※この作品はR-18です。

反魔人學園   作:SVX

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第伍話

 素肌に冷たさを感じて、葵は目を覚ました。

 どこまでも果てしなく広がる、空と砂漠。

目の前に広がる、二等分された二色の世界に、言葉を失う。

息を呑んだ拍子に、小さな金属音と、目覚めたきっかけとなった冷たさを感じて、

葵は初めて自分の置かれている状況に気がついた。

 砂漠に立つ十字架。

人どころか生命の気配さえない、砂粒のみが支配する世界で、

葵は一人、十字架に縛りつけられていた。

 異常な事態に驚いた葵は、四肢を動かしてみる。

だが、全身を取り巻く鎖が、葵が十字架から離れるのを許さない。

どこから始まり、どこで終わっているのかも判らない鈍色の戒めは、

生物のように葵の肢体にまとわりつき、苦しくない代わりに身動きも許さなかった。

首から上だけがかろうじて動かせはしても、左右に頭を振ってみたところで、

目に映るのは砂と空以外何もなかった。

「誰か……居ないの……?」

 怯えた葵の声は、虚しく砂の海に消えていく。

時間を置いてもう一度、葵は呼びかけてみたが、やはり、風さえも鳴らなかった。

「緋勇君なの……?」

 このような異常な状況を創りだせるのは、彼しかいない。

何らの証拠もないことながら、彼がまた拐かそうとしているのだと、確信に近く

考えた葵は、彼のあの、極めて威圧的な眼光に抗するために意識を集中させた。

 しかし、龍麻は姿を現さない。

もしかしたら、こんな風に拘束して、苦悶する姿をどこかで見ているのかもしれない。

不安を怒りに転化させて、葵は再び叫んだ。

「どうしてこんなことをするの……!?」

 どれほど叫んでも、砂の一粒さえ動かすことはできない。

葵は恥辱と怒りに形の良い唇を噛みしめた。

 不意に気配を感じた。

紛れもなく生物の気配だ。

だが、見渡す限り動くものはなく、気配も、遠いのか、それとも近いのか、

奇妙にぼやけて判然としない。

ようやく得た小さな手がかりを失うまいと、葵は声を限りに叫んだ。

「誰か、誰か居るの……? お願い、私を助けて……!」

 痛切な訴えに応えるものはない。

不思議なことに、何がしかの気配は葵を無視したにも関わらず、

消えさるでもなく、どこかにいるようだ。

かといって、さらに何度か助けを求めてみても、気配の主が姿を現すことはない。

じわじわと侵食してくる恐怖に耐える全身に、生ぬるい声が聞こえてきた。

 美里……葵……

「!? 誰?」

 奇妙に活力のない、そのくせねめついた声。

聞いて快い声では正直なかったが、この非現実的な状況の中で、

唯一現実へと繋がるかもしれない他者を、好悪だけで拒むわけにはいかなかった。

どこにいるかも判らない声の主に、葵は懇願した。

「お願い、姿を見せて。私をここから出して」

 しばらく間を置いてからあった返事は、葵の期待したものではなかった。

「……ダメだよ。そこが一番安全なんだから。

だって、ボクが……このボクが見守ってるんだから。

安心してよ。ボクが君を護ってあげる。誰にも君を汚させやしない」

 ただ不気味に、一方的に告げる声に、

葵はこの忌まわしい世界からの脱出の糸口を求めようとしたが、

来た時と同様、突然気配はなくなってしまった。

それと同時に、葵の意識にも昏い膜がかかっていく。

残されたわずかな自我の中で、葵は助けを求めて叫び続けた。

 

 この日、三年C組の最後となる6時限目の授業は、生物だった。

C組担当である犬神杜人は、終業を告げるチャイムに被せるように、

今ひとつやる気の感じられない、そのくせはっきりと聞こえるトーンで告げた。

「それじゃあ、今日はここまでにしよう。レポートを忘れた奴は、

明日必ず俺の所へ持ってくること。いいな。──特に蓬莱寺」

「へーい」

「じゃあな」

 犬神が教室から出ていった途端、教室を横切るように京一が歩いてきた。

その歩き方と表情から、不満以外のものは読み取れない。

真神學園の近くにある、日本有数の繁華街である歌舞伎町をこんな顔で歩いたら、

たちまちチンピラに囲まれるのは確実だったが、彼の向かった先で、

まだ何事かノートに書きつけていた龍麻は、京一が勢い良く前の席に座っても、

平然と彼を迎えた。

 京一は座るなり腕を組んで、彼の不満を披露した。

「……ッたく、冗談じゃねぇぜ。犬神の野郎、絶対俺を目の敵にしてやがる。

今の時間だけで四回も当てやがって」

 それに答えたのは龍麻ではなく、反対側から弾むように歩いてきた桜井小蒔だった。

「そんなの、あんだけ熟睡してたら当たり前だろッ。自業自得じゃないか」

「しょうがねェだろ? 飯食った後の授業なんて眠いに決まってンだからよ。

大体昼下がりなんてのはな、こう、ボーッとお空を眺めてお姉ちゃんのことを

考えてだな、のーんびりしたいもんなんだよ。なぁ緋勇」

「もう昼はとっくに下がって、もうじき夕方だぞ」

 龍麻の支持を得られなかった京一は、忌々しげに龍麻を睨みつけた。

すると小蒔が龍麻を庇うように、京一に向けて指を突きつける。

「そうだそうだ、だいたい京一なんてお腹いっぱいじゃなくたって寝てるじゃないかッ」

「くそッ、少し勉強ができるからって調子に乗りやがって」

「えッ、緋勇クンって勉強できるの?」

 いかにも意外というように驚く小蒔に、龍麻は心外だというジェスチャーで応えた。

「ふーん、人は見かけによらないんだね」

「どういう意味だ」

「え、だってさ、緋勇クン何か格闘技やってるんでしょ?」

 ひどい偏見もあったものだが、小蒔は本気で言ったわけではなさそうで、

龍麻も追及するつもりはなかった。

「ンなこたァいいから、さっさとラーメン食いに行こうぜ」

「今日はそんな予定だったか?」

「ラーメン食いに行くのにいちいち予定なんざ要らねェだろッ。

食いたくなったら食う。寝たくなったら寝る。

これこそが正しい男子高校生の生き様ってもんだ」

「めちゃくちゃ言ってるよ……」

 呆れた小蒔が同意を求めるように龍麻を見る。

それに龍麻が答えようとしたとき、彼の顔に影がさした。

見上げると、醍醐雄矢が立っていた。

クラス一の大男の顔には、どこか笑いを押し殺しているような節があり、

三人のやり取りを始めから見ていたのは明らかだった。

「京一……またお前は緋勇を悪の道に引きずり込もうとしているな」

「あ、醍醐クン」

「余計なお世話だ」

 悪、と決めつけられた京一は鼻を鳴らす。

実は龍麻は京一の誘いを断ったことはなく、ナンパの手伝いこそしないものの、

夜はかなり遅くまで遊ぶこともある。

しかし仲間達の中で龍麻が悪いと言う者は誰一人としておらず、特にこの醍醐などは、

京一のせいで龍麻が悪の道に転落するのを防ぐのは、

自分の役目だと信じてさえいるようだった。

「大体お前は今日は遊びに行くどころじゃないんじゃないか?

