闇の中で、指が蠢く。
ためらいながら、その実辿る道筋に迷いはない。
なだらかな平原を進み、ゆるやかな丘を下って渓谷を目指す。
それは葵が自ら探し求めて辿りついた、秘境へと至る道だった。
「……っ」
生じた微かな吐息を、葵は押し殺す。
雪崩を恐れるかのように、美しい唇を歪に噛んで。
それなのにその原因となった指の戯れはやめようとせず、しばらくその場に留めはしても、
また徐々に谷を下っていった。
「……」
ほとんど一直線に下って目指す場所に着いた指は、今度はゆるやかな円に動きを変える。
獲物を探して旋回する鷹のようなゆったりとした動きに、長い吐息が漏れた。
沈黙を破った吐息をきっかけとして、指の動きが変わる。
擦り、こそぎ、そして弾く。
動きは複雑さと激しさを増し、葵は時折肩を震わせながら、
自らの身体に隠されていた禁断の場所を蹂躙した。
「あ、ぁ……」
ついにはっきりと色を持った声が漏れる。
自分以外に聞く者はいないその声に、目を閉じたままの端正な顔がつかの間、
悔いるように歪んだ。
けれども、後悔の原因となっている快楽の探求を、葵は止めない。
再開された自慰は、むしろ、余計な理性を生じさせまいとするかのように
荒々しささえ感じさせるものとなった。
「う……ん……」
少し前までは考えもしなかった行為。
男女が愛しあう、という漠然とした知識しかなかった葵にとって、
独りで悦びに浸る、ただそれだけのための行為があるなどと知りもしなかったし、
自分がそんな行為に耽ってしまうなどと、およそ信じられることではなかった。
だが、ここのところ毎日、葵は夜、布団に入ると眠りに落ちる前に、
身体を触るようになっていた。
きっかけとなった日のことを、葵は覚えている。
学校の廊下で同級生の緋勇龍麻に、突如抱きしめられたとき。
おそらくは校舎の外にいた佐久間猪三に見せつける、ただそれだけのために、
彼の腕の中に取りこまれたとき。
葵はどうしようもない身体の火照りを覚え、あろうことか、
学校の保健室で生まれて初めての自慰に耽ってしまったのだ。
その快感は、これまで十八年かけて築きあげてきたはずの美里葵という人格をたやすく破壊し、
以来葵は、毎夜、性の探求者と化すようになった。
指と掌を使い分け、陰部をまさぐる。
快感を極めたいという欲望と、早々に上り詰めては惜しいという、
これもまた欲望となる二つを明滅させながら、葵は自らを昂ぶらせていく。
火はすでに点っているが、身を灼きつくすような炎にはなっていない。
指先をじりじりと敏感な尖りに近づけ、触れる寸前で止める。
何かに抗うように一度は閉じた唇が再び開いた時、葵の脳裏はある色で染まっていた。
部屋を包む闇よりももっと深い、黒。
理性も常識も羞恥も染めてしまう漆黒に葵の指は操られ、
触れるか触れないかの微弱さで弄っていたクリトリスを、圧した。
「あ……ッ、ぁ……!」
望んでいた以上の快感に、葵は喘ぐ。
瞬間的に全身を満たした痺れに酔いしれ、指を当てたまま、刺激を続ける。
「あぁ……ん……」
膝を擦りあわせた拍子に、パジャマと下着を半分だけ脱いだ、
あられもない格好であることを思いだす。
けれどもそれもすぐに漆黒に溶け、その後はむしろ自ら羞恥をかきたてようとするかのように、
膝をずらし、薄く足を開いてみた。
「……!」
わずかに空気の流れが変わっただけで、酔ってしまいそうなほどに気持ちいい。
生じた太腿の隙間にねじこむように指を入れ、より激しく、葵は陰部を擦った。
「ん……う……っ」
快感が、耐えがたいほどに速く、強くなっていく。
すっかり馴染みとなったその感覚を、葵はどうすれば良いか知っていた。
「はぁ……ッ、あぁ……ッ……!」
刺激を緩めるでもなく、激しくするでもなく、同じ強さで続ける。
ただそれだけで快感は、破裂寸前まで膨らむのだ。
目を閉じ、闇の中で、その時を待ち受ける。
淫楽に耽りながら、奇妙に冷静な頭のどこかでそれを察知した葵は、
その寸前に指先を曲げ、一度だけ強くクリトリスを擦った。
「――ッ!!」
頭の中の漆黒が塗りかえられるほどの快感に、葵は痙攣する。
こぼれていく快感を、一欠片も逃しはすまいとするかのように、身を縮めて。
それでも、吐息が漏れてしまうのだけは防ぎようがなかった。
身を包んでいた快楽が退くと、羞恥と悔恨が代わりに押し寄せた。
受験前の夏休みだというのに、またやってしまった。
夜、明かりを消して闇が訪れると、湧きたってくる欲望。
耐えられたのは始めの数日だけで、一度誘惑に負けて慰めてしまってからは、
身体を苛む桃色の疼きに、ほとんど毎晩流されていた。
それでも、しばらくはただ肉欲に負けたのだと思っていた。
成長期の肉体が唆す、不可避の通過儀礼だと自らに言い訳をしていた。
それが違うかもしれない、と思い始めたのは、誘惑に負けまいと強く目を閉じた時に
脳裏をよぎった、ある男性の瞳だった。
暗くした部屋よりも、閉じた瞼の裏よりも黒い、全てを呑みこむような漆黒の瞳。
唐突に浮かんだその黒は、葵のあらゆる抵抗をたやすく押し流し、
指で触れてさえいないのに下着を濡らした。
蛇蝎の次くらいには嫌っているはずの男でなぜ、と愕然とした葵は、
自らを縛めるように肩をきつく抱いたが、そのまま眠って忘れてしまいたいという願いは叶わず、
むしろどこかで鳴っている時計の針の音が、
まだ触らないのかと催促しているようにしか聞こえなくなり、
震える手をパジャマの内側に潜りこませると、とたんに痺れるような快感が全身に走った。
もはや疑問も忘れて夢中で陰部をまさぐり、ほどなく絶頂を迎えた葵は、
当然彼の関与を疑い、以前に彼女が巻きこまれた、
夢の中から彼女を支配しようとした少年のように、
龍麻が何がしかの手段で彼女を操っているのだと確信した。
だが、彼に問いただす機会は中々訪れず、
彼の家に一人乗りこんで止めさせるという手段に訴える勇気もなく、
誰かを誘って同行してもらうというのも事の性質上できない。
結局機会があれば言おう、という消極的な態度のまま、七月も早十日ほど過ぎてしまい、
肉欲は治まるどころか強さを増し、葵は、毎晩自己嫌悪に浸りながら、
夜のひとときの快楽から逃れることができずにいた。
親友である桜井小蒔から電話がかかってきたのは、そんな折だった。
「あ、葵? 勉強してる?」
「ええ、しているわよ。小蒔はどう?」
「えへへッ、夏休みになったらやろうかな……って」
小蒔と話すとやましさを忘れられて、葵の声は知らず弾んだ。
「なんか機嫌いいね。いいコトあったの?」
「うふふ、小蒔こそ、今日はどんな用事?」
「あ、うん、今度の日曜日、みんなでプール行かない?」
「皆って……京一君と醍醐君?」
葵の声がわずかに憂いを帯びる。
あえてもうひとり、『みんな』に含まれているであろう人物の名前を言わなかったことに、
小蒔は気づいただろうか。
少なくとも返ってきた小蒔の声は、疑念など微塵もないものだった。
「うんッ、それに緋勇クン。言い出したのは京一なんだけどね。
ちょうどヒマだったからボクは行くんだけど、ね、葵も行かない?」
「そう……ね。たまには息抜きもいいかしら」
これは千載一遇のチャンスかもしれない。
そう考えた葵は、提案を承諾した。
「やったッ! それじゃ日曜日ね」
純粋にプールが楽しみらしい小蒔に内心で謝りながら、葵は受話器を置いたのだった。
日曜日の朝、葵と小蒔、それに京一は新宿の街を歩いていた。
待ち合わせ場所である新宿駅にではなく、反対方向に向かっている。
学生服ではなく白いTシャツを着ている京一が、顎が外れそうなほど大きなあくびをした。
「ふァ~ァ、ッたく、なんで日曜日だってのにこんなに朝早く起きねェといけねェんだ」
「この時間にしたの京一だろッ。緋勇クンの家に行きたいって言いだして、
葵に道案内までさせて醍醐クンは呼んでないし」
「おッ、そうだったか? まァいいじゃねェか、お前だって興味あんだろ?」
「そりゃ、あるけどさ」
「だろ? 美人のお姉さんか、カワイイ妹か、なんならセクシーな母親でもいいけどよ、
いっぺん拝んでみてェじゃねェか」
「あきれた……先に言っとくけど、恥かかせないでよね」
そういう気配はなかった、と葵は思ったが、うっかり口にしたりはしなかった。
「道はこっちであってんのか?」
「ええ、少し先の交差点を曲がるの」
なぜか京一は小首をかしげている。
彼の不審に小蒔も気がついたようだった。
「どしたの?」
「いや、美里が妙に慣れた感じだからよ……もしかして、もう行ったことがあるんじゃねェか?」
「えッ!! それは……重大疑惑じゃない?」
悪意はないが興味は津々といった二人に、葵は思わぬ窮地に立たされてしまった。
動揺を押し殺してすばやく言い訳を考える。
「前に緋勇君の家に行こうとした時があったでしょう?
ほら、緋勇君が何日か休んだ時。あの時に確かめておいたのよ」
言い訳としては苦しいが、一応筋は通っている。
現に二人はさほど疑うこともなく、葵の嘘を信じてくれた。
「そういやァ、そんなコトもあったか」
「だよねえ。京一が変なコト言うから疑っちゃったけど、葵が通い妻なんてするワケないもんね。
ごめんね、葵」
「ううん、いいのよ」
嘘に対して小蒔を謝らせたことに幾らかの罪悪感を抱きつつ、
当面の危機を回避できた葵は胸をなでおろした。
やがて三人は小さなマンションに到着した。
「ここか?」
「ええ……ここのはずよ。ここの、一〇四号室」
「どれどれ……あ、緋勇クンの表札あった」
小蒔が呼び鈴を押すと、やや間をおいて返事があった。
「はい」
「あ、緋勇クンのおウチですか? ボク達緋勇クンの同級生の」
「……桜井か? ちょっと待ってろ」
ほどなく玄関が開き、龍麻が姿を見せる。
龍麻は三人を順に見渡し、抱いた疑問を口にした。
「まだ一時間以上あるだろ」
そもそも集合場所は新宿駅で、家に来る必要はないのだ。
単なる興味本位を、京一はおためごかして言った。
「そこはお前アレだ、友人として親睦を深めようという心遣いというわけだ」
「わかったから入れよ」
小さく頭を振って龍麻は三人を中に招き入れた。
さしたる遠慮もせずに入る京一に、小蒔が続く。
葵も入らないわけにはいかず、できれば来たくはなかった龍麻の家に再び足を踏み入れた。
「中々いい家じゃねェか」
さっさとソファに陣取った京一が、部屋を見回して言った。
「こらッ、失礼だろ」
すかさず小蒔がたしなめるが、彼女も室内を見渡しているのは変わらない。
新築の、というよりモデルルームのような部屋は、古い木造の酒屋が実家である彼女にとって、
ずいぶんと新鮮に映るらしく、一通り見終えたあと、深くため息をついた。
「でも、ホントにいいおウチだね」
「どうも」
それほど嬉しそうでもない龍麻に、ふと小蒔は思った。
口にして良いか迷い、言葉を選んで質問する。
「えっと……ご両親は? 今日はお仕事?」
小蒔が思ったのは、この家は家族で住むには少し狭いのではないかということだった。
小蒔の家は人口密度で言うともっと狭いが、龍麻の家は間取り的に家族向きでない気がしたのだ。
それにもう一つ、こちらの方がより大きな疑問だった。
この家には生活感がほとんどない。
弟たちが暴れまくってそこら中に穴やら傷やらがある小蒔の家はともかくとして、
龍麻の家はあまりにも綺麗すぎた。
それは葵が初めて龍麻の家に連れてこられた時に抱いたのと、同じ疑問だった。
京一と小蒔と葵、三人ともが興味を抱いた質問に、龍麻はあっさり答えた。
「この家に住んでるのは俺だけだ」
「何ィッ!?」
京一が叫び、小蒔は目を丸くし、葵も控えめながら驚いた。
「真神に通うためには実家はちょっと遠いからな。借りたんだよ」
「緋勇クンの家って……お金持ちなの?」
「そうでもない、と思うな」
短い返答は三人を満足させなかったらしく、それぞれの表情で続きを促している。
「俺が氣に目醒めたのは半年くらい前で、
その後半年間で修行して使いこなせるようになったんだけどな、
修行の半分くらいは実戦で、日本全国飛び回って化け物を倒してたんだよ。
それがずいぶん金になったらしくてな、いよいよ真神に行くって時に結構な金をもらったんだ。
俺はこの『力』の謎が、真神に行けば解けると聞いた。
だったら、『力』を使って手に入れた金は、『力』のために使おうと決めたんだよ」
「それじゃ……高校を卒業したらここも出てっちゃうの?」
小蒔がいかにももったいなさそうに訊ねる。
大家族の楽しさは解っていても、自由な一人暮らしに憧れるのも無理はない年頃だ。
「まだそこまでは考えてないけどな。就職か進学かも決めてないし」
「まァ、とにかくまだしばらくはここに居るんだろ? いいアジトになりそうじゃねェか」
「アジトって、何するつもりだよ」
嫌な予感を隠さない龍麻に対する京一の答えは明快ではなかった。
