黒板の内容を写し終え、手持ち無沙汰になった葵は、半ば無意識に自分の唇を撫でた。
そこは未だ誰も触れたことのない、いずれ捧げるにふさわしい男性が葵の前に現れるまで、
天国に至る門扉よりも厳重に護られなければならない聖なる場所だ。
だが、そこは確かに、他者の――男の、感触を覚えていた。
物理的には間違いなく誰にも触れられたことはない。
十八年間気配さえなかったことが良かったのかどうか、判断がつかないとしても、
とにかく、戯れでも事故でもなんでも、誰かの唇が触れたことはなかった。
けれども葵ははっきりと覚えている。
夢の中で、とても好きとは言えない男に、あっけないくらいたやすく唇を奪われたことを。
夢の中というのは比喩ではない。
嵯峨野麗司という、一度言葉をかわしただけの少年に執着された葵は、
彼の持つ、他者を彼が支配する夢の王国に引きずりこむという異能の力に囚われた。
彼の歪んだ愛情によって精神が陵辱されつつあった葵を助けたのは、
葵の同級生である緋勇龍麻だった。
同じく異能の力を持つ彼は、嵯峨野の精神世界に侵入して彼を倒し、葵を助けたのだ。
その時、常識を遥かに超えた出来事に葵は取り乱し、それを鎮めたのが、龍麻の口づけだった。
唇に触れる指先を通して記憶が蘇る。
涙が伝う頬、掴まれた手首、抱き寄せられた腰。
五感が受けた衝撃は全て、脳の中の出来事でしかないのに、あるいはそれだからこそなのか、
実際の記憶と同じ鮮明さを有していた。
わずかに開いた唇から、葵は吐息を漏らす。
春の薫風に混ざるそれに、どんな感情があるのか、葵にも分からない。
愛、あるいは喜といった感情でないのは確かだ。
なぜなら葵は、まだ出会って数ヶ月も経っていない龍麻に、何度も辱めを受けており、
彼に好意的な感情など持てるはずがないからだ。
命を救われたとはいえ、全く望まぬ形で奪われた唇も、
それらに連なる黒い山脈のひとつでしかないはずなのだ。
それなのに。
記憶を辿る時、確かに不愉快であるのに、不愉快さの奥深くに、何か瞬くものがある。
意識下に引き上げようとしても捕まえられないほど短く、弱いささくれのような何か。
手がかりさえ得られないその何かは葵に、自分自身の心であっても思い通りにならない
部分があると知らしめた。
それはできれば、向きあいたくない部分だ。
そのためには、あと一年を切った大学受験に向けて、勉強に励むほかない。
葵はペンを握り直し、教科書に視線を落とした。
終業のチャイムが鳴った三年C組の教室で真っ先に響いたのは、隣のクラスからの使者の声だった。
「ちょっとちょっとッ! 緋勇君いるッ!!」
前方の扉から教室を出ていく教師と入れ替わるようなタイミングで、
後方の扉から突入してきたのは、真神學園内で知らぬ人とてない有名人である、遠野杏子だ。
有名人、というのはこの場合人気者とは必ずしも一致せず、
声の大きさに振り向いた大半の生徒は、爛々と輝く眼鏡を見てああまたかと元の方に向き直る。
名指しで呼ばれた龍麻も例外でなく、居ないふりをしてやり過ごそうとしたが、
眼鏡はかけていても彼女の興味の対象である限り見逃すことは決してない眼球に、
たちどころにロックオンされてしまった。
「あ、いたわね。良かった、帰っちゃってたらどうしようかと思ったわ」
一直線にやってくるアン子に、龍麻は小さく嘆息する。
アン子が龍麻の前に立つとほぼ同時に、騒ぎを聞きつけた小蒔も来ていた。
「もう、うるさいなぁ。入ってくるなりどうしたのさ、アン子」
「大事件なのよ、これが騒がずにいられるかってのよッ」
迷惑そうにしている龍麻など歯牙にもかけず、アン子は自分の欲望のままに教室を見渡した。
「京一は?」
「あそこ」
小蒔が指さした先には、机に突っ伏して寝ている京一の姿があった。
世間との関わりすべてを断った僧のように、深く腕の中に頭をうずめている京一に、
アン子は溜息をつくような無駄なことはしなかった。
大股で京一に近づくと、春風にそよいでいる彼の頭髪を有無を言わさず掴み、持ち上げたのだ。
完全なチンピラの振る舞いだが、見ている人間で息を呑んだ者は一人もいなかった。
唯一龍麻の隣の席から見ていた葵が、眉をひそめたくらいだ。
「ん……?」
呆れたことに京一は、目を覚ましはしてもまだ寝ぼけているらしく、
からくり人形のように首を振り、明らかに焦点の定まっていない目でのん気に龍麻を見たものだった。
「緋勇じゃねェか。なんでお前が俺んちにいるんだよ」
「完全に寝ぼけてるね」
お菓子を取り出して食べる小蒔の口調は完全に他人事だ。
不本意にも茶番劇を演じさせられて業を煮やしたアン子は、さらなる実力行使に及んだ。
京一の頭をパイナップルのように掴んだまま、彼の頬を強かに張り飛ばしたのだ。
「一人でいい旅夢気分してんじゃないわよッ!!」
勢い余って後ろの机に突っ伏す京一に、アン子が鼻息も荒く怒声を浴びせる。
酷い仕打ちは龍麻ですら同情を禁じえないほどだったが、
アン子は時間を浪費させた男に、腰に手を当てて詰め寄った。
「ほら、さっさと昨日何を見たか話を聞かせなさいよ」
「いてててて……あれ、なんでアン子がC組にいんだよ。昼休みか?」
頬を張られた程度では、京一の目は覚めないらしい。
その事実を誰よりも早く悟ったアン子は、今度は両手を伸ばし、
グレープフルーツを絞るように京一の首を絞めあげた。
「何ならこのまま永眠させてあげてもいいのよ。どう? 一回やってみる?」
「わ、わがった、わがったから首……離せ……」
「判ればいいのよ。さ、それじゃあんたが昨日見た事を洗いざらい自白ってもらいましょうか」
アン子の言葉遣いはあまりに品がない、と聞いている誰もが思ったが、誰も口にはしない。
悪徳刑事のように追いつめるアン子に、関わりたくなかったのだ。
「昨日……? あぁ、あれか」
「そう、それよ」
「あれは凄かったよな、緋勇。何せ風で全部スカートがめくれあが……」
京一が言い終える前に再びアン子の手が一閃し、
京一は格闘技の試合でしか見られないようなもんどりうちかたで倒れる。
試合ならここでダウンを取るところだが、ルール無用のアン子は休む間も与えず京一を引きずり起こした。
「いい? 起こすのも手間なんですからねッ。今度とぼけたら承知しないわよッ」
不良の佐久間相手に一歩も退くところのなかった京一が、
今やアン子に胸倉を揺すられてガクガクと頭を振るばかりだ。
もはや暴君と化したアン子の前に京一の命は風前の灯火だったが、
実に良いタイミングで救世主が現れた。
「どうしたんだ遠野、そんなに興奮して」
「あ、醍醐クン。どこ行ってたの?」
「ちょっと……な」
露骨に言葉を濁す醍醐に、アン子はこちらの方が与しやすしと踏んだのか、襟を離した。
宙に浮き上がっていた京一の身体が、すとんと落ちる。
その表情からしてどうも尻をしたたかに打ちつけたらしかったが、
もはやアン子は役に立たない情報提供者になど見向きもしていなかった。
「もしかして、空手部かしら?」
「空手部? 醍醐クンはレスリング部でしょ? なんで空手部に用が……」
口を挟んだ小蒔にも、アン子は顔を向けようとはしない。
彼女の興味は、大柄な男子生徒の態度にのみ注がれていた。
「黙ってるところを見ると図星のようね」
「……」
「嘘がつけないってのは、こっちからすればありがたいんだけどね」
むしろ同情するようなアン子の口調に、醍醐はなんとも言えない、困った顔をする。
もはやこれまでだと諦めた京一が、自分の努力を無にした男に、
せめて一言でも言ってやらねばと身体を起こした。
「いてててて……このバカ醍醐、せっかく俺が身体を張ってごまかしてやってたのに」
「すまん」
「まぁ、アン子相手に白が切りとおせるとは思っちゃいなかったけどよ」
身体のあちこちを擦りながら、京一がぼやく。
「それにしても、昨日の今日だぞ。遠野はどこから嗅ぎつけたんだ?」
龍麻は決して褒めたわけではなかったが、アン子は得意げに胸を反らした。
「へへへッ、情報源の秘匿は取材の原則よ。でも少しは見直した?」
答える代わりに龍麻は肩をすくめた。
好意的ではないその仕種にも、アン子は気を良くしたらしく、自慢げに手を腰に当てている。
「やむを得んな。──美里に桜井。お前達も話を聞いてくれないか」
「なッ、なに!? ボク達も関係あるの?」
驚きを声に出したのは小蒔だが、さりげなく帰ろうとしていた葵も、
突然名前を呼ばれて思わず反応してしまった。
あと数分早く動いていれば巻きこまれずに済んだのにと悔やんでも仕方がなく、話を聞くことにした。
「ああ、おそらくな。その前に遠野、お前はどこまで話を知っている?」
「あたしが知ってるのは、真神の空手部員が、昨日だけで四人も襲われたってことよ。
空手部は近々大会を控えてたんだけど、今回の事件で出場は危ぶまれているわ」
アン子の話がどう自分達に繋がるか、小蒔には見当もつかなかったようだ。
まばたきを何度もして、事態の把握に努めようとしている。
「襲われたって、だって空手部なんでしょ?」
「そう。相手がよほど大勢なら話は別だけど、それなら誰にやられたのかすぐに判る。
ウチの空手部は日本一を狙えるレベルとまではいかないけれど、
都大会なら充分に上位を狙える強さを持ってる。なのに、四人もやられた」
「うん、それで?」
「空手部員が襲われたのはいずれも昨日の夜。
西新宿四丁目の路地で二人、花園神社と中央公園で一人ずつ。
現場には激しく争った痕跡はなく、
通行人や付近の住人から警察への犯人の目撃情報は出ていないそうよ。
それから負傷した三人は巡回中の警察官によってすぐに病院に収容。現在は重傷で面会謝絶」
「面会謝絶?」
事態の深刻さに小蒔は気づいたようだ。
「ええ。それで、三人は病院に担ぎこまれたんだけど、桜井ちゃん、どこだと思う?」
「えッ!? どこって、そりゃ外科とかじゃないの?」
「それがね、桜ヶ丘中央病院なのよ」
健康な高校生である小蒔は、自分の住んでいる新宿区であっても病院の名前などほとんど知らない。
そのほとんど、の数少ない例外のひとつが、桜ヶ丘中央病院だった。
「桜ヶ丘!?」
その病院を知っているのは、小蒔だけではない。
つい先日、龍麻に京一、醍醐も含めた五人――葵は、患者として――で病院に行っているのだ。
それは、夢の中という精神世界から葵が襲われた時。
昏睡する葵を救うため、裏密ミサから紹介されて桜ヶ丘中央病院に行った五人は、
産婦人科でありながら、日本における霊的治療の第一人者である院長の岩山たか子に
葵を救われ、彼女の協力によって葵を拐かそうとした嵯峨野麗司を発見し、倒すことができた。
たか子がいなければ葵は永遠に目覚めなかったかもしれず、忘れることのできない病院だった。
驚きが収まった小蒔が、ふと気づいたように指折り数える。
「あれ? 襲われたのは四人なんだよね。でも収容されたのは三人なの?」
「さっすが桜井ちゃん。アホの京一と違ってあたしの話をちゃんと聞いてたわね。
そう、病院にはちゃんと四人とも収容されているわ。でも警察に助けられたのは三人。残る一人は」
そこで小蒔は何かに気づいたらしく、男達の方を見た。
「警察じゃない誰かが助けたってこと? ──まさか」
「さぁ? それは緋勇君達に聞いた方がいいんじゃないかしら。ね」
「……驚いたな。そこまで知っているとは」
アン子はウインクをしてみせたが、男達の中に相好を崩した者はおらず、
醍醐などはどんな女性でも愛想を尽かしてしまいそうなくらいに低く唸ったものだった。
「全くだ。こいつがブン屋じゃなくて探偵にでもなった日にゃあ、
男はいちいち浮気も出来ねぇぜ、な、緋勇」
陽気に言ってのける京一に返ってきたのは、本気の渋面だった。
本気か冗談か判別がつかず、京一は肩をすくめるしかない。
「なんだよ、反応の悪い奴だな。お前はもっと男の浪漫ってもんを」
「浮気のどこが男の浪漫なのよ……」
「そうだそうだッ、そんなの男の都合のいい言い訳じゃないか」
アン子と小蒔の反撃に京一は押し黙る。
このままではいつまでも話が進まないと思ったのか、醍醐が説明を始めた。
「そこまで知っているんだったら、隠しても意味がないだろう。
確かに、四人目──中央公園の空手部員を桜ヶ丘に運んだのは俺達だ」
醍醐の告白にも、杏子は簡単に頷いただけだった。
彼女の知りたいのは、その先なのだ。
「ま、そうでしょうね。でもあたしの聞きたいのはそこじゃなくて
──なんで桜ヶ丘に運んだかよ。あそこが産婦人科だってのは、三人共知ってるはず。
なのにあそこに運んだ。あたしの考えはひとつ。その空手部員の怪我が、普通じゃないとき」
反応をみるというには強すぎる眼光を湛えて、アン子は三人を順に見た。
三人の中では最も寡黙な醍醐ではあるが、今回の件では彼が最も深く関わっている。
必然的に事情を説明することになり、腕を組んだ醍醐は、
頭の中で少し整理してから昨日の出来事を話し始めた。
龍麻達三人は、日もすっかり暮れた中央公園の中を歩いていた。
昼と夜とで表情を一変させる公園は、その狭間の時間で人も少なく、
一日の活動を終えようとする鳥の鳴き声ばかりが響き渡っている。
横並びで歩く三人のうち、木刀を担いだ京一が、いかにも残念そうに言った。
「ッたくよ、醍醐がいなけりゃナンパに繰りだせたってのによ」
「緋勇を巻きこむなと言っているだろう」
「るッせーな、こいつだって着いてくるんだからまんざらでもねェんだよ、なァ、緋勇」
龍麻を挟んで左と右でやり合う二人に、龍麻は控えめに笑っただけでどちらにも与さなかった。
「けッ、こんな野郎放っておいてさっさとラーメン食いに行こうぜ」
「そうはいかんぞ、京一。大体お前、ここのところラーメン代は緋勇がずっと払っているそうじゃないか」
「ぐッ……じゃあお前は自腹で食うってんだな?」
「む……」
「別にいいだろ。ラーメン代くらい幾らでも出すさ」
明らかに不毛な舌戦を龍麻は中断させた。
気前の良いスポンサーに京一は指を鳴らし、醍醐も顔を綻ばせたものの、一転して龍麻を諭す。
「正直、ありがたいが……いいのか、緋勇? お前もアルバイトの類はしていないようだが」
「ああ、大丈夫だ。趣味があるわけじゃないからな、あんまり金の使いみちもないのさ」
「ふむ……」
なお釈然としない様子で醍醐は腕を組んだ。
スポンサーの機嫌を損ねて資金提供が途絶えてはたまらないと思った京一が、声を張り上げる。
「まあいいじゃねェか。奢ってくれるってんだ、ここはきっちり奢ってもらって
友情を深めるのがスジってモンだろ」
説教めいたことを言ったところで、タダ飯がありがたいのは間違いない。
それ以上の追及を止めた醍醐は話題を変えた。
「そういえば、もうすぐ真神の空手部が全国大会出場を賭けた地区大会のようだな」
「それで気色悪い叫び声が響いてたのかよ」
京一にかかれば気合の入った掛け声もかたなしで、醍醐は苦笑いを浮かべた。
「鎧扇寺学園には負けられんだろうからな。気合も入るだろうさ」
「強いのかよ、そのがいなんとかってとこは」
「あぁ、この二年、真神學園と優勝争いをしている高校だ。
