そっちもまあまあ頑張った自負はあるのですが、
「セリフの大半を流用している」というハーメルン様の規約に引っかかると思われるのでこちらへの投稿は控えておきます。
以後次回。
緋勇龍麻という転校生に強姦されかけた翌日、葵は普段通りに登校した。
学校内で襲われたという衝撃は、心に未だ深く傷を残していたが、
これで休んでは悪意に負けたことになると思ったのだ。
それでも、完全に普段と同じというわけにはいかず、毎朝、
一人目か二人目のタイミングで教室に入っていたのを、少し遅れて入った。
机に向かっていた男子生徒が葵を見て、再び顔を机に戻す。
こんな時間に来るだけあって、予習かあるいは受験に向けた勉強をしているのだろう。
挨拶こそ交わさなかったものの、彼の真面目さは好感が持てた。
別の女子生徒が、こちらは声をかけてきた。
「おはよう、美里さん」
「おはよう」
彼女ともそれほど親しいわけではないが、最低限の礼儀はお互い守る。
その礼儀が、今日の葵には嬉しかった。
もたらされた非日常が、儀礼的な一言で日常に戻ってきたと実感させてくれる、
大げさに言えばそれくらい、何気ない朝の一言は心に沁みた。
少し遅れて来たとはいえ、始業までにはまだかなりの時間がある。
葵も参考書を取りだし、勉強を始めた。
だが、ページを開いても、文章がまるで頭に入ってこない。
小さな足音が聞こえるたび、扉の方を向いてしまい、誰が登校してきたのか確認せずにはいられないのだ。
もっと、始業ぎりぎりに来れば良かったと悔やんだが、後の祭りだった。
告げる時間を忘れた鳩時計のような動きを、葵は何度も繰り返す。
教室の椅子が半分ほど埋まった頃、彼女の反復運動は報われるときが来た。
龍麻が教室に入ってきたのだ。
教室の入り口に彼の姿を認めた途端、葵は慌てて前を向いて座りなおした。
わずかに上がった呼吸を、口を閉じたまま平静に戻す。
それでも、彼が後ろを通り過ぎる瞬間は、彼に聞こえてしまうのではないかというほど
鼓動が大きくなった。
当たり前の――しかし、心底葵が安堵したことに、龍麻は何もせずに着席した。
葵は席を外したくなったが、彼が来た途端に席を立つのは、いかにも礼儀が悪いように思えた。
ならば他ごとに集中しようと、開いたままの参考書に視線を落とす。
こうしていれば、たとえ中身が頭に入ってこなくても、誰にせよ声をかけてくることは少ない。
しかし、葵の常識的な思考は、わずか五秒ほどで崩壊させられてしまった。
「おはよう」
「……おはよう」
音声だけを切りだして聞けば、いかにも爽やかな朝の一場面でしかないと、
不本意ながら認めざるをえないような爽やかな挨拶を、ぬけぬけと寄越してきた龍麻に、
葵はとっさに対応ができず、つっかえた喉をなんとか動かしての返事だった。
彼がこれ以上話しかけてきたら、引っぱたいてしまうかもしれない――
葵は自分の内心を危惧したが、龍麻は礼儀を守っただけ――
そんなものが彼に存在するのならば――のようで、鞄を置いて教科書を机に移しはじめた。
安堵しつつ、これから卒業までこんな緊張感が続くのかと思うと、気が滅入る葵だった。
葵の気持ちをよそに、龍麻は昨日に続いて休み時間のたび、
同級生たちからあれこれとなく話しかけられていた。
昨日の放課後の、佐久間達との一件が、詳細は不明ながらも伝わっているらしく、
特に女子生徒はやたらとお菓子をプレゼントしている。
帰り支度をしながらそれとなく隣の机を見ている葵は、彼の正体を教えてやりたい衝動に駆られた。
もちろん、そんなことをしても意味はない。
葵は生徒会長で、信用は一定数あるが、それだけで彼女たちが信じてくれる保証はない。
むしろ上辺だけとはいえ龍麻の魅力に夢中になっている彼女たちは、
余計なことを言う葵を疎ましく思うかもしれなかった。
不興を承知で彼女たちに忠告するか、葛藤する葵の横で、小さな歓声が上がる。
「よう、緋勇」
「蓬莱寺か」
少女達に歓声を上げさせたのは、蓬莱寺京一だった。
彼もまた真神學園での人気者で、教室移動などで低学年の廊下を歩くと一、二年生が騒いだりもする。
龍麻と違って裏表はないようで、それも人気の理由だと思われるが、
彼らは昨日、この學園の不良である佐久間猪三とその一派と喧嘩をし、
おそらくはそれが縁で友人となったようだった。
タイプの異なる美男子が二人揃ったことで、女生徒たちは無邪気に喜んだようだ。
京一は愛想良く手など振り、さりげなく龍麻と女生徒の輪に入った。
たちまち軽い会話が始まり、笑い声が幾度も弾ける。
それらを聞くでもなく聞いていた葵は、自分が馬鹿馬鹿しい時間の使い方をしていると気づいて、帰ることにした。
龍麻も京一と一緒では彼女たちに手を出す隙はないだろう。
立ちあがろうとする葵に、影が差す。
思わず振り向いた葵の、視線を遮るように巨大な黒い壁が佇立していた。
「緋勇」
軽やかな談話に突如として割って入ってきた野太い声に、龍麻は身体の向きを変える。
そこから視線を上方に修正すると、昨日知り合った――教室内の全員が、龍麻にとっては
昨日知り合ったのだが――男がいた。
龍麻を凌駕する身長の持ち主は、醍醐雄矢だった。
龍麻と京一との会話を邪魔された女子生徒たちは、不満げに醍醐を見る。
だが少女達の視線に醍醐は気づかぬ様子で、龍麻を厳しく見据えた。
無視された格好の少女達は、抗議する気にまではなれなかったようで、白けた表情になりつつ解散した。
華やかだが意味のない会話に飽き気味だった龍麻は、闖入者をむしろ歓迎していた。
佐久間のような悪意に凝り固まった気配ではないが、強い圧力を彼から感じる。
教室内で乱闘はないとしても、密かに龍麻は呼吸を整えはじめた。
「いきなりですまんが、今から、少しつきあってくれんか」
「今から? どこに?」
「む、それはだな……レスリング部の部室はどうだ」
どうだ、と言われても、レスリング部の部室などで語りあうものではないだろう――
少なくとも龍麻にはそんな意志はなく、彼の意図を読んだ龍麻は軽く顔をしかめた。
さすがに佐久間のボスと言うべきか、強引なのは同様で、言い方が丁寧な分性質が悪いともいえた。
醍醐は大柄な身体に似合わず申し訳なさそうな顔をしている。
そのくせ龍麻を黙って帰すつもりはないらしく、龍麻の進行方向にその巨躯を立ちはだからせていた。
龍麻が醍醐と反対の側を見ると、少女達と一緒に解散していなかった京一が、
人の悪い笑みを浮かべていた。
「せっかくだから受けてやれよ。後でラーメン奢ってくれるって話だしよ」
「む、それは……まあ、それくらいなら構わんが」
止めるどころかけしかける京一に、龍麻は今度は態度に出して肩をすくめた。
「しょうがないな、行こう」
「すまんな」
一応は話がまとまったので、龍麻と醍醐は連れだって部室に向かおうとする。
すると、京一を含めた三人が出ようとする扉から、一人の少女が入ってきた。
眼鏡をかけた気の強そうな少女は、龍麻を見るとまっすぐ彼の前で、
新品のコンパスのように全身で二等辺三角形を作って立ち止まる。
値踏みするように下から上に視線を移動させると、早口で喋りはじめた。
「あなたが緋勇龍麻ね」
「そうだけど」
「あたしは隣のクラスの遠野杏子。呼ぶときはアン子でいいわ、皆そう呼んでるから。
真神の新聞部部長をやってるんだけど、まだこの学校のことほとんど知らないでしょ?