レポート、どうせまだ一枚も書いて無いんだろう」

「うるせェな、ンなの夜やりゃいいんだよッ」

 夜にも全くやる気のない京一が力強く断言すると、

小蒔は微妙な判定に抗議する選手を諭す審判のように首を振った。

「にしてもさ、なんで京一ってそんなに犬神センセのコト嫌がるの?」

「なんでって……別に俺だけじゃねェだろ。なぁ緋勇」

 龍麻は彼の意見に賛同しなかった。

「別に授業がわかりづらい訳でもないし、要点は押さえてくれてるからな」

 確かに犬神は解らないところを親身に教えてくれたり、

要点はここだと連呼するタイプの教師ではない。

だから予習をしない人間には嫌な教師にみえるだろうが、

きちんと予習を行っていけば、彼の授業は的確で理解しやすかった。

 だが、予習も復習も補習時以外はしたことがない京一には、

残念ながら犬神は、ソリの合わない教師の一人でしかないようだった。

「もういいや、こいつは当てになんねぇ。とにかく、

好きってヤツの方が少ねェのは間違いねぇだろ」

「うーん……」

 力強く断言する京一に、龍麻だけでなく、小蒔も首をひねる。

確かに雰囲気が暗いという声はあるものの、そこまで嫌われているとも思えないのだ。

それに龍麻の言う通り、予習復習をして来ない生徒には少し難しい授業内容も、

いよいよあと一年を切った受験のことを考えれば当然であり、

むしろ早くから目標を定めている生徒にとっては歓迎すべきものだろう。

その証拠に、最近は授業後に彼の許に行って質問をする者もいて、

いささか迷惑そうな顔をしながらも答える彼の姿が見られるようになっていた。

 しかし、生物はもちろん、およそ全ての勉強というものから縁遠い京一は、

そんな事実を認めようとはしない。

「なんだ、女には人気あンのか?」

「うーん……そりゃ、人気あるとは言えないかも知れないけど……」

 やや防御的な姿勢になった小蒔に、すかさず京一は攻めこんだ。

「ほれ見ろ。あいつは格好からしてだらしねェし、大体陰気なんだよ。

マリアせんせのケツばっか追っかけ回しやがって」

「そうなの? ボクにはマリアせんせが犬神せんせを気にかけてるように見えるんだけど」

「ンなことある訳ねーだろッ」

「そーかなァ……」

「とにかく、俺は虫が好かねェんだよ」

 一向に賛同を得られない会話に嫌気がさしたのか、

京一は自分から始めた犬神についての話題を勝手に打ちきった。

ふてくされる京一に苦笑を向けた醍醐の口調は、どこかなだめるような響きがあった。

「随分嫌われたもんだな、犬神先生も。──ま、あと半年ちょっとの付き合いだ。

辛抱するんだな。……ところで、美里の姿が見えないが、どうしたんだ?」

「葵なら生徒会の広報がどうとかって新聞部へ行ったよ」

「新聞部ゥ? あんなところへ一人で行ったらアン子にヤられちまうぞ」

「何をヤるんだよ……」

「なんだ、聞きたいのか? 小蒔」

「誰が聞くか、このバカッ!」

 下品な会話に醍醐は眉をしかめ、龍麻は笑うのを我慢する。

そこに、おそらくこの仲間達の中で最も良識派であろう人物が姿を見せた。

「あっ、葵」

「どうしたの? 皆揃って」

「エへへッ、生徒会も大変だな、って話してたトコ。

……あれ、葵、顔色悪くない? 調子悪いの?」

 小蒔が指摘するまでもなく、葵の顔色は誰が見ても判るほど悪かった。

もともと小蒔のように活力に溢れるタイプではないが、

それにしても今の白さは病的な程だ。

血色というものがまるで見当たらず、雪女郎さながらの様相だった。

「ううん、大丈夫。もうすぐアン子ちゃんが来るから、そうしたら皆で帰りましょう」

「……ホントに大丈夫?」

 なおも心配する小蒔だったが、自分を呼ぶ声に中断せざるを得なくなってしまった。

「桜井ちゃん、いる? 如月君が探してるんだけど」

 威勢の良い声と共に入ってきたアン子の後ろには、

龍麻の知らない男がついてきていた。

もっとも龍麻が知らないのも当然で、その人物が着ているのは真神の制服ではなかった。

 男の外見は、一言で言ってしまえば優男だった。

真ん中で綺麗に分けた髪は、癖がなく、男のものとは思えない程艶やかに輝いている。

眉は細く、瞳には意志が満ちていて、さぞ女生徒に人気があるのだろう。

それでも、自分には縁がないと考えた龍麻は大して関心を払わなかったが、

彼の持っている長い包みには見覚えがあった。

 その包みの本来の持ち主が、龍麻の横で驚いた顔をしている。

「え? ……あ、弓、わざわざ持って来てくれたの?」

「いや、ついでがあったからね」

「そッ。広告費の打ち合せをね」

「広告……って真神新聞の?」

 広告、ということは店なり商売なりを行なっている訳で、

途端に好奇心も露に口を挟んだ龍麻に、杏子はどことなく嬉しそうに説明した。

「そっか、皆は初めてだったわね。こちら王蘭学院高校の如月翡翠クン。

新聞部の広告主なのよ」

「如月って、如月骨董品店か!?」

 龍麻の驚きは演技ではなかった。

アン子に売りつけられた真神新聞に、ラーメン屋の王華と共に毎号広告を出しているのが

如月骨董品店で、高校生とは縁のなさそうな商売がなぜ、と疑問に思っていたのだ。

「あァ。祖父の店だが、今は僕がひとりでやっているんだ」

「凄いな」

「大したことじゃないさ」

 謙遜してみせる如月だったが、龍麻の尊敬の眼差しを受けて

まんざらでもないようだった。

 彼と出会ってから一度もそんな視線を貰ったことなどない京一が、

面白くなさそうに呟く。

「しっかしよ、なんでよその高校の新聞に広告なんぞ出してるんだ?」

「ははッ、真神学園はお得意様なんだよ。弓道部がある高校は少ないからね」

「うンッ、如月クンとこは腕がいいって、もう皆調整お願いしてるんだよ」

 アン子と同じく嬉しそうに説明する小蒔に、ますます京一が渋面を作る。

すると、その渋面が伝染したかのように如月までもが同じ顔をした。

「ところで桜井さん……今回は直ったけれど、あまり無茶な使い方をしないでくれよ」

「あっ、うん……ごめんね」

「いや、僕がこんな事を言えた義理でもないんだが、

あれは普段から大切に使われているのが良く解る弓だからね。

壊したら勿体無いと思ってね」

 さすがに骨董品を扱うだけあって、物に対する愛着が強いようだ。

しかし如月は店の切り盛りだけでなく弓の修理まで出来るらしい。

恐らく同じ歳なのに自分にないものを多く持っている男に、

龍麻は改めて感心していた。

そんなことを考えて如月を見ていると、視線の先にいた人物と目が合った。

眼光がどこか値踏みしているように見えるのは、

今聞いた彼の職業が影響を与えているのだろうか。

「君が……緋勇龍麻君だね」

「ああ……どうして俺の名前を?」

「真神新聞は僕も愛読していてね。君の特集を読ませて貰ったよ」

「……そうか。改めて、よろしく」

 龍麻は転校直後からアン子に執拗に迫られて、ついに不覚にも取材されてしまい、

自分の顔写真が一面を飾った真神新聞を見て頭を抱えた記憶が蘇った。

たった四ページほどしかない新聞といえど、真神學園内での影響力は絶大で、

しばらくの間、廊下を歩くだけで騒がれるという、

ほとんど珍獣のような扱いを受けたのは、一生の不覚といってよかった。

 如月には何の罪もないことながら、嫌な記憶を蒸し返されて、

龍麻はやや憮然としている。

そんな龍麻を値踏みするように見ていた如月は、龍麻が真っ向から見つめると、

さりげなく視線を外した。

「あァ。……君とはまた、近い内に会うかもしれないな」

「……?」

「いや、こっちの話さ。用事も済んだし、それじゃ僕はこれで」

 最後は何故か龍麻が聞きとれないほどの小さな声で呟いた如月は、

不思議そうな顔をする龍麻に軽く手を上げると、

奇妙に足音を立てない足取りで去って行った。

「如月……ね。なんかちょっとスカした感じがする野郎だな」

「あら京一、僻んでるの?」

「なんで俺が僻まなきゃならねぇんだよ」

「だって、如月君はアンタと違ってモテるし」

 杏子の言葉は中心を射抜きこそしなかったものの、かなり近い所に刺さったらしく、

京一は露骨に嫌そうな顔をした。

「ケッ、勝手に言ってやがれッ。あーあ、ッたく、うるさいのが来ちまった」

「何よ、辛気くさい顔して。あんたはのーてん気さだけが取り柄なんだから」

「俺はお前と違って悩み多き高校生なんだよ」

 京一の悩みなど、食べ物か、女か、金か──

少なくとも深刻なものはそこにはないだろう。

冷ややかな視線で友人を見た龍麻は、同じ種類の視線があと二本

向けられているのを見つけ、その視線を放った二人と顔を見交わし、

京一に気づかれないよう静かに笑った。

 放っていない二人のうち、眼鏡をかけた方は、今回は視線だけでは飽き足らず、

論戦を張ることにしたようだ。

「あら、失礼ね。あたしだって悩みくらいあるわよ。

たまには目覚ましや原稿から離れて思いっきり寝たい時だってあるんだから」

「勝手に寝りゃいいじゃねェか」

「だからあんたはのーてん気だって言われんのよ。

あたしには、記事を待ってる読者がいる。

そう考えたらとてものんびり寝てなんかいられないでしょ」

 アン子の理屈は傍で聞いていても勝手なものに聞こえたので、

龍麻はしばらくあらぬ方を向いていることにした。

嵐が来るのが判っているのに、船を出す必要はない。

案の定、二人の会話はあっと言う間に小学生のレベルにまで落ちている。

「じゃあ寝なきゃいいだろ」

「死んじゃうでしょッ! あんた、あたしのこと何だと思ってんのよッ。

……もう、バカと話してたら眠くなってきちゃったじゃない。

昨日だって一晩中原稿書いてたから眠くてしょうがないのに。

……緋勇君だって一日中寝てたい時だってあるでしょ?」

「まあ、あるな」

 アン子に逆らうのは愚かしいと学んでいる龍麻は、適当に合わせた。

機関砲のごとき反論を浴びるのは、精神的にかなり辛い。

「でしょ。寝て起きたら次の日だったとか、憧れちゃうわよね」

「お前の憧れってそんなんなのかよ……」

 京一は器が小さい、とでも言うように吐き捨てたが、

これはこの男が幾度となく「寝て起きたら次の日」を体験していて、

そんなものに特にありがたみを感じていないからだった。

「でも、夢も見ないでゆっくり寝たいって、ボクも思うなぁ。

昨日の夜変な夢見ちゃって、寝不足気味なんだ」

 小蒔が自分の言葉に誘われるように目をこする。

「ふーん。変ってどんな風に?」

「えっとね。……目の前に道があって、ボクはどこかへ行こうとその道を歩くの。

しばらく行くと道がふたつに分かれてるんだけど、

もうちょっと行くと開けた場所があって、目の前には乗り物が一杯あるんだ。

列車と飛行機……バイクもあったかな。

それで、どれに乗ろうかすごく迷ってて、えっと……そっから思い出せないや」

「なんだソレ? また適当な夢だな」

 いかにも興味なさそうな京一を無視して考えこんでいた小蒔は、

上に向けた掌を拳で叩くという古風な動作をして、話を続けた。

「あ、そうそう、それで結局何にも乗らずに歩いて行ったんだ。

でもその道が長くてね、途中で疲れて目が覚めちゃった」

「疲れて……か。桜井、何か悩みごとでもあるのか? ストレスが溜まっているとか」

「へ? ううん、別に。考えすぎだよ、醍醐クンは」

 たまたま昨日見ただけの夢で、妙に皆の関心を誘ってしまい、

小蒔は慌てて手を振った。

それまでじっと聞き入っていたアン子が、重々しく語りかける。

ただしそれはあくまでもアン子本人が重々しいと信じているだけであって、

他の人間はまたやっかいな展開になりそうだ、と感じただけだった。

「あら、そうとも言いきれないわよ。

夢って心の奥にしまわれた意識の象徴だって言うし」

「相変わらず大げさだな、アン子は。夢なんてガラクタの寄せ集めだろ?

ンなもん気にしてたらおちおち眠ってもいられねぇ」

「そりゃのーてん気なあんたは夢ものーてん気なんでしょうけどね。

いい? 昔から夢は神のお告げ、魂の働きって言われてたのよ」

「夢占いってやつ?」

 口を挟んだ小蒔にアン子は頷いた。

「そう、そういうのをひっくるめて幻象心理学って呼んだりもするんだけど、

誰でも簡単に判断できるようになってる本も結構あるわよ。

例えば、桜井ちゃんの夢だと」

「なになに? アン子ってそんなんも出来るの!?」

 小蒔も女の子のご多分に漏れず、占いだの心理学だのが好きなようだ。

目を輝かせて食いついてきた小蒔に、アン子はわずかに小鼻を膨らませて講釈を始めた。

「かじった程度だけどね。まず、出かけるって言うのは旅立ちとか、

人生の漠然とした予告なの」

「ふーん……乗り物は?」

「乗り物は、確か……その人の人生の過ごし方や、

行動の仕方を表わしていたと思ったわ。列車はレールに乗った無難な人生。

バイクは機動性と自由、危険。飛行機は解放」

「歩きは?」

「そこが桜井ちゃんらしいって言えばらしいんだけど、

歩くってのはまさに、何にも頼らずに自分の力で人生を切り開くってこと」

「へへッ、ちょっと照れるね」

「でも、途中で目が覚めたってことは、人生に迷いがあるのかも」

 迷い、と言われて小蒔には思い当たる節があったようだ。

腕組みをして、気乗りしない口調で呟く。

「うーん……言われてみれば、進路指導がもうすぐ始まるしね。

でも自分が何したいか、まだ良くわかんなくて」

「まぁ……そうよね。普通は漠然と大学行こう、とかそんな感じよね」

「進路……か。確かに、考えなきゃならんことだな。美里は進学だろう?」

 小蒔から醍醐へと伝染した表情が、今度は葵のところに行く。

「えぇ。でも……正直言ってアン子ちゃんが言った通り、

漠然と大学に行こう、としか考えてないわ」

「そうだよねぇ。アン子も進学だっけ?」

「まァね」

「緋勇、お前はどうなんだよ」

「進学だな」

 短く答えて龍麻は隣の醍醐に視線を移した。

「俺か? 俺は多分進学はしないな。もう勉強はこりごり、というのが本音だよ。

京一は……聞くまでもないか」

「ったり前ェだ。誰がこれ以上勉強なんぞするかッ」

「別に威張って言うことじゃないぞ、京一」

「夢……か。皆イロイロだよね。でもそういうのってさ、なんか……いいよね」

あと何ヶ月か後には、皆バラバラの人生を歩み始めるのだ。

それは奇妙な感慨を一同に与え、友人達の将来の姿を想像してみたりして、

少しの間沈黙が輪の中心に舞いおりていた。

 その沈黙を破ったのは、アン子だった。

「……夢は、いつか醒めるから夢なのよね。それがもし……醒めなかったら」

「なんだよアン子、急に不吉なこと言い出して」

 わざとらしく声を潜めるアン子に、京一がうんざりしたように応じる。

京一は彼女が持ちこんでくる話は大抵がロクでもないものだと信じており、

また、それは八割方において事実であった。

「最近墨田区周辺で起こってる事件、知ってる?」

「……原因不明の突然死や謎の自殺ってやつか?」

「ええ」

「それが夢と何の関係があるんだよ」

「まさか、また──」

「まだ判らないわ。でも、この一週間で六人……普通じゃないでしょ?

警察もハッキリと公表はしてないけど、あたしの仕入れた情報によれば、

死んだ人間には奇妙な符合があってね」

 アン子が言葉を切ったのは、喋り続けて疲れたというだけではなかった。

軽く唇を舐め回しながら上目遣いで一行を見渡したのは、

何かを待っているようにも見える。

気づきはしたが自分で言う気はない京一が、肘で龍麻をつついた。

「ほれ緋勇、お前の出番だよ」

「……符合って?」

 他人の思惑に乗るのは嫌な龍麻だったが、ここは仕方がない。

アン子が持っているであろう情報には、龍麻も興味があった。

 龍麻が訊くと同時に、アン子は語りだした。

「一見何の関係も無い彼らを繋ぐキーワード……それは、夢」

「夢?」

「そう。夢を見ながら死んでいく人。夢を残して自ら命を絶つ人。

全ての人が夢に関わってその命を落としているわ」

「どういうことだ?」

「前の日の夜まで何にも変わりなかった人が、

朝布団の中で冷たくなって発見されたこと。

自殺者の中に、夢に悩まされていた人が多かったこと。

中には夢見のせいで、気が狂って自殺に及んだ人もいるわ。

──そして、その全ての事件は墨田区とその周辺で起きている」

 どこで調べてくるのか、アン子の取材能力に一同は感嘆するばかりだった。

よほど強力な人脈を持っているとしても、

一介の高校生が調べられる範囲は超えている。

アン子はジャーナリスト志望だと言うが、

今すぐにでもなれそうだと龍麻などは思うのだった。

 話を終えたアン子に、小蒔が小難しい顔をして腕を組んでみせる。

「謎の多い事件だね」

「犠牲者は墨田区に住む者。そして真実は夢の中に隠されている……か」

 小蒔の後を引きとって醍醐が言うと、京一が肩をすくめた。

「馬鹿言うなよ。ンなもん、証明のしようがねえじゃねェか」

「そうね。警察も今の段階ではお手上げみたい」

 そもそも死因がそれぞれ異なっており、共通点が見出せない。

夢というキーワードも、捜査に関しては素人である杏子だから気づいたのであって、

警察がそんなところに着目するとも思えないし、

したとしてもそんなあやふやなものを捜査の起点にするはずもないだろう。

 眉をひそめて考えこんでいた小蒔が、何かを思い出したように目を見開いた。

「そういえば……犠牲者って学校関係者や、ボク達と同い年の子が多いよね」

「そう。……他人ごとじゃないでしょ」

「渋谷の時みたいに、また誰かがやってるんだとしたら──ん? 葵、どうしたの!?」

 小蒔の声が終わらないうちに、葵の身体がゆっくりと崩れ落ちた。

そこだけ時間の流れが違っているかのように、長い黒髪の一本一本がふわりと舞う。

あまりに幻想的な光景に立ち尽くすだけの一行の中、

龍麻だけが支えることができたのは、弱まっていく彼女の氣に気づき、

ずっと気配をうかがっていたからに他ならなかった。

「葵ッ!」

 小蒔の叫びで現実へと舞い戻ったかのように、

抱きとめた龍麻の腕に、ずしりとした重みが加わる。

それは、葵の身体に全く意志が宿っていないことを意味していた。

龍麻の腕の中で、葵は完全に気を失っている。

「やはり、よほど調子が悪かったんだな。無理にでも帰しておくべきだったか」

「ボクが……ボクが調子に乗って夢の話なんてしたから……」

 冷静な醍醐と対照的に、小蒔はうろたえていた。

「桜井のせいじゃない」

 強い調子で否定する龍麻に頷きはしたものの、

彼女は心ここにあらずといったように気を失っている葵を見ていた。

「そうだ、大体んなコト言ってる場合じゃねぇだろ。とりあえず保健室に運ぼうぜ。

緋勇……っと」

 京一が言い切る前に、龍麻は葵を抱きあげていた。

微塵も恥ずかしさを見せない龍麻に、軽い口笛を吹きかけた京一は、

さすがにそのような場合ではないと思ったのか、

木刀を担ぐと保健室へと先陣を切って走りだした。

 先頭の京一に葵を抱きあげた龍麻が続き、両横を小蒔とアン子が挟む。

醍醐が後衛となって進む、異様な迫力で廊下を走る六人は、

近くにいる生徒たちの騒ぎを波のように引き起こしながら走っていた。

 龍麻の横から小蒔の声が聞こえてくる。

そこには親友の言葉を信じてやれなかった後悔が、苦いスパイスとなって含まれていた。

「……葵、笑って言ってたから、その時は気にしなかったんだけど、

最近、よく怖い夢を見るって言ってたんだ。起きた時にはもう覚えてないんだけど、

でも時々眠るのが怖いくらい……って言ってた」

「……桜井ちゃん、それって……いつ頃から?」

「確か──墨田区にあるおじいさんの家に遊びに行った頃からだって」

「墨田区だと? まさか……」

 墨田区、という単語に醍醐が顔色を変える。

まさにたった今、その場所で起こっている怪奇な事件について話し合ったばかりなのだ。

「その可能性もあるわね。

……もしそうなら、保健室よりも霊研でミサちゃんに診てもらうのはどう?」

「何言ってんだアン子! 美里は突然倒れて意識が無いんだぜッ!?