「そりゃあお前、青春を語らうのに必要なモノって言ったらワカんだろ?」
「あッ、だめだよ緋勇クン、京一なんかホイホイ家に入れてるとあっという間に
エッチな本とかお酒とかで一杯になっちゃうからね」
「こら小蒔ッ、俺の理想郷を作る前から壊そうとするんじゃねェッ!」
「ベーッだ。緋勇クン、緋勇クンちが汚染されちゃわないように、ボク時々見にきてあげるね」
「何が『見にきてあげる』だ、お前だって遊びにきてェだけじゃねェかッ!」
いずれにしても溜まり場になるのは避けられそうになく、龍麻は渋面を作るが、
京一と小蒔はすでに領有権を巡って小競り合いを始めていた。
無邪気に談笑する京一と小蒔をよそに、葵は考えている。
小蒔をこの家に遊びに行かせるわけにはいかない。
両親がおらず、龍麻一人の密室に女性を行かせるなど危険極まりなく、
ひとたび友人とみなすと男性であっても警戒心を薄れさせる親友を、守らなければならないと。
龍麻が一人暮らしと知った途端、京一は元から存在するのかも怪しかった遠慮をきれいさっぱり捨てて、家の探検を始めている。
小蒔もちゃっかりついていって、洗面所やトイレに至るまで、
居住者本人よりも詳しく調べあげた。
「乾燥機あるんだ、いいなあ」
「洗濯物放りこんでスイッチ押せばいいのは楽だな、確かに」
「緋勇クンってシャワー派?おフロ派?」
「シャワーだな。風呂は洗うのが面倒くさい」
「あー、ボクん家は兄弟順番で掃除するんだけど、一人だと確かに大変だよねえ」
和やかな会話をする龍麻と小蒔をよそに、京一は怒っていた。
「おい、冷蔵庫の中なんにもねェじゃねェかッ!」
「料理までする時間はないからな、外で食ったり弁当買ったりだ」
「そうじゃなくて、酒がひとつもねェぞ」
「お前な……一人暮らしの高校生の家に酒があったら問題だろうが」
「道徳の話なんざしてねェよ、健全な男子としての生き様を俺は語ってるんだッ」
処置なし、と龍麻は頭を振る。
京一はなお収まらないようで、彼が目指す健全な男子像とやらを龍麻に指導した。
「それにお前、家中探してエロ本もエロビデオも一個もねェとはどういう了見だ」
図らずも龍麻の潔白を証明した発言に、小蒔が意外そうな顔で彼を見ると、
龍麻は真顔で言い切った。
「余計なモノを増やしたくねえんだよ」
「かーッ、人生の潤いを余計なモノたァ、こりゃ本格的に教育が必要だな」
「要らねえよ」
龍麻の拒絶などどこ吹く風で、京一は物資の搬入計画を立てはじめる。
家を不健全高校生の巣窟になどするつもりのない龍麻は、落ちついて時計を見た。
「ところで、そろそろ出ないとマズいだろ。四人遅刻したら醍醐だって怒るだろう」
「あァ? いいだろ、別に。誰も来なきゃ帰るだろ、そのうち」
京一は本気で暑い夏の東京を歩くのを嫌がっているようだった。
エアコンがまだ稼働していなかったのが幸いで、もし適温になっていたら、
テコでも動かなかったかもしれない。
「こらッ、そんなヒドいコトしたらダメだろッ」
「ちッ、しょうがねェな、美里の水着を拝むために行くとすッか」
小蒔にたしなめられて、渋々京一は立ちあがる。
だが部屋を見渡すこの男の視線を見ると、龍麻の家の危機は、
まだ去ったとは言えそうにないのだった。
新宿駅の入口にごった返す人々の中から、長身の醍醐を見つけるのは簡単だった。
だが、彼を見つけた途端、龍麻を含めた誰もが率先して近づこうとはしなかった。
「おいおい、マジかよ」
京一が呟き、龍麻も同意する。
友人でありながら声をかけるのをためらっていると、向こうから気づいて近づいてきた。
「おう、皆揃ってきたのか」
醍醐が龍麻たちに手を上げると、人の波が割れて道が現出する。
さながら将軍が号令をかけたかのようで壮観ではあったが、
龍麻たちは誰も彼を直視できなかった。
朝も早くから日が差し、何もしなくても汗が滲んでしまう今の季節。
龍麻と京一はTシャツだし、小蒔に至っては少年と見紛うようなホットパンツだ。
葵のロングスカートでさえ、この暑すぎる時期には少し辛いのではないかという真夏に、
醍醐は全身黒づくめの学生服だったのだ。
いかにも武道を修めていそうな大柄な肉体に、
いかにもバンカラといった学生服という組み合わせは、
一般常識に生きる人々にとって、触らぬほうが良い神でしかなかった。
龍麻たちの逡巡に気づかない醍醐は、微妙、
という他はない友人たちの態度に太い首をかしげる。
彼の疑問に疑問で答えたのは、この中で醍醐と最もつき合いの短い男だった。
「醍醐……なんだその格好は」
「ふんッ。学生が学ラン着て何が悪い」
京一はともかく、龍麻に言われるとは思っていなかったらしく、
醍醐の顔にありありとショックが浮かんでいる。
「このクソ暑い中、良くそんな格好してられんな、って緋勇は言ってんだよ」
こんなのと一緒では女性をナンパなど夢のまた夢だとばかり、京一も龍麻の肩を持つ。
二人に罵倒されて、醍醐はかえって開き直ってしまったようだった。
「心頭滅却すればなんとやら、だ。
まぁ忍耐とか我慢とかいう言葉を知らないお前らには縁のない話かも知れんがな」
「ヘッ、余計なお世話だ」
「もう……いいから早く行こうよ」
いつまで経っても話が進まない男たちに、小蒔が痺れを切らす。
直射日光の照りつける、こんなに人の多い場所で話しこむなど、
三人ともどうかしているとしか思えなかった。
「す……すまん、それじゃ行くとしようか」
額の汗を拭いながら、醍醐は駅構内へと入っていった。
巨漢の学生服姿の男にぎょっとした人々が飛びずさり、再び一本の道ができる。
その後を、龍麻達は悠々とついていくのだった。
浜松町で下りた一同は、プールまでの道を歩く。
アスファルトを避け、木々の並ぶ小道を通るのは少し遠回りになったが、
木漏れ日が形作る心地良い路は、それに見合うだけの価値があった。
「ふぅ、それにしても暑いな」
「今年初めてのプールだもんね、楽しみだよ。……あ、見て、東京タワーだよッ」
「あったりめェだろ! 今更何はしゃいでんだ」
既に頭の中は水着の女性のことしかない京一は、鉄塔などに全く興味を示さなかった。
一方龍麻はと言えば、こんなに近くから東京タワーを見るのは実は初めてで、
小蒔の指差した先を物珍しげに見ている。
立ち止まった龍麻に、小蒔が話しかけてきた。
「ねえねえ、この間ミサちゃんに会った時に聞いたんだけど、
東京タワーが年々傾いているって噂があるらしいね」
「……傾く?」
荒唐無稽と思いつつ、つい応じた龍麻に、小蒔は嬉しそうに続けた。
「うんッ。なんでも、タワーの脚の一本が増上寺の墓地跡に立ってるんだって。
訪れた霊能者によると、眠りを汚された死者の怨念が、
塔の脚を土中へと引きずりこんでいるらしいよ」
「……」
こんな大きな建造物が、一センチでも傾いたら大騒ぎになるに決まっている。
うさんくさげな顔を龍麻がすると、小蒔もしかつめらしい顔をしたが、すぐに笑いだした。
「えへへッ、ホントだったら面白いけどねッ」
「確かに、寝てるところにこんなの建てられたら怒りたくもなるかもな」
「だよねえ。たまに寝てる時に弟が乗ってきたりするんだけど、それでも充分重たいもんね」
「弟か……」
「緋勇クンは兄弟いないの?」
「ああ、一人だ」
後ろからため息が聞こえたので龍麻が振り向くと、京一があからさまに落胆していた。
「なんだ、一人か……夢が消えたな」
「京一の夢なんてほっといていいよ。どうせ姉妹がいたら紹介してほしい、とかだから」
それほど狙いを定めたとも思えない小蒔の一球は、見事京一の肺腑を抉ったようだった。
「うッ……それはともかくだ、東京タワーは心霊写真のメッカだなんて言われたこともあったな」
「露骨に話題変えてるよ……でも、ボクも聞いたコトあるよ。
非常階段を駆け下りてきた女の人が突然消えたとか、
蝋人形館に無造作に本物の髑髏が置かれてた、とか」
それらの話はアン子に聞いたら情報源はどこよ、と一刀両断されそうな、あやふやで、
語るのも馬鹿らしいものばかりだったが、なぜか一人だけが如実な反応を示した。
「き、君達、こんな所で立ち止まってないで早くプ、ププールへ行こうじゃないか」
百人の敵に囲まれても決して怯んだりはしないだろう巨漢は、
真っ昼間だというのに気の毒なほど震えていた。
「いや、俺は俄然東京タワーに行きたくなったな」
醍醐に向かって京一が意地悪く言う。
反論する余裕もないのか、醍醐は東京タワーに背を向け、
早くプールに行くよう龍麻に強く促してきた。
笑ってはいけないと思いつつ、この図体にしてあまりの気の小ささに、
口許がむずむずするのを抑えられない龍麻は横を向いて一歩を踏み出す。
すると、それを遮るように小蒔が声を上げた。
「ん? なんかこっちに来る人がいるよ」
「だッ、誰だッ!?」
もはや醍醐の狼狽ぶりは悲惨なほどで、声などは完全に裏返っている。
そのせいか、小蒔の声は、どこか泣き出した子供をなだめるような趣きがあった。
「大丈夫だって、足はあるよ」
単なる通行人かと思ったが、向こうはこちらに用があるようで、
戸惑う龍麻達に軽く手を挙げて挨拶してきた。
その男は全く見覚えのない顔で、一行はお互いに顔を見合わせて誰かの知り合いかと目で訊ねる。
順番に首を捻ることで、誰の知り合いでもないと判明した人物を、
龍麻は見知らぬ他人に対するごく普通の警戒を抱いて観察した。
龍麻と葵の中間辺りの背丈の男は、
きちんと首元までボタンを留めた長袖のカッターシャツを着て、
その上からベストまで羽織っている。
醍醐という前例があるので断言はできないが、よほどの寒がりか馬鹿でなければ、
立っているだけでも汗が滲むこの季節にそんな服装をする必要があるとも思えない。
しかし男は暑そうな顔など微塵もみせておらず、やせ我慢だとしたら大したものだった。
もう一つ、龍麻が抱いた違和感は、その顔立ちだった。
汗を浮かべていない、というのもあるが、あまりに日本人離れしているというか、繊細な顔で、
それを表現する耽美、という使い慣れない言葉を思い浮かべるのに、しばらく時間がかかったほどだ。
丁寧になでつけた髪を片側に垂らし、細い眉と、同じく切れ長の目でこちらを見る男は、
その服装とあいまって、貴族の子弟を思わせる風貌だった。
危険はなさそうに見えるが、龍麻は重心を前に取り、警戒していることを隠さない。
それに対して男は、龍麻の思いも寄らない行動を取った。
両目を閉じ、片手を胸に当て、もう片方の腕は大きく横に広げたのだ。
演劇か映画のワンシーンくらいでしかお目にかかれないポーズを取る男に、
龍麻もどう反応して良いか全く解らなかった。
そんな龍麻になど見向きもせず、男は葵と小蒔に向かって話しかけた。
「やぁ……この世界は、放蕩と死に溢れている。
だが、それも美しき婦人たちの前では無きに等しい」
「……?」
「なんか、ブツブツ言ってるよ……」
男は、葵でさえもが判断に戸惑うほど訳のわからない挨拶をよこした。
あっけにとられた小蒔などは、思わず素直過ぎることを言っている。
それを聞き咎めた男は小蒔に向き直った。
「君──今、僕に何か言ったかい?」
「えッ!? う、ううん、別に何も……」
「フッ……君は、美しい顔をしているね。まるで、髑髏の上に腰掛けた乙女のようだ」
「……!?」
「小蒔を見て美しいとは……かなりイカれてるな……いてぇッ」
京一の最後の呻きは、小蒔に足を踏まれたからだ。
反射的にそうしたものの、小蒔も実は京一の言葉の後半には賛成だった。
大体褒めるにせよ、初対面の者との会話で髑髏などと言う単語を持ち出す人間はそうはいない。
褒められた嬉しさより、不気味さの方が勝った。
「だが、美しいものほど、残酷で、罪深きものはない……なんという惨劇。
時こそが人の命を齧る。姿見せぬこの敵は、人の命を蝕んで、
我等が失う血を啜り、いと得意げに肥え太るのだ──」
「……」
どこか詠み上げるような男の口調に、小蒔と葵は手を握りあっている。
そうでもしなければ、龍麻達を置いてさっさと逃げ出してしまっていただろう。
明らかに嫌悪の情を見せる二人に、男は態度には何も出さず、再び口を開いた。
「フフフ……ボードレールの詩だよ」
「ぼおどれえるゥ?」
「ボードゲームとは違う……よね」
京一と小蒔とは違い、国語の教科書に載っていたその名前を龍麻は知っていたが、
薄気味悪いこの男を喜ばせる必要もないと沈黙を貫いた。
「フフ……シャルル・ボードレールはフランスの詩人だよ」
「あの、キミは一体……」
「僕を知らないのかい? 詩人という高貴なる僕を。
何と言う事だ、僕の心はシテールのように荒涼たる風が吹いている」
男は基本的に小蒔と葵の二人を相手にしているようで、龍麻達にはあまり関心を見せない。
それに気付いた京一が、龍麻に耳打ちした。
(なあ緋勇、こいつ新手の宗教かナンパか?)
