日付があと一時間で変わろうかという頃。
三十分ほど前から布団に入った葵は、何度めかの寝返りを打った。
葵は寝つきが悪い方ではない。
先日、夢に関連した奇怪な事件に巻きこまれた時は別として、
心配や不安で眠れないという経験はほとんどなかったし、
そもそもそういう状況に陥ることがなかったのが、美里葵という少女の十八年だった。
では、今葵の安眠を妨げようとしているのは何か。
それは数ヶ月前に同じクラスに転校してきた、一人の少年だった。
名を緋勇龍麻という彼の存在が、布団に入り、明かりを消して眠りに落ちるまでの、
短い時間に浮かびあがってくるのが、最近の葵の習慣となりつつあった。
といっても、年頃の娘のように、彼に想い焦がれてというわけではない。
葵にとって龍麻は、数少ない関わりたくない男性の一人であって、
身体を触られ、得体の知れない力を注ぎこまれ、夢の中とはいえ唇まで奪われている。
本来なら彼の顔さえ思い浮かべたくないくらいなのだ。
蛇蝎のごとく嫌う、と言っても良いくらいの彼を、
無意識へと陥る間際に考えるようになったのは、先日の事件の後からだった。
人間が石に変えられるという、にわかには信じられない事件に、
葵の親友である桜井小蒔が巻きこまれ、石にされてしまった。
彼女を救うために龍麻は、身を挺して戦い、傷つきながらも敵を倒し、小蒔を救った。
その献身に葵が感動したのは事実だった。
相手の意志などお構いなしに女を襲い、欲望を満たそうとする卑劣な男としての龍麻。
我が身も顧みず危地に身を晒し、他人のために戦う勇敢な男としての龍麻。
緋勇龍麻という人間の性格を司る善悪の天秤があるとしたら、どちらにより多く傾くのか。
これほど極端な二面を持つ人間にこれまで接したことがない葵には、
彼が善人なのか、それとも悪人なのか、判別できないでいる。
そしてもう一つ、葵が彼に対する評価を定めかねる要素に、彼の眼があった。
これは善悪とは関係ないのだが、彼の黒い、重力場のような瞳は、葵を常に落ちつかなくさせる。
彼が持つ異能の力同様に、何か人知を超えた力を有しているのではと疑ってもみたが、
小蒔や他の女性には何も影響がないようで、であれば葵の思い過ごしである可能性が高いのだった。
「……」
葵は再び身体の向きを変える。
なぜ彼の瞳は、これほどまでに心を騒がせるのか。
闇に響く心音が、自分の心を本人の思いと違う所に導くような気がして、
音を消すために、続けざまに寝返りを打った。
ベッドの中で何度かのたうっているうちに、やがて葵は眠りに落ちる。
せめて夢の中では、彼のことを思い浮かべないようにと願いながら。
「せんせー、さよなら」
「さようなら。気をつけて帰るんですよ」
生徒達が行儀良く挨拶している。
真神の教師の中でも最も人気のあるマリア・アルカードを担任に持った三年C組の生徒達は、
女子生徒だけではない、男子生徒も軽く手を挙げて挨拶し、
他のクラスの生徒達より彼女と多く話せるという特権を満喫して帰るのだった。
わずかに順番待ちさえできている教え子達と、
マリアは穏やかな笑みを湛えてひとりひとり言葉を交わす。
それは、あるいは単に彼女が愛想が良いだけなのかも知れなかったが、例えそうだとしても、
彼女の受け持っているクラスは宿題を忘れてくる生徒が少なく、
そしてテストの平均点が高いのは事実で、生徒はおろか、
真神の全関係者の誰一人として彼女に不満を抱く者など居はしないのだ。
クラスの半分ほどの生徒と挨拶を交わし、その波が一段落すると、
マリアは教壇から離れ、一人の生徒の所に向かう。
教科書を鞄に詰めていたその生徒は、マリアが近づいても動作を止めなかったが、
彼女が机の前に立つと、さすがに顔を上げた。
蒼と黒の瞳が交錯する。
見た目からは想像もできないほどの人生経験を重ねているマリアでも、
彼の瞳に見られると、どこか落ち着かない気分を覚えた。
それはおそらく、彼の眼が、いささかも揺るがないからではないかと彼女は推察する。
あらゆる感情を内包しつつ、容易にはそれを見せない眼は、
ある種の匂いのように、不快でありながら見る者を惹きつけずにおかない。
自己を確立していない、彼と同年代の少女では、
抗することができずに取りこまれてしまうのも止むなしかもしれなかった。
鉄球のような眼からさりげなく視線を外したマリアは、
今年の春にこのクラスに転校してきた、緋勇龍麻という名の教え子に用件を告げた。
「緋勇クン、後で職員室へ来てくれないかしら。話があるの」
「ええ……いいですけど」
龍麻の返答は慎重だった。
自分が呼びだしを受けるような何かをしたのか、自問しているのだろう。
ここで済ませるわけにいかないのか、と言外に問う龍麻を無視して、
マリアは彼を安心させる微笑みを浮かべた。
「大した用事ではないわ。時間はとらせないから」
声にごく微量、教師という立場以上の圧が篭る。
それを敏感に察知したのか、龍麻の視線が挑戦に応じる騎士のように険しくなった。
蒼と黒の光球が、激しくせめぎ合う。
短時間ながらその激しさは、間に立ち入るものを許さないほど苛烈だったが、
決着がつくことはなかった。
自分から威嚇にも取れるほどの眼差しを向けておきながら、
マリアは瞬時にそれを彼女の名である聖母のような慈愛に満ちたものに変えてのけたのだ。
肩透かしというレベルではない、剣で斬りかかったら抱きとめられたというほどの齟齬に、
龍麻は呆然と担任の教師を見た。
「それじゃ、後で」
勝負はついたとばかりにマリアは颯爽と身を翻し、そのまま、
モデルもかくやというような美しい姿勢で教室から出ていった。
「よお、緋勇」
まだマリアにやりこめられた衝撃から立ち直っていない龍麻のところに、蓬莱寺京一が来る。
入れ替わるように彼女のいた場所に立った京一は、彼女の後姿が見えなくなるまで見送り、
好色そうな目つきを隠そうともせず龍麻に話しかけた。
「ん……? なんだ、呼び出しか? 羨ましいねェ」
「そうか?」
疑問を多く含んだ龍麻の返事に、京一は自信たっぷりに答えた。
「そうさ。例えこっぴどく怒られるとしても、
あんな美人に呼び出されるってのは、男としてイイ気分だよなァ。
俺も手取り足取り腰取り教えて貰いてぇもんだ」
京一の手が空中でカーブを描いているのは、マリアの身体のラインをなぞっているのだろう。
答える気にもなれない龍麻が忘れ物がないか、机の中を覗きこんで時間を稼いでいると、
心底呆れたような声が元気良く鼓膜を震わせた。
「京一の場合、教えてもらいたい意味が違うだろッ」
「小蒔かよ。人の話を立ち聞きするなんて趣味が悪いな」
「べー。でかい声でそんな話する方が悪いもんね。ね、葵」
そう言う小蒔の声も、京一と同じくらいには大きい。
舌を出す小蒔に触発されたのか、京一は言い返した。
ただし直接小蒔にではなく、彼女の親友である美里葵にだ。
「あのな、美里。お前もこんな男女の言うこと真に受けるなよ」
「なんだとォ」
「こいつはナンだ、ほら、見てわかるだろ? 女の服なんて着てるけどよ、きっと男だぜ。
その証拠に、何しろ胸が無い」
「……」
「……」
小蒔の短い髪が左右に揺れる。
「ボクは、ちょっと誤解してたよ。キミのこと、アホだアホだって思ってたけど、間違ってた」
「そうだな。過ちは誰にでもあるもんだ。問題はそれに気づくかどうかだからな。
俺のように完璧な人間はなかなかいるモンじゃねぇしな。な、緋勇」
三人が一斉に京一を見る。
その視線の意味は、三者三様ではあったが、好意的なものはひとつとしてなかった。
なのに京一は全く気づかず、勘違いしたまま自慢気に胸を反らせる。
「だろ? やっぱりお前は解るヤツだと思ってたぜ。それに引き換え」
「なんだよ」
「ま、男は背のデカさだけじゃないからな。気を落とさず生きていくこった。な、桜井くん」
「えへへッ」
「へへへッ」
気色悪い笑みを交わす二人だったが、突然、小蒔の腕が稲妻のように伸びた。
正確に顎を狙った拳を、京一はすんでのところで仰け反って躱す。
あらかじめ胸を反らせていなかったら一発で昏倒しかねなかった、いいパンチだった。
「京一……死んでくれ。キミみたいな男は全人類の女の敵だ」
「ま、待て小蒔。いくら俺の方が背もナニもデカいからっていきなり殺すこたァ」
なお挑発する京一に、小蒔は本気を出して襲いかかった。
繰り出される拳を躱していた京一も、次第にその速さについていけなくなり、
徐々にバランスが崩れ出す。
そこに机に足を引っ掛けてしまい、大きく体勢が崩れた。
「ひっさつ!」
目を不敵に輝かせた小蒔は、固く拳を握り締め、渾身の力を身体の一点に撓めた。
強い陽射しに遮られ、はっきりとは見えないが、何やら陽炎のようなものが立ち上っている。
それは、紛れもなく氣だった。
身の危険を感じた京一は、とっさに小蒔の背後に向かって指を突きつける。
「お、おい、醍醐がナンパしてるぞッ!」
「え? ──あッ!!」
そのタイミングといい内容といい、全く天才的なものだった。
京一のどんな戯言にも耳を貸すつもりなどなかった小蒔も、
これには意表を突かれ、思わず振り向いてしまう。
騙されたと気づき、再び前を向いた時には、もう京一の姿はなかった。
「じゃあな、また明日遊んでやるよ」
「待てーッ!!」
鞄を引っ掴んで教室の出口まで走った京一は、小馬鹿にしたように手を振ってみせる。
たちまち怒気を沸騰させた小蒔も、それを追いかけて行ってしまった。
取り残された龍麻と葵は、自然と顔を見合わせる。
彼と目を合わせてから葵はしまったと思ったが、龍麻の瞳にあの漆黒はなく、
龍麻は苦笑いすると鞄を掴んで立ちあがった。
「あいつらはいつも元気だな。……それじゃな、俺も職員室に寄って帰る」
「さようなら」
挨拶を返さないのはあまりに大人げないように思われたので、葵が応じると、
龍麻は片手を上げて去っていった。
平和に終わった一日を歓迎しつつ、ごく微量拍子抜けした感も拭えない葵が、
生徒会の用事で職員室に行かねばならないことを思い出したのは、
龍麻が去ってからちょうど一分後のことだ。
葵は軽いため息をつきつつ、生徒会室に書類を取りに行くために立ちあがった。
職員室に入った龍麻は、思わず固まってしまった。
もちろん自分達の教室なみとは言わないが、いつもそれなりの喧騒には包まれている職員室には、
ただ一人を除いて誰もいなかったのだ。
そのただ一人、マリアは、無彩色の職員室内にあって、鮮やかな金髪でその存在を主張している。
思わず引き返そうかと思った龍麻だったが、マリアに気づかれてしまい、
仕方なく龍麻は用事を済ませるために彼女に近づいた。
「フフッ、待ってたわよ。そこに座って」
「……他の先生は」
「会議中なのよ」
不機嫌すれすれの低空飛行で応じる龍麻に、つまらない事を聞く、
といわんばかりの態度を取ったマリアは、見せつけるように長い足を組んだ。
無理な格好を強いられた膝丈のスカートの形が崩れ、腿の半分くらいまでを露出させる。
日本人には──いや、白人でもこれほどの白い肌はそうはいないだろうマリアの身体は、
高校生には毒でしかない。