案内がてら、こんな時期に転校してきた、風変わりな転校生のことを取材させて欲しいんだけど」
口調がややキツく感じるのもあって有無を言わさぬ感がある。
風変わりと評されたことに腹は立たないが、どちらにしても龍麻は彼女の提案を呑めなかった。
「ああ……悪いな。たった今先約ができたところなんだ」
気の進まぬ約束であっても、一度交わした以上は果たさねばならないだろう。
断る龍麻の肩に、なれなれしく腕を乗せて京一が続けた。
「ヘヘッ、そういうこった。悪いなアン子」
「何よ、アンタの用事なら、後に回したってどうってことないでしょ」
「俺じゃねェよ。こっちのタイショーの用事だ」
どうやらアン子の中で醍醐の序列は京一に勝るらしい。
忌々しげに醍醐を見たが、龍麻を譲るよう言ったりはしなかった。
「ねえ、それじゃ明日は空いてる? 旧校舎を案内してあげるから」
なおも食い下がるアン子に、反応したのは京一だった。
「旧校舎ってアレか? なんか光るとかいう。止めとけ、なんにもねェよあそこにゃ」
「うっさいわね、ネタがないのよ。今週中に一本記事書かないと新聞が出せなくなるのよ。
そうしたらあんた責任取ってくれるの?」
「なんでお前の暇つぶしの責任を俺が取る――ごッ!」
京一が最後まで言い終える前に、アン子の右拳から放たれたストレートが彼の顎を捉える。
龍麻と醍醐が思わず感心するほど、見事な一撃だった。
「いきなり何しやがんだ手前ェッ!」
「いい、のーたりんなアンタにもわかるように説明してあげるけど、
あたしの新聞は暇つぶしなんかじゃない、真神學園全生徒、
五百五十八人が求める真実と娯楽を提供するマスコミュニケーションなのよッ!!」
京一は反論しようとしたが、アン子の一撃が顎をぐらつかせたらしく、上手く喋れないようだ。
実質的な勝利を収めたアン子は、勝ち誇ったように顎を軽く突きだした。
「まあそういうワケで、緋勇君も興味あるでしょ?」
ないと言えば嘘になるが、それは彼女が作成した新聞で読みたいという意味で、
自分で体験したいという訳ではない。
しかしそう説明したところで、とにかく強引というジャーナリストの片鱗を確かに見せているアン子を引き下がらせることはできそうになく、
どうしたものかと思案する龍麻の、横合いから声がした。
「アン子ちゃん」
「何? 美里ちゃん」
それまで会話に参加していなかった葵が突然入ってきたので、アン子も少し驚いているようだ。
そして葵の提案は、アン子をさらに驚かせるものだった。
「旧校舎なら、私が行ってあげるわ」
「へ? そりゃ、美里ちゃんが行ってくれるんなら心強いけど」
「締め切りまであまり時間がないのでしょう? 記事をまとめる時間も必要でしょうし」
アン子は腕を組んで思案したが、すぐに解いて決断した。
「そうね……うん、それじゃお願いするわ。緋勇君、取材はまた後日改めてよろしくね」
葵の気が変わらないうちに、と思ったのかもしれない。
アン子は葵を連れていそいそと教室を出て行った。
彼女たちの後ろ姿を見送った京一が、まだ顎を左右に揺すりながら毒づく。
「くそッ、あの女、ちったァ加減しやがれってんだ」
「はははッ、形無しだな。……それじゃ緋勇、俺たちも行くとするか」
こちらはこちらで醍醐に急きたてられるように、龍麻はレスリング部の部室へと向かうのだった。
レスリング部の部室、という言葉から龍麻が抱いたイメージと、
醍醐が連れてきた実際の部室とはそれほど差異はなかった。
ダンベルやバーベルなどのトレーニング器具が乱雑に置かれた、男臭い部屋。
想定と違ったのは、部屋の半分以上を占めている、プロレス用のリングだった。
てっきりアマチュアレスリングだと思っていた龍麻は、
間近に見る四角い闘場にまず目を奪われた。
手入れが行き届いていないというよりも、相当に年季の入ったものと思われるリングは、
しかし、男心をくすぐってやまない。
渋々来たことも忘れ、早くリングに上ってみたいと思った。
早くも制服の上着を脱ぎ始める醍醐に、京一が訊ねた。
「なんだ、誰も居ねェじゃねェか」
「うむ……」
醍醐はなぜか龍麻を見て、言い辛そうにしている。
口ごもる醍醐に、京一は重ねて訊ねた。
「なんだ、昨日の件が漏れたのか?」
「いや、そうではなくてだな……」
「はっきり言えよ、でけェ図体してんだからよ」
関係があるようで全くない京一の煽りに、醍醐は諦めて口を割った。
「昨日、あれから佐久間達が歌舞伎町で他校の生徒と喧嘩したらしくてな。
向こうから抗議が来て、正式な処分はまだだが、自主謹慎の意味もこめてしばらく休部さ」
「……ケッ。佐久間もバカだがよ、その他校生とやらもだらしねぇな。喧嘩に負けて親頼みかよ」
「まぁ、出来が悪いとはいえ、部員の不祥事だからな。仕方ないさ。
──それよりも、別にお前にまでつきあえとは言ってないんだがな」
昨日の龍麻の喧嘩の、醍醐は結果しか見ていないが、かなりの手練れであると予想できる。
手加減できるかどうかわからず、そのような激しいスパーリング――あくまでも、これは
私闘ではなく部活動だ――を行うときに、観客は無用だった。
京一の返答は簡潔だった。
「バカ野郎、俺がいなけりゃ誰がゴングを鳴らすんだ」
京一とのつきあいが長い醍醐は、これ以上の説得が無意味と悟ると頭を振り、準備を続けた。
数分後、リングに上がった龍麻と醍醐はコーナーポスト上で向き合った。
「それじゃ、始めるか。いいな、緋勇」
「ああ、いつでもどうぞ」
余裕をうかがわせる龍麻に、醍醐は笑みを浮かべる。
一生を格闘に捧げた男でも何回もは浮かべられない、好敵手を見いだした格闘家の笑みだ。
敵意や闘争心といったものを未だ浮かべず、それでいて只者ではない凄みを感じさせる龍麻に、醍醐の心は沸騰していた。
両腕を肩よりやや開いて前に出し、重心は心持ち落として、龍麻がどのような攻めをしてきても即応できる構えを取った醍醐は、
龍麻から視線を一瞬たりとも離さないまま、リング下の京一に向かって叫んだ。
「鳴らせッ」
醍醐が言うとほぼ同時にゴングが鳴った。
彼の構えとプロレスというスタイルから、まずはじっくり、
リング中央で牽制しあうと思っていた龍麻は、
赤い布を振られた闘牛のように一目散に突っこんでくる醍醐に機先を制された。
避けるか、それとも下がるか、視界の端に伸びるロープが瞬間の判断を迷わせる。
その一瞬で醍醐は龍麻の選択肢をほとんど奪った。
攻撃を封じ、回避もほぼ封じ、彼にできるのは防御だけだ。
ゴングが鳴るまではじっくりリング中央で応戦しようと考えていたが、
龍麻が未だリングそのものに気を取られていると見るや、先制攻撃に切り替えたのだ。
半身で構える龍麻の腹側に、醍醐は蹴りを放つ。
充分にスピードと体重の乗った蹴りは、龍麻をブロックごと側方に吹き飛ばした。
「くッ……!」
間髪入れずに密着の間合いまで詰め、ボディーブローで頭を下げさせると、
逆側からフックで側頭部にパンチを叩きこむ。
「おいおい、本気かよタイショー」
思わず京一が唸るほど、醍醐の攻撃は激しく、龍麻は身体を丸めて防御するしかない。
鈍い音が部室に響くたび、龍麻の身体は木の葉のように揺れた。
右手、左足、ナックル、ニー、四肢のあらゆる部位でさながらトレーニングのように醍醐は殴り続ける。
一方的に見える闘いだが、龍麻にはさほどダメージが通っていないと当事者には解っていた。
醍醐としてもこの程度で倒せるとは思っておらず、打撃は布石に過ぎない。
嵐のような激しい打撃を続けていた醍醐は、頃合いと見て攻撃を止めた。
龍麻の防御が緩んだと見ると、彼の腋に腕を通し、背中で両手をクラッチする。
その体勢で後ろに下がると、引っ張られる龍麻は上体をより低くせざるをえず、
それこそが醍醐の狙いだった。
龍麻自身の体勢を利用して、彼の身体を一気に逆さまに持ちあげる。
そして醍醐は跳躍しつつ、前方に足を投げ出し、龍麻を頭からマットに叩きつける――
以前プロレスで見て衝撃を受けた技を、醍醐は繰りだそうとしていた。
七十キロはあるだろう龍麻の身体を持ちあげるため、全身の筋肉を賦活化させる。