(だったらお前のお仲間だな)
心底嫌そうな顔をする京一に、龍麻はちょっと言い過ぎたと反省した。
少し険悪な雰囲気を漂わせる二人をよそに、自らを詩人、と名乗る男に、
葵が何かに思い当たったような表情をした。
「そういえば……港区のセント=クライスト学院に、
十三歳で文壇デビューした天才詩人がいるって。
確か、名前は──水岐」
「おぉ、君こそは砂礫の砂漠にいる慈悲深き尼僧。僕こそがその、水岐涼だよ」
ようやく水岐と名乗った男は、口許を軽く笑っているような形にさせる。
どうやらこの男の感情は、喜びよりも、哀しみの方が成分が多いらしかった。
それにしても、どうにもこの水岐という男は素直に感情を表せないらしく、
それが薄気味の悪さとなって彼の表皮に膜を貼っているようにも見える。
対照的に、小蒔が思ったことを一切吟味せずに言った。
「ええーッ、この人、天才だったんだ。どうりで言ってるコトが難しいワケだ……」
「フフフ、僕の高貴な世界を理解できる人間は少ない。気にしないさ。……ところで君」
急にこちらを向かれて、龍麻は思わず反応してしまった。
すかさず京一と醍醐が半歩離れる。
孤立無援となった龍麻に向かって、水岐は髪をかきあげた。
「そう、君だ。君は海が好きかい?」
それまでのさっぱり要領を得ない会話から、いきなりストレート過ぎる質問を出されて、
面食らってしまった龍麻だった。
「海……? 別に嫌いじゃないが」
「海の好きな人間は、僕の詩を理解出来る人間だ。君のような人に会えて嬉しいよ」
夏に海が好きか──と訊かれて、嫌いだと言う人間はどのくらいいるのだろうか。
それでも事前に答えが判っていたなら嫌いだと言っただろう。
それほど、龍麻の水岐に対する評価は下がりきっていた。
そんな龍麻の内心を、京一が代弁してくれる。
「天才詩人だかなんだか知らねェけどよ、いきなり海は好き? はねェだろ……
ンなことどうでもいいじゃねェか」
「フフフ、どうでもいいことじゃないさ。海は偉大なんだよ。全てを生み出し、そして──
全てを無に還す、万物の根源なのさ。海は全てを呑み込む。
汚れた人間も、腐敗しきった世界も。今の世界は一度、海へと還るべきなんだよ」
急にトーンの変わった水岐の話は、景色にまで影響をおよぼしたかにみえた。
龍麻達の立っている場所から木漏れ日が逃げ出し、影が取って代わる。
優しく髪をなびかせる薫風は肌を嘗める朔風へと変じ、一同の背中に冷たい汗を生じさせた。
「一体……何が言いたい?」
「罪深い邪教を信じた報いを、この世界は受けなければならない。
かつての、紅の花に埋もれた美しい世界を壊した報いをね。
……もうすぐこの世界は全て海の底へ沈む。誰も逃れることは叶わない。
この世界はもうすぐ、海の眷属に支配されるんだ」
水岐の声は昏さを増し、深青の響きを帯びる。
嫌なのに、惹きつけられる──水岐は文章だけでなく、朗読する才能も確かに一流らしかった。
なまじ感受性などというものを持ち合わせている龍麻と葵は、
彼の紡ぎ出す言葉の深海に引き摺りこまれそうになってしまう。
「頭が痛くなってきたぜ。俺達ゃお前の妄想に付き合うほどヒマじゃねぇんだよ」
しかし、そんなものは食べ終えたラーメンの残り汁程度しか持っていない京一が、
呪詛とも言える言葉をあっさりと切って捨て、龍麻達を救った。
ちなみに京一は、ラーメンの汁は最後の一滴まで飲み干す派である。
「妄想かどうかはすぐにわかることさ。その時に、人間が犯した罪を知るがいい」
妄想、と言われ明らかに気分を害した水岐は、
言葉を解さない野蛮人を見るような目つきで京一を睨んだが、その語勢は弱まっていた。
あるいはつき合っていられない、とでも思ったのかもしれない。
もともと話しかけてきたのは水岐の方からだし、彼が去ってくれるのは正直言って歓迎だった。
「やってらんねェな。もういいからさっさとプールに行こうぜ」
その通り、自分達はこれから遊びに行くのに、なんだって犯した罪だの世界が沈むだの、
気が滅入る話を聞かされなければならないのか。
小馬鹿にしたように肩をすくめる京一に大きく頷いた龍麻は、
浪費した無駄な時間を埋め合わせようと葵達を促し、大股に一歩を踏みだした。
すると、なお水岐が食い下がる。
「君達……芝プールに行くのかい?」
「あぁ」
「そうか……楽しんでくるといい」
短く答えた龍麻に、水岐は小さく笑った。
それはおよそこの初夏に似合わない、どちらかと言うと晩夏にこそ相応しいような、
人を不快にさせる笑いで、気分を払拭するために、龍麻はかなり投げやりに応じた。
「そうさせてもらうよ」
「それじゃ……君達とはまた会える気がするよ」
全くそんな気がしなかったし、会いたいとも思わなかった。
それは皆同じ気持ちらしく、程度の差こそあれ眉間に皺がよっている。
「なんだったんだ、ありゃ……これから遊ぶってのに、イヤな気分になっちまったぜ」
水岐の姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、京一がぼやいた。
彼を恐れる訳ではないが、あの調子で反論されてはもう逃げるしかなく、
万が一にも聞かれては困るのだった。
醍醐も同じ心境なのか、声は重い。
「確かにな……詩人と言うのは皆あんな変わった奴なのか?」
「そんなことはないと思うけど……」
葵の評価も歯切れが悪く、 なんとなく沈黙してしまう龍麻達にあって、一人奮闘したのは小蒔だった。
「それはともかくさ、見た目は結構良かったよね」
それは皆の気分を盛り上げようとしてのもので、必ずしも彼女の本心というわけでもなかったが、
京一はしみじみと呟いた。
「お前、あんなのが好みなのか……」
「ち、違うよ、違うけどさ」
「だったらぼおどれえるとボードゲームの区別くらいつくようにしなきゃな」
「違うッつってんだろッ!!」
手にした水着の入っている袋で殴りかかる小蒔を軽くかわした京一は、
そのまま小走りでプールに向かい始めた。
「あぁ、もう行こう。こんなところで道草食ってたって仕方ない」
袋を全力で振りまわす小蒔がそれを聞いているかは怪しい。
ただ、二人の走っていく方向に間違いはなかったので、
誰も止めようとはせず、三人はのんびりと後をついていったのだった。
芝プールは真夏の日曜日ということもあって、入り口から人々でごった返していた。
「おォ、若いおねェちゃんが一杯だぜッ!!」
「ふふっ、京一くんったら嬉しそう」
葵が毒のない口調でさらりと言う。
これが彼女の本質ではないだろうし、水岐の出現で多少ストレスが溜まっているのかもしれない。
「んじゃ中でね」
「よし、俺達もさっさと着替えて水着鑑賞会としゃれこもうぜ」
中で落ち合うことを確かめて、龍麻達は一旦二手に分かれた。
各自水着に着替えて、表に出る。
「やっぱ夏は海かプールに限るなッ! この俺の無駄なく引き締まった身体も見せがいがあるってもんよ」
誰に向かって言っているのか判らない京一の大声が、プールに来ている他の客を振り向かせる。
しかし振り向いた者は皆、声の主の異様ないでたちに驚き、慌てて目を逸らせるのだった。
その理由に気づいていないのは、一人だけだ。
「それはいいんだが、京一……どうしてお前は、こんな所まで木刀を持ってきてるんだ」
「そういうコトは鏡見てから言えよ……
市民プールにゴーグルとシュノーケル着けてくるバカを俺は初めて見たぜ」
「俺だって市民プールに木刀持ってくる馬鹿は初めて見るがな」
お互いに罵りあう二人から、龍麻は距離を置いて立っている。
同類と見られるのはたまらなく嫌だったのだ。
醍醐の方は、まだ多少おかしいというだけで済ませることができるかもしれない。
しかし何しろその体格が災いして、結果的には京一と同じか、より危ない人種に彼を見せていた。
「んだと手前ッ! おい緋勇、お前はどっちがバカだと思う」
「緋勇、いいから遠慮なく言ってやれ。馬鹿なのは京一だと」
「……」
龍麻は聞いていなかった。
正確には聞こえていないふりをして、
タイミング良く空いたテーブルのひとつに荷物を置きに行っていた。
その後ろで呆然としている京一と醍醐など、知ったことではなかった。
「……美里と小蒔はまだ来ねぇのか……なぁ、俺達だけでひとっ風呂浴びねぇか?」
まるっきり無視されてさすがに堪えたのか、京一は露骨に話題を変える。
その隣で醍醐が、やはり堪えたのか、つい今しがたまで敵だった京一と共同戦線を張った。
「確かに……ただ待ってても汗が出るだけだしな。どうだ、緋勇」
「目印がいないと困るだろ。荷物は見ててやるから先行ってこいよ」
「そうか……義理固い奴だな、お前は」
醍醐は感銘を受けたように頷いたが、京一は無視された恨みを忘れていなかったらしく、
すかさず口を挟んだ。
「ヘッ、おおかた一秒でも早く美里の水着見てェとかそんなんだろ。
まぁいいぜ、俺達はちょっと行ってくっからよ」
言いたいことを言って京一は走っていく。
醍醐も申し訳なさそうにしながらも、京一の後を追っていった。
彼らを見送って、龍麻は椅子に座る。
その表情は芝プールにいる全ての人と異なる、能面に近い無表情だった。
葵と小蒔はまだ姿を見せない。
水しぶきと歓声がそこら中で弾けているプールを、
龍麻が見るともなしに見ていると、おもむろに一人の女性が立ち止まった。
「あら? もしかして、緋勇君じゃない?」
視線を遠くに置いていた龍麻は突然名前を、しかも女性に呼ばれて、戸惑い気味に顔を上げた。
龍麻の名を呼んだのは、妙齢と思われる女性だった。
細身の身体は女性としてかなり理想的なプロポーションを持っており、
身長も高く、一メートル八十を超える龍麻と頭半分くらいしか変わらない。
しかし何しろ、顔の大部分がサングラスに覆われており、
龍麻は反応に困ることしかできなかった。
少年の怪訝そうな顔に気づいた女性は、洗練された動作でサングラスを外す。
現れた人好きのする笑顔は、数ヶ月前に見覚えのあるものだった。
「……天野さん、でしたっけ」
「嬉しいわね、一度会っただけなのに、覚えててくれたの?」
破顔した女性は、空いている椅子に腰を下ろした。
彼女は以前、渋谷の街で鴉が人を襲う事件に龍麻達が関わった時に出会った、
天野絵莉という女性だった。
彼女も独自のルートで事件を追っていたらしいのだが、
事件の原因が記事に書けないとわかるとあっさりと手を引き、
龍麻も名刺を貰ったもののそれきり連絡は取っていなかったのだ。
「天野さんこそ……良く俺がわかりましたね」
「私はそれが半分仕事だもの」
フリーのルポライターである彼女は、一度会っただけの人物であろうが、
名前と顔を一致させることが出来なければ商売にならないのだ。
それにしても、髪を上げ、学生服も着ていない龍麻をこんな所で見つけだすとは、
やはり大したものだった。
「今日は一人なの?」
絵莉は問い掛けつつ、素早く周りを観察して自分で答えを見つけていた。
「何、こんなものプールに持ってきて。あの子……蓬莱寺くんもいるのね」
木刀を見て呆れたように言う絵莉に、龍麻は我が事のように恥ずかしがるしかない。
全く、いくら大切なものとはいえ、どういう精神構造をしたら
真夏のプールに木刀を持ちこむという発想が出てくるのだろう。
しかし、絵莉は単に京一が馬鹿なだけなのを、随分と深読みしたようだ。
「もしかして……まだ危ないことしてるの?」
「……」
「困ったものね」
今度の口調には呆れたような響きはなく、それは今度は龍麻に深読みをさせることとなる。
「危ないことって……何かあるんですか?」
かまをかけてみた龍麻だったが、絵莉は大人の余裕がなせる業か、
小憎らしいまでに鮮やかにその問いをかわした。
「さぁ、どうかしらね。……あら、いけない。
友達が待っているんだったわ。それじゃね、緋勇君。また会いましょう」
蝶のように軽やかな仕種で立ちあがり、軽く手を上げて絵莉は去っていった。
去っていった彼女と入れ替わるように京一達が戻ってくる。
というより、龍麻が女性と話しているのを見つけた京一が急いで戻ってきたのだが、
一足遅く間に合わなかったのだ。
「お前、誰と話してたんだよ」
「天野さんって覚えてるか? ほら、渋谷の」
龍麻が説明する前に、京一は身を乗り出していた。
彼の身体から滴る水滴が足にかかって、龍麻は気持ち悪さを堪えねばならない。
「んだとッ! 絵莉ちゃん来てたのかよッ!」
京一は忙しく周りを見渡すが、もう彼女の名残はどこにもなかった。
絶望と羨望に身を焦がした京一は、にわかに躍りかかって龍麻の首を絞める。
男に首を絞められるのは気持ちの良いものではない――
まして、京一の身体からさらに垂れる水滴が身体にかかるとあっては、
龍麻は半ば本気で彼の腕を振り払った。
「てめぇ龍麻、見やがったな!? 俺の絵莉ちゃんの水着姿、見やがったな!?」
剣呑な雰囲気になるかと思いきや、京一はテーブルに突っ伏して恨み言を言い始めた。
「くそッ、せっかく絵莉ちゃんが俺に会いに来てくれたってのに、