しかも組んだ膝の上に肘を乗せ、掌に顎を置いたマリアは身体を心持ち前に傾けているので、
C組の男子生徒の間で賭けさえ行われたことのある、
豊かな胸がその形をくっきりと浮かび上がらせていた。
薄紫色のブラウスは半袖のように見えて、
肩口のところからは凝った刺繍が施されており、素肌よりも見る者を魅きつける。
マリアが見せつけようとしているはずもないが、彼女の意図が読めず、龍麻は表情を消した。
そんな龍麻の視界を全て埋め尽くそうとするかのように、マリアは身を乗り出す。
鼻腔にまとわりつく女性の──大人の香りに、龍麻は軽く眉をしかめた。
だが、マリアの用件というのは、軽くどころではなく龍麻の眉をしかめさせるものだった。
マリアは一通の新聞記事を指し示す。
そこには、春に新宿中央公園であった出来事が記されていた。
盗まれた妖刀──村正の狂気に取り憑かれた男が女性を襲い、
その場に居合わせた龍麻達は、子供を助ける為に『力』を使った。
面倒を避けるため、すぐにその場を逃げ、事は済んだと思っていたのだ。
「マズい……わね。ワタシも油断していたけれど、新聞に載ってしまうなんて」
善行ならば生徒が新聞に載るのは、学校としては嬉しいところだろう。
ただしそれは通常の善行であった場合だ。
「現場にもうひとりいた男子高校生は、身体から不思議な光を発したともあるわ」
「そんなことまで?」
「ええ」
『力』のことは極力他人に知られたくない――興味本位で近づいてこられても困るし、
真剣に研究対象として見られるのはもっと困るのだ。
教え子を変に目立たせたくないというマリアの心配を龍麻も共有した。
とはいえ、現状龍麻にできることはほとんどない。
実際、記事には『高校生が男に飛びかかったという証言もあり』とはあるが、
龍麻の周りで取材を受けたという話もない。
実際、マリアも注意喚起をしたかっただけのようで、それ以上龍麻を咎めることもなかった。
「すみません、以後気をつけます」
頭を下げる龍麻の視界で、白い足が組み変わる。
もう少しで説教も終わりそうだ、と考える龍麻に、白い足が近づいてきた。
「緋勇クン、アナタ……斬られたわよね。アノ時の怪我はもういいの?」
急に変わった風向きに、龍麻は顔を上げた。
その顔には眉目に微妙に不審がただよっている。
あの時、マリアも居て、葵が『力』を使い、龍麻を治すところを見ていたはずだ。
傷口こそ見せてはいないが、何事もなく立ちあがり、帰るところまで把握しているはずなのに。
「ええ、なんともありません」
無難にそう答える龍麻に、マリアは教師と生徒、
成人と未成年という以上の余裕を見せつけるかのように、
無防備ともいえるくらい龍麻に詰め寄ってきた。
「平気というのならば、証拠を見せて欲しいのだけれど」
「証拠……ですか?」
「ええ。ここで服を脱いで」
教師が生徒に職員室で服を脱げと迫るなど、常識では考えられない。
だが、そもそも話は日本刀で背中を斬られたという非常識から始まっている。
優れた判断力で仲間を率いる龍麻だが、この時はとっさに拒絶するという決断ができなかった。
それどころか、にじり寄ってくるマリアから離れようという考えすら起こらないまま、
彼女が立ちあがるのを許してしまう。
マリアの手が制服の内側に滑りこむ。
ボタンを外さず、シャツの上から、竦んでしまった獲物にことさら大きく口を開けてみせる
蛇のように、肌触りを――女の肌触りを浸透させていく。
手はゆるやかな螺旋を描き、背中へと這っていく。
必然、マリアの身体は触れんばかりに近づいていた。
隠しても隠しきれない、豊かすぎるバストもまた、
龍麻をむしろ誘うように紙一重の位置でとどまっている。
美貌の女教師に、教師と生徒という関係ではありえないほど近づいているにもかかわらず、
龍麻に喜びなどない。
あるのはその正反対の感情で、背中に冷たいものを感じた。
龍麻が抱いた恐怖は悲鳴をあげる間もなく、マリアの指先に掬い取られる。
龍麻の体液を捉えたマリアは、深紅に彩られた唇で、微笑を形作った。
「フフ……そんなに硬くならないでいいのよ」
マリアの囁きが、痛いほどに鳴っている血流のリズムに乗って思考に流れこんでくる。
囁きは抗おうとする思考を組み伏せ、龍麻は指一本すら動かせなくなった。
「──ッ!」
いよいよ、という時になって、急速に気配が遠ざかる。
何事かと目を開けた龍麻の瞳が捉えたのは、
とてもこれからキスをするようには見えない、唇を硬く引き結んだマリアの顔だった。
既に彼女は自分を見ておらず、その向こうにあるものを見据えている。
大きな瞳に憎悪が宿っていた。
なまじ美しい蒼氷は、そこに憎しみが宿った時、
うかつに覗いた者を灼きつくすかのような苛烈な宝石へと変ずる。
自身が招いた怒りではないとはいえ、蒼い瞳に紅い憎悪が宿る瞬間を
至近距離で見てしまった龍麻は、よろけるように半歩後退した。
その背中に向かって、持ち主に相応しくない、やや軽い調子の声がかけられる。
「よォ、緋勇じゃないか。何か悪さでもしたのか?」
「犬神……先生」
呼ばれた龍麻に代わって同僚の名を告げるマリアの声もまた、
彼女らしくないひびわれたものだった。
至近距離で見つめる龍麻のことを忘れたかのように、険しい表情は崩さない。
それでもマリアは美しかった──むしろ、感情を露にした今の方が輝きを増しているとさえいえた。
だが犬神は、少なくとも表面的には、マリアの態度にひとかけらの関心も示さなかった。
「どうしましたマリア先生、そんな怖い顔して」
「い……いえ。どうして……先生がここに?」
「ははは、どうしてって、ここは職員室ですよ。
そりゃ僕は物臭さであまりここには来ませんけどね」
犬神の返事に疲れたように頷いたマリアは、それまでの態度が嘘のような投げやりな口調で告げた。
「緋勇クン……ありがとう、もう帰っていいわ」
既にこの場では邪魔者でしかない龍麻は、身のほどをわきまえ、そそくさと立ちあがる。
マリアと自分との間に立った龍麻を見る、眼鏡の奥の大神の瞳は、
龍麻が気配を感じるほど鋭いものだった。
しかし、龍麻が振りかえった時にはもうその気配は消えている。
「僕の事なら気にせずに続けてください」
「いえ……大体は終わりましたから。緋勇クン、また今度……ね」
今度、とやらがなるべく来ないように祈りつつ、龍麻は二人の前から立ち去る。
あと一歩で希望の出口へと辿り着くというところで、再び犬神から声をかけられた。
「そうだ緋勇、お前……旧校舎には入ってないだろうな」
もう職員室から逃げることしか考えていなかった龍麻は、
急に旧校舎の名を出されて硬直してしまう。
マリアといい犬神といい、学業と関係ない所で生徒を困らせる術に長けているようだった。
もっともこちらの件に関しては、あの日以来、
龍麻達はあそこに近づいたことはなかったから、正直に答えることができた。
「は、はい」
「ならいい。──いいか、くどいようだが、旧校舎には近づくなよ。あそこは……良くない」
いくつもの意味を込めた、複雑な音で警告を発する犬神に、龍麻は頷くしかできなかった。
振り返らずに職員室を後にした龍麻は、完全に廊下に身を置いてから振り向き、扉を閉める。
何か封印を施したような気分になったが、
中で起こった濃密な出来事を考えればそれも当然といえた。
頭を左右に傾げ、音を鳴らした龍麻は、ひとつ伸びをしてから廊下を歩き始めた。
龍麻が職員室を出る、およそ三分ほど前。
生徒会室を回って書類を取ってきた葵は、職員室についた。
葵が職員室に入ったとき、龍麻がマリアと話していた。
二人が何を話しているのか気になりはしても、
彼らのところに行って会話に割りこむつもりまではないので、
書類を机の上に置いて早々に立ち去ろうとしたところ、
美貌の女教師はいきなり立ちあがったかと思うと、龍麻に身体を寄せたのだ。
常識的な、逆に言えば想像力にはやや欠けるところがある葵は、
女が男に抱きつこうとしている衝撃的な光景を目の当たりにして、
ここが職員室であることや、龍麻が迷惑そうに棒立ちしているといった
細かな点など目に入らず、ほとんどひとつの答えしか導きだせなかった。
一体龍麻は、何を考えているのか――呆然とする葵の呪縛が解けたのは、
いつの間にか職員室内にいた犬神が龍麻とマリアのところに来てからだ。
彼が白々しいくらいの親しさでマリアに話しかけると、
マリアと龍麻の間に立ちこめていた何がしかの熱が霧消し、
マリアは演技が下手な俳優達のせいで役に入りこめずに腹を立てた主演女優のように、
素に戻っていた。
見てはいけないものを見てしまった気がした葵は、頭を下げると逃げるように職員室を出た。
動揺したまま教室に戻って、同級生と鉢合わせするのは良くないと考え、
図書室にでも行こうかと考えていると、職員室から当事者の一人が出てきた。
龍麻がいかにも不機嫌そうな顔をしているのは意外だったが、
葵に気づいた龍麻は彼の方から声をかけてきた。
「教室へ戻るのか?」
「は、はい」
「それなら一緒に戻ろう。忘れ物をしちまった」
動悸が治まらないまま、葵は龍麻と同行することになってしまった。
それは同行などと大げさなものでなく、ただ教室までの数百メートルを歩くだけだ。
どんな深刻な問題も語り合うには短すぎて、構える必要などなにもないはずだった。
だが、龍麻は黙したままで、そのくせ葵と並んで歩き、
本来彼と話したくないはずの葵は、極度の緊張を強いられる。
運の悪いことに廊下には誰もおらず、沈黙に耐えかねた葵は、
彼女らしくもなく話しかけてしまった。
「あ、あの……マリア先生、どんな用事だったの?」
それは不必要なだけでなく、害悪ですらある質問だった。
口にした直後に葵は何もかも捨てて逃げだしたくなったが、
龍麻は、むしろ冷静さを取り戻したようで、口の端を軽く釣りあげた。
「気になるのか?」
「そ、そういうわけじゃ」
何に対してか判らぬまま赤面する葵の聴覚に、龍麻は驚くべき語句を注ぎこんだ。
「『力』の話をされたよ」
「え?」
「新聞に載ったらしいんだ。日本刀を持った男に子供が襲われそうになった。
勇敢な二人組が子供を助けた――ってな」
「……」
「さらには不思議な光を発したとも」
不安が葵の胸に立ちこめる。
自分たちが不思議な『力』を持っていると周囲に知られたら、
平穏な学生生活は送れなくなるだろう。
「まあ、そっちは与太話扱いされるだろうし、マリア先生もそんなに心配はしてなかったな。
あくまで注意喚起ってところだったよ」
「そう……」
「ただ、その流れで怪我の話になって、傷跡を確かめさせてほしいってよ。
見たところで意味なんてないだろうに、少し変わってんなあの先生」
マリアに対する悪口とまではいかなくても、褒めていないのは確かで、
マリアを敬愛する葵としては面白くない。
とはいえ、擁護しづらいこともあり、葵は沈黙を保った。
それにしても、今の言い方といい、職員室での態度といい、
龍麻はどうもマリアに迷惑な印象を持っているようだ。
女好き……というか、女とあれば見境なしというわけではないのだろうか?