数多のトレーニングで鍛えられた筋肉たちは醍醐の要請に応え、龍麻の肉体を宙に浮かせようとした。
突然、龍麻の背中に電撃のような痺れが走る。
全く予想外の事態に、醍醐は思わず組んでいた手を解いてしまった。
痺れはダメージとはならなかったが、龍麻はホールドから脱し、再び醍醐と正対した。
「おおおッ――!!」
自身を鼓舞するように咆吼を放った醍醐は、再び組みつこうと両腕を伸ばす。
今度は背中ではなく腰にクラッチを極め、そのまま締めあげようというもくろみだ。
よろけながらも醍醐の想定する間合いよりも半歩だけ深く踏みこんだ龍麻は、
彼の両腕が胴を挟み、丸太もへし折らんばかりに締めあげる寸前、彼の鳩尾に掌を当てた。
さほどの勢いもなく、急所ではあってもどれほどのこともない。
龍麻の攻撃を無視し、一気に決着をつけるべく醍醐は両腕に力を込めた。
かつてない衝撃が醍醐を襲う。
龍麻が触れた鳩尾から、手足の指先に至るまで全身に、大きな波がうねった。
身体の内側から揺れと爆発が同時に来たような一撃に、極めていた手は外れ、
酩酊したように大きくよろめく。
それでも醍醐はなお龍麻に向かって一歩を踏みだしたが、それが限界だった。
膝から崩れおち、マットに伏せる。
三カウントを待つまでもなく、勝敗は決した。
醍醐が目を覚ましたのは、およそ三十分後だった。
「む、む……」
仰向けの状態で目を開けた醍醐は、二人の男が自分を囲んで座っていることに気がついた。
「おう、やっと目ェ覚ましやがったか」
悪友の声が遠い。
初めて酒を呑んだときのように頭が揺れ、思考が定まらなかったが、次第に状況を思いだした。
「俺は負けて……気を失っていたのか」
「おうよ、うつぶせに気絶したお前ェを仰向けにしてやったんだ、感謝しやがれ」
「そうか、それは……すまなかったな」
礼を求めておきながら、いざ返ってくると気に入らないようで、京一はわざとらしく鼻を鳴らした。
彼の態度はいつものことなので、醍醐は苦笑い未満のものを浮かべつつ、身体を起こす。
すると、ややあいまいな表情をした転校生が顔を覗きこんだ。
「気分はどうだ」
「ああ……大丈夫だ。すまないな、待たせたみたいで」
「けッ、俺は帰ろうッつったんだけどよ、緋勇がどうしてもラーメンを食いてェって言うから
しょうがねェ、こんなムサい場所で待ってやったんだ」
龍麻の表情を見れば、京一が嘘を言っているのが丸わかりだ。
今度は声に出して笑った醍醐は、改めて座りなおした。
「ああ、約束だからな。さっそく行くとするか」
「よっしゃッ!! 善は急げって言うからな」
「言っておくが京一、俺が奢るのは緋勇だけだからな」
「ケチくさいこと言うなよタイショー」
醍醐と京一の会話に、今度は龍麻が笑いだす。
部室を出た三人は、旧来の友人のように肩を並べてラーメン屋へと歩きだした。
京一が連れていきたいというラーメン屋は学校から数分という話だった。
三人が歩いていると、背後から女性の声がする。
「そこの三人組! 寄り道しないでまっすぐ帰りなさい!」
良く通る若い女性の声は、自分たちに向けられているのではないかと龍麻は思ったが、
京一も醍醐も気に留めないのでそのまま歩いた。
「そこの高校生! 聞こえないのか!」
激しさを増す声に、醍醐の歩みが若干鈍ったものの、京一はなお無視して進む。
すると、声はいよいよ勢いと指向性を増した。
「そこの木刀担いだアホ!」
「誰がアホだッ!!」
ついに京一が振り向いた。
龍麻も倣って振り向くと、真神の制服を着た小柄な少女がそこには居た。
ショートカットと勝ち気な眼が印象的な、全身から活力があふれている少女だ。
少女は京一の前まで来ると、彼に指を突きつけた。
「人の話を聞かないんだから、アホ呼ばわりされてもしょうがないだろッ」
「お前の話なんて聞いたってしょうがねェだろうがッ」
京一に向かって思い切り舌を出した少女は、龍麻に向き直った。
「緋勇クンだよね。ボクは桜井小蒔。同じC組だよ」
「ああ、ごめん、まだ全然覚えられなくて」
「ううん、しょうがないよね、一対三九だもん。それに昨日は緋勇クンの人気が凄かったからさ、
ボクも話しかけなかったし。一年間、よろしくね」
人懐っこい笑みに龍麻が応じると、小蒔は大きく頷いた。
「んじゃ行こっか」
「行くってどこへだよ」
「ラーメン食べに行こうとしてたんでしょ?」
ぐうの音も出ない指摘に、京一は一旦は声を詰まらせつつもすぐに反撃した。
「俺たちゃ友情を温めようとしてんだよッ。食うコトしか考えてねェお前なんざ連れていけるかッ」
京一の大義名分を完全に無視した小蒔は、龍麻の手を握って真剣な眼差しで言った。
「ねえ、緋勇クン。ボクね、友達は選んだ方が良いと思うんだ。今ならまだ取り返しがつくから」
「どういう意味だコラァッ!」
凄む京一に平然と笑みを浮かべた小蒔は、おもむろにあらぬ方を向いて叫んだ。
「こういうコトだよ。いぬがみせんせーッ! ほうらいじがですねーッ!!」
「!!! バ、バカ野郎、なんてコト口走りやがんだお前ッ!!」
動転した京一が小蒔の口を塞ぐ。
教師を呼ばれて喜ぶ高校生も少ないだろうが、京一の動転ぶりはかなり怪しい。
龍麻の疑問に答えたのは醍醐だった。
「京一は、こともあろうに先月の卒業式の時暴れてな、
それ以来生活指導の犬神から目を付けられているんだ」
「醍醐、てめェ何よけいなことしゃべって……大体ありゃあいつらの逆恨みだ。
俺はれっきとした被害者だぞッ」
詳しい事情は分からないが、京一には結局喧嘩をする素性があるということなのだろう。
昨日も嬉々としていたし、巻きこんだという後ろめたさを龍麻が感じる必要は、どうやらなさそうだった。
「京一、いいかげん桜井から離れろッ」
突然怒りだした醍醐に、何事かと見てみれば、京一の腕の中で小蒔が顔を赤くしている。
恥ずかしいのではなく、口を塞がれて息ができないのだ。
「ん? あぁ、忘れてた」
京一が手を離すと、小蒔は両膝に手をついて呼吸を整えた。
「はァ、はァ……ボクのこと殺す気?」
「お前が余計なこと言うのが悪いんだろうがッ」
「いぬがみ――」
「わ、わかったッ、一緒に行きゃあいいんだろッ」
「最初ッからそう言えばいいんだよ」
京一は喧嘩の腕前は相当だが、女には頭が上がらないらしい。
意外な弱点を知って、龍麻は小さく吹き出してしまった。
「なんだよ」
「いや、なんでもない……行こうぜ、俺も腹減った」
憮然とする京一の肩を叩いた龍麻は、これから先何度も通うことになるラーメン屋への、
初めの一歩を踏み出したのだった。
京一達に連れられて龍麻が来たのは、いかにも街の中華料理屋といった風情の店だった。
赤いのれんに二十年は優に経過していると思われる、
お世辞にも綺麗とは言いがたい建物が、逆に味を期待させる。
店内も同様で、歴戦の勇士たる油が染みているような机と、
背もたれさえない丸椅子が、店主と共に長きにわたって真神の生徒や
近隣住民の胃袋を支えてきたのだろう。
「親父、味噌一丁」
「ボクは塩バターラーメンね」
「俺はカルビラーメン大盛りを」
三人は席に着くなりメニュー表も見ずに注文した。
いささか慌てた龍麻は、適当に頼もうと壁に貼られたメニューに素早く目を走らせるが、
そこにあったのは七夕の竹を独り占めできそうなほどの短冊だった。
どうして街の中華料理屋にこんな豊富なメニューがあるのか目眩を覚えつつ、
とにかくラーメンの島を捜す。
二十種類近くあったラーメンの中から、無難に醤油を選んだところで、さっそく醍醐が話しかけてきた。
「緋勇、さっきの技は一体何だ? 俺は相当鍛えてあるつもりだったんだがな、
まさか一発でのされるとは思っていなかった」
醍醐は蜂の巣を見つけた小熊のように目を輝かせている。
説明しようと龍麻が口を開きかけると、京一が遮った。
「かーッ、これからラーメン食おうってのに何汗臭い話しやがんだ。ラーメンがマズくなるだろ」
そこに四人分の水を運んできた小蒔も加わる。
「なに、醍醐クンと緋勇クン……もしかして、会ったばっかりでもうケンカしたの?」