嫉妬して俺を呼ばないとは、なんて女々しい野郎だ」
自分勝手も極まった京一の主張に、京一と一緒に戻ってきていた醍醐は、
身体に見合った大きな嘆息をした。
「……緋勇、すまんな。俺から謝らせてもらうよ」
「いや……出来の悪い友人を持つと苦労するな」
「あぁ……お互いにな」
京一をあざとく無視した二人は和やかに談笑する。
絵莉の水着を見れなかった悔しさと、二人に馬鹿にされた悔しさが合わさった時、
京一は木刀に手をかけていた。
「ぐッ、てめえら……」
二度はやられまいと、無視をしながらも鋭く京一を観察していて、
振りかぶった瞬間を足を払おうと待ち構えていた龍麻だったが、それは未遂に終わった。
絵莉とは違う女性の声が、一触即発の危険を孕んでいた龍麻達の緊張に割りこんできたのだ。
「あ~、すっごい偶然~ッ!」
かん高い、そのくせのんびりとした声は、聞き間違いようのないものだった。
「その声は……高見沢じゃねェか」
「あッたりィ~! うふふッ、元気~ィ?」
看護学校に通いながら、新宿区にある桜ヶ丘中央病院で働いている彼女もまた、
ある事件をきっかけに知り合った、高見沢舞子と言う女性だった。
いつもピンク色のナース服を着ている彼女は、
もちろん今はナース服ではなく、黄緑色のビキニ姿だ。
ただし水着はシンプルでも身体の方はそうではない。
胸の膨らみは見事なもので、そこから腰にかけてきちんとくびれ、そしてまた広がっている。
それは女性を見た数なら誰にも負けない京一の眼鏡にも充分に適うものだった。
「お、お前って結構ナイスバディだったんだな……」
「わ~い、ほめられたァ~」
無邪気に喜ぶ舞子が飛び跳ねるたび、水着が揺れる。
もちろん、水着が包んでいるものも一緒に。
思わず目を上下させる京一だったが、醍醐の恐ろしい一言が白目を剥かせた。
「も……もしかして、院長先生と一緒……」
「大馬鹿野郎ッ!! 気持ち悪いモン想像させんじゃねぇッ!!」
身の毛もよだつ、とはまさにこのことだった。
京一は木刀によりかかり、龍麻も視線から焦点を消失させ、口を大きく開けて換気した。
「はっずれェ~、看護学校のお友達とでェ~す」
「本当かよッ! おッ、おい、その娘達はどこにいンだよッ」
「エッチな人には教えてあげない~ッ」
恐ろしい想像の反動からか、京一は目を血走らせて舞子に詰め寄る。
人差し指を唇に押し当てた彼女は、何故か龍麻にその指を向けると、
ひらひらと舞うように去ってしまった。
あっけにとられて舞子が去るのを見送っていた京一は、
龍麻の両肩に手を置き、がっくりとうなだれる。
「俺の白衣の天使ちゃんをどうしてくれンだよッ! ううう……」
「……知らねぇよ」
「こんな事で泣くのかこいつは……いいから放っておけ、緋勇」
もはや打つ手なし、と首を振る醍醐に、深く頷く龍麻だった。
夏の陽射しに似つかわしくない、か細い声が聞こえてきたのは、
龍麻達がいいかげん待ちくたびれた頃だった。
「京一く~ん、醍醐く~ん、緋勇く~ん」
「おッ、おい、どっからしてんだこの声は……」
京一の言う通り、周りを見渡してみても、それらしき人影はない。
そのくせ歓声があちこちで飛沫を上げている中、その声だけはいやにはっきりと聞こえるのだ。
狼狽した京一が忙しく周囲を見渡していると、龍麻のそばにいつのまにか少女が立っていた。
「うふふふふ~、こんな所で会うなんて~」
その特徴的な髪型と、さらに特徴的な声は、間違いなく龍麻の知っている女性のものだった。
それでもどうしても拭えない違和感の正体に気づいた時、龍麻は思わず叫んでいた。
「裏密!?」
龍麻の前に立っているのは、まぎれもなく裏密ミサその人だった。
ただし彼女を象徴する、底の分厚い眼鏡がないために、まるで別人のように見える。
戦前の流行のような、太い白黒のストライプの水着こそ野暮ったいものの、
学校だと紫がかって重たく見える髪は、陽光を受けて紫絹のように輝き、
どこから覗こうとしても不可能だと噂され、レンズそのものに謎の遮断効果があるのではないかと
まことしやかに囁かれる眼鏡の向こう側にあった目は、余人の想像を絶する、
紫苑さながらの可憐なものだった。
蛇蝎とは言わないまでも、多足類なみにミサを苦手とする京一と醍醐も、
彼女の素顔を見るのは初めてなのか、自失している。
「う、裏密? なんだその格好は……」
「うふふふふ~、もちろんプールに来る格好よ~」
ミサはそう答えたが、彼女がプールに来た理由は泳ぐためではなさそうだった。
「でも緋勇くんたちもこのプールを選ぶなんて流石ね~」
「どういう意味だ?」
訊ねる龍麻を、ミサは知っているんじゃないの、とばかりに斜め下から覗き上げた。
ミサの瞳には思いのほか強い眼光が宿っていて、龍麻は不本意ながらわずかに視線を逸らせた。
「うふふふふ~、ここには出るのよ~、白い腹、灰緑色の鱗、瞬きしない濁った目をした~、
忌まわしき深きものどもが~」
「ディープワンって……おい、裏密」
聞いた事のない言葉──たぶんオカルト用語なのだろう──について、
さらに龍麻が訊ねようとすると、ミサはその前に身を翻してしまった。
気味が悪いだけだと思っていたミサの意外な素顔を目の当たりにした京一が、
狐につままれたような顔のまま呟いた。
「行っちまった……けどなんだよ、海坊主でも出るってのか?」
「こッ、ここはプールだぞッ」
海坊主は妖怪であって幽霊ではない──つまり、足はあるのだが、
醍醐はそういったものはとにかく全部苦手なようだった。
「そりゃそうだ。ま、あいつの言う事は気にしないのが一番だな。
──ッと、ようやくお出ましのようだぜ」
肩をすくめた京一は、こちらに向かってくる葵と小蒔の姿をいち早く見つけて軽く口笛を吹いた。
少し軽薄なその音色は、彼女達の許に届く前に初夏の陽炎にかき消される。
「おっ待たせーッ。何、二人ともそのカッコ」
「うるせェな、大事なもんは肌身離さず持っとく主義なんだよッ」
開口一番吹き出した小蒔に、木刀を掴んでいる京一はどなりつけた。
一方醍醐はといえば、既に心ここにあらぬといった風で、
遠くを見たり近くを見たりで視点が全く定まっていない。
「免疫ゼロかよ……それより、二人とも結構可愛いじゃねェか。なぁ緋勇」
「そうだな」
龍麻の返答にあまりに迷いがなかったので、京一は思わず彼の顔を見た。
そこに冗談や照れのようなものは一切浮かんでおらず、
まぜっかえすべきかどうか、京一らしくもなく深刻に迷っているうちに、
葵と小蒔が着いてしまい、タイミングを失ってしまった。
龍麻の態度は小蒔にも気になったらしく、
青いスポーティなビキニの彼女は問い詰めるように上体をかがめた。
「なんか気のないカンジだね。ホントに可愛いと思ってる?」
「ああ、似合ってる以上に褒めようはないけど、二人ともいいと思う」
相変わらずにこりともせずに答える龍麻に、逆に小蒔のほうが恥ずかしくなったようだ。
頭に乗せていたサングラスをかけ直して、わざとらしく頷いてみせた。
「ん、よろしいッ。まぁ当然なんだけど、一応褒めてもらったからお礼は言っとくね。
……何、葵、なんで隠れてるの」
「だって……」
「ほら」
背後に隠れるようにしていた葵を、小蒔が前に押しだす。
図らずも、葵は龍麻と正面から見つめあってしまった。
白いワンピースの水着を着る葵は、一見清楚な印象を与えながら、
均整の取れたスタイルはそれを凌駕する何かを見る者に植えつけずにおかない。
事実、葵はすでに何人かの軽薄な男に声をかけられていて、小蒔が番犬のように追い払っていたのだ。
「あ、あの……」
龍麻の黒い瞳は、更衣室からここまで歩いてくるまでにも幾つかは感じた、
無遠慮に身体を観察する熱の混じった視線とは異なり、
この青空の下にあっても陽を呑みこむかのようで、葵は立ちつくしてしまった。
恐怖が足首を上ってくる。
黒い瞳――夜の闇で独り慰めたときに思い浮かべた、漆黒の瞳。
記憶が甦り、快感の残滓がパルスのように全身を走った。
頭の中が真っ白になり、自分が何をしようとしているのか、わからなくなる。
今さらのように身体を縮め、少しでも見られる部分を減らそうとする葵に、龍麻が声をかけた。
「美里も、良く似合ってるな」
「あ、ありがとう」
葵と龍麻の視線が重なったのは、実際には二秒にも満たない短い時間のできごとだった。
龍麻が表情を崩して微笑を浮かべなければ、どうなってしまっていたか。
「全く初々しいねェ」
「いやぁ、葵が褒められて照れるのなんて初めてみたよ」
無責任な京一と小蒔の声は腹立たしくもあったが、同時に、
葵を支えてもくれる助けでもあった。
「よっしゃッ、ま、水着披露も無事終わったこったし、そろそろ遊ぶとしようぜ」
「さんせーいッ!!」
京一と小蒔が駆けだし、醍醐が続く。
龍麻か、先の三人に続くか、葵は選択を迫られた。
プールサイドを走るのはいけないという常識的な考えと、
襲われかけた人間と親しく歩きたくはないという、こちらも常識的な考えは、
結局、早足で龍麻からはやや離れて歩くという、中途半端な形の決着にしかならなかった。
走るには至らない、行進のような歩き方は、プールに来ている他の客からは奇異に映り、
男女を問わず何本かの視線が葵に集中する。
それらのほとんどに葵は気づかなかったが、たったひとつ、
真後ろから注がれているであろう眼差しだけが、彼女の意識を占めていた。
身体を――裸でこそないものの、身体のラインはそのまま見られているという、
確信に近い予感は、よくない状態に葵をする。
特に尻の辺りを凝視されている気がしてたまらず、葵は、頬が焼けそうに熱くなるのを感じた。
早足のために水着が尻に食いこんだが、直すわけにもいかず、
ひたすら京一たちに追いつこうと足を動かす。
合流することばかり意識していた葵は、龍麻が歩きだした直後にポニーテールの少女に
呼び止められて立ち止まり、葵の方を全く見ていなかったことなど、知る由もなかった。
数あるプールの一つに着いた京一たちのところに、すぐに葵も到着する。
龍麻だけが遅れて来て、早くプールに入りたい京一は軽いジャブを放った。
「遅いじゃねェか、何してたんだよ」
「妹を探してるって子に見かけなかったか訊かれた」
「子供か?」
「いや、俺たちと同じくらいの歳だった」
「ンなもん放っとけよ……いや待て、子ってこたァ女か?」
「ああ」
龍麻が答えた途端、京一は不機嫌になった。
「けッ、お前はどうしてそう行く先々で女を引っ掛けてんだよ」
「引っ掛けてねえよ。どう訊いたらそんな風に取れるんだよ」
事実誤認も甚だしいので、龍麻も語勢が荒くなる。
暑いので頭が冷えることもなく、二人の険悪さはワイヤーの切れたエレベーターのように急降下していった。
「けッ、あわよくば姉妹揃ってよろしくやっちまおうってハラか、
ンなこたァお天道様が許してもこの蓬莱寺京一様が許さねェ、覚悟しやがれ」
「何をどう覚悟するってんだ」
龍麻が右足を半歩引き、呼応するように京一が拳を固める。
互いの額に滲んだ汗が、床に落ちた瞬間に殴りかかろうと決心した両者が、
その瞬間に備えて呼吸を止めると、いきなり横合いから大量の水がかけられた。
龍麻も京一も互いのことしか見ていなかったため、避けることもできず頭から浴びてしまう。
呆然とした両者が犯人を探すと、そこにはすでにプールに入っている醍醐と小蒔がいた。
「何しやがんだてめェらッ!!」
矛先を変えさせられた京一は、水を拭いもせずに怒鳴りつけた。
「二人とも何やってんのさッ、プールは喧嘩するところじゃないだろッ」
思いきり舌を出す小蒔の隣で、醍醐が重々しく頷いている。
頭を冷やされた龍麻は自分の愚行を悟り、肩をすくめて二人に軽い謝罪をしたが、
京一の方は冷却が足りないらしく、助走したかと思うとプールに飛びこんだ。
醍醐と小蒔の間に、大きな水しぶきがあがる。
「わぷッ! こらッ、急に飛びこむな馬鹿京一ッ!!」
「うるせェッ、さっさとてめェらだけ遊び始めやがるんじゃねェッ!」
京一が怒っているのか照れ隠しなのか、龍麻にも判断がつかないでいると、
小蒔が再び水をかけて反撃に出た。
「醍醐クン、京一を押さえてッ」
「わかったッ」
「こら醍醐ッ、気色悪い、肌を触れ合わすんじゃねェッ!」
水を掛け合う三人は、子供というより幼児と変わらない。
龍麻と葵がさすがに呆れて顔を見合わせると、二人のところにも水が飛んできた。
「……」
濡れねずみにされた葵は、親友の裏切りに放心したかのようだったが、
龍麻は軽く顎を引くと、その場からいきなり跳躍し、
宙で一回転して三人の至近距離に飛びこんだ。
「……!!」
水しぶきと言うよりも、もはや水柱と言うべき量の水が跳ねあがり、
容赦なく三人の頭上から降り注ぐ。
「くッ……てめェ、氣を使いやがったな……ッ!」
適切に氣を練れば、身体能力を上げるくらいのことはできる。
龍麻は氣を有効活用したわけだが、三人は負けを認めたりはしなかった。
無言の連携で龍麻を囲み、一斉に水をかける。