葵は他人の趣味嗜好に口をだすような趣味はないが、龍麻に関しては大いに関係が、
それも悪い方向にあるので、どうしても気になってしまうのだ。
「心配してくださったのじゃないかしら」
「……」
龍麻は黙ったままで、マリアを庇ったことで機嫌を損ねたのではないかと葵は思ったが、
そうではなかった。
急に立ち止まったかと思うと、窓の方に鋭い視線を向ける。
一瞬ためらった後、葵も彼が見ているものを見やると、
旧校舎が見える窓の外に、一人の学生が立っていた。
距離はやや離れているが、憤怒の表情が見て取れる。
あまりに悪意のある視線に、葵は思わず身震いした。
「佐久間……君……」
二人を睨みつけているのは、二人にとって同級生にあたる、佐久間猪三だった。
同じクラスであるのに敵意に満ちているのは、龍麻が転校した初日に佐久間は因縁をつけ、
撃退されたからだ。
その後、佐久間は他校の生徒と喧嘩をして大怪我をし、入院していたが、先日退院したらしい。
らしいというのは佐久間を学校で見かけることがなかったからで、
彼にもあまり関わりたくない葵はほっとしていたのが、どうやら今日は学校に来ているようだった。
「一度喧嘩したくらいで、あんなに恨まれるものか?」
壁を隔てているとはいえ、龍麻はのんびりしている。
葵は、やはり壁を隔てているとはいえ、声を潜めて言った。
「……私が男子生徒と二人で歩いていると、佐久間君はその人に言いがかりをつけるの」
「なるほどな」
龍麻も狙われるという忠告をしたつもりだったが、彼の反応は葵の予想を遥かに超えていた。
龍麻が手首を掴む。
何が起こったかわからぬまま、葵は抱き寄せられた。
あまりのことに抵抗することも忘れ、彼の腕の中に収まってしまう。
それほど強い力でもないのに、龍麻の身体は磁石のように離れなかった。
「あっ、あの……!」
固い胸板を感じる。
それは筋肉や緊張によるものではなく、龍麻そのものの内在する力のようだった。
手首を掴まれ、腰に腕を回され、職員室前の廊下にあるまじき、
芝居のような抱擁をさせられている。
にもかかわらず、葵は手首と腰に嵌められた、黒い二つの鎖から逃げだすことも忘れ、
自ら虜囚たるに甘んじていた。
身体が熱い――いや、それとも、熱いのは心か。
突如として噴きあげた炎に灼かれる葵は、身体の輪郭さえ喪ったかのような感覚に囚われていた。
「おうおう、怒ってるな」
だが、頭上からの品のない言葉に、葵は我に返る。
顔を上げたすぐ先に、不敵に笑う龍麻を認めると、掴まれていない方の手で彼を押しのけた。
自失していたのは、おそらく三秒にも満たないだろう。
なのに、心臓と彼に掴まれた右の手首は、千メートルを全力疾走したほどに鳴っていた。
龍麻に見えないように右の手首を左手で握った葵は、
窓の外を見て薄笑いを浮かべている龍麻から、逃れるように歩きだした。
身体の内側から、何かがこみあげてくる。
心臓と手首がひとつ脈動するごとに、膨れあがってくる。
まるで制御の効かない、自分の裡から飛びだそうとする、自分でない何か。
佐久間の目の前で抱き寄せられたことも、それが学校の廊下であったことも、葵の頭にはない。
あるのは、掴まれた手首と胸に押し当てられた頬に残る、龍麻の感触だけだった。
立ち止まるとそれが噴きだしてしまう気がして、
生徒会長という生徒の模範となるべき立場も忘れて小走りで教室に戻る。
葵は完全に集中力を失っていたので、階段のある廊下の端まで来た時、
階段を駆け下りてくる足音に全く気づかなかった。
「きゃッ……!」
かろうじて衝突は避けた葵が悲鳴をあげる。
「危ないわね、もうッ、前見て歩きなさいよねッ……って、美里ちゃんじゃない」
「アン子ちゃん……」
葵とぶつかりそうになったのは、遠野杏子だった。
状況的にはお互いさま、といったところを、勢いで葵の劣勢に持っていっている。
追いついた龍麻が非難がましい視線を向けても、謝るつもりなど毛頭なさそうだった。
「どうしたのよ、美里ちゃんがぶつかりそうになるくらい慌てるなんて、緋勇君何かしたの?」
なんでもゴシップに――実は、そう的外れでもなかった――持っていこうとするアン子に、
龍麻はうんざりするように首を振った。
「階段を一段飛びで下りてきたのかよ。足踏み外したら危ねえだろ」
「起きなかった未来の話なんてしても仕方ないわ、大切なのは現在と、記事に値する過去だけよ。
で、何、美里ちゃんと仲良く歩いて、まさか逢い引き?」
「学校の廊下でそんなわけないだろうが。職員室から戻るところだ」
あくまでも二人の関係を追及するアン子に、龍麻はあからさまに舌打ちしてみせたが、
アン子には毛筋ほども効果を与えなかった。
「何、呼びだし? 緋勇君も結構ワルなのねぇ。で、誰に呼ばれたの?」
「マリア先生だよ」
それどころか、いつのまにかアン子のペースに巻きこまれている。
「ふーん。じゃ、なんだかんだ言って嬉しいんじゃないの。年上の美女に呼ばれるなんて」
「阿呆か」
直前に年上の美女に迫られ、かつ同級生の美少女に手を出したことなどおくびにも出さず、
龍麻は鉈のような鋭さでアン子の妄想を切り捨てた。
もっとも、図々しさは記者の資質とでもいうように、全く効いてはいない。
「ま、いいわ。緋勇君は新聞部のいいネタ──じゃない、お客だから、
期待を裏切らないでよね。それじゃ」
言いたい放題言って、アン子は龍麻たちが歩いてきた方へ向かって歩きだす。
その足が空中で止まり、上半身だけが回転した。
「──ッと、忘れる所だったわ。緋勇君、校門で女の子が待ってたわよ」
「女の子?」
「ええ、真神の制服じゃなかったわ。全く、隅に置けないわね、えっち」
「……」
なにか言い返してやろうと考えているうちに、アン子は行ってしまった。
頭を掻いた龍麻が向き直ると、機に乗じたのか、葵も姿を消していた。
さまざまな事象をひとつのため息に集約して吐いた龍麻は、鞄を取りに教室へと戻っていった。
一方、龍麻の魔手から逃れた葵は、教室には戻らなかった。
龍麻と顔を合わせると気まずいという理由の他、実際に心臓が激しく鳴っていて、
少し休まなければ家にも帰れないほどだったのだ。
保健室の教諭に三十分ほど休ませてほしいと告げた葵は、ベッドに潜りこむ。
身体を横向きにして、右の手首をそっと押さえた。
痛みはない――だが、皮膚を押しあげると錯覚するくらい脈拍は激しく、そして、
龍麻の手形が描けるほど、彼に握られた部分が熱かった。
自分の身体に起こっている、異常ともいえる変化に、葵は強く目を閉じる。
すると、手首だけでなく、龍麻に触れた上半身までが熱くなって、ますます困惑した。
龍麻が氣と呼ばれる不思議な『力』を使ったのなら、納得できる。
しかし、自身も『力』を使える葵は、そのような『力』を使われてはいないと、
残念ながら認めざるをえない。
奇妙な火照りは一緒だけれども、『力』はもっと注ぎこまれるような感覚がある。
対して今は、単に火照っているだけ――
そう考えて葵は愕然とした。
春先から、龍麻に触られて身体に熱を感じることは何度もあった。
それらは全て、龍麻がよからぬことをしたからなのだと信じこんでいたのだが、
必ずしもそうではなかったのかもしれないのだ。
龍麻が邪な欲望を抱いていることには違いないとしても、
それに反応してしまう自分の身体はなんなのか。
少女には耐えがたい想像を打ち払うかのように、葵は固く目を閉じて身体を丸めた。
けれども、身体を縮めたことで熱は逃げ場を失い、火照りは無視できない強さになっていく。
薄く開いた唇から吐いた呼気が唇を炙り、まだ鼓動が収まらない心臓が、
焚きつけるように身体の内側で鳴り響き、葵は祈るように膝を擦りあわせた。
足の間が、疼く。
皮肉にも、気をそらそうと擦りあわせた膝が、最も強い変化を起こしている部分を葵に教えた。
疼く、という言葉を使ったことさえなかった葵は、
その意味を、その状態を、はっきりと認識していた。
苦しく、そして求めている。
突如として湧き起こったその、感情かどうかもわからない思考に、流されるまま右手が蠢いた。
ひとりでに動こうとしている右手を、葵は慌ててもう一度押さえつける。
その瞬間から、葵の裡に激しい二つの対立が湧きおこった。
触りたい。
触ってはいけない。
シンプルな二者択一は、葵にかつてないほどの混乱をもたらした。
触らないほうが正しいに決まっている。
理性はそう告げ、葵を司るものもそれを支持している。
なのに、葵を象るものが、触れと強く命じるのだ。
またの名を欲望というそれは、振り払おうとする葵の肌の内側にへばりついて、
拒否する葵が悪であるかのように責めたて、促した。
どうなっているか、確かめるだけだから。
少し触ればきっと、気が済むから。
このまま疼きを放っておくほうがよくない。
ほんの少し。ほんのちょっと。
ひとつ誘惑を退けても、すぐに新たな誘惑が囁きかける。
それらすべてを退けるには、葵は清純すぎた。
それが時には女を堕落させる禁断の果実であることを知らないまま、誘惑に屈してしまったのだ。
右手をスカートの中に滑らせる。
足を心持ちずらし、パンティストッキングの中心をなぞるようにして、疼きの中心を探り当てた。
「……っ!」
中指の腹が触れた瞬間、甘い痺れが葵を襲った。
ほんの少し触っただけなのに、全身を走った痺れを、信じられずにもう一度試す。
答えは同じで、ベッドの中で葵は身をすくめた。
気持ちいい。
先ほどからの動悸が、頭の中で膨張する。
考えのすべてがその音に圧されて、
もっとこの気持ちよさを味わいたいという欲望に支配された葵は、
疼きの中心に添えたままの指を数度往復させた。
「ん……っ……」
頭の中で血流が脈打っているというのに、心が安らぐような奇妙な快感が身体を満たす。
触れている場所がクリトリスという名前であることも、
今している行為が自慰と呼ばれるものであることも知らなかったが、
そこに触れると悦ぶということはすぐに憶えた。
腹の部分がより多く触れるように指を曲げ、より気持ちよくなる場所を擦って探す。
場所を見つけると擦る強さに強弱をつけ、あらゆる方法で快感を探求した。
満ちていく――注入されたのではなく、湧きおこる快感が、葵を満たしていく。
それが転校初日に襲いかかってきた男によってもたらされたものと同種であることに、葵は気づいた。
怪我の治療と称して肌を触られたこと。
電車の中で痴漢されたこと。
夢の中で唇を奪われたこと。
記憶の底に封じ込めたはずのそれら忌まわしい出来事が、閃光のように脳裏に瞬く。
するとどうしたわけか、快感が増幅されてしまうのだ。
強い重力場のような彼の瞳を思い出す時、快感は一層強くなる。
膝頭が顔につくくらい身体を丸め、手首を足で挟んで固定して、
葵は生まれて初めてとなる自慰に没頭した。
至福のときが破られたのは、葵自身の手によってだった。
「……っ、ふ……!」
はっきりと音をもった自分の声で、葵は我に返った。
それは呼気というにはあまりに艶めかしく、くるまったシーツ全体が濡れるような吐息だった。
ここがどこで、何をしているのか思いだし、落下するエレベーターのように、一気に心が冷える。
動悸は未だ完全には治まっていなかったが、身体を跳ね起こした葵は、
逃げるように保健室を出て、家への道をひた走った。
葵に逃げられた龍麻は、彼を待つ少女のところへ急いで向かったりはしなかった。
会いに来る他校生の少女とやらに心当たりは全くなく、興味も湧かない。
ゆっくり行く間に愛想を尽かして帰ってしまえばそれでも構わないと考えたのだが、
少女は龍麻を待っていた。
紫色の上着と、赤いチェックのスカートの制服を着た少女が誰なのか判ったとき、
龍麻は柄にもなく引き返したいと思った。
「あ……」
龍麻に気づいた少女が、駆け寄ってくる。
「お前は……」
「わたしのこと、覚えていますか」
「……ああ」
知らない、と言ってしまいたかった。
だが、心を総動員しても、彼女に対しては嘘がつけなかった。
名前は知らない。
渋谷の交差点で彼女とぶつかったことを、今日の出来事のように思いだせるだけだ。
「嬉しいです……! あの、わたし、一度会っただけなんですけど、
どうしてもあなたのことが忘れられなくて、どこの高校か調べて、思いきって来ちゃいました。
あ、わたし、比良坂紗夜っていいます」
アン子に対してはできた迷惑顔ができない。
それを龍麻は不思議に思わなかった。
一度、それも雑踏の中で少しぶつかっただけの少女が、
手がかりもないまま自分を探しあてたことに、感動さえしていた。
「実は……今日はお願いがあるんです」
「お願い?」
「はい。……あの、……あの、わたしとデートしてくれませんか?」
「デー……ト?」
それが意味することなら、龍麻はしたことがある。
自分から誘ったことも、女性から誘われたことも。
しかしデート、とはっきり言葉にして言われたのは初めてで、新鮮な感銘が胸に弾けた。
龍麻は軽くうなずき、即答した。
「ああ、俺で良ければ喜んで」
「嬉しい……夢みたいです」
紗夜は両手で口許を押さえ、喜びと照れとを同時に表した。
小さな白い指と、それが覆う唇に、龍麻は心奪われる。
そこから発せられる、淡い紫の花のような音色をもっと聞きたいと思った。
「それじゃ、あの、わたし、行きたい所があるんです」
紗夜は手を握り、引っ張るように歩き出す。
握ってきた手の柔らかさに、龍麻は思わず叫んでしまうところだった。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもない。行こう」
外れてしまわないように、繋いだ手をしっかりと握り締める。
紗夜はわずかに目を見開いただけで、負けないくらい強く握り返してきた。
言葉よりも意思を伝える方法があることに気づいた龍麻は、
無言のまま、二人だけの路を歩きだした。
紗夜が龍麻を連れていったのは、しながわ水族館だった。
平日の四時過ぎとあって、訪れている客も少なく、
ほとんど貸し切りのような状態の館内を、二人は肩を寄せ合って歩く。