「む、いや、そうではなくてだな……」
形勢不利を悟ったのか、醍醐は渋々ながらも話題を打ち切った。
そこにタイミング良く、というよりかなり早く四人分のラーメンが運ばれてくる。
あまりの早さに本当に茹でられているのか、半信半疑で龍麻は一口啜ってみたが、
味に問題はなく、美味しかった。
京一が醍醐が目覚めるまで待たせてまで来たのも、これなら頷けた。
四人ともしばらく若い胃袋を満たすのに夢中で、麺を啜る音だけがテーブルの上を乱舞する。
三分の一ほど食べたところで、コップの水を飲んで一息ついた小蒔が喋りだした。
「そういえば、知ってる? 旧校舎の話」
「あん? 赤い光がどうとかってヤツか」
「なんだ、知ってたのか」
小蒔が唇を尖らせる。
目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きず、龍麻は、彼女は人気があるだろうなと予想した。
「おう、今日アン子に聞いたばっかりだからな」
「もう何人も見てるらしいよ。赤い光だけじゃなくて、人影も見たとか」
小蒔が仕入れた噂話を京一は鼻で笑い飛ばした。
「おいおい、まさか幽霊ってんじゃねェだろうな。今時流行らねェぜ、なあ醍醐」
「う、うむ、そうだな……だが、旧校舎は立ち入り禁止になっているんじゃないのか?」
なぜか醍醐の歯切れが悪い。
食べるのに専念していて聞いていなかったのか、
それとも技の話を中断させられて気分を害しているのか、
まだ殴り合いをしただけの関係である醍醐の、
人となりを知らない龍麻には判断がつかなかった。
「抜け道があるんだってよ。部のやつが言ってた」
「あ、それアン子も言ってた。そのうち潜りこんで何か見つけてくるって」
「今日行くって言ってたぞ。つきあわされる美里もご苦労なこった」
言いながら京一が顎を撫でたのは、記憶に痛みを呼び覚まされたのだろうか。
「なにアン子、葵も連れてったの!?」
「ッてより、最初は緋勇を連れてこうとしたみてェなのによ、
美里が自分から行くって言いだして、珍しいこともあるもんだな」
「葵が!? ヘンなの……そういうことはいつもしないのに」
小蒔は腕を組んだが、答えが出るわけでもない。
大事には至らないだろうと楽観するしかなかった。
龍麻達が再びラーメンを啜りはじめた直後、突然店の扉が勢いよく開く。
店主と龍麻達が一斉に視線を集中させた先には、真神の制服を着た女子生徒が立っていた。
一時間ほど前に龍麻と初対面を済ませた、遠野杏子だ。
らっしゃいッ、という店主を無視して龍麻達のテーブルに来た彼女は、
何事かと声も出ない龍麻達の前でコップのひとつを掴むと、一気に飲みほした。
「ど、どしたの、アン子……?」
小蒔の疑問に答えないまま、さらに別のコップを手にして、反り返る勢いで飲んでから、
ようやくアン子は目的を告げた。
「み、美里ちゃんを探してッ!」
「おッ、おい、どういうことだ?」
アン子の口から飛び出した剣呑な言葉に、皆の表情が変わる。
軽く胸元を叩いて呼吸を整えたアン子は、手早く事情を説明した。
「旧校舎に入って十五分くらいした頃かしら。
何にもないと思ってたんだけど、奥の方の教室から何か音がして、中に入ったら赤い光が追いかけてきて」
「赤い光?」
四人が同時に驚きの声をあげる。
いるにしても幽霊だと思っていたものが、人に危害を及ぼすほどの存在だったとは。
言い出した小蒔でさえもが半信半疑だったが、
葵が旧校舎の中に置き去りにされてしまったのは確かだった。
「一緒に逃げたんだけど、気が付いたらはぐれてて……お願い、美里ちゃんを探してッ!」
小蒔は血相を変えてすでに立ちあがりかけているが、京一は落ちついて、
麺のなくなったスープを啜ってから訊ねた。
「どうするよ、緋勇」
「行くさ」
その言葉を予想していたように京一は丼を置き、紫の袋を掴んで立ちあがった。
「よっしゃッ、腹ごなしの運動といくかッ。支払いは頼んだぜ、タイショー!」
「よろしくね、醍醐クンッ!」
「こ、こら待て、俺も行くんだぞ……ッ!」
風のように店を出て行った京一と小蒔に醍醐が頭を抱える。
このようなところで時間を浪費している場合ではなく、
龍麻が代わりに全員分の支払いを済ませると、
感謝しきりといった醍醐に軽く手を振って、
葵を助けるために来た道を戻り始めた。
すっかり日が沈んだ新宿の街を、龍麻達は学校に向かって駆ける。
遅い時間とあって生徒達の人影はなく、すんなり旧校舎に到着した。
アン子が呼びに来た時間から計算すると、葵がここに取り残されておよそ三十分ほどが経過している。
一刻も早く救出する必要があった。
「遠野はここで待って、誰か来たら適当なことを言って時間を稼いでくれ」
「あたしも行くわよ、責任があるんだし」
「光ったのが何にせよ、何かがいるわけだろ? 危ない」
言外に足手まといである、という龍麻の含みを、アン子は理解したようだ。
不満げに唇を尖らせたものの、異は唱えなかった。
「懐中電灯を持っていって。……美里ちゃんのこと、頼んだわよ」
「ああ」
京一と醍醐に頷いて、龍麻は旧校舎へと突入した。
暗い木造の校舎は、照明もなく、どこまでも闇が続くかのように暗い。
冷えた空気は物理的な圧迫感すら与えてきて、謂われなく入る者を拒むかのようだった。
建物に入って数歩進んだところで、龍麻は異変に気づいた。
三人分の足音のはずが、四人分聞こえる。
先頭を歩く龍麻が懐中電灯の光を振り向けると、京一と醍醐の他に、小蒔の姿がそこにあった。
「桜井! なんで……」
「なんでって、親友だもん。葵を放っておけるワケないじゃない」
旧校舎に入るときに、今日知り合った同級生のことを龍麻が失念していたのは事実だ。
とはいえ余計に気を配らなければならない要素が増えるのは好ましくない。
幸いまだ建物には入って間もなく、灯りがなくても引き返すのは容易だろう。
小蒔を帰らせようとする龍麻に、京一が言った。
「まァ、こいつは男みてェなモンだから平気だろ」
「なんだとォ」
「お前ら、少しは緊張感を持たんか」
醍醐の感想に龍麻も同感だった。
念のため、帰るよう促してみたが小蒔は聞く耳を持たず、説得する時間も惜しいので、
龍麻は彼女を連れて四人で先に進むことにした。
アン子の話では、葵とは一階の一番奥の教室ではぐれたという。
一直線なので迷う心配はないが、木の板の廊下は踏むと年季の入った音を立てるので、
踏み抜いてしまわないよう気をつける必要があった。
さらに、懐中電灯の光が職員室から見えないようにもしなければならない。
龍麻は床を照らしながら、可能な限りの速さで進む。
「……そういえば、聞いた話なんだけど、この校舎もともとは陸軍の訓練学校だったんだって」
小蒔が言うと、醍醐が応じた。
「ああ、何でも軍の実験用の地下施設があったらしいな。
一階の廊下の一番奥にはしごがあって、そこから行けるそうだ」
「へえ、それは初めて聞いたよ。詳しいね、醍醐クン」
「死んだじいさんが軍人でな、親父からもこの学校の話は良く聞かされたんだ」
龍麻は聞き耳を立てつつも彼らの話に特に関心を示さなかったが、京一が飛びついた。
「軍の実験施設なんて面白そうじゃねェか。行ってみようぜ」
「アホ。葵はどうすんのさ」
「あ……み、美里がそこにいるかも知れねぇじゃねぇか」
「今『あ』って言ったろ」
小蒔はかなり怒っているようだ。
二人を取りなすように醍醐が言った。
「残念だが、はしごなんて今は無いだろうよ」
「ちェッ……仕方ねェ、こうなりゃさっさと美里を探して帰ろうぜ」
「最初っからそのために来てるんだっての!」
どうもこの二人は意図してかそれとも無意識にか、すぐに漫才めいた会話になるようだ。
無言で頭を振った龍麻は、一人で先に進んだ。
「あ、おい、待てったら、灯りは一個しかねェんだぞ」
「京一がアホなことばっかり言ってるから怒ったんだよきっと」
「む……」
京一も反省したのか、しばらくは静かになった。
やがて校舎の端に近づき、アン子から聞いた、葵とはぐれたという教室が見えてきた。