お互いにも損害が出ることを厭わない、捨て身の攻撃を、
龍麻は棒立ちで受けたりせず、潜って回避していた。
すばやく醍醐と小蒔の間をすり抜け、離れた場所に顔を出す。
浮かべた勝ち誇った笑顔は、京一と小蒔を焚きつけるに充分な爽やかさだった。
「くッ……上等じゃねェかこの野郎ッ、待ちやがれッ!」
「京一はそっちから追いかけてッ!」
昨日の敵は今日の友、二人は即席のチームを組んで龍麻を追い回す。
あっという間に遠くに行ってしまった三人を、取り残された醍醐と葵は見送り、
顔を見合わせて苦笑するのだった。
プールを一周して戻ってきた龍麻たちに、醍醐と葵も合流して遊び始める。
「いっくよー、葵ッ!!」
「きゃあっ、もう、小蒔ったら」
少女二人の和気あいあいとした遊びに較べ、男三人は今ひとつ盛り上がらない。
特に京一は龍麻たちとじゃれ合うつもりなど毛頭ないらしく、
何を好き好んでか、水の中に潜って精神鍛錬をしている醍醐が、
呼吸の限界に達して顔を出すと、すかさず近づいた。
「おい醍醐、そのゴーグルちょっと貸してくれよ」
「構わんが……何に使う気だ?」
「ん? ヘヘヘッ、もちろんおねェちゃんのおみ足を鮮明に見る為に決まってんだろ」
「そんな理由で貸せるかッ」
「減るモンじゃなし、いいじゃねェかちょっとくらい」
「駄目だ駄目だッ!」
「この堅物がッ……よし緋勇、後で貸してやるから醍醐を押さえろッ」
欲望のためには友人でも利用するのにためらいはない京一が、龍麻をけしかける。
ゴーグルを借りる気などない龍麻は全く気乗りしなかったが、
醍醐の方が反応し、腰を低く落として構えた。
「……やる気か?」
「お前が転校してきた日以来だな。単純な力比べなら負けんぞ……!」
挑発された龍麻は、彼と手を組み合わせる。
醍醐の言ったとおり、膂力にはかなりの差があったが、
遊びといえど簡単に負けるのは面白くない。
龍麻も力を込め、プロレスの開幕のように真剣な力比べが始まった。
「く……ッ」
踏ん張りの効かない水中で、龍麻は懸命にこらえる。
それでも劣勢は覆し難く、徐々に押されていき、
不本意ながら決着がつきそうになったとき、
急に醍醐からのプレッシャーが弱まった。
何事かと醍醐を見ると、彼の背後に、いつのまにか来ていた小蒔が飛び乗っていた。
「ばッ、馬鹿ッ、止めろお前らッ!」
「あははッ、ボクも乗ったッ!」
「桜井ッ、お前はどっちの味方だッ」
「面白そうな方に決まってるじゃないッ。いっけーッ、醍醐クンを沈めちゃえーッ」
「そうか、それなら俺だってそう簡単にはやられんぞ……ッ」
さすがにレスリング部部長らしく、龍麻と小蒔がのしかかってもなお、
醍醐は顎を水面に着けなかったが、二人分を支えるのはさすがに無理だったらしく、
小蒔が上に乗ると、ついにバランスを崩してしまった。
豪快な水飛沫を上げて水中に落ちた三人が揃って顔を上げると、
どこからか女性の声が聞こえてきた。
「フフフ、皆随分と楽しそうね」
「そ、その声は……」
ゴーグルを奪い取るチャンスを狙っていた京一が、それどころではないとばかりに、
言うが早いか、水の中とはとても思えない素早さでプールを横切る。
不審に思った龍麻達もついていくと、もう水から上がった京一が女性の前に立っていた。
金髪で長身の女性の正体に気づいた小蒔が、大声で叫んだ。
「あ、マリアせんせーだッ」
「How are you,everyone?」
龍麻たちの担任教師であるマリア・アルカードが、
教室で、授業を始めるときと同じではあるが、少しだけ弾んだ口調で挨拶する。
それに龍麻たちが応じなかったのは、プライベートのマリアが、
あまりに学校での彼女と異なりすぎていたからだった。
それはもはや水着とは呼べないほどだった。
真っ赤な布地は身体の中央部が大きく切り取られ、
かろうじて胸の一部と腰から下を覆っているに過ぎない。
Vの字に開いた腹部には一応紐が通されているが、
肌との隙間が持ち上げている胸の巨大さをアピールするだけだ。
そしてサイドから背中部にかけては全く遠慮を捨て、真っ白な肌を存分に見せつけている。
彼女の何から何までが性的な魅力に極限まで達しているので、
この手のものに不馴れな醍醐や葵などは何をどうすれば良いのか判らなくなっていた。
小蒔でさえもが深く切れこんだ水着のラインを見て、ただただ感嘆するだけだった。
「せんせー……すっごいね……」
「男の子にはちょっと刺激が強すぎたかしらね。
でも、ワタシもまだそういう風に見てもらえるのかしら」
「せんせー……それ嫌味で言ってるの? ほら、周りの男が皆せんせー見てるよ」
「フフ……でも、そういう目で見られるのって、女としては嬉しいけれど、
教師の立場からすると少し複雑な気分だわ」
そう言いながらもマリアの口許は、やはり嬉しい方に振れてしまうらしく綻んでいる。
すると大概の男なら骨抜きにされてしまう微笑みが浮かび、
京一などは口笛を三小節ほど鳴らしたものだった。
「もしかしてせんせー、今日はカレシと一緒?」
骨抜きにされた男共に構わず、小蒔はここぞとばかりに担任のプライベートを知りたがる。
マリアのプライベートといえば、その人気に反比例して全く明らかにされておらず、
噂では、新聞部が信憑性のある情報には高い情報料を払うとまで言われているのだ。
「だったらいいんだけど、残念ながら女友達とよ」
「とか言ってせんせー、実は犬神せんせーと一緒だったりするんじゃないですか?」
何気ない一言に、マリアの態度が一変する。
「え?」
「ほら、せんせーって犬神せんせーのコト好きみたいだし」
あまりに直球、というか幼稚園児が先生に訊ねるような無邪気な爆弾は、
投げた当人よりも周りで見ている方が爆発を恐れずにはいられない。
「こっ、小蒔」
特に小蒔の親友を自らをもって任ずる葵としては、その爆弾が破裂寸前に思え、
先ほどに続き、彼女らしくない動揺をしてしまうのだった。
そして怜悧な美貌をもって知られるマリアも、葵に劣らず取り乱している。
それはアン子がいたら絶対にシャッターを切っていたに違いない、貴重な光景だった。
「わ、ワタシと犬神先生がなんて……そんな事、考えられないわ」
「なんだ、違うのか」
「そ、それじゃ、友達が待っているから」
誰が見ても逃げ出したと判るぎこちなさで、マリアは生徒達の前から去っていった。
「いいモン見たな……龍麻」
「……まあな」
否定するのは嘘になるので、龍麻は同意するしかない。
すると、耳ざとく聞きつけた小蒔が、やや軽蔑したように言った。
「緋勇クンも、やっぱりマリアせんせーみたいにスタイルがいい女の人が好きなの?」
安直な質問に龍麻は渋面で答えた。
「いや、俺はショートカットで胸も尻も小さめの子の方がいいな」
たまたま傍を歩いていた他の客がぎょっとしたほど、龍麻たち周辺の空気が一変した。
暑い夏の午前であるはずなのに、肌寒ささえ感じる。
その冷気の発生源は、長身でやや長めの黒髪をした男性からであるようだったが、
他にも大柄な男性や、小柄な少女からも発生しているようでもある。
いずれにしても、触らぬ神に祟りなしなので、客たちは彼らを迂回して、
なるべく早足で立ち去った。
「や、やだな、何言ってんの」
「何って、訊かれたから答えただけだ。ああ、あと、必殺技は持ってて欲しい」
「へ?」
「コマンド難しいけど華奢なのに投げ強いっていうのがいいな」
そこで龍麻が名前を挙げたのは、人気の格闘ゲームのキャラクターだった。
確かにショートカットでスタイルも控えめだが、小蒔とは全く見た目が異なる。
つまり龍麻は上手いこと引っ掛けたわけで、ようやく腑に落ちた小蒔と、
それ以上に大きなため息が、なぜか醍醐から漏れた。
龍麻は一瞬大柄な友人に視線を向けただけで、何も言わなかった。
「もう、イジワルだなあ。ビックリしちゃったよ」
「質問が良くない。スタイルだけで女は選ばないよ、俺は」
「じゃ、何で選ぶの?」
「何って……性格とか、色々かな。桜井は彼氏にしたい男を選ぶ基準があるのか?」
「えッ!? い、いやあ、ウーン、そんなの考えたコトないから……」
いつもの闊達さを失って歯切れの悪い小蒔を、龍麻は笑ったりはしなかった。
「普通はそうだと思うぞ。好きになったらそれ以上理由は要らないんじゃないかな」
「……ウン、そうだね。ごめんね、変なコト訊いて」
「別にいいさ。それより、少し昼には早いけど何か食べに行かないか?
プール一周して腹が減った」
「さんせーッ!」
明るく答える小蒔に頷いて、龍麻は売店の方へと歩き出した。
「おい緋勇、俺にも何か食わせろよ」
「最初から皆で行くつもりだよ」
「さすが、話せるねェ大将ッ!」
険悪な雰囲気を作りかけたというのに、
反省するふりすらみせない京一に呆れながら、
龍麻は皆を引き連れて売店へと歩きだした。
四人から離れて歩きながら、一人葵は考えていた。
龍麻が口にした好みは、もしかしたら本心ではないのか。
彼は小蒔を虎視眈々と狙っていて、彼女が隙を見せる時を待っているのではないか。
だとしたら、絶対に小蒔を護らなくてはならない。
彼の言動を注視し、いかなる時も龍麻と小蒔を二人きりにしてはいけない。
雲ひとつない空はどこまでも青く澄んでいたが、葵の心には暗雲が立ちこめたままだった。
軽く食事をとった後、龍麻たちは再びプールで遊んだ。
友人たちの無尽蔵ともいえる活力に、さすがについていけなくなった葵は、
彼らにひと声かけようと思ったが、いつの間にか彼らの姿が見えなくなっていたので、
一人で荷物の置いてあるベンチに戻る。
するとそこには、龍麻がいた。
タオルを肩にかけ、椅子に座っている龍麻は、葵を見つけると軽く手を上げる。
しまったと思いつつも、今から引き返すわけにもいかず、やむをえず座った。
「もういいのか?」
「え……ええ。緋勇君は?」
「俺ももう充分遊んだかな。あいつら、なんでこんなにプールが好きなんだ?」
呆れている龍麻にあいまいに頷きながら、
葵は気になっていたことを訊くなら今しかないと考える。
だが、決断してからも、実際に口を開くまでには、一分以上必要だった。
「あの、緋勇君……最近、何か変わったことはないかしら」
慎重を期するあまりに趣旨が全く伝わらない質問をしてしまったと、
訝しげに眉を寄せる龍麻の反応で葵は気づいた。
「プールに来たっていうのが一番変わったことかな。小学校以来か?」
嫌味な返答だとしても、少なくとも関心を惹くことはできたようだった。
眉を寄せたままではあったが、龍麻は話題を打ちきろうとはしなかったのだ。
「何かあったのか?」
「い、いいえ……その」
変わったことがあるのは葵の方で、しかもそれを率直に伝えるのには大いに抵抗がある。
結果葵は、プールから上がったばかりだというのに頬を熱くするしかなかった。
「緋勇君の『力』は……どんなことができるの?」
龍麻は質問の意図を勘ぐるように唇を曲げはしたものの、答えをはぐらかしはしなかった。
「どんなことも何も、俺の使う氣は生命力だって話しただろう。
身体能力を高めたり、怪我を治したりっていうのは肉体を活性化させるって意味では同じことだ。
あとは相手に当てるってくらいで、だから夢の世界に引きずりこんだり、
他人を石にするなんて芸当は俺には無理だ。
嵯峨野麗司だったか、あいつの件の時は夢の世界に入ったが、
あれはあいつが『力』を使ったからできたことで、一人じゃどうしようもない」
「遠くから他人を操ったり……とかはできないのかしら?」
龍麻はいよいようさんくさげに葵を眺める。
水着一枚というのがいかにも頼りなくて、葵はタオルを羽織った。
「無理だな。そんなことができるんなら、今までの敵だって苦労せずに倒せたはずだろう」
「そ、そうよね。ごめんなさい、変なことを訊いて」
どうやら龍麻は葵の変調について本当に関わっていないようで、
内心ショックを受けながらも、葵は話を終えようとした。
「待て、俺に訊くような何かが起こっているなら教えろ。
はじめは些細なことだって、今の俺達にはどんなことが起こったって不思議じゃないんだからな」
「ううん、本当になんでもないの。……あの、少し身体が冷えたみたい。
お手洗いに行ってくるわ」
「おい、待てったら」
強引に話を打ち切り、葵はこの場を離れた。
龍麻が追ってくるのではないかとも思ったが、人混みに紛れてから振り向いても、彼の姿はなかった。
一安心した葵は、時間を潰すために本当に手洗いに向かう。
今の会話を思い返すと、動悸が収まらなかった。
葵の悩みの原因が、龍麻ではないというのは残念ながら事実のようだった。
彼は葵の相談の真意に気づかなかったようだし、仮に彼が関わっていたとしたら、
むしろ今日は絶好の機会として何か仕掛けてきてもよいくらいだ。
それはつまり、自慰を止められなくなってしまったのは、葵自身のせいだということになる。
それは年頃の少女にとって、とうてい認めたくないことだった。
まして断じて好きではない龍麻のことを考えると劣情が増すなど、
どれほど考えても受け入れられるはずがない。
