※この作品はR-18です。

反魔人學園   作:SVX

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以下次回。


第四話

 春の風が、通り抜けていく。

悪戯な風の妖精に乱された髪を、葵は軽く直した。

 一日ごとに気温や日差しが変化していくこの季節を、葵は嫌いではない。

何かが始まる予感といえば少し白々しくもあるが、

増していく陽気は心身を活性化させるのは間違いなかった。

今年は受験という大きなイベントを控え、浮かれているわけにはいかないとしても、

日々の気分くらいなら、多少弾ませるくらいなら良いはずだった。

 だが、今年の葵には気分が高揚しない理由がある。

黒板を見た葵は、前方から左に、視線だけを動かした。

彼女の隣に座っている、緋勇龍麻という男子生徒が、葵の心にぶら下がる重りだ。

黙っていれば今風ではないながらも整った顔立ちが目を惹き、

声を発すれば同世代の男性とは一線を画する、低く落ちついたトーンに魅了され、

しかも勉強にも運動にも隙がないときては、休み時間に女子生徒が居ないときはないのも頷ける。

これまで異性から関心を寄せられることはあっても、寄せたことはない葵ですら、

好ましいと思ったほどの彼には、しかし、重大な瑕疵があった。

 女を力づくで手籠めにしようとする、許されざる犯罪者。

彼が真神學園に転校してきた初日に、葵はあろうことか保健室で襲われ、

保健医が来なければ貞操を失うところだったのだ。

その後も、葵に落ち度があったとはいえ馴れ馴れしく肌に触れ、

性的な欲望を隠そうともしない彼に、

葵は振り回され、勉強もろくにできないでいる。

進学を目指す高校三年生としては、最悪に近い状況だった。

なんとか、この状況を変えなければならない――

それが、四月の半分を過ぎた頃の、葵の決心だった。

 この日最後の授業が終り、生徒達は束の間の解放感に身を委ねている。

ざわつく教室の中で、葵も帰り支度を整えていると、隣の席である龍麻の所に蓬莱寺京一がやってきた。

 多少軽いところはあってもおおむね好男子であるこの同級生は、

龍麻を気に入ったらしく、最近はほとんどいつも彼の所にいる。

葵は京一を嫌ってはいないだけに、京一が龍麻と一緒にいると、少し残念な気がしてしまうのだった。

 生徒が帰って空いた龍麻の前の席に、横向きに座って足を組んだ京一は、さっそく龍麻に話しかけた。

「おう緋勇、背中の怪我はもういいのかよ」

 京一が言っているのは、先日、龍麻の歓迎会という名目で新宿中央公園で行われた花見の席で、

日本刀を持った男が暴れた際、龍麻が背中を斬りつけられたことを指している。

傷は深く、龍麻は一時気を失うほどだったが、葵の『力』によって、

すぐに歩いて帰れるほどに回復した。

制服は新調しなければならず、服屋の主人とすっかり顔なじみになった、と後日龍麻は笑って話していた。

「ああ、痕も残ってないみたいだ。美里の『力』は凄いな」

 二人の話を聞くでもなく聞いていた葵は、自分の名前が出たことでわずかに緊張した。

案の定、京一が葵の方を見やって軽く手を振っている。

傍から見たらお調子者が、クラスどころか学内でも屈指の美人に愛想を振りまいているようにしか見えないが、

そこにはある秘密を共有する者同士であるという意味が含まれていた。

 生命力を己の意志で操る『力』。

掌から発現させて破壊に用いたり、他者を癒す超常の力。

蓬莱寺京一、美里葵、それに醍醐雄矢と桜井小蒔、緋勇龍麻。

五人の高校生は、ある日突然、ただその場に居合わせたというだけで、

決して望んではいない『力』を授けられてしまったのだ。

他の四人はこの異常事態にも順応してしまっているらしいが、葵は違う。

まだはっきりとした将来の目標こそ定めていないとしても、大学を目指し、

そこから社会の一員となることを目指す、ありふれた人生を送りたいと望んでいた。

たとえ瀕死の怪我人を一瞬で癒すほどの、奇跡に等しい『力』だとしても、

そんなものを必要とはしていなかったのだ。

 京一と目を合わせてしまったので、葵は儀礼的に笑った。

そこに龍麻が顔を動かしたので、内心で緊張したが、彼は何も言わず、

硬い鉄鉱石のような瞳を一瞬向けただけで、すぐに京一に視線を戻した。

「京一と何話してんの? 葵」

 安堵したところで突然、背後から小蒔に話しかけられて、葵は慌てた。

「な、何も話してないわ、ねえ京一君」

「ああ、まだ何も話してねえな」

 それは完全な事実だったのだが、葵の微妙な動転ぶりに、小蒔は不審を抱いたようだ。

「もしかしてボク抜きで何か面白そうなこと企んでたりしない?」

「してねえよ。大体何だよ面白そうなことってよ」

「え? うーん……ラーメン食べに行くとか」

「面白かねェだろ、んなもん」

「そんなコトないと思うけどな。で、どうすんの? ラーメン食べに行くの?」

「ンな話は一言もしてねェっつーの!」

「京一に訊いてるんじゃないもん、緋勇クンに訊いてるんだもん」

 話を振られた龍麻は、人好きのする笑顔で頷いた。

「いいよ、行こう」

「よっしゃッ、おい醍醐ッ、お前も行くだろッ」

 京一が醍醐に呼びかけると、どこに居ても目立つ巨漢はすぐに龍麻達の所にやってきた。

京一と小蒔の会話も聞こえていたらしく、前置きなしで同調する。

「俺は構わんが……京一、あまり緋勇を悪の道に誘うなよ」

「ラーメン食いに行くののどこが悪だってんだッ!」

 立ちあがって醍醐を睨みつける京一に、小蒔がすまし顔で指摘した。

「醍醐クンはラーメンが悪いんじゃなくて、京一が悪いって言ってるんだよ。ね、醍醐クン」

「くッ……てめェら、人を悪呼ばわりしやがって……おい緋勇、騙されんなよ、

こいつらは俺をダシにしてお前にタカろうって腹なんだからな」

「人聞きの悪いコト言わないでよね、誰がいつ緋勇クンにタカろうとしたのさ」

「お前、この間のラーメン代、緋勇に払ったか?」

 京一の指摘は急所を射抜いたらしく、小蒔は顔を引きつらせた。

脇で龍麻が笑いをこらえている。

「そ、それは……まだだけどさ、京一だってどうせ払ってないんでしょ?」

「俺はいいんだよ、なんたってこいつの一番の友人だからな」

 言い切った京一に、小蒔と醍醐は顔を見合わせ、同時にため息をついた。

「緋勇クン、ホントに友達は選んだ方がいいよ」

「桜井の言う通りだ。今ならまだ間に合うぞ、緋勇」

「だから俺一人悪者にするんじゃねェッ!!」

 遂に京一は怒鳴りつけたが、醍醐と小蒔はともかく、

龍麻にまで笑われてしまっては威厳も何もなかった。

ふて腐れた顔のまま、京一は木刀を掴む。

「けッ、もういいッ、行こうぜ緋勇ッ、こんな奴らに構ってても腹が減るだけだ」

「それはこっちの台詞だよッ。あ、緋勇クン、今日はちゃんと自分で払うからね」

 さりげなく前回の支払いをする意志がないことを告げて、小蒔も鞄を持った。

彼女はさらに、見慣れない長い袋をも手にする。

紺色の袋は京一の木刀よりさらに長く、小蒔の身長を優に超えていた。

 立ちあがった龍麻は、好奇心の赴くままに訊ねた。

「それ、何だ?」

「ん? あ、これ? 弓だよ。ちょっと直して欲しいところがあってさ、一旦家に持って帰るの」

「へえ……桜井は弓道部なんだ」

「そうだよ。あれ? 言わなかったっけ?」

「ああ」

「そっか。ボク、部長なんだよ」

 この学校に弓道部があると言うのは聞いていたが、小蒔が部長だったとは。

意外な驚きと共に、初めて目にする和弓を、龍麻は興味深げに観察した。

「今度射るところが見たいな」

「え? 別にいいけど……緋勇クン、弓道に興味あるの?」

「そうじゃないけど、俺も古武術やってるからな、そういうの好きなんだ」

「へー……醍醐クンみたいなこと言うんだね」

「醍醐が?」

「うん、前に一回見学しに来たことがあるの。その時は足が痺れて大変だったみたいだけど」

「そうなのか?」

「う、うむ、まあな」

「醍醐クンったらね、結局歩けずに転んじゃったんだよ」

 余程その時の光景がおかしかったのか、小蒔は笑いをこらえきれずに頬をにやつかせている。

この巨体の男が足が痺れて狼狽する様は確かに滑稽であると思われ、龍麻も是非見てみたく思った。

「も、もういいだろう桜井。そろそろ行こうじゃないか」

 あからさまに話題を避けたがっているのがわかる醍醐が皆を急かした。

といっても異論はなく、四人は連れだって教室を出ようとする。

 その輪に、一人だけついてこなかった。

「あれ、葵は行かないの?」

「え、ええ、私は――」

 龍麻とあまり行動を共にしたくない葵は、この機を幸いと、なんとか断ろうと口実を考えた。

口ごもりながら、つきなれていない嘘をつこうとする。

 しかし、多少動悸が速くなるのを自覚しつつ口にしかけた嘘は、

反対方向からの大声によってあっさりとかき消されてしまった。

「ちょっと待った──ッ!!」

「……この声は」

 教室外から聞こえてきた、物理的な塊となって足止めするような声とは対照的に、

小蒔の呟きはあまり好意的なものではなかった。

大きな声にC組の生徒がかなりの数注目するなか、眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせた声の主は、