館内の冷たい空気を言い訳にして身体を密着させ、暗い照明を理由にして手を離さなかった。
紗夜は何度か来たことがあるのか、水槽の前でひとつひとつ立ち止まり、龍麻に解説する。
解説といっても、好き、嫌いのレベルだったが、デートなのだから、もちろんそれで充分だった。
「わぁ、可愛い。おいで、こっちにおいで」
水槽に顔を近づけ、寄ってくる魚を手招きする紗夜を見ていると、
魚など食べる以外に興味がない龍麻も、その間抜けな面が何やら可愛く見えてしまう。
しかし高校生の男子としては、魚相手に愛想のある表情など出きるはずもなく、
しかつめらしい顔をするしかない。
ガラスに映ったそんな龍麻の顔を見て、紗夜が驚いたように振り向いた。
「あの……ごめんなさい、ひとりではしゃいじゃって」
「え? ああ、違う、これは別につまらないからじゃない」
慌てた龍麻は笑顔を作る。
そして、それだけでは説得力に欠けると感じ、握った手に力を込めた。
「あ……」
伝わる体温の熱さに、紗夜は俯き、固まってしまう。
龍麻も動く訳にいかず、二人は水槽の前で不器用に立ち尽くす。
ガラスの向こうでは、紗夜の頭ほどもある巨大な魚がやる気のない神父の趣でぷかぷかと泳いでいた。
二人は、時の番人に十回ほども砂時計をひっくり返させるほどの間、
この上なく幸福な時間を過ごした。
魚でさえも既に愛想を尽かし、水槽のこちら側にも向こう側にも龍麻と紗夜を邪魔するものはいない。
特に言葉を交わしたり、見つめあったりした訳ではなかったが、
時折握りなおす手がお互いの気持ちを何よりも伝えていた。
それでも三十分ほども同じ場所にいるとさすがに足も疲れ、
ほぼ同じくして顔を見合わせた二人は、小さく笑う。
お互いに譲り合った後、口を開いたのは紗夜の方だった。
「あの……そろそろ出ましょうか」
自分の言いたい事を言ってくれた紗夜に龍麻は黙って頷き、
デートの舞台を隣の公園へと移した。
空は薄いオレンジに変わりかけているものの、まだ日没までに時間は大分あった。
紗夜はその大人しい外見からは想像もつかないほどはしゃいでいて、
子供のようにあちらこちらへと龍麻を振りまわす。
「緋勇さん、見てッ。魚が。……あ、でも、魚なら水族館で見ましたよね、えへへ」
笑う紗夜を見ていると、自然に龍麻の顔にも笑みが浮かぶ。
やはり暗い所で見るより、明るい所で見る方が彼女は断然可愛い。
しかし、手を繋ぎ、身体を寄せ合うのは水族館の中でこそ出来たことで、
どちらも選びがたいものだった。
どちらが良かったかを考えている龍麻の前で、紗夜の髪が踊る。
夕陽を浴びて黄金色に輝く髪を見て、やはり外の方が良い、
としょうもない疑問に答えを出した龍麻だった。
「気持ちいい……」
そよ風に髪を撫でさせて、紗夜が呟く。
その姿が、何故か風にかき消されてしまったような気がして、
龍麻は思わず彼女に詰め寄っていた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……なんでもない」
己の錯覚に罵声を浴びせつつ、龍麻は紗夜と肩を並べた。
ちらりと横顔を盗み見ると、紗夜の視線は遥か遠くに据えられていた。
物憂げに細められた目は、一体何を見ているのだろうか。
同じ物を見ようとしても、龍麻の瞳が捉えたのはビルばかりだった。
彼女と想いを共有する事を諦めた龍麻は、
透き通るような瞳を凝視することでせめてもの代わりにしようとした。
紗夜は龍麻がじっと見ている事に気づいていないか、
あるいは気づいていないふりをしていたが、
やがて、半ば独り言のような静かな声で龍麻に訊ねた。
「緋勇さん、ひとつ聞いていいですか。
緋勇さんは、奇跡……って、信じますか?」
幸いなことに、これまでの人生でそんなことを考える必要のなかった龍麻は、
とっさに返事ができなかった。
声を詰まらせる龍麻に、紗夜は寂しく笑う。
それは本当の哀しみを知る者だけが為し得る笑みで、
圧倒された龍麻は立ちすくむのが精一杯だった。
「わたしは、奇跡なんて……無いと、思います。
だって奇跡があるなら、大切な人を失うことなんてないじゃないですか」
突き放した断定に、やはり龍麻は答えられない。
彼女の過去に何か関係があるのは明らかであり、まだそこまで踏み込んで聞くのはためらわれた。
気の利いた台詞のひとつも思い浮かべられない自分の不甲斐なさを嘆く龍麻を慰めるように、
紗夜は話題を変える。
「緋勇さん、わたしね、夢があるんです」
「夢……? どんな?」
「わたしの夢は……笑わないでくださいね、看護婦さんになることなんです。
……おかしいですか?」
「そんなことはないさ。比良坂なら立派な看護婦になれると思う」
まだ将来のことなどろくに考えた事もない龍麻は、素直に感動していた。
それに、居るだけで心が温かくなる彼女なら、きっと患者の治りも早くなるに違いない。
一緒の時を過ごして数時間ほどしか経っていないのに、半ば本気で龍麻はそう思っていた。
「緋勇さん……ありがとう」
頬をほんの少しだけ赤らめて、紗夜はまっすぐ龍麻を見つめる。
拭いえない愁いを帯びた表情は、たまらなく愛おしいものだった。
紗夜の瞳もそれを望んでいるように見え、
龍麻は緊張で凝り固まってしまっている腕をぎこちなく伸ばした。
束の間、受け入れる表情を浮かべた紗夜は、しかし、何故か龍麻から身を離した。
落胆する龍麻に、紗夜の心を痛みが走る。
しかし、彼の身体の温かさを知ってしまったら、
より大きな痛みに苛まれると解っていたから、
辛くとも心の温かさだけで満足しなければならないのだ。
拒絶されたと思ったのだろう、所在無げに引っ込もうとする龍麻の手を握る。
そこまでが、罪深き自分に許されたことだった。
「わたし、小さい頃に飛行機事故で両親を亡くしてるんです」
何故急にこんな話をする気になったのか、自分でも解らない。
彼の同情を惹こうとしているだけなのかも知れない。
それだけでも自分は赦されない、と紗夜は思ったが、
真剣な眼差しで耳を傾けてくれる龍麻を見ると、話を止めることはできなかった。
「たくさんの人がその事故で死にました。
わたしは……父と母に護られて、ほとんど怪我もなかったそうです。
でも、父と母は──だからかも知れません。看護婦さんに憧れるのは。
看護婦さんになって苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。
──ごめんなさい、こんな話して。でも、緋勇さんには聞いて欲しかったんです。
だって……だって、わたし……いえ、なんでも……ないです」
この時、何故龍麻は拒まれても無理やりに彼女を抱きしめてやらなかったのか、
後日悔やみきれない悔恨に身を切り裂くことになる。
しかしこの時は、繊細な結晶で出来たような紗夜の身体に触れるのは、
とてつもない禁忌なのではないか、という念に囚われ、指一つ動かすことができなかったのだ。
それでも、紗夜が小さく微笑んだ時は、今からでもそうすべきではないのか、との思いがよぎる。
けれど、時間を支配する神は残酷にもその機会を与えてくれなかった。
「今日はつき合ってくれてありがとうございました。もう……帰ります」
手を離した紗夜は、小鳥のように身を翻して龍麻から離れた。
急に変わった紗夜の態度に龍麻はさよならを言うことさえできず、
あっけにとられたまま彼女を見送った。
しばらく立ち尽くしていた龍麻は、夜を告げる風に急き立てられて、駅に向かって歩きだす。
ポケットに手を入れようとして、ふと、彼女と繋がった右手を眺めた。
掌は、もう冷たかった。
翌日、龍麻は朝から不機嫌だった。
級友たちは話しかけるどころか、放出されている、
殺気にも似た彼の不機嫌さに怯えて近づきもしない。
教師ですら話しかけるのをためらっていた龍麻の、
今日初めての話し相手となったのは、木刀を肌身離さず携えている、
真神學園での彼の第一の友人を自ら任じる蓬莱寺京一だった。
彼が龍麻に話しかけたのは昼休みになってからで、
学校生活も半分を過ぎてからの接触となったのは、京一が学校に来たのが四時限目の前であり、
さらに、教室に入ってきたのは四時限目の終了後だからである。
購買に寄ってさっさと昼飯を確保してきた京一は、教室に入って女生徒に愛想よく挨拶した後、
不機嫌の塊となっている龍麻に気づくと、彼の机にパンを放り、
自分は前の席に座って龍麻の方を向いた。
「おう、どうした、財布でも落としたか? それとも、犬神に説教でもされたか?」
気安く話しかけてくる京一に、龍麻は薄く開いた目から、
およそ好意的とは言えない視線を投げつけた。
街でこんな視線を受けたら、問答無用で喧嘩を仕掛けるところだが、
京一は意に介さず、ことさら音を立ててパンの袋を開けた。
「ま、言いたくねェなら無理にとは言わねえがよ」
パンの半分ほども一口で噛り、さらに牛乳も飲むと、ようやく龍麻が口を開いた。
「昨日、女と会った」
今度は京一がしかめ面をする番だった。
牛乳パックからストローを抜き取り、咥えたまま楊枝よろしく上下させる。
「それで機嫌が悪くなるって、お前ホモか?」
「全然、俺の本意じゃないんだ」
「はあ? 何言ってやがるお前」
いよいよ解らなくなった京一は、お手上げとばかりに残ったパンの半分を口に押しこんだ。
口を忙しく動かしながらも、目はしっかり説明を求める彼に、龍麻は仕方なく説明した。
「つまり、一度会っただけの子がお前を探して真神に来て、
お前はそのままデートしたが、実は全然楽しくなかったってコトか?」
「楽しくなかったんじゃなくて、そのつもりが全然なかったんだよ。
なのに一緒に居て、帰ってきてから我に返った」
龍麻の訂正を聞いても、京一は理解に苦しむといった態度を崩さなかった。
「そりゃお前、よっぽどその子と遊ぶのが楽しかったんだろうよ。
クソッ、ナンパにもつきあわねえでちゃっかり確保、
しかも向こうから来るとはどういう運を持ってやがる」
「だから違うって言ってるだろ」
真意が全く伝わらない龍麻が声を荒げると、京一も声を大きくして言い返した。
「んじゃ何だってんだッ」
京一の手の中で牛乳パックが潰れる。
中身が入っていなかったのが幸いで、力いっぱい握りつぶされたパックは
百年も年を取ったようにくしゃくしゃになった。
「俺は全然興味無いんだぞ!? なのにまた会う約束までしてるんだ、
これが普通じゃなくて何だってんだ」
「そのつもりがねェなら会って断ればいいだけの話じゃねェのか」
「それは……そうだけど」
珍しく龍麻は視線を伏せ、弱気なことを言った。
「それなら、断る時に一緒に居てくれないか?」
「アホかお前は。なんでそんな気の毒な場面に俺が立ち会わないとならねェんだ」
懇願を一蹴した京一は、つきあってられないとばかりに立ちあがり、
教室を出ていってしまった。
京一が見えなくなっても、恨めしげに教室の出入り口を見つめていた龍麻は、
大きくため息をつくと、再び目を閉じ、不機嫌そうに腕を組むのだった。
京一は結局、午後になっても教室に戻ってこなかった。
機嫌が悪いままなのか、天気が良いからひなたぼっこしているのかは不明としても、
本気で京一に付き添ってほしかった龍麻は、一人で約束を断りに行く羽目になって、
憂鬱な気分で待ち合わせ場所である校門へと向かった。
全く好意を持っていないのに、数時間もほぼ初対面の少女と遊んでしまったという恐怖が、
なぜ京一には解らないのか。
催眠術でもかけられたかもしれず、もしそうなら、他者がいれば防げるのだろうが、
女にはめっぽう甘い京一は、女が男に害をなすという可能性をまるで地動説のように信じない。
まして虫も殺せないような少女が、何らかの方法で龍麻を罠にかけたと訴えたところで、
昼間のような反応は、むしろ上品だったとさえ言えるだろう。
葵を無理やり同行させればよかった、とも考えた龍麻だったが、
葵は六時限目の授業が終わるとすぐにどこかに行ってしまった。
職員室の件で避けられているとまでは気づかない龍麻は、
憂鬱な気分で校門へと向かったのだった。
約束の時間と場所に、紗夜はいなかった。
全くらしからぬことに、龍麻は安堵していた。
問題が先送りになっただけだと解っていても、
やはり彼女と二人で会うのは、できれば避けたかったのだ。
肩から荷が降りた気分になり、何か食べにでも行こうかと浮かれかけたところに、
見覚えのない子供が近づいてきた。
「ねぇ、にいちゃん緋勇龍麻?」
「そうだけど」
この時龍麻は、見覚えのない子供がなぜ自分の名前を呼んだのか、気づくべきだった。
龍麻には子供の知り合いも、子供がいそうな知りあいもおらず、
彼の名前を知っているというだけで不審に思うべきだったのだ。
しかし、少女と会わなくて良くなったという事実に、注意力が散漫になっていたため、
子供の要求に何の疑問も抱かなかった。
子供は龍麻が本人であると確認するなり、ただぶっきらぼうに腕を突き出した。
「はいこれ。渡したよ」
「……?」
手紙を押しつけてさっさと走っていってしまった子供を、龍麻はぼんやりと見送った。
やがて我に返ると、手紙を眺めてみた。
丁寧に施された封が、何故か気味の悪さを感じずにはいられない手紙で、
その印象は文面を見ても全く変わらないばかりか、更に増す。
一読しただけで不快感を抱かずにはいられない、瘴気に満ちた手紙だった。
言葉のほとんどが新聞や雑誌などの切り抜きで構成され、
時に反転され、時に読めないほど小さな文字がいくつも並べられた文章は、
どれほどの悪意が込められているのか見当もつかない。
更にその内容までもが、ガラスを釘で引っ掻いたような不快感をそそるものだった。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
君が転校してきてからの噂、聞いています。渋谷の街の鴉、高い鉄骨の上での闘いは、
さぞかし大変だったことと思います。
そして桜ヶ丘病院に、君の同級生の女の子が入院した時には、僕も心が痛みました。
非力な人の力では、どうする事の出来ない事件でも、君は立ち向かっていきましたね。