一昨年は真神、去年は鎧扇寺が優勝している。
空手部の部長も、今年は相当気合が入っているだろう」
「なるほどねぇ。ま、俺に言わせりゃお前らみんな、不毛な高校生活を送ってるんだけどな。
何が悲しくて汗臭い男どもに囲まれた青春を送んなきゃなんねェんだよ」
心の底から嫌そうに言った京一の、語尾に重なるように悲鳴が聞こえた。
「むッ……何事だ!?」
腕組みを解いた醍醐が緊張気味に辺りを見渡す。
対象的に、京一は気のない欠伸をした。
「ほっとけよ、今のはどう聞いたって男の悲鳴だろ。
何があったか知らねェが、喧嘩でもなさそうだ、行くだけ損だぜ」
悲鳴は一度きりしか聞こえず、京一の言うことにも一理ある。
探しに行こうとした醍醐はやや不満げながらも警戒を解いた。
ところが、事態は向こうから龍麻達に近づいてきた。
三人が公園の出口に近づいたとき、歩道の中央に大きな塊が見えた。
最初、それが人には見えなかったのは、彼も学生服を着ていて夜に紛れていたことと、
もう一つ、一見して人とは思えなかったくらい、人影は奇妙に身体をねじって倒れていたからだ。
「おい、あれはまさか、さっきの悲鳴の主か!?」
「おいおい、マジかよ」
行く手を阻むように横たわっている黒い影が人間であると気づき、三人は駆け寄った。
「しっかりしろッ、大丈夫かッ!」
醍醐の呼びかけに学生は反応したものの、苦しげに呻いている。
彼の持ちものらしい袋に印刷された校章を見た京一が、驚きの声を上げた。
「おいッ、こいつ真神の生徒じゃねェかッ」
「空手部……のようだな。おい、何があったッ!」
「う……うで……腕が……」
自分の右腕を必死に押さえる学生に、三人の視線が集中する。
やがてお互いの顔へと転じた視線には、共通して困惑が浮かんでいた。
「なんだ、これは……!?」
「石……みたいだな」
「石って緋勇お前、人間の腕が石になる訳ねェだろ」
京一の言うことはもっともだった。
しかし、龍麻の目の前にある現実もまた確かなもので、自分と同じ制服を着た生徒の右腕は、
石としか形容できないものに成り果てていた。
指の先から肘の上あたりまでが、灰色一色に染まっている。
手の形も制服のしわも生々しいまでの質感を有しており、
よほど技巧に優れた彫刻家でも、ここまでのものを作り上げるのは難しいと思われた。
触れてみると、硬い感触が指を弾く。
おまけに、かなり強く掴んでみても生徒は反応を示さず、
どうやら痛覚が麻痺してしまっているようだった。
ただしそれは灰色の部分の話で、生身の身体との境目の部分には相当の痛みがあるらしく、
生徒は右腕を切り離そうとするかのような動きをしていた。
「待ってろ」
龍麻は学生の腕に手を添え、意識を集中する。
程なく身体が淡く光りはじめ、彼の友人達は龍麻が氣を用いて治療しようとしているのだと知った。
深く息を吸い、止め、もう一度深く吸う。
そこから薄く、浅く息を吐き、再び深く吸った。
こうして体内に空気を蓄えていき、人間の裡に在るチャクラと呼ばれる氣の集積所を徹す。
七箇所あるチャクラを通過させることで、龍麻は人知の及びもつかない異能の力を
操ることができるのだった。
生成した氣を、掌を通じて学生の腕に注ぐ。
出血程度なら簡単に治してしまう龍麻の氣は、しかし石と化した右腕に何の変化ももたらさなかった。
額に汗をにじませながら、もう一度試してみるが、結果は同じだった。
「駄目だ、俺の力じゃ治せない」
「う……うぅ……がい……せ……んじ……」
龍麻の声が学生に聞こえたわけではないだろうが、学生はがくりと頭を垂れて気絶してしまった。
生徒が途切れ途切れに口ずさんだ言葉を頭の中で一つに繋げた醍醐は、
それが意味のある言葉だと気づいて顔をしかめた。
「鎧扇寺、だと……?」
「そんな事より、こいつを病院に連れて行く方が先だろう」
「そうだな、しかしこんな症状を診て貰える病院となると……」
龍麻と醍醐は同時に一つの答えに辿りついた。
どう見ても普通ではない症状の彼を診てくれそうな病院が、一軒だけあった。
そこは京一が東京、いや、世界中で最も苦手な場所だった。
「げッ、まさか……」
「桜ヶ丘しかないだろう」
「う……仕方ねぇな」
ラーメンが食べられなくなった、とはさすがに言わず、京一は目的地を変更することに同意した。
気絶した学生を桜ヶ丘中央病院に運んだ三人は、そこで院長のたか子から、
他にも同じような症状の患者が今日、それも立て続けに運ばれてきたと聞かされたのだった。
話し終えた醍醐は、声もない小蒔と葵に向かって、もう一度事件の最も重要な部分を告げた。
「辺りに犯人らしき姿は無かった。その部員に特に外傷は無かったんだが、
ただ……そいつの右腕が、石になっていた」
「石……? どういうこと?」
「そのままさ。そいつの腕は石……硬い、灰色の塊に変わっていた」
それでも小蒔は狐につままれているようだった。
小蒔でなくともこれが普通の反応というもので、
こんな事は自分で体験しなければ到底信じることなどできないだろう。
しかし、ある程度自分で情報を集めていたらしいアン子は、
この異常な結論にもさしたる驚きは見せなかった。
「なるほど……ね。院長先生はなんて?」
「原子や細胞の組替えがどうとか言ってたぜ。
詳しいことはサッパリ解らねぇけどよ、徐々に石化が進行していくらしい」
京一のさりげない口調は、それがあまりにさりげなかった為に、かえって小蒔の不審を誘った。
「徐々に進行……って、まさか」
「あぁ……心臓まで石になっちまった時、そいつの命は終わる」
昨日既にその話を聞いていた醍醐と龍麻以外は、皆一斉に息を呑んだ。
あまり事件に関わりたくないと思っていた葵でさえ、衝撃を受けずにはいられなかった。
この東京の街で、人が石になって、あまつさえ死ぬなどと、あまりに非現実的だった。
「今は点滴と抗生物質、それに岩山先生の『力』で何とか石化の進行を遅らせてくれてはいるが、
完全に止めることは出来ないらしい」
たか子の持つ霊的治療の『力』は、龍麻を遥かに上回るものだったが、
それでも治癒は不可能で、しかも四人同時に診なければならないので、
症状の進行を減じるのが精一杯という話だった。
小蒔がひび割れた声で龍麻に訊ねる。
「助ける方法は──ないの?」
「ある。美里の時と同じ……原因を突き止めて、止めさせればいい」
「原因に、心当たりはあるの?」
さらなる小蒔の問いに答えたのは杏子だった。
「大会を控えた有力選手ばかりが狙われたってことは、やっぱりそれに関係ある……
ウチの空手部を潰したい奴らの仕業かしらね」
「そんなッ……そんな勝ち方して嬉しいの? そんなやり方、許せない」
顔を赤くして激昂する小蒔に、全員がそれぞれの表情でうなずく。
どのような理由があるにせよ、闇討ちなどという行為にはひとかけらとて同意はできなかった。
「いずれにせよ、彼らを助けたければ犯人を捜すしかない。
そして、人間を石にするような能力を持った者が相手では、俺達が行くしかないだろう」
「まッ、そういうこった」
醍醐と京一は言い、龍麻も頷いた。
すると、手帳に何事か書きこんでいたアン子がページをめくって言った。
「そう……じゃ、イイ事教えてあげるから、アンタ達が犯人見つけたら呼んでよね」
「わかったわかった。で、なんだよイイ事って」
「なんか適当ね……ま、いいわ。これよ」
アン子が差し出したのは、一枚の写真だった。
五人は一斉に視線を注ぐ。
そこに写っていたのは、ほとんど一面真っ暗なものでしかなかった。
「なんだこりゃ?」
「昨日の夜に撮った犯行現場の写真なんだけど、ここ見て。何か写ってるでしょ」
「おい緋勇、見えるか?」
龍麻は目を凝らしてみたが、夜間の撮影であるために画像は粗く、
そして写っているらしきものは小さい。
それが何であるかは、とても判らなかった。
「いや……ちょっと小さすぎるな」
「じゃ、これはどう?」
その反応を予想していたのか、アン子はもう一枚写真を突き出す。
そちらには、彼女が写っていると言ったものの正体がはっきりと写っていた。
「これは……ッ」
「電脳研究会に持っていって画像処理してもらったの」
龍麻は初めて聞く部活だったが、その名に小蒔が驚いた顔をした。
「よく電研が協力してくれたね。あそこ、すっごく閉鎖的な部だよね」
「まぁね、あそこの部長の秘密の写真持ってるから。あたしの頼みなら二つ返事よ」
自慢気に言う杏子に、京一が声を潜める。
(お前も気をつけろよ、緋勇)
「なんか言った?」
「い、言ってませんですッ」
直立不動で京一が答える。
龍麻がアン子を見ると、目が合った彼女は邪悪としか言いようのない笑みを浮かべた。
まるで緊張感のない二人をよそに、じっと写真を見ていた小蒔が考えを口にする。
「なにかのボタンだよね、これ。金色の……そうだ、これって学生服のボタンだよね。
て事は、どこの学校かわからないかな。えっと、よろい、おうぎ……」
目を細めたり、眉間に皺を寄せたりして一文字ずつ読む小蒔に、
既に分析を終えていたのだろう、アン子が正しい読み方を教えた。
「鎧扇寺」
その名前に劇的な反応を示したのは、小蒔ではなく醍醐だった。
「鎧扇寺だと!?」
「調べたところ、都内でその名前のつく高校はひとつしかないわ」
「目黒区……鎧扇寺学園」
「ええ」
「しかし……鎧扇寺が」
醍醐はそう呟いたきり黙りこくってしまう。
同じ武の道を歩む者として、鎧扇寺学園がこのような卑劣な手段に出たと考えたくないのだ。
「まぁ、手がかりは今の所これしかねぇんだ、調べてみる必要はあんだろ。どうする? 早速行くか?」
京一は彼らしく、悩むより動くことを提案する。
考え込むように顎に手を当てた醍醐だったが、長い時間のことではなかった。
「あぁ、一刻も早い方がいいだろう。お前達も来てくれるか」
「当たり前だろうが。今更何言ってやがる」
「そのつもりだ」
龍麻の返答は短く、揺るぎなかった。
だが、その自信を葵は危惧する。
「ボクも行くよッ」
案の定、小蒔も同行を申し出てしまった。
これで葵も決断を迫られることになる。
断るのなら今しかない。
葵は意を決して、彼らの会話に割り込もうとした。
ここで葵にとって予想外の展開が起こった。
「あたしもこうしちゃいられないわッ。桜ヶ丘に行って症状をこの目で見なくちゃ。
鎧扇寺から戻ったら情報よろしくね、緋勇君」
アン子も鎧扇寺学園に同行すると思ったのに、別行動を取ると言い出したのだ。
これで龍麻に同行する女性は小蒔一人になってしまう。
京一と醍醐がいるのだから無茶はできないだろうと思いつつも、
龍麻がその気になれば、口実を設けて小蒔を連れ出すことなど容易だろう。
親友である小蒔を龍麻の毒牙にかけさせるなど、絶対にさせてはならなかった。
「私も行くわ」
結局葵はそう言うしかなかった。
「頼んだわよ、皆。それじゃ行ってくるわ、じゃーね」
居ても立ってもいられないとばかりにアン子は駆け出す。
その足が、扉の前で急停止した。
何事かと驚く龍麻達の前で、時間をかけて振り向いた彼女は、ためらいがちに告げた。
「あ、そうだ、この事件の事で頭が一杯で忘れてたけど、醍醐君」
「なんだ」
「──佐久間が、退院したそうよ」
「……そうか」
「知らなかったの?」
「あぁ。入院してからは会っていないからな……そうか、退院したか」
醍醐は消極的ながらも同じ部員の回復を祝うような素振りだったが、
祝われた方は喜びなどしないだろうとアン子が吐き捨てるように言った。
「気をつけてね。どうやら佐久間、醍醐君のこと恨んでいるらしいの」
「……」
醍醐の顔が苦渋に歪む。
その隣で京一がやはり、後ろ姿だけを見て美女だと思ったら女装した男だったというような顔をしていた。
「ッたく、どうしようもない野郎だな。ま、また来ても返り討ちにしてやるだけだし、
あいつなら醍醐ひとりでも大丈夫だろ」
「とりあえず伝えたから。それじゃね」
「あぁ、ありがとう遠野」
アン子は今度こそ駆けだしていった。
急速に小さくなっていく足音が完全に聞こえなくなるまで、龍麻達は何も言わなかった。
ややあって、醍醐が頭を振って言った。
「よし、俺達も行くとしよう」
醍醐の口調には有無を言わせぬものがあり、龍麻達は黙って立ちあがった。
だがこの時、少しでいいから龍麻達と話をしておくべきだった、と後日、
醍醐は断腸の思いで振り返らされることとなるのだった。
教室を出た龍麻達は、揃って下駄箱へと向かう。
その途中で、小蒔が前方を歩く生徒に気づいた。
「あっ……ミサちゃんだ。おーい、ミサちゃーん!」
「馬鹿、なに呼んでんだよ、小蒔ッ」
「もう、京一もいいかげんに慣れなよ。ミサちゃんはこういう不思議な話には詳しいんだからさ」
「そ、そりゃそうだけどよ」
招きに応じてやって来たミサは、両腕に人形を抱えていた。
別段変哲のない人形に見えるが、いかにも大事そうに抱えていて、何かの謂れを感じさせる。
だからといって訊ねる勇気を持つ者はおらず、どうやって歩いているのか不思議な、
全く眼が見えない眼鏡と相まって、彼女の不気味な印象を増幅させるのだった。
「うふふふふ~。何かよう~?
我が傍らに在りし知恵の支配者が、汝のあらゆる求めに応じよう~」
あまり事件を広めてしまうのも良くないだろうが、
ミサの能力は葵が嵯峨野麗司という少年の『力』によって夢に囚われた事件の時に証明されている。
今回の事件でも、訊ねてみて損はないだろう。
「裏密。人を石に変えるって、出来ると思うか?」
荒唐無稽な話を、龍麻はあえて単刀直入に切りこんだ。
「い~し~? 例えば、ギリシャ神話のメデューサみたいに~?」
「メデューサって、頭が蛇のか? それなら、そんな感じだと思う」
龍麻はそれほど昔話や神話に詳しい訳ではないが、メデューサくらいは知っている。
醜く、蛇の髪を持ち、見た者を石に変える力を持つ魔物。
しかし、鏡のように磨かれた盾を持つ勇者ペルセウスに退治され、
その頭はアテナの盾に着けられた……。
メデューサと今回の事件との類似点に龍麻が頷くと、ミサは彼女の持っている知識を披露し始めた。
「う~ん……恐らくは~、邪眼の一種だと思うけど~」
「イビル……アイ?」
「そ~。邪眼っていうのは~、妖術、魔術の類の実施にあたって基礎となる重要な概念であって~、
邪悪なる法を施行する力や~、視線によって他者に邪悪な力を投射することのできる力を持つ~、
ということを表すオカルト用語なの~」
押し黙る龍麻達と対照的に、ミサは水を得た魚のように喋る。
独特なテンポを持つミサの喋り方とあいまって、一同は半ば催眠をかけられているような気持ちになった。
「うふふふ~、まず、F・T・エルワージーはその著書の中で、
邪眼とは魔術の基盤であり起源であると記しているし~、
R・C・マクラガンは邪眼とは強欲と妬みを持った目であり~、
強欲な視線は、巨岩をも二つに割る、と記しているの~。
つまり、相手を石にすることももちろん出来るけど~、
それだけじゃなくて、睨むだけで呪いをかけたり~、
触っただけで相手を病気にも出来るの~。うふふふ~、便利だと思わない~?