身体を軸に伸ばした足をコンパスさながらに動かして龍麻達のところにやってきた。

現れたのは、はたして隣のクラスの遠野杏子だ。

眼鏡の奥の瞳を好奇心で輝かし、仁王立ちで扉を塞ぎ、龍麻達を順に見渡した彼女は、

もったいつけるように口を開いた。

「あんた達、ちょっとあたしの頼みを聞いてみる気はない?」

「ボクはいいよ……」

 小蒔が率先して答えた。

京一と醍醐も決して気乗りはしていないようだ。

だが、三対一という圧力にも、ジャーナリスト志望であるアン子は屈しなかった。

もともと高めの声を、さらに一オクターブ高めてわざとらしい陽気な声を出す。

「あ、なに、桜井ちゃん、その態度。らしくないなぁ」

「だって……」

「お前の頼みって絶対ロクなことにならねぇ気がするんだよ」

 珍しく京一の言葉に小蒔が頷いている。

滅多なことでは見られないその光景に危機感を覚えたアン子は、新しい味方に助けを求めた。

「ひっどーい、何てこと言うのよ。そんな事ないわよ。ね、緋勇君」

「……」

 腰を曲げて軽い上目遣いの、絶望的に似合っていない彼女の媚びた態度が、龍麻に頷かせなかった。

その隣では、京一が弟子の進歩を褒める師匠のように頷いた。

「そうそう、こいつを普通の女だと思ってると酷い目にあうぜ。

特ダネの為ならお前だって売られかねねェ」

 京一のさらに隣では、小蒔が何回も頷いている。

醍醐は体格に相応しく渋面を作っただけで頷いてはおらず、大中小の順に頭を振っているな、

と一人思った龍麻は笑いを噛み殺さねばならなかった。

「なによッ。あたしの話とラーメンとどっちが大事だっていうのよッ!」

「……」

 言わずもがなのことを言ったアン子に、白けた視線が集中する。

圧倒的不利な状況に、彼女は遂に切り札を出さざるを得なくなった。

「もういいわ、わかったわよッ! あたしが皆のラーメン奢ってあげる。それでいいでしょ?」

 一行の間を沈黙が包む。

しかしその表情は様々で、醍醐は驚き、葵もわずかながら目を見開いている。

小蒔も驚いてはいたが、どちらかというと京一の表情に近かった。

そしてその京一は、諒解するや否や満面の笑みを浮かべ、

場違いなほど陽気なバカでかい声で杏子の肩を叩いた。

「なんだアン子、そうならそうと早く言えよ、全く水臭ェな。

なァに、任せとけ。どんなモメ事だろうとこの蓬莱寺様が一発で解決してやるからよ」

「ホントッ!? やっぱり京一君は頼りになるわね。よッ、真神一の伊達男ッ!」

「わっはっは。苦しゅうない、良きに計らえ」

 とどめとばかりにたたみかける杏子に、京一の機嫌はすっかりメーターを振り切ったようだった。

「ッたく、自分が最初に乗せられてどうすんだよ……」

 ぶつぶつ言いながらも、小蒔も異論はないようだ。

彼女の目が空を泳ぎだしたのは、早くもメニューを選んでいるからだろうか。

結局アン子の思惑に乗せられている二人に、龍麻が小さく肩をすくめると、醍醐が話しかけてきた。

「まぁ正直な所、俺も全く気にならない訳じゃないんだ。緋勇、お前はどうだ?」

「そうだな……まずは聞いてみないとな」

「じゃ、決まりだね。行こ、早くしないとあの二人に置いてかれちゃうよ」

 二人が話している間に、京一と杏子は遥か先に行ってしまっていた。

三人も後を追って歩きだす。

 一人残った葵は、このまま行かなければうやむやにできるかもしれないと考えていたが、

それは早計だった。

教室の扉まで行った龍麻が、思いだしたように立ち止まり、振り向いたのだ。

「行かないのか?」

 疑問形でありながら、ほとんど命令しているように葵には聞こえた。

そして、それよりも龍麻の瞳が、いかなる反論も許さない、

ブラックホールめいた負の力で五感を封じたように感じられた。

 それは一瞬の出来事、あるいは錯覚にすぎない。

しかし、葵は催眠術にかかったように一歩を踏みだし、

彼の後をついていく足を止めることができなかった。

 結局五人にアン子を加えた龍麻達が校門まで来た所で、

先頭を歩いていた小蒔がいきなり手を振り出した。

「あ、犬神センセーッ!」

 数メートルほど向こうから、呼ばれた人物が歩いてくる。

 白衣を纏った壮年の男性は、彼らの生物の授業を担当している犬神杜人といった。

授業は要点を抑えてはいるものの、何しろその喋り方がやる気のないように聞こえるため、

あまり生徒の評判は良くないようだった。

特に、龍麻の隣にいる木刀を持った男などには。

「なッ、何で呼ぶんだよ、馬鹿小蒔! 俺はあいつがだい──」

「だい──なんだ? 蓬莱寺」

 低い、ぶっきらぼうな声が重なる。

まだ龍麻達のところまでは少し距離があるのだが、この生物教師は耳は良いらしかった。

「げッ、いつのまに……い、いやだな、もちろん好きに決まってるじゃないですか」

 それに鼻を鳴らしただけで答えた犬神は、じろりと龍麻達を見渡す。

「なんだお前ら、集団でどこかへ行くのか?」

「えっ、ええ、まぁ」

 まさかラーメンを食べに行くとも言えず、口を濁す醍醐に犬神はまたも鼻を鳴らしたが、

それ以上詮索してくることもなかった。

「ふん、まぁとやかく言われなきゃならん歳でもないだろうしな」

「あッ、そういえば先生、さっき廊下でミサちゃんと話してませんでしたか?」

 空気を変える必要を感じたのか、アン子が明るく話しかける。

アン子も裏密ミサも、犬神が担任を受け持つB組の生徒なのだから話をしても何の不思議もない。

それでも、京一にはひどく不吉に思えたようだった。

「裏密と犬神……世界を破滅させる計画でも練ってんのか?」

「なんか言ったか、蓬莱寺」

「い、いえッ、何も」

「ふん。裏密とは──ただちょっと、面白い話を聞いただけだ」

「面白い?」

「良くは解らんが、未ひつじの方角に獣と禽とりの暗示が出ているそうだ」

 暗示と言う言葉を聞いて、一同は顔を引き締める。

先日花見に行く前に聞いたミサの助言は、結果的にせよ見事に的中していたからだ。

それも、「鮮血を求める凶剣」という具体的な形で。

「未……って、南西ね。なるほど。他には何か?」

「今は陰陽系の占星術に凝ってるとか言ってたな」

「獣と禽……ねェ。相変わらずさっぱりだな、あいつの言ってることは」

 京一のぼやきは皆同感であるようだった。

 ただ、獣と禽という言葉は覚えておいた方が良さそうだ。

彼女の忠告、あるいは警告を聞かずに大怪我を負った龍麻は、二つの言葉を心に留めた。

 そんな龍麻を意味ありげに見やった犬神は、ふと思い出したように白衣を探り出した。

「あァ、それから緋勇。裏密がお前にこれを渡してくれだと」

「俺に?」

 裏密ミサとはあれ以来接点がない。

なのにどうして自分に、それも教師経由で何かを渡そうとするのか、

不思議というより奇妙に思う龍麻だった。

 犬神が渡したのは、奇妙な布切れだった。

ただの鉢巻のようにも見えるが、ほぼ中央に眼のような物が描いてあり、

なんとなく不気味な印象を与える。

受け取った龍麻は当然の質問を発した。

「……これは?」

「さァ……な。確かに渡したぞ。それじゃな」

 犬神はさっさと学校に戻っていく。

むしろ、龍麻にミサからの預かり物を渡すためにわざわざ来たのではないかと思われるほど、

無関心な態度だったが、教師を引き留めてまで話をしようという学生は、

この六人の中にはいなかった。

「さようなら、先生」

 去って行く犬神に一人葵が頭を下げる。

その後姿に向かって、杏子が呟くともなく呟いた。

「なんか……犬神先生ってただものじゃない感じがするのよね。

一度取材させてもらうべきかも……」

「何悩んでんだよ。さっさとラーメン食いに行こうぜ」

 もはや頭の中はどんぶりとその中身しかないらしい京一に急かされ、

龍麻達は足早に学校を後にした。

 赤いのれんをくぐると、威勢の良い店主の声が龍麻達を出迎えた。

「らっしゃいッ」

「しょうゆを六つ……」

「俺味噌の大盛ッ!」

「ボク塩バターにトッピングでコーン乗せて。あ、ボクも大盛がいいな」

 アン子の早口に被さるように、京一と小蒔の注文が炸裂する。

入店と同時に最も安いメニューを頼もうとした彼女の目論みは、

あっさりと崩されてしまっていた。

「アンタ達……なんでそんなスラスラ頼めるのよ」

「だって来る途中ずっと考えてたもん」

「はぁ……英文もそのくらいすらすら言えたらマリア先生も喜ぶでしょうね」

 そう嫌味を言うのが精一杯のアン子に、食の権化と化している二人が耳を貸すことはなかった。

席についた龍麻もメニューを眺めるが、アン子が一心にこちらを見つめているのに気がついてしまった。

 眼光が鋭い以外、アン子の顔立ちは悪くなく、写真を見せれば半分以上は美女だと言われるだろう。

ただし、実際に話してみれば機関銃のように繰りだされる会話と、

嘘や言い逃れなどたちまち見破られそうな厳しい洞察力に、

恋人にしたいという男はかなり減るかもしれない。

 いずれにしても、アン子の真剣なまなざしに龍麻が動かされたのは、

彼の心の一部分だけだった。

「俺はしょうゆで」

「なんだお前、そんな図体で大盛じゃねぇのかよ」

「今日はあんまり腹が減ってない」

 見れば醍醐も同じように無言の圧力を受けてたじろいでいた。

「お、俺は……俺もしょうゆを」

「なんだ醍醐、お前までどうしたんだ? カルビの大盛がお前の定番だろ?」

「な、何、たまには違う物を……緋勇と同じ物を食ってみるのも悪くないと思ってな」

「けッ、気持ち悪ィな。食いもんくらい好きなの頼めばいいじゃねぇか」

 龍麻と醍醐は期せずして視線を交わす。

二人の視線の先には、目に見えて安堵しているアン子の姿があった。

 全員が注文を終えると、さっそくアン子が話しはじめた。

「そういえば醍醐君、知ってる? ……佐久間が入院したって」

「何だとッ!!」

 そう切り出したアン子に、醍醐は思わず立ちあがっていた。

店が揺れたような錯覚に、他の客がぎょっとする。

「おい、落ちつけよ」

「あ、あぁ、すまん。遠野、それは本当なのか?」

 勢い良く腰を下ろした醍醐に、椅子が悲鳴を上げた。

普段は自分の体重が物体に与える影響を充分に承知している醍醐も、

今はそれどころではなかったのだ。

「あたしも今日入手したばかりの情報なんだけどね」

「道理で姿が見えねぇと思ったぜ。けどよ、自主休講じゃねェのか?」

「ううん。本当みたい。なんでも、渋谷にある高校の連中と喧嘩したって。

相手は五、六人いたらしいんだけど、結局佐久間と相手が三人病院行きだって。

……職員室でも問題になってるわ」

 最後の情報は、言うべきかどうか迷った末のものだった。

しかし、今更隠したところで状況が好転するはずもない。

醍醐もそれは解っていたが、呻かずにはいられなかった。

「最近のあいつを見ていると、何かに苛立っているようだった。

俺が、もっと早く相談に乗っていれば……」

 大柄な身体を縮めて苦悩する醍醐に、京一が励ましともうんざりしたともとれるような声をかけた。

「あいつは相談なんてするタマじゃねぇよ。

ま、殺したって死ぬような奴でもねぇし、大丈夫だろ。それより頼みってなんだよ、アン子。

まさか新聞部に入れってんじゃねェだろうな」

「あら、それもいいわね。……どう? 緋勇君」

 テーブルには五人しか座れなかったので、アン子はカウンターに陣取っていた。

回転する椅子を百八十度回転させて龍麻達の方を向いているのだが、

男──それも中年親父のように足を組んでいる。

危なげなくどんぶりを掴んで豪快に食べている様は、これ以上無い程似合っている。

そして、組んだ方の足をぱたぱた振っている為にスカートの裾がはためいていて、

かなりきわどいのだが、アン子は自分の脚線美に全く関心を持っていないようだった。

「悪いが、新聞作りは手伝えそうにないな」

「別にカメラマンだって荷物持ちだって用心棒だっていいんだから。ちょっと考えておいて」

「おい、こいつは嫌っつったってハイって聞こえる女だぞ。

断るなら徹底的に断らねぇとダメだって」

 慢性人手不足の新聞部部長は、新しい人材は人間でさえあれば能力は問わないようだった。

はっきり断ったつもりなのに曲解されてしまった龍麻に、京一が蜘蛛の糸を垂らす。

もっともその糸は今食べている麺よりも細く縮れていて、まるで助けにはなりそうもない。

「あら、失礼ね。せっかく緋勇君が前向きに考えてくれてるのに、

水を差すようなことをしないでちょうだい」

「こいつと付き合うなんて命がいくつあっても足んねェぜ。

どうせ今だってくだらねェ事件に首でも突っ込んでんだろ」

「くだらないとは何よ、あんたこそ、少しは新聞くらい読みなさいよね」

 そう言ってアン子は、店に置かれていた新聞を広げた。

杏子が指差した先には、「渋谷住民を脅かす謎の猟奇殺人事件、ついに九人目の犠牲者」

と大きな字で見だしが打たれていた。

新聞をひったくった京一は、麺を啜りながら勢い良く紙面を広げる。

「全身の裂傷、眼球の損失、内臓破裂……ひでェな、こりゃ」

「そういえば、その事件って確か──現場に必ず鴉の羽根が散乱してるって」

「そう、さすが美里ちゃんは良く読んでるわね」

 改めて龍麻は記事に目を落とした。

記事には確かに鴉の羽根のことが書かれてあり、

読んだ限りでは相手が鴉では警察もお手上げのようにも書いてあった。

「まさに、猟奇的、と言った感じか……」

 うそ寒そうに首をすくめる醍醐に、皆頷く。

連続殺人というだけでも縁遠くあって欲しいのに、

得体の知れない何かが絡むなど、たまったものではなかった。

しかし杏子がこんな話題を振ってきたことに、

彼女とつきあいがそこそこ長い小蒔は不吉なものを感じたらしい。

「まさかアン子、この犯人を捕まえるの手伝えって言うんじゃないよね!?」

「うーん、アンタ達なら出来るかもしれないけど、あたしもそこまで無茶じゃないわよ。

それに、犯人を捕まえるのは公僕の仕事。新聞部の仕事は真相の究明よ」

「同じようなモンじゃねェか」

「しかし、遠野が自分で言った通り、これは警察が捜査をしているんだろう?

