた。

「あッ……!」

 動いている。

龍麻が、腹の中で。

初めての快感を葵は戸惑いもなく受け入れていた。

恐れも感激もなく、それが当然のように肉体に悦びが満ちていく。

龍麻の律動はかなりゆっくりとしたもので、葵が毎夜想像していたものとは違ったが、

男性器がもたらす快感もまた、想像とはかけ離れていた。

「あ、あぁ……は、うっ……ぅ、ん……っ」

 肉茎が腹を抉る都度、声が漏れる。

およそ自分のものとも思えない甘い咽びが、幾重にも重なって部屋を満たす。

それらはひとつ生まれる都度、葵から快楽以外のものを消し去っていくのだ。

たとえ一時の逃避に過ぎず、後にはより深い悩みや後悔が戻ってくるのだとしても、

この強烈な悦びを手放すことはできなかった。

 腹の横に、ギリシャの神殿の柱のようにそびえる龍麻の腕を夢中で掴む。

太く、硬く、血管が浮きでたそれは、身体の中にあるものを瞬間的に想起させた。

「う、んッ、はぁッ、緋勇……君ッ……」

 龍麻から伝わる熱に浮かされてうわ言のように名前を呼ぶ。

返事はない――ただ胎の中で律動が繰り返されるのみだ。

だがその律動に、胎を満たし、肉体を満たす律動こそに葵は支配され、縋っていた。

「あ、う、うッ、んッ」

 少しずつ早くなっていく律動に合わせて声も忙しくなっていく。

そして押し上げられていく感覚も、葵の中で徐々に膨れていた。

何処へ行くとも分からぬまま、葵は突かれる。

「ひ、緋勇君っ……わた、し……ッ……!」

 訪れるものへの怯えで爪を立てんばかりに二本の腕を握りしめる。

すると、暗黒の双眸が葵を捕らえた。

「それがイクって感覚だ……覚えておけ」

「イ、ク……? あッ……!」

 言葉と意味を結びつけるかのように、力強く龍麻が挿ってくる。

腹を裂かんばかりに、脳まで貫かんばかりに。

加速度的に膨れる快感に呼吸が追いつかず、助けを求めて龍麻を見た。

 果ての見えない暗黒が、一切を呑む。

夜、部屋の灯りを消したときなどとは比較にならない、五感が喪失するような暗黒。

身体を満たしていた快感さえも消えた葵の中で、何かが動く。

熱く、激しいそれが、胎の深くに挿さった龍麻の男性器の脈動だと悟った瞬間、

一気に快感が爆発した。

「あッ、あああッ……!」

 龍麻の手首に爪を食いこませて葵は果てる。

 処女とは思えぬほど腰をひくつかせ、花火のように髪を乱し、

自慰とは違う、身体の内側から炸裂する絶頂に肉体と精神を浚われた。

「あ……あぁ……」

 閉じあわせる力さえ失った唇から、最後の色が漏れる。

それを吐きだし終えても、虚脱した肉体には、

もう消し去ることのできない悦びが染みついてしまったのだと痛感する葵だった。

 

「これで『力』も消えてくれればいいんだが」

 ややまどろんでいた葵が、いつの間にか隣に寝ていた龍麻の呟きの意味を理解するまでには十秒ほど要した。

「緋勇君は……まだ終わらないと思うの?」

「お前の『力』は失くなっていないだろう?」

 訊き返されて葵は軽く念じてみる。

掌に感じる『力』は、確かに何も変わっていなかった。

仮初めの充足感が引き、代わりに怖れが満ちていく。

かけられていたシーツを胸元で掴み、葵は声を震わせた。

「まだ……戦いは続くの?」

「それはわからねえな。九角が『力』の源って訳じゃなさそうだが」

 全てが終わると思ったからこそ九角に降ったのに、

無意味だったという龍麻の推測は、葵をひどく疲れさせた。

「お願い、緋勇君」

 掠れた声を整えようともせず、葵は言った。

「貴方に従うから、小蒔を――皆を護って」

 龍麻が何か言ったような気がしたが、急速に眠りに落ちていく葵の聴覚は、

その意味までも捉えることはできないまま、機能を一時停止させたのだった。




また自画自賛になってしまいますが、ゲームのお約束(今回は移動シーン)の隙をついてタクシーで皆置き去りにする手を考えついたときはやったと思いました。
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