緋勇く~んは、どう~? 欲しくない~?」
「いや、俺は別に要らない」
そっけなく龍麻は答えたが、ミサは気にした風もなかった。
「うふふ~、欲しいな~、邪眼~」
「しッ、心配するな、裏密。お前はもう持ってるからよ」
はなはだ失礼な京一の言にも、ミサは堪えた様子もなく邪眼についての解説を続けた。
「うふふふ~、邪眼を持つ代表的な存在は、さっき言ったメデューサね~。
邪眼とは、もともと強い羨望や妬みが基礎になってるの~。
メデューサはもともと、とても美しい地方神だったんだけど~、
その美しさに嫉妬した中央の女神アテナによって、醜い魔物に変えられたの~。
そしてそのことによって、メデューサは邪眼を手に入れたの~。
美しい娘や女神達への、羨望、妬み、恨み……
それら全てを、無機質な石へと変える能力を手に入れたの~。
全ては、邪眼の持ち主の意思次第ってことね~」
「なるほど……ってコトは、この事件の犯人も、
何かを羨んだり、妬んだりしてるってコトなのかな」
「多分ね~」
小蒔の洞察に頷いたミサは、京一などから見たら邪悪、としか形容出来ない笑みを浮かべた。
「緋勇く~ん達といると、本当にオカルティックなことばかり起こるわ~。
これからは、わたしも緋勇くん達についていこうかな~」
止めておけ、と京一がしきりに眼で訴える。
彼に構わず、龍麻は思うところを伝えた。
「裏密の知識は貴重かもしれない。だけど、俺達についてくるのは危険だ」
「うふふふふ~、恐れを知らず虚無を超えて往く者のみが~、真なる叡智に到達できるの~」
「まッ、待て緋勇ッ、裏密なんかと一緒に行動したら、遭わなくてもいい事故に遭うぞ」
不穏な成り行きを止めようと京一は試みたが、龍麻はすでに決めてしまっていた。
「それなら、これからは何かあったら力を貸してもらう。本当にいいんだな?」
「よ~ろ~し~く~ね~」
本当に危険を覚悟したのかどうか、さっぱり判別できないまま、
とにかくミサは龍麻達に力を貸すことを了承した。
「おい緋勇、本気かよ」
今日のところはミサと別れて歩き出した途端、京一が龍麻に囁く。
「裏密のことか? 忠告はしたし、危ないかどうかは自分で判断できるだろ」
「そうじゃなくてよ、お前、遭わなくてもいい事故に遭うかもしれねェぞ」
京一の言い分は、ある意味でミサの力を認めているということになる。
それは京一だけでなく醍醐も同様らしく、京一の後ろでさかんに頷いていた。
「もうッ、大の男が何こそこそ話してるのさ。もしかしてミサちゃんが怖いの?」
「ば、馬鹿野郎ッ、ンなことあるかッ、なあ醍醐」
「う、うむ、そうだな、そんなことはないぞ、桜井」
「ならいいじゃない。ね、緋勇クン」
「ああ」
龍麻が頷くと、小蒔は陽気な妖精のような足取りで先へ進む。
その後ろを、恨めしげな顔つきで京一と醍醐がついていくのだった。
鎧扇寺学園の入り口は、高校とは思えない古式な門で固められていた。
来る途中醍醐に聞いた話では、東京の高校の中でも特にスポーツに力を入れている所で、
特に空手部や柔道部などは全国大会に出ることも多いほどの強さを誇っているという。
与えられた情報を以って眺めれば、いかにも相応しく思える門構えだった。
「ここが鎧扇寺学園か。とりあえず、そこらへんの奴掴まえて話でも聞いてみるか」
いくら立派なものであっても無機物に畏れ入ったりなどはしない京一は、
早くも門から出てくる生徒に目星をつけている。
「京一。まだここの生徒が犯人だと決まった訳じゃないんだぞ」
「わかってるって。穏便に……だろ? で、どうする?」
「そうだな、とりあえず空手部にでも行ってみるか。何か情報が掴めるかもしれん」
今回の事件に鎧扇寺学園が関係しているのなら、当然空手部が疑わしい。
つまり直接敵地に乗りこもうというわけで、龍麻達は自ずと気を引き締めた。
「よっしゃッ。で、空手部はどこにあるんだ」
「うむ、それは……」
醍醐も鎧扇寺に来るのは初めてで、部室、あるいは道場がどこにあるのかなど知りはしない。
すると、小蒔が足取りも軽く校門に近づいていった。
「ちょっと聞いてくるから待ってて。行こ、葵」
「おい、桜井」
醍醐の制止を聞き流して二人は中に入ってしまう。
「ま、大丈夫だろ。女相手にいきなり襲ってくるとも思えねェし、
小蒔はアレで人懐っこいからな、空手部の場所くらいすぐに聞き出してくるだろうよ」
彼女が去っていった方を心配げに見る醍醐に、薄い笑みを浮かべながら京一が言った。
京一の言う通り、二人は五分もしないで戻ってきた。
「空手部は体育館裏の道場にあるんだって」
「な?」
「何が『な?』なの?」
「いや、さすがに鎧扇寺の連中も同性のお前にゃ何もしねェだろって話よ」
「同性って……あッ!」
意味に気づいた小蒔は間髪入れずに京一の腹にパンチをお見舞いした。
「ぐわッ! くそッ、この暴力野郎め……」
「失礼なコト言うからだよ。ね、葵」
「え、ええ、そうね」
まるで緊張感のない二人に、葵はあいまいに頷く。
そんな彼女に小首をかしげた小蒔は、気を取り直して言った。
「あ、でも、ボク達が真神から来たって知ったら、凄く機嫌悪くなったよ」
「ふむ……よく無事で戻ってきたな、桜井」
「やだな、そんな大げさなモンじゃないってば」
醍醐に手を振った小蒔は、身を翻して先頭に立った。
「さっそく行ってみようよ、そのために来たんだし」
敷地を横断し、体育館の裏側を龍麻達は目指す。
その道すがら、龍麻は彼の抱いた疑問を口にした。
「変だな」
「何がだよ、緋勇」
訊ねた京一だけでなく、全員に語りかけるように説明する。
「アン子の情報では、襲われたのは真神の生徒だけだ」
「うん、そう言ってたね」
「それならどうして鎧扇寺が機嫌を悪くする?
奇襲に成功したんだから、喜ぶか警戒するか、どっちかだろう」
「そういえば、そうだね」
応じた小蒔は、龍麻に倣って眉間に皺を寄せた。
「ボクね、ここの人達はやってないような気がするんだ。
どうしてって訊かれても答えられないけど」
おそらく彼女は、学校の雰囲気をなんとなく察知したのだろう。
鎧扇寺は男子校であるから、真神とは雰囲気が異なるが、悪辣な空気は感じない。
現に龍麻達はここまで、制止や妨害を一切受けていないのだ。
その辺りは同感なのか、あくびをしながら京一が応じた。
「まあ、もう来ちまったんだ。直接聞いた方が早えだろ」
頷いた龍麻達は、校舎を曲がって体育館裏へと向かった。
裏手、と言うからにはあまり大きな建物ではないと想像していた龍麻達を、
鎧扇寺学園の道場は鼻で笑い飛ばした。
空手部の看板のみが掲げられた道場は、古めかしさこそ隠せないものの、
体育館の半分ほどの大きさもある、立派な造りをしていたのだ。
普通の部室に無理やりリングを設置している醍醐などは、感嘆まじりの感想を漏らした。
「流石に全国で優勝する高校ともなると、設備が違うな」
「空手部だけでこの道場かよ……真神なんか、剣道空手柔道で汚ぇ道場を共同で使ってんだぜ。
……なんか、ムカついてきたぜ」
ろくに部活に出ないくせに、こういう時だけ愛部精神を発揮して京一が憤る。
既に激発しそうな京一に危険を感じた醍醐は、
道場に向かって木刀を突きつける阿呆を押し退けて扉の前に立った。
「誰かいるか? 話を聞きたいんだが」
返事は無かった。
更にもう一度声をかけ、同時に気配を探る。
そこには微かだが、確かに人の気配があった。
「誰かいないのか? いないのなら勝手に入らせてもらうぞ」
殊更大声を張り上げた醍醐は、龍麻と京一に目配せする。
ここから先は、油断は禁物だった。
醍醐があえて音高く扉を開ける。
勢い良く開かれた扉は抗議の声を音高く道場内に響かせたが、誰も慰めようとはしなかった。
入り口に誰もいないことを確かめた醍醐は、一気に道場内に入る。
武を修める神聖な空間に土足で踏み込むのは気が引けたが、そうも言っていられなかった。
醍醐に続いて龍麻、京一の順で入り、散開して壁を背に素早く立ち、
一呼吸を数える間に道場を素早く見渡す。
誰かが襲ってくる気配は──否、人影自体がなかった。
ただ一人を除いては。
「あそこに誰かいるぞ」
龍麻が指差した先に、男が座っていた。
背筋を伸ばし、正しく座っている男は、龍麻達の声にも反応しない。
眠っているのかと思われたが、どうやら目は閉じているだけで、瞑想をしているらしかった。
年季の入った空手着が、その下の肉体に押し上げられ悲鳴を上げている。
堂々たる体躯は醍醐と較べても劣る物ではなく、短く刈り揃えられた頭髪、
頬に走る大きな傷は、いかにも格闘家といった趣だった。
男は龍麻達が近づいても微動だにしない。
心、水面の如し──そう形容するに相応しい落ち着きぶりだった。
それでも拳が届く距離に醍醐が立つと、薄く目を開けて無礼な侵入者を見やる。
瞬間にも満たない間、烈しい視線を交わした醍醐は、重々しい口調で訊ねた。
「──空手部の人間だな」
「そろそろ来る頃だと思っていた。真神學園の者だな?」
男の一声は、その野太い声質に似合わない、静かなものだった。
「そうだ。三年の醍醐雄矢だ」
「ほう、お前が醍醐か。一度会ってみたいと思っていたよ」
「光栄だな。いきなりだが、二、三聞きたい事がある。話してもらえるな」
醍醐の厳しい声にも動じた様子ではなかったが、男は立ちあがった。
「俺に選択権はあるのか? 力ずくでも聞こうって顔だが」
男が立ちあがると、たちまち巨大な壁となり、道場が狭くなったような錯覚さえするほどだった。
醍醐と並んで立たれると、射していた夕陽が遮られ、龍麻の頬を影が覆う。
軽く目を細めた龍麻だったが、男は醍醐以外眼中にないようだった。
「俺の名は紫暮兵庫。鎧扇寺学園の三年で、空手部主将だ」
そう名乗った男に、簡単に頷いた醍醐はいきなり核心から入った。
社交辞令など得意とするところではなかったし、友好的な関係を育む必要もなかったからだ。
「昨日、真神の空手部員が襲われた。全員重傷で、現在入院中だ」
「……」
「犯人の心当たりはないが、現場には鎧扇寺の学ランのボタンが残されていた。
そして、襲われた部員も鎧扇寺の名を口にしている。
あんたの高校を疑いたくはないが、そうも言ってられん」
「なるほどな。それでわざわざうちの高校に来て空手部に顔を出した、と言う訳か」
これだけの説明であっさりと頷いたところを見ると、
どうやら紫暮も昨夜起こった事件についてある程度は知っているようだった。
醍醐を真っ向から睨みつけて話を聞いていた紫暮は、
醍醐が話終えると一度目を閉じ、一息に言い放った。
「迷惑な話だ」
「ンだと手前ェッ! こうしてる今でも襲われた奴らは苦しんでんだぞッ! それを迷惑たぁ──」
「あんたのところの生徒がどうなろうと、うちには関係無い話だ」
「……紫暮。単刀直入に聞きたいんだが、今の話に心当たりは無いのか?」
逸る京一にも紫暮は落ち着き払っていた。
しかし、今にも殴りかかりそうな京一を片手で制して醍醐が訊ねると、眼光が険しくなる。
「俺が否定して、それでお前達は納得出来るのか?
これだけの人数でここまで来たということは、闘う覚悟もある──
ということじゃないのか?
残念だが、俺にはその覚悟を打ち消すだけの無実の証明が無い」
「つまり、やっちゃいねぇ──が、証拠もねぇってことか」
紫暮は頷かず、京一に答えた。
「……俺も武道家の端くれだ。この拳を以って無実を証明することなら出来る」
「まさか、てめェ一人で俺達全員を相手にするってのか?」
「無論。一人ずつでも、全員同時でも」
「いい度胸じゃねぇか」
まんざら嘲った様子でもなく京一が呟く。
しかし、上等とばかりに早くもボタンに手をかけ、
喧嘩の準備を始めようとする京一を、突如後ろから現れた野太い声が止めた。
何事かと振り返る京一の目に、白い道着を着た男が数人映る。
「主将、俺達にも加勢させてください!」
「お前達、今日はもう帰宅しろと言ったはずだ」
「しかし主将! いくら無実を証明するためとは言え、主将は最後の大会を控えた身」
「あらぬ疑いをかけられた上に、こんな私闘に付き合うなんて人が好すぎます!」
口々に詰め寄る部員達に、紫暮は初めて困ったような顔をしていた。
それを見た醍醐は、ある確信を胸に抱いたが、もはや引き返すことは出来なかった。
「──解った。お前の覚悟は確かに受けた。が、俺達は何も喧嘩をしに来た訳じゃない。
一対一で闘れば充分だろう」
「俺は別に構わんが」
龍麻は当然話を切り出し、また唯一顔を知られている醍醐が相手をするものだと思っていたのだが、そうではなかった。
「このあいだ真神では番長の交代があってな。今はこいつが総番だ」
「お、おい」
不意に背中を力強く押された龍麻はよろめいてしまう。
醍醐以外は気にも留めていなかった紫暮は、いかにも頼りなさそうに出てきた男に、
初めて視線を向けた。
「ふむ、お前より強そうにも見えんが……いいのか?」
紫暮が聞いているのは、龍麻が負ければ単に龍麻一人が負けたというだけでない、
真神の番長として名が通っている醍醐も負けたことになるのだ、と言うことだった。
どれほどこの場にいる全員が口を閉ざしても、この手の事実は必ずどこかから漏れる。
そしてこの手の事実は、どれほど事実から遠いものとなっても、
人が信じたいものへと変わっていってしまうものなのだ。
「ああ、いいさ。元々そんなものに興味は無い。それより、こいつ──名は緋勇と言うんだが、
こいつは強いぞ。それは俺が太鼓判を押す」
自信たっぷりに言う醍醐に、紫暮は改めて龍麻を見た。
身体付きはまずまずだが、空手や柔道をしているにしては筋肉が薄い。
拳にも胼胝は無く、どうにも不可解な人選だと思われた。
しかし真神にその人ありと言われた醍醐が、冗談にせよ総番と言うだけの人物であり、
何気ない立居振舞いにも確かに隙はない。
龍麻の強さを認めたかのように、紫暮は帯を締め直した。
「確かに、中々良い目をしているな、武道を極めんとする……何をやっているんだ?」
「名も無い古武術の一流派だ」
「手の内は見せたくない、というわけか。いいだろう、緋勇とやら、俺の拳、受けてもらおうか」
龍麻は事実を告げただけだったが、紫暮には深読みされてしまったようだ。
軽く肩をすくめた龍麻は、一瞬だけ恨みがましい視線を醍醐に向け、制服を脱ぎ始めた。
龍麻を残して、京一達は床に引かれている線から外に出た。
異種とは言えこれは試合であり、その形式を守ったのだ。
鎧扇寺の空手部員達も龍麻と紫暮を囲むように座る。
鋭い眼光が何本も刺してきたが、これには龍麻は動じなかった。
ただし紫暮のものだけは別格で、一段高い位置から射込まれる視線は並々ならぬ威力を持っている。
ミサの言う邪眼ほどではないにせよ、充分に人に影響を与えることの出来る眼だった。
「行くぞッ!!」
雄叫びを上げた紫暮が、鋭い踏み込みと共に拳を繰り出す。
基本の構えから放たれた正拳突きは、その堂々たる体躯からは想像も出来ないほど疾かった。
充分に予想していたはずの龍麻も、よけることは出来ず、受けるのが精一杯だ。
それも、受けた手を危うく弾き飛ばされそうになりながらだ。
一瞬、瞳に驚きの色を浮かべた紫暮は、しかしすぐに次の攻撃をしかけた。
今度は腹を狙った、全身の体重を乗せた蹴り。
やや体勢を崩している龍麻は防御しようとしているが、それでは間に合わない。
紫暮は己の蹴りが入ったのを確信した。
足の甲が身体を捉えた瞬間、更に力を乗せて一気に振りぬく。
確かな手応えと共に、男の身体が吹っ飛ぶのを紫暮はしっかりと見届けた。
「緋勇クンッ!!」
小蒔が立ち上がり、駆け寄ろうとする。
その腕を掴んだのは、醍醐だった。
「落ち着け、桜井。緋勇なら大丈夫だ」
「だって、あんなに吹っ飛ばされて……」
衝動の矛先を醍醐に向ける小蒔の、視界の端で龍麻が立ちあがる。
それを見た小蒔は、やり場のない不満をぶつけるように勢い良く座り、
龍麻を応援するべく拳を握り締めた。
一メートルほども吹き飛ばされた龍麻がよろめきつつも立ちあがると、部員達の歓声が止んだ。
自分達の主将の蹴りがあれだけ見事に入って立った人間など、初めて見たのだ。
そして彼らの主将にも、はっきりとした驚愕の表情が広がっている。
今の手応えは間違いなくあった。
手加減などしていない、渾身の一撃だ。
これほど綺麗に決まることは滅多になく、まれに未熟な部員に入ってしまうと、
胃液を吐いて悶絶させてしまうほどの威力がある、基本にして必殺の蹴りだった。
「ふう……」
それを目の前の、体格だけは良いが、厳しい修行など何も積んでいなさそうな男は、
軽く呻いただけで済ませてしまったのだ。
部員達の驚きが、衝撃波となって道場を揺らしていた。
その衝撃に呑みこまれかけた紫暮は、気合を入れなおすべく声を上げる。
試合の最中に油断するなど、未熟の証だった。
一度で倒れなければ、何度でも倒せばいい。