「扉が開いてるな……多分あそこだな」
ここまで「赤く光る物」には遭遇しなかったので、教室内にいる可能性が高い。
アン子から借りた懐中電灯で、龍麻は室内を照らしてみた。
「うわッ……!」
たちまち甲高い鳴き声が乱れ飛び、異様な気配が教室内に満ちた。
急速に何かが近づいてくる気配を感じて、慌てて扉を閉める。
勢い余って扉にぶつかってきた何かは、想像を絶するものだった。
「蝙蝠……?」
龍麻が断定を避けたのは、それが龍麻が知っている大きさではなかったからだ。
街中で見かける蝙蝠は、羽を広げても三十センチ程度だが、
龍麻がガラス越しに見たのは頭だけでそれくらいはあった。
翼を拡げればニメートルくらいはありそうで、尋常ではない。
京一達もそれぞれ教室を覗き、龍麻が見た物を見て同じように驚いた。
室内で続く大合唱に、辟易したように京一が頭を振る。
「なんで蝙蝠がこんなトコにいるんだよ」
「それよか、葵は居た?」
小蒔の問いに龍麻は頷いた。
懐中電灯の光は一瞬しか室内を照らさなかったが、龍麻の眼は床に横たわる人の姿を捉えていた。
「醍醐はここで桜井と待っててくれ。蓬莱寺、援護を頼めるか?」
不良と違い未知の危険が伴うので、あるいは断られるかもしれないと龍麻は思ったが、
彼はあっさりと頷いた。
「援護は任せとけ。それから、京一でいいぜ。そっちの方が言いやすいだろ」
「解った……頼んだ、京一」
片方の口の端を釣り上げて京一は笑った。
何が待ち受けているか分からないというのに、微塵も緊張していないのは、ずいぶんと頼もしい。
京一は紫の包みを解いて、中から木刀を取りだした。
竹刀ではなく木刀というのは、何か理由があるのだろうが、今は聞いている場合ではなかった。
醍醐も龍麻の指示を了解したが、一人だけ、龍麻に反対した少女がいた。
「ボクも入るよ」
勝ち気に告げる小蒔に、龍麻は諭すように言った。
「蝙蝠を倒すのが目的じゃないし、中は暗いから人数は少ない方がいい」
彼女の勇気は買うが、二重遭難でもしたら目も当てられない。
それに上手くいけば数分で済む作戦なのだから、不要なリスクは冒すべきではなかった。
小蒔は唇を尖らせたが、言い争っていられる状況ではないと理解したようだ。
不承不承ではあっても、ここで待つことに同意した。
「……絶対、葵を助けてよ」
「それは保証する」
京一と視線を交わした龍麻は、扉を開けて教室内に躍りこんだ。
騒ぎだす蝙蝠共には目もくれず、葵が倒れている場所に一直線に走る。
何匹かの蝙蝠がぶつかってきたが、目指す葵に辿りつくと、一瞬の停滞もなく彼女を抱きあげた。
「京一ッ、逃げるぞッ!!」
「おうッ!!」
木刀を振り回していた京一に背中を任せながら、教室を飛びだす。
龍麻と京一が教室を出ると、数匹の蝙蝠が追ってきたが、醍醐が制服を振って叩き落とした。
教室の扉を閉め、どうにか一息つく。
「葵ッ……大丈夫なの?」
小蒔の呼びかけにも葵は反応しない。
龍麻が彼女の口に顔を近づけると、息をしているのが伝わってきた。
「大丈夫、気を失っているだけだ……!?」
龍麻が途中で言葉を呑みこんだのは、腕の中の葵に異変を感じたからだ。
異変は小蒔達にもすぐに察知され、彼女は驚いて叫んだ。
「あッ、葵の身体……光ってない……!?」
小蒔の言う通り、青白い燐光のような輝きが葵を包んでいる。
教室内では間違いなく光ってはおらず、龍麻も戸惑って京一達を見回した。
「お、おい……光ってるのは、美里だけじゃねェぞ……!」
動揺する京一に、小蒔と醍醐も級友と、自分の身体を眺める。
龍麻を含めた五人全員が、葵と同じ燐光を身にまとっていた。
眩しくはない――懐中電灯の光の方が明るいくらいで、目は開けたままでいられる。
熱も帯びてはいないようで、何がどうやって光っているのか、皆目見当がつかなかった。
お互いに起こった異変に、四人が声も出せないでいると、不意に地面が揺れた。
「わッ、地震!?」
「なんだってんだよ、次から次へと」
揺れはすぐに収まり、同時に五人の身体から輝きも失せていた。
「消えた……ね、何かな、今の」
「俺が知るわけねェだろ」
蝙蝠達もいつのまにか静かになっており、京一と小蒔の囁きが暗い校舎に響く。
「とにかく、美里は助けたんだから外に出よう」
葵を抱きあげて立ちあがった龍麻に京一達も倣い、出口に向かった。
幸いに新たな脅威が龍麻達を襲うことはなく、五人は揃って旧校舎を脱出した。
「アン子は……?」
この辺りに居るはずなのだが、姿が見えない。
校舎の角まで見に行った小蒔が、慌てて戻ってきた。
「ヤバい、犬神センセーに捕まってるよ」
「げッ、マジか」
彼が見回りに来たのか、それとも偶然なのかは分からないが、アン子は足止めしてくれているのだろう。
葵を背負い直した龍麻は、アン子と犬神がいるのとは反対側を指し示した。
「今のうちに向こうから回って学校を出よう」
「アン子に連絡は?」
「今は無理だろう……明日、学校で話せばいい」
龍麻の指示に一度は頷いた小蒔は、思いだしたように訊ねた。
「葵はどうするの? まだ目を覚ましてないよね」
「俺が家に送っていくよ」
「えッ!?」
思わず大声を出した小蒔は、龍麻にたしなめられて慌てて口を押さえた。
けれども納得はしていないようで、目で説明を求める。
「生徒会長が立ち入り禁止の旧校舎に入って怪我をした、なんて公になったらまずいだろ?
大きな怪我もしていないみたいだし、家まで送っていくよ。
多分途中で目を覚ますだろうから、そのとき事情を説明する」
「うーん……」
小蒔は承伏しがたい様子だったが、龍麻の強い調子と、何より状況が逼迫している。
結局龍麻に葵を委ねることに同意した。
「よし、それじゃ明日また学校で」
旧校舎を大きく回って校門に出た龍麻は、見つかる危険を避けてそのまま去っていった。
京一達は龍麻と葵を見送っている。
二人が見えなくなってから、小蒔がふと呟いた。
「緋勇クンてさ……葵の家、知ってるのかな」
三人は顔を見合わせたが、答えを知っている者はいなかった。
葵が目を覚ましたのは、龍麻に背負われて五分ほどしてからだった。
間近にあった男の顔に驚き、それが龍麻であると気づいてさらに驚き、混乱を隠せないまま葵は訊ねた。
「ど、どういうことなの……?」
「目を覚ましたか」
混乱をいっとき放置して、葵は記憶をたどる。
アン子と旧校舎に行き、そこで何かに遭遇し、アン子とはぐれ――
「緋勇君が、助けてくれたの?」
「俺だけじゃないけどな。蓬……京一と醍醐、それに桜井」
葵は友人達に感謝した。
ただし、今背負われている男に対しては、昨日のこともあり、素直には感謝できない。
複雑な感情を押し殺して、葵は現在の状況を訊ねた。
「それで……今は、どこに向かっているの?」
「俺の家だ」
簡潔な返答は葵の感情を明快な一本にまとめあげた。
「お、下ろして。もう平気だから」
「もう家に着く」
葵の抵抗はぴしゃりと封じられた。
龍麻の言う通り、二人はほどなくして彼の家に着いた。
まだ新しい雰囲気のマンションは、小洒落た感じだったが、
そんなことで葵の心は慰められはしない。
それよりも昨日の恐怖もまだ生々しく残っており、その警戒心の方が勝るのは当然だった。
玄関の前まで来てようやく龍麻の背中から下ろされた葵は、
今この瞬間にでも逃げだすべきなのではと真剣に考えた。
だが、鞄を龍麻が持っていて、それを奪い取って逃げるのはあまりに失礼ではないかと迷っているうちに、鍵を開けた龍麻に連れこまれてしまった。
外観と同様、内装もまだ新しさが感じられる家の中は、それほど大きくはない――というよりも、
台所と洗面所を除けば大きめの居間だけの間取りは、家族が住むのなら少し狭いかもしれない。
他人の、それも親の経済事情に口を出す非礼さなど葵は持ち合わせていなかったが、
それにしても生活感のなさが気になった。
玄関には龍麻と葵以外の靴さえ置いてなかったのだ。
「傷を見るからこっちに来いよ」
上着を脱いだ龍麻が、数少ない調度品であるソファを指差して言った。