まず医者に診せるのが筋だろうが」

 ミサ、と言う名前を聞いて、反射的に京一が反発する。

しかし、アン子は落ち着き払って答えた。

「馬鹿ね。こういう時だから当てになるんでしょ」

「でも……もし大変な病気だったりしたら……ね、緋勇クンはどう思う?」

「どっちにしても寝かせる必要はある。遠野、裏密を保健室へ連れてきてくれ」

 素早い決断にアン子は感銘を受けたように頷いた。

「待っててッ、すぐ連れてくるわッ」

「──ッたく、知らねぇぜ俺は」

 医者は嫌いだが裏密も苦手である京一は、はっきりとうさんくさそうにしていたが、

龍麻に異は唱えなかった。

 保健室に到着した一同だが、あいにく保健医は席を外しているようで、

室内には誰もいなかった。

「もうッ、なんで肝心なときにいないのさ」

 肩をいからせながら、それでも小蒔は葵のために手早くベッドを整える。

龍麻が葵を下ろし、寝かせてやると、葵の髪を整え、布団をかけてやった。

「葵……大丈夫だよね、すぐに良くなるよね」

 独語ともつかぬ小蒔の問いに、男たちは答えない。

ただの疲労ならば良いが、先ほどの墨田区の話がどうしても脳裏をよぎってしまうのだ。

原因は不明であるにせよ、眠っているうちに衰弱してしまうなどという症状には、

三人とも手のうちようがなかった。

「こっちよッ!!」

 保健室の扉が勢い良く開き、アン子が飛びこんでくる。

彼女の後ろから、裏密ミサが続いて現れた。

水晶玉を手にしたミサは、龍馬たちに開口一番告げた。

「うふふふふ~。精神的緊張のアスペクトが天蠍宮と双魚宮を結ぶとき~、

囚われの精神は悲しみの闇に沈む~。決して醒めぬ、夢の迷宮~」

「ミサちゃん……まさか」

「あたし達の言いたいこと、解ってるのッ!?」

 小蒔とアン子が異口同音に叫んだ。

 相変わらずオカルトがかった──実の所、

オカルトがかっているかどうかさえ解らない──

ミサの言いまわしは難解ではあったが、はっきりと今の状況を言い表していた。

やや時間差はあったものの驚く一行に、ミサは妖しい光を放つ水晶を指し示す。

「うふふ~。この前インターネットで買った、このウァッサゴの水晶~、

これでみんなのこと覗いてたんだ~。また今度~、

緋勇く~んの未来も覗いてあげようか~?」

「俺のことより美里を視てくれ」

「うふふ~、緋勇くんは意外とせっかちなのね~」

 冷淡な龍麻にも機嫌を損ねることなく、葵の前に座ったミサは、

水晶玉と共に持ってきた人形の中から何か、レンズのようなものを取りだすと、

それで葵を覗く。

全員が息を呑む中、古今東西の霊的現象に通じた少女は、やがて厳かに告げた。

「う~ん、キルリアン反応が弱まってるね~」

「キル……なに?」

 全く聞いたことのない単語を、小蒔は戸惑いつつ訊ねる。

「人の体から放射される、放射光のことよ~」

「それが弱まると何かマズいの?」

「要するに~生命エネルギーのことだから~、それが弱くなるってことは~」

 即ち衰弱を意味していた。

肉体が病気になればもちろんこの反応は弱まるし、

逆に、何らかの理由で精神の方からこの反応が弱められると、

それが身体にも影響を及ぼす。

そして今の葵は、後者の方であるらしかった。

小蒔とアン子には良く解らないようだったが、

生命力と密接に関係する、氣を操る武術を使う龍麻、

そして醍醐には何となくであっても理解できた。

京一も氣は操るのだが、理論を全く学ぼうとしないのと、

ミサの話は最初から縁遠いものと考えているため、小蒔達と同じく解っていなかった。

 とにかく、やはり普通の病気ではないらしい、ということだけは解った小蒔は、

今度はその原因をミサに訊ねる。

「でも一体なんで?」

「ちょっと待ってて~」

 レンズをしまったミサは、先ほどのウァッサゴの水晶とやらを葵の前に置いた。

そして、更に怪しい道具を並べ、はるかにいかがわしい手つきで何かの型を作っている。

それはまさしく呪術的と呼べるもので、一同の中には一抹の不安を覚えた者もいた。

その不安を先取りするように、水晶玉を見つめたままミサが呟く。

「これからするのはね、いわゆる水晶を媒介にした透視術のひとつなの~」

「は……?」

「まず、あたしの霊魂を二分化して、その片方を葵ちゃんの意識に同化させるの~。

上手くいくと、あたしの視たものがこの水晶に映し出されるの~」

「……」

「……」

「それじゃ、始めるよ~」

 もはや誰も何も言おうとはしなかったが、直前になって、

小蒔がごく基本的なことを問いただした。

「ちょ、ちょっと待って。葵に危険はないんだよね?」

「うん~、安心して~。説明書によると~、この術で廃人になった被術者は~、

世界中合わせても~、過去に六人しかいないから~」

「六人──!? 待って、ミサち──」

「邪魔しないで~、精神集中が乱れると~、危険だから~。

……ケペリ・ケペル・ケペルゥ……我生まれし時、生成りき……

ケペル=クイ・ム・ケペルゥ・ヌ、我、始源の時に成りませる……」

 日本語ではない、ということしか解らない、謎の言語をミサが発する。

すると、龍麻は微かな耳鳴りを感じた。

それと共に、水晶に変化が訪れる。

「お、おい、水晶に……」

「美里ちゃんだわ。でも、これって……」

 水晶に映し出された葵は頭が下がっていて、気を失っているようだった。

それよりも異様だったのは、彼女の両腕は、

ほぼ肩と同じ位置で真横になっていることだった。

水晶の縁の方は像がぼやけてしまってはっきりとは判らなかったが、

それはまるで──磔にされているようだった。

これが葵の意識だとしたら、一体どういうことなのだろうか。

「一体……」

 立ちこめた重苦しい空気を払うように小蒔が口を開く。

その途端、部屋を圧する大きな音が響き渡った。

目の前の小さな水晶が砕けた音だと判ったのは、しばらく経ってからだった。

それほどに大きな音だったのだ。

「あららら~」

「ミサちゃん! 大丈夫?」

「す……凄い力~」

 ミサが驚いているところを見ると、これは彼女にも予期せぬ出来事だったようだ。

見た所破片も刺さってはおらず、何も起こっていないように見えるが、

それはもちろん事態が好転してもいない、ということでもあった。

「一体、何が起こったんだ? いきなり水晶が割れて……」

「う~ん、どうやら、覗いてたのが見つかっちゃったみたい~」

「見つかったって……誰に?」

「そこまでは~、わかんない~。葵ちゃんの深層意識に、誰かが侵入しているみたい~」

「深層意識に……侵入してる?」

「まさか……新しい……敵?」

 今葵の身に起こっているらしい事態は、もはや理解出来る限界を遥かに超えていたが、

この四月からその手の脅威に立て続けに遭遇している龍麻達は、

等しく思い浮かべる物があった。

『力』。

人知を超えた異能が、また関わっているのだろうか。

しかし、その答えはミサでさえも持っていないようだった。

「とにかく~、あたしの力じゃこれが精一杯なの~、ごめんね~。

でも、その代わりに~、良い所を紹介してあげる~」

「良い所?」

「うん~、誰か、桜ヶ丘中央病院って知ってる~?」

「桜ヶ丘……?」

「聞いたことないわね」

 まだ新宿に来て日が浅い龍麻はもちろん知らなかったし、

醍醐や小蒔、それに杏子もお互いに顔を見合わせている。

どうやら誰も知らないらしいその病院の名前に反応したのは、意外な人物だった。

「さッ、桜ヶ丘だとォッ!!」

「京一くん~、知ってるならそこの院長を訪ねてみて~」

「い、院長ッ! 冗談じゃねェ、死んでも嫌だぜ」

 唾を飛ばして拒絶する京一に、皆あっけに取られている。

風邪はもちろん、病気が避けて通りそうなこの男が病院の、

しかも院長とどうやら見識があるらしい。

「京一……知り合いなの?」

「知り合いだとォ! そんなケガラワしい」

「なにそれ?」

「そこの先生なら~、きっと葵ちゃんを治してくれるはずよ~。

桜ヶ丘中央病院は~、霊的治療と言って~、普通の医学では解明できないような~、

魂と氣に影響する病気を治療してくれる病院だから~」

「霊的治療?」

「京一くんが~、詳しいみたいだから~、連れてってもらうといいよ~」

「な、なあ裏密。他はないのかよ。

何もその霊的治療ってのが出来るのはそこだけじゃねェんだろ?」

 食い下がる京一に対するミサの答えはすげないものだった。

「うふふふふ~、でもあそこの院長先生は~、世界的にも有名なのよ~」

「……なんだか良く解らんが、美里が助かると言うのなら行かない訳にはいかんだろう」

「そういうこと~。急いだ方がいいよ~。

あと、役に立てなかったお詫びに、これあげる~」

 やや狐につままれた様子ながら結論をまとめた醍醐に頷いたミサは、

再び人形から何やら取りだして龍麻に手渡す。

それは古ぼけた一枚の札で、表には朱墨で何か書いてあり、

手にするとひんやりとした感触がした。

「……札?」

「持ってるだけで~、呪いから身を護ってくれるの~。それじゃ、気をつけてね~」

「とりあえず、礼は言っておく」

 もう少し役に立つ、せめて解決の糸口くらいは掴めるものと思っていた龍麻は

落胆を押し殺しつつ、それでも手間をかけてくれたことには感謝した。

ミサの水晶玉がいきなり割れた事例からしても、

何者かが『力』で葵に干渉しているのだけは確実となった。

「うふふ~、そんな改まって言われると~、ミサちゃん照れちゃう~」

「緋勇クン、行こう」

「ああ、それじゃ裏密、また」

「じゃ~ね~」

 わざわざ廊下まで出て手を振ってくれるミサに頷いた龍麻は、

葵を抱きかかえる自分に向けられる奇異の視線をものともせず、

可能な限りの速さで病院に向かって歩き始めた。

 

 桜ヶ丘中央病院の前に龍麻達は来ていた。

ミサの地図は正確で、迷いもせずに着くことができたのだが、

正直言って、誰もが不審と不安の色を隠せなかった。

「ここが……桜ヶ丘中央病院か」

「新宿に、こんな病院があったなんて」

 小蒔の言葉に、全員が同意していた。

表から見える建物はさほど小さな物ではなく、前を通れば簡単に気づきそうなのだが、

奇妙に存在感を感じないのだ。

古びている訳でもなく、看板もちゃんと出ている。

それなのに、まるでその病院を探している者にしか見えないというような印象だった。

 珍しく先頭に立っていない京一が、気のない声で告げる。

「こんなトコに来るヤツは正気じゃねぇからな。

ここは化け物の棲み家なんだからよ。お前らみんな、食われちまうぜ」

「京一さっきから何言ってるの? もともとおかしいけど、もっとおかしいよ」

「うむ……京一が馬鹿なのは今更だが」

 顔も声も不吉なものにして脅す京一を、一行は集中攻撃する。

なかでも天敵とも言えるアン子の舌鋒ときたら、

うかつに触れたら切り刻まれた挙句に海の藻屑と消えてしまいそうなほどだ。

「なんかビビってるみたいよね。あんた、その院長先生とやらに会ったことがあるの?」

「……前に一度だけ」

 絞りきった雑巾をさらに絞ったような苦渋の返事にも、アン子は容赦しなかった。

「だったらとっとと案内しなさいよッ!」

「馬鹿野郎! お前らみんな、解ってねェんだ。ここの院長の恐ろしさをよ。

なぁ緋勇、お前だけは信じてくれるよな」

「いいからさっさと入れよ」

 龍麻の言葉は冷たく短い。

仮にも葵の生命がかかっている問題なのだから、

与太話につきあっている場合ではないのだ。

 一方、唯一の味方に見放された京一は、ついに激昂した。

「あぁそうかよッ。だったら一人で行きやがれッ。

一度捕まったら最後、お前も餌食になるんだからよ」

「なんだ、お前はそのバケモンに襲われでもしたのか?」

「うッ……」

「図星か……」

 それでもなお病院に入ろうとしない京一に、小蒔までもが怒りはじめた。

「いい加減にしなよ京一ッ! キミの泣き言に付き合ってるヒマはないんだよッ!