まだ完全には構えを取っていない龍麻に向かって、紫暮は突進した。
この時紫暮の胸中に、かけられている疑いを晴らすことはない。
ただ一人の武道家として、目の前の敵を倒すことに全神経を集中させていた。
立ちあがった龍麻の瞳に、紫暮が映る。
まだ未熟な自分の防御が腹立たしかったが、
あの一撃に、とっさに氣による防御が間に合っただけでも良しとすべきなのだろう。
半瞬で呼吸が乱れていないことを確かめ、次の半瞬で紫暮の次の攻撃を読む。
もちろん続けて攻撃を受けるつもりなどない龍麻は、今度は自分から仕掛けた。
自ら踏み込み、もう一度蹴りを放とうとする紫暮の懐に潜り込む。
無論紫暮は蹴りを放ちつつも防御を怠ってはいなかったが、
龍麻の手はそれを潜り抜けて身体に到達した。
体内の氣の集積所であるチャクラを開き、そこから更に身体を循環させて氣を練り上げる。
この「開く」ことこそが龍麻の行わされた修行なのだが、
一生を費やしても完全に開ききることなど人の身では不可能と言われるこれを、
半年足らずの修行しか行っていない龍麻が開けることが出来るのは、ごくわずかな量だった。
それでも素質があるらしい──これは彼が師から思わせぶりに聞かされたことだ──
龍麻は、瞬く間に同じ修行を積んだ兄弟子達を上回る氣を操れるようになっていた。
そして今、掌に集めた──正確には、そうイメージした──氣を一気に解き放つ。
一瞬、全身を猛り狂うエネルギーが走り抜け、肌に灼熱を感じる。
その熱が最も高まっている掌から、紫暮の空手着、更には背中へと、一直線に氣を徹した。
独特の呼吸によって体内で生成された氣は、直接触れることで、
いささかもその威力を減じることなく紫暮を撃った。
塊として放出すれば肉体で防ぐことも出来る氣だが、
対象に密着して放てば同じ氣による防御でなければ防ぐことは出来ない。
鍛えぬかれた筋肉も、その内側から徹されてしまってはどうしようもない、と言う訳だった。
「ぐ……おッ」
再び部員達が声を上げる。
しかし今度は、敬愛する彼らの部長が片膝を木張りの床についたからだった。
そのまま倒れてしまうのではないかと動揺する部員を静めるように、紫暮が吼える。
「まだまだッ!」
立ちあがった紫暮は、少なくともダメージを残しているようには見えない。
そして一度見せた手の内を、もう一度させてもらえるとも思えなかった。
何より今の防御と攻撃で氣をほとんど放出してしまい、
再び練りあがるまでに幾ばくかの時間を必要とするのだ。
その時間を稼ぐよりは、肉体のみで決着をつける。
その道を採った龍麻は、紫暮を打ち倒すべく挑みかかった。
鋭い踏み込みで、床を捉える。
蹴るのではなく、根付かせるのだ。
大地、ひいては地球そのものと一体になるという思想が根底に流れる龍麻の古武術は、
特にその足さばきに特徴があった。
踏みしめた地面から地球の力を受け取り、その力を転じて攻撃と為す。
氣は無くとも必殺の威力を持つ武術ではあるが、その反面防御が手薄になってしまう弱点も持つ。
ましてやまだまだ未熟な龍麻と、幼い頃から空手一筋の紫暮とでは、
紫暮が氣によるダメージを残してなんとか五分といったところだった。
息詰まる拳の撃ち合いが始まった。
龍麻の掌底が紫暮の頬を叩き、紫暮の正拳が龍麻の胸を撃つ。
お互いに接近戦を好む二人は、ほとんど密着した間合いで拳を奮っていた。
突きが当たる度、身体が軋む。
反射的に返しの一打を放ちながら、独特の高揚に蝕まれた龍麻は、笑みさえ浮かべつつあった。
紫暮の拳は、潔いほど駆け引きのない、真っ直ぐなものだった。
それを龍麻が感じ取れたのは、皮肉にも彼の学んでいる武術が古の流れを汲む、
勝つ為には手段をあまり問わない型の武術であり、積んできた練習は、
ありとあらゆる攻撃を──飛び道具でさえその中には含まれる──想定して行われたものだからだ。
だから龍麻は、その気になればもっと簡単に勝利を得ることが出来たかもしれない。
空手では反則である攻めを、いくらでもしかける隙はあったからだ。
しかし、それでは意味がない。
一人で自分達全員を相手にすると言い、身の潔白を証明しようとする紫暮の誇りを踏みにじることになる。
単純に技同士のぶつかり合いでは紫暮の方に分があったが、
それでも龍麻はその類の攻めを一切行わなかった。
ただ己の、肉体と精神のみを使って紫暮と拳を交わす。
二人がかき鳴らす鈍い音の多重奏を、部員達も、京一達もいつしか黙って聞き入っていた。
数十秒足らずの、しかし密度の濃さでは比類のない、
既に風景の一部となりつつあった闘いの末は、再び龍麻が吹き飛ぶことでついた。
「緋勇クンッ!」
再び小蒔が立ちあがる。
それでも、場内に足を踏み入れようとしなかったのは、
二人が真剣勝負をしているところに踏み入ることはできないと、
種目は違っても武道を修めているが故だった。
心配する小蒔達の前で、龍麻はどうにか起きあがったが、
片膝をついたところから立ち上がれない。
一方の紫暮も、鏡に写したかのように片膝をついたままで、
居合わせる部員達は瞠目したまま彼らの主将を見守っていた。
「主将ッ!! しっかりしてくださいッ!!」
だが、彼らの声援に呼応したのは、皮肉にも主将の敵手の方が先だった。
錆びついた動輪のようなぎこちなさではあったが、紫暮に先んじて完全に立ちあがった龍麻は、
部員達が慨歎する中、彼のもとに歩み寄ると、手を差し伸べた。
「やれやれ……俺もまだまだ修行が足らんな」
破顔した紫暮は龍麻の手を掴み、立ちあがる。
途端に龍麻に受けた打撃の痛みが全身を貫いたが、部員達の手前、
わずかに顔をしかめただけで耐えた。
「緋勇と言ったな。本当に強いな、お前は。総番が交代したというだけのことはあった」
「実は、立っているだけで精一杯なんだ」
小声で龍麻が言うと、紫暮は今度は豪快に笑った。
「そうか……いい勝負だったな」
頃合いと見たのか、部員達が恐る恐る声をかけてきた。
「主将、医務室へ行かれた方が」
「フン、これくらいの傷、三日もすれば痕も残らんわ。
それよりお前らこそもう本当に帰れ。俺はまだこいつらと話がある」
「しかし」
「大丈夫だ。もう闘りあうことはない」
「押忍ッ! それでは失礼しますッ!」
一斉に頭を下げた紫暮の後輩達は、駆け足で出口へ行き、
そこで主将に向かって一礼をして去っていく。
規律のとれた彼らの振舞いは、悪い印象を抱きようもないものだった。
「いい部員だな。空手と部を愛してる」
「誉めても何もでんぞ」
紫暮は再び笑い、龍麻達に座るよう勧め、自分も座った。
「あんな技は初めて受けたが、あれはもしかして勁というやつか?」
「ああ、そうだ」
「そうか……身につけるには相当な修練を積むのだろう? 大したものだな」
紫暮は興味津々といった風でつい今しがたまで本気で闘っていた男を眺めている。
彼の態度に京一は呆れ、隣の醍醐を肘で突いた。
「おい、お前がもうひとり居やがるぞ」
「む……そ、そうか?」
氣についてしつこく質問する紫暮と、それに答える龍麻の会話に聞き入っていて
反応が遅れた醍醐の返事が、京一の嫌味を肯定していた。
すでに龍麻達は紫暮が闇討ちをするような卑劣漢でないと確信している。
だが、実際に怪我人が出ている以上、どうしても言葉で確認する必要があった。
「紫暮……もう一度聞きたい。真神の人間を襲った奴に心当たりは?」
醍醐の問いかけに、紫暮は背筋を伸ばして答えた。
「少なくとも、俺の知っている限りでは、ない」
「そうか。──紫暮、あんたは立派な武道家だな。
今更だが、礼を欠いたことを謝らせてもらうよ。すまなかった」
「そんなでかい図体で情けない顔をするな。実を言うとな、
醍醐って奴と一度手合わせしてみたかったのさ」
「……物好きな野郎だな」
京一が呟くと、紫暮は豪快に笑う。
こちらが本来のこの男の表情なのだろう、いかにも武道家らしい、全てを許す笑い方だった。
笑いを収めた紫暮が、改めて龍麻を眺める。
「しかしお前ほどの男を、今まで噂にも聞いたことがないのは不思議だな」
「あァ……緋勇は転校生なんだ」
軽く答えた京一に、紫暮は思いのほか真剣な表情で訊ねた。
「転校生? 真神にもか?」
「にも? 他にもいるのか?」
「鎧扇寺ではないが、転校生の噂は良く耳にする」
「まぁ、東京にだって腐る程高校はあるんだ。転校生の二人や三人珍しくもねェだろ」
「ふむ……確かにそうだが、今年に限って多いというのもおかしな話だと思わんか」
「……」
膝についた手に顎を乗せた京一は、眉をしかめて考え込んだが、やがて両手を上げて降参した。
紫暮も話したこと以上の情報を持っている訳ではなく、この時はこれで話が終わってしまった。
確かにたまたま、という可能性もあるし、もっと大事なことを訊ねなければならなかったからだ。
「さて……俺の方からも聞きたい事があるんだがな」
そう切り出した紫暮の左手が、さりげなく腹を押さえている。
それに気づいた龍麻は、片手を上げて紫暮を制した。
「美里、『力』を使ってやってくれ」
「――はい」
唐突に名を呼ばれて葵は驚いた。
人前で『力』を使うことも、もっと言うなら『力』自体使うのが嫌なのだが、この流れでは仕方がない。
紫暮の腹部に手を添え、癒やしの『力』を用いた。
それほどの間もなく治療を終えた葵は、すぐに小蒔の隣に戻る。
すると、紫暮が驚愕の表情で見ていた。
「今のも……緋勇と同じ『力』なのか?」
「あ、あの……」
答えてしまって良いものかどうか、葵はこの事柄に関しての責任者的な立場にある男に目で訊ねた。
龍麻の答えは明快だった。
「多いかどうかはわからない……けど、ここにいる俺達は全員、
そして──その他にも何人かは知っている」
「そうか……」
「もちろん俺達だって最初から使えた訳じゃない。ある日を境に、急に使えるようになったんだ」
「なるほど……な」
紫暮は腕を組み、眼を閉じて黙ってしまった。
常識外の出来事に接したのだから当然の反応ともいえるが、
もっと否定なり疑いなりしても良いようにも思われる。
龍麻達が抱いた違和感は、次の話題でさらに増幅された。
「紫暮、今回の事件についてはどの位知っている?」
醍醐の質問に、紫暮は片方の眼を開けた。
「……真神の空手部員が、襲われて重傷──その位だ」
「そうか。その襲われた部員は──身体を石にされるという症状が出ている」
「石に……」
「信じられんのも無理はないが、事実だ」
しかし、紫暮の顔に疑念や嘲笑は浮かんでいなかった。
再び両目を閉じ、眉間に深い皺を刻んで何事か考えこんでいる。
「犠牲者をこれ以上増やさない為にも、早く犯人を見つけないといかん。
そして犯人を止められるのは、多分同じ『力』を持つ俺達だけだろう。俺達には時間が無いんだ」
話し終えた醍醐に、紫暮は重々しく応じた。
「大会前の部員が襲われれば、当然関係者が疑われる。
もし鎧扇寺の部員が襲われていれば、俺も真神を疑ったろうな」
紫暮の言葉に、龍麻はひとつの可能性に思い至った。
「もしかしたら、犯人はそれを狙って……?」
「その可能性はある……というより恐らくそうだろうな。
俺とあんた達を闘わせ、潰しあうのを狙って一件を仕組んだ」
「ちょっと待てよ。そいつは話が飛躍しすぎじゃねぇか?」
「そうだよね。ボク達は初対面だし、それに、
空手部同士のことにボク達が首を突っこむことまで計算してたってコト?
ちょっと無理があるんじゃないかなぁ。ね、緋勇クン」
京一と小蒔が口々に反論する。
この時、議論に参加していない葵は、むしろ親友の意見に反対だった。
龍麻が真神に来てから、揉め事が飛躍的に増えている。
京一にせよ小蒔にせよ、そういった事に首を突っこみたがる性分ではあるだろうが、
三年生になるまでは、京一はともかく小蒔は、勉強よりも部活動に青春を注ぐ、
ごく普通の活発な女の子だったはずなのだ。
それが、龍麻が転校してきたこの数ヶ月で、さまざまな非常識な事件に関わってきた。
新宿中央公園で日本刀を持った男に出くわした事件や、渋谷で鴉が大量発生した事件。
葵自身も危険な目にあった、夢の中から精神を支配しようとした、嵯峨野麗司の事件。
それらには異能の『力』が関わっており、そして、
同種の『力』を持つ龍麻が転校してきてから発生しているのだ。
龍麻もそれを認め、むしろ積極的にこれらの事件に関わろうとしている。
葵はなんとかして、せめて小蒔だけでも危険な事件に関わらないようにして欲しいのだ。
「だが、現に俺達はこうしてここにいる。紫暮の言う事も可能性がない訳じゃない」
「紫暮か俺達を知っているヤツの仕業ってことも考えられるって訳か」
「そうなると……あの夜、敵は、俺達に発見させようとしたのかも知れないな」
龍麻達は口早に語り合ったが、どれも推測を出ない。
情報が不足しているのだ。
それぞれの表情で腕を組んだ龍麻達に、紫暮からごくさりげなく爆弾が投げこまれた。
「……もう一つ、お前らの知らない事がある」
「なんだ」
答えない紫暮に、短気な京一が声を荒げようとすると、紫暮の身体が薄青く光りはじめた。
それは、どこかで見たことのある光だった。
「おい、こりゃ……」
「──!!」
淡い輝きは強さを増し、紫暮の身体を包み込む。
その光が完全に紫暮を隠し、やがて消えた時──もう一人の紫暮がそこにいた。
「なっ……」
高校生にしては肝の座っている龍麻も、これには声が出ない。
京一達も同様で、突如現れた二人目の紫暮を、呆然と眺めていた。
涙が滲むほど擦っても、紫暮は二人のままだ。
ただし良く見れば、左側の紫暮の方がやや輪郭がぼやけているようだった。
一様に驚いている龍麻達に、紫暮は自らの起こした現象について説明する。
「二重存在……と言うそうだ。正確には違うらしいが、
なにしろこんな事が他の誰かに起こっているとも思えん」
「しかし……凄いな。これ全部『氣』なのか?」
「さぁ……な。俺にも良く解らん。
初めは寝ている時しか現れなかったんだが、今では好きな時に出せるようになりつつある。
そしてこれが出来るようになったのは……ほぼお前らと同じ頃だ」
男達は鋭く視線を交わした。
葵は親友を護りたいという一心と、龍麻に対する個人的な嫌悪による偏見から、
龍麻こそが事象の発生源であると確信したが、京一達も、
何より龍麻自身も同じ結論に至ろうとしていた。
「お前と居りゃあ、トコトン退屈しないで済みそうだな」
そういう言い方で京一は、危険から遠ざかる気が全くないことを表明した。
醍醐も強く頷く。
二重存在に特に最も興味を持ったのは小蒔で、身を乗り出して指でつついたりしていた。
「……これ、別々に動かせるの?」
「例えば闘っていて蹴りと突きを別々に出したり、挟み撃ちにしようとかは出来るが、
飯と空手を別々にやったり、全く違う所に行ったりは出来ん」
「でもさ、ラーメンとケーキを一緒に食べられるんでしょ。
そしたらすっごいたくさんのものが食べられるよね、いいなぁ」
一同の中で最も食欲の魔人に支配されている小蒔が、心底うらやましそうに言った。
それを聞いた京一は、こんなうるさいのが二人もいたらたまらねぇ──とは言わず、
より効果的な文句を投げつけた。
「アホかお前は。だったら二倍早く腹が減るだろうが」
「あ、そっか」
「ははは、それは考えたことがなかったが──多分、片方は氣だから駄目だろうな。
それに、これも氣だからな、出していればそれだけ早く疲れる。
そんなに便利なものでもないってことだ」
紫暮は笑い、もう一人の紫暮を消した。
現れた時と同様、瞬時に居なくなった紫暮に、改めて一同は驚く。
まるで一流の手品師のショーを見ているようだった。
「なるほど……これで俺達と鎧扇寺……いや、紫暮を結ぶ線が出来たって訳か」
『力』持つ者同士を噛み合わせる──そこにどんな意味があるのかはまだ解らないとしても、
今回の件に関してはこれで説明がつきそうだった。
太い腕を組んだ紫暮は、ふと心づいて訊ねた。
「それよりも、さっき言っていた時間がない、というのはどういう意味だ?」
「石にされた人間は、徐々に石化が進行していく。
心臓まで石になってしまえば、もう元には戻らない」
「そういうことか。……事実を知ってしまった以上、俺も無関係ではない。
犯人探しを手伝わせてもらおう」
「助かる……が、大会はいいのか?」
龍麻が慮ったのは、紫暮が全国大会出場の懸かった地区大会を控えた身だということだった。
ところが凄腕の空手家は、そんな龍麻の心配をまたしても豪快に笑い飛ばす。
「強敵のいない大会など、出ても張り合いがないからな」
「言ってくれるな。そういうことなら、よろしく頼む」
心強い仲間を得た龍麻達は、ひとまず帰る為に立ちあがる。
制服を着込む龍麻をちらりと眺めた醍醐は、最後の疑問を口にした。
「紫暮、ひとつ聞かせてくれ。どうして緋勇との闘いで二重存在を使わなかった?」
「おいおい、部員の前であんなのを使えというのか?