いよいよ危険を感じた葵は、半歩後ずさって答えた。
「あ、あの、本当に大丈夫だから」
返ってきたのは怒声に近かった。
「自分の身体を良く見てみろよ」
剣幕に圧されて言われたとおりにした葵は、初めて自分の惨状に気づいた。
制服とパンストのほとんどの部分に傷と汚れが付着している。
皮肉なことに、傷を認識した途端に痛みが起こり、ほとんど立っていられないほどになった。
だが、ここで隙を見せればまた昨日のように襲われる――葵は意識を集中して、龍麻を睨むように見た。
龍麻は葵の抵抗など意に介さず、彼女の腕を取った。
「治療してやるから座れって言ってるんだ」
「お、お医者さんに見てもらうからっ」
「蝙蝠の噛み傷なんて医者に見せたら大騒ぎになるぞ。
感染症の危険もあるし、どこで襲われたか必ず訊かれる」
「で、でも」
正論ではあるが、肌を見られるという嫌悪感はそれを上回る。
まして龍麻が適切な治療を施せるという保証などなく、
単に機会を利用していかがわしい行為に及ぼうとしているだけではないのか。
葵は危惧したが、力で龍麻に敵うはずがない。
十秒にも満たないうちに葵の抵抗は封じこまれ、いいようにされてしまった。
「まずは……ここか」
二の腕の傷を見て呟いた龍麻は、傷口に触れる。
乱暴な触り方ではなかったが、直に触られてわずかな痛みが生じた葵は眉をしかめた。
無頓着に見える態度に、声に出して抗議しようとして、思いの外真剣に傷口を凝視している彼に、
思わず言葉を呑んでいると、彼の手のひらが淡く光りはじめた。
冬に潜りこむ羽毛布団さながらの心地よい温かさが浸透する。
ほのかな熱は十秒ほど続き、温もりが消えたとき、傷口は消失していた。
「何を……したの……?」
「氣だよ」
龍麻は短くそれだけを答えた。
要領を得ない回答は葵を満足させなかったが、龍麻はすでに次の傷を探すのに集中している。
仕方なく、葵は彼が治療するに任せた。
任せた、とはいっても、彼が無遠慮にセーラー服の裾を捲ろうとしたときは必死で抵抗した。
「そ、そんなところ噛まれたりしてませんからっ」
「どうして言い切れる? 蝙蝠は感染症の危険があるってさっき言ったはずだ。
念のため確認はしておくぞ」
「でも」
なおも葵は食い下がろうとするが、男の力に敵うはずもない。
前側を必死で押さえて、どうにか背中の上半分を見られるのだけは阻止するのが精一杯だった。
「ひっ……!」
見るだけだと思っていたのに、いきなり触られたので思わず声を出してしまう。
身体を固くし、決して本意ではないのだと暗に示したつもりが、龍麻にはまるで伝わっていなかった。
それどころか反応してしまっては逆効果で、葵は顔を伏せて赤面するほかなかった。
龍麻の掌が背中を撫でる。
親にもほとんど触れられたことのない場所を蹂躙される恥辱は、
彼の手の意外な温かさにやや紛らわされた。
体温よりもわずかに高い、不思議な熱は、葵に嫌悪の念を抱き続けさせるのを難しくさせる。
どうしてこんな二律背反した感情がわき起こるのか、自分でも不可解だったが、
いずれにしても、背中の触診はすぐに終わり、葵を拍子抜けさせた。
「よし、今度は前だ」
しかし安堵したのも束の間、当然のように言ってのける龍麻に、
制服を慌てて直した葵は座ったまま後ずさろうとした。
「い、嫌っ、もういいですからっ」
「仰向けに寝てたんだから、前の方が傷があるに決まってるだろう。いいからおとなしくしてろ」
足首を掴む龍麻から逃れようともがいたが、またも女の無力を思い知らされただけだった。
しかも、早くもストッキングの破れを見つけられ、彼が正しいことが証明されてしまう。
耳朶に熱を感じつつも、安易に彼を受け入れるわけにはいかなかった。
「どうして……酷いことばかりするの?」
「危険な場所に行かなければ、こんなことにはならなかった」
言い終えるや否や、龍麻がパンストを破く。
貞操の危機を感じた葵は、必死に暴れた。
「い、嫌っ、止めてッ……!!」
落ちついた雰囲気の美少女らしからぬ、手足をやみくもに振り回しての抵抗は、
女性であれば当然の振る舞いだ。
それは他人を傷つけようとさえしたことのない葵の、初めての果敢な抵抗だったが、
佐久間達不良をほとんど傷も受けず倒した龍麻には無意味だった。
それでも、スカートがめくれあがるのも構わず暴れる葵にうんざりした表情を浮かべた龍麻は、
彼女の右足首を掴むと立ちあがる。
恐慌状態に陥った葵は、なお自由な左足で龍麻を蹴りつけようとしたが、
その左足も抱えられてしまうと、いよいよ髪を振り乱して狂乱するのだった。
「落ちつけって!」
彼女をそのような状態に追いこんだ張本人でありながら、龍麻は本気で怒鳴りつける。
「毒が入ってたらどうするんだよ。興奮したら回りを早くするだけだぞ」
「い、嫌……嫌ぁッ……!」
葵は泣き叫び、全く要領を得ない。
仕方なく龍麻は掴んでいた足を下ろし、彼女の服装を整えてやった。
とはいえ、パンストは破かれたままだから、かえって扇情的に見えてしまう。
無防備に――龍麻にはそうとしか見えない――顔を両手で覆って泣いている葵に、
苛立ちを抑えて龍麻は言った。
「パンストなら後で買ってやるから」
葵からの返事はなかったので、再び龍麻は彼女の足を診た。
今度は彼女もおとなしく従ったが、これは放心していたからだろう。
それでも幾ばくかは気を使ったのは、意外に傷が多く、早く治療しなければならないと思ったのだ。
脛にある傷の一つに掌を当てた龍麻は、ゆっくり息を吐いて意識を集中させた。
「っ……」
腕の時と同じ、心地よい温かさが葵の患部を満たし、それが消失したとき、傷口も完全に消えていた。
ほどなく次の箇所の治療も始まり、葵は、少なくとも龍麻が今は治療に専念してくれるのだと分った。
涙を拭い、鼻を啜ると、どうにか声を絞りだす。
「ごめ、んな、さい」
「あん?」
「怪我を診てくれようとしたのに、暴れてしまって」
「あー……」
あまりにも素直すぎる葵の性格に、龍麻は呆れていた。
よくもこの容貌と性格で、これまで手つかずでいられたものだ。
警鐘を鳴らす意味で次の怪我を診るために、パンストを大きめに破いてみせたが、
もう信用しているのか、暴れるそぶりは見せなかった。
内心でため息をつき、怪我の治療を行いつつ、龍麻が口にしたのは別の話題だった。
「どうしてあの、アン子だったか? 俺に用があっただけっぽいのに、
わざわざ自分から一緒に行くって言った?」
「それは、緋勇君が」
「俺が?」
「緋勇君が……私にしたことを、アン子ちゃんにもするんじゃないかって……」
一応まだ警戒心は持っているらしい。
遠慮がちに非難する葵に鼻を鳴らしただけで返事はせず、龍麻は治療を続けた。
道場に置いてあった象牙のように滑らかで、染み一つない肌に滲む赤い血は、
治療することにためらいさえ覚えてしまうほど、凄艶な美しさを有している。
その傷口に手を当て、龍麻は練った氣を注ぎこんだ。
ほどなく傷がふさがっていく。
満足感と名残惜しさを同時に抱きながら、次の傷口に手を添えた。
彼の手が新たな傷口に触れる。
不思議な気分だった。
彼は治療を行っているだけのはずなのに、どうにも身体が快さを感じてしまうのだ。
葵は気のせいだと思い、努めて意識しないようにした。
だが、彼が触れ、氣とやらを注いでいる部分が、ほのかに温かくなる。
するとどうしたわけか、腹の奥にむずむずした感覚が起こるのだ。
なんとなく足を開いていてはいけない気がして、葵は閉じようとするが、
足の間には龍麻がいて思うようには閉じられない。
せめてスカートを整えたところで、龍麻に気づかれてしまった。
「ん? 感じてるのか?」
不躾に過ぎる問いは、葵をかっとさせる。
かつて感じたことのない熱が、頬に宿っていた。
「そ、そんなわけありませんっ」
感情を露わにする葵にも、龍麻は動じなかった。
「無理すんな。氣ってのは生命力だからな。他人から注がれりゃ元気にもなるが、
身体が熱くもなる。風邪引いたとき肌が敏感になるだろ? あんな感じだ」
「そ、そんな大事なこと、どうして先に言ってくれなかったの!?」