僕は、君の『力』を羨ましく思います。是非、一度直接会って話をしたいです。
でも多分、君は僕の申し出を断るでしょう。だから、ある人にも協力してもらいました。
その人は、君も良く知っている人です。彼女は今、僕の手の中にあります。
君は、その人の為に僕と会わなければなりません。
その人を護る為に。場所は別紙の地図を見てください。
今は使われていない古い建物です。
必ず一人で来てください。誰かに話しても駄目です。
君には選択の余地はありません。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
吐き気に耐えながら手紙を読み終えた龍麻は、まず大きく深呼吸をしなければならなかった。
新鮮な空気の助けを借りて心をなんとか落ちつけた所で、文面の意味を考える。
無視する訳にはいかなかった。
相手は敵――でなくても、極めて不愉快な存在だ。
『力』のことを知っており、ずっと観察していたことを嫌味ったらしく仄めかしている。
さらに人質を取って、返してほしければ来いといっている。
あらゆる要素が龍麻の志向と合わず、手紙の主を叩きのめす必要がありそうだった。
不愉快な予定が一転、憂さを晴らせそうな事態になって、
手紙を握りしめた龍麻は、指定された場所に向かって歩きだす。
その顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
昨日と同じ品川駅で降りる。
しかし龍麻の内心に渦巻くものは昨日とは全く異なっていた。
強い怒りと不敵な自信。
師から幾度もたしなめられ、抑えるように言われていた陰の感情に、龍麻は身を委ねていた。
彼女が何者なのかはまだ解らない。
だが、己の意に沿わぬことをさせられた怒りは、どこかで解き放たなければならない。
そのための格好の標的が、向こうから現れたのだ。
これを利用しない手はなかった。
通行人が次々と避けるのにも気づかず、龍麻は地図に記されている廃屋へと向かう。
三十分近く歩いて辿り着いた建物の前には、さきほどと同じ手紙が用意されていた。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
この建物の右に五メートル歩いた所に、錆びた鉄のドアがあります。
そのドアを開け、そこから入ってください。
中に入ったら、中から鍵を掛けてください。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
中から鍵を掛けろ──これほど人を馬鹿にした罠の存在もそうはなかったが、
龍麻は指示に従った。
この相手が誰で、どんな罠が用意されていたとしても、
必ず報いをくれてやると決めていたからだ。
鍵を掛けた龍麻は、ノブの横に新たな手紙が貼られているのに気づいた。
その中身は相変わらず新聞や雑誌から文字を切り貼りしたもので、
不快感を炙りたてるものだった。
しかも、内容はさらに悪意に満ちていて、龍麻の呼吸は知らず荒くなる。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
ここまで来た、君の正義感、勇気に僕は敬意を表します。素晴らしいです。
君は、そうやって、今まで君の友達と一緒に困難を克服し、切り抜けてきましたよね。
しかし、それは、あくまで人の助けを借りて馴れ合いの中で過ごしてきたにすぎません。
人は、常に孤独です。そして、人は、常にひとりでは、無力な存在なのです。
君が、果たして、君個人という存在のみでその存在理由を証明できうるのか。
僕は、それを見てみたいのです。
君の『力』を、僕に見せてください。
君のその見せ掛けの勇気を見せてください。
では、健闘を祈っています──
君の友、Dr.ファウストより」
もう文章をまともに読もうともせず、一通り目を走らせただけで龍麻は手紙を破り捨てた。
身体を駆け巡る氣は既に迸るほどで、放たれるのを待つばかりになっていた。
その氣に呼応するように、奥の扉が開く。
苛立つほどゆっくりと軋んだ扉の向こうから現れた物を見た龍麻は、
怒気を一瞬忘れてしまっていた。
それほどに異形の物だった。
土気色の肌に、くぼんだ瞳。鼻の肉はこそげ落ち、
頬の肉もところどころ骨まで剥き出しになるほど失われていた。
人ではあるが、明らかに生者ではないそれは、よろよろと龍麻に近づいてくる。
生きている死者──そう呼ぶしかない、想像を絶する化物だった。
緩慢な動作で掴みかかってきた化物に向かって、龍麻は氣の塊を放つ。
よけようともせずにまともに氣を受けた化物は、小気味の良い位派手に吹っ飛んでいった。
壁に激突し、なおこちらに向かおうとしているが、激突したショックで腕がもげたらしく、
バランスを欠いて立ちあがれない。
化物は見た目のグロテスクさ程には強くはないようだったが、
それを補うように二体目の化物が現れた。
いくら弱いと言っても、腐臭漂う皮膚に直接触れるのは絶対に避けたいところであったから、
少し離れた所から氣を撃ち込む。
直接体内に浸透させるのに較べて、威力は格段に落ちてしまうが、
それでもさほど苦労せずに倒せた。
今度は頭が取れてしまった化物は、自分の脳が無くなってしまったことも知らず、
駄々をこねるように手足を動かしている。
その時既に、龍麻は現れた三体目の化物と対峙していた。
敵の数が多く、一人で戦わなければならなかった龍麻は、気づく余裕がなかった。
倒した二体の生ける死体から、腐臭とは別のかすかな異臭が漂い始めている。
氣を練るために大きく呼吸をしなければならない龍麻は、
気がつかないうちにそれを吸っていた。
死蝋によって仕掛けられたそのガスは、呼吸器系に影響を与え、
龍麻の爆発的な戦闘力を徐々に奪っていく。
直接攻撃していれば、能力の低下にもう少し早く気づけたかもしれないが、
直接触る気のおきない死体を用い、ガスの臭いを腐臭で隠すという
死蝋の狡猾な罠に、龍麻はまんまとかかってしまった。
全部で五体現れた生ける死体も、今は全て本当の死体に戻っている。
龍麻も息一つ切らさず、と言うわけにはいかない。
直接怪物に触れないよう、距離をおいて威力が低下した氣を打ち込み続けたため、
消耗の度合いが激しく、しばらく壁にもたれて体力の回復を待たねばならなかった。
なるべく化物の方は見ないようにして心肺機能を全開にしていると、白々しい拍手の音が響いた。
「お見事──」
新たな敵の登場に、龍麻は身を起こす。
消耗はしていても、弱みを見せるのは得策ではなかった。
「やァ、はじめまして。僕の手紙を読んでくれてありがとう。お気に召してくれたかい」
現れたのは、白衣を着た男だった。
歳は自分よりも上であることは間違いないというだけで、今一つ判然としない。
顔立ちも整ってはいるが、どうもそれだけでない印象を与えるのは、
色褪せた唇のせいか、それとも輝きに乏しい瞳のせいだろうか。
どうにも陰気な印象しか受け取る事のできない目の前の男を、
どうしても好きになれそうにはなかった。
もちろんそれ以前に、今の化物と同じ扉から出てきたこの男が味方であるはずがなく、
あんな手紙を気に入ったかなどと聞かれて一層腹を立てた龍麻は、
睨みつけるだけで返事すらしなかった。
「ククク……失礼したね、緋勇龍麻君」
歯の奥を擦り合わせるような発音は、聞くだけで不快感をそそられるもので、
相当の努力を払って辛抱しなければならなかった。
それでもフルネームで呼ばれると自分の名を穢されたような気がして、
それだけでも止めさせようかと口を開きかける。
すると男はそれを制するように両手を上げ、話し始めた。
「いや失敬、手荒な真似をして悪かった。
でもどうしても君の『力』を、この目で見てみたくてね。
さっき君が闘った生物も、僕の研究の一環でね。
病院から手に入れた死体にちょっと手を加えたものなんだ。
僕は死人と呼んでいるがね、 遺伝子工学と西インドに伝わる秘法の賜さ。
……君は、ブゥードゥーという言葉を知っているかい?」
無言を保つ龍麻に、男は講義口調を作って説明を始める。
別にそんな言葉など知りたくもなかったが、氣を練りあげるには今しばらくの時間が必要だった。
「ブゥードゥーと言うのはね、西インド諸島のハイチ島の黒人達に信仰されている宗教の名でね。
ロアと呼ばれる精霊を信仰し、
オウンガンと呼ばれる祭司やノボと呼ばれる魔術師達は様々な魔術を使うと言われている。
霊を呼び出す、空を飛びまわる、そして──死者を甦らせる。
ゾンビっていうのは元々ブゥードゥーの魔術によって死者の国から呼び戻された者の事さ」
滔々と話し続けた男は、うんざりした表情をしている龍麻に気づくと、
大げさに手を打ち鳴らした。
「ああそういえば、挨拶がまだだったね。僕の名は死蝋 影司。
品川にある高校の教師をしている。君の活躍を知り、そして君の助けを──
君の『力』を必要としている者さ。よろしく」
よろしく、などと言われて頷ける訳もない。
例え目の前に金塊を積まれたとしても、金輪際関わりたくない人間というのはいるもので、
目の前の死蝋と名乗る男はまさしくその類だった。
「そんな顔をするなよ。僕と君は仲間なんだからさ」
龍麻は静かに息を吐いたが、もちろんこれは同意したのではない。
「僕はね、君に協力したいと思っているんだよ。君の持つ超人的な『力』を、
もっと有効かつ合理的に使っていく方法を考えてあげようと思っているんだ。
ほら、君はまだ高校生だろ? 受験や将来の事が忙しくて、そんな事考えてる暇も無いだろう?
だから、僕の頭脳と人脈を活用して、君の未来の手助けをしてあげようと思っているのさ。
どうだい、いい話だろう?」
もはや龍麻の関心は、いつこの男の話を遮るか、という事にしかなかった。
呼吸は回復しておらず、氣も練れていないが、この男程度なら氣などなくても倒せる。
だが女の無事を確かめるまでは、うかつに動けなかった。
それにしても、こちらの態度を全く意に介さず、
しかも押しつけがましい話を続けられ、そろそろ忍耐も限界に近づいていた。
「人は何処から来て何処へ行くのか、君は考えた事があるかい?
もしかしたら僕達は、もっと別の進化の道を歩む事が出来たんじゃないか、
そう考えた事はないかい?」
君が協力してくれれば、僕はその謎を解き明かすことが出来る。
君のその──強靭な肉体と揺るぎ無い精神力、そして超人的な『力』があれば、
そうすれば、人は、超人──いや、魔人とも言うべき存在に進化出来るのさ。
解るかい? 緋勇龍麻君。その力があれば、犯罪や戦争をなくす事が出来る。
君達が苦労して護っているこの東京も、もうこれ以上、君達が傷つく事もなくなる。
どうだい? 僕と手を組まないか? そして人類の新たな未来を築こうじゃないか」
狂信の度合いを増した男に、これまでだと感じた龍麻は閉じていた口を開いた。
「お前に協力する気なんてないし、人類の進化なんてもんにも興味がない。
それよりさっさと女を解放しろ。そうしないと、お前から未来を奪ってやるぞ」
低く、鋭い声で言った龍麻に、死蝋は初めて失望したような表情をした。
本気で自分が自発的に協力すると思っていたようで、龍麻は呆れざるをえない。
「無理するなよ。君達だけでこの東京が護れるとでも思っているのかい?
自分の力だけで他の人間まで護れると思っているのは君の自己満足だよ。
その君の自己満足の為に、君の仲間が命を落とす事だってありうる。
そうなったとして、君はその罪を購う事ができるのかい?」
「うるせえよ、いいからさらった女のところへ連れて行け。
別にこっちはお前をぶん殴ってから自分で探したっていいんだぜ」
死蝋の忠告は、龍麻も考えていることだった。
そしてそれだけに、龍麻の怒りは頂点に達しつつあった。
これ以上、踏んづけてしまったガムのようにまとわりつく死蝋の話し方につき合っていては、
歩く事さえままならなくなるし、何よりへばりついたガムは気持ち悪くてたまらない。
強い口調で言った龍麻は、それがただの恫喝ではないと示す為に、拳を力強く握り締めた。
その態度に死蝋は更に失望を強めたようだったが、知ったことではなかった。
「いいだろう……地下に僕の研究室があって、彼女はそこにいる。
ついでだから、僕の研究を見ていくといい。
そうすれば、そんな甘い事は言っていられなくなる」
ようやく説得を諦めたのか、死蝋は前に立って歩き始めた。
わずかでもおかしな素振りを見せたらすぐに氣を乗せた拳を叩きこんでやるつもりだったが、
死蝋は大人しく研究室とやらへ案内した。
もちろん龍麻には研究室などどうでも良く、そこにいるはずの少女の無事こそが重要なのだ。
『力』に無関係な人間は、可能な限り巻きこみたくはなかった。
「さあ、着いた。ここが僕の城さ。見たまえ」
部屋は、薄赤い照明だけしか灯りが無く、何があるのかすぐには判らなかった。
目を凝らした龍麻は、すぐに見なければ良かったと後悔した。
部屋の壁を埋め尽くす、幾つもの大小の試験管に入れられた物は、
先ほどの化物にも劣らない異形の物達だったのだ。
怒りや勇気などとは別次元のおぞましさが背筋を冷たい手で愛撫する。
「どうだい、素晴らしいだろ? この鼠は、水の中でもう五日も生き続けている。
こっちの二つ首がある犬は、別の犬の首を移植したんだ。
それぞれの脳が感覚を別に持っていながら、分泌器官や内臓を共有している。
ほら、こっちも見てごらんよ。この猿は一度死んでいるんだ。
それを、僕がある細胞を移植して生きかえらせた。何だと思う?
ククク……人の癌細胞さ」
悦に入った顔で語る死蝋の話も、龍麻は聞いていなかった。
こみ上げる嘔吐感を堪えるので必死だったのだ。
こんな奴に弱みを見せたくないという一念だけで耐え続けていたが、
死蝋の声はその努力を無に帰そうと鼓膜をなぶる。
「こいつらは現存するどの進化形態にも当てはまらない。
どの科学の力も為し得なかった領域に僕は入りこんでいるのさ。
ねぇ緋勇龍麻君。 この技術を人間に応用したらどうなると思う?