──それに、空手家が身の潔白を証明するのに空手以外のものを使ってどうする」
そう告げた紫暮の顔には、武道家としての誇りがはっきりと浮かんでいた。
深い感銘を受けて頷く醍醐に、紫暮は今度は破顔一笑した。
「まあ正直なところ、まだ実戦で使えるレベルではないしな。
特にお前らのような奴と闘う時にはかえって逆効果だろう」
「そういうことか」
「何か判ったらすぐに知らせる。そちらでも何かあったらいつでも連絡してくれ」
道場の入り口まで新しい友人達を見送った紫暮は、急に何かを思い出したように付け加えた。
「そうだ──参考になるかは判らんが、数日前にうちの部員がこの辺りで不審な男を見たと言っていたな」
「不審?」
「うむ。やけに派手な装飾を付けたスキンヘッドの男だそうだ。
見た所俺達と歳は違わないらしいが、この辺りでは見ない顔だったと」
龍麻達は顔を見合わせるが、もちろん心当たりなどない。
木刀で軽く自分の肩を叩いた京一が、興味はほとんどない、とばかりに首を振った。
「スキンヘッドか……ま、今日びその位珍しくはねぇけどよ。他に何か特徴とかねぇのか?」
「あぁ、あと──左腕に大きな刺青があったとか」
それも今時の東京では、さして珍しいとはいえないだろう。
そう思った龍麻達だったが、一人、反応を示した男がいた。
「左腕に……刺青? まさか……いや、そんな……」
「おい醍醐、なんか思い当たる事でもあんのかよ」
「いや……昔の知り合いにそんな奴がいたが……」
醍醐の顔は道場に差す夕陽の中にあって青ざめている。
京一だけでなく、この場にいる全員が続きを待ったが、
醍醐はついにそれ以上口にしなかったので、一行はやや白けてしまい、
その雰囲気に抗えないまま帰ることになった。
「一応、そいつも少し調べてみた方が良さそうだな」
「頼む。それじゃ、俺達は行くよ」
「うむ。この件が片付いたら、また遊びに来い。
特に緋勇、お前とは是非もう一度手合わせしてみたい」
「ヘッ、えらく気にいられちまったな、緋勇。あんなムサ苦しい野郎に、気の毒なこった」
男子校などに二度と来るつもりはない京一がそう言ったのは、鎧扇寺の門を出てからだった。
薄く笑うだけで肯定も否定もしない龍麻の前に、小蒔が回りこむ。
「でも凄かったよね、緋勇クン。紫暮クンにも一歩も引けを取らなかったんだもん」
「そうだな……あのドッペルゲンガーを使われていたら、負けてたかもしれないな」
「うん……でも良かったね、鎧扇寺学園が関わってなくて」
「ああ」
龍麻は頷いたが、それは手がかりが振りだしに戻ってしまったことを意味する。
どうやってこの事件の犯人を追うか、改めて考えようとする龍麻の眼に、
彼より深刻に考えている男の姿が写った。
「どうした、醍醐」
「ああ、ちょっと考え事をしていてな」
「ったく、お前はすぐに考えすぎる悪い癖があるからな」
軽い嘲りの口調で京一に言われても、醍醐は激したりはしなかった。
「解っているさ。……それより緋勇、病院へ寄っていかないか?」
「そうだ……な」
露骨に逃げられたように感じたのは、醍醐の話術が巧みではなかっただけではないだろう。
彼は明らかに、考え事について触れられたくなかったのだ。
とはいえ、本人が言わないのであればどうしようもない。
なんとなく無言になったまま、龍麻達は桜ヶ丘中央病院に足を向けたのだった。
龍麻と醍醐、それに京一にとっては連日の訪問となる、桜ヶ丘中央病院だった。
「うう……今年に入ってもう三回も来ちまった。こりゃ本格的に厄落とししねぇとな。
な、緋勇、そん時ゃつきあえよ」
「厄落としって何をするんだ」
「あ? そりゃお前、心と身体を癒せるおねェちゃんをだな……」
龍麻の疑問に、京一は心の底からの願望とばかりにしみじみと答えたが、
感銘を受けた人間は一人もいなかった。
「ホンットに京一ってアホなんだね。緋勇クン、こいつの言うことなんか本気にしなくていいからね」
面々が呆れる中、小蒔に至ってははっきりと京一を罵倒した。
「ぐッ……くそッ、行こうぜ、緋勇」
劣勢に立たされた京一は、木刀を携えて先に行く。
それは死地に自ら飛びこんでいくのと同義であると、
彼以外の全員が気づき、含み笑いを交わしあった。
相変わらず人の気配の無い病院の前で、小蒔が至極当然のことを口にする。
「たか子センセーいるかな?」
「その名前を俺の前で口にするんじゃねぇッ!」
「ふーん、そういうコトいうんだ。たか子センセーに京一が来たって教えてあげないと」
「や、止めろッ!」
いくら閑古鳥が鳴いているとはいえ、病院の前で騒ぐ二人に、
恥ずかしくなった三人は揃って中に入っていった。
相変わらず人の気配というものが全く無い病院のロビーだった。
患者はおろか、受付の看護婦さえ姿が見当たらない。
病院内で大声を出すのは非常識だと知りつつも、そうせざるを得ない。
「高見沢サン、いないのかな? 高見沢サーン」
「は~い、今行きま~す」
「あ、いた」
何もそこまで、と言うくらい元気のある声で小蒔が呼んだのは、
院長以外に唯一の知り合いである高見沢舞子だった。
いきなり院長を呼ばなかったのは皆、特に京一にとって大いなる救いだったが、
返ってきた声は舞子のものとは違うようだった。
彼女特有の丸みを帯びた、どこかペースを狂わせる声ではなく、
もっと尖った、どちらかと言うと金属質な声で、
良く響く病院内でははっきりとは判らないが、どうも聞き覚えのある声だった。
「いらっしゃいませ~ッ、ご用はなんですか~ッ?」
「……」
京一や小蒔はもちろん、龍麻と葵さえもが目を大きく見開いて驚いている。
眼鏡はかけておらず、髪型も変わっているが、細く、鋭い目は彼らの良く知っているものだった。
「お前、何してんだ……」
「えェ~? 何のことですか~? わたしィ~、見習い看護婦でェ~」
「何やってんだこのバカアン──ごふッ!」
この期に及んでなおとぼける看護婦に、自失から我に返った京一が怒声を張り上げる。
その頬に、電光石火の平手打ちが飛び、
哀れな京一は最後まで言いきることもできず、大きくよろめいた。
「しッ!! 黙らっしゃいッ! あたしの仕事を妨害する気?」
「妨害って、お前……うッ」
「声がデカいのよ!」
再び掌が翻り、京一の身体が今度は反対方向に大きくよろめく。
真神随一の剣の達人をこうも鮮やかに手玉に取ったのは、
熟練の武道家などではなく、校内新聞の記者だった。
桜ヶ丘中央病院に行ってみる、と言っていたアン子がどこから調達したのか、
看護婦の制服まで着こんで潜入していたのだ。
「今、例の事件について調査中なのよ。何か判ったら明日報告するから」
「俺達は、見舞いに来たんだが」
「残念ね、今、面会謝絶よ。だからわたしもどういう状況か判らないの。
ま、今晩にでも病室に潜入していろいろ調べるから、今は大人しく帰って」
「……」
喘ぐように呟いた醍醐を軽くあしらったアン子は、龍麻の背を押して病院から追い出す。
その堂々とした潜入っぷりに、一体彼女の適性は何なのだろうか、
そう思わずにはいられない龍麻だった。
「それじゃ~、まいどありがとうございました~。
またのお越しをお待ちしておりま~す」
ひらひらと手を振って見送るアン子にすっかり毒気を抜かれた龍麻達は、
そのまま帰途に就いたのだった。
翌日、龍麻が教室に入ると、待ち構えていたように醍醐が近寄ってきた。
「来る途中桜ヶ丘に寄って来たんだがな、
院長先生のおかげで空手部員の容態はかなり良かったよ。
……ただし、石化だけは依然として進行が止まらない」
「やっぱり犯人を捜さないと駄目……か」
「あぁ。なんとかしないとな」
とは言っても、今のところ手がかりらしいものも、
紫暮の後輩が見たというスキンヘッドの男だけで、紫暮からの連絡を受けないと動きようがない。
龍麻達だけでは、残念ながら手詰まりだった。
早朝の教室で首を捻る二人の許に、京一がやってくる。
この男にしては、上出来の登校時間だった。
「なんだお前ら、早いじゃねぇか。テニス部の早朝練習でも見にいってたのか?」
まるで自分がそうして来たかのような予想をする京一に、醍醐は乗ってこなかった。
「いや……桜ヶ丘の連中の話をな」
「朝っぱらから景気の悪ィ話すんなよ。
敵の狙いは失敗したんだ、向こうからまた何か仕掛けてくんだろ」
「その前に、彼らが石になってしまうかもしれん」
それこそが龍麻達が深刻にならざるを得ない理由だった。
保って、一両日中。
氣の力で霊的治療を行うたか子の導いたタイムリミットは、あまりに短いものだった。
それを指摘されると、京一も言葉が続かず、小難しい顔をして考え込むしかない。
三人の所に葵が姿を見せたのは、そんなタイミングだった。
生徒会の雑事を済ませて教室に戻ってきた葵は、龍麻の席に京一と醍醐がいるのを見つけると、
もう少しどこかで時間を潰してきたほうが良かったと思ってしまった。
彼らが集まっている理由は昨日の、真神の生徒が石にされたという事件に決まっている。
葵はそのような事件に関わりたくなかったのだ。
「おう、美里じゃねェか。生徒会長はさすがに早ェな」
だが、目ざとい京一に見つかってしまい、仕方なく龍麻の隣にある、
自分の机に行くしかなかった。
「おはよう、京一君」
「小蒔は一緒じゃねェのか?」
「ええ、私、今日は生徒会の用事で早く来たから。でも、もう来るんじゃないしら」
「どうだかな。美里と一緒じゃねぇもんだから、案外まだ寝てるんじゃねえのか」
京一は自分がたまに早く来たものだから、ここぞとばかりにあげつらう。
静かに笑うのみに留める葵の背後から、新たな人影が現れた。
「あ、いたいた。おっはよーッ」
威勢も良く挨拶したアン子はまだ手に鞄を持っていて、
どうやら自分の教室にも寄らずに直接来たらしかった。
時間も惜しいとばかりに、輪の中に入るなり口を開く。
「そういえば昨日桜井ちゃんから電話で聞いたんだけど、犯人は鎧扇寺じゃなかったんだってね」
「うん」
「なんだ、せっかく犯人が見つかったと思ったのに」
まるで鎧扇寺が犯人じゃないのはアンタ達のせいだ──と言われたように思ったのか、
それともアン子とは磁石のように常に反発する宿命なのか、京一が声を荒げた。
「それよかお前こそどうだったんだ。潜入は出来たのかよ」
「うッ……それは……」
途端にアン子の勢いが止まる。
声を詰まらせる彼女を、京一は遠慮なく笑い飛ばした。
「だろうと思ったぜ」
「何よ、笑い事じゃないわよッ。あの後すぐバレちゃって、窓から放り出されたんだからッ。
おかげでまだお尻が痛いんだから。酷い仕打ちよね、緋勇君」
確かにあの院長なら、女子高生くらい片手で窓から投げ捨てるくらい簡単にやってのけるだろう。
その光景を想像して、龍麻はうっかり笑うところだった。
「それは災難だったな」
「でしょう? まったく、大っきな痣が出来ちゃったわよ。
ルポライターへの道は、か弱い乙女には過酷なのね」
「か弱い乙女、だって?」
皮肉を存分に効かせた京一の物言いに、アン子は鼻息も荒く反論した。
「フンッ。でも収穫がなかった訳じゃないわ。
今回の事件に関係するかは判らないけど、看護婦同士が話してたのを聞いたのよ」
「何をだよ、勿体ぶらずに言えよ」
「今言うわよ。最近、都内の病院で、死んだ患者の遺体が消えるらしいの」
「消える?」
思わず口を挟んだ龍麻に頷き、再び語り始めたアン子は、
京一以外と話をしたことで落ち着きを取り戻したらしく、
やや口調がゆっくりとしたものになっていた。
「えぇ。桜ヶ丘では起こってないらしんだけど、新宿近辺の病院は結構被害にあってるみたいね。
目撃者は今のところいなくて、警察もまだ介入していないわ」
「なんでだよ、病院も届けてはいるんだろ」
「無理よ。遺体が盗まれた、なんて信用に関わるでしょ。
なんとか揉み消そうとしてるんでしょうね」
京一が訊ねるとせっかく取り戻した落ち着きもたちまち手放してしまったアン子だったが、
もたらされた情報の気味悪さに、誰も口を差し挟もうとはしなかった。
朝から死んだだの遺体だの、縁起でもない言葉を羅列され、気が滅入りかけているのだ。
そんな龍麻達の雰囲気を察したのか、アン子は自ら振った話題を強引に打ち切った。
「いずれにせよ、病院の周りをうろつく奴がいたら、注意した方がいいかもね。
あたしの方でも調査してみるけど」
「お前、まだやるつもりかよ」
呆れる京一に、アン子は鼻息も荒く応じる。
「あったりまえでしょッ。昔の諺でもペンは剣よりも強しって言うでしょッ。
いくらあの院長だって、急所を狙えば……」
「剣を使ってどうすんだよ」
「ごちゃごちゃうるさいわね。これだからデリカシーの無い男は嫌いなのよ」
「嫌いで結構、俺も口うるさい女なんぞ好みじゃねぇからな」
まだ朝早いというのに二人の舌戦は激しく、主戦場をどんどん離れていく。
生真面目に石にされた空手部員のことを案じていた醍醐が、体躯にふさわしいため息をついた。
「ま、取材は諦めた方がいいかもな」
「何よ、醍醐君まで。別にあたしは興味本位だけで取材してるんじゃないわ。
現実に起こりつつある怪奇事件の真実を克明に伝えることにより、
平和に溺没しきった社会に警鐘を鳴らすことが、あたしの使命なんだから。
逃げ惑う民間人の中を、命を省みず報道のために進んでいく。
安心して。悪の秘密結社に捕まったとしても、皆の事は喋らないから」
自己陶酔する彼女を止める者はいない。
そして、真剣に耳を傾ける者も。
「あァ……これぞジャーナリストの鑑ッ。ジャーナリズムのあるべき姿だわッ」
「まぁ、そういう説得はあの院長の前でやってくれ」
涙さえ滲ませるアン子に、京一の冷静な声が飛ぶ。
この場合、事実を語るだけで充分に効果があるのだから、どんな虚飾も必要ないのだった。
「うッ……い、いいわよ、やってやろうじゃない。今日こそ取材してみせるんだからッ。
それより、そっちこそしっかりしてよねッ」
「言われなくても判ってんだよ。急がなきゃならねぇしな」
そこまで言ったところで、朝のホームルームの開始を告げる予鈴が鳴った。
気がつけば教室もほとんどが埋まっている。
「っと、もう戻らないと。じゃ、また後でねッ」
自分が鞄を持ったままなのに気づいた杏子は、勢い良く出口へ向かって駆け出した。
入れ替わるようにマリアが入ってきて、結局何一つ実りのないまま、
放課後まで待たねばならない龍麻達だった。
この日最後の授業が終わると同時に、葵が駆けだしていく。
彼女の行動に心当たりがある龍麻は、静かに後を追った。
龍麻の予想通り、葵は学校内に設置されている公衆電話に向かった。
結局姿を見せなかった小蒔が心配で、おそらく彼女の家に電話をしているのだろう。
少し離れた場所で、龍麻は電話が終わるのを待った。
時間にすれば、おそらく五分にも満たない。
たったそれだけの時間が、葵を別人に変えていた。
学園きっての美貌と謳われる彼女の、穏やかな顔は血が全て喪われたかのように蒼白で、
我が子を隠された鬼子母神のように目だけが異様にぎらついている。
受話器を置いて走りだそうとした葵は、すぐに龍麻に気づいたが、
決して好いてはいないこの男に縋るように話しかけたのが、彼女の動揺の証だった。
「小蒔……いつもと同じように、朝、家を出たって。
小蒔が学校に来ていないって話したら、お母さん、びっくりされていたわ」
状況をか細い声で告げた葵は、一転して掴みかからんばかりに龍麻に詰め寄った。
「お願い、小蒔を助けて」
「助けてもいいが、条件がある」
そう龍麻が答えたときの葵の表情は、噴火した火山に等しかった。
蒼白の顔を一瞬で赤黒い怒りの奔流が埋め尽くし、眉目はもちろん肌の細胞ひとつに至るまで、
指向性の熱を龍麻に向かって噴きあげている。
もともと葵には、龍麻に好意を抱くひとかけらの理由もない。
だが、親友――少なくとも、龍麻にとって小蒔は、知人ではあるはずだ――
の危機を逆手に取って、己の欲望を満たそうとするとは!