「別に死ぬわけじゃねえし、一時的なもんだからな。それに嫌って言ったって関係ねえし」
「と、とにかくもう良いですから」
「そういうわけにはいかねえよ。まだ傷は残ってるし、治すまで帰らせるつもりはねえ」
龍麻の口調には凄みがあり、葵の意志など問題にしないのは明らかで、
葵は唇を噛み、彼の思惑に乗らないように意識を強く保つほかなかった。
ところが、これが難題だった。
龍麻の治療は一箇所につき、およそ二十秒ほどかかるのだが、
それだけの間でもくすぐったさの混じった気持ちよさは耐えがたいほど広がっていき、
しかも、新たな傷口を治療するたびごとに少しずつ強くなっていくのだ。
大きくなっていく呼吸を、初めのうちは押し殺していた葵も、
彼の手が膝より上の、腿の内側に触れるに至って我慢できなくなってしまう。
「ふっ……ん……」
自分でも驚くほどの悩ましい声に、慌てて口を塞ぐが、かえって龍麻の注意を惹いてしまった。
顔だけを横に向けた龍麻と、眼が合う。
合う、というよりも彼の黒い瞳から発せられる、柱のごとき眼光に吸い寄せられたといった方が
正しいかもしれなかった。
自分が今、どんな顔をしているかわからなくなって、葵は目を閉じる。
自分の表情をくらませることはできた。
だが、同時に彼の表情も見えなくなる。
せめて龍麻が視線を外してから目を閉じれば良かったと後悔した葵は、
龍麻がずっと自分を、あの黒い瞳で見つめているような気がして頬が熱くなった。
決して見られたいなどと思ってはいないのに。
龍麻は何も言わず、気配も動かない。
葵が焦れ始めたところで、再び治療が始まった。
もうこちらは見ていないだろうと思いつつ、葵は目を開けられない。
治療はいよいよスカートの内側に及び、足の付け根まで剥きだしにされた葵は、
下着を見られないようスカートを束ねて押さえなければならない。
彼の注意を惹かないよう、さりげなくスカートを押さえたつもりだったが、
衣擦れの音は思いの外大きく聞こえた。
聞こえてしまっただろうか――心配する葵の、股間の前に置いた両手に知らず力が篭る。
すると、いきなり龍麻が腿の別の場所に触れた。
「きゃ……ッ……!」
それは予想外であったにしても、あまりに恥ずかしい声だった。
うつむき、声を押し殺しても恥ずかしさまで消えるわけではない。
しかも、確実に聞こえていたはずの龍麻が、何も反応しないのが余計に恥辱だった。
もう、絶対に声は出さないと葵は固く決心した。
なのに。
龍麻の掌が傷口に触れるたび、夏の日焼けした肌を剥いたときのような、
痛みと入り交じった奇妙な気持ちよさが、鼓動に合わせて流れこんでくる。
彼の手から氣という得体の知れない何かが、はっきりと注がれていると判るとき、
春の小川に足を浸したような心地よさを伝えてくる。
「く、ふ……ん……」
意志によらず漏れる声が、いつしか止まらなくなっていた。
足を開き、間に男を迎えいれ、肌を触らせていることが、気にならなくなっていた。
スカートの裾こそ押さえ続けていたものの、そこから手首を数センチ後退させて、
火照りを感じている部分に触れさせたいとすら思う。
龍麻が目前にいる状況で、そんな行為は絶対に許されないと自制しつつも、
ほとんど初めてといって良い性的な欲望は、確実に葵を蝕みつつあった。
どうして友人ですらない男の家にあがりこみ、その男を股の間に座らせているのか、
根本的な問題さえ忘れそうになって、葵は龍麻の頭と、
太股に添えられた彼の手が淡く光るのをぼんやりと眺めていた。
葵の方を向いた龍麻が、唐突に訊ねた。
「お前、オナニーは良くするのか?」
乾いた音が弾けたとき、葵は、自分が生涯で初めて人を叩いたことを知った。
昂ぶった心も、火照った身体のこともいっとき忘れ、自らが発生させた、
彼の頬が赤く染まっていく変化を呆然と見つめた。
壊れたドアのように勢いよく横を向いた龍麻の顔が、ゆっくりと戻ってくる。
半面を赤くした彼の表情は、葵の予想に反して怒ってはいなかった。
むしろ叩いた葵を賞賛するように口元に笑みが浮かんでいる。
馬鹿にされたような気がして、葵はまた怒りかけたが、龍麻が先に喋った。
「その反応じゃしたこともなさそうだな。単に感じやすいだけなのか……いや、まさか」
葵に狙いを定め、撃ちだすばかりの鉄球のような眼の向きを変えた龍麻は、不意に彼女の手を掴んだ。
彼女自身の、まだ傷が残る箇所に当てさせる。
「手に意識を集中させてみろ」
奇しくも龍麻は昨日と同じ、右の手首を掴んでいる。
その事実は葵の集中力を妨げたが、彼の殺気とも取れる真剣さに気圧され、言われたとおりにした。
はじめは何も起こらなかった。
驚いたことに、徒労としか思えない努力を葵が続けている間、龍麻は身じろぎもしなかった。
掴まれた手首は痛くはなかったが、彼の掌の熱が奇妙に意識させる。
ややあって、何の変化も生じないことを葵が告げると、龍麻は答えた。
「手を動かさずに俺の手を振り解こうとしてみろ」
ますます意味不明なことを言う龍麻にひと睨みされて、葵は渋々従った。
自分の手が振動し、龍麻の手を弾きとばすところをイメージしてみる。
変化が訪れたのは突然だった。
右の肩から手の先に、何かが走り抜ける。
一呼吸の間に生じたそれは、触れている足にまで伝わった。
龍麻に触れられていたときほどではなくても、それに近い快感が身体を巡って、葵は思わず身震いする。
何事が起こったのか龍麻を見ると、彼は事もなげに言った。
「それが『氣』だ」
「そんな……だって、今まで私、そんな」
龍麻の使う氣ですら、実際に傷が治ったという現実を見せられてなお信じ切れてはいないのに、
自分自身にそのような力があると聞かされた葵が混乱したのは無理もない。
しかし、龍麻に動かされた手の下からは、確かに血の滲んでいた傷口が、完全に消失していた。
「どうして……ねえ、どういうことなの!?」
「多分、旧校舎だろうな。あの時、気絶したお前を助けて教室を出た直後、
お前の身体がうっすら光ったんだよ。
その直後、俺たちの身体も同じように光って、その後、小さな地震があった。
その時は脱出する方が優先だったから気にしなかったが、あれ以外考えられないな」
「……」
「今までそういう話を聞いたことはないのか? 旧校舎に行った奴がおかしな力を身につけたとか」
「いえ……ないわ……」
葵は呆然と呟く。
たとえばアン子のように、学校内外の噂話に敏感なわけではないが、
葵も生徒会長という立場上多くのトラブルを聞いていた。
その中に、こんな常識外れな話はなかったはずだ。
なぜよりによって自分が、と考えてしまったのは、これまで常識と品行という、
まっすぐに敷かれた二本のレールの上を歩んできた葵には無理からぬことだった。
動揺を隠せぬようすの葵に、龍麻は告げた。
「その力はまだあまり使うな。氣ってのは自分の生命力だからな、慣れないとすぐにへたばっちまう」
言われずとも望みもしない力など使うつもりもない。
葵は黙って頷いた。
視線を葵から外し、しばらく考えこんでいた龍麻は、低い声で独語した。
「てことは、あいつらもそうなった可能性があるな」
「あいつらって……、小蒔も!?」
「あの場に居たんだから、そうだろ。実際、光ってたしな。明日確認する必要があるが」
「ああ……!」
望みもしていない能力など与えられた自分たちの不幸を、葵は嘆かずにいられなかった。
龍麻の代わりに立ち入り禁止の旧校舎などに行ったばかりに、親友まで巻きこんでしまった。
両手で顔を覆い、葵は悲嘆に暮れる。
しかしそれは、数秒も経たないうちに中断させられた。
右足の治療を終えた龍麻が、左足の治療を始めたのだ。
「きゃっ……!」
温かく快い、葵が今抱いている感情には全くそぐわない刺激が足から伝わってくる。
人の気持ちを無視した振る舞いに、葵はこの薄情な男を睨みつけたが、非難を口にはできなかった。
まがりなりにも龍麻の行動は、葵の治療を目的としていたからだ。
それにしても腹立たしいのは、肉体の刺激で心のありようが簡単に変えられてしまうことだ。