その院長センセがどんな人だか知らないけど、

キミが犠牲になって葵が回復するんならボクは迷わずそっちを選ぶよッ!」

「はい、決まりね。さ、入りましょ」

「くそォ、てめぇら、この鬼がッ!」

 なお喚く京一に、もはや誰も一顧だにすることなく建物の中へと入っていったのだった。

 

 あまり大きくもない病院の中は、静まりかえっていた。

患者どころか、受付の看護婦さえもいない。

灯りだけが点っているその様は、有名な消失事件、

マリーセレスト号を思わせるものだった。

それにしても、人気の無い病院や学校というものは、

どうしてこんなに不安をそそるのだろうか。

なんとなくうそ寒いものを感じた一行は、積極的に奥に入ろうとはしなかった。

「あら? ちょっと、誰もいないじゃない。ほんとに営業してるの?」

「とにかく、呼んでみよう。──すいません、誰かいませんか?」

「返事がないね……」

「それにしても、なんで誰もいないのよ。──ごめんくださーいッ、急患ですよーッ」

 あまり病院には似つかわしくない声で、アン子が奥に向かって呼びかけている。

アン子の言う通り、患者はおろか、受付さえも誰もいないのは明らかに奇妙だった。

本当にミサが言ったのはここだったのか、不安になりながらもアン子は声を張り上げた。

かすかな反響音を残して建物全体に声が染みわたり、再び静寂が訪れようとする寸前、

かん高い声が奥の方から返ってきた。

「は~い、今行きま~す」

「あッ……良かった、いるみたい」

 とにかく人がいたことにほっとした一行だったが、

それも一時のことで、すぐに不安に取って替わられてしまった。

パタパタという、音だけは小気味良いスリッパの音を立てて奥からのんびり現れたのは、

およそ看護婦というイメージからは程遠い女性だったからだ。

 明るい茶色の髪は長く、しかも巻き毛になっている。

やや目尻の下がった眼には泣きぼくろがあり、

厚い唇は口紅など引いていないのに鮮やかな紅をしていた。

しかもその派手な顔立ちを支える身体も、

京一などが思わず視線を釘付けにしてしまうほど突き出た胸に、

やはり大きく丸みを帯びた尻。

そしてそれらを包む看護婦の制服はやけに丈が短く、太腿が露出してしまっていた。

目のやり場に困る彼女が本当にここの看護婦なのか、

咄嗟には判断できず固まる龍麻達に向かって、少女は屈託の無い笑顔で出迎えた。

「いらっしゃいませ~ッ、ご用はなんですか~」

「いらっしゃいませ……? 最近は病院もそう言うのか?」

「さ……さぁ」

 なるべく彼女の方を見ないようにしている醍醐に聞かれたアン子も、

そう答えるのがやっとだ。

「あの、ボクたちは……」

「あはァ、お友達がたくさん。舞子、うッれしい~」

「急患なんだが、至急院長に取り次いでもらえないか?」

「わあ、どこの制服かな~? とってもオシャレ~。

久しぶりのお客様だから、ゆっくり遊んでいってね」

 全くマイペースで話す少女に、すっかり毒気を抜かれた一同、

特に京一などは危うく頷きかけてしまう。

「お、おい。緊急の患者なんだが」

「えッ? うふッ、わかってま~す」

 醍醐にそう答えた看護婦は、明らかに解っていなかった。

「……! 落ちつけ、緋勇」

 笑顔を浮かべ、心から楽しそうにしている目の前の女性に、

龍麻の拳がひとりでに固まる。

それに気づいた醍醐が、慌てて龍麻の腕を抑えた。

制服の内側で張り詰めている筋肉に驚き、抑える力を強める。

それをも弾き飛ばそうとするかのように龍麻の腕は震えていたが、突然、

その揺れが大きなものになった。

「……!? な、なんだ、この音は」

「じッ、地震!?」

「……とうとう来やがったか」

 地震というには規則的な振動に驚く一同の中、

京一だけがこれから現れるものを知っているのか、ぽつりと呟く。

その語尾を叩き潰すように、辺りの空気を鳴動させる大声が五人の鼓膜を撃った。

「うるさいぞ、このガキ共ッ!! ここは病院だ、静かにしろッ!!」

「なッ──」

「すごい声……」

(桜井ちゃん、声だけじゃないわよ、すごいのは)

 思わず声に出していた小蒔に、アン子が囁く。

それももっともなことで、龍麻達の前に現れたのは怪人、と呼ぶに相応しい人物だった。

 分類するなら女性ということになるのだろう。

豊満をはるかに通り越して、巨漢と形容するしかない肉体は、

京一と同じか、もしかしたらわずかに高いかも知れない身長に、

醍醐を遥かに凌駕する肉が付いている。

身体と同じく脂肪に囲まれた顔には不釣合いなほど優しげな瞳があったが、

この中で一番小さい小蒔など、片手でひねり潰されてしまいそうな迫力だった。

「なんだ、お前達は。わしはここの院長の岩山たか子だ」

 腹の底から響く声で面白くもなさそうに問いかけられ、

怒っていた龍麻も圧倒されて黙ったままだ。

互いに誰が最初に名乗りをあげるか役目を押しつけあっていると、

場に全くそぐわないかん高い声が辺りに響いた。

「ちなみにわたしは看護婦見習いの高見沢舞子で~す。

まだ看護学生なので半人前で~ッす」

「看護学生?」

「そうで~す。二丁目にある鈴蘭看護学校に通ってま~す」

 訊ね返した京一に、舞子と名乗った女性は嬉しそうに答えた。

すると、彼女の上司がぶっきらぼうに会話を遮る。

「高見沢、お前は黙ってな。話が進まん」

「は~い」

「……で、何の用だ。ここは産婦人科なんだが、お前らの誰かが妊娠でもしたのか?」

「産婦人科?」

 龍麻達は揃って首を傾げる。

何しろミサに紹介されたほどなので、普通の、

しかも産婦人科などとは思ってもいなかったのだ。

「表に書いてあっただろうが。まぁ多少なら急患も診るがな」

「この人を診て欲しい」

 龍麻が一歩前に出ると、横幅なら醍醐を優に超える巨体の院長は、

ソファに横たわっている葵には一瞥をくれただけで後は龍麻をじろりと見た。

「その制服……真神か?」

 予想外の質問に、龍麻は返事ができない。

すると、龍麻のそれとほぼ等しい位置にある口から、

いやにねっとりとした声が流れてきた。

「名前は?」

「……は?」

「名前だよ、名前。何て名前なんだい、ボーヤ」

 矢継ぎ早に出される質問に、龍麻の困惑は深まっていく。

医者ならそんな質問よりも先にやることがあるだろうと怒鳴りたいのを堪え、

龍麻は答えた。

「緋勇龍麻」

「緋勇……龍麻ねぇ。あんた、何か武道をやってるね。わしには解るよ。

その鍛えた上腕ニ頭筋や三角筋を見ればねぇ。

後で是非他の場所も見せて欲しいもんだねぇ」

 たか子は何とも形容しがたい笑みを浮かべ、遠慮なく龍麻の身体を視姦する。

絡みつく好色そうな視線に、龍麻は眉を跳ね上げることで応えた。

葵を診てもらう、という目的がなければ、実力行使も辞さないつもりだった。

 だが、並の不良などでは眼光だけで恐れをなして逃げだすであろう眼光にも、

たか子は怯むどころか、肉の旨さを吟味する美食家のような目で応じる。

これには龍麻も怖気を覚えるほかなかった。

「や~ん。院長先生のえっちィ~」

「お黙りッ。……おや? そこのデカいのも良く引き締まっていて

美味しそうな身体じゃないか。名前は?」

「だッ、醍醐雄矢と言います」

「わぁ、醍醐くん!? 強そうな名前。ねェ、院長先生」

「……その身体、見せかけじゃないんだろう? お前も何か武道をやっているな?」

 新たな犠牲者も上体を軽く仰け反らせている。

不幸な仲間が出来たという後ろ向きの連帯感が龍麻に芽生えたが、

とにかくこの場は完全にたか子のペースに支配されてしまっていた。

真神が誇る番長格の男と、いずれそれに劣らない名声を確立するだろう男が、

逃げださないのは隣の奴が逃げないからだ、という所まで追い詰められている。

 その、真神学園を一人で壊滅に追い込んだ強者は、

醍醐の制服の向こうに、更に新たな標的を見つけたようだった。

「……おや? その後ろに隠れてるのは京一じゃないかい?」

「ひッ、人違いですッ」

 うわずった京一の声に、真神學園の生徒全員が驚く。

ヤクザに囲まれても絶対にそんな声など出さないであろう無頼漢が、

悪戯を見つかった犬のように萎縮していた。

「ヒヒッ、隠れてないでその愛らしい顔を見せておくれ」

 釈迦に対する孫悟空──とでも言うべきか、傍若無人な京一も、

たか子に対しては為す術がないようだった。

京一は龍麻に視線で助けを求めたが、

まだつきあいは浅くても、その人となりは信頼できるはずの友人は、

庇うどころか犠牲は免れたと露骨に安堵していた。

「うッ……」

「久しぶりだねェ。ヒヒッ、男ぶりが一段と上がって。

ほれ、もっとこっちに来ておくれ」

「い、いえッ、僕はここで結構ですッ」

 題醐までもが身体をずらして前に押し出そうとするので、

京一は必死に巨躯の陰に隠れなければならなかった。

三人は互いに身体を押し合い、

これほど真剣さと滑稽さを兼ね備えたものはないだろうおしくらまんじゅうをする。

「僕だって……どうしちゃったの、京一」

「良くわかんないけど、面白くなってきたわね」

 歩く馬鹿の豹変ぶりに、小蒔とアン子は部外者としての好奇を隠そうともせずに囁きあう。

その間にもたか子は一歩を踏み出し、京一をその射程距離に収める一歩手前まで来ていた。

「昔のようにたか子センセーと呼んでおくれよ」

「め、滅相もないです」

「全く、お前もお前の師匠もつれないねェ。

昔は二人まとめてあんなに可愛がってやったのに」

 たか子の口から放たれた意外な言葉に、醍醐は声をひきつらせながらも、

初めて聞く悪友の過去に興味を抱いて訊ねた。

「師匠って……お前、そんな人いたのか」

「ん? ……あぁ、まあな」

 京一の返事には、明らかにその話題に触れて欲しくないという微成分が混じっていた。

それを醍醐は察したが、たか子は一向に構わず続ける。

「そういや、あいつは元気にしているのかい?」

「さ、さぁ……もう何年も会ってませんから」

「そうかい、残念だねェ。あれもいい男だったのに」

 たか子は過去を懐かしむように宙を見上げ、小さく頭を振った。

そこには今しがたまでの退廃した態度ではなく、

たいそう真摯な雰囲気がまとわりついており、龍麻達はなんとなく押し黙ってしまった。

 その空気を振り払うように、ここに何をしに来たか思い出した醍醐が口を開く。

「そ、そんなことより先生、今日は友達を診てもらいにきたんです」

「ふん、わかっておる。そっちの女だろう?」

「そうなんで──」

「お黙りッ! わしは京一に聞いとるんじゃ」

「は、はい……」

 言いかけたアン子はぴしゃりと遮られて、

しゃっくりを無理やり止められたように目をぱちくりとさせた。

有史以来初めて他人に黙らされたアン子に、小蒔も一緒になって目をぱちくりとさせる。

「ごめんね~。院長先生って女の子にはきびし~から」

「そ、そうみたい……ね」

 (ボク達、名前も聞かれてないもんね)

小蒔が耳打ちしても、アン子は頷くのがやっとだ。

そんな二人をじろりと、吠えかかる相手を見つけたブルドッグのような眼で見た

たか子は、その視線をソファに横たえられている葵に移し、

最後にもう一度京一、醍醐、そして龍麻の順番で移動させるとぶっきらぼうに言った。

「ごちゃごちゃうるさいッ。……まあいい。ほれ、さっさとこっちに連れてきな」

「それじゃ、診察室にごあ~んな~い」

 旗でも持って先導しそうな調子で告げた舞子は、

葵を抱き上げて先頭に立った龍麻の顔をまじまじと見つめた。

鼻先がつきそうなくらい顔を近づけて、砂糖づけのお菓子を想起させる声で訊ねる。

「あらぁ? あなたって、良く見ると格好いいのね。ね~、その子、あなたの彼女~?」

「違う」

 短い龍麻の返事にも、気を悪くした風もなく、舞子は、龍麻を探るように

下から見上げると全く邪気のない、そのくせ妙に色気の漂う笑顔で誘惑した。

「そうなんだ~ッ。今度は一人で遊びに来てね~」

「高見沢、早くせんかッ」

「は~い。それじゃね~」

 たか子に呼ばれ、舞子はふわりと龍麻から離れる。

蝶が舞うような軽やかな足取りは病院にはまるで似つかわしくなく、

一同は、濃度の異なる不安をそれぞれ浮かべて、

先に診察室へと入っていく彼女を見送ったのだった。

 五人は診察室の前に置かれた長椅子に座り、葵の回復を待っている。

 京一は壁にもたれて腕を組み、指で腕を叩いている。

小蒔は十秒おきに診察室の扉を見て、何も変化が起こらないことに落胆していた。

龍麻は組んだ足を一切動かさず、何事か考えに没頭していた。

「ふぅ……美里ちゃん、大丈夫よね」

「今は、先生を信じて待つしかないな」

 アン子と題醐の会話は、小声で行われているにも関わらず、病院全体に反響する。

思いのほか大きく響いた声に、醍醐は大きな肩をすぼめたが、

アン子は萎縮などせず、むしろ自分の声をきっかけにするかのように再度口を開いた。

「……そういえば京一、あんたさっき、師匠がどうとか言っていたわよね。

いい機会だから詳しく教えてよ」

 思い出さなくても良い物を、と京一は眉を曇らせる。

過去に──特に、その過去に触れられるのは、

この悩みなどないように見える男の好む所ではなかった。

「何がいい機会だってんだッ! 冗談じゃねぇ、

お前なんかに話したらあっと言う間に大事だ。

それに、ンなこたァべらべらと話すことじゃねぇよ。

……大喧嘩して別れてから、もう五年も会ってねぇんだ。今頃どこで野垂れ死んでるか」

「何よ、ケチね」

「へッ、何と言われようとお前だけには絶対教えねぇよ」

 反撃しようとしたアン子は、意外に硬い壁の存在を感じて、

不覚にも口をつぐんでしまった。

 自分の過去を語るのは好まない京一であるが、龍麻の過去に関しては興味がある。

むろん、アン子のように強引に聞き出そうとは思わない。

だが、波乱を起こすためにやって来たような男の過去に何もないはずがなく、

いずれ語らう機会もあるだろう。

……その時には、旨い酒とつまみでもあればなお良い。

「何笑ってんのよ、気持ち悪い」

 そう遠くない未来に思いを馳せていた京一は、アン子に指摘されて我に返った。

見れば龍麻を除く全員が、葵の治療中であるのに不謹慎だという顔をしている。

顔の下半分を手で隠して表情をくらませて、京一はただ一人無表情な男に話しかけた。

「……にしても、鮮やかな手並みだったな」

「何がだ」

「ん? いやァ、美里が気を失うとき、抱きとめてその上、

お姫様ダッコでここまで来たろ? ずいぶん役得だなァと思ってよ」

 話にならない、と頭を振る龍麻を、すぐに小蒔が援護した。

「あのね、緋勇クンは葵を助けてくれたんだよ?