殺意すらみなぎる苛烈な眼光を、その漆黒の瞳で平然と受け止めた龍麻は、彼の希望を口にした。
「これから先、今回みたいな事件が起こった時、必ずお前もついてこい。それが俺の条件だ」
「どういう、事……?」
過去の体験から、卑劣極まりない要求がくるものだとばかり思っていた葵は、
いくらか怒気を削がれて訊ねた。
「お前の『力』は役に立つ。今まで何人か『力』を使えるやつを見てきたが、
あれほど強力に他人を治せる『力』は見たことがない。
まあ、つい最近あの岩山って院長も見たが」
珍しく龍麻は苦笑した。
怪我をした際に彼女の所に通うというのは、精神的な負担が大きいが故に
選択肢から外したというのは、自嘲するほかない。
「お前が俺に関わりたくないのは知っている。が、お前の『力』は残念ながら手放せない」
龍麻の提案を葵は吟味した。
もちろん、彼とこれから行動を共にするのは嫌だ。
しかし小蒔を救けるためには、彼の『力』が必要なのも確かだった。
「……いつまで、一緒に行動すればいいの……?」
「いつまでこんな事件が続くかは判らない。
が、たぶん俺が卒業するまでに何らかの片はつくだろう。それまで、ってことになるな」
それは思っていた中でも悪い方の長さだったが、最悪というわけでもなかった。
どのみち小蒔を救うためなら、葵は我慢するつもりだった。
「小蒔は、巻きこまないで」
「それは俺が決めることじゃないな。
そもそも俺は、俺一人で動くつもりだった。
お前の『力』が強力だから、お前には付きあわせるつもりだったが、
桜井どころか京一や醍醐だって巻きこむつもりはなかった。
だが、旧校舎でお前らは『力』を宿した……偶然にせよ、そうでないにせよ。
そしてその後も、『力』を拒絶しようとはしていない」
「小蒔が緋勇君と一緒に行動するのは、宿命……とでもいうの?」
「そんな大げさなことじゃない。桜井の性格だ。仮に桜井に知られずに動けたとしても、
お前が動いていればいつかは気づかれる。その時、黙って引き下がるタマじゃないだろ、桜井は」
龍麻の言うとおりだった。
正義感と好奇心が強い小蒔は、葵が佐久間に言い寄られた時、
身を挺して守ってくれたことがある。
小蒔と親しくなるきっかけとなったその出来事を貴重に思うのなら、
彼女がこの奇妙な『力』が関わる事件に首を突っ込もうとするのを、止めることなどできなかった。
「……わかったわ。そのかわり、小蒔を絶対に助けて」
「知り合いが死ぬってのはいい気分じゃないだろうからな、最善は尽くすさ。
そうと決まったら教室に戻ろう。京一と醍醐に教えないと」
「……ええ」
呪詛めいた意思をこめた葵の言葉に返ってきたのは、
遊びに行く約束を交わしたかのような軽い返事だった。
一瞬腹を立てた葵は、ふと、龍麻は最初から小蒔を救けるつもりだったのではないかと思った。
それは何の根拠もない考えであり、龍麻が早足で教室に戻ったので後を追わねばならず、
顧みる暇もなく、考えは気泡のように消えていった。
「今、美里が桜井の家に電話した。朝、普通に家を出たそうだ」
教室に戻るなり、龍麻は京一と醍醐に告げた。
それだけで意味は伝わり、二人は血相を変えた。
「……ちッ、そっちに来るとはな。迂闊だったぜ」
腕を組んだ京一が、苦々しげに呟く。
「誰か目撃者がいないか当たってみよう。まずは学校から家まで、しらみつぶしに」
鋭く、明確な意思を持った龍麻の指示は、
まだ友人の拉致に衝撃を受けている仲間達の理性を回復させた。
「二手に別れよう。俺は美里と行く」
「おう、それじゃ一時間後に中央公園で落ち合おうぜ。行こうぜ、タイショー」
京一と醍醐は連れだって教室を出ていく。
できれば彼らのどちらかと行きたかった葵は、少しの間ぼんやりと立っていた。
「どうした、行くぞ」
「あ……は、はい」
龍麻に急かされ、葵は早足で教室を出た。
龍麻はおそろしく真剣だった。
小蒔の家まで戻る途中に、出会った全ての人に小蒔を見なかったか訊ねている。
老若男女、人影を見かければ一人の例外もなく近づき、極めて要領よく小蒔について訊ね、
手がかりがないと見るや素早く、しかし決して失礼ではない立ち去り方で次を探す。
葵の方さえ顧みないほどの真摯な態度に、彼がてっきり二人きりになろうという目的で
同行者に自分を選んだとまだ疑っていた葵は、赤面と共に態度を改めなければならなかった。
「くそッ、駄目だな……一人くらいは見た奴がいると思ったんだが」
しかし聞き込みの結果は思わしくなく、龍麻の顔が焦慮に歪む。
もう小蒔の家まですぐのところまで来てしまった二人は、
やむなく中央公園へと引き返すことにした。
もちろん、その途中でも出会った人に小蒔のことは訊ねるつもりだった。
中央公園に向かい始めて五分ほど過ぎた頃、二人は彼らを探す声に立ち止まった。
二人ともが知っているその声に、怪訝そうな顔を見合わせる。
声の主は二人を見つけると、弾むような足取りで近づいてきた。
「あ~ッ! 緋勇くんと葵ちゃん、見ィ~っけ~!」
「高見沢……どうしたんだ、こんな所で」
「院長先生が、皆はこの辺にいるはずだから行ってこい~って。緋勇くん、元気ィ~?」
独特のテンポの声は、桜ヶ丘中央病院の看護婦見習い、高見沢舞子のものだった。
ピンク色の看護婦服を着ている舞子は、柔らかそうな巻毛を風に揺らしている。
龍麻達がいるのは新宿区内で、桜ヶ丘中央病院も新宿区だから、
いてもおかしくはないのだが、看護婦姿でここまで来たらしい舞子は、
やはり周りからは随分と浮いて見えた。
「ねぇねぇ、今度どっかに遊びに連れてってよ~ッ。わたし、遊園地に行きた~いッ」
龍麻の手を両手で掴み、親しげに振った舞子は、遂には腕を絡めてくる。
全く場をわきまえない舞子に、はじめ辟易していた龍麻は、
院長が自分達を探す為によこしたという意味に気づいて真剣な面持ちで尋ねた。
「高見沢、四人の容態に何かあったのか? まさか」
「ううん、反対~ッ。さっきね、ひとりの意識が戻ったの~ッ」
「そうか。しかし、容態は悪くなっているんじゃなかったのか?」
「うん、石化はすこうしずつ進んでるんだけどね、前よりゆっくりになったの。
院長先生が言うにはね、一度に多人数を石化させるには、ある程度の限界があるんじゃないかって」
舞子の言葉を噛み締めた龍麻は、野草を口に詰め込まれたような顔をした。
彼に半瞬遅れて、葵も舞子の言葉の意味を理解した。
口にするのも嫌な現実だったが、確かめない訳にはいかなかった。
「小蒔が……小蒔が、新しく石にされつつあるってこと?」
「小蒔って、この間病院に来た、元気のいい子~?」
事態を把握したというよりも、龍麻と葵の感情に感化されたように舞子は泣きそうな顔になった。
「まだそうと決まったわけじゃないが、今朝から連絡がつかないんだ。
学校にも来ていないし。そうだ、意識が戻った奴は何か言ってなかったか? 犯人の特徴とか」
自白を迫る刑事のような龍麻の勢いに、舞子はしゃっくりを飲みこんだように目を丸くした。
「落ち着いて~。あのねェ~、確かァ~、
飾りが一杯ついた黒い服のつるつるのお兄さんでェ~、あっ、そうそう、
左の腕に大きなイレズミがあったってェ~」
「……紫暮の話に出てきた男に似ているな」
その男が小蒔をさらった可能性は高い。
一刻も早く、その男を探しださなければならなかった。
龍麻の雰囲気に圧されたのか、舞子は龍麻の腕を離し、距離を置く。
「忙しそうね~。じゃ、わたしも帰るね。院長先生が待ってるし~。今度は遊んでね~」
「ああ、ありがとう、高見沢」
舞子が角を曲がるまでは見送っていた龍麻は、彼女の姿が見えなくなった途端、
仮面を付け替えたかというほど表情を一変させた。
「……醍醐に訊かねえとな」
それは、葵がその意味を問うのをためらうほどの険しい顔だった。
龍麻と葵が新宿中央公園に到着したとき、京一と醍醐はまだ来ていなかった。
龍麻は苛立ちを隠そうともせず腕を組んで立っている。
時折人の気配を感じると、顔を跳ねあげて確認するが、
二人でないと判明すると不機嫌そうに顔を伏せた。
葵も焦りを覚えながらも、それ以上に怒っている龍麻に近寄りがたく、やや離れた場所で立っている。
出来の悪い鹿威しを、龍麻が何度か繰り返したあとだった。
「ヘヘッ、ずいぶんとマブい女じゃねェか」
「よォ、こんな所で何してんだよ。俺達と遊ぼうぜ、天国を見せてやんよ」
「おう、気持ちよすぎて戻ってこれねえかもしれねえけどよ」
下卑た男達に龍麻がすぐに気づかなかったのは、
京一達がやってくる公園の外に注意を向けていたからだ。
「や、やめてください、離して」
か細い葵の悲鳴にようやく振り向き、改造した制服をだらしなく着崩した男達が、
彼女の手首を掴んでいるのを見ると、大股で近づいた。
「なんだァ、手前ェ? 何見てやがる、死にてェのか?」
男達の一人が肩をいからし、斜め下から見上げるようにして龍麻を威嚇する。
威嚇した男を完全に無視して、龍麻は葵の手首を掴んでいる男の腕を掴み、
振りほどかせると、いきなり殴り飛ばした。
「ぐぅエッ!」
鋭い殴打を食らった男は、たまらず地面に転がる。
龍麻は自分が攻撃した相手を見ることもせず、葵を背後にかばうと残る二人を睨みつけた。
暴力を信奉する男達は、自分達より先に暴力をふるった龍麻を間の抜けた顔で眺める。
しかし数瞬のあとに我に返ると、一斉に龍麻に襲いかかった。
一対三であったこと、先制されて激昂したこと、
諦めて逃げるには葵は惜しい女だったことが、男達の頭にはあったかもしれない。
しかし、戦う相手の力量を見極められなかった彼らは、すぐに手痛い代償を支払うこととなった。
男達のうち二人が左右に分かれる。
彼らなりの喧嘩の経験を生かした戦術だったが、一般人なら萎縮してしまうところを、
龍麻は自分から見て左側に陣取る男に、無造作に踏みこんだ。
格闘技の訓練を積んでいなければ、利き手で殴るのが普通だ。
だから男達も龍麻が右側に動くと思い、警戒していたのだが、
不意を突かれてしまい、とっさに顔をかばった。
伸びた龍麻の右腕が、ガードの隙間を縫って男の胸に触れる。
踏みこみは深くても打撃は浅く、ほとんど触れただけとしか思えない一打に、
男は警戒から嘲笑へ、そして反撃に転じようとする。
その顔が急激に青くなったかと思うと、男は上から無理やり押されたように膝をつき、
前のめりに倒れた。
そのまま呻き声すら上げず、昏倒している。
「てッ、手前ェッ、何しやがったッ!!」
仲間の異変に驚いた男が、裏返った悲鳴を放つ。
最初に龍麻に蹴られた男も起きあがり、再び二人組になった男達は、
ようやく龍麻が喧嘩の素人ではないと気づき、懐からナイフを取りだした。
「ヘヘッ、手前ェッ、ぶッ殺してやる……!!」
ナイフを龍麻に向かって突きだしたまま、男達はじりじりと近づいてくる。
動かない龍麻に、恐れをなしたと見て取った男達が、ナイフの間合いに入ろうかというその時、
男の一人が突如として横に吹き飛んだ。
「だッ、誰だこの野郎ッ!!」
「ヘッ、手前ェら三下に名乗る名前なんざねェよ」
けれん味たっぷりに告げる男に、龍麻は呆れ顔で言った。
「遅い」
「ヘヘッ、悪ィな。けど、こんな奴らお前一人で楽勝だろ?」
男の頭を殴った木刀を肩に担ぎ直して京一は笑った。
隣にはもちろん醍醐がいる。
彼はナイフを持ちだした不良達に対し、指を鳴らして威嚇した。
数での劣勢に加え、醍醐と京一の実力に薄々感づいたのか、
不良達はナイフを構えながらも挑みかかってはこなかった。
「く、くそッ、手前ェら、俺達に手を出したりしたら、凶津さんが黙っちゃいねぇぜ」
龍麻も京一も凶津という知り合いはいなかったので、恐れ入ったりはしなかった。
ただ一人違ったのは醍醐で、凶津という名前を耳にした途端、
彼は暴風の如き激しさで不良の胸倉を掴んだ。
「お前ら──杉並の者か?」
「ヘッ、そうよ。俺達ゃ杉並の弦城高校の──」
そこまで言った男は、自分の胸倉を掴んでいるのが誰か思い当たったようだった。
身体は半ば宙に浮き、喘ぎながらも嘲笑めいた視線をひらめかせる。
「てめぇ……杉並桐生中の醍醐か……?」
「そうだと言ったら」
「ヘッ、なら丁度いい。俺達ゃお前も探してたんだよ。凶津さんが、お前を待ってるぜ」
男が再び凶津と言う名を口にすると、醍醐の手から胸倉が滑り落ちた。
「やはり……出所てきてたのか」
自由を回復した不良学生は、わざとらしく襟を直す。
凶津という名ひとつで、この場の雰囲気は一変してしまっていた。
油断無く逃げられないようにしながら、龍麻は事の成り行きを見守る。
「あァ。女も預かってる。早く来ねぇとヤバイかもなァ」
「場所は」
「さァね。自分で探しなよ。醍醐ならわかるはずだって凶津さんが言ってたからな」
「くくくッ、今のあの人は何するかわかんねぇからよ、早くした方がいいぜ。
お前の女も、今ごろはもう──」
そこまで言いさした男は、醍醐の形相にそれ以上喋れなくなる。
凶津はここにはおらず、自分達が虎の尾を踏んでいることに今更気づいたのだ。
「よせ、醍醐! こんな奴ら殴ったって時間の無駄だ」
親友の危険を看てとった京一が、虫を追い払うように手を振る。
「さっさと行け。今の醍醐は何するか判んねェぞ」
男達は随分と不本意そうであったが、二対三では勝ち目もなく、
何より醍醐の気迫に脅えたのだろう、気絶したままの仲間を肩に担ぐと、足早に去っていった。
端下の不良学生のことなど、誰も気に留めようともしない。
龍麻達の重さを伴った視線は、醍醐一人に注がれていた。
その視線は特に龍麻において烈しく、火花すら散りそうになっている。
醍醐はそれを受け止めながらも、何ら語ろうとはしなかった。
もはや一触即発といった雰囲気の中、場違いなほどのんびりした声をかけたのは京一だった。
「よし、それじゃ杉並に行くか。道案内は出来んだろ、醍醐」
「……ああ」
背負っていたものを下ろすように、深い吐息をついた醍醐は、
過去へと続く、苦い記憶の路を歩きだした。
「俺が奴に、凶津 煉児に会ったのは、中学一年の頃だった。
凶津と俺は五年前、杉並にある同じ中学に入った。
その頃の俺は、ただ自分がどれだけ強いのかを試したい、餓鬼そのものだった。
二年、三年、他校生、相手も選ばず、喧嘩だけをしていた。
そして気がついてみれば──凶津がいた。
あいつの瞳は今も良く憶えてる。決して満たされぬ飢えと、
決して手に入らぬ何かへの渇望に満ちたその瞳は、ただ、相手を、そして自分自身を
傷つけることしか知らないかのようだった。
──だからかもしれない。俺が、奴とつるむようになったのは」
「月日は流れ、三度目の春が来て──
その頃は俺も、手加減や節度ってもんを覚えていた。
自分の中の狂気を、どんな時に、何の為に使うべきなのかということを、
少しずつ解り始めていた。
だが……凶津はそうじゃなかった。あいつの裡で燃える黒い焔は、
まるで衰えることを知らなかった。奴のは既に喧嘩ではなく、只の──暴力だった」
「奴はいつのまにかチンピラの大将になっていた。
日々繰り返される傷害、窃盗、婦女暴行。
定職に就いていない酒乱の父親との生活が、それに拍車をかけた。
俺は……そんな奴を、止められなかった」
「やがて中学最後の冬が訪れようとしていた頃、
俺は奴に逮捕状が出たことを知った。罪状は──殺人未遂だった。
しかも、実の父親に対する」
「新聞にも記事が載った。父親は意識不明の重体。容疑者の少年は依然逃走中」
「そして、二人の城だった廃屋の隅で、俺は奴を見つけた」
「血塗れた手と、泣き過ぎて腫れた目。
そこに居たのは、かつて友だった男の変わり果てた姿だった。
『醍醐……助けてくれ』奴はそう言った。
一体奴は、何から助けて欲しかったのか。警察の追っ手からか、荒んだ環境からか、
それとも──自分自身からか……今も俺には解らない」
「俺に出来たのは、俺と奴にとって一番ましだと思える選択を示してやることだけだった。
しかしそれは、奴の最も嫌う、誰かに、何かに──逃げる選択だった。
少なくとも奴はそう感じた」
閉ざしていた扉は錆付いていて、開かれることを主にさえ渋ったが、醍醐は強引にこじ開ける。
時の干渉を許さない、魂の奥底で眠っていた過去の破片は、
二年の時を経ていても、少しも色あせることなく蘇った。
(凶津……自首しよう。お前は、自分のしたことの罪を償わなければならん。
俺も一緒に行ってやる。だから、凶津)
(変わっちまったな。俺とつるんでた頃のおめぇは、もっとギラギラした瞳をしていた)
(違う、変わったのはお前の方だ、凶津)
(うるせぇッ!! ……もう、俺達は友と呼べる関係じゃねぇってことか)
(凶津……)
(──どうしても、やるってのか)
(……あぁ。俺には、これしか思いつかない)
(なんでだよッ!! おめぇだけは解ってくれると思ってたのによッ!)