いっそ何かに取り憑かれているほうがましだ、とさえ考えたのは、
葵の悩みの深刻さを示すものだったかもしれなかった。
葵が少し時間を置いてから戻ると、小蒔たちも戻ってきていた。
「あッ、葵。そろそろ帰ろうかって話してたんだけど、どうする?」
「そうね、もう充分遊んだわ。皆が良ければ、帰りましょう」
「えへへッ、ホントはもうちょっとだけ遊びたいんだけど、腹八分目って言うもんね」
「お前はいつも満腹を通り越して食ってるじゃねェか」
「たッ、食べてないよ、失礼なコト言うな京一ッ」
いつも通り賑やかな友人たちに、いっとき不安を忘れて葵も口元をほころばせる。
その口元が、にわかに引き締まった。
葵から楽しさを奪い去ったのは、別の感情ではなく、別の感覚だった。
「なに……この臭い」
葵の隣で小蒔がよりはっきり異臭に顔をしかめ、
龍麻たちだけでなく、他の客も騒ぎはじめている。
「うっ、こりゃ……生臭いを通り越して、腐ってるような……」
「プールから……してる?」
プールにはまだ人が大勢いるが、水から上がっている人々に遅れて異臭を感じたのか、
ざわめきが広がっていた。
賢明な一部の人間は、とにかく身の安全を確保しようとプールから上がり、
その場から離れようとしている。
異臭は一秒ごとに強烈さを増していくようで、
格好が悪くても鼻を押さえずにはいられないでいる龍麻たちの耳に、
今度は悲鳴が飛びこんできた。
「嫌ァ、化け物!」
「化け物!?」
ただならぬ叫び声に、龍麻達は顔を見合わせた。
声の方向は自分達がつい今しがたまでいたプールの方からしており、
化け物と言われても俄には信じられなかった。
「とにかく、行ってみようぜ」
鼻をつまみながらも、京一はプールに再び入場しようとする。
悲鳴が女性のものだったからではないだろうが、京一の行動は賞賛されるべきものだった。
しかし、それを制止する声がある。
「駄目だ、行ってはいけないッ!」
研ぎ澄ました針のように鋭い声に、思わず京一も立ち止まってしまった。
誰が水を差したのかと見渡す京一の前に、声の主が現れる。
「やァ。こんな所で会うなんて奇遇だね」
先の鋭さとは一転して穏やかな挨拶をしたのは、自分達と同じ歳頃に見える男だった。
プールという場所なのに、パーカーの下にはシャツを着て、水着も着ておらず、
さらには髪も濡れていない。
奇遇、と言った割には、何かが起こることを予期していたようないでたちだった。
「お前は……」
「フッ……」
「誰だっけ?」
思わず拍手したくなるくらい見事な京一のボケだった。
そしてツッコミの方はと言えば、これも見事にがっくりと足を滑らせている。
周到に打ち合わせていたのかと思うほど、呼吸の合った漫才だった。
「ふッ……ふふふッ……」
漫才は予定に入っていなかったのか、男はひきつった笑いを肩に浮かべている。
こいつは何をしに出て来たのか、そう思って改めて男を見た龍麻は、
その顔に見覚えがあることに気づいた。
「ええと、骨董屋の──」
「如月だ」
そう、彼は、以前広告費の打ち合わせに真神学園に来た時に会った、如月翡翠だった。
北区にある如月骨董品店の店主であり、小蒔が弓の修理を頼んでいる相手でもある。
その彼とこんな所で出会うのは確かに奇遇だったが、今はそれどころではなかった。
「そうだ、如月っつったっけ。でも悪いけどよ、今ちょっと取りこんでんだ。また今度な」
漫才を演らされた恨みでもないだろうが、如月は再び険しく京一を止める。
「待ちたまえ、水の中では、人間は到底奴らに及ばない。
今プールに入っても、君達も餌食になるだけだ。
……それに、どうせ今から行っても間に合わない」
最後の部分はごく小さな囁きで、大きくなる騒ぎの声にかき消されてはっきりとは聞き取れなかった。
「……え?」
「また何人か攫われた……どうやら、増上寺も奴らの手に落ちたようだ」
「また……って」
思わせぶりなことを言う如月に、龍麻達の疑問の視線が集中するが、
如月は龍麻達を通すまいと立ちはだかったまま、直接の答えにはなっていない事を言った。
「縁とは、不思議なものだ」
「……」
「この東京には、異形の氣を持った者達が集う。
奴らの目的は増上寺の地下に眠る『門』を開けることだ。君達も──」
言いさした如月は、一度口を閉じる。
「いや、君達は一刻も早くここを離れて、今起こったことは忘れてしまうことだ。
いずれ──全て解決する」
「なんだよ、いきなり出てきて勝手なこと言いやがって。
てめェが出てこなけりゃ助けられたかも知れねェだろうが」
かなり気分を害しているらしい京一が言葉を荒げても、如月は動じなかった。
静かに首を振り、細面ながらも強い力に満ちた眼光で龍麻達を見渡す。
そこには確かに修羅場を潜った者だけが持てる威があった。
「僕はそうは思わない」
「なんだとッ!」
「助けに行った所で犠牲者が増えるだけだ、とさっきも言った」
あまりに自信たっぷりに言う如月に、もはや時宜を失したとみた醍醐は、
肩の力を抜き、太い腕を組んだ
「……あんたは、どうしてそんなに落ちついていられるんだ?」
「うん。それに、化け物のコト、奴らって言ったよね。何か知ってるの?」
鋭い小蒔の指摘に、如月は一瞬緊張を和らげ、何かを言いかける形に口を開いた。
ただ、それもすぐに閉ざし、また事務的な口調に戻る。
龍麻の目には、如月が極力関わりを避けるようにしていると映った。
それが間違いでないことは、続く彼の言葉で解った。
「話してもいいが、君達は決して信じないだろう。
僕は──ただ義務を果たそうとしているだけだ。だからこの一件に他人を巻きこみたくない」
「へッ、こいつと同じコト言いやがる。義務だかなんだか知らねェけどよ、
てめェ一人で解決出来る問題なのかよ。無理して死んじまったらどうしようもねぇだろうが」
龍麻を顎で示した京一に、如月の視線が向かう。
「緋勇君……君も、そう思うのか?」
「俺は、お前の義務がどんなのかは判らねえ。
だが俺にも目的があって、それは多分、お前の義務と相容れないものじゃないはずだ。
実を言うと俺もあんまりこいつらを巻き込みたくはなかった――
けどよ、今じゃ助けてもらってる。
一人じゃ駄目でも、何人かならできることもあるだろ?
だから協力できるのならさせて欲しいし、してもらいたい」
龍麻の言葉に真実を感じたのか、如月は感銘を受けたように頷いた。
「誰かにそう言われるのは、ずいぶん久しぶりな気がするな。
ありがとう──しかし、この東京を護るのが僕達一族の定めであり、僕の選んだ道だ」
だが、如月はあくまでも頑なだった。
もっとも龍麻達の『力』のことを知らない彼からすれば、
単にお調子者の高校生が怪事件に首を突っ込もうとしているだけにしか見えないのだろう。
とにかく、甲高いサイレンの音が聞こえてきたことで、
襲われた人を助けることも、この場で話を続けることも諦めなければならなかった。
「警察が来たか。……僕はこれで失礼するよ。ここであったことは忘れるんだ。
それが、君達にとっても最善の方法だ」
「行っちゃった……」
足早に立ち去った如月をなんとなく見送っていた小蒔は、
仲間達が向きを変えて逃げ出す準備をしていることに気づかない。
「おい小蒔、俺達もぼーっとしてねぇで、さっさと着替えてズラかるぜ。
事情聴取でもされたらうっとうしいからな」
「えッ、あ、ちょっと!」
既に何歩かを進み、走り出す寸前の京一に言われ、小蒔は慌てて仲間の後を追うのだった。
龍麻たちは急いで着替え、プールを後にする。
プールにはまだ人が大勢いたことと、詳しい事情がわからない警察が、
とりあえず少人数を派遣したに留まったという幸運が重なって、
木刀を持った京一や、真夏なのに冬の学生服を着た醍醐も見咎められずに済んだようだった。
パトカーの音が聞こえなくなった辺りで、ようやく龍麻達は早足を止めた。
そこは計らずも、不気味な会話を交わした、水岐と出会った場所だった。
プールでせっかく流した汗も再び滲み出し、京一は不快そうに額を拭う。
「はぁッ、はぁッ……ッたく、せっかくプールで汗を流したってのに台無しだぜ」
「ねぇ……ボク達、港区じゃまだなんにもしてないのに逃げる必要あったの?」
「これからするかもしれねェだろ。
そうなった時に初めてと二回目じゃ警察の態度が全然違うんだよ」
「京一、ヘンなことに詳しいね」
「うるせェな」
褒めているとはとても思えない小蒔を軽く睨んだ京一は、
腕を組んでこの男らしくない、考える表情をした。
「……にしてもだ。プールに化け物、そして人が攫われる……
あの如月って奴も含めて、港区で何が起こってやがるんだ」
龍麻も指を顎に当て、考え深げに口を開いた。
「如月か……何が起こったのか、知っているような口ぶりだったな。
何か――『力』に関係した事件だったのか?」
龍麻達の周りで春から続けて起こっている事件は、いずれも『力』と関係したものだった。
今回の事件も断片的な情報しか得ていないものの、
それに関わろうとする如月が『力』を持っている、という可能性を疑うのは当然といえた。
「そうだな……ちっと調べてみるか」
「あぁ……だがどうやって」
言わずもがなの疑問を呈する醍醐に、京一は軽く口の端を吊り上げた。
軽く人を食ったような表情が、この男には良く似合う。
「一人いんだろ、こういうのにうってつけの奴が」
解るか、と目で問い掛けた京一に、龍麻は思い当たる人物の名を挙げた。
「アン子か……巻きこみたくはないが」
「そうも言ってらんねェだろ。情報集めに関しちゃ俺達じゃどうにもならねぇ。
それに、放っといても勝手に嗅ぎつけて首突っこんできた挙げ句、
『どうしてもっと早く教えなかったのよッ!!』って言われンのがオチだぜ」
「……」
確かに京一の言う通りだった。
思案した龍麻は、消極的ながらアン子に調査を頼むことにした。
「桜井、アン子に話しておいてもらえるか」
「うん。んじゃ、帰ったら電話しとくよ。
それにしても京一さ、なんだかんだ言ってアン子のこと評価してるんだね」
おかしそうに髪を揺らす小蒔に、京一は軽く肩をすくめた。
「けッ。結論は出たんだ、さっさと帰ろうぜ」
新宿に戻った龍麻たちは駅で解散し、それぞれに帰路についた。
葵は小蒔と途中まで一緒に歩き、家の近くまで来たところで別れる。
「それじゃあね、葵」
「ええ、またね、小蒔」
手を振りあって挨拶を済ませ、一人歩きだした。
騒ぎのせいで充分に髪を乾かす時間がなく、痛みが気になる。
家に帰ったらもう一度シャワーを浴びようと決め、
そこから連鎖的に勉強の予定や他にすることを考えながら、路地を一本入った。
「美里」
背後から呼びかけられて、葵は跳びあがるほど驚いた。
振り向いた先には数分前に別れたはずの、龍麻がいた。
「緋勇……君……」
小蒔を護ることにばかり気を取られ、自分自身をおろそかにしていたことを後悔せずにはいられなかった。
悪いことに昼間とあって人通りはなく、見渡せる範囲にいるのは自分たち二人だけだ。
葵は恐怖に小さく後ずさりする。
そのわずかな隙に、龍麻に手首を掴まれた。
「……っ……!」
彼女をつけ狙う佐久間猪三にもされたことのない、
警察を呼んでも差し支えないほどの非礼だった。
なのに葵は、声を上げるでもなく、誘引されるように彼の眼を見るだけだった。
手首が――悪意か、それとも不運な偶然か、掴まれているのは右の手首だった――熱い。
締めつけるような強さではなく、振り払おうと思えば払えるだろう。
けれども手首から生じた熱が、心臓へと逆流し、そこから全身へと行き渡っていく。
気温による暑さとは異なる熱が内から身体を灼き、葵を低く喘がせた。
この真夏の日中にあってもいささかも色を薄めることもなく、
葵を呑みこまんばかりの力で見つめる、黒い瞳。
プールで話したときには感じなかったので、油断してしまったのか。
至近距離で直視されて、葵は目を逸らすこともできなくなっていた。
恐怖に葵は唾を呑む。
学校で、電車内で、周りの目がありながらも破廉恥な行為に及んだ龍麻だ。
その気になれば、場所など関係なく襲ってくるだろう。
そして今、彼はその気になっていると葵は確信していた。
「何があったんだ」
「……え?」
「さっきの話だよ。何もなかったら『力』で人が操れるかなんて訊かないだろう」
「あ……」
龍麻が襲ってきたのではなく、葵が途中で打ち切った話を続けようとしているのだと知って、
葵は赤面した。
だが同時に、言える話ではなかったから逃げだしたのだから、追及されても困る。
なんとか切り抜けられないかと葵は思案した。
「う、ううん、本当に何もないの。ただ、今まで私達が戦ってきた人達にはそういう人達がいたから、『力』にはどんなことができるのかって気になって、それだけなの」
龍麻は黙したまま葵を見る。
その瞳は葵の発言の真贋を見極めようとするのではなく、
葵の内心そのものを呑みこもうとしているかのようで、葵は口を開けなくなった。