京一なんかに抱きあげられたら、余計容態が悪化しちゃうよ」

「そうよッ、アンタみたいなのが真神の聖女に触るなんて、畏れ多いにもほどがあるわ」

「くそッ、人を病原菌扱いしやがって」

 小蒔とアン子に手厳しく反撃された京一は、憮然として壁に背中をぶつけるのだった。

 

 治療が始まってから、一時間が過ぎようとしていた。

一度は治まっていた不安も、隙間からこぼれ出した微粒子が小さな雲を作りはじめている。

その存在に最初に感化されたのは、葵の一番の親友と自らを任じている少女だった。

親指を口にあて、静かな、しかし重い息を吐き出す。

彼女のため息に反応したのは、彼女から最も離れた位置に立っていた巨漢だった。

「……ん? どうした、桜井。美里のことなら先生に任せよう」

「……うん。どうしようもないって解ってるんだけどね。

もし、もしこのまま葵が目を覚まさなかったら……ボク、怖いんだ」

 訴えるように醍醐を見た小蒔は、視線を龍麻に転じる。

「ね、緋勇クン。どうしてこんなことになっちゃったの?

葵が何をしたって言うの!? ……ボク、絶対に許さない。

葵をこんな目に合わせた奴を、絶対に許さないッ!!」

 ブラックホールめいた暗黒色をした龍麻の眼に、

裡に秘めていた彼女の感情が引きずり出されたかのようだった。

小さな身体を全て使い、満ちてなお尽きることのない怒りを露にする。

 波濤となった彼女の豊かな感情の防波堤となったのは、

彼女の隣に立つ大男だった。

「落ち着け、桜井! 今、俺達が弱気になってどうする。今は……待とう」

 自分の焦りを封じこめて醍醐が叱り飛ばす。

小蒔がすぐに収まったのは、醍醐の気持ちが伝わったからでもあったが、

無表情を崩さない龍麻に、怖さを感じたからでもあった。

 龍麻は葵のことをどうでもいいと思っているのではない。

その逆の執着が彼を静まり返らせているような気がして、一気に醒めたのだ。

 緋勇クンもきっと、葵をこんな目に合わせた奴を許さない。

そして、ボクよりも徹底的に実行するに違いない。

その感情が正しくないと心のどこかで思っていたからこそ、

小蒔は醒めることができ、同時に龍麻に怯えたのだ。

「うん……ごめんね」

 小蒔が謝ったのは、直接には醍醐に対してだったが、

むしろ成分としては龍麻に対しての気持ちの方が多かったかもしれなかった。

「それにしても……結構時間がかかるものだな」

「そうね……あれからもう二時間近くは経っているかしら」

 醍醐にアン子が応じる。

彼女は腕時計をしているにも関わらず、病院の柱に掛けられた時計をしきりに見ていた。

そのうち、見る度に位置を変える針にまで悪態をつきそうな様子だったが、

どうやら龍麻達はそれを聞かされる羽目にはならずに済んだようだった。

扉の向こうから、ようやく舞子とたか子が姿を見せたのだ。

「みなさぁ~ん。院長先生からお話があるので聞いてくださ~い」

 舞子ののんびりした口調も、龍麻達の焦慮を和らげる効果はなかった。

たか子の姿が見えるや否や、一斉に立ち上がって彼女の許に駆け寄る。

たか子の表情は顔の周りについた脂肪のせいで窺いにくく、

治療が上手く行ったかどうかは彼女の言葉に頼るしかなかった。

「せんせー、葵は!?」

 真っ先に訊ねた小蒔に、たか子は眠たげな目を向けた。

「そんな必死な顔をするな。……とりあえず、治療は済んだ。

だが──意識が、戻らん」

「──!!」

 ひと息に言い放ったたか子に、周りの空気が凍りつく。

「氣の回復は上手く行った。しかし、覚醒の段階で障害が出ておる。

何かが娘の深層意識を繋ぎとめている」

「そんな……」

「娘の意識は徐波睡眠と呼ばれる眠りの最も深い段階で留まっている。

本来なら同じ段階に意識が留まる事などあり得ないのだがな」

「じゃ……じゃあ、先生、葵は……」

 自分の言った台詞の先にあるものを想像してしまい、小蒔の声は震えていた。

龍麻たちも声には出さないものの、等しく衝撃を受けていた。

 彼らを痛ましげな目で見たたか子は、一瞬のためらいを見せた後、

彼らの最も聞きたくない未来を告げた。

「このまま目を覚まさないか、あるいは──衰弱して死ぬこともあり得る」

「そんな……ッ」

 杏子の悲鳴に疎ましげな視線を向けたものの、口に出しては何も言わず、

たか子は若者達にもう一つの未来を示唆した。

「だが、娘の意識を拐かしている者を探し、それを止めさせれば話は別だがな」

「間違いねェな……そいつも、唐栖や雨紋と同じように『力』を持った奴だ」

「うむ」

 短く頷くに留まったが、たか子は内心で驚きを押し殺していた。

……やはり、京一の身体から溢れている氣は、

京一がその力の使い方に目覚めたことを示していたのだ。

それに、この龍麻という少年。

彼が放つ氣は、尋常なものではない。

もしかしたら──

たか子はこの少年が背負っているものを思い、

誰にも気づかれないよう厚い唇の間から息をついた。

自分がこの道を選んだのと同様、誰にも替わることのできない宿命。

当人は未だ気づいてはいないようだが、それは恐らく、

自分が歩んでいる宿命よりも遥かに苛酷なものだろう。

道を、誤るんじゃないよ──

たか子はわずかな同情と、それよりは多くの共感をその瞳に浮かべた。

「で……でもさ、なんで葵が」

「そんなもの、本人に直接聞けばいい」

 そっけなく言い放った龍麻は、たか子に訊ねた。

「どんな小さなことでもいい、何か手がかりは」

 強い圧力を有する眼光を伴った、言い放った時とさほど変わらぬ冷たい口調を、

たか子は動ずることもなくその巨体で受け止めた。

「まぁ落ち着け。いいか、送られてくる氣の放射幅と方向を測定した結果、高見沢、地図を」

「はァ~い。地図地図~」

「この地図は墨田区の北から北西に位置する地域の地図だが、

氣の送られて来ている方角はこの辺りだ。ここを中心にした半径五百メートルほどに

氣の乱れが測定されておる」

「ここ、白髭……公園っていうのかな?」

「墨田か……地理が解んねぇな。まァ、行ってみるしかねェか」

 京一が提案し、頷いた一同が、さっそく墨田区に向かおうとすると、

間延びした声がかけられた。

「良かったら~、わたしィ、案内しましょうかァ? その辺りは詳しいし~」

「あァッ!?……そりゃ、駄目ってこたァねェけどよ……」

 京一は言葉を濁したものの、明らかに彼女の同行を歓迎していなかった。

これから始まるのはおそらく戦いであり、それも『力』を持っている相手とだ。

ただの看護婦である彼女が役に立つとも思えず、それに、

この脱力してしまう声は、気勢を削ぐことはなはだしかったのだ。

 すると、眉をくっきりと八の字にしている舞子の横に立ったたか子が、

彼女の肩に肉の厚い手を置いて言った。

「連れて行ってやってくれんか」

「え……?」

「高見沢は、こう見えても普通の人間にはないものを持っている。

他人とすぐ仲良くなれるというかなんというか──、まァ、

一種のコミュニケーション能力だな。どの道情報を集めなければならないんだろう?

足手まといにはならんから、連れていってやってくれ」

「……しょうがねェな……いいか、緋勇?」

 龍麻は小さく頷き、舞子を喜ばせた。

「よろしくねェ~。舞子でいいよォ~」

 舞子は今すげなくあしらわれたことも忘れているようで、

嬉しそうに龍麻の手を取って飛び跳ねた。

「よっしゃッ、さっさと行こうぜッ」

「うんッ!!」

 京一達は気勢を上げる。

そこに、水を差す声が彼らの中心から放たれた。

「悪い、先に行っててくれ。さっきから腹の調子が良くないんだ」

「なんだァッ!? ……しょうがねえな、さっさと追いついてこいよ」

 京一はいかにもやる気を削がれたような顔をして、

小蒔などは半ば怒りかけている。

あるいは失望したのかもしれず、無言で身を翻すと、先頭に立って病院を出ていった。

京一も後を追い、最後に残った醍醐は、気遣うように龍麻を見ながらも、

二人に続いて去っていった。

 全員の姿が見えなくなるまで見送った龍麻は、

病院の入口とは反対の方向に身を翻す。

トイレの前を通り過ぎると、葵が眠っている診察室に素早く入っていった。

 

 砂漠というものは元来生命に厳しい。

環境に適応したいくばくかの植物、あるいは動物は存在するものの、

それらは例外的な存在であり、砂と熱、そして死こそが砂漠の本質ともいえた。

 ゆえに、この何者かが生みだした、精神世界の中にある砂漠も、

砂漠としては正しいのかもしれない。

だが、この砂漠には何もなかった。

地下を流れるわずかな水脈を頼りにたくましく生きる花も、

その花に集う虫も、その虫を狙う小動物も、一切の生命がここにはなかった。

造物主が手を抜いたのか、それとも、意に染まぬ何物をも必要としなかったのか。

その問いには風すらも答えなかった。

 誰もいない砂漠に、突如として二つの人影が現れた。

長身の少女と、彼女の肩ほどまでしか身長のない、小柄な少年だ。

制服に着られているような印象も受ける、

生気に乏しく内向的であるのが一目で解る少年と、

上着もスカートも裾を詰めた改造セーラー服は、

着こなすというよりもその下に収まる抜群の肢体をかろうじて隠すに過ぎず、

茶色の髪に紫色の唇も、おとなしく家と学校を往復するだけの青春など

送ってたまるものかという意思表示が明らかな少女は、しかし、紛れもなく

墨田区覚羅高校に通う同級生であり、男の方は嵯峨野麗司、

女の方は藤咲亜里沙といった。

 磔にされている葵のところにやってきた二人は、気を失っている少女の前に立つ。

葵を見る亜里沙の目に友好的な色はなく、彼女の境遇に同情している気配もない。

豊かな胸の前で、腕を組んだ亜里沙が言った。

「ふうん。あんたが執着するのも分かるわ。

いいオンナじゃない、あたしには及ばないけど」

 冗談ともつかぬ亜里沙の感想に麗司は応じなかったが、

気を悪くした風もなく亜里沙は続けた。

「ねえ、この女あたしに任せてみない?

あんたに絶対服従する奴隷に躾けてあげるわよ」

 紫色のルージュが引かれた唇を舐めあげる亜里沙に、麗司が初めて反論した。

抑揚が定まっていないのは、反論することに慣れていないのかもしれない。

「あ、葵は……そんな女ひとじゃないんだ」

「女なんて一皮むけば何が出てくるか、分かったもんじゃないわよ」

 舌なめずりを続ける亜里沙に、気弱そうに見える麗司は頷かない。

亜里沙は女であっても力づくで麗司を屈服させることも可能だろうが、

わずかに肩をすくめただけで自らの欲望を実行に移そうとはしなかった。

「こいつを追いかけてきた奴らはどうする?