俺達一介の高校生が首を突っ込むことじゃないだろう」

 アン子は一斉に反対する京一達にも動じることなく説得を始める。

「いい、醍醐君。この事件、安易に猟奇的、なんて言葉で片付けて欲しくないわ。

……皆、もうこの前の事件を忘れたの? 旧校舎の化け物。刀を持った殺人鬼。

そんな不可思議おいしいな事件を警察に任せておけると思う?」

「おいしいってお前……」

 呆れる京一を歯牙にもかけなかった。

「とにかく、あたしが調べたことを教えてあげるから、それを聞いてからにしてよね。

それくらいはラーメン代に入ってるわよ」

 何しろここにいる全員、葵までもが彼女の奢りでラーメンを食べているので、

それを持ち出されると弱かった。

 アン子はどんぶりを置き、水を飲んでから、胸のポケットから手帳を取りだす。

ずいぶんとくたびれた表紙の手帳は、えんま帳にも優る、

アン子が集めた命よりも大事な情報の集積体だった。

「何年か前に新聞に載った、品川で起きた事件。

巣立ちに失敗して路上に落ちた鴉の雛の近くを主婦が通って親ガラスに襲われてるわ。

あと、北海道の牧場で放牧中に出産された子馬が

生きたまま鴉の集団に食い殺されたって話もあるわね。

いい? 当たり前だけど、鴉は基本的に人を襲うのは雛の養育期の頃、

それも雛を護ろうとする時くらいよね。

でも今回の事件は、鴉の捕食行動との共通点が多すぎるのよ。

例えば──眼球が損失しているところとか」

「それって……カラスが人を──食べてるってコト? まさか、そんなこと」

 ねぇ、と顔を向ける小蒔に、龍麻は頷いてみせる。

アン子が上げた二つの事例も、結びつけるにはいささか無理があるように思われた。

馬と人間の違いもあるし、時期もまるで異なる。

しかし、彼女は諭すように首を振った。

「ううん、でも、あたしの導いた結論は──鴉しかないの」

「鴉のやり方を真似した人間の仕業ということは?」

「そう、あたしもそこが引っかかるの。さっきは鴉が人を食べるって言ったけど、

どうも渋谷の事件は明らかに人を殺すことを目的としてる。

食べたのは、その副産物に見えるのよ。でも」

「でも?」

「あり得ない……と思うでしょうけど、もし、もしよ。

鴉が統一された意志の元で動いているとしたら、今東京都内にいる鴉の数は約二万羽。

それが一斉に人間を襲ったら……」

 数百人単位で怪我人は出るだろうし、混乱は都内をパニックに陥らせるだろう。

「で、それを確かめるために俺達の力が要るって訳か」

「そういう事。ね、お願い。まずは渋谷に行くのに付きあってくれない?」

 両手を合わせて拝むアン子に、龍麻達は顔を見合わせる。

そこにお互いに不安が浮かんでいるのを確認していると、

一人そうではない京一が、急に思いついたように口を開いた。

「なぁアン子。さっきお前、統一された意志っつったよな。

それってよ、統一してんのは鴉自身なのか? それとも……」

「鋭いわね。あたしは──勘だけど、そっちの線の方が濃いと思ってるわ」

「どういう事だ?」

 爪楊枝を咥え、京一は醍醐に教えた。

「つまり──誰かが鴉を操ってるんじゃねぇかってこった」

「そんな、人が鴉なんて操れる訳──」

「もしかして──『力』を持った人が?」

 否定する小蒔を遮るように言った醍醐に、アン子は慎重に頷いた。

「……そう──ね。美里ちゃん達のは旧校舎で何かがあってからみたいだけど、

もしかしたら──美里ちゃん達の他にもいるかもしれない」

 アン子の推論は、龍麻達を調査に赴かせる餌かもしれなかったが、

そうさせるだけの説得力をもまた有していた。

「どうする? 緋勇」

「俺は行く」

 あまりにはっきり龍麻が即答したので、アン子を含めた全員が驚いた。

集中する視線を、龍麻は臆せず受けとめる。

「俺が真神に来た理由は前に話したよな。京一達が使えるようになった『力』――

無関係とは思えないし、今回の鴉にも関係しているのならなおさらだ。

小さな手がかりでも、俺は追ってみる」

 理想的な答えに顔を輝かせるアン子に、龍麻は一方で厳しい顔を向けた。

「遠野」

「な、何よ」

「お前は新宿に残れ」

 強い命令口調にアン子は怯んだが、すぐに反撃してきた。

「な、何言ってるのよッ! これはあたしが追ってる事件なのよッ!!」

「危険過ぎる。大勢の鴉に一度に襲われたら、とても護りきれない。

美里と桜井も行かない方がいい」

 いみじくもアン子自身が言った通り、鴉の殺傷力は決して侮れないものであるし、

彼女には異能の『力』がない。

とても連れていけるものではなかった。

「ボクは行くよッ!!」

 しかし、アン子よりも先に立ちあがって異を唱えたのは小蒔だった。

「ボクだってこの『力』のコトが気になってるんだよ。

緋勇クン一人に任せておけるワケないじゃない」

 小鼻を膨らませて力説する小蒔は、生まれたての太陽のように生気がみなぎっている。

少し水をかけたくらいでは、彼女の勢いを止めることなどできないどころか、

よけいに焚きつけるだけだろう。

 鋭い眼光で小蒔を見つめた龍麻は、彼女の決心が微塵も揺るがないと悟ると、

小さなため息で同行を承諾した。

「美里はどうする」

「私も……行くわ」

 ためらいつつ、葵も答えた。

龍麻自身が行かない方がいいと言っているのだから、素直にそうすればいいはずだ。

しかし、親友である小蒔が行くと言った以上、ついていかないわけにはいかなかった。

彼女が万が一鴉に襲われて怪我をしたとき、癒す『力』が必要となるだろうからだ。

本来なら小蒔を止めたかったが、一度定まった彼女の意志をくつがえすのが難しいのは、

高校二年間のつきあいで良く知っていた。

「うんッ。葵のコトはボクが護るし、緋勇クンだって護ってくれるんでしょ?」

「ああ」

「はい決まりッ。んじゃアン子は悪いけど待っててよ。なんかわかったら連絡するから」

「ホントに悪いわよ。いい、ラーメン奢ったんだからちゃんと報告してよねッ。

手抜きだったりしたら許さないから」

 水を飲んでようやく気分を落ちつけた杏子が、檄を飛ばす。

それに軽く肩をすくめた京一は、渋谷のどこから調べてみれば良いか訊ねた。

「んでアン子、お前どっから行くつもりだったんだ?」

「代々木公園。あそこはもともと、都心の鴉の半分以上が寝床にしてるの。

最近は更に増えたって話も聞くわ」

「そうか……それじゃ、まずは代々木公園を目指すとするか」

「頼んだわよ」

 最後の最後まで未練がましい表情をして見送る杏子に苦笑いで返した龍麻は、

ラーメンの代金にしては高い気もする調査行へと赴くのだった。

 