「その時の俺にはもう一度──奴と勝負することしか思いつかなかった。
そうする事で、あの頃に──出会った頃に時間を戻したかったのかもしれない。
熱く、正直な気持ちで拳を合わせたあの頃を、奴に思い出させたかったのかもしれない」
「勝負には、俺が勝った。決着がつく頃には、警察が周りを取り囲んでいた。
……警察に連れていかれる間、やつは一度も俺を見なかった。
まるで……魂が去った後の、抜け殻のような瞳をしていた。
当然だろう、助けを求めたのに裏切られたんだ。唯一の……友だった男に」
「あれからもう二年が経つ。俺は、今もあの日を、あの時の凶津の背中を忘れられずにいる。
緋勇、お前は……お前は、こんな俺を軽蔑するか?」
「しない、と言えばお前は救われるのか?」
「む……」
冷徹に過ぎる龍麻の返答は、当事者でない京一でさえ鼻白ませ、
訊ねた当の醍醐も不本意そうに渋面を見せた。
彼らの方を見ないまま、龍麻は続ける。
「俺が後悔するのは、自分で決めたことを、本気でしなかった時だ。結果については気にしない」
「人は、その時に出来ることをするしかない。
例えそれが間違っていたとしても、前に進むしかない……そういうことか」
己に言い聞かせるように醍醐は呟く。
いくら昔の友を自分が救ってやれなかったのが原因だとしても、
今の友を蔑ろにして良い理由になどなるはずがなかった。
「……で、これからどうすんだよ」
「話した廃屋……多分、凶津はそこにいる」
拳を固める醍醐の眼に、もう迷いはなかった。
醍醐が案内した場所は、一目でそれと判る廃屋だった。
窓は割れ、コンクリートは剥がれ落ちている、寒々とした光景が龍麻達を出迎える。
周りはフェンスで囲まれているものの、どうやら作業が途中で中断されてしまっているようだった。
人目を避けて中に入った一行は、奥へと進む。
残っている壁には得体の知れない落書きが所狭しと書きつけられており、
そのいかがわしさに葵が眉をしかめた。
「ここは……一体何があった場所なの」
「俺達がまだ中学生だった頃、ここには取り壊し予定の雑居ビルがあったんだ。
ここは俺達の溜まり場で、そして、最後に奴と拳を合わせた場所だ」
「なるほどな。もうほとんど壊されちまってるが、向こうに少しだけ部屋が残ってるな」
京一が指差した先に、扉のついた部屋が二、三見える。
そこだけはあまり薄汚れておらず、ごく最近、
あるいは今もなお人が使っていることが推測できた。
片っ端から調べるつもりで龍麻が踏み出すと、その肩を醍醐に掴まれる。
「皆。すまんが、ここからは一人で行かせてくれないか。
これは全て俺が蒔いた種だ。お前達を巻き添えにする訳には」
醍醐の言葉に振り返った龍麻は、前髪の奥で眼光の刃を閃かせた。
それは悲壮な、しかしどこか自己陶酔めいた覚悟を固めていた醍醐をたじろがせるほどの鋭さで、
ある種の危険な輝きを同居させていた。
「いいか醍醐。お前の過去の話は聞いたが、今そんな事はどうでもいい。
俺は桜井を助けに来たんだ」
眼光に続き、言葉の白刃に肺腑を抉られ、醍醐の顔からは血の気が全く失せていた。
そして既に瀕死の醍醐に、京一までもが追い討ちをかける。
「緋勇の言うとおりだぜ。醍醐、お前なんか勘違いしてねぇか?
お前、ここに何しに来たんだよ。大昔の感傷に浸りにか?
それとも、自分の過去にケリをつけるためにか?
そうじゃねェだろ。小蒔を助けるためだろうがよ」
「……すまん。俺は」
「わかりゃいいさ。……行こうぜ」
口の端をにやりと歪めた京一は、先頭に立って歩き出す。
なお立ちすくんでいた醍醐も、龍麻に肩を叩かれると、それに遅れじと歩き出した。
小蒔を、救う為に。
一つ目の部屋には、部屋中に散らばったアルコールの壜と、
鼻を塞ぎたくなるような異臭があるのみだった。
窓から射し込む陽の光に埃が透け、半ば霧のようになっている。
小蒔も、敵も居ないことを一目で確かめた龍麻は、呼吸を抑え、すぐに次の部屋へと向かった。
次の部屋は、最初の部屋とは全く雰囲気が異なっていた。
陽が当たっていないだけでなく、空気もひんやりとしている。
何かの倉庫として使われていたらしく、龍麻の身長よりも高い棚が部屋中に置かれていた。
相当に広い為に、龍麻達は分かれて棚で区切られた通路を進む。
部屋の真ん中辺りまで来たところで、一番端を歩いていた葵から悲鳴が上がった。
「──ッ!」
「どうしたッ!」
葵が指差した先に、石像があった。
女性を模った石像。
それも一体ではなく、女性ばかり十数体もの石像が、無造作に置かれていた。
それが意味するおぞましさに、龍麻達は等しく吐き気を催さずにはいられなかった。
「人……なのか?」
「こんなにたくさん……女の人ばかり」
「多分、時間をかけて石にされちまったんだろうよ。
でなきゃ、こんなに恐怖に歪んだ顔になんかなりゃしねぇ」
「なんて……ひどいことを……」
度胸と大胆さでは前後に落ちない男達も、足が釘で打ちつけられたように動かない。
それでも、どうしてもしなければならないことが、一つだけあった。
龍麻は全身の力を足に回してなんとか動かし、倒してしまわないように注意しながら、
石像の間を歩いて行く。
まだ小学生くらいの子供から、龍麻よりも年上と思われる女性まで、
全ての女性に共通しているのは、表情だった。
京一の言った通り時間をかけて自らが石にされていく所を味あわされたのだろう、
その顔には発狂寸前の恐怖がありありと浮かんでいた。
彼女達がまだ間に合うのか、それとも──もう手遅れになってしまっているのか解らないが、
これ以上の被害者を出す訳には絶対にいかない。
全ての女性を確かめた龍麻は、新たな決意を秘めて仲間達の所に戻った。
「桜井は、いなかった」
それは苦痛を先延ばししたに過ぎない、何の気休めにもならない報告だったが、
石像と化した小蒔の姿など見たくない京一達は、揃って肩の力を抜いた。
龍麻もそれに倣い、知らず額に浮かんでいた汗を拭う。
それは苦痛を先延ばししたに過ぎない、何の気休めにもならない報告だったが、
石像と化した小蒔の姿など見たくない京一達は、揃って肩の力を抜いた。
龍麻もそれに倣い、知らず額に浮かんでいた汗を拭う。
その時、微かな音が聞こえた。
一瞬で緊張を取り戻した龍麻達は、音の聞こえた部屋の奥を目指す。
奥にあった扉を蹴破り、一気に飛びこんだ。
その部屋は更に暗く、前の部屋からの光がわずかな灯りとなっているだけで、
ほとんど何も見えないくらいだった。
罠の存在を警戒した龍麻だったが、その必要はなかった。
仄い、陰惨な氣を隠そうともしない男が、部屋の真ん中に立っていたからだ。
「良く来たな」
「凶津か」
男に向かって醍醐が呼びかける。
闇に目が慣れ、浮かび上がった男の姿は、異様なものだった。
頭髪の全く無い頭の至る所に、血のような赤で何かの模様が施されている。
己を鼓舞し、より強大な存在でありたいという願いを込めた、
未開の部族のフェイスペインティングを思わせるものだった。
全身黒尽くめの服に、スパイクのついたベルトを何本も通しているのも、
恐らく同じ理由だろう。
かつて友だった男の面影は、もはやどこにもなかった。
「随分変わったな、凶津」
「俺は変わっちゃいねぇよ。俺が変わったとすれば、それはお前に裏切られたあの時からだ」
凶津の声は、果てしない闇の底から醍醐を罵った。
いくら龍麻達に諭され、覚悟が出来ていたとしても、
足を掴もうとする亡者の手を払いのける為に、
醍醐は並々ならぬ精神力を必要とした。
「桜井をどうした」
三年を圧縮した長い沈黙の後、ようやくそれだけを口にした醍醐に、
凶津は失望と嘲り、憤怒と憐憫をないまぜにした顔で嗤った。
「本当はよ、殺っちまおうかと思ったんだけどよ、それじゃあまりにも芸がねぇだろ?
なにしろ、今の俺には特別な『力』があるからなぁ。見せてやるよ」
部屋の隅に向かった凶津が、部屋の灯りを点ける。
そこにあったのは、一同が最も見たくないものだった。
「小蒔──ッ!」
葵の悲鳴は、龍麻達全員の悲鳴であった。
生気に満ちた瞳も、歯切れの良い言葉を次々と紡ぐ唇も、健康的な肌も、全てを失い、
石と成り果てた小蒔の姿が、そこにあった。
「どうだ、なかなかの出来だろ? まァ、強いて言えば表情が気にいらねぇなぁ。
こいつ、泣きも喚きもしねぇでよ。俺は泣き叫んで許しを請う女のツラを見ねぇとイけねぇってのによ」
手を小蒔の身体に巻きつかせた凶津は、厭らしく舌を伸ばす。
龍麻達の反応を愉しむように凶津が石像と化した小蒔の頬を舐めあげた時、醍醐が一歩進み出た。
鬼神も道を譲り、天魔もひれ伏すであろう、修羅がそこにいた。
それを見た凶津の顔が、狂気の悦びめいたものに満たされる。
「凶津……貴様……」
「その顔だ、醍醐、その顔が見たかったんだよ。表へ出な、二年前の決着をつけようぜ」
表への移動は、醍醐の戦意をいささかも減じさせることはできなかった。
それどころか一歩毎に膨れ上がる怒りの氣は肉眼でも見えるほどだ。
醍醐も、そして凶津も長年の怨嗟に決着をつけようと対峙する。
今にも爆ぜそうな気迫が空間に満ちる中、最初に気配に気づいたのは京一だった。
ここにいる五人以外の気配に、袋から木刀を抜き放って構える。
京一の動きに醍醐も感応し、虎のごとく吼えた。
「凶津……そこまで堕ちたかッ」
見ればいつのまにか、先ほど葵に絡んできた連中と同じ制服を着た人間が、
全部で十人ほども周りを囲んでいた。
それぞれが鉄パイプやらチェーンやら、何かしら武器を持っていて、
じりじりと包囲の輪をせばめつつある。
「いいかおめぇら、そこの女はくれてやる。好きにしな」
凶津に応じて下劣な口笛が吹き荒れ、葵の一身に下卑た視線が集中した。
暴力と劣情が混ざった、純粋な悪意を一身に受けた葵は、顔面を蒼白にして半歩後ずさる。
怯えた獲物に、より増幅した悪意が、まず葵の精神を犯そうとしたとき、
彼女をかばうように龍麻が前に立った。
「緋勇君……」
龍麻は葵を犯しかけた男であり、この不良達より性質が悪いともいえる。
しかしこのとき葵は、自ら防壁となった龍麻に心から安堵した。
「凶津とか言ったな」
深く氣を練りながら、龍麻が訊ねる。
「なんだ、てめェはァ?」
「一つだけ聞く。お前が石にした人達を治す方法はあるのか」
龍麻の質問は嘲笑で報いられた。
「はッ、ねェよ、んなモンはッ!! 俺を殺しでもしねェ限りなァッ!!」
もはや怒りも頂点に達した醍醐が、一歩進みでる。
「ここは任せてもらうぞ、緋勇」
過去と現在の双方に闘う理由がある醍醐は、龍麻の返事が当然彼の望むものであると確信していた。
怒りで倍ほどにも膨れて見える巨体は、だが、龍麻によって阻まれた。
「駄目だ」
「……!!」
強く、一片の情も篭ってはいない声に、
醍醐の怒りは向くべき方向を変えてしまうほどだった。
消しきれない怒りを友人に向けて、醍醐が再考を促そうとしたとき、
すでに龍麻は凶津の前に躍りでていた。
「なら、死ね」
短く答えると同時に龍麻は地面を蹴った。
氣で増幅された身体能力は、翼を持つ者のように軽やかに龍麻を動かし、
ほとんど一息に凶津の許へと移動させる。
一瞬の停滞もなく繰りだされた龍麻の右拳を、嘲笑を収めた凶津はかろうじて避けたが、
口の端にはわずかに引きつった笑みが貼りついたままだった。
「てめえ……ッ!!」
激昂した凶津が攻勢に出る。
かつて醍醐と共に行動していたというだけあって、凶津は強かった。
触れただけで人を石にする邪手で牽制して龍麻を近づけず、
龍麻が避けたところを狙って蹴りを放つ。
スピードと体重が十分に乗った蹴りを龍麻は避けきれず、鈍い音が二度、三度と響いた。
「……」
出番を譲る形となった醍醐は、知らず両の拳を固める。
今からでも龍麻を押しのけて自分が凶津と闘うべきではないかと考えたほど、
龍麻の闘いぶりは彼に歯がゆさをもたらした。
「おい醍醐ッ!!」
だが、京一の怒声が彼を我に返らせる。
手下の不良達が九対二なら与しやすしとみて、一斉に襲いかかってきたのだ。
龍麻に対する不満があったとしても、今は抑えねばならなかった。
凶津の手下達にとって、醍醐の不満は災厄でしかなかった。
凶津と龍麻、二者に対する彼の怒りは、普段なら無意識にかけている手加減を、
全くすることなく不良達にぶつけたからだ。
「ぐゥェッ!!」
間合いを測ろうとする不良の一人を無造作に捕まえ、投げ飛ばす。
抵抗する術もなく、力任せに地面に叩きつけられた不良は、
背中からまともに落ちて息もできずにのたうち回った。
圧倒的な実力の差に、チェーンを持った不良が醍醐の頭を狙って振りおろす。
直撃すれば昏倒しかねない一撃を、左腕で防いだ醍醐は、そのままチェーンを腕に巻きつけた。
お互いに動きを封じられた形になったが、不良が仲間に攻撃させようとチェーンを引いた瞬間、
倍する力で醍醐に引っ張られ、無防備な顔面に強烈なパンチを浴びた不良は
血と折れた歯を撒き散らしながら倒れた。
「おいおい、やり過ぎじゃねェのか」
醍醐の戦いぶりに肩をすくめながら、京一は挑みかかってきた不良の胴を打ち、
返す刀で別の不良の面を叩く。
木刀でありながら、氣の光が真剣のようにまばゆく輝く刀が一閃する都度、
不良達は反撃もできぬまま倒れていった。
二分とかからず半分以上の不良達がやられ、残る半数は尻込みしている。
余裕ができた醍醐は、龍麻と凶津の闘いに目をやった。
連続して凶津の蹴りが命中し、龍麻が膝をつく。
そこに襲いかかる蛇のごとき邪手が伸び、醍醐は息を呑んだ。
「……!!」
凶津の右腕が龍麻の左肩を掴んでいる。
そこは早くも変色を始め、離れた場所にいる醍醐からさえ、その範囲が拡大しているのが見えた。
もはや勝負はついたとばかりに、凶津の顔に凶相が浮かぶ。
一方の龍麻は、凶津の懐に潜りこみ、右の掌を彼の心臓に添えていた。
絶好の位置ではあるが、威力のある打撃を加えるのは難しく、
しかも、あの勢いではあと数秒で龍麻の上半身は石と化してしまうだろう。
凶津の許に行くか、先に不良達を倒すか。
逡巡する醍醐の前で、事態は急変した。
龍麻の身体が淡く光り、輝きが急激に増す。
視界全てが白に染まるほどの光が満ち、数秒と経たずに消えたあと、
龍麻の前に立っていたはずの、凶津の姿はなかった。
「かはッ……!!」
短い、発する力さえ失ったかのような悲鳴が、床に伏した凶津の口から漏れる。
一言発したきり痙攣すらせず動かなくなった彼の肉体から、生命が喪われたのは明白だった。