のこのこやって来て罠にかかった間抜けな奴らよ」

 亜里沙が指しているのは、京一と醍醐、それに小蒔とアン子の四人だった。

彼らは霊的治療の第一人者である岩山たか子の助言に従って、

葵を捉えようとする霊的波動の発信地である、墨田区へと向かった。

だが、罠を張って待ち構えていた麗司と亜里沙によって睡眠ガスを嗅がされ、

葵と同じく精神の虜囚となってしまったのだ。

「あんな奴ら、どうでもいい」

 玩具に飽きた子供のような口調で麗司は答えた。

彼が執着するのは葵のみで、その他のあらゆる人間が彼の興味の対象外なのだ。

「じゃあ、あたしがもらってもいい? あの大きいのとメガネは要らないけど、

男と女は下僕にしたらちょっとは楽しめそうなのよね」

「好きにすればいい」

 答える麗司は葵から片時も目を離さない。

葵を見る彼の目には、神を崇拝する狂信者の趣があった。

一歩ずつを味わうような足取りで、葵に近づく。

手を伸ばせば葵に触れられるというところまで来た時、突然声がした。

「そう簡単に一皮剥かれちゃ困るんだがな」

「誰ッ!?」

 麗司と亜里沙は同時に叫んだ。

砂を踏みしめる音が、二人に答える。

十字架の背後から姿を現したのは、一人別行動を取っていた龍麻だった。

「なっ、なんでお前が……招かれていない人間が僕の王国に入れるんだ……!」

「悪いがこの女は俺のものなんでな。返してもらいに来たぜ」

 たか子の話を聞いた龍麻は、夢の世界から葵に干渉している相手を

探しにいくのではなく、敵は必ず近いうちに現れると踏んで、

眠っている葵の傍で座禅を組み、彼らが現れるのを待ち受けたのだ。

結跏趺坐という特殊な足の組み方で瞑想し、意識を限りなく薄くしていく。

自我すら失いそうになるほど没入し、一転、己以外何も認識できないほどに集中する。

そうやって己の身体に眠るチャクラを目醒めさせ、氣を練り、操る修行を

行ってきた龍麻は、自己の気配を限りなく断って、

麗司が葵の精神を彼の王国に連れて行くときに後を追ったのだった。

「ふっ、ふざけるなっ、ボクの王国で逆らうやつは許さない……!」

「フン、国王だろうと大統領だろうと知ったこっちゃねえ」

 指を鳴らし、実力行使に及ぼうとする龍麻に、嵯峨野は早くも腰を抜かしかけている。

だが彼の見かけの弱さに、龍麻は騙されなかった。

「要は女の取り合いだ。お前も美里が欲しいってんなら、どっちかが引くしかねえ。

俺は引く気はねえぜ」

「ぼ、ボクだって引かない……!」

「いい度胸だ」

 龍麻は身構え、集中する。

肉体という枷を離れた今、龍麻の精神は集中するほどに研ぎ澄まされていき、

嵯峨野を圧倒した。

 口では強がっても、暴力の気配に怯える嵯峨野の前に、亜里沙が立ちはだかった。

嵯峨野を庇う彼女は、腰にぶら下げている鞭を手にして妖艶に笑う。

「オトコ同士で盛り上がってるところ悪いけど、そうはいかないのよね。

あんた中々いいオトコだし、あたしのペットにしてあげてもいいわよ」

 こぼれ落ちそうなほどの媚を含んだ声は、

敵と解っていても抗いがたい、男にとっての猛毒だったが、

龍麻は冷淡に答えるのみだった。

「そういう趣味はないんでな」

「自分のことって案外わからないものよ。新しい自分を見つけさせてあげるわ」

「その鞭でか? 悪いが遠慮させてもらう」

「ふふッ、無理矢理にでも跪かせてあげる……ッ!」

 語尾に重なるように、鞭が空を断つ音が龍麻を襲った。

充分に予測していたにも関わらず、鞭の速度は龍麻の想像を超え、

避けようとした身体に鞭が直撃した。

視界に閃光が瞬き、片膝をついてしまうほどの威力だった。

「ああッ、いい音ッ……! 音だけでイッちゃいそうよ」

 豊満な肢体をくねらせる亜里沙に、龍麻は唾を吐いて応じる。

薄い笑みを絶やさぬまま、亜里沙は再び腕を振り上げ、二撃目を振るった。

両腕を前方に立てて上半身をブロックしようとした龍麻だが、

鞭の先端は猛禽のように急降下し、足首を狙ってきた。

反応が遅れた龍麻は、なすすべなく引き倒される。

そこに三度鞭が襲いかかり、立ち上がることができないまま鞭打を浴びた。

肉が裂け、骨にまで達するような激痛が全身に回り、

身体を縮めて亜里沙の攻撃が勢いを弱めるまで耐えるほかなかった。

「あーはッはッ、不様ねェッ、芋虫みたいでさッ!!」

 転がりながら距離を取り、どうにか立ち上がったときには

全身砂まみれで、制服は切り裂かれてボロボロだった。

身体に血が滲んでいない場所はなく、何箇所かはすぐに手当が必要なほど

多量に出血している。

戦ってまだ一分も経っていないのに、すでに趨勢は見えはじめていた。

「まだやろうっていうの? しつこい男は嫌われるわよ」

 足元のおぼつかない龍麻に、亜里沙は嘲るように手の甲を口に当てる。

龍麻の顔は、砂と血に汚れていたが、眼は力を失っていなかった。

制服のボタンを外しながら彼女を睨みつける黒い瞳の輪郭が、日食のように輝いている。

「……死んでも言うことを聞く気はないって顔ね。

ならいいわ、お望みどおり殺してあげるッ!!」

 最速の鞭が龍麻めがけて振り下ろされる。

その寸前、素早く制服を脱いだ龍麻は、飛び退くと同時に制服を宙に投げた。

制服程度では鞭の勢いを減ずることもできず、紙同然に切り裂かれる。

「みっともないよッ、悪あがきなんてさッ!!」

 勝利を確信した亜里沙が叫ぶ。

だが、龍麻は悪あがきするために制服を投げたのではなかった。

 広げて投げた制服が、突如として空中に生みだした黒い空間に、

一瞬、亜里沙の視線が逸れる。

その隙に龍麻は練った氣を、彼女の足元に放った。

上から下に、急激に移動した視界に、亜里沙はついていけない。

しかも龍麻は彼女自身を狙ったのではなく、

足元の砂を舞い上げるために氣を放ったのだ。

「きゃあッ!!」

 頭にまで舞い上がった砂を、亜里沙はまともに浴びてしまう。

慌てて顔についた砂を払い、龍麻を探したとき、すでに龍麻は目の前にいた。

「――ッ!!」

 腹に熱を感じたと同時に、亜里沙は吹き飛ばされていた。

数メートルは吹き飛ばされ、背中から砂に叩きつけられる。

身体を打った痛みは少なかったが、どうにか上体を起こした直後、

彼女を内側から凄まじい衝撃が襲った。

「く……ッ……」

 体内で爆ぜる氣による激痛に目を見開き、空を仰ぎながら、

なお龍麻を睨みつける。

しかし、亜里沙の抵抗もそれまでで、龍麻の渾身の一撃を受けた彼女は、

そのまま昏倒した。

 彼女が起き上がらないのを確かめた龍麻は、残った嵯峨野麗司に向き直る。

彼は亜里沙を置いて逃げだしたりはしなかったが、しなかったのではなく、

単にできなかっただけなのかもしれなかった。

「くッ、来るな、来るなッ……!!」

 亜里沙を倒したとはいえ、満身創痍でゆっくりとしか近づけない龍麻に、

すでに威圧されている彼は尻餅をついたまま必死に後ずさりする。

戦意など微塵もない、ぶざまな姿だったが、龍麻は容赦しなかった。

嵯峨野の胸ぐらをつかんで強引に立ちあがらせると、練った氣を彼の腹部に叩きこむ。

亜里沙が受けたものとさほど変わらぬ一撃を、虚弱な肉体に受けた嵯峨野は、

蛙の断末魔に似た悲鳴を一度放ったきり動かなくなった。

「……」

 嵯峨野が死んではいないことを確かめた龍麻は、亜里沙が持っていた鞭を取りあげると、

葵が磔にされている十字架に向かって歩きはじめた。

 

 目を覚ました葵の前に居たのは、見知った男だった。

何故か上着を脱ぎ、白いシャツと黒いズボンのコントラストが眩しい彼に、

声をかけるべきか、葵は判断に迷った。

彼が助けに来てくれたのか、それとも、彼こそがこの非現実の首謀者で、

あの保健室の続きを行うためについに現れたのか。

希望と恐怖は交錯し、容易に結論を出させない。

 結局、葵が龍麻に話しかけたのは、五分ほどが過ぎ、彼が目の前に立ってからだった。

「助けに……来てくれたの?」

「他に何があるってんだ」

 投げやりな返答に、葵は彼の左手を見ることで応じた。

 怯えた視線に気づいた龍麻は、無言で手にした鞭を数秒眺め、訊ねた。

「まさかお前、縛られたまま鞭で打たれるのが好きなのか」

「ち、違うわ!」

 彼ならやりかねないと思ったからこその、恐怖混じりの問いだったのに、

あらぬ方向に逸らされて、たまらず葵は叫んでいた。

「もしそうなら、あまりそういうのは趣味じゃないが、練習しないといけないからな」

 面白くもなさそうに鼻を鳴らし、鞭を捨てた龍麻は、足先から頭頂まで葵を眺めた。

無遠慮に過ぎる観察は、それが最善の方法なのだと解っていても、

葵を落ちつかなくさせた。

何しろ葵は今、四肢を拘束されて身動きできないのだ。

鞭を捨てたとはいえ、龍麻がその気になれば、どのようにでも辱めることができるのだ。

しかも、どれほど叫んでも、別の助けが来る可能性はほとんどない。

葵の危機は、未だ剥がれてはいなかった。

 怖気を態度に出さないようにするのが精一杯の葵は、

龍麻の挙動を息を殺して見守っている。

彼の視線の正面にある、太腿を凝視していた龍麻は、前触れもなしに手を伸ばし、

葵の素肌に触れた。

「……い、嫌っ……!」

 瞬時に保健室の記憶が蘇り、葵は恐慌寸前に陥る。

 一瞬でも救いが来たと思った自分が愚かだった。

やはり、龍麻など信用してはならなかったのだ。

手足の一切を動かせない葵は、至近に迫った絶望に抗おうと声を出そうとしたが、

いかなる罵声も悲鳴も、すでに固形物と化していて、

呼吸の妨げとしてしか意味をなさなかった。

 純血を穢される前に舌を噛んで死ぬべきかとすら思う葵に、龍麻は静かに告げる。

「この鎖、端がないな」

 螺旋状に絡みついた鎖を、無骨な手でなぞっていく。

あるときは指で、あるいは手のひらで、葵の肌に触れるのをためらわない動きは、

葵に不快感をもたらしたが、為す術がない。

「は、早く助けて……」

「この鎖がどうなってるかを確かめるほうが先だ」

 にべもなく答えた龍麻は、葵の身体をまさぐっていく。

太腿から腰へ、そして胸へ、肩へ。

無遠慮に女の身体を蹂躙していく男の手を、葵は唇を強く噛んで耐えた。

いつまでこの拷問のような時間が続くのか、全能の存在に祈らずにいられない。

せめて鎖が、指先が微弱な刺激をもたらすとき、

嫌悪以外のものを感じないように、強く、強く願った。

 しかし、葵が祈る神が実在するならば、そもそもこのような苦難をもたらしはしない。

龍麻による鎖の調査は、葵が思っているよりは短時間で終わったが、

それでも、胸や素足を遠慮なく撫でられて、若く健康的な肉体は刺激を無視できなかった。

 身体に熱が溜まっていくのが自覚できる。

特に龍麻の手が肌に直接触れたとき、甘い痺れめいたものを感じてしまって葵は、

彼に気づかれないようにするのに必死だった。

「やっぱり端はなかったな。どうなってやがるのか、輪の構造になってるみたいだな」

 調査を終えた龍麻が顔を上げる。

薄く唇を開け、篭った熱を体外に逃していた葵は、

しばらくの間見られていることに気づかず、慌てて呆けていた口を閉じた。

「なんだ、感じてたのか? もう少し続けたほうが良かったか?」

 死にたくなるようなことを言う龍麻を睨みつける。

これ以上彼に辱められるようなら舌を噛んでしまおうと、

少女の気高さを未だ心に残す葵は決心した。

「ま、それよりもとりあえず、こいつを引っ張ってみるか」

 だが、憎らしくも決心を鈍らせるようなことを言った龍麻は、

宣言どおりに両手で鎖を掴むと、力任せに引っ張った。

すると、あれほど葵を縛めていた鎖が、紙紐のように引きちぎられていく。

嵯峨野麗司の精神力によって創りだされていた鎖は、

彼が戦意を喪失したことによってその力を失っていた。

 一気に縛めから解かれ、支えを失って落ちた葵は、

龍麻が抱きとめたので、怪我もなく地上に下りることができた。

 だが、自失から我に返った葵は、礼を言うより早く彼から離れようとする。

足の裏に砂を感じた瞬間、それまで溜まっていた感情が膨れ、爆発した。

「貴方のせいよ……! 貴方のせいで、こんな目に……っ……!」

 駄々をこねる子供のように葵は暴れ、目の前の男にすべての感情を炸裂させた。

視界が滲むのも構わず、両肩を吊りあげる黒い感情に衝き動かされるまま彼を殴る。

一打は次の一打を呼び、葵は生まれて初めて他人を、理性が及ばないまま殴り続けた。

 泣き叫ぶ葵を、龍麻はなだめようとはしなかった。

身体から針を生やしたように、他者が触れるのを拒んで一方的に龍麻を叩いていた

葵の、両肩を掴んで容赦なく引き剥がす。

力づくでの乱暴な仕打ちに、目に涙をためたまま葵が顔を上げると、

今度はいきなり引き寄せられた。

「――!!」

 この砂漠で磔にされていたときには全く感じなかった熱を、葵は感じた。

灼けるような熱さに呆然とし、意識のすべてを身体の一点に奪われた。

 どれほどの時間が過ぎたのか、ようやく理性を取り戻した葵が見たのは、

あの、宇宙の始まりからそこにあったかのような、ただひたすらに黒い瞳だった。

あらゆる熱を呑みこむ暗黒に、葵は喉を引きつらせる。

自分を見据える小揺るぎもしていない瞳に、一時の狂奔も醒めていた。

「旧校舎で『力』を使えるようになった四人は、

お前の言うとおり俺に責任があるのかもしれない」

 葵の腰を抱いたまま告げる龍麻の自戒は、彼女の心に直接刻むかのように響いた。

「だが、渋谷の件や今日の件は、俺が真神に来ようと来まいと起こっていたことだ」

 葵にもそれは解っていた。龍麻が来てくれなければ、

この謎の世界に一生囚われていたかもしれないということも。

結局、葵は龍麻に対する個人的な嫌悪から、

すべての原因を彼に押しつけようとしたにすぎない。

新宿中央公園の日本刀騒ぎのときも、渋谷の鴉のときも、そして今回も、

龍麻は自分に全く関係がないのに、事件の渦中に飛びこみ、

身を挺して人々を救ったのだ。

「俺達のこの『力』は、不自然なくらい同じ時期に発生している。

前からこんな力を持ってる奴がいるなら、もっと早くから騒ぎになってるはずだからな。

この力には原因か理由か、とにかく何かがある。俺はそれを探さなきゃならない」

 龍麻の決意は正しく、葵はすっかり恥じ入る。

だが同時に、やはり彼の狼藉を許すわけにもいかないのだ。

二面性と言うには深刻な龍麻の所業に、葵の困惑は深まるばかりだった。

 龍麻への好悪はどうあれ、とにかく、今はこの奇怪な世界を脱出するのが先決だ。

それは龍麻も認識しているらしく、葵の腰を離すと話題を変えた。

「お前、状況は理解しているか」

 葵は声を出さずに頭だけを振った。

いろいろな事情を鑑みても、今、彼と口を聞く気にはなれなかったのだ。

 好意的とはとてもいえない葵の態度にも、龍麻は気分を害したようすはなく、

葵から見て右手前方を指差した。 

「ここはどうやら、あっちで伸びてる野郎の夢の中らしい。

俺やお前は精神体として招待されたって筋書きらしいな」

 龍麻の言っていることは全く理解できなかったが、

これが異常な状況というのは良くわかった。

ではどうやって脱出するか、肝心な質問を葵がしようとすると、突然、

龍麻の身体が大きく傾いた。

砂に足を取られたのではなく、疲労が蓄積して片膝をついてしまったようだ。

「緋勇君……!?」

 見れば龍麻のシャツはそこかしこが切り裂かれ、そこから見える肌は血に塗れていた。

しかめている顔も、演技などではなさそうだ。

かなりの深い怪我は、自分を助けるために負ったものであるのは間違いなく、

それを治療しないのは、道義にもとると考えた葵は、彼のために『力』を用いた。

彼の怪我の程度から見て、かなりの回数『力』を使わなければならないと思っていたが、

意外にも数回で龍麻は元気を取り戻したようだった。

「助かるな。いくらここが夢の世界とは言っても、痛えものは痛えしな」

 具合を確かめるように手足を数回動かした龍麻は、広大な砂漠を見渡した。

「さてと、現実に戻る方法を探さねえとな。本人に聞くのが一番早そうだが」

 そう言った龍麻は葵に背を向けてしゃがみこんだ。

おぶされと言うのだ。

以前に学校から彼の家まで、気を失っている間に背負われて運ばれた記憶が甦り、

葵は思わず後ずさった。

「あ、歩けますから」

「ここの砂はかなり柔らかくて裸足じゃたぶん歩けねえぞ。止めておいたほうがいい」

 それでも、背負ってもらうというのにはかなりためらいがあって、

葵は自分で歩いてみたが、数歩進んだだけでよろけ、

龍麻が正しいことが解ってしまった。

不本意であったが、彼の背中を借りるしかなかった。

 