 山手線はこの時間でも空いているということはなく、ほぼ満車だ。

五人は固まって乗りこんだが、やはり多少は離れてしまう。

混んでいるのは東京で電車に乗るなら日常的なことであるし、

渋谷までは大した距離でもないので、

その点については誰も文句を言わなかった。

混んでいる電車内で会話をするのもなんとなく憚られ、

それぞれが渋谷まで電車に揺られる。

 電車が動きだしてすぐに、葵は異変に気づいた。

 身体を触られている。

それが偶然でないのは、そこ以外には触れられていないのだから確実だった。

葵は満員電車に乗った経験が少なく、

痴漢という存在に遭遇したのも初めてで、いきなり尻を触られて、

すくんでしまったのは無理からぬことだが、

声も出せないほど衝撃を受けたのはそれだけではなかった。

 葵の尻を触れる位置にいるのは、龍麻しかいない。

押しこまれるようにして乗った電車だから、

位置取りなどままならないはずなのに、龍麻は巧みに背後に立ち、

電車が動きだし、葵の注意が逸れたときを逃さず尻を触り始めたのだ。

 龍麻は掌を尻全体に押し当ててじわりと圧力をかけつつ、

スカートの裾からわずかに出ている指先で、太股を左右になぞる。

それはこれから触れる場所を予告しているようであり、

葵がどのような態度を取るのか、

反応をうかがっているようでもあった。

 葵は龍麻に好意など持っておらず、彼を庇う義理はない。

だが、嫌悪を抱いている相手とはいえ、

警察に突きだすにはためらいがあったし、

女性として痴漢を訴えでるのには当然の恥じらいもあった。

新宿から渋谷まではわずか十分足らずなのだから、

その間だけ我慢すれば済むことだ。

葵は下唇を噛んで不愉快な気持ちを押し殺しながら、

恥知らずな同級生に十分だけ好きにさせることにした。

 葵が抵抗しないと見るや、龍麻の手はすぐに増長した。

一通りスカートの上から尻を撫でまわしたかと思うと、

あろうことかスカートをまくり、中へと入りこんできたのだ。

 あまりの図々しさに葵は一瞬自失する。

その一瞬が、葵の敗北を決定づけた。

 尻だけなら我慢できると思っていた葵をあざ笑うように、

破廉恥な指先は足の間をまさぐり始めた。

「……!」

 自分でさえほとんど触れたことのない秘裂を、他人の指が這いまわる。

その恐ろしさに葵は気を失いかけたが、

ぞましい指先は穢れなき聖女が慈悲にすがることを許さない。

大胆なくせに繊細な動きをする指は、ほどなく葵に、

気持ち悪さ以外の感覚をもたらしはじめた。

嘘だ、と否定する間にも、新たな刺激が次々と送りこまれてくる。

それは身体の内側からの火照りをもたらす、不思議な感覚だった。

 おかしい、と葵は考えた。

葵は自分の身体の性的な反応について良く知っているわけではないが、

こんなにも感じてしまうのは明らかに変だ。

すぐに葵はこの異変が、龍麻の使う氣によってもたらされていると気づいた。

 それは先日、旧校舎に入って蝙蝠に襲われた日。

龍麻は治療という名目で葵に氣による治療を施し、傷は確かに治った。

ただし氣という怪しげな力は葵をただ治療しただけではなく、

快感という副作用も伴っていたのだ。

聞かされていなかった副作用のせいで、

葵は龍麻にあられもない声を聞かせてしまったことを今も恥じている。

その時龍麻は、氣とは生命力であり、

それを注がれれば一時的に身体が火照ったようになるなどと言っていたが、その効用を悪用しているに違いない。

『力』を悪用する卑劣なふるまいに葵は憤った。

 だが、原因がわかったからといって、どうすることもできない。

彼の手を掴んで痴漢だと叫ぶことができない以上、堪え忍ぶしかない。

それに電車は目的地まで半分を過ぎ、

あと少し我慢すればこの恥辱は終わるのだ。

唇を強く引き結び、葵は耐え抜いてみせると覚悟を決めた。

 そんな葵の覚悟をあざ笑うかのように、

龍麻の指先は大胆さを増していく。

秘裂の上を指の腹でなぞったかと思うと、指を立て、

下着の上からお構いなしに裂け目の奥をまさぐろうとする。

パンストと下着があるから挿入される危険はないとしても、

そこに何があるかを強く意識させる指の動きは、否が応でも葵の羞恥を煽りたてるのだ。

加えて不定期に訪れる、龍麻の氣による刺激はどれほど備えていても無視はできず、

不本意な甘い痺れが下半身に広がる都度、葵は足を締め、

口から漏れそうになる吐息をこらえねばならなかった。

 だが、葵の必死の努力も、気まぐれな電車の揺れで水泡に帰してしまう。

わずかな揺れが葵の意識を逸らし、バランスを保とうと力のいれ具合を変えた瞬間、

狙いすましたかのように龍麻の指がもっとも敏感な箇所に触れた。

「……ッ……!」

 息を呑んだ葵は、その音の大きさに戦慄する。

他の乗客に聞こえていたら、羞恥の海で溺れ死ぬところだ。

周りを確かめる勇気さえなく、ひたすらに眼を閉じ、

この悪夢が早く終わってくれるよう願うしかなかった。

 しかし、気づかれれば共に身の破滅だというのに、龍麻は痴漢を止めない。

それどころか繊細な愛撫と不規則な氣による刺激を組みあわせ、ますます増長するばかりだ。

「……は、ぁ……」

 昂ぶる熱を抑えきれず、葵は小さく息を吐く。

誰にも気取られないように、小分けにしてなんとか吐いたというのに、

すぐに次の熱が下腹から葵を炙るのだ。

逃しきれない熱は、身体に溜まっていく。

頬に、胸に、そして下腹に。

その源となる龍麻の指先のイメージが、脳裏に焼きついて離れない。

自分を苦しめているものを、なぜ強く意識しなければならないのか、

不合理な事態に葵は葛藤する。

だが、そんな葛藤すら嘲笑するように、龍麻の指は快感を送りこみ続けた。

 弦楽器を演奏するように前後する指は、絶妙な加減の愛撫を施す。

湿り気を帯びた沼地へと変貌しつつある葵の秘裂に、一往復ごとに確実に快感の痕を残していき、

経験したことのない昂ぶりを覚える葵は、唇をわななかせて耐えねばならない。

すでに電車は原宿を過ぎ、渋谷まではあと三分を切っているが、

そのことにも気づかないほど、龍麻の魔指に翻弄されていた。

「っ……ん……」

 何度目のことか、数える気にもならない波が葵を包む。

まったく不本意ながら、わずか十分ほどの間に慣らされてしまった葵の肉体は、

次の波を予測し、無意識に待ち望むようになっていた。

指の腹が五回、小さな円を描くと、擦りあげる動きに変わる。

その動きの頂点でもたらされる強い刺激、おそらくは氣による刺激が、

どうしようもなく気持ちいい。

 一回、二回、頭の中で円を数える。

 三回、四回、いよいよ次の円で痺れるような快感が訪れる。

葵は声を出してしまわぬように軽く下唇を噛んで、その瞬間を待ちうけた。

 だが、五回目の円は描かれなかった。

龍麻の指は四つの円を描くと、敵に見つかった小動物のように、

あっという間にスカートの中から逃げていったのだ。

呆然とする葵をよそに、電車は渋谷駅に到着し、

葵は人の流れに半ば強制的にホームへと押し流された。

何が何だかわからないうちに、気がつけば、渋谷駅の外に立っていた。

人混みを外れて立つ葵の身体には疼きが残っていて、

太股を擦りあわせたい欲求をこらえなければならなかった。

「葵、どうしたの? 顔赤いけど、調子悪くなっちゃった?」

 心配する親友に、葵は笑顔を作ってみせる。

「久しぶりにこんなに混んでいる電車に乗って、少し酔ってしまったみたい」

 親友に嘘をつく心苦しさを隠さねばならず、その原因である男に対する憤りは増すばかりだった。

とはいえ、いいように触られ、まだ昂ぶっている身体は、気を抜くと吐息が漏れてしまいそうで、

もうしばらくは調子が悪いふりを続けなければならない。

葵はうつむいたまま、彼らと共に渋谷の街を進んだ。

 渋谷の街は、普段と変わる所はなかった。

短期間に九人もの死人が出ているというのに、

人の流れは全く減ることもなく街を埋め尽くしている。

立ち止まっているだけで邪魔者扱いされそうな人混みの中、

辟易したように京一は首を振った。

「ここも相変わらずうるせェ街だな。

けど、特に変わった様子もねぇみてぇだけどよ」

「鴉も見あたらないな……取りあえず、公園に行ってみよう」

 応じる龍麻は痴漢をしたことなど気にも留めない風だった。

あまりに堂々とした態度に、本当に痴漢の主は彼だったのかと訝りもする葵だったが、

あの指は明らかにただの痴漢ではなく、氣を使っていた。

京一や醍醐が痴漢などするはずがないから、龍麻にやはり間違いはない。

依頼されたとはいえ、自分にほとんど関わりのない事象に積極的に関与する彼の態度と、

レイプ紛いのことまでする卑劣な態度の、どちらが本当の彼なのか分からなくなる葵だった。

 駅と反対方向へ、流れに逆らって龍麻達は歩く。

すると、急に京一が走り出した。

「──ッと、信号が変わる。走ろうぜ」

 別に信号一回くらい待っても大した時間ではないだろうに、と一行は思いながらも彼に続く。

 後を追う龍麻の目の前に、急に少女が現れた。

実際はもちろん龍麻がよそ見をしていただけなのだろう。

それにしても突然で、決して悪くはない龍麻の反射神経をもってしてもかわしきることは出来なかった。

少女が全くよけようとしなかったこともあり、身体の三分の一ほどがぶつかってしまう。

「痛ッ」

「──すまない、大丈夫か?」

 少女はよろけたものの、何とか倒れずにすんでいた。

腰をさすりながら、加害者を見つめる。

その瞳は被害者に似つかわしいものではなく、信号が変わりかけている横断歩道で宿すには、

少し情熱的に過ぎた。

それも、燃えさかる炎のような情熱ではなく、降り止まない雨のような――

情念と呼んだ方がいいかもしれない、陽よりは陰を感じさせるものだった。

瞳以外は印象の薄い、別れた直後に忘れてしまいそうな顔立ちの少女は、

その瞳だけで龍麻を繋ぎ止め、交差点で立ち止まらせた。

「いえ──わたしもよそ見してたから。あなたこそ、怪我はないですか?」

「……ああ、俺は大丈夫」

「本当にごめんなさい。わたし、少しぼんやりしてて……」

 お互いなんともなかったのだから、この話はこれでお終いだ。

横断歩道の反対方向にそれぞれ歩み、以後の人生で邂逅する可能性はゼロに等しいはずだ。

それなのに少女は立ち去ろうとせず、龍麻も、なぜかその場に立ち尽くしていた。

「あの、名前を……聞いてもいいですか?」

 初めてあった、しかも通りすがりに肩が触れただけの少女に名乗るなど、

警戒心が足りないと言われても仕方がない。

しかし、問われるがままに龍麻は名乗った。

「緋勇……龍麻さん……」

 少女がゆっくりと自分の名前を呟く。

それは、そうされるべき韻律を伴っているかのようだった。

 少女はなお龍麻に話しかけようとする。

 そこに、クラクションが割って入った。

 催眠術から醒めたようにまばたきをした龍麻は、周りを見渡して状況を確認する。

横断歩道に残っているのは龍麻達二人だけで、このままでは中央に取り残されてしまう。

「あ……引き止めちゃってごめんなさい。それじゃ……また逢えるといいですね」

 ぶつかった相手にする挨拶にしては、鉛色の雨のような重さを伴った別れを告げた少女は、

言うが早いか龍麻が来た方向へと走りだし、龍麻も、困惑しつつ彼女が来た方向へと走り出した。

 横断歩道を渡り終えたところで、何かに衝き動かされるように龍麻は振り向く。

 そこにもう、彼女はいなかった。

 白昼夢でも見たのかと己を疑う龍麻を、前方から京一が呼んだ。

「おい緋勇、何してんだ、こっちだッ」

 頭を一つ振った龍麻は、京一のところに走った。

 彼らと合流したとき、龍麻は安堵のため息をついた。

自分でもなぜ、そんなため息をついたのかわからない。

だが先ほどの少女は、昂揚以外の何かを龍麻にもたらしたのは事実だった。

「なんだよ、何やってたんだよ。まさかおネェちゃんをナンパしてたとかじゃねぇだろうな」

「ああ、いや、違う。ただ、ちょっと」

 それは龍麻らしくない受け答えだったのかもしれない。

京一は木刀を小脇に抱えなおして彼を追及した。

「ちょっと、なんだよ」

「……ちょっと、人とぶつかって謝ってた」

「それがお前のナンパのやり方か? あんまり上手いやり方にゃ思えねえがな」

「もうッ、京一じゃないんだから、緋勇クンがナンパなんてするワケないだろッ」

「いやいや小蒔、こいつは案外こう見えて」

「えーッ、そうなの!?」

 目を丸くする小蒔に、龍麻は苦笑いで応じた。

「ナンパはしたことないな、もちろん今も」

「だよねッ、こら京一ッ、適当なコト言ってんじゃないよッ」

「馬鹿野郎ッ、男たるものナンパのひとつくらいしねえでどうすんだッ、

お前もオトコならわかんだろうが」

「誰がオトコだッ!!」

 軽妙な、軽妙なだけの会話に、今度は本当に龍麻は笑った。

心底楽しそうな龍麻に、小蒔と京一が顔を見合わせる。

「……そんなに面白かったかな、今の?」

「そりゃあお前、オトコがスカート履いてたら面白ェだろ」

「まだ言うかッ!!」

 思い切り京一の足を踏みつけた小蒔は、怒り心頭で先に行ってしまった。

醍醐と葵が慌てて後を追うが、京一は悶絶している。

「畜生あの野郎ッ、思いッきり踏んでいきやがったッ」

 木刀を抱えたまま、器用に片足を抱えて飛び跳ねる京一に、

龍麻はますます笑いが止まらなくなった。

「面白いな、お前ら」

「……誰も笑わせようとやってんじゃねェよ」

 憮然とする京一をなだめ、龍麻は彼らを追う。

そのやり取りにどれほど龍麻が救われたか、彼らは知る由もなかった。

 十分ほど歩き続け、ようやく人の気配も少なくなってきた頃。

少し前から無言だった小蒔が、もう我慢できないというように口を開いた。

「ねぇ、ボク考えたんだけどさ」

「あん? なんだよ」

「犬神せんせが言ってた、ミサちゃんが言ってたことってあったじゃない」

「あァ、犬と猿と雉だっけ」

「そりゃ桃太郎だろッ! 未の方角に獣と禽の暗示ってやつ」

 どうやら素で言っていたらしい京一は、小蒔の突っ込みに沈黙したままだ。

後を継いだ醍醐は、口の中でミサの言葉を呟き、何かに気付いたように顔を上げた。

「禽……か。もしかして桜井」

「うん。鴉のコトじゃないかなって」

「でもよ、んじゃ獣ってなんだ?」

 小蒔の、というよりもミサの言う事に反論したい京一が、もうひとつの動物への疑問を呈する。

「それは──まだわかんないけど……」

 良い思いつきだと思ったのに、あっさりと不備を見つけられてしまって小蒔はうなだれた。

その小蒔に、左手を顔の下半分に当てながら龍麻が訊ねる。

「裏密の占いは当たるのか?」

「あ、うん、去年の文化祭なんか凄かったよ。当たるって評判を聞いてよその学校の子達も来て、

教室の外まで順番待ちができてたから」

 雑誌に載っているような星座や血液型の占いは馬鹿馬鹿しいと思うが、

占い自体はありえるものだと龍麻は考えている。

龍麻達の持つ『力』とまではいかなくても、何か特殊な感覚を持った人間というのは確実に居て、

その中には未来を視る能力を持っている者もいるかもしれないのだ。

ただし彼らが視る未来とは、個人の可能性の延長線であり、

可能性のひとつでしかないともいうのが、龍麻の考えだった。

 裏密の話題が出たことで、龍麻は犬神を通じて渡された布きれを思いだし、

ポケットから取りだした。

「さっさと捨てた方がいいんじゃねェのか、呪われるかもしれねえぞ」

 案外本気で言っているような京一に形だけ頷いて、観察してみる。

眼のような模様と、それを囲むように描かれた幾つかの幾何学模様以外は、

特に何かを感じさせるものではない。

ただし眼の影響か、何となく不気味さはあって、

とてもではないがこれを頭に巻く気にはなれなかった。

まさか額に接触させなければ効果が出ないわけでもないだろうし、

ポケットに入れておいても構わないだろう。

 布きれを一応畳んでポケットにしまった龍麻の、聴覚を何かが刺激する。

不審に思い、意識を集中させると、女性の悲鳴が渋谷の街を切り裂いた。

「きゃああァッ!」

「おい、なんだ今のは!?」

「あっちだッ! あっちでおネェちゃんが俺に助けを求めているぜッ!」

 女性に対する感覚は通常の五割程鋭い京一が、声のした方向をしっかり聞き分けて走り出す。

まるで迷いもなく路地を曲がる京一に、

運動神経が決して悪い訳ではない四人が完全に遅れを取ってしまった。

「あ、ちょっと、京一ッ!」

「俺達も行こう、緋勇」

「ああ」

 ぼんやりとしていたのはわずかな間のことで、すぐに龍麻達も京一の後を追いかけた。

 悲鳴の主を見付けた龍麻達は、しばらく女性を助ける事も忘れて呆けていた。

 十羽以上の鴉が一斉に襲い掛かっている。

その黒い雲のような集団に、異様な気配を感じて立ちすくんでしまったのだ。

もちろん助けるつもりはあるにしても、どう手を出して良いかわからない。

困惑する龍麻達に、横合いの路地から呼びかける声があった。

「おい、あンたらッ!! レディが助けを求めてンだ、その気があンなら手ェ貸しなッ!!」

 男は京一と同じ位の身長だったが、その顔立ちは幾分幼く見える。

髪の色は派手な金で、それが全て逆立っているために、見た目のインパクトは相当なものだった。

その気障な物言いに呪縛を解かれた京一が、木刀を取り出して鴉の群れに歩み寄る。

「ヘッ、お前に言われなくたって」

「フン、男が三人か。まぁ足しにはなンだろ。お嬢さんたちは下がってな」

 大見得を切った男は、京一と同じような細長い袋から何かを取り出した。

中から出てきたほぼ同じ長さの二本の木の棒を繋ぎ合わせ、