想像してごらん。水の中でも呼吸が出来る人間。二つの脳を持つ人間。
死は、もう恐れるに足りない。新たなる進化の可能性を人間は知る事になる。
素晴らしいと思わないかい?」
悔しいが返事をする余裕はなかった。
本心を言えば、一秒でも早くこの冒涜の窮みの部屋から逃げ出したかった。
こんな呼吸がまともにできないような場所では、体力の回復もおぼつかない。
「いずれ君にも理解してもらえるさ。君自身の身をもってね」
すっかり気勢を削がれた龍麻と対照的に、
死蝋は自らの城と呼ぶこのいかがわしい空間から活力を得ているかのようだった。
瞳の狂った輝きは増し、口から泡を飛ばさんばかりに口舌を奮う。
「そう、君のおかげでようやく僕の研究も完成する。感謝してるよ……紗夜」
龍麻の前に、一人の少女が現れた。
その少女を見た時、龍麻の心を占めたのは、驚きではなく納得だった。
「なるほどね」
つまりは彼女もこの不愉快な男の共犯者だったというわけだ。
それなら、昨日のデートも得心がいく。
「『力』を使って無理やり俺を誘いだしたってわけか。回りくどいことしやがって」
虫も殺せなさそうな外見の少女だが、中身はそうでもなかったということだ。
嫌悪を露わにする龍麻に、申し訳なさそうな顔をしていた少女が、顔を上げる。
「何のことですか……? わたしは、兄さんに頼まれて」
「くくくッ、その通りさ。紗夜は『力』なんて持っていない。
僕たちはまっとうな人間だからね、君のような化物と一緒にされたら困るんだよ。なあ、紗夜」
紗夜が兄と呼んだ死蝋は、彼女を抱き寄せた。
嫌がるそぶりは見せたものの、兄の腕から紗夜は逃れようとしない。
それは死蝋の手が明らかに兄妹を超えた動きで彼女の身体をまさぐりはじめても変わらなかった。
愛しむというよりは欲望を満たすためだけに見える手の動きから、龍麻は目が離せない。
他人の情事などに興味はなく、そもそもそんな状況ではないはずなのに。
やがて龍麻は、視線が下がっていることに気づいた。
立っていることさえ辛くなり、片膝をついている。
ここに至ってようやく、龍麻は目が離せないのではなく、
眼球すら動かす力を失っているのだと悟った。
遂に床に倒れた龍麻に、死蝋の勝ち誇った笑い声が刺さる。
「ククク、ようやく効いてきたようだね。効かないんじゃないかと心配したが、
どうやら化物でもちゃんと薬は効くらしい。ゆっくり眠りたまえ……」
不愉快なことを言う死蝋の口を殴りつけてやろうと龍麻は拳を固めようとしたが、
もはや指にさえ力は入らず、意識は深い闇に呑まれていった。
六時限目の授業が終わるとすぐに、京一と醍醐、それに小蒔は葵の席に集まった。
ただしそこには葵を入れても四人しかいない。
葵の隣の席の、この時間なら寝ているか欠伸をしているかしている、
今や彼らにとって重要な友人は、先週からずっと休んでいるのだ。
「緋勇クン、今日も来なかったね……って凄いや、緋勇クン教科書ちゃんと持って帰ってるんだ」
空いている龍麻の席に腰を下ろした小蒔が、机の中を覗きこみながら言う。
小蒔の自白に応じたのは、同じく教科書を持って帰ったことなどない京一だった。
「あいつが三日……土日入れたら五日も休むなんてありえねェ。なぁ、醍醐」
「そうだな……何事も無ければいいが」
「何事も……って、まさかお前、凶津が言ってた事気にしてんのか?」
凶津の名が出たことで、小蒔がわずかに身を硬くする。
無理もないことで、彼女は醍醐の旧友だった凶津と言う男の『力』によって全身を石にされ、
危うく死ぬところだったのだ。
結果的には助かったのだが、まだ記憶として語るには生々しすぎて、
身体が反応してしまうのだった。
それを見た京一は、口に出しては何も言わず話を続けた。
「いくらなんでもそりゃねェだろ。鬼だ鬼道衆だ──って、時代錯誤も甚だしいぜ。
今は世紀末、江戸時代じゃねェんだぜ」
「でも、ボク達みたいに『力』を持っている人がいるんだから、
凶津のいうコトもウソとは決めつけられないよ」
小蒔の言葉に沈黙させられた京一は、面倒くさげに頭を掻いた。
「んじゃ、帰りに緋勇の家に寄ってみるか。美里、緋勇の家知ってるか?」
「えッ!? え、ええ」
急に話題を振られて葵は思わず答えていた。
答えてから、自分のうかつさを呪いたくなったが、
京一は単にクラス委員長なら連絡先を把握していると思っただけのようだ。
まさか葵が龍麻の家に上がったことがあるだけでなく、とても皆には言えない、
いかがわしい行為までしたのだとは知る由もないだろう。
「よっしゃッ、案内頼むぜ、さっそく行ってみようぜ」
この流れで断るわけにはいかない。
龍麻の家にはなるべく近寄りたくなかったが、葵は仕方なく頷いた。
「ボクも。エヘヘッ、緋勇クン家って初めて行くからちょっと楽しみ」
「バカ、遊びに行くんじゃねェんだぞ」
「わかってるよッ」
とは言っても京一も龍麻の休んだ理由を、せいぜいが盲腸程度にしか思っておらず、
小蒔に偉そうに注意しながら、頭の中では龍麻に姉妹がいるかどうか、
などと考えていたのだった。
そんな京一達の気分に水を差したのは、彼らの担任だった。
校門のところで、向こうから歩いてくるマリアに小蒔が気づく。
「あ、マリアせんせー」
「皆、今帰り?」
「ウン、今から緋勇クンの家に行くんです」
「緋勇クンの家に?」
「せんせー……緋勇クンから何か聞いてないですか?」
「えぇ……私からもお願いするわ、緋勇クンの様子を見てきてちょうだい」
マリアの表情には驚くほど深刻な蔭りがあり、
どこか軽い気分でいた京一達も思わず頷いてしまっていた。
それでも元来が陽性の気質でできている京一は、
手にした木刀の包みで軽く肩を叩くと、
ここで悩んでも意味がないとばかりに明るい声を出した。
「まぁ、まずは行ってみようぜ」
しかし、何歩も歩かないうちに、再び向こうから近づいて来る人影があった。
明らかに自分達を目指して向かってくる人影に、一同は足を止めた。
「……ん? 誰だ? ずいぶんカワイイけどよ、ウチの生徒じゃねェな」
「あの……皆さん、緋勇さんのお知り合いですか」
タイムリー、と言うには度が過ぎている少女の言葉に、一同は色めきたった。
「ウン、ボク達同じクラスなんだ。それよりキミ、緋勇クンのコト知ってるの?」
小蒔の質問に、少女は強く頷いた。
「はい……お願いです、緋勇さんを──助けてください」
「──!?」
「詳しい場所はここに書いておきました。それじゃ」
「あ、ちょっと!」
呼びとめる間もなく、走り去ってしまった少女を、一同は怪訝な顔で見送るしかない。
「どういうこと……?」
「解らん……が、俺達を騙そうとしてる表情じゃなかったな。とにかく行ってみよう」
あくまでも龍麻の家に行く、という選択肢もあったが、
龍麻を助けて、と言う少女の言葉が醍醐には引っかかったのだ。
何か事件に巻き込まれている──
それに少女がどう関わっているかは判らないが、行けばはっきりすることだ。
京一達は頷き、進路を新宿駅に向けて歩きだした。
話し声が遠くで聞こえる。
目を開けようとしても、奇妙に身体がだるく、瞼さえもが重かった。
その気だるさに負け、もう一度眠ろうとする龍麻の耳に、耳障りな声が響く。
「もしもし……あァ、どうも。いつも研究に協力してくれて感謝してますよ。
あれは、実にいい素材だ……ええ、心配しなくても、あなたの所に資料はお送りしますよ。
いえいえ、共に人類の未来を憂いている者同士、これからも協力していきましょう。
それではまた、学院長」
会話の中身はほとんど聞こえなかったものの、身体を包む倦怠感に抗い、目をこじ開ける。
ようやく半分ほど開いた視界は、薄赤色に染まっていた。
血を思わせる色が、記憶を甦らせる。
死蝋に何かを打たれ気を失ったことを思い出した龍麻は、
次いで、自分の身体が全く動かせないことを知った。
首さえも固定されているらしく、見渡すことはできない。
身体のあちこちに感じる金属の感触が、恐らく自分を縛りつけているのだろう。
それに注射されたものの影響か、ひどく思考がまとまらず、氣を練ることもできなかった。
こうして状況を把握している間にも、眠気は絶え間なく襲ってくる。
しかし、再び眠ってしまったら取り返しがつかなくなると思い、
懸命に耐え続ける龍麻の、もやがかかったような視界に人影が映った。
人影、というよりも白い塊に近いそれは、龍麻をこうして拘束した死蝋のものだった。
「紗夜……どこへ行っていた?」
死蝋の声にあの、精神を軋ませる不快な響きはない。
あるのはそれ以上の、もはや対象以外に聞かせるつもりのない、狂気に浸かった愛情だった。
「ちょっと外へ──あッ」
「お前は、僕のものだ。誰にも渡さない。
お前のこの髪も、この指も、この唇も──全て僕のものだ、紗夜」
背後から紗夜を抱きすくめた死蝋の手が彼女の身体に貼りつき、胸を、腹を、太腿をまさぐる。
更に信じられないのは、紗夜がそれを拒絶していないことだった。
死蝋の腕を掴んでいるものの、その動きを止めることはなく、
親愛の情を示しているようにさえ見える。
そんな龍麻に見せつけるように、死蝋の手は彼女の素肌を犯していった。
心臓のある位置に添えられた手は、指先が醜く蠢いている。
始めは指先だけだった動きが、掌へと拡大し、捏ねる動きへと変わっていく。
そして彼女の身体の中心にあるもう片方の手はスカートの内側へと消え、
愛しあう男女のみにしか許されない――そして、愛しあう男女であっても、
兄妹では決して許されないことをしていた。
紗夜が誰と情愛を深めようと知ったことではないし、
紗夜とどんな関係であれ死蝋を許すつもりはない。
死蝋に対する怒りで意識をはっきりさせようと龍麻は試みるが、
未だ思考は重りがぶら下がったように明瞭へと浮かび上げることができず、
死蝋の声だけがろ過されたように頭の中へと響き渡った。
「人間は脆い。すぐに死んでしまう。でも全て悪いのは、脆弱な人間の身体さ。
強い魂を入れる強い『器』があれば、人間は今以上に強くなれる。
そうすれば愛する者を失う事もなく、死を恐れる事も無い」
死蝋の腕の動きが大きなものになり、その内側で紗夜の身体がくねる。
たまらず龍麻は声を上げようとしたが、喉は干あがり、
また喉を締めつける拘束具のせいもあって、他人に聞こえる声を出すことはできなかった。
「全くお前はいい素材を探してきてくれたよ。あの新宿の病院に張り込ませていた甲斐があった。
あそこは特殊な病院らしいからね。
……どうした、そんな顔をして。心配するな、研究は成功する」
耳元で囁く死蝋に、何事か耐えるように目を閉じていた紗夜は、
やがて意を決して束縛から逃れた。
乱れた服を直し、なお近寄ろうとする死蝋を制する。
「もう……もう止めて、こんな研究をするのは」
「ん……? どうした紗夜。愚かな人間達に復讐したいとは思わないのか?
僕達にこんな仕打ちをした奴らを見返したいとは思わないのか?
お前だって忘れたわけじゃないだろう。……お前は少し疲れているんだ」
紗夜の険しい表情に近づく事を諦めた死蝋は、気を取り直して白衣の襟を正した。
その拍子に、一番新しい実験素材がこちらを見ているのに気づく。
「どうやらお前の王子様も目覚めたらしい」
紗夜に拒絶された怒りを嘲けりに転化し、素材に近づく。
「おはよう、お目覚めかい? こんなに早く麻酔から目覚めるとは思っていなかったよ。
その身体は薬物に対する抵抗力も高いみたいだねぇ。
まぁ、いいさ。その拘束具はそう簡単には外せない。君の、その『力』を持ってしてもね」
瞳がまだ虚ろであることを確かめた死蝋は絶対の優位を確信し、
悪意に満ちた笑みを龍麻に向ける。
意識が朦朧としていてさえ浸透するその悪意を、龍麻はなす術なく聞くしかなかった。
「緋勇龍麻君、ひとつ教えてあげよう。紗夜はねぇ、僕の命令で君を観察してたのさ。
君の行動、性格、そしてその『力』──君が、僕の研究の素材として相応しいかどうか」
死蝋の顔の下半分が、ノイズの乗ったテレビのように歪む。
「おやおや、凛々しい顔が泣きそうになっているよ。
余程ショックだったのかい?