その間にも手首は彼の熱を伝え続け、この場を切り抜ける嘘を考えようとするのを妨げ、
自慰を覚えて止められなくなったという、
恥ずべき事実を暴露させようとするかのように頭の中で鳴動していた。
「俺は修行――一応、それなりに厳しい修行をして氣を使えるようになった。
だけど、旧校舎で急に氣を使えるようになったお前や京一達は、
もしかしたら上手く制御ができていないのかもしれねえ。
それが、体調の変化となって現れるってことは充分ありえる。
何があったのか教えてくれりゃ、もう少し判断できるんだが」
龍麻は手首を離し、葵の耳鳴りも治まる。
しかし、葵は無意識に左手で右の手首を掴んでいた。
「言いたくないなら仕方がねえ。だが、今以上に変わったことがもし起きたら、必ず教えろ」
「え、ええ……わかったわ」
龍麻は踵を返し、帰っていった。
彼が角を曲がるまで見送った葵は大きく息を吐く。
その呼気は熱く、今夜の予定が一つ加わるかもしれない、と漠然と予感するのだった。
アン子が血相を変えてC組の教室に飛びこんできたのは、
龍麻達がプールに行ってから数日後のことだった。
早朝の、まだ生徒も少なく澄んだ教室内の空気を、かき乱しつつ突入してくる。
「ちょっと聞いてよッ! 手がかりを掴んだのよッ!」
「手がかりって……なんだっけ?」
きょとんとした顔の小蒔に、アン子は首を絞めんばかりの勢いで詰め寄った。
「さーくーらーいーちゃんッ!! 頼んだのは桜井ちゃんでしょッ! 港区の事件の手がかりよッ!!」
「あ……何か判ったの?」
朝から元気の良いアン子に、ちょうど教室に入ってきた龍麻もただ事でないものを感じて近づいた。
すでに登校していた葵も合わせて、これで四人揃ったことになる。
「へへッ、皆来たわね。手がかり、聞きたい?」
「もったいぶらないで教えてよ」
するとアン子は、小蒔に向かって手を差し出した。
その掌には何も乗っていない。
「じゃ、ハイ」
「何、この手」
「決まってんでしょ、情報代よ。いくらトモダチでも無償では教えられないわ」
「情報代ーッ!?」
声をひっくり返らせる小蒔に、アン子は全く怯むことなく主張した。
「そ。全てはこの、今日発売の真神新聞に載ってるわ。どう? 一部たったの五百円!」
「ごひゃく……!」
小蒔の声が再び高まる。
五百円と言えば、トッピングも大盛りもできないが、ラーメン一杯なら食べられる値段だ。
情報よりは食べ物にお金をかけたい健全な高校生としては、少し高すぎだ。
「アン子さあ……ボク達からお金を取るつもりなの?」
「取材にだってお金かかるのよ」
「それにしたって……」
最初に情報をあげたのは自分達なのに、と釈然としない小蒔は口を尖らせる。
どうする、と仰ぎ見る小蒔に、龍麻はあっさり頷いた。
「わかった、買うよ」
「さッすが、緋勇君は話せるわね! はい、確かに受け取ったわ」
龍麻が硬貨を出すが早いか、アン子はそれをひったくり、代わりに新聞を手に乗せた。
その素早さは、人間から魂を差し出させる契約を取りつけた悪魔さながらだった。
「緋勇クン……ボクが言うのもなんだけど、止めたほうがいいよ。せめてもう少し値切った方が」
「いいさ。金額に見合った価値はあるんだろう?」
「それはもう、折り紙つきよ」
ひとつめの契約を済ませた悪魔は、嘆く小蒔に対して更なる商談を迫る。
「はいはい、ごちゃごちゃ言ってないで、桜井ちゃんも買ってくれるのよね?」
「い? いやァ、ボクは緋勇クンに見せてもらおうかな……って」
「なんですってェ」
人間の悪知恵にしてやられた下級悪魔の形相でアン子はいきり立つ。
それでも折れてなるものかと抵抗を試みる小蒔は、先ほどから一言も発しない親友が、
実に微妙な表情をしているのに気づいた。
「まさか、葵……買わされてないよね?」
はしゃぎすぎて怒られた子犬のような表情の葵と、悪戯が見つかった猫のような表情のアン子は、実に対照的だった。
「朝、まだ皆来ていない時にアン子ちゃんに会って……」
払う気がすっかり失せた小蒔は、大きなため息をついた。
「アン子さあ……あんまりアコギなことしてると友達なくすよ?」
「へへへ……(もう、美里ちゃん来るの早すぎよ)」
「何か言った」
じろりと睨む小蒔に大げさに手を振ったアン子は、
恐らくこれから学校中で営業活動を開始するつもりだったのだろう、大量に束ねられた新聞を投げだした。
「いいえ、言ってませんッ。あーあ、ほんッとにアンタ達が相手だと商売にならないわ」
「友達相手に商売する方がどうかしてんだよ!」
「あ、京一に醍醐君」
杏子の背後にはいつの間に登校したのか、京一が立っていた。
その後ろには醍醐もいる。
「そんでなんだよ、俺にも見せろよ」
「はいはい、もう勝手にして」
結局二人からしか情報料を巻き上げられなかったアン子は、投げやりに全員に配った。
そこには、『港区で多発する連続失踪事件』『水辺の怪異』『水中に潜む者の影』
とセンセーショナルな見出しが踊っている。
それは小蒔が電話で話した情報をもとに、アン子が記事にしたものだ。
龍麻達素早く記事に目を通していくと、その中に見覚えのない事件があった。
「……なんだ、この『青山霊園に怪物』って」
「説明するわ。皆に聞いた港区の事件を追ってみると、いくつか気になる話が出てきたの」
鞄から愛用の手帳を取り出したアン子は、指を舐めてめくるという古風な仕種をしながら目指すページを探す。
「まず──事件は大きく二つに分けられるわ。
ひとつはアンタ達が教えてくれた、プールでの失踪事件。
もう一回初めから話すとね、二週間くらい前から港区のプールで行方不明になる人が出始めたんだけど、
必ずと言っていいほど、失踪してから数日後、フラフラと彷徨っているのを発見されているのよ」
「発見……って、どこで?」
アン子は訊ねた小蒔の方を見もしないで続けた。
「それは後で話すわ。で、保護された人なんだけどね、失踪してからの記憶が全くないらしいの」
「ってことは……その時の手がかりとかも」
「ええ、誰一人、本当に何にも覚えていないらしいの。まるで、誰かに洗脳されたように」
元より、プールで人がいなくなるという異常な事件なので、
警察の捜査も難航しているのだという。
足取りを追う事もできず、見つけた行方不明者も記憶がないとくれば、それも当然の話だろう。
わずかな間をおいたアン子は、龍麻が持っている新聞を顎で示した。
小蒔達は結局、龍麻の持っている新聞に群がっている。
後で桜井ちゃん達が持っていった分は忘れずに回収して他の人に売りつけなきゃ
──とはおくびにも出さず、昨日徹夜で書いた記事を説明するアン子だった。
「今のが一つ目ね。で、二つ目は、そこに書いてあるように、
青山霊園で目撃されている化け物の噂」
「それって、今回の事件とどんな関係があるのさ」
今度はアン子は無視をせず、会心の表情を小蒔に向けた。
「へへへッ。さっき後回しにした、失踪した人がどこで発見されたか……」
「まさか」
「そう。失踪した人は、その全てが青山霊園の周辺に集中しているの」
「どういうこと……?」
意外、というよりも唐突すぎる接点に、事態を把握するのは困難だった。
困惑した顔をお互いに向ける龍麻達に、アン子は更に取材の成果を披露する。
「化け物の目撃時間が、失踪者が出始めた頃と一致するのも、この二つの事件の関連を裏づけているわ」
「プールの怪物と青山霊園の怪物は、同じかも知れないってことか」
「そうね、状況から言ってほぼ間違いないわね。青山霊園で目撃した人の話では、
体型は人間に近いけど、魚と蛙を足したような不気味な怪物だったそうよ。
頭部は魚そのもの。大きく飛び出した眼球に、くすんだ灰緑色の光る皮膚。
長い手には水掻き。それが、静まり返った夜の墓地を、ピョンピョン跳ねてるんだって」
何故かひどく具体的な描写をして、一行に想像する時間を与えたアン子は、
龍麻達の顔がしかめ面に変わるのを、顔の表には出さずに楽しんでいた。
何といっても記者の醍醐味は、真実を探求し、自分の記事で読者を虜にすることなのだ。
豊かな文章力を養うための鍛錬は、いつどんな時でも怠ってはならないのだ。
「この事件が何を意味するのかは判らないけど、
アンタ達の言ってた鬼道衆ってのが関わってる可能性もあるわね」
鬼道衆、という言葉に一同の顔色が変わる。
それは、望みもしない『力』を与えられた彼らに、明確にたちはだかってきた『敵』であった。
その真の目的は解らないが、いずれ必ず自分達の前に現れるだろう。
それは、龍麻にとって望むことでもあった。
「それはまだ何ともいえん──が、鬼道衆が裏で糸を引いているとすると厄介だな」
「まァ、鬼道衆とはいずれ決着をつけなきゃならねェがな」
醍醐に向かって拳を打ち合わせた京一は、同意を求めるように龍麻を見る。
それに対して龍麻は、ごく短く答えただけだった。
「──ああ」
わずか二語の言葉には、教室中を静まりかえらせる力があった。
あるいはそれは、たまたま会話が途切れただけなのかもしれない。
しかし、龍麻の声が届いた京一達は、背筋がぞくりとするのを感じていた。
この、四月から新たな友として加わった男は、
時折底の見えない亀裂のような、深い情を覗かせることがある。
それは彼らをたまらなく惹きつける反面、そこに潜む闇を感じ、怖れさせもするのだった。
京一は特にその一人であったが、この時はなだめるように軽く彼の二の腕を叩いた。
「お前の気持ちは判ってるつもりだ──けどよ、俺は正直言って楽しみでもある。
あんな奴ら相手なら、思う存分腕を振るえるからな」
率直過ぎる京一に対し、醍醐は幾分慎重に事件と関わる決心を告げた。
「……俺達は、目の前で見てしまったからな。放っておくと言うわけにもいかんだろう」
「そうだね。如月クンの忠告は無視することになっちゃうけど、ボク達の『力』で人が救えるんなら──」
「そうそう、その如月くんなんだけど」
小蒔の言葉に、アン子は思い出したように手帳をめくった。
短い日数で頼んだことのみならず、そんな情報にまで食指を伸ばしているアン子に、京一が呆れ混じりに呟いた。
「なんだアン子、そんなんも調べたのか?」
「まぁね。スポンサーなんだから、あたしにも無関係って訳じゃないし。
……でも、なんっか怪しいのよね」
「怪しい?」
「少し調べてみたんだけど、なんかこう……隠された何かがあるような感じなのよね。
今すぐにって訳にはいかないけど、もう少し追ってみるわ」
確かに、同年代にしては妙に大人びた──悪く言えば、老成している──
如月のことは、龍麻も興味があった。
本人を介さず知りたがる、というのはあまり良いことではないかもしれないが、
龍麻はこの件に関してはアン子の活躍を期待することにした。
「ま、そっちは危険もねぇから大丈夫だろ。んじゃ、俺達はもう一度港区に行ってみるとすっか」
京一がそう結論づけたところで朝の予鈴が鳴り、アン子は慌てて自分の教室に戻っていき、
龍麻達も席に戻った。
放課後、龍麻達は事件の真相を追って、早速港区に向かうことにした。
揃って校門への道を歩く道すがら、京一が空を見上げてぼやく。
「それにしてもよ、この東京、しかも東京タワーのすぐそばで化け物ねぇ」
龍麻たちはそれぞれの表情で頷いた。
自分たちも非常識の世界に半歩足を踏み入れてはいるが、
科学文明の象徴ともいえる東京タワーの近くで化け物が出没するといわれても、
容易には受け入れがたかった。
「ね、気になってたんだけどさ、化け物って、どうやってプールと青山霊園を行き来してんだろ」
「そういえばそうだな」
小蒔の疑問に醍醐が応じた。
「青山霊園と港区内のプールを繋いでいるもの……か。
水……それに、地上じゃすぐ人目につくだろうから、恐らく地下……下水道か?」
「確かに……そんな感じだね」
「下水道か……こりゃキツそうだな。美里達は止めてもいいぜ」
京一でさえもそこに漂う臭いを想像して顔をしかめたくらいだから、
葵や小蒔達はもっと嫌に違いない。
しかし、小蒔はきっぱりと首を横に振った。
「ボクは行くよ。ちょっと臭いが嫌そうだけど」
「ええ……私も行くわ」
小蒔が行く以上、葵も行かざるをえない。
それに、龍麻と交わした約束もある。
葵が持つ癒やしの『力』は、極めて重要だと考えられているのだ。
「そうか……なら懐中電灯がいるな」
「あ、懐中電灯なら多分アン子ちゃんが持ってると思うわ」
「んじゃちょっと取ってくるね、行こ、葵」
小蒔は律動感に溢れた回れ右をすると、葵の手を取って、小走りで校舎へと戻って行った。
「緋勇クンのことさ、どう思う?」
二人になったところで、いきなり小蒔が切り出した。
親友の真意を測りかねて、葵はわざと鈍い反応で返した。
「どう……って?」
「なんかさ、『力』が絡んだ事件になると、ちょっと真剣すぎて怖くない?」
「そう……ね」
危惧したこととは違うようで、うかつに答えなくてよかったと葵は思った。
「ボク達に無理強いはしないけどさ、放っておいたら一人でも突っ走っちゃいそうで」
その方が望ましい、とは葵は言わなかった。