更にその先に尖った金属製の穂先を着ける。

「槍か……」

「そうさ。オレ様の槍さばき、良く見ておくンだなッ!」

 具合を試すように槍を回転させた男は、いきなりやや上方、鴉の群れの中心に向かって突き出した。

無造作に見える突きだったが、刺し貫かれた鴉が悲鳴を上げて群れから永遠に離脱する。

見事な槍術の腕前を見せつけられた龍麻達は、遅れをとらじと散開して鴉に相対した。

 鴉の群れはその知性の高さを証明するように統率された動きで襲ってきたが、

以前動きだけならもっと速い蝙蝠とも闘ったことのある龍麻達は、

飛行する類に対する闘い方を学んでいた。

 京一と龍麻が遠間から牽制し、鴉を女性から遠ざける。

次に小蒔と葵が醍醐に護られながら素早く女性を助け、安全な所まで下がれば、

後はもう思う存分にやるだけだった。

いくら鴉に鋭い嘴があっても、氣を纏った龍麻達にはいかほどの攻撃も与えられない。

顔面めがけて飛びかかってくる所を逆に狙い打ち、叩き落とす。

鴉達は自分達の爪と嘴が届く数十センチ先で激しい衝撃を受け、成す術無くやられていくしかなかった。

四人それぞれが一羽ずつ屠り、雨紋が更に一羽死に導いたところで、

遂に、一時的に夜になったかと言う程の羽根を散らしながら逃げていく。

鳴声が遠ざかっていき、静寂が訪れたところで龍麻達は肩の力を抜いた。

「どうやら片付いたようだな」

「あンたらも中々やるじゃねぇか。見なおしたぜ」

 なれなれしい言葉に、龍麻達は改めて男を見た。

怪我はない。

それどころか、息さえ切らしていない。

初めと同じ、瓢々とした態度を崩さない男に、京一がうさんくさそうに訊ねた。

「お前──、一体何モンだ?」

「オレ様か? オレ様は通りすがりの正義の味方さ」

「オレ様なんて言う人初めて見たよ……ね、緋勇クン」

 袖を引っ張りながら囁く小蒔に龍麻は頷いたが、

それよりも彼が見せた技の方に心を奪われていた。

槍術自体は珍しくはあるものの、見ない訳ではない。

しかし、彼の操る槍の先端からは、はっきりと氣が流れていた。

それも黄色の、まるで雷光のような氣が。

彼も、『力』持つ者なのか──

好奇と、いささかの警戒を含んだ口調を、龍麻は完全には消せなかった。

「名前を教えてくれないか。俺は緋勇龍麻」

 穂先に付いた禽の血を丁寧に拭った男は、名乗りを上げた龍麻に口の端を吊り上げる。

それは嫌味なものではなく、どちらかと言うと照れ隠しに見えた。

「あンた──そんなナリして、意外と丁寧なンだな。へッ、気にいったぜ。

オレ様は雨紋雷人。よろしくな」

「あぁ、よろしく。それで──その」

 『力』についてどう切り出したものか、龍麻は言葉を選ぶ。

しかし、そこに彼らが救った女性が近づいてきたために質問は中断せざるを得なくなってしまった。

「ありがとう──あなたに助けてもらうのは、これで二度目ね」

「またあンたか? 全く懲りねェ人だな、いい根性してるぜ」

 どうやら雨紋と女性は知り合いであるようだった。

女性は二十歳は優に過ぎているようだったが、話ぶりからすると、

以前もこのように襲われていたのだろうか。

 肩をすくめる雨紋に笑顔を返した女性は、龍麻達の方に向き直った。

 すっきりと通った眉と、その下で軽い三日月を描いている目は理知的な印象を見る者に与え、

あまり濃くはない、しかし要点は抑えている化粧は、彼女の第一印象をさらに引き立てた。

「あなた達もありがとう。これ、渡しておくわ」

「天野……絵莉さん」

「ルポライターって……アン子の親分みてぇだな。あんたも何かを調べてる途中かい?」

「まァ、そんなところね」

 名刺を覗きこんだ京一が訊ねても、絵莉はごく当然のように質問をはぐらかす。

それは、女性でフリーのルポライターとしてやって行くためには、

しなければならない処世術だった。

 生き馬の目を抜くこの業界では、ほんの少しの情報漏れによって飯の種を奪われることなど日常茶飯事だ。

目の前の子供達がこれから自分と関わるとも思えないが、

用心はしくに越した事はなかった。

 それにしても、雨紋という少年といい、今の彼らといい、

大人でも難しいと思われる鴉の群れをあっけないほど簡単に撃退している。

それも雨紋の槍ともう一人の木刀はともかく、残る二人は素手でだ。

用心がルポライターになったことで身につけた能力なら、

貪欲なまでの好奇心はルポライターになるために必要な才能だった。

それが絵莉の中で目覚める。

「あなた達……なにか武術でもやっているの? 素手で鴉と闘うなんて普通の人は出来ない事よ」

 狙いを目の前の少年に定め、質問責めにする。

「……まあ」

「空手? それともボクシングか何か? 随分特訓してるんでしょう?」

 龍麻の消極的な反応に構わず、絵莉は矢継ぎ早に訊ねた。

考える暇を与えず、こちらから次々と選択肢を提示していけば、

その中に答えがあった場合に答えるか、そうでなくとも必ず何らかの反応がある。

しかし、そんな絵莉の目論みは、金髪の少年によって邪魔されてしまった。

「やれやれ……いい加減この事件からは手を引いた方がいいぜ。

こないだも今も、オレ様がたまたま近くにいたからいいようなモンの」

 襲われていたことなど何とも思っていないような──事実そうなのだが──絵莉に、

辟易したように雨紋が口を挟んだ。

そんな妨害ごときで取材を止めてしまったら到底ルポライターなど名乗れない。

構わず質問を続けようとする絵莉を、今度は短髪の少女が妨害する。

彼女は雨紋に向かって訊ねた。

「この事件って……もしかしてカラスのこと?」

 開きかけていた口を閉じた絵莉は、素早く全身を耳に切り換えて二人の会話に集中した。

「……」

「ボク達もこの事件を調べはじめたところでね、

今から代々木公園に行こうと思っていたところだったんだ」

 外見通りに活発な言葉遣いの少女は、訊ねもしないのに彼らの目的を教えてくれた。

周りの男達、特にこの中でも一番大きな身体つきをした少年が失策を嘆くように顔を手で覆っている。

むしろその態度が、それが彼らにとって重要な情報であることを示していた。

「桜井!」

「あ……」

 代々木公園……確かに鴉が多い公園ではあるけれど、あそこに何かがあるのだろうか。

眼光を鋭くした絵莉は、しかし注意深くそれを消し、少年達の会話を引き続き見守ることにした。

「あンたら代々木公園って……あそこが今どういう状況かわかって言ってンのかッ!?」

「フン──」

 不敵な笑みを浮かべるだけの京一に、雨紋は警戒を強めて訊ねる。

「あンたら──渋谷に何しにきた」

「お調子者が喋っちまったから仕方ねェ。俺達ゃ人食いカラスを退治しに来たのさ」

 もはや探り合いはこれまで、とばかりに京一は自分達がここに来た目的を雨紋に教えた。

こういう駆け引きが苦手な醍醐も顎に手を当てて考え深げに同意する。

「正直言って遠野の言うことだけでは今一つ信用出来なかったが──今は信じざるをえないな。

何しろ、こうして目の前で襲われていたんだから」

「おいおい、あンたら気は確かか? カラスが人を襲って殺すなンてありえないぜ」

 手にした槍を弄びながらおどけて否定する雨紋だったが、誰も乗ってこなかった。

もっとも、それは雨紋自身にも責任があるかもしれない。

何しろ、つい今しがた絵莉と同じ内容の会話をしたばかりなのだ。

それにあれほど殺気だっていた鴉と直接闘った龍麻達にしてみれば、

雨紋の台詞は白々しいほどだった。

「さっきの鴉は明らかに統一された意志の元で襲っていた。

それにもう一つ、鴉以外に気配を感じた。なぁ緋勇」

 同意を求める醍醐に、龍麻は頷いた。

自分達三人とこの雨紋の氣、それらが一箇所に集中していた為にはっきりとは解らなかったが、

確かにもう一人の氣がさっきはあったのだ。

「あぁ。何か……禍々しい氣だった」

「氣──だと?」

「あぁ、お前に言ったってわかりゃしねェだろうけどよ」

 馬鹿にしたようにも聞こえる京一の言葉にも、雨紋は反発しなかった。

それどころか表情を改め、探るような目つきで龍麻達を見やる。

「……どうやら伊達や酔狂で言ってる訳じゃなさそうだな。

──もう一度聞くぜ。本気で代々木公園に行くつもりなのか?」

「あぁ」

「代々木公園は今、スゲェ数の鴉に占領されてて入るどころじゃない。

ハンパな気持ちじゃ──死ぬぜ」

「ヘッ、誰がハンパな気持ちだって?」

 雨紋は決して脅している訳ではなかった。

それは低く抑制された口調からも明らかだったが、それだからこそ、京一は余計に反発した。

「よせ、京一。雨紋──とか言ったな。俺達の話も聞いてくれ」

「あンたは?」

「俺は醍醐だ。新宿の真神の」

 短くそう名乗っただけの醍醐に、雨紋は感銘を受けたように大きく頷いた。

やや斜に構えていた姿勢さえただし、醍醐に敬意めいたものを含んだ眼差しを向ける。

「……あンたが醍醐か。話にゃ聞いてるぜ。

っつーか渋谷で真神の名前を知らねェヤツはいねェけどよ」

「光栄だな」

「そういやこの前もあンたんトコのヤツとウチのが揉めたとか聞いたな」

 思い当たる節がある醍醐は、その巨体に似合わない渋面を作った。

「佐久間か……迷惑をかけたようだな。すまん」

「別に怒ってる訳じゃねェさ。喧嘩なンてお互い様だしな」

「そう言ってもらえると助かるよ。……渋谷には詳しいのか?」

「渋谷はオレ様の生まれ育った街だからな。知らねェところはねェよ。

──オレ様はここの神代高校ニ年だ」

「よろしくな、雨紋。──で、どうだ。俺達に力を貸してくれんか?」

「なッ、あンたいきなり何言ってンだ」

「どうも──お前も代々木公園に用があるように見えたんだが、俺の気のせいだったか?」

 陰口でも真神の総番長と呼ばれるだけのことはあり、醍醐は人の心を掴むのが上手かった。

今も強引に結論から入ったように見せかけて、巧みに雨紋に頷かせるように仕向けている。

恐らく表情を隠す為だろう、手で顔を覆う雨紋に脈ありと感じた醍醐がたたみかけようとした時だった。

「その通りだろう? 雨紋」

 この場にいる誰のものでもない声が、雨紋の名を呼んだ。

驚く一同の中、雨紋だけが素早く反応する。

「唐栖──ッ!!」

「僕や奴の他にも『力』を持った人間が居たとは……少し計算外だったよ」

 静かな口調。

しかし、そこには何者をも寄せつけない昏さを感じさせる響きがあった。

「なッ、なに……この……音……ッ」

 小蒔が耳を押さえる。

謎の声と同時に、高い金属音のような物が辺りの空気を震わせていた。

脳に直接不快な周波数となって注ぎ込まれるような感覚に、たまらず女性三人がしゃがみこんだ。

一秒ごとにいや増していくその音は、やがて最高潮を迎え、そして唐突に消えた。

まだ頭の中で反響している金属音に対する不快感が、その音と共に現れた人物に対して注がれる。

「てめェが鴉を──」

 京一の声もいつもほど張りがない。

それでも現れた男に向かって木刀を突きつけ、激しい感情を叩きつけた。

「そう……僕の名は、唐栖 亮一」

 男は学生服の上に黒いコートを羽織っていると言うだけに留まらない、

まるで身体の内側から発しているような黒さを纏っていた。

かなり長い、女性で言えばセミロングにあたるほどの髪は鴉の羽根のような濡れた光沢を持ち、

闇から産まれたかのような彼の出で立ちで唯一色がある部分だ。

殺気こそ発してはいないが、粘性の不快感を見る者に与える、そんな人物だった。

「あなたは一体……」

「ククク……無事だったんですか。……残念だ。

十人目の犠牲者にしてあげようと思っていたのに」

「あなたが──鴉を使ってやったの?」

「だとしたらどうします? 記事にしますか?」

 嘲りを込めた口調に、絵莉は唇を噛む。

確かに、人が鴉を操り、九人もの連続殺人を行なったなどと、常識ある人間なら信じはしないだろう。

黙ってしまった絵莉に代わって、指の関節を鳴らしながら詰問したのは醍醐だった。

「貴様……目的は何だッ!」

「ククク……地上を這いずる虫けらに、神の意志が理解できようはずもない」

「神の意志……だと?」

「そう……僕にこの素晴らしい……鴉の王たる『力』を授けてくれた神さ」

 唐栖が言った『力』という単語に、全員に緊張が走る。

目の前の男が犯人だとするなら、

やはり渋谷で起こっていた連続猟奇殺人事件は『力』によって引き起こされたものだったのだ。

立ち尽くす一行に、唐栖は口調に嘲弄をはっきりと含ませて話しかける。

それは、特に雨紋に対して向けられたものだった。

「雨紋も仲間が出来て良かったじゃないか。

それだけいれば、もしかしたら僕を倒せるかもしれないよ」

「唐栖……」

「僕は逃げも隠れもしない。待って居るよ──代々木公園で」

「てめェッ、待ちやがれッ!」

 言いたいことを言って、唐栖は踵を返す。

後を追おうとした京一を、どこに隠れていたのか、大量の鴉が阻む。

黒い壁が消えたとき、もう彼の姿はなかった。

忌々しげに鴉を睨んでいた京一だったが、相手が空を飛ぶ生き物ではどうしようもなく、

憤まんやる方ないといった顔で戻ってくる。

「どうやら、かなり普通じゃないのが出てきたな。これからどうするか」

「ンなの決まってんだろ。あんなイカレタ野郎、野放しにしておけるはずがねェ。

代々木公園に乗り込んでブチのめすッ! なぁ緋勇」

 龍麻はすぐには答えず、槍を持ったまま苦い顔をしている雨紋の方を向いた。

「雨紋……お前、あいつのことを知っているのか?」

「あァ……まァな」

 そう頷いただけで雨紋はそれ以上話そうとしなかった。

軽く思案する龍麻の背中を、誰かが小突く。

「放っとくと、十人目の犠牲者が出ちゃうかも知れないしね」

 小蒔の言う通りだった。

そして、『力』を知っているあの男に対することができるのは、恐らく龍麻達だけだろう。

「よし、行こう」

 短く、そして力強く頷く龍麻に、全員が同意する。

 あれだけの危険に晒されておきながらなお事件に首を突っ込み、

あまつさえ解決出来ると思っている彼らが、絵莉には信じられなかった。

「あなた達、本気で代々木公園に行くつもりなの?

危険すぎるわ、そういうのは警察や大人達に任せるべきよ」

 陳腐だが常識的な意見は、木刀を肩に乗せた学生に一蹴されてしまった。

「さっきアイツが言ってただろ? 人が鴉を操ってるなんて誰も信じねェよ。

それに警察だって、鴉相手じゃ勝手が違うだろうよ」

「あなた達なら……違わないって言うの?」

「へへッ、ま、やってみなけりゃ判らねぇけどな」

 本当ならば厳しく止めるか、さっさと警察に連絡して行動を封じるべきだった。

しかし絵莉は、普段は重きを置くことのない直感をこの時は信じる気になっていた。

特に、彼らの中心格と思われる少年が放っている、只ならぬものを。

「……大法螺吹きには見えないわね。それに、さっき私を助けてくれたのは本当だし」

 彼らを黙認することにした絵莉は、表情を改めて無謀とも思える少年達に忠告した。

「あの唐栖って子が何を考えているかはわからないけど、あの口振りからして、

単なる快楽殺人ではないのは確かね。彼は彼なりの──どんなに曲がっているとしても──

正義で行動しているんだと思うわ」

「そんな……だからって人を殺していい理由なんかにはなんないよッ」

「そうだな。桜井の言う通りだ。……だからこそ、俺達が止めなくては」

 憤る小蒔に醍醐が同調し、龍麻達は代々木公園に向かおうと気勢を上げた。

その輪から少し離れた所に立つ絵莉に、葵が声をかけた。

「天野さんは……これからどうするんですか?」

「……ごめんなさい。私がつきあってあげられるのはここまでなの」

 絵莉の言葉を耳ざとく聞きつけた京一が、木刀を袋にしまいながら近づいてきた。

「取材はいいのかよ」

「酷いことを言うようだけど、ルポライターって仕事は、私にとってビジネスなの。

記事に出来ない事件をいつまでも追うわけにはいかないわ」

 いささか冷たくも聞こえる台詞が、建前であることは次の言葉で解った。

「それに──悔しいけど、私の手に負える事件でもなさそうだし」

「……そうだよね。慈善事業してるわけじゃないもんね」

「……ま、大人の仕事も大変だねェ」

「……そうね。それじゃ、私はもう行くわね」

 利いた風な口を聞く少年たちに大人の苦笑で応えた絵莉は、軽く手を上げて去って行った。

背筋を真っ直ぐに伸ばして遠ざかる後姿に、妙に格好をつけて京一が呟く。

「天野絵莉ちゃん……か」

「こいつは……ちょっと綺麗な女の人だとすぐ鼻の下伸ばして」

「ばッ、馬鹿野郎ッ。俺は……そうだ、緋勇だってそう思っただろうが」

 呆れる小蒔に気色ばんだ京一は、なぜか龍麻に話を振る。

しかし、龍麻がよこしたのは、小蒔以上に冷たい、霊峰富士の氷柱のような視線だった。

「そう思ったって、どう思ったってんだ」

「うッ……どうってそりゃあお前、オトナの匂いがするなとか、いい尻してんなとか……」

 龍麻どころか今日会ったばかりの雨紋を含めた全員から無言の軽蔑を受けて、

どんな魑魅魍魎でも怖れることなどない京一もこれは効いたらしく、

意味も無く龍麻を指差して大声を上げた。

「んなコトはどうでもいいだろッ。さっさと代々木公園に行こうぜ。お前も行くんだろ、雨紋」

「どうする、雨紋? 俺達は行くが」

 雨紋は考える格好をしたが、それがポーズであることは明白だった。

「……そうだな。どっちにしろ鴉は放っておけねぇし、

渋谷の街が汚されンのも許せねえしな。あンたらにつきあおう」

 やや素直でない物言いながら、雨紋も龍麻達に同行することを承諾した。

こうして、龍麻達五人に雨紋を加えた一行は、唐栖が待つ代々木公園へとその足をむけたのだった。

 