 葵をこの世界に連れこんだ、嵯峨野という少年のところまでは、

すぐそこだと龍麻は言った。

しかし葵を背負い、歩きにくい砂地の上を進む龍麻の歩みは、

一歩ごとに足首まで埋まってしまうために遅々として進まず、

出発してからすでに十分以上が経っていた。

龍麻が足をよろめかせるたびに、下りて歩くと葵は言おうとしたのだが、

龍麻は不満のため息一つつかずに体勢を整え、再び歩きはじめるので、

言う機会を失ってしまっていた。

 しばらく無言だった龍麻が、何度めか、葵を背負い直してから口を開いた。

「嵯峨野って奴はずいぶんといい趣味してるな。パンストも靴も履かせねえとは」

 かすかに混じった好色そうな響きに、葵は心持ち上体を反らした。

彼の背中の上では、それくらいしか意思表示ができないのが残念だった。

もちろん、龍麻はその程度では小揺るぎもしなかった。

「この砂漠は、もしかしたらあいつの心理が反映されているのかもな」

「どういうこと?」

 葵はこれまでの経緯を簡単に聞いている。

ここが彼の精神世界だという話は、にわかには信じられなかったが、

最後の記憶である真神学園の教室から、次はいきなり砂漠に居たのだから、

どれほど出鱈目な事実だとしても、信じざるをえなかった。

「あいつはお前を、護るという名目はあっても独占しようとした。

だが、完全に支配しても、好き放題するってのは出来なかったんだろうよ。

良心がとがめたとかじゃなく、単に臆病で」

「……」

 龍麻に同調するのも、嵯峨野をかばうのもおかしい気がして葵は黙っていた。

代わりに、この場にいない仲間たちのことを訊ねた。

「皆は……?」

「嵯峨野とあの女の本体を探しに行った。あいつらの会話を聞いた限りだと、

罠にかかって眠らされたみたいだが」

「……!!」

「多分、眠らされただけで大丈夫だと思うぜ。

眠らされてこの王国とやらに連れてこられたらどう足掻いても勝ち目はねえ。

あいつらも狙いはお前だけだったみたいだからな」

「緋勇君は、どうして無事にこの世界に入ってこれたの?」

「結跏趺坐って知ってるか? 座禅を組むときの座り方。

お前の傍であれをやって、精神を限りなく薄くして嵯峨野達が来るのを待ち構えた。

で、お前の意識が連れていかれるときに一緒に潜りこんだ。

上手くいくかどうかは賭けだったけどな」

「危なくなかったの……?」

「さあな、寝てる間に精神を誘拐するなんて話は聞いたことがねえし、

俺のやり方で上手くいくのかなんて話も聞いたことがねえ。

駄目だったら寝たまま永遠に起きない高校生が新たに二人できたんだろうよ」

 事もなげに言う龍麻の表情は、葵からは見えない。

将来を誓う仲でもないのに、容易に命を賭ける龍麻の心情が葵には解らなかった。

「あの……」

「ん?」

 言いかけて葵は一度口を閉ざした。

再び口を開いたのは、砂が踏みしめられる、場違いに心地の良い音を四度聞いてからだった。

「ありがとう」

 とにかくも、彼は助けに来てくれた。

自分も精神の囚われ人となる危険を顧みず、身体に傷を負ってまで。

そのことに対する礼は、言うべきだと思った。

「それはこの世界を無事に出られてからにしてくれ」

「……ええ、そうね」

 答えてから葵は、反らせていた背中を彼の方に丸めた。

一瞬だけ龍麻の背中が硬直したが、彼は何も言わず歩を進めた。

 やがて龍麻の足が止まり、膝を落とす。

彼の背中から下りた葵の前に、二人の男女が倒れていた。

男の方に近づいた龍麻が、彼の顔を指し示す。

「見覚えがあるか」

「ええ……以前墨田区の公園で、彼が倒れているのを救けたことがあるわ。

救けたといっても、救急道具なんて持っていなかったから、

ハンカチで傷口を拭いてあげただけだけれど」

 葵の声には困惑の響きがあった。

 おそらく彼女は純粋な善意で嵯峨野を救けただけに違いない。

その嵯峨野が、ほとんど唯一と言って良い、

彼に親切にしてくれた女性に執着したというのは、全く理解できないだろう。

 せめて龍麻は悪意を――たとえ主観的には善意だったとしても――

彼女に向ける人間がいる、という事実を理解させようと、

嵯峨野に対する敵意をあえて隠さずに言った。

「決まりだな。それでこいつは舞い上がって、

お前を自分のものにしようとしたんだろう。

怪我してたってのも、大方誰かにやられたんだろうよ」

「どうして解るの?」

「佐久間がこいつを見たら、どうすると思う?」

 葵は答えられなかった。

人の悪口を言いたくないという生来の性格がそうさせたのだが、

佐久間が弱者に暴力を振るうだろうという想像まで打ち消すことはできなかった。

 葵の顔を見た龍麻は、彼女の意を汲んだように続けた。

「どこの学校にだって佐久間みたいなのは居るだろうさ。

あそこまで程度の悪い奴じゃなくても、こいつは……」

 小さなため息を葵は聞いた。

ほんとうに微かに、この砂漠の砂の一粒ほどに、

憐憫が含まれているように感じられたのが、気のせいかどうか彼女には解らなかった。

「こいつは、少しでも性質の悪い奴に狙われちまうタイプだ。

ほんの少し勇気があれば、そうならないように立ち回れるのに」

 語を切った龍麻は、いつもの口調に戻して言った。

「とにかく、お前を永遠に目覚めない眠り姫にするわけにはいかねえ。

この夢の世界から出よう」

 龍麻がそう言った時、彼らの背後で女性のうめき声がした。

昏倒していた亜里沙が目を覚ましたのだ。

葵に下がっているように命じた龍麻は、

亜里沙が敵対行動を取ったらすぐに叩きのめせるよう構える。

気だるげに頭を振った彼女は、龍麻と葵を見て状況を把握したらしく、

座り直しただけで敵意は見せなかった。

「負けちゃったのね、あたし達」

 彼女が油断させようとしているのか、慎重に出方をうかがう龍麻に、

亜里沙は悪びれない笑みを浮かべて両手を上げた。

「あんた、強いのね。この麗司の王国で、あたし達を倒すなんて、

よっぽど精神力が強くないと無理だわ」

「まだ闘ってもいいんだぜ」

「しつこい男は嫌われるけど、しつこい女もウザがられるのよ。

あんたをペットにできなかったのは残念だけど、負けた以上はなんでも言うことを聞くわ」

 立ちあがって砂を払った亜里沙は、殊更葵を無視して龍麻を媚びた目で見た。

 本来他の女性に龍麻の興味が向くのは、歓迎すべきことであるはずなのに、

亜里沙の振る舞いを瞬間的に汚らわしい、と葵は感じ、そして、

彼女に寸毫も興味を示さなかった龍麻に安堵すら覚えた。

もちろん、それは一瞬の後に跡形もなく消え去った、心の小さな泡だったのだが。

「別に言うことなんて聞いてくれなくていい。俺と美里を解放すること、

美里には二度と手を出さないことだけ約束してくれりゃ、それでいい。

奴には少し話を聞きたいけどな」

「あらそう? まあ、仕方ないわね。麗司を起こしましょう」

 茶色の髪をかき上げた亜里沙は、麗司の傍らにしゃがみこむと、

気を失っている彼を揺すった。

目を覚ました麗司は、身体を起こすなり咳きこんだが、

亜里沙に背中をさすられて落ち着きを取り戻す。

「麗司、ごめん。あたし達負けちゃった」

 亜里沙は龍麻に対して過剰なまでに女を見せつけたのとは、

別人のように優しく話しかける。

しかし、足を前方に投げ出したままの麗司はもはや亜里沙を見ておらず、

砂を握り、地面を茫洋と見つめているだけだった。

「どうして……ここは、ボクの世界なのに……

やっぱり、ダメなんだ、ボクなんか……生きていても……」

 負の響きに満ちた慟哭が、砂に落ちる。

するとにわかに地面が揺れだし、龍麻はとっさに葵を支えた。

葵も龍麻を振り払えず、むしろ支えあうように身体を寄せる。

それほど揺れは激しく、時が停滞したようなこの仮りそめの世界に訪れた変化は、

世界の崩壊を告げるものだった。

揺れは刻一刻と大きさを増し、立っているのも難しいほどになっている。

倒れないようにバランスを保つのがやっとの中、亜里沙が叫んだ。

「ダメ……麗司、止めてッ!!」

「いいんだよ、亜里沙……ボクはもう、疲れたんだ……生きることに」

「待って、そんなこと言わないで! 生きて……

生きて、あんたを苛めたやつらを見返してやるのッ!

そのための『力』じゃない、自信を持って!」

 麗司を励ます亜里沙の声は、ついさっきまでの彼女からは想像も出来ない、

優しさと哀しみに満ちていて、まるで弟を励ます姉のようだった。

「生きるのに疲れたなんて……そんな──あの子みたいなこと、言わないで……」

 しかし、そんな亜里沙の必死の呼びかけにも麗司は答えない。

膝を引き寄せ、その間に顔を埋める彼の、輪郭がぼやけ始めた。

「身体が……消えていく……」

 葵が呆然と呟く。

三人が見守るなか、麗司は最後まで誰とも目を合わせようとせず、

その姿を薄れさせていき、遂に完全に消えてしまった。

 葵は呆然と彼がいた場所を見つめる。

彼こそが自分を死に至らしめようとした犯人であるにも関わらず、

後味の悪さを覚えずにはいられなかった。

 しかし事態は、急速に深刻さを増していた。

いなくなってしまった彼の背後に広がっていた砂漠に、

葵は小さな染みのような黒い点を見つけた。

「何かしら、あれ……?」

 葵の呟きに、龍麻と亜里沙が同じ方を見る。

事態に気がついたのは亜里沙で、龍麻たちの方を向いた彼女は顔色を変えていた。

「まずいわ、麗司の王国が消えていく――!」

 小さな点はみるみる大きくなり、線となる。

一度線となったそれはたちまち面となり、空間となって砂漠を呑み込みはじめた。

 王を失った王国に、存在する理由はない。

既に三分の一ほどが黒に塗り替えられた麗司の精神世界は、

その勢いを止めることなく、現実に近い記憶から徐々に虚無へと還っていく。

龍麻達がいる、彼の唯一幸せだった頃の記憶の部分も、

失われてしまうのは時間の問題だった。

「ここから出る方法を教えろ!」

 龍麻が珍しく冷静さを欠いている。

応じる亜里沙はすでにパニックに陥りかけていた。

「わかんないわよッ、出入りはいつも、麗司がしてたんだからッ」

 龍麻にしても、この精神世界に来た直後のことは覚えていない。

肉体から精神だけで抜け出し、葵のものとおぼしき光を追っていたら強い光に包まれて、

次に気がついた時はこの砂漠にいたのだ。

「参ったな……こんな展開になるとは」

「どうするの……?」

 訊ねる葵の語尾に被さるように、犬の鳴き声が聞こえる。

なぜ突然、と顔を見合わせる龍麻と葵の前で、亜里沙の姿が薄れはじめた。

「エル……? エルなのね……!?」

 別人のように声をはずませる亜里沙に、龍麻は手を伸ばす。

それは怒りではなく、より深刻な理由からだった。

「待てッ、俺達も連れて行けッ……!!」

 だが、龍麻の手は空を切り、亜里沙は完全に消失した。

振り向いた龍麻は、頭髪をかき回す。

「くそッ、閉じこめられちまった」

 龍麻が目を合わせようとしない、その事実によって葵は絶望した。

「もう……駄目なの……?」

 膝に力が入らなくなり、葵はその場にへたりこむ。

すると、龍麻に無理やり立たされた。

「はっ……離してっ、もう駄目なんでしょう!?」

 痛む二の腕を、葵は振り払おうとするが、龍麻の手は強力な磁石のように離れなかった。

「何もしないで終わるってのは性に合わないんでな。来た時と逆のことを試してみる」

 自分が自分でない、全てのものと一体であるかのように意識を拡散することで、

肉体という軛を離れることができた。

ならばその逆、己の肉体こそが唯一無二であると強く念じることで、

精神と肉体は再び一となるのではないか。

それは何の根拠も理屈もない、ただの思いつきにすぎない。

しかし、他のやり方を検討する時間はなかった。

暗黒はもうすぐ近くまで迫っている。

問題は、龍麻は自分の肉体がある場所を明確にイメージできるが、

学校で意識を失って病院で寝ている葵には無理であるのと、

もうひとつ、精神の集中を葵は修行したことがなく、自己を保てるか危うい。

二つをクリアするために、龍麻が採るべき手はひとつだった。

「きゃッ……!!」

 この期に及んで狼藉を働くつもりなのかと、葵は必死に龍麻から逃れようとする。

だが龍麻の抱擁は狼藉どころか拘束でしかなく、時ならぬ痛みが全身を駆け巡った。

「い、痛い、痛いわ……!」

 自分の叫び声が、急速に聞こえなくなっていく。

耳も、目も、迫りくる暗黒に塗りつぶされていく中で、

ただ龍麻の身体がもたらす痛みだけが、葵の感覚となった。

 