信じられないなら、本人の口から聞いてみるといい。
紗夜、緋勇龍麻君に何か言ってあげたらどうだい?」
薬物で鈍らされている為に実際の龍麻の反応は微々たるものだったが、
死蝋は嬉しくてたまらないとばかりに喉の奥で笑った。
その傍らで、紗夜が泣きそうな顔をしている。
だが、龍麻にはそれら二つともがどうでもよかった。
混濁する意識の中、龍麻は深く息を吸い、吐く。
それだけが、今やらなければならないことだと理解していた。
部屋に響き渡る呼吸音を耳にした死蝋が、白衣のポケットから手を出す。
「少しお喋りが過ぎたようだね。そろそろ始めようか。紗夜、手術台のスイッチを入れてくれ」
紗夜が指示に従って龍麻を手術台に載せても、龍麻は静かに、深い呼吸を繰り返していた。
紗夜が地下室に戻ってからほぼ三十分が過ぎた頃、
メモに従って品川までやって来た京一達は廃屋を見つけ出していた。
「メモの住所はこの辺りだな」
「ねぇ……罠じゃないかな?」
疑わしげに小蒔が言う。
この所妙にあちこちの廃屋へと行かされ、しかもそのどれもでろくでもない目に合っているので、
どうしてもそう考えがちになってしまうのだ。
「お前な、あんなカワイイ娘が罠なんかかけるワケねェだろうが。
オトコのお前にはわからねェだろうがよ」
「なんだとォ」
「しかし……案内されたのがこんな廃屋ではな。用心はしておくに越した事はないだろう」
「ッたく醍醐までかよ、疑り深い奴らだぜ」
仲間の心配を笑い飛ばすように、京一は大胆に廃屋内へと入って行く。
顔を見合わせた小蒔達も、ここまで来たら龍麻がいないかどうか確認しない訳にもいかず、
ぶつぶつ言いながら後をついていった。
「誰もいねぇな。醍醐、本当に地図はここで合ってんだろうな」
「うむ……しかし、他にそれっぽい建物はなかったな」
廃屋の中に入っても、人の気配は全く感じられず、当然龍麻も見当たらない。
気の短い京一などは早くも退屈そうにあくびをして、小蒔に睨まれていた。
二人のやや後ろを歩いていた葵が、にわかに立ち止まる。
「ねぇ、何か聞こえないかしら」
「ん? ……聞こえねぇな、空耳じゃねぇか?」
「静かにしろ、京一ッ! 美里の言う通りだ、下の方から何か……低い振動音が聞こえる」
醍醐に言われ、京一は地面に耳をつける。
確かに、低いうなり声のような振動が、微かだが聞こえてきた。
「こりゃ……機械の音だな。ってことは人がいる……?」
「行ってみようよ」
打ち捨てられた廃屋の地下で何をやっているかは知らないが、
まともなことでないのは間違いない。
勢い良く立ちあがった京一は、手分けして地下への階段を探すことにした。
「ん……?」
医療用のメスや手術器具を並べていた死蝋は、
階上から足音のようなものが聞こえた気がして顔を上げた。
耳をすませてみても、それきり音は聞こえて来ない。
「何か音が聞こえたような気がしたが……
まぁ、侵入者だとしても捕まえて実験材料にするだけの事だ。
紗夜、死人達の部屋の扉を開けてくれ」
それよりも今は、人類の大いなる進化に向けての礎となる偉大な実験を行うことの方が重要だった。
この神聖な時間を妨げるのは、何人たりとも許されることではない。
鈍色の不気味な輝きを放つメスを手に取り、うっとりと眺めていた死蝋は、
指示に従おうとしない紗夜に気づき、不審げに眉をひそめた。
「どうした、紗夜」
「もう……止めて」
「何を言い出すのかと思えば、またそんな事か」
辟易して首を振った死蝋は、自ら死人達を解き放とうと奥の部屋に向かう。
死蝋が充分に離れたのを見計らって、紗夜は龍麻の許へと走り寄った。
「緋勇さん、今、拘束具を外します」
「紗夜……何でそんな事をするんだい? 僕には、お前の行動が理解できないよ」
離反とも言える紗夜の行動を、死蝋は呆然と見つめていた。
そんな死蝋になど関心を払わず、紗夜は龍麻を縛りつけている鉄の拘束具をひとつずつ外していく。
細い指に鉄が食いこみ、ほどなく血が滲んだが、構わずに続けた。
「緋勇さん……わたし、いつもあなたを見ていました。
あなたの笑顔──
あなたの強さ──
あなたの優しさ──
初めは確かにあなたに近づく為だけでした。
でも……でも、いつからか、そんなあなたに魅かれていったんです。
人は、復讐の心だけじゃ生きられない。人は、一生をその為だけに捧げる事はできない。
そう思い始めたんです。
わたし……間違っているでしょうか?」
龍麻は答えなかった。
死蝋に注射された薬の影響で、未だ己を取り戻していなかったのだ。
腕の拘束具が外され、だらりと腕が垂れ下がる。
自分の四肢でさえも、重りにしか感じられなかった。
それでも懸命に膝をつき、床に伏してしまうことだけは抗う。
「緋勇さん……」
「俺は、お前が思ってるような善人じゃない。復讐だって、場合によっちゃ有りだと思う」
突き放すように言った龍麻は、呼吸を整えて続けた。
「だけど、間違ってると気づいたのなら止めればいい。
お前の未来はお前が選ぶもんだ。たとえ兄であっても、他人に決めさせるのは駄目だ」
それは龍麻の独創というわけでもなく、むしろ陳腐な警句に過ぎなかった。
年齢に比すれば多くの経験を積んでいるとはいえ、
まだ二十歳にも達していない龍麻が何を言ったとしても、嗤う大人の方が多いに違いない。
だが、龍麻の言葉は紗夜の、心の奥深くを貫いた。
彼女がそうありたいと願う、人それぞれが持つ魂の本質を、他の誰よりも強く揺さぶった。
この陰気な地下室のせいか、青白く見える紗夜の顔に朱がさす。
「緋勇さん……わたし……わたし、緋勇さんの事……」
龍麻の掌に抑えられていた感情を解き放たれ、紗夜は幾筋もの涙を零して声を詰まらせた。
目を擦り、もう一度想いを告げようとした時、鞭で打ったような鋭い声がそれを遮る。
「そうか……そういう事か。道理で最近様子がおかしいと思っていたんだ。
許さないぞ……紗夜。お前は僕のものだ──」
「止めて……もう止めてッ、にいさんッ!! わたしは兄さんのものじゃないわッ。
わたしは生きている。わたしは考えられる。兄さんが作った怪物達と一緒にしないでッ」
紗夜は立ちあがり、死蝋と対峙する。
兄によってせき止められていたもの全てを解き放つかのように、
華奢な身体には気迫がみなぎっていた。
「もう、こんな事は終わりにしましょう。
病院から死体を盗んだり、人を攫ったり──こんな事をして、何になるっていうの?
兄さんはあいつらに騙されているのよッ。
利用されているだけなのよッ」
「紗夜……お前も僕を裏切るのか? 薄汚い奴らと同じように。
強欲で身勝手な人間達と同じように」
妹が初めて見せる激昂に、兄は大きくよろめいていた。
両親を喪ってからこれまで、あらゆる愛情を注いできた妹に刃向かわれ、
死蝋は恐慌寸前の自失に陥っていた。
壁にもたれた拍子に試験管のひとつが割れ、
中にいた小動物が初めての自由に戸惑い、哀れな鳴き声を上げる。
それを無慈悲に踏み潰した死蝋は、凄まじい表情で龍麻を睨みつけた。
「緋勇龍麻……お前さえいなければ、紗夜は僕のものだった。お前さえ……!!」
もはやこの素材が非常に貴重であり、
研究資金を提供してくれる人物から生かしたまま引き渡すよう求められている事も忘れ、
己と紗夜の愛を邪魔する目の前の男を排除することしか死蝋の頭にはなかった。
「そうだ、簡単な事じゃないか。緋勇龍麻──お前が死ねばいいんだ。
お前が死ねば紗夜は僕の元へ帰ってくる。腐童──」
呼び声に応え、奥の部屋から現れたのは、部屋の天井に届かんばかりの巨人だった。
この男が人間でないことは、その緑色の肌と瞳のない目を見れば一目瞭然だった。
全身に走る醜い縫合の跡が、この男がどのように生み出されたのか暗示している。
腐童と呼ばれた化物は、一歩毎に床を響かせながら龍麻の所へと近づいてきた。
紗夜は慌てて残りの拘束具を解き始めたが、まだようやく両腕が解けたばかりで、
龍麻を自由にするにはもう少し時間が必要だった。
その背後から、腐童が歩み寄る。
「腐童……こいつを殺せ。この男を──僕から紗夜を奪ったこの男を──ッ」
「止めて、兄さん……きゃあッ!」
龍麻の眼前で、鈍い音と共に鮮血が飛び散る。
ひどくゆっくりと宙を舞った赤い液体は、
所有者の意思を体現したかのように龍麻の頬についた。
「比良坂ッ!」
「緋勇さん……今、拘束具を外しますね」
顔の半分を赤く染めながら、なお紗夜は拘束具を外し続ける。
自分の命令で、この世でただ一人愛する妹に怪我を負わせてしまった死蝋は、
目が眩むような衝撃に襲われていた。
「そ……そんな……なんでだ、紗夜……なんでそんな奴を庇うんだ……
そいつが死ねば、僕達兄妹を邪魔する奴はいなくなるのに」
自業自得ということを認められない意識が、
凄まじいまでの憎悪となって龍麻に責任を転化する。
「紗夜……お前は騙されているんだ。
今その呪縛を解いてあげる。そうしたら、また兄妹で暮らせるよ」
再び腐童に、今度こそ間違いなく龍麻を狙うよう命令を下そうとする死蝋の前に、
新たな人影が複数現れた。
紗夜の悲鳴を聞きつけた京一達が、ついに部屋を探し当てたのだ。
「声がしたのはこの部屋だな」
「お、おい、なんだこりゃ」
「緋勇クンッ!」
壁中に並べられた異形の生物、中央にいる緑色の肌をした巨人、
そしてそこにいる身動きを封じられた龍麻。
異常な状況にとっさには判断がつかず、その場に固まってしまう京一達に向かって、
弱々しいながらも鋭い声が飛んだ。
「早く緋勇さんを連れて逃げてください。早……く……」
京一達の位置からでは巨人の影に隠れて見えなかった紗夜が、力を振り絞って叫んだのだ。
声で初めて紗夜がそこにいる事を知った京一は、血に染まっている顔を見て驚いた。
「ひでェケガしてんじゃねェかッ! 美里、治してやってくれッ!」
「え……ええ、でも」
紗夜との間には巨人がいて、容易には近づけそうになかった。
威嚇するようにうなり声を上げる腐童に、闖入者に同じく呆然としていた死蝋が我に返る。
「お前達……何故ここに……紗夜、まさか」
悪鬼の形相で紗夜を、次いで京一達を睨みつけた死蝋は、死人達の部屋に続く扉を開けた。
「紗夜を、お前達の好きにはさせない──僕の『力』を見るがいい、
行け、死人達ッ! こいつらを殺せッ!」
龍麻が闘ったのと同じ、人の死体を利用して偽りの生命を吹き込まれた死人が、
京一達に襲いかかる。
袋から木刀を抜き放ち、京一は構えた。
「醍醐と小蒔は雑魚を頼む。デカいのは俺に任せとけッ。緋勇……少しだけ待ってろ」
素早い動きで左右に散った醍醐と小蒔を、京一は全く見ていない。
彼らが雑魚を片づけてくれることは、すでに京一にとって確定の出来事だった。
龍麻が動けず、紗夜も怪我をしている状況では、一刻も早く敵を倒す必要がある。
それでも京一は決して焦って攻撃を仕掛けはせず、半足分ずつ間合いを縮めた。
慎重に構える京一に対して、無造作に近づいてきた腐童は、そのリーチを生かし、
京一の間合いの外から殴りかかってくる。
つむじ風を巻き起こすほどの豪腕も、氣によって全身を活性化させ、
極限まで集中している京一の眼には止まって見えた。
身を沈め、易々と丸太のような腕を躱した京一は、
そのまま懐に飛びこむと、氣を注ぎ込んだ木刀を一気に斬り上げた。
刀身全体に氣のコーティングを施された木刀は、飴のように腕を斬り落とす。
そこからさらに動作を止めず、更に真横に木刀を振るった。
一瞬の停滞も無く、水面を断つが如き烈しさで腐童を斬り、再び正眼に構える。
「う……ぉ……ぅ……」
痛みを感じることの無い腐童は、京一の攻撃に顔色ひとつ変えず、
なお命令に忠実に拳を振るおうとした。
しかし、残った左腕から、先ほどとさほど変わらぬ疾さで繰り出された拳のエネルギーを、
真っ二つにされた胴体は受け止めることが出来なかった。
京一が軽くバックステップして躱すと、
半円を描いた腕の軌道はそのまま止まることなく一周する。
上半身と下半身が別々の方向を向いた所で腰を蹴り飛ばすと、
下半身が倒れ、だるま落としのように上半身が落ちた。
呆れたことに、それでも腐童は殴りかかろうとしてきたので、京一はもう一度木刀を振るった。
今度は身体を縦に割られ、ようやく腐童はその活動を永遠に停止した。
「ッたく、余計な手間かけさせんなよ」
吐き捨てた京一は、醍醐と小蒔のいずれに加勢するか、状況を見極めた。
醍醐の方は見るだけ無駄というものだった。
体格こそ醍醐と同じであるものの、彼が相手取っている化物は、腐童よりも出来が悪いらしく、
動きが緩慢で、およそ醍醐の敵とはなりえない。
余計な手助けなどしたら後で文句を言われるかもしれなかった。
一目見て醍醐を助ける必要はないと判断した京一は、残る小蒔の方を見る。
間違って女に生まれてきてしまったとはいえ、その実体は男である小蒔を助ける必要はない──