 代々木公園についた一行は、その荒涼たる光景に言葉を失っていた。

都内でも有数の面積を持ち、「都心で一番広い空が見られる」が謳い文句であるはずのこの場所が、

まるで人々が死に絶えた街に公園だけが残っているかのように人の気配がなかった。

単に誰も居ない、というだけでない、もっとそれ以上の、

瘴気めいたものさえ感じさせる場所と成り果てていたのだ。

それは誰でも容易に感じ取れるほどで、特に氣の流れに敏感になっている龍麻達にとっては、

生理的な嫌悪感さえもよおさせるものだった。

「さすがに人気は無いな」

「あァ。オレ様も出来るだけ人が近づかないようにはしてきたんだけどな、

それでも面白半分や胆試し気分で入るヤツはたくさんいるし、入ったヤツが何人か出て来てないらしい。

おかげで昼間は誰も寄りつかなくなっちまってる」

 半ば独語する龍麻に、雨紋が幾分声を低めて答える。

そのすぐ後ろを歩いていた京一が、不機嫌そうに辺りを見渡した。

「あの野郎……どっかで見てやがるな」

「あの野郎って、さっきの人のこと? そんなの分かるの、京一?」

 小蒔の問いに、やはり不機嫌そうに京一は頷いた。

「あァ、はっきり気配を感じるぜ。なあ緋勇」

 京一の視線を受けた龍麻は、そのまま醍醐に視線を転じる。

醍醐は重々しく頷き、彼も唐栖の気配を感じ取っていることを伝えた。

「それって氣のおかげなんでしょ? いいなあ、ボクも使えるようになりたいなあ」

「のんきなコト言ってんじゃねェ」

「えーッ、だって急に敵が襲ってきたらボクだけわかんないじゃない」

「そんときゃ醍醐が護んだろ。なあタイショー」

 突然話を振られた醍醐は、どもりながら答えた。

「む、そ、そうだな、うむ、任せておけ、桜井」

「ありがと。でもさ、やっぱり自分でなんとかしたいじゃない。

あ、醍醐クンが頼りないとかそういう意味じゃないよ」

「ッたりめーだ。こいつが頼りになんなかったら、誰も役に立たねェよ」

 京一に頷いた小蒔は、隣にいる葵の顔色が悪いのに気がついた。

「葵、大丈夫?」

「ええ」

 あきらかに大丈夫ではなさそうな彼女に、全員が立ち止まった。

上空を見上げた京一が顔をしかめる。

「もしかして、ここの空気のせいか」

「空気?」

「あァ。鴉のせいかどうかはわからねェが、相当空気が淀んでやがる」

「ボクはあんまり感じないけど……そうなの、葵?」

 気遣う小蒔に、葵は笑顔を浮かべた。

無理なのがありありと判り、誰も応じない。

かといってここまで来て帰らせるというのも危険だ。

「こうなったら、早く気配の元を断つしかないな」

「オレ様もそう思うぜ。急ごう」

 五人は葵を中心にした円陣を組み、公園の中心部へと急いだ。

「ところでお前、あいつとは知り合いだって」

 京一の質問に雨紋は一瞬返答を詰まらせたが、もはや避けて通れない話題だった。

幾分声を低めると、彼は唐栖との因縁を語りはじめた。

「あいつは──二ヶ月前にオレ様のクラスに転校してきたンだ。

もちろん初めからああだったワケじゃない。

転校してきたンだから友達もほとんどいなかったみてぇだが、オレ様とは席が近いから良く話をした。

変わり始めたのはここ一月前からだな」

「急にか?」

「あァ──あの日、この公園にオレ様は呼び出された」

 雨紋の脳裏に記憶が甦る。

その映像には、苦い色のフィルターがかかっていた。

「こっちだよ、雨紋。随分遅かったね。まぁ、僕は待つのは嫌いじゃないけれど。

……どうしたのかって? ……ククク、雨紋、君は神の存在を信じるかい?」

「神──だと? ンなもん、いるわきゃねぇだろうが」

「いいかい、雨紋。神は二種類の人間を創り出した。『力』を持つ者と持たざる者。

そして僕は選ばれた。『力』持つ者として──」

「『力』だと? 雨紋、さっきもそうだが、唐栖は本当にそう言ったのか?」

 雨紋がそう言ったところで、醍醐が鋭い声で遮った。

もちろん龍麻達も聞き過ごすことなどできない。

龍麻たちが共に行動するようになったきっかけである事象。

それが今日会ったばかりの雨紋の口から語られ、

また連続猟奇殺人事件の犯人とおぼしき人物も口にしたとなれば、平静でいられるはずもなかった。

「あァ」

 簡潔に頷く雨紋。

その態度は、彼もまた『力』について知悉していることを物語っていた。

「じゃあ、雨紋の槍から見えたのも……」

 龍麻がそれを口にすると、またもあっさりと雨紋は頷いた。

「あァ。オレ様も気づいたのはほぼ奴と同じ頃だった。

さっきの天野サンと同じように鴉に襲われていたレディを助けた時にな。あンたらもか?」

「あぁ。俺達も……四月の頭か。俺達は四人まとめて気づいたがな」

「四人? あんたらは五人いるだろう?」

「ああ……緋勇は違うんだ。緋勇は最初から……俺達の高校に転校してきた時から『力』を持っていた」

「そうか……道理でな。渋谷ん時も、あンただけ氣の大きさが違ったからな」

 得心したように首を振る雨紋の後ろで、京一が軽く肩をすくめた。

「全く、今年になってから訳のわからねェことばっかり起こりやがる。

人間をカラスの餌にしたがる奴はいるわ、旧校舎でおかしなコトに巻きこまれるわ、

変な技を持った男は転校してくるわ……なぁ緋勇」

「本当だな」

「お前のコトだよッ! ッたく、他人事みたいにしてんじゃねェよ」

「……」

 素で他人のことだと思っていた龍麻は、空の色に劣らないくらい顔を赤くする。

すると雨紋が、いかにも愉しそうに笑いだした。

「はははッ、あンたら本当に面白いな。……オレ様も、唐栖とあンたらくらい仲良くできていたらな」

「……雨紋」

「あァ、解ってる。今のあいつに──同情は禁物だ」

 自らに言い聞かせるように呟いた雨紋が、足を止める。

彼の前方は広場のようで、大きく視界が開け、その中央には、巨大な人工物があった。

「あそこだ。あそこに唐栖が居る」

 雨紋の声が鴉の鳴き声に消されていく。

そこに火を継ぐように、京一が言った。

「よし……んじゃ、野郎をブチのめしに行くか」

 滲んだ血の色をした空に、漆黒の使者が群れなしていた。

出発する前に杏子が言ったように、まさしく東京中の鴉がこの一箇所に集まっているかのようだった。

彼らに罪はないとしても、その鳴声は一行にどうしようもなく寂寥と恐怖感を与える。

 木刀の入った袋で肩を叩いた京一が、わざとらしく驚いてみせた。

「しかし、こりゃすげェ数のカラスだな」

「ちょっと……怖いね。前来た時はこんなじゃなかったのに」

「あァ……奴がここに来るまではな」

 生まれた土地をけなされたと思った訳ではないだろうが、雨紋はやや語尾を強めて小蒔に答えた。

その語勢のまま、今度は全員を見渡して告げる。

「あンたらも気を引き締めていけよ。──これ以上、関係ねェ人間が死ぬのを見ンのはごめんだ」

「あァ、とっとと終わらせちまおうぜ」

 雨紋に案内された一行は鉄骨が組まれた広場に到着した。

 赤茶けた色の足場はまだ組み立て途中にも関わらず、妙に朽ちた印象だった。

その足場のほとんどに、隙間無く鴉が止まっている。

このただなかに唐栖が居ると判っていても、足を踏み入れるのにためらってしまうのは仕方がなかった。

それほどまでにこの人工の止まり木は異界めいた印象だったのだ。

「ここは?」

「塔が立つらしいな。今はカラスの騒ぎで工事が止まっちまってるけどよ」

「うわ……また一段とカラスが増えたね。これなら人間の一人や二人食べちゃうかも……」

 縁起でもないことを言う小蒔に、京一が顔をしかめる。

それをフォローするように醍醐が黒鳥の大群を見渡して言った。

「しかし、今の所は襲ってくる気配はなさそうだな。……唐栖が命令しているのか?」

「……多分な。ヤツはこの上にいる。高みから偉そうに地上を見下ろしてンのさ」

 憐憫の細片が混じった口調で、雨紋が答える。

彼を横目で見ながら、龍麻は素早く作戦を立てた。

「美里と桜井はここに残ってくれ」

「そんなあッ、ここまで来て」

「足場は横に並んでは歩けない。大勢で行っても詰まったらどうしようもない」

「それはそうだけどさ……」

 口を尖らせる小蒔だが、龍麻は構わずに続けた。

「それから、その弓は使えるか?」

「うん……一応」

「用意しておいてくれ」

 自分と葵の安全が、この弓にかかっているのだ。

龍麻は戦いから自分たちを遠ざけるつもりではなく、

より勝率の高い戦法を採用しただけなのだと理解した小蒔は、一転、緊張した面持ちで頷いた。

 さらに龍麻は、もう一人に残ってもらうよう頼んだ。

「醍醐、残って二人を護ってくれるか?」

「承知した」

 足場がよいとはいえない鉄骨の上より、地面の上で守備に専念する方が向いている。

醍醐はすぐに立場を納得した。

 唐栖を目指すのは龍麻と京一、それに雨紋となる。

「作りかけだからはしごがあるな……まずあれを目指そう。

最初に俺が上るから、二人はフォローしてくれ。上ったら今度は二人が上るのを俺がフォローする」

「よっしゃッ」

「手際がいいじゃねェか。気に入ったぜ」

 槍を構えて雨紋が言う。

彼の槍の腕前は先刻確認済みだから安心できる。

そして京一の木刀は言わずもがなだ。

二人に頷いた龍麻は、一気に疾走した。

「野郎、あいかわらず突っ走りやがる」

 ぼやきながら京一が後を追う。

「お嬢さン達、危ないと思ったらすぐに逃げるンだぜッ」

 ほとんど遅れずに雨紋も続いた。

「お嬢さんって、ボク達の方が年上だよねえ」

 文句を言いつつ小蒔は弓を取りだし、弦を張る。

彼女の傍では醍醐が油断なく周囲を見渡し、鴉を警戒していた。

 先陣を切って鉄塔に到着した龍麻は、はしごを使うような手間をかけず、

跳躍して鉄骨の一本に両手をかけると、逆上がりの要領で回転し、一気に身体を持ちあげた。

今まで手で掴んでいた鉄骨の上に危なげなく立つと、京一と雨紋を待つ。

「ずいぶん派手だな、あンたのところの大将は」

「ッたくッ、派手すぎんだよあの野郎はッ!」

 雨紋がはしごを上り、京一が殿を務める。

京一が上ってきたときには、すでに龍麻は次の階を目指しており、再び垂直に移動した。

二人も運動能力には自信があるが、龍麻のそれは規格外だ。

ようやく追いついた京一は、息も切らしていない龍麻に、嫌味ともつかぬ口調で言った。

「氣を使うとそんなサーカスみてェなこともできるのかよ」

「身体に無理させるわけだから、鍛えてないと後が大変だけどな」

 体内で氣を生成――練ることができるようになったら、次段階では外に放出する術を学ぶ。

身体の一箇所に集中させるこの術を会得すれば、一時的に脚力や腕力を高めることもできる。

ただし肉体が無意識にかけているリミッターを外すわけだから、反動は後で帰ってくる。

筋肉痛なら可愛いもので、最悪の場合一生使い物にならなくなると、

龍麻は彼の師から口を極めて忠告されたものだった。

 鉄骨のあらゆる場所には鴉がひしめきあって止まっているが、

完成途中の塔を上る龍麻達を襲ってはこなかったのは、

おそらく、唐栖が攻撃を控えさせているのだろう。

三人は難なく最上層まで辿りつくことができた。

 一番奥に、唐栖はいた。

手すりも何もない足場の上に危なげなく立ち、龍麻達をじっと見つめている。

その周りには何羽かの鴉が旋回していて、主人を護っているようであった。

「ククク……待っていたよ。ここから君達を観察しながらね」

「悪趣味な野郎だな。人を見下ろすのがそんなに楽しいか?」

 うんざりするように吐き捨てた京一の台詞も、唐栖は意に介さない。

「もちろんだよ。ここからは、この汚れた世界が良く見渡せる。

神の地を冒涜せんと高く伸びる高層ビル、汚染された水と大気、

そしてその中を蛆虫の如く醜く蠢く人間たち。もはや人間という生き物に、この地で生きる価値はない」

「そういうてめェだって人間じゃねェか。勝手なことばっか言ってんじゃねェよ」

「僕が? 君達と同じ人間? ククク……全く笑わせないでほしいね。

僕は、神に選ばれた存在なんだ。そして僕はもうすぐここから飛び立つ。

堕天使たちを率いて、人間を狩るためにね」

 狂信的な響きを含んだ声は、ただ嫌悪だけを三人に与える。

たまりかねたように叫んだのは、この中で最も唐栖に近かった雨紋だった。

「いい加減にしとけよ、唐栖。この世に選ばれた人間なんていやしねェ。