 葵が目を覚ますと、見知らぬ天井があった。

家とも保健室とも異なる景色に戸惑い、意識が完全に目覚める数秒の間、

状況を把握しようと努める。

 砂漠で磔にされ、どうしようもないところを、龍麻が助けに来てくれた――

夢か現か分からない記憶をそこまで思いだしたところで、葵は身体を起こす。

傍らに、記憶に出てきた、多めの髪を持つ男性の頭があった。

気持ちを落ちつかせるために深く息を吐くと、それに感応したように龍麻が振り向いた。

 二人は言葉もなく、見つめあう。

龍麻の瞳に強い圧力は今はなかったが、間近で見られる気恥ずかしさに、

葵が顔を逸らそうとすると、龍麻がおもむろに言った。

「やっぱり、生足の方がいいな」

 シーツで足を隠しながら、人を引っぱたきたくなるのはこのような時なのだと葵は悟った。

実行に移さなかったのは理性が邪魔をしたのではなく、位置的に無理だったからにすぎない。

実力行使に移れなかった葵が、精一杯不愉快な顔をすると、

龍麻は堪えた風もなく笑い、立ちあがった。

襲われかけた過去の記憶が蘇り、シーツをさらに上へと引きあげながら

身体を固くする葵に、龍麻は一歩下がって顎に手をやった。

「なんとか助かったみたいだな。さすがに駄目かと思ったが、なんでもやってみるもんだ」

「助かった……?」

 何か恐ろしい夢だった気がするが、詳しくは思いだせなかった。

龍麻の外見に変化はなく、助けた、というのも彼の嘘かもしれない。

生足などと言っているが、いつ見たというのだろうか。

仮に助けられたのが本当だとしても、その間に何があったのか、知れたものではなかった。

 猜疑心を強くする葵に構わず、龍麻はシーツに浮きでた葵の足を眺めている。

「助けに来ただけじゃ意味がないからな。帰ってこそ、冗談も言えるってもんだ」

 冗談というのは生足云々のことだろうか。

命を救ってもらったのが本当だとしても、どうしても礼を言う気にはなれず、

葵はシーツを弄ぶことでごまかした。

幸いにも龍麻は礼を求めてはこず、自分の制服をあちこち調べて言った。

「また制服を買わなきゃならないと覚悟してたが、

夢の中で破れても、現実には及ばなかったみたいだな」

 これも表情からして冗談のようだが、葵は笑う気になれない。

険悪な表情を崩さない葵に、肩をすくめた龍麻は、あらぬ方を見て呟いた。

「さてと……問題はこれからだな」

 それが何を意味しているのか、葵には分からなかったが、

珍しく本当に困っているような表情が印象的だった。

 龍麻が言う『問題』が発生したのは、葵が目覚めてからおよそ一時間後だった。

龍麻と葵のいる桜ヶ丘中央病院に、京一たちが戻ってきたのだ。

 診察室に入ってきた京一は、龍麻を見るなり木刀を突きつけた。

ふざけているのではなく、本当に怒っているようだ。

「やいてめェッ!! どういうことか説明しやがれッ!!」

「敵が美里の精神を拐おうとしてるってんなら、

俺も精神だけ分離させて敵のところに行ったんだよ」

「そんな都合のいい話があるかッ!!」

「あるかッ、たってあったんだから仕方ないだろ。

精神分離中は身体が無防備になるから、絶対安全なところでやらないといけなかったしな」

「ふむ……筋は通っているが」

「醍醐は黙ってろッ!! いいか緋勇ッ、

てめェが俺達をダシにして抜け駆けしようってんなら

こっちにも考えがあるぜ、そこんとこはっきりしやがれッ!!」

 突然の仲間割れに動揺する葵のところに、小蒔が忍び寄る。

「葵ッ、大丈夫だった?」

「私……どうしていたの?」

「えっとね」

 葵が学校で意識を失ってからのことを、小蒔は説明する。

聞いているうちに、おぼろげながら夢の中でのことを葵は思いだした。

十字架に縛られていたことを、助けに来た龍麻に激昂したことを、

そして――彼に唇を奪われたことを。

 助けられたとはいっても、あまり思いだしたくはなかった記憶に、葵の顔は曇る。

だが確かに、彼の献身がなければ、永遠に目を覚まさなかったかもしれないのだ。

「それで、どうして京一くんは怒っているの?」

 複雑な心境を整理するのは一旦止めて、葵は訊いた。

 眉間にしわを寄せ、唇を尖らせた小蒔は、彼女たちが不満を抱いている理由を話した。

「緋勇クンの別行動さ、聞かされてなかったんだよね」

「え?」

「葵に悪いコトしようとしてる奴が墨田区にいるって話でね、

すぐに行こうとしたら緋勇クン、お腹が痛いって言いだしてさ、

それは結局ウソだったんだけど、いつまで待っても来ないから置いていっちゃったんだよね。

で、墨田区の公園に着いたら、藤崎サンって女の人がいて、

『葵を助けたければついてきな』って言われて、

ついていったら廃ビルに閉じこめられてね、ボク達皆眠らされちゃったんだ」

 葵は親友の危機に顔を曇らせるが、それ以上の危機には陥らなかったようで、

小蒔の話しぶりに深刻さはない。

「起きたらすっかり暗くなってるし、葵をヒドい目に遭わせたヤツは見つかんないしで

困ってたら、また藤崎サンが来て、『もう葵は目を覚ました』って言うんだよ。

ワケがわかんないからもっと話を聞こうとしたんだけど、

なんかおっかない犬に邪魔されてね、逃げられちゃったんだ。

そこに高見沢サンの携帯電話が鳴って、『院長先生が戻ってこい』って言ってるって。

もうどうしたらいいかわかんなくなっちゃったから、とにかく戻ってきたんだけど、

京一がすっごい怒っててね。まあそりゃ、騙されたんだから無理もないけど」

 はじめは声を潜めて話していた小蒔は、京一が怒鳴り続けているので、

その必要もないと判断したのか、途中からは普通の大きさになっていた。

「小蒔は怒っていないの?」

「うーん、気分は良くないけど、話聞いたら緋勇クンも逃げたワケじゃないし、

葵が無事だったからまあいいやって」

 小蒔の笑顔に葵は癒やされる思いがする。

その一方で京一は怒りを募らせているようで、いつの間に小蒔の話を聞いていたのか、

「良くねェッ!! お前が一言言ってきゃ、俺達にもやりようがあっただろうがッ!!」

 小蒔と龍麻を順に見てなお尽きぬ怒りを龍麻にぶつけた。

 忙しいことだ、と思いつつ、龍麻は彼が単独行動した理由を説明した。

「上手く行くか自信がなかったし、失敗したら京一たちが頼みの綱だった」

 精神の集中は一人で行ったほうが良いとは言わず、

あくまでもリスクを避けるためだと説明しても、京一は納得しない。

おそらく振り上げた拳の下ろしどころを失っているのだろう、

と彼の仲間たちはうすうす推察していた。

要するに、飽きてきたのだ。

「敵を騙すなら味方からって言うわよね。

特に、京一みたいなアホには何も教えないほうが確かにいいわよね」

「そうだよね、京一なら絶対言っちゃうよね、緋勇クンのコト」

 アン子が風向きを変え、小蒔がそれに乗る。

にわかに二対一になっても、京一は引き下がらなかった。

「うッ……うるせェッ!! 俺はチームワークが大事だっつってんだろうがッ!!」

「そんなもん、持ってないくせに……」

「はぁッ、もういいわよ。緋勇君、ここはラーメンで手打ちと行きましょ。

それできれいさっぱり、後腐れなし」

 どさくさに紛れて図々しい要求をするアン子には呆れる龍麻だったが、

彼女の提案を受けることにした。

龍麻もいい加減うんざりしていたのだ。

「てめえらッ、勝手に話を進めてんじゃ……」

「はい決まりねッ! さっさと行きましょ、詳しい話を聞かせてもらわなくっちゃ」

「ボクも行くッ!」

 あっという間に話がまとまり、もはや誰も京一を顧みなかった。

「くそッ……どいつもこいつも簡単に寝返りやがって……」

「京一は行かないのか?」

「行くに決まってんだろうがッ!! こうなったら全部乗せ大盛り頼んでやる、

覚悟しとけよ緋勇」

 足を踏み鳴らして京一は出ていき、醍醐が続く。

彼らを追おうとした小蒔は、ベッドから下りた葵を見た。

「葵も行くよね?」

「私は……ごめんなさい、やめておくわ。今日は休みたいの」

「あっ……送っていった方がいい?」

 軽い後悔で顔を曇らせる親友を、安心させるように葵は笑いかけた。

「ううん、平気。小蒔は楽しんできて」

「でも」

「本当に、大丈夫だから」

「おい何やってんだッ、早く行くぞッ」

 催促する京一の語尾に、地響きが重なる。

たちまち足音が遠ざかったのは、京一が逃げたのだろう。

「うふふ、行ってあげて」

「う、うん……それじゃね」

 最後まで葵を気にしながら、小蒔は出ていく。

足音が完全に消え去ったのを確かめてから、葵も帰り支度を始めた。

 葵が皆に同行しなかったのは、小蒔に言ったとおり体調が万全でなかったからだが、

それ以外にも理由があった。

 ラーメンを食べに行く龍麻たちと別れ、家路についた葵は、

道すがら、そっと唇をなぞる。

そこに龍麻の感触はない――だが、確かに龍麻の唇は、そこに触れた。

すっかり鮮明に甦った記憶は、夢の世界というには生々しく、

特に、あの熱は忘れることなどできそうになかった。

はじめての口づけを予想もしなかった形で奪われて、当然悔しさはある。

取り乱したのは確かに自分だが、何もあのようなやり方で止めることはなかっただろうに、

と非難したい気持ちがあるのは、少女として当然だった。

龍麻の方は、精神世界から帰還してから別れるまで、

キスについてはおくびにも出さなかった。

そこに至った事情を思えば、気を利かせてくれたのかもしれない。

それにしても、彼が少女には永遠に残る記憶となりうるあの行為を、

手を洗った程度にしか考えていないのであれば、それも悔しくはあった。

 それにもう一つ、あの空間から脱出する際のことも、葵は思いだしていた。

あの時龍麻は、渾身の力で葵を抱きしめた。

おそらくは精神が肉体に戻るために必要だったのだとは思うが、

あれほど強く他人に抱きしめられたのは初めてだった。

嬉しいわけはない――キスの次くらいには、好きな異性に抱きしめてもらうのが

少女にとっての憧れであり、そうでない異性に対しては手厳しく断罪するのが、

女というものなのだから。

なのに、龍麻の肉体の固さが、彼の両腕の強さが、葵は不愉快ではなかった。

骨が折れるかというほど抱かれたのに、あろうことか記憶を反芻してしまっていた。

それは不思議な、葵がかつて抱いたことのない感情だった。

黴の生えたチーズのような、苦味と旨味が同居する感情。

もちろん苦味のほうがはるかに強く、忘れてしまえるのであれば忘れてしまいたい。

なのに一方では、葵の意向などお構いなしのあの強い抱擁を、

もう一度味わいたいと思っている自分もいることに愕然としていた。

 深く息を吸いこんで、葵は考え直す。

 緋勇龍麻を好いていないのは間違いない。

彼が真神に来てから行った蛮行の数々は、どれひとつとっても許しがたいものであり、

目下のところ、異性としての好悪で見るなら、悪、それも好から最も遠いところにいた。

 だが同時に、葵以外に対しては、龍麻はまぎれもなく勇敢で、

自らを危険に晒すことも厭わずに、様々な問題を解決してきた。

全身に傷を負いながらなお困難に立ち向かう姿は、葵の胸を打ったのも確かなのだ

 ではなぜ、自分にだけあのような態度を取るのか、葵は考えざるをえない。

彼に失礼な言動をしたか――否。

そもそも最初に彼に襲われたのは転校初日であり、ろくに会話もしていなかったのだから、

嫌われようがない。

では、その逆、つまり彼が邪な好意を抱いている可能性はあるのか。

生まれてから今まで、特定の恋人がいたことはない葵だが、

告白やそれに類するものは何度となく受けてきていたから、

自分がまったく魅力がないとは思わない。

中には強引に迫ってきた男もいる――佐久間猪三のように。

彼らの一方的な欲望を、時には友人に助けられつつも退けてきた葵は、

龍麻にだけいいように接近され、弄ばれていることに困惑していた。

そして、より困惑させられるのは、彼を嫌う心に変わりはなくても、

肉体の方は必ずしもそうとは言いきれなくなっている点だった。

 旧校舎で蝙蝠に襲われた際の治療。

 渋谷に行った際の痴漢。

 そして、今日の口づけと抱擁。

どれも吐き気を催すほど嫌なはずなのに、肉体は反応してしまっている。

自分に性的な欲望は多くはないと思っていたのに、そうではなかったのだろうか。

それを暴かれるのは、葵にとって大いなる恐怖だった。

 そんなはずはない、と葵は頭を振り、どこにあるかも判らない、

自分の心のあってはならない領域に閂をかける。

 これ以上、彼に身体を許してはならない――

声に出さず、葵は呟く。

だが、決意を新たにする葵の脳裏に浮かんだのは、かけたはずの閂ではなく、

龍麻の、どこまでも黒い瞳だった。

 

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