そう思わないでもない京一だったが、事実小蒔は助けなど必要としていないようだった。
明らかに人とは異なる化物にも怯むことなく、素早く矢を番えて放つ。
見事に身体の中央に刺さった鏃の部分から炎がくすぶり始めた。
たちまち大火となり、化物を焼き尽くす業火となる。
「お、おい、なんだそりゃ」
思わず訊ねる京一に、結局寄せつけることさえなく二体の化物を倒した小蒔は事もなげに答えた。
「ん? 何が?」
「何がって、その炎だよ」
「ああ、これ? みんなと同じ、『力』だよ」
「『力』って……お前今まで使ったことなかったじゃねぇか」
「だって、これ使うと矢が使い物にならなくなっちゃうんだもん。矢だって高いんだよ」
「……」
論点のずれた答えに、京一は何も言わずに頭を振った。
京一が頭を振り終えた頃、醍醐も死人を片付け終えている。
最後の一体を力任せに蹴り飛ばし、壁に叩きつける。
膂力に氣を上乗せした力は、衝突した拍子に死人の脆い首を吹き飛ばした。
壁にもたれるように崩れ落ち、そのまま動かなくなった死人の周りにいる、
既に倒された三体の死人が新たに増えた仲間を歓迎したことで、激しい、
しかし一滴の血も流れない戦闘は終わったのだった。
頼みの死人達を殲滅された死蝋は、為す術なくうろたえているようだった。
「うぅ……」
「事情は良く解らんが、こいつが緋勇を攫った犯人か」
「みてぇだな。緋勇を攫うなんざ大したヤツだ──が、その報いは受けてもらわねぇとな」
しかし、京一が一歩踏み出すと、その圧力に耐えかねたように一目散に逃げ出した。
その優男な外見からは想像もつかないほどの瞬発力で、奥の部屋へ入って行く。
「逃げるなこの野郎ッ!」
「待て京一、今はこっちの方が先だ」
「そうだ、あのコは──」
部屋の中央に紗夜はいた。
手伝おうとする葵に耳を貸さず、緩慢な動きで拘束具を外している。
京一達が集まってきても、一切の反応を示さない。
今の彼女にあるのは、ただ龍麻を救けるという一心だけだった。
もどかしい時間が過ぎ、ようやく最後の足枷が外れる。
五日ぶりに自由を取り戻した龍麻が最初にしたのは、紗夜を抱きかかえることだった。
事情はどうあれ、彼女は拘束を解いてくれたのだ。
「ありがとう、助かった」
「良かった……緋勇さん……」
顔の半面を赤に染めた紗夜の、残る半面は蒼白に彩られている。
龍麻を束縛から解き放つことで、紗夜は自分の命を繋ぎ止める力まで遣ってしまったようだった。
龍麻が抱き上げると、唇がひきつりながら動く。
それが笑みを表していると、龍麻は気づいた。
腕の中の紗夜は、死に瀕している。
急速に喪われていく命の温もりが、否応なしにそう告げていた。
「美里……頼む。治してやってくれ」
断崖の底から助けを呼ぶような、昏い声に気圧されて、
心を集中させた葵は癒しの『力』を彼女に与えた。
しかし、紗夜の身体に吸いこまれた氣は、何の癒しの力も彼女に与えなかった。
「どうして……」
自分の精神状態が乱れを生み出したのかと、葵は再び手をかざすが、
龍麻や仲間を癒した『力』は、どういう訳か紗夜には全く効果を及ぼさなかった。
「病院に行こう。今なら、まだ間に合う」
「わたしは……もう……」
「喋るな」
抱き上げようとする龍麻を制する紗夜の腕の力強さは、消え行く炎の最後の輝きだった。
「お願い、緋勇さん。聞いて欲しいの」
唇から血を滴らせながら言う彼女を、誰が止めることができただろうか。
沈痛な面持ちで、龍麻は再び跪いた。
「わたしと兄は、十二年前……父の仕事の関係で、家族と一緒にインドに向かっていました。
でも途中……その飛行機が墜落して……わたしと兄は無事でした。
墜落する時、父と母が……身を呈して護ってくれたんです。
二人きりになってしまったわたし達は、別々の親戚に預けられました。
でも、親戚達は冷たく、生活は悲惨なものでした。
だから……兄が高校を卒業するのと同時に、わたし達は家を出ました。
そして二人で暮らし始めたんです」
触れるほど近くに顔を近づけ、
一言一句も聞き逃すまいと耳をそばだてる龍麻に、紗夜が微笑む。
微笑みと共に押し出された呼気には、血の匂いが混じっていた。
「緋勇さん……人は、何の為に生きているんでしょう。
わたし、ずっと考えていたんです。あの事故の時から、ずっと。
でも、緋勇さんに会ってわかったんです。護る事の大切さを。
わたし……緋勇さんに出会えて良かった」
龍麻の手に、何かが触れる。
すぐには解らなかったそれは、紗夜の手だった。
デートした時の記憶とは程遠い、冷たい手。
何かをしようと力無くさ迷う手の意図に気づいた龍麻は、しっかりと指を絡めてやった。
安心したように頷いた紗夜の、生気が失われつつある瞳に、躍るような輝きが宿る。
「そうだ……今度、また……デートしてくれませんか」
「ああ……そうだな、今度は俺の好きな場所に比良坂を連れていってやるよ」
「えへへ……楽しみ……です……」
微笑んだ紗夜の顔から、急に生色が失われる。
それが自分自身のことであるかのように、龍麻の顔からも血の気は失われていた。
「何だか……眠くなってきちゃった……それに……少し、寒く……」
「比良坂ッ!」
「緋勇さんの腕の中……あったかい……です……
わたし……もっと早く……緋勇さんに……出会えて……いた……ら……」
氣が、消えた。
彼女が生きていたら、痛いと言うに違いないほど強く彼女の腕を掴む龍麻の手が、ひどく震えた。
あまりの事態に声をかけられないでいる京一達の前で、紗夜の手を胸の前で組ませた龍麻は、
掠れた声で独語した。
「俺は、この『力』を知った時から……こんな力、失くなってしまえばいいと思っていた。
だから、自分で『力』が使えるようになって、真神に行けと言われた時、
何が起こっても一人で動くつもりだった。こんな『力』に関わって、
不幸になる人間が生まれちゃいけないと。なのに」
龍麻の肩が小さく震える。
それが収まってから発せられた龍麻の声は、もう一段低くなっていた。
「比良坂が『力』を持っていたのかどうかはわからない。
だけど、『力』を持つ俺に関わって、彼女は死んだ。
こんな力がなかったら、きっと死ななくて済んだだろうに」
紗夜は兄にそそのかされたに過ぎなかった。
そしておそらくは、兄も。
襲ってくる者を倒すのにためらいはない。
だが、彼らが死ななければならないほどの罪を犯していたとは、龍麻には思えなかった。
京一達もそれぞれの表情で、早過ぎる旅立ちを迎えた紗夜を悼む。
彼女と龍麻、それにさっきまでいた白衣の男との関係は解らなかったが、
まだ自分達と同じ歳頃の彼女が死んで良い理由などあるはずがなかった。
その、決して穢されてはならない時間を、ありえざる声が冒涜する。
「ちッ、役に立たねぇ奴らだぜ。せっかくいろいろ手を貸してやったってのによ」
「誰だッ!」
京一の振り向いた先に、それまで部屋にいなかった人物がいた。
赤色の忍者装束に身を包み、般若の面を被っていて、殺気を隠そうともしていない。
そしてその脇には、無造作に襟を掴まれている、いつのまにか姿を消していた死蝋の姿があった。
その四肢に力はなく、嫌な予感を感じた一行は、放り出された死蝋が微動だにしないことから、
予感が間違っていないことを知らされた。
「鬼道五人衆がひとり──我が名は炎角」
「うわ、火が──」
小蒔が指差した通り、名乗った男の背後で、赤い炎が揺らめいている。
錯覚でない事は、焦げ臭い匂いによってすぐにわかった。
たちまち勢いを増していく炎は、地下室全体を包み始める。
男は京一達が身構えても全く動じる様子もなく、得心したように頷いた。
「風角が言っていた小僧ってのはお前達か。くくく、面白え、こいつも縁って奴か」
般若の面の下で笑った炎角の声に、嘲りが混じる。
「いいか小僧共。この東京は、もうすぐ俺達の手に落ちる。
そうなりゃ、ここは阿鼻叫喚の地獄と化すだろうよ」
「なんだと……?」
「今日の縁が真なら、また相まみえる事もあるだろうよ。
それまで、せいぜい長生きするんだな」
炎角の嘲笑が不意に途切れる。
床を蹴った龍麻が肉迫し、手加減なしの一撃を放ったのだ。
当たっていれば、プロレスラーといえど昏倒したに違いない拳を、だが、炎角は避けた。
「危ねェ危ねェ、やるじゃねェか、小僧。俺が殺すまで死ぬんじゃねェぞ――」
どのような術によるものか、炎角は声だけを残して気配を消した。
龍麻はなお周囲を見渡すが、すでにそれどころではなくなっていた。
「くそッ、あの野郎、何ヶ所も火を点けていきやがったなッ」
「逃げるぞッ!!」
急速に周る火の手が、地下室を包む。
紗夜と死蝋の遺体を運びだす余裕もなく、京一が先頭に立ち、
醍醐が殿を受け持って、龍麻達は急いで逃げだした。
地下から出た直後、小さな爆発音がして、階段から炎が噴き上がる。
誰も近づく事のできなくなった地下室で旅立った紗夜の魂を、一同は粛然と見送っていた。
「あの男……鬼道衆と言っていたな。凶津の言っていたことは本当だったのか」
「あぁ……これも、鬼道衆が仕組んだんだろうよ」
その正体は杳として知れなくても、倒さなければならない相手だというのは歴然としていた。
死蝋と紗夜の死に大きく関わり、凶津に邪悪な『力』を与えた集団。
彼らが東京を阿鼻叫喚の地獄に落とすというのなら、絶対に阻止しなければならなかった。
まだ燃えさかる建物を、険しい表情で見ている龍麻に、京一が訊ねる。
「独断専行するのは、俺達を危ない目に遭わせねェようにだったってのか」
「……ああ」
前を向いたまま龍麻が答えた途端、京一にいきなり頭を叩かれた。
驚いて振り向いた龍麻の、顔を直視して京一は言う。
「お前が『力』とやらを俺達に使えるようにしたってんならともかく、違うんだろ?」
「ああ」
同じ返事を繰り返すしかない龍麻に、京一は今度は笑ってみせた。
「なら、お前が心配するコトじゃねェだろ。
今後俺達に気使うようなマネしてみろ、タダじゃおかねェぜ」
京一に続いて、小蒔がもっともらしく腕を組んで言う。
「ボク達がこの『力』を使えるようになったコトに意味があるんなら、
それはきっと緋勇クンと一緒に戦えってコトだと思うんだよね」
「小蒔の言うとおりだぜ。大体お前、こんな面白そうなコト、黙って見過ごせるかってんだ。
なあ醍醐」
「面白いかどうかはわからんが、鬼道衆という奴らと俺は無関係ではなくなったからな。
一緒に往かせてもらうぞ、緋勇」
親友が鬼道衆に唆された醍醐を説得するのは難しいだろうし、
好奇心を全面に出している京一と小蒔を諦めさせるのはもっと難しいだろう。
龍麻は諦めて頭を振った。
「わかったよ。……改めて、よろしく頼む」
「へへッ、任せとけって。ま、今日のところはとりあえずラーメン食いに行くか」
「賛成ッ! 氣って使うと結構お腹減るんだね。ボク、さっきお腹鳴っちゃったよ」
「やれやれ……お前たち、緋勇からラーメンをたかるために一緒に行動するんじゃないだろうな」
「そんならお前は自腹で食えよ」
一刀のもとに切り捨てられ、声をつまらせる醍醐に、小蒔が笑いだす。
つられて笑った龍麻は、ラーメンを奢ることを確約し、京一たちは一層盛りあがるのだった。
火は強さを増し、龍麻たちのところまで熱気を運んでくる。
もはや消せるものではなく、近隣住民が通報もしているだろう。
「逃げようぜ。事情を説明したところで、信じてもらえるとは思えねェ」
京一に頷いた四人は、人が集まってくる前にその場を離れた。
新宿に戻った龍麻たちは、ラーメン屋に向かう。
京一と小蒔がどこの店にするかで口論を始めたので、葵はその隙に帰ることにした。
「えッ、葵帰っちゃうの?」
「ええ、少し疲れてしまったから、先に失礼させてもらうわ」
「わかった、それじゃまた明日ね」
「じゃあなッ」
小蒔に小さく手を振って葵は家路につく。
疲れたというのは嘘ではなかったが、より大きな理由が葵にはあった。
今、龍麻とは一緒にいられない。
鬼道衆という、平気で人を殺せるような集団も恐ろしかったが、
自分の身に生じている変化のほうが、葵には恐ろしかった。
龍麻のことを考えるだけで、落ち着かない気分になる。
それは絶対にあってはならないことで、葵は、幾度も頭を振って雑念を追い払った。
龍麻とはもう一秒たりとも一緒に行動したくないが、
卒業までは一緒に行動するという約束を交わしてしまった。
それに、約束を交わした時に龍麻が言ったように、葵が巻きこみたくない小蒔は、
自分から龍麻と一緒に戦うと宣言した。
龍麻と敵、双方から小蒔を護るために、葵も往かなければならない。
そのためには、勁くならなければ――
顔を上げた葵は、強い決意を眉目にみなぎらせて自分自身に誓うのだった。
「本編の中に葵さんのエロをぶちこむ」というコンセプトが無茶だったと痛感したのがこの頃です。
なんならこの話取っ払っても良かったくらいなのに←比良坂さんあまり好きではない派