テメェだってわかってンだろ。この街が腐ってンなら、これからオレ達で変えていけばいいじゃねェか」

「ククク……相変わらず甘い事を言うんだね、雨紋。

──この東京で、一体何を信じろって言うんだい。

日々起こる殺人、恐喝、強盗。犯罪の芽はもはや摘んでも摘みきれないほど溢れている。

……粛清が必要なんだよ、この東京には」

「唐栖……」

「黒い水に一滴澄んだ水を垂らしたところで色が変わるはずもない。

……雨紋。君こそどうして僕に従わない? せっかく神に選ばれた『力』があるというのに。

そして君達もだ。特に彼女──美里葵」

 下にいる当人には聞こえなかったようだが、唐突に葵の名前が出たことで、

龍麻たちは一気に警戒を強めた。

「てめェ……どうして美里の名前を知ってる?」

 木刀を突きつける京一に、嘲るように唐栖が答える。

「鴉達が教えてくれたのさ。僕の可愛い鴉達がね。僕達の『力』は、

東京を浄化するために神から与えられたものだ。そして、美里葵――彼女の美しい姿は、

この不浄の街に降りたつ救世主たる僕の傍らにこそ相応しい。そう思わないか? そこの君も」

 唐栖の挑発に、龍麻は薄ら笑いを浮かべただけだった。

京一や葵に向けるのとは異なる、純然たる侮蔑で歪んだ口元に、

先に挑発を仕掛けた唐栖の方が余裕を失っていた。

「ククク……強気でいられるのも今のうちだけさ。

すぐに全身をむごたらしく僕の鴉達に食われて、惨めたらしく命乞いをするようになる。

もっとも、緋勇龍麻――君だけは、肉の一欠片まで食い尽くさせるとしよう」

「やれるものならやってみろッ――!」

 言うと同時に龍麻は鉄骨を蹴った。

地上から五メートル以上もある上、肩幅よりも狭い足場を全速力で駆ける。

地上とほぼ変わらない速さに、京一と雨紋も追いつくことができない。

「おい緋勇ッ、一人で突っこむなッつッてんだろうがッ!!」

「凄ェな、緋勇サン――だったか、気に入ったぜッ!!」

 怒鳴りあいながら、少しでも唐栖及び龍麻との間合いを詰めようと二人は走る。

そこに、鋭い金属の音が響き渡った。

人の耳にはかすかに聞こえる程度の高い周波数の音色に、鴉たちが反応する。

この最上層だけでも優に百羽以上はいた鴉は、一斉に飛びあがり、龍麻達に襲いかかった。

「くッ、邪魔するなこの野郎ッ!!」

 京一が木刀を振るい、数羽の鴉を落とす。

無造作に振るわれているような木刀が一閃する都度、古来神の使者ともされてきた漆黒の禽が、

悲鳴と共に落下していった。

 その向こうでは、穂先を白く輝かせた雨紋の槍が、やはり襲いくる鴉を撃退していた。

前方の鴉を突いたかと思うと、右に払い、左に薙ぎ、さらには後方の鴉を振り向きもせずに刺殺して、

降ってくる羽毛を避ける余裕すらみせながら、着実に鴉の数を減らしていく。

二人の勇猛ぶりは、統率された鴉たちでさえ怯ませるほどだったが、

いかんせんあまりにも数が多く、龍麻との距離を離されてしまった。

「緋勇サンッ!!」

 雨紋の叫びを背に受けた龍麻は、一度だけ彼らの方を振り向くと、

助けには戻らず唐栖を倒すために直進した。

鴉達を操っているのが唐栖である以上、彼を倒せば鴉達もコントロールを失うだろうし、

京一と雨紋は容易にやられはしないだろうという判断からだ。

深く息を吸い、体内で氣を練った龍麻は、群がる鴉に向かって氣を叩きつけた。

 龍麻達が唐栖達に苦戦している時、地上でも小蒔達が鴉に襲われていた。

醍醐が小蒔と葵を護っているが、素手であるためになかなか攻勢に出ることができない。

頼みの綱である小蒔は、今のところ鴉を一匹も倒せないでいた。

 放った矢が空しく空を切る。

小蒔がこれまで放った矢は四本で、その全てが鴉に命中することなく外れていた。

「……ッ」

 無言で吐いた息には、もう少しで舌打ちになる焦りが含まれていた。

弓道部に所属する小蒔は、日々弓を修めている。

弓道は獲物を射るために修めるのではないにせよ、肝心なときに当てられないのでは意味がない。

唇を強く引き結び、小蒔は更なる矢をつがえた。

 だが、飛び回る烏に当てるのは容易ではない。

いきなりの実戦による緊張と、当たらない焦りで全身は知らず強ばっている。

そのような状態で矢が当たるはずがなく、五本目も弧を描いただけで何物にも触れず落ちた。

「ああ、もうッ!!」

 部活で弓を射るときには、決して口にしない悪態をつかずにいられない。

どうしてこんなにも当たらないのか、すでに冷静さを欠いている小蒔には、思い至ることもできなかった。

乱暴に六本目の矢を番え、狙点を定める。

すると、前方にいて二人を護る醍醐の横を、数羽の烏がすり抜けた。

鴉達は醍醐でも小蒔でもなく、無防備な葵に襲いかかる。

「きゃあッ!!」

「葵ッ!!」

 しゃがみこむ葵に小蒔は肝を冷やしたが、どうやら間一髪で避けたようだ。

葵の無事を確認した途端、小蒔の感情は氷点下近くから沸騰寸前まで、一気に跳ねあがった。

 葵を危険に晒したのは、ボクだ。

ボクが当てられないから、ボクが不甲斐ないから、いけないんだ。

怒りに震える小蒔の全身が、青白く輝く。

「小蒔……?」

 葵の呼びかけも届かない小蒔は、ほとんど自動的に弓を構えた。

全身が灼けるように熱いのに、鏃を見つめる眼だけはカメラのレンズのように冷たく目標を捉えている。

確実に当たる――予想や期待ではなく、結果を知った小蒔は、吸った息を一瞬止めて矢を放った。

鋭い矢音が響いたとき、すでに矢は鴉に命中している。

それを確かめもせず、さらに小蒔は二の矢、三の矢を続けて射た。

「ほう……!」

 醍醐が思わず唸るほど、小蒔の弓勢は衰えを知らない。

立て続けに鴉が落ちていくのを見て、醍醐もまた気合いを入れ直した。

 鴉は知能が高く、警戒心も強い。

小蒔が数羽倒したことで、次第に距離を取りはじめ、さらに醍醐が追撃をかけると、ついに逃げていった。

「ふう……もう大丈夫みたいだね」

「ああ、見事なものだったな、桜井の氣は」

「えへへッ、自分でもビックリしてるよ。ホントにこんな『力』が使えるなんて……あ、そうだ、葵!」

 心の底から褒める醍醐に、照れた笑いで応えた小蒔は、親友のことを思いだして身を翻した。

「ケガはしてない?」

「ええ、大丈夫よ。小蒔こそ怪我はしていないかしら?」

 小蒔が自分の身体を確認すると、何ヶ所かに血が滲んでいた。

集中していて気がつかなかったのだろうが、大した怪我でもなさそうだった。

「ちょっとだけ、でも平気だよ」

「駄目よ、ばい菌でも感染したら大変だわ」

 言うなり葵は精神を集中する。

身体にあふれる強い力――氣を、怪我をしている小蒔の左足に添えている手から、患部へと伝えた。

白い輝きが掌から消えると、小蒔の怪我も完治していた。

「ひゃーッ、凄いね、葵の『力』は」

「ううん、そんな……治って良かったわ。跡が残ったら大変だものね」

「えへへッ、ありがと」

 さらに葵は醍醐の顔にも傷があるのを見つけた。

「醍醐君も、怪我をしているわ」

「ん? ははッ、俺は身体が大きいからな。全てを避けるというわけにはいかんのさ。

何、この程度なら大した傷じゃない、すぐに治るさ」

「いけないわ」

 葵は彼の頬に掌を当て、意識を集中させる。

照れくさそうにしていた醍醐も、傷が完全に癒えたと知ると、再び感嘆した。

「礼を言うよ。それにしても、見事なものだな」

 儀礼的に頷いて、葵は視線を移した。

その先には、唐栖と戦っている龍麻達がいる。

「大丈夫……だよね」

「うむ。緋勇と京一は強いし、あの雨紋という男もかなり出来るようだからな。

後れを取ることはないだろう」

 葵と同じ方向を見つめる小蒔と醍醐の会話を聞きながら、葵は別のことを考えていた。

 怪我を一瞬で直してしまうような強力な『力』など、やはり必要ない。

普通の高校生――いや、普通の人間には過ぎた力だ。

今日は小蒔の怪我を治すことができたが、もしまた、

彼女が今日のような危険に首を突っこもうとしたら、その時は絶対に止めなくてはならない。

それこそが自分の役割なのだ。

この望まぬ『力』も、放っておけばそのうち消えるだろう。

緋勇龍麻とも距離を置き、受験生らしく勉強に専念するのだ。

けたたましい鴉の鳴き声に抗うように、葵は強く心に誓った。

 醍醐の予想は的中し、龍麻達は唐栖を追い詰めていた。

雨紋と京一は唐栖のもくろみ通り、上空からの鴉達の攻撃に足止めされていたが、

龍麻は鴉に襲われつつも足を止めずに向かってきた。

彼が指示を与えた鴉が、龍麻に触れてすらいないのに、

遠間から打ち落とされるのを見た唐栖は危険を感じ、全ての鴉を龍麻に向かわせようと笛を吹こうとする。

その寸前、龍麻の拳から練った氣が放たれた。

「く……ッ……!」

 不可視のエネルギーが唐栖の手を打つ。

それは羽虫を潰す程度の威力しかなかったが、唐栖の手から笛を落とさせるには充分だった。

 床に落ちた笛を、唐栖は慌てて拾いあげる。

戦いに慣れていない彼が、敵から目を逸らし、再び視界に捉えたとき、

すでに龍麻は拳の届く距離にいた。

「がは……ッ!!」

 鴉を操る『力』は得ていても、肉体そのものは鍛えてもおらず、

普通の人間となんら変わるところのない唐栖には氣を練った打撃でなくとも充分だった。

たちまち悶絶し、鉄骨から落ちそうになる身体を龍麻が支える。

その手から再び笛が滑り落ち、地面と衝突して最後の音色を奏でた。

「見て……カラスが皆飛んでく」

 小蒔の言った通り、響き渡った澄んだ音を合図にしたかのようにして、

公園中にいた鴉が一斉に飛び立つ。

その激しい羽音に、龍麻達は振動で落ちないよう鉄骨にしがみつかねばならないほどだった。

 渋谷の街を震撼させていた事件の首魁を倒した龍麻達は、広場へと戻ってきていた。

渋谷の空を覆いつくすほどだった鴉達は一羽たりともおらず、

初めて足を踏み入れた時に感じた、瘴気めいたものも消えうせている。

いずれ鴉達は戻ってくるにしても、もう唐栖に操られるようなこともないだろう。

その唐栖は、龍麻に担がれて鉄骨を組んだ足場から降ろされ、地面に横たえられていた。

「うっ……うぅ……」

「唐栖……」

「さっきまでの邪氣が嘘のようだな」

 醍醐にすぐには応えず、雨紋は唐栖の傍らに膝をついた。

「あァ……もうあの『力』を使う事も出来ねェだろう。……唐栖よ、人間もカラスも同じさ。

薄汚れて堕ちていくのは簡単さ。でもよ、心まで堕ちなきゃ、幾らでも飛びあがれる翼を持っている」

 雨紋の独語めいた台詞にも、唐栖は反応しなかった。

気を失ってはいないようなので、雨紋の頼みもあり、

ここは彼に後を任せ、龍麻達は引き上げることにした。

無論、彼が間接的にせよ、九人もの人間を殺害したという事実は消えないが、

警察に言っても相手にされる訳もなく、後は彼の良心に委ねるしかない、

というのが彼らの出した結論だった。

強大な『力』を持っていても、精神的には未だ高校生でしかない彼らには

人生を積み重ねることでしか得られないものが欠けていたし、

やや中途半端な処置でも、他に取れる手だてはなかった。

 唐栖の様子が安定しており、これ以上事件を引き起こせなくなっていることを確かめた龍麻は、

立ちあがり、誰に言うともなく呟いた。

「他にも、唐栖や俺達のような──人間がいるんだろうか」

「さァな。けどよ、何が原因か知らねェが、俺達だけとは思えねェな」

「うむ……」

 龍麻達三人の会話を聞いていた雨紋は、努めて明るい声を出した。

「んじゃ、オレ様も帰るとすっか」

「もう行っちゃうの?」

 小蒔の言葉に、雨紋は寂しそうに首を振る。

「……唐栖の後始末も付けねェといけねェしな」

「その後は?」

 重ねての質問に、雨紋は彼女ではなく、龍麻の方を向いた。

「あンたには世話になったよ、緋勇サン。あンた達はどうするんだ?」

「俺はこの『力』が急に、それも大勢の人間が使えるようになったのには理由があると思ってる。

それを突き止めたい」

「そういうことなら、俺様も力を貸すぜ。なンかあったらいつでも呼んでくれ」

「ああ、その時は頼む」

 差し出された手と顔を等分に見た雨紋は、やがて照れくさそうに手を握った。

龍麻はそれを力強く握り返し、自分達の街、新宿へと戻るのだった。

 