「……!」
凄惨な結果に龍麻を除いた者達は言葉を失っていた。
こうするしか小蒔を元に戻す方法がないと分かってはいても、
眼の前で人が死ぬ、という衝撃は高校生の彼らには容易に吸収できるものではなかったし、
人を殺めておいて平然としている龍麻にも、畏怖混じりの衝撃を受けていたのだ。
凶津を倒された不良達は、とっくに逃げ散っている。
せめて凶津の躯を引き取ろうなどという殊勝な考えを持つ者などおらず、いたとしても、
凶津の傍らに立つ、未だ凄まじい気配を纏う龍麻を排除できるはずもなかった。
膝をつき、凶津の胸に手を当てて彼の死を確かめた龍麻は、
仲間達の方を振り向かずに言った。
「美里」
「は、はいっ」
「石にされた人達を見てきてくれ。石化が解けるはずだ、解けたらすぐに教えてくれ」
嫌いな男の命令ではあったが、この凄惨な場を離れられるのが嬉しくて、葵は駆けだした。
隣の部屋に飛びこむように入り、小蒔と、石にされた女性達を見る。
奥の方から、小さな音がした。
何かにひびが入ったような音は、次第に部屋のそこかしこから聞こえてくる。
同時に、部屋の明度が上がったように、葵には感じられた。
それは気のせいではなく、部屋の置かれた十体以上の石像が、少しずつ明るくなっている。
ほどなくして、完全に石化の解けた女性が床に倒れ、次々に他の女性も元に戻っていった。
彼女達の無事を横目で確認しながら、葵は小蒔の許へ急ぐ。
果たして、葵が彼女の石像の前に着いた時、もっとも後に石にされた彼女が元へと戻るところだった。
「小蒔……っ!」
「あ、葵……!? え、どしたの……?」
血色を取り戻した小蒔に、葵はたまらず抱きついた。
親友の温かさをずっと確かめていたかったが、龍麻に命じられたことを思いだす。
「すぐ戻るから待ってて」
戸惑う小蒔に言い置いて、葵は部屋の出口に行き、龍麻に声をかけた。
「よし」
葵の返事を聞いた龍麻は集中を始めた。
ほどなく、彼の身体が淡く光りだす。
氣を練っているのが三人には判ったが、
それで何をするつもりなのかは見当がつかなかった。
「おい、何するつもりだよ、そいつはもう……」
人を殺したショックで錯乱しているのかと京一は疑い、醍醐も渋面を作っている。
道を違えたとはいえかつての友であり、死体をなお冒涜しようとする龍麻には
嫌悪を抱かずにいられない。
龍麻を制止できなかった憤りもあって、彼を実力行使で止めようと醍醐は一歩を踏みだした。
踏みだした醍醐の半身が、白く染まる。
龍麻から放たれた光は辺りが何も見えなくなるほど眩しく、たまらず醍醐は腕で目をかばった。
光は十数秒ほども続き、ようやく薄れていく。
視力を取り戻した醍醐が見たのは、光る前と変わらぬ光景だった。
「一体何だってんだ……!」
横合いから京一のぼやきが聞こえる。
彼にも何事が生じたか、分からないらしい。
起こったことを己の目で確かめようと、醍醐は横たわる凶津に近づいた。
凶津の傍らで膝をつく、龍麻の上体が揺れる。
もう少しで倒れるところだったが、手をついてかろうじて回避した。
「緋勇……」
醍醐の呼びかけに、龍麻は答えずに立ちあがる。
なぜ無視をされるのか、状況が全く呑みこめないでいる醍醐の耳に、信じられないものが聞こえた。
「う……っ」
それはごく小さな声だったが、確かに死んだはずの凶津の呻きだった。
慌てて確かめてみると、凶津の身体には間違いなく生気が宿っている。
醍醐は驚き、奇跡を起こした男の背中を見た。
幾分小さくなったようにも見える龍麻に、京一が話しかける。
「たまげたな、最初から狙ってやがったのか?」
「心肺停止から一分以内なら、できるとは思った。
骨を折ったり内蔵を傷つけたりして死なせたんじゃ無理だとも」
「それで醍醐に闘らせなかったのか」
「説明してる暇はなかった」
「そりゃあそうだがよ」
京一の声に険があるのは、龍麻が彼の真意を語らぬまま戦ったのが、初めてではないからだ。
龍麻は自分のことを顧みずに戦おうとするふしがあり、
そのたびに京一は苦言を呈していたが、今回は醍醐も京一に倣いたい気分だった。
だが、事実としては凶津も小蒔も救われ、これ以上は望みようのない結果となっている。
自分が闘っていたら両者とも救えなかった可能性もあったと考えれば、
龍麻に文句をつけられる筋合いでもなかった。
「もし失敗したらどうするつもりだったんだよ」
京一はまだ龍麻を許したわけではないようだ。
「その時は死体が一つと殺人犯が一人できるだけだろう」
「けッ、てめェ一人で全部背負おうってか」
おそらくは、それも醍醐に闘わせなかった理由だろう。
龍麻の真意を知った醍醐は、水臭いとも思ったが、同時に大きな借りができたとも感じていた。
「そんなに俺達が信用できねェかよ」
京一がいつになく深刻に怒っているのは、おそらく龍麻を同格の相棒だと考えていたのだろう。
ことに、ひとつ間違えば命を失いかねないこの春からの闘いにおいて、
作戦を打ち明けられないというのは、京一にとって許しがたいことに違いない。
「信用してるから、他の敵は任せた」
「モノは言い様だな」
「他の敵で氣を消耗していたら、凶津を倒して蘇生させるだけの氣を練れなかった」
確かに龍麻は大きく疲労している。
人一人を生き返らせるためには、尋常でない量の氣が必要となるのだろう。
それは京一にも伝わったらしく、彼は唇を閉ざし、大きく曲げたが、
それ以上龍麻を追及しようとはしなかった。
「……しょうがねェ、今日はこれくらいにしといてやる」
「悪いな」
ようやく笑った龍麻は、背を向けたまま醍醐に言った。
「凶津はじきに目を覚ますはずだ。見張っておいてくれ」
「……ああ」
過去にどれほど友情があったとしても、凶津の行為は許されるものではない。
龍麻は醍醐に、凶津と友として語らう最後の時間をくれたのだろう。
小蒔のことは龍麻達に任せ、醍醐は凶津の傍らに座った。
龍麻と京一が石にされた女性達の部屋に入ると、大部分の石像は、元の人間へと戻っていた。
目覚めた順に葵が介抱に回っているが、パニックを起こしている女性もいて容易ではない。
「こりゃいけねェ、事情を説明しねェとな」
京一が嬉しそうなのは、説明して回る相手が女性ばかりだからだろう。
不謹慎ではあっても、その役割は必要なので龍麻は止めなかった。
「あッ……緋勇クン」
ほどなく龍麻の許に、桜井小蒔が駆け寄ってきた。
健康的な肌にも、聞くだけで元気づけられる声にも以前と変わるところはない。
「緋勇クンが助けてくれたんでしょ? 葵に聞いたよ」
「身体はなんともないのか」
「ウンッ、大丈夫。エヘヘッ、ありがとね」
礼を言った途端、小蒔の腹が鳴る。
「あッ……朝から何にも食べてなかったんだ、そういえば。
石にされてても、しっかりお腹は減るんだね」
「帰りにラーメンでも食いに行くか」
「いいね、行こうッ」
小蒔が指を打ち鳴らした所で、葵がやって来た。
「あ、葵。今お礼を言ったトコだよ」
「ええ……」
葵の顔がすぐれないのは、まだ凶津が蘇生した事実を知らないからだ。
小蒔にも、彼女の石化は龍麻が凶津を殺したことで解けたとは説明していない。
龍麻の名誉よりは小蒔の精神の安定を重んじる葵ではあるが、
どうやって事情を話したものかと悩んでいると、目の前で龍麻が揺れた。
「緋勇クン!?」
小蒔が叫び、葵も恐慌に陥る。
そこに、一通り女性達に事情を説明してきた京一が戻ってきた。
「ふゥ、モテる男はツラいぜ……っておい、どうしたんだよ」
「あッ、京一、わかんないよ、急に倒れて」
「……人一人殺して生き返らせたんだ、相当氣を使ったんだろうな」
「どッ、どういうこと!?」
「石にされた人間は、あの凶津って野郎を殺さねェと元に戻らねェ。
それで緋勇が取った作戦は、一度凶津を殺して、
お前らが元に戻ったところで生き返らせるって策だったのよ。
心臓が止まってた時間は一分もなかったけどよ、こいつの全身が光ってたからな、
こんなぶっ倒れるまで氣を放出したんだろうよ」
「それで緋勇クンはどうなるの? 少し待てば目を覚ますの?」
「さあな……氣ってヤツはそうそう増えたり減ったりはしねェだろ、普通。
それが倒れちまってるとなると、またあそこに行くしかねェか」
京一の声が重いのは、あそこというのが桜ヶ丘中央病院を指しているからだ。
この世にもあの世にも恐れるものがない蓬莱寺京一が唯一恐れるのが、
かの病院の院長である岩山たか子なのだが、龍麻に命を助けてもらった小蒔には関係ない。
薄情としか思えない京一の態度を怒ろうとすると、葵が進み出た。
「待って。私が治してみるわ」
「葵」
二人に口を挟ませず、葵は彼の胸にかざした掌に意識を集中する。
次第に身体を燃えるような昂揚感が包み始め、薄く唇を開いてより深く、
より大きく呼吸を整えていった。
自分の肉体に満ちていく、『力』を意識する。
龍麻を救けようという想いを、一心に念じて。
葵は自分を恥じていた。
小蒔を助けたいなどと思っていても、実際は何もできず、ただ怯えていただけだった。
石にされた彼女を元に戻すには、凶津を殺すしかないと判った時、
それでも何か方法はないかと考えることを放棄し、絶望に陥っただけだった。
龍麻は違う。
凶津を殺して石化の術を解き、後に彼を蘇生させるという信じられない手段を思いつき、
そして、失敗すれば殺人者となる危険を顧みずに実行に移した。
これから起こりうる異変の調査に同行するよう命じたのは、こういった事態を予測していたのだろう。
一方で葵は、脅迫に近い命令を受けただけで、龍麻を信用ならないと断じ、
彼が凶津を殺した後、犯行現場から逃れるようにこの部屋へと向かった。
それらの行動は、葵からすれば正当であったかもしれないが、
親友の危機に際して無為無策であったという事実は、
なんとしても彼を救わねばならないと決意させていた。
強い想いが、掌を通じて龍麻へと流れていく。
五秒にも満たない短い時間だったが、効果ははっきりと現れた。
龍麻の瞼がゆっくりと開く。
全てを呑みこむような黒い瞳を見た途端、葵は自分の迂闊さに気づいた。
気をつけていたのに、彼の眼をこんな近くでまともに見てしまった。
なぜ、龍麻の眼を見ただけでこんなにも心がかき乱されるのか。
思考が吸い出され、落ちていく――不気味な昂揚感に、知らず低く喘いだ。
龍麻は何も言わない。
何か言ってくれれば、拒絶か反発か、
この瞳が生み出す不可解な引力に抗う力を得られるというのに、
彼は黙したまま双眸を向けるだけだ。
自分は、どこへ行ってしまうのか――慄く葵を支配する力場が、不意に途切れた。
龍麻が深くまばたきをしたのだ。
我に返った葵は、慌てて龍麻から目を逸らした。
ほんのわずかな時間目があっただけなのに、心臓がひどく鳴っている。
それは以前に龍麻が言った、『力』を使う影響なのだと、葵は思うことにした。
龍麻はいつもと異なる位置関係にある葵の顔を見ただけで状況を理解したらしく、
二秒ほど呆けていただけで身体を起こした。
「助かった」
照れもせず、真顔で礼を述べる龍麻に、葵は答えない。
動悸は未だ収まらず、今口を開けば何を言ってしまうか、見当がつかなかったからだ。
幸いに龍麻は無理やりに返事をさせようとはせず、すぐに小蒔や京一の方を向いた。
安堵しつつ、葵は彼らの輪に入った。
「この野郎、美里に治して欲しくてわざと怪我してんじゃねェだろうな」
本気とも冗談ともつかない京一の台詞に、龍麻は小さく頭を振った。
「治療に力を使うのは苦手なんだよ。しかも怪我じゃなくて心臓を動かそうってんだからな、
加減がわからなかった」
「ふえ~っ、凄いね、止まった心臓が動かせるんなら、どんな怪我でも治せちゃうんじゃない?」
「勘弁してくれ、こんなことは二度とやりたくない」
危機が去った安堵からか、三人は大きな声で軽口を叩きあっている。
そこに、三人を圧する大きな声が外から聞こえた。
「皆、来てくれッ」
醍醐の呼ぶ声に、龍麻達は急いで向かった。
「凶津が妙なことを言いだしたんだ。鬼の力とかなんとか。
俺よりは緋勇のほうが詳しいと思ってな」
側に立った龍麻を凶津が睨む。
その瞳には変わらず邪悪が宿っていたが、その力は弱まっていた。
「おめぇが緋勇か――ヘッ、ざまァねェな、こんな野郎にやられたなんて」
「凶津、さっきの話をもう一度してくれんか。鬼の力とやらの話を」
頼む醍醐に、いかにも面倒臭そうな顔をした凶津は、天井を見上げて独語するように語り始めた。
「俺のこの邪手の力と奴らの持つ鬼の力、
その二つがあればもう怖いものはねェと思っていたのによ。だが……俺は鬼になれなかった」
凶津の話に聞き逃せないものを感じた龍麻は、醍醐に訊ねてくれるよう目で促す。
頷いた醍醐は、三年前とは異なる口調で友に問い掛けた。
「奴らとは……一体?」
「いいだろう、教えてやるぜ」
凶津の話は、異様極まるものだった。
「この東京は、もうすぐ鬼の支配する国になる。
俺達『力』を持つ者と、鬼達の支配する国に。
鬼達の名は──鬼道衆。この東京は、間もなく狂気と戦乱の波に包まれるだろうよ」
声も無い龍麻達に、凶津は歪んだ笑いを浴びせる。
その口の端から、血の筋が滴った。
「そして奴らはいずれ醍醐、おめぇの前にも現れる」
自分達の『力』がなければ、そして邪手の『力』を持つ凶津の言葉でなければ
たわ言としか聞こえない話だった。
龍麻達は顔を見合わせる。
凶津の話をどう解釈すればよいか、不安がそこには浮かんでいた。
ためらいつつ、更に醍醐が訊ねようとすると、サイレンの音が遮る。
「お巡りが来たみてェだな……ちっとばかし派手にやり過ぎちまったみてぇだ」
「行けよ、醍醐。俺は塀の中からのんびり見物させてもらうぜ。
この東京が地獄に変わり、その中でお前らが逃げ惑う様をな」
「行くぜ、醍醐」
足早に立ち去っていく仲間達を見送った醍醐は、最後にもう一度だけ凶津を見た。
凶津の瞳は、笑っていた。
その瞳は邪に満ちてはいたが、どこか、過去の輝きをも取り戻しているようだった。
何か言いかけた醍醐は、結局何も言わず、仲間の後を追いかける。
醍醐が立ち去るのを見届けた凶津は、疲れたように目を閉じた。
気を失った凶津の前に、人影が現れる。
「ふん……所詮はヒトか」
突然に現れたその人影は、凶津を見下ろし、つまらなそうにそう呟いた。
次の瞬間、一陣の風が吹き抜け、止んだ時には人影は影も形も無く消え去っていた
もし凶津にまだ意識があったなら、その人影を見て叫んだかも知れない。
鬼道衆、と──