どれほど龍麻に否定的な感情を持っていても、じわりじわりと身体を巡る気持ちよさは、
それを持ち続けることを拒もうとする。
彼は昨日、処女を奪おうとした許されざる男であるはずなのに、
彼の掌から伝わる氣が傷口を癒すとき、あろうことかもう少し続けて欲しいと思ってしまうのだ。
そんな願望を口にするほど、葵は恥知らずではない。
しかし、身体の奥から涌き起こる熱はいつしか葵の唇を開かせ、
彼女自身も聞いたことのないような吐息を漏らさせていた。
七割以上が引き裂かれたパンストは、とうの昔に役目を果たさなくなっている。
かろうじて、足首より先だけは無傷なのだが、それは葵にとってせめてもの慰めだった。
龍麻の手よりもたらされる気持ちよさは、いよいよ我慢の限界にまで近づいていて、
足の指先に力を込めることで、どうにか耐えていたからだ。
波が近づくと指を曲げ、どうにかやり過ごすと力を抜く。
その繰り返しを龍麻に見られるのは、耐え難い恥辱だった。
もしも素肌で見られていたら、気を失っていたかもしれない。
治療はその後三十分近くも続き、不自然な姿勢と耐えなければならない快感から
ようやく解放された葵は精根尽き果てていた。
何もかも投げ出して眠ってしまいたかったが、こんなところで眠ればどうなってしまうかわからない。
気力を振り絞って誘惑にあらがった。
治療を終えたはずの左足をまだ掴んだまま、龍麻は言った。
「あとは、その制服だな」
葵は総毛だった。
いかなる理由があろうとも、これを脱ぐわけにはいかない。
これは鎧であり、葵を護る最後の砦だった。
「……」
少しの間考える表情をした龍麻は、電話の置かれた棚に向かうと、
引き出しから名刺を取りだし、電話をかけた。
「遅くにすみませんが、まだ営業は……はい、はい、真神學園のセーラー服が一着欲しいのですが……
友達が転んで破れてしまいまして、明日も学校なので……はい、十分もあれば取りに行けます」
電話を切った龍麻は、今度は別の棚に向かう。
葵の位置からは良く見えなかったが、少なくない額の金を手にするのが見えた。
「それじゃ、買ってくるから待ってろ」
事もなげに言った龍麻は、葵に反論する暇を与えず出て行ってしまった。
他人の家に一人残された葵は、しばらくの間呆けて座っていたが、
彼の家族が帰ってくる可能性に思い至ると慌てて服装を整えた。
とはいっても座りなおして乱れた制服を直す程度で、
パンストはもうどうしようもないので脱いでしまった。
そこまで済ませると、手持ち無沙汰になってしまう。
彼の家族構成は気になるものの、あれこれ調べるわけにもいかず、見える範囲で想像を働かせるしかない。
座ったままで見える範囲を一通り見終えて葵が抱いた感想は、やはり無機質すぎるというものだった。
電話はあってもテレビはないようだし、どれも新品に見える家具や家電製品も、
逆に言えば生活臭が感じられない。
彼の兄弟姉妹はおろか、父母の存在さえ窺うことができないのだ。
それに、制服を買うために龍麻が持っていった金も葵は気になる。
真神の制服は私立のように高価なものではないが、上下で四万円ほどはしたはずで、
立て替えるだけだとしても、龍麻はずいぶん無造作に持っていった。
まさか、家の金に手をつけたのではないか。
彼の第一印象が率直に言って最悪であるだけに、葵の想像は悪い方向へしか広がっていかない。
龍麻に早く帰ってきて欲しい、と願わずにはいられなかった。
時計の長針が四分の一周ほど動いた頃、鍵の開く音がする。
葵は緊張したが、入ってきたのは紙袋を持った龍麻だった。
「サイズは多分あってると思うけどな」
「……ありがとう」
どう返事をすればよいか分からず、葵は無難に応じた。
受け取った以上は着替えねばならず、葵は龍麻をそれとなく見るが、彼は動こうとしない。
仕方なく、葵は直接言わねばならなかった。
「あの、着替える場所を……」
「別に、ここで着替えりゃいいだろ」
これが狙いだったのかと、葵は制服を突き返そうとしたが、その前に龍麻が両手を挙げた。
「冗談だよ、洗面所はそこだ。俺が行くかお前が行くか、どっちがいい」
「……私が行きます」
声まで硬くした葵は、足早に洗面所に入った。
洗面所は扉があるといっても鍵がかけられるわけではなく、
龍麻がその気になれば容易に入ってくることができる。
葵は大急ぎで着替えてしまうことにした。
急ぎはしても、下着姿になった際に怪我の痕をチェックしてみたが、
どうやら氣とやらいう怪しい技の効果は本物だったようで、傷跡や痛みは一切なくなっていた。
その点は安堵しつつも、彼にはまだ心を許せないと葵は思わざるをえない。
とにかく、着替えが済んだら口実を作ってすぐにこの家を出なければならない。
そう決心して、葵は新たな制服に袖を通した。
龍麻がドアの前に立っている可能性も警戒したが、予想に反して彼はソファに座っていた。
真新しい制服に身を包んだ葵を、上から下まで無遠慮に眺められるのは覚悟していたが、
パンストを脱いでいたことを忘れていた葵は、下半身で止まった彼の視線でそれに気づくと、
計算ミスで百点を逃した数学のテストの答案を見たときのように赤面した。
「あの、立て替えてもらったお金はすぐに返しますから」
帰る前にこれだけは言っておかなければならない。
うつむいていた顔を上げて一気に言った葵に、龍麻は面倒くさそうに手を振った。
「ああ、いらねえよそんなの」
「そういうわけにはいきません。金額も大きいし」
「お前が払うわけじゃないだろ?」
葵はアルバイトをしていないから、自由になるのは親に貰う小遣いと、わずかばかりの貯金だけだ。
高校生ならむしろ普通なのだが、当てこすられた気がして、葵は再び彼を引っぱたきそうになった。
「私のお金で返せというのなら、貯金を下ろします」
「そうじゃなくて、何て言って親に貰うんだよ。学校で蝙蝠に襲われてボロボロになりましたってか?
蝙蝠の話は出さないにしたって、急に制服がダメになったって言やあ怪しまれるだろうよ。
怪我は治しちまってるんだし」
「……でも」
龍麻の主張は正しく、葵は反論できない。
それでも貴方に借りは作りたくない、とは言えなかった。
「気にすんな、こんなの貸しとも思わねえよ」
心を見透かしたような龍麻の発言に、葵は赤面するほかなかった。
その後も金銭の問題だけはきちんとしたいという葵の説得を、龍麻は頑として聞き入れず、
最後には葵の方があきらめるしかなかった。
葵が帰ると言っても、もう引き留めようとはせず、
「送っていってやろうか?」
とさえ言い、そちらは丁重に断らなければならなかった。
「じゃあな」
「あの……今日は色々ありがとう」
ともかくも助けられたのは確かなので、葵は頭を下げた。
顔を上げたとき、龍麻がじっと見ていたので、昨日の旧校舎裏での記憶が蘇って心臓を揺らす。
幸いなことに、あの表現しがたい眼光は宿っていなかった。
「詳しいことは明日皆を集めて説明するから、今日は余計なことを考えるんじゃねえぞ」
「……はい」
彼に対して思うところはあるが、この忠告は素直に聞き入れようと葵は思った。
今日はあまりにも、多くのことがあった。
帰ったらまずお風呂に入って、夕食を食べたら早く寝てしまおう。
そして願わくば、目覚めたら全てが夢であるように。
努めて何も考えないようにしながら、葵は家路を急ぐのだった。
葵が帰った後、龍麻はソファに身を投げ出す。
葵と同じ、片足をソファに乗せ、片足は床に投げだしながら、視線は天井に向けていた。
葵が見たら慄いたであろう、漆黒の瞳から見る者を貫くような眼光が放たれている。
灯りを消したままの部屋で三十分以上も身じろぎ一つしなかった龍麻は、
やがて頭をさらに上向けると、そのままの姿勢で眠りに落ちていった。
龍麻と葵さん周りのセリフ・行動はほとんど新規ですが、
その他のセリフは本編沿いの感じになっています。
どうやって原作に葵さんのエロを紛れこませるかというコンセプトで
書いておりますので見逃してください……
6割以上は新規になってるはず……