 行き以上に混雑している電車内は、身動きもままならない。

混雑する電車に乗り慣れていない葵は、四方から受ける力のいなし方に慣れておらず、

辟易しているところに強く押され、前に立っている人にぶつかってしまった。

「あ、すみません……!」

 顔を上げた男と目が合った葵の、顔が青ざめる。

彼女がぶつかったのは、同じ学校に通う、緋勇龍麻だった。

乗った時には確かに前にはいなかったはずなのに、いつの間に、どうやって移動したのだろうか。

疑問を抱く葵の足に、何かが触れる。

迷いもなく、当然のように足の間をまさぐるその感触を、葵が忘れるはずがなかった。

つい数時間前に、反対方向に進む電車の中で受けた忌まわしい刺激は、

目の前の同級生によってもたらされたものだ。

まさかと思って葵は龍麻を見る。

そこにあったのは、あの、彼が転校してきた日に校舎裏で見せた、強い圧力を内包する黒瞳だった。

あの時よりも間近で見てしまった葵は、その凄まじい威に、ほとんど瞬間的に屈してしまった。

全身の血管にコンクリートを流しこまれたように、指一本動かせなくなる。

龍麻のことなど全く好いていないのに、なぜこれほどの影響下に置かれてしまうのか。

 怖れる葵をよそに、龍麻は大胆極まりない手つきで葵の下腹をまさぐっていく。

両の太股へ蜘蛛の巣のように四本の指を貼りつかせると、中指で秘裂を刺激する。

「……」

 葵は止めて、と言おうとしたが声が全く出ない。

顔色ひとつ変えずに痴漢を働く龍麻に、ならばと身をよじって逃れようとすると、

微弱な電流のような刺激が下腹部を襲った。

「……っ……!」

 声を上げてしまうほど強くなく、無視できるほど弱くもない快感に、葵の動きは急停止した。

恐怖さえ一瞬忘れた葵は、心を操られたように感じて愕然とする。

そこに二度目の刺激がもたらされて、性的なことに疎かったはずの少女はたまらず腰を折った。

「おっと」

 力強い腕が、葵を支える。

「大丈夫か?」

 龍麻はこともあろうに彼女を気遣いながら、さらに指先を通じて氣を送りこんだ。

「え、ええ……っ……」

 他の乗客の関心を惹いてしまわぬよう、葵は小声で答える。

彼を振り解くこともできず、彼の胸に頭を預けるようにして、愛撫を受け続けるしかなかった。

 数度、擦られただけで、行きに受けた快感を肉体が思いだす。

昂ぶらされた挙句に寸前で止められた快感は、その後治まったと思っていたのに、

ほんのわずかな刺激で蘇り、続きを与えられて葵の意志とは無関係に悦んでしまう。

とくに股間のある一点に指腹が触れると、膝から力が抜けるほどの気持ちよさが全身を走るのだ。

「あ……や……っ……」

 弱々しい拒絶は吐息と混じり、どちらが本意なのか葵自身にも判らなくなっている。

判っているのは、何を言っても龍麻が手を止めることはなく、

新宿に着くまでは耐えなければならないということだけだ。

火照りを感じる頬を他人に見られたくなくて、葵は龍麻の胸に顔を埋めた。

 指先は葵の弱い場所を的確に捉え、集中的に責めたてる。

行きと同じような円の動きに、ときおり縦の動きが加わると、葵は口を閉じていることができず、

熱い呼気を漏らしてしまうのだ。

電車の走行音に紛れて消えたはずのそれを、龍麻だけは聞いている。

葵にそう確信させるのは、葵が吐息を漏らすと必ず、

龍麻はそれに応えるように少しだけ強めた刺激を与えるからだ。

 それが何回か繰り返されるうち、電車は新宿に到着した。

龍麻は何事もなかったかのように、葵を庇いつつ電車から降りる。

 ようやく解放されたと思いながら葵は、無意識に彼の指を目で追っていた。

そのことに気づいて、慌てて意識を引き戻した。

 新宿駅を出ると、もう外は夕方から夜へと移ろう時間だった。

「葵さ、緋勇クンにもたれかかってたけど、大丈夫? また調子悪くなっちゃったの?」

「え、ええ、でも大丈夫よ」

 もしや痴漢されているところまで見られていたのかと動揺したが、

頭が龍麻に被さっているのが見えただけのようで、葵は安心した。

「なんだ、役得だったじゃねェか」

「こらッ、京一! 葵は調子悪いんだぞッ」

 京一を一喝した小蒔に、葵の不調の原因である龍麻が、そ知らぬ顔で言った。

「桜井、悪いが美里を家まで送ってくれるか?」

「うん、もちろんだよ。それじゃね、皆。今日はおつかれッ! また明日ね」

 女性陣を見送ると、京一が残る二人に向き直る。

「さて、一働きしたら腹が減ったぜ、ラーメン食ってこうぜ」

「さっき食ったばかりじゃないか」

 呆れる醍醐に京一は、噛みつかんばかりの勢いで食ってかかった。

「うるせえッ、お前だって腹減ってんだろ、その図体なんだからよ」

「やれやれ……どうする、緋勇? 無理にとは言わんが」

「行こう」

「ほれ見ろッ、緋勇はやっぱりわかッてんじゃねェか。お前こそ帰れ、この野郎」

「そういう訳にはいかん。ここで緋勇とお前を二人にしたら、

緋勇を歌舞伎町にでも連れて行きかねんからな」

「くッ……行きてェなら行きてェって素直に言いやがれッ!!」

 三人は大声で話しながら、夜の新宿へと消えていくのだった。

 葵と小蒔の女性二人は、もちろんまっすぐに家に向かっている。

 所属している部活動が違うのもあって、小蒔と一緒に帰るのはそれほど多くはなかったが、

今日はできれば一人で帰りたい葵だった。

とはいえ、案じてくれる親友の好意を無下にできるはずがないので、葵は肩を並べて小蒔と歩く。

 複雑な葵の心境をよそに、小蒔は明るく話しかけた。

「今日はありがとね、葵。葵は『力』を使うの嫌だったかもしれないけど、

ボクの怪我を治してくれてホントに助かったよ」

「ううん、いいのよ。小蒔だって私を護ってくれたんだから、治すのは当然だわ」

「エヘヘッ」

 小蒔の笑顔を見ると、葵の『力』を使った嫌悪感も薄らいでいく。

だが、やはり小蒔にもできれば『力』に関わる事象からは手を引いて欲しいと願うのだ。

「でも、怖くなかった?」

「最初はね、ちょっと。でも葵が鴉に襲われたら、そんな気持ちどっか行っちゃった」

 葵が行かなければ小蒔は怯え、次から行こうとは思わなかったかもしれない。

もっときっぱりと龍麻達との同行を断るべきなのか。

それでも小蒔が一人で行くと言ったら、どうすればよいのか。

答えをすぐには出せない難問に、葵は沈思した。

 無言のまま信号を渡り、道を一本曲がって人通りが少なくなると、再び小蒔が口を開いた。

「実際さ、緋勇クンのことどう思う?」

「えっ? べ、別に……」

 葵の反応を勘違いしたのか、小蒔の口調がからかいを含んだものに変わった。

「真神の聖女もさ、そろそろカレシの一人くらい居てもイイと思うんだよね。

緋勇クンは転校してきたばっかりだけどさ、つきあいの長さが愛情の深さにカンケイするわけじゃないし」

どこかで拾ってきたような言葉は、けしかけるような響きもあって、

葵は少しだけ、この三年来の親友に疎ましさを覚えた。

それは小蒔のせいではなく、それが龍麻に対する嫌悪に拍車をかける。

電車内で騒いで、彼を警察なり鉄道会社なりに突きだせばよかった――

無邪気な小蒔を見ていると、そんなことも脳裏をよぎった。

自分の性格的にできるはずがないのは、よく解っているのだが。

「緋勇クン、女のコの人気も高そうだし、早くしないと取られちゃうかもよ?」

 なお煽る小蒔に、葵は矛先を逸らす必要を感じた。

「そうね、小蒔が取るのなら諦めもつくわ」

 この反撃は意表を突いたようで、小蒔は大きな唐揚げを一口で呑みこんだときのような顔をした。

葵がこらえきれずに笑いだすと、小蒔も釣られて笑った。

「葵も言うようになったねえ。高一の頃なんか、お姫様みたいだったのに」

「二年も朱に交わっていれば、赤くもなるわ」

「あ、ヒドいなあ、知らない男子生徒にしつこく話しかけられて困ってたのを助けてあげたの、

誰だったか忘れちゃったの?」

「……もちろん忘れてなんかいないわよ。あの時は本当に助かったわ」

「えへへッ、よろしい」

 もう一度噴きだして二人は和解した。

もとよりこの二年間、葵と小蒔は喧嘩などしたことがない。

性格も趣味思考も全然違うのに、実の姉妹よりも仲が良かった。

葵は一人娘だが、小蒔には下に五人弟妹がいて、小蒔曰く常に小競り合いが絶えないそうで、

葵と居ると本当に気が楽だと言ったことがあった。

それは葵の方がより強く思っていて、高校で得た最大の宝物は小蒔だと本気で思っている。

だからこそ、親友が危険に晒されるのは、なんとか回避したいと思う葵だった。

 今の雰囲気なら深刻には受け取られないだろうと考えて、葵は龍麻について訊ねてみることにした。

「小蒔こそ緋勇君のこと、どう思っているの? その、友達としてよ」

「ボク? ボクは、そうだね、悪くないと思ってるよ」

 小蒔が異性についてこんな見解を表わすのは初めてかもしれない。

葵は本意をうかがうように親友の顔を見たが、表情の陰影は夜に紛れてわからなかった。

葵としては龍麻の関心が他者に向いてくれれば嬉しいが、小蒔が龍麻に関心を持つのも困るのだ。

「ただ、ちょっと何考えてるかわからないところはあるかな。

他の女のコと話してるときも、女のコ達は喜んでるけど、なんか緋勇クンは本気じゃないっていうか。

その割に葵には結経積極的だしね。まあ、葵は可愛いからしょうがないけど」

 小蒔が意外と人を鑑ていることに、葵は驚いた。

龍麻の自分に対する態度はともかくとして、何を考えているかわからないというのは、

彼のあの眼差しそのものではないか。

この分なら、もう少し龍麻の本性が露になったなら、小蒔を説得することもできるかもしれない。

「でも、今はこの『力』かな。どうして使えるようになったのか、知りたいもんね」

「……」

 開きかけた口を葵は閉じた。

今龍麻が卑劣な男だと告げても、信じてもらえる根拠に乏しい。

証拠が無くても小蒔なら信じてくれるだろうが、自分が受けた辱めを告白するのはできれば避けたい。

もう少しすれば龍麻もぼろを出すだろうから、それまでは自分と小蒔を護ることに務め、

その時が来たら彼の本性を白日の下にさらけだせば良いのだ。

葵は焦らずに待つことにした。

「もう家はそこだから、ここまででいいわ、小蒔」

「うん、顔色も良くなったみたいだし、大丈夫だね」

「ええ、送ってくれてありがとう」

「ううん、ボクも久しぶりに葵とゆっくり話せて楽しかったよ。それじゃね」

 手を振って去っていく小蒔の姿が見えなくなるまで見送っていた葵は、不意に顔をしかめる。

湿った下着が肌に触れ、不快な感触をもたらしたのだ。

行きと帰りと、一日に二度も痴漢行為を働いた、龍麻という男を許すことは絶対にできない。

だが、行きはともかく、帰りはなぜみすみす許してしまったのか、葵は自分でも解らなかった。

彼の眼――いみじくも小蒔が言った、何を考えているか解らないという瞳。

もしかしたら龍麻は瞳にも、氣とかいう怪しい『力』を持っているのかもしれない。

だとしたら小蒔が毒牙にかかってしまうかもしれず、なんとしても確かめる必要があった。

 四月の夜風はまだ肌寒いというほどではなかったが、葵は身震いすると、

両腕をかき抱いて家へと向かう。

それは武者震いのようでもあり、未だ収まらぬ火照りを、押さえつけるかのようでもあった。

 

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