小蒔の口ぶりからは龍麻が転校してきてから激変した毎日を楽しんでいるのが明らかだったからだ。
「でも、私は……あまり危ないことには関わりたくないわ」
「大丈夫だって。ボクが守ってあげるから」
「……ありがとう」
親友の好意に感謝しながらも、真実を伝えられなくてもどかしい葵だった。
気がつけば二人は校舎に入っている。
アン子のいる可能性の高い、B組と新聞部部室を先に回ってみることにした。
「アン子いるかな?」
「いなかったら、職員室で鍵を貰ってこないといけないわね」
「そうだね、その時は──うわッ!」
怖いものなどない小蒔も、突然薄暗い廊下から現れた人影に思わず飛びのいていた。
彼女達の進行方向に立っていたのは、それほど、
これまでとは全く雰囲気の異なる同級生だったのだ。
「佐久間……」
佐久間猪三。
一応、葵と小蒔のクラスメートということになる。
しかし、葵も小蒔も彼との間に友情めいたものなどは一切存在せず、警戒の対象でしかない。
彼の身体から醸し出される負の存在感は、足を止めさせるに充分なもので、
何かに憑かれたような表情が、小蒔に本能的な危険を告げていた。
「何か用? ボク達は急いでるんだけど」
小蒔はそれでも最低限度の礼儀だけは守ったのだが、
佐久間はもはやそれすらも守ろうとはしなかった。
ずっと目をつけていた女が、どこから来たのか素性も判らぬ男に尻を振ってついていく。
しかもその男は佐久間が唯一恃む暴力にも屈せず、醍醐と蓬莱寺という、
この上なくいまいましい奴らと群れるようになった。
何もかもが気に入らず、そして、彼女を奪うだけの実力も持ち合わせない佐久間は、
最も下劣で短絡的な手段に出ることにしたのだ。
「あッ……痛いっ」
「佐久間ッ! その手を離せッ!!」
大股で歩み寄った佐久間の手は、葵の手首を掴んでいた。
葵が顔をしかめるのも構わず、腕を強引に引き寄せる。
「美里……俺と一緒に来い」
「……」
「頼む……俺と来てくれ」
佐久間の瞳がぎらつく。
どれほど歪んだものであったとしても、そこには熱情が宿っていた。
そしてそれは、そのいびつさ故に、決して他人に受け入れられるものではなかった。
「ふざけるなッ! なんで葵が行かなきゃなんないのさッ!」
「うるせェッッ!! てめェには聞いてねぇッ。なァ美里、俺と一緒に来いよ、ほら──ッ!!」
痛みで屈服させようとするが如く、佐久間の手に力が加わる。
あまりの痛みに葵が悲鳴を上げようとした時、大きく、乾いた音が廊下に響き渡った。
この場にいる誰もが予想していなかった行動に、佐久間は思わず掴んでいた手を離す。
手首をさする葵を庇うように、紅蓮の『氣』をゆらめかせた小蒔が立ちはだかっていた。
「葵に……触るな……」
「てめェ……」
「葵の……ボク達の前から消えうせろッ!!」
「この野郎……イイ気になりやがって……」
女に、コケにされる──
女とは征服し、所有するものだという前近代的な思考しか持ち合わせない佐久間にとって、
頬を女に殴られるというのは、小蒔が考える以上の屈辱を佐久間に与えていた。
もちろん小蒔は佐久間がどれほど屈辱を味わおうが知ったことではない。
葵を困らせるヤツは、ボクが許さない──
今の彼女を衝き動かしているのは、その、ただ純粋な想いだけだった。
しかし、佐久間はこれまでに抱いていた龍麻や醍醐に対する負の感情の全てを、
目の前の自分を殴った女一人に集中させていた。
方法も手段も問わず、この女を嬲ってやらなければ気が済まない。
もともと乏しい自制心が小蒔によって枯らされた時、佐久間は極めて危険な存在と化していた。
そのどす黒い情念は、もはや葵を手に入れた所で浄化されるものではなく、
関わる者全てを破滅へと導くことでしか満たされないものだった。
右の拳を固く握り締めた佐久間は、小蒔に制裁を加えようと一歩を踏みだす。
小蒔もそれに退くことなく、いつ佐久間が襲いかかってきても良いよう構えた。
葵でさえ、もはや二人の争いは不可避のように思われたが、
廊下の向こうから聞こえてきた声が救いの主となった。
「桜井、まだか?」
「醍醐……」
体内の毒素を言語化して吐き出した佐久間は、
しかしこの場で小蒔と醍醐二人を相手取るのは不利だと判断したのか、足早に去っていった。
薄暗い廊下にあって、佐久間の姿はすぐに闇に紛れて見えなくなる。
「桜井……廊下でどうしたんだ? ん……今のは佐久間か?」
「う、ううん、なんでもないよ。ごめんね、遅くなっちゃって」
醍醐と佐久間が割れる寸前の風船のような関係なのは知っていたし、
佐久間が問題を起こせば今度こそレスリング部が廃部になってしまうことも知っていた小蒔は、
急いで笑顔を作った。
まだ残っている怒りが筋肉をひきつらせ、思うようには笑えなかったが、
強引に醍醐の背中を押す。
「……」
「あの……」
「ほら、行こ、葵」
葵はボクが護る。
騎士道めいた正義感をその小さな身体に宿した小蒔は、この件を龍麻達に話すことはせず、
自分一人で親友を護ると心に決めていた。
それが、どれほど危険なことかも知らないままに。
今しがた起こった気まずい出来事のせいもあり、
懐中電灯を探した小蒔達は急いで校門で待つ龍麻達のところへ戻った。
するとそこには、新たな人影がある。
「あれ……ミサちゃんじゃない。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。龍麻、お前が面倒見ろよ」
訊ねる小蒔に言うだけ言って、京一はさっさと歩きだしてしまった。
軽く肩をすくめた龍麻が事情を説明する。
と言っても、中々戻って来ない二人を呼びに醍醐が校舎に戻った直後、
入れ替わるようにやって来たミサが、どこへ行くとも言っていない龍麻達に自分もついていく、
と言いだし、それを龍麻が断らなかっただけのことなのだが。
とにかく、ミサが同行を申し出るからには、きっとそこには理由があるはずだった。
彼女好みな、理由が。
「ふ~ん……てことは、何かあると思うの? ミサちゃん」
「うふふふふ~、そは永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの~」
「……?」
「はい、これ~」
呪文めいたものを口ずさんだミサは、あっけに取られる小蒔の手に小さな石を握らせた。
それは、灰白色の石に、奇妙な星型──
オカルトに興味がある人間なら、五芒星形と言ったかも知れない──
の紋様が刻みつけられたものだった。
「ありがと……でも、何これ?」
全員に同じ物を渡したミサは、その質問ににたりと笑った。
それほど掘りの深い顔立ちでもないのに、夕陽を受けて陰影が引き立っている。
「絶対に~、落としたりなくしたりしたらダメだよ~」
「う、うん……」
異様な迫力に、訳もわからず頷くしかない一行だった。
ただ、落としたら大変──きっと、ミサにおしおきされてしまう──だと言うことは肝に銘じて、
なくさない場所に石をしまった龍麻達は、東京の地下へと向かうのだった。
懐中電灯のわずかな光が、薄暗く前方を照らす。
並んで二人がようやく通れる程度の通路を、龍麻達は連なって歩いていた。
「痛ッ」
「滑りやすいからな、気をつけろよ」
「先に言えよ」
龍麻と京一が少し間の抜けた会話をしているのは、ひとつには、
この陰気な下水道の中では何か話していないと気が滅入ってしまいそうであり、
ひとつには、黙っているとどうしても悪臭を意識させられてしまうからだった。
「しっかしこりゃ……たまんねぇな」
「うん……鼻が曲がりそうな臭いだね」
いつもは二言目には口喧嘩を始める京一と小蒔も、
この臭いという共通の敵の前には大人しくするしかないようだ。
男連中でさえ胃に何も入っていなくて良かった、と思うくらいの臭いだから、
しょっちゅう京一に胸がないだのタマがあるだの馬鹿にされていても、
当然女性である小蒔には、特に辛いだろう。
先頭を歩く龍麻が、水の方に顔を向けて言った。
「それだけじゃない。生臭くて……それに、微かに潮の香りもするな」
「潮!? だってここ下水──」
「しッ、静かに」
龍麻に制されて、小蒔は慌てて口を塞いだ。
反響した声が静まりかえると、水音が聞こえてきた。
大きな物体が跳ねる、べしゃべしゃと言う音。
足音を立てないように慎重に近づいた一同が見たものは、異形の怪物だった。
蛙にも似たぬめぬめした皮膚が全身を覆い、魚のように飛び出した目に、
深海魚を思わせる鋭い牙のついた口。
人間のように直立してはいるものの、手は長く、足は逆に短く、
そして太い首はほとんどなく、えらのようなものがそこについている。
あまりに不恰好なその姿が、かえって作り物などではないと知らしめていた。
その姿を見た小蒔が、おぞましさを堪え、喘ぐように囁く。
「あれ──」
「遠野が言っていたのは、あれの事か」
想像を絶する化物の姿は、アン子から情報を聞いていてもなお驚きを与えるものだった。
「あれが、深きものどもよ~」
それまで無言を保っていたミサがいきなり口を開き、一同は一斉に発言者を見た。
「知ってるのか、裏密」
「うふふふふ~、彼らは世界中に潜んでいて、彼らの仕える主を復活させようとしているの~」
ミサの説明はわかるようで良くわからず、龍麻は曖昧に頷くしかなかった。
いずれにしても、あの化物共がプールで人を攫う犯人なのは間違いない。
「おねェちゃんがいるな……どこに連れてくつもりだ」
「褒めていいんだか悪いんだか……」
目ざとく見つけた京一に、小蒔が呆れ混じりに呟いた。
「あそこの穴に入っていったな」
「よし、後を追おう」
龍麻達は息を殺して尾行を始めた。
とはいっても、深きものどもに気づかれないように後を追うのは簡単なことだった。
何しろその強烈な臭いは下水道にあってさえ途切れることはなく、
それを追っていけば良かったのだ。
耳もそれほど良くないのか、龍麻達に気づく気配もない。
ただし制服には臭いが染みついてしまうこと必至で、
特に葵と小蒔、ミサ達女性陣には大きな悩みの種となるだろう。
気が滅入る追跡行は、しかし、すぐに中断させられることとなった。
鼻を押さえながら先頭を歩く龍麻の前方に、人影が現れたのだ。
もしかしたら都の職員かも知れない──そう危惧した龍麻の予想は外れた。
一人立っていたのは、龍麻達の知っている人物だったのだ。
「フフフ……良く来たね」
「お前は……水岐」
驚きを隠せない龍麻に、水岐は初めて会った時と同じように、大仰に挨拶してみせた。
龍麻達の持つ懐中電灯が、スポットライトのように彼を照らしだす。
「かつて、この世界は薔薇に溢れ、香気に満ちた風が吹く世界だった。
おォ、それが今では草花は枯れ、灰褐色の墓標に包まれた刑場の如き惨状。
人間は、何と罪深き存在なのだろう」
相変わらず難解な言い回しを用いる水岐だったが、昼間とは訳が違った。
あの深きものどもが去った後に、水岐がいる──
それは、水岐がこの下水道のことを知悉していて彼らをやり過ごしたのか、
あるいは、その必要もない、つまり、水岐が彼らの仲間であるかのどちらかだった。
そして水岐の眼には龍麻達への友好を感じさせるものはなく、ほの暗い情熱に彩られている。
それを敏感に感じ取った京一が、木刀を突きつけて詰問した。
「てめぇ……なんでこんな所にいやがる?」
「決まっているだろう、シテールに住まう罪人に贖罪を与える為に、
そして、我が神にその哀れなる魂を捧げる為にさ」
「神……だと?」
「フフフ、この街の地下に何が眠っているか、知っているかい?」
いきなり話題を変えるのが水岐の得意技であるようだった。
面食らって黙りこくる龍麻達に、水岐は得意げに説明する。
「異界だよ。深く暗い海の底へ続く……ね。そして海の底には、偉大なる僕達の神が眠っている。
僕はその神を召還する為に神の啓示を受けた。
人間を本来のあるべき姿に変える『力』を手に入れたのさ」
「あるべき姿……って、まさか」
小蒔の声は嫌悪と恐怖に滲んでいた。
人間と魚と、双方に対する冒涜の極みのようなあの化け物があるべき姿などと、
冗談でも言って良いものではなかった。
しかしもちろん、水岐は冗談など口にしたのではない。
「君達も見ただろう? あれは、人間がその罪ゆえに与えられた真の姿だよ」
「それじゃ、行方不明の人達はみんな──」
「そう……だが、それは仕方のない事さ」
平然とうそぶく水岐に、龍麻達の怒りが募る。
それは葵でさえもがそうだったらしく、水岐に向けられた声にははっきりと非難がこもっていた。
「酷い……皆が何をしたって言うの」
「何をしたか……だって? 愚かな……人は自らの欲望の為にこの世界を破壊してきた。
獣を殺し、草花を絶やし、世界を暗き闇に閉ざしてしまった。
破廉恥なる地獄の寵児の如く、我が物顔で。
人間は滅びるべきなのさ。その償い難き行いのためにね」
「確かに人の犯した罪は重いかも知れないけど、でも──」
「フフフ、もう遅いよ。増上寺の封印が解けた今、後少しで異界への門が開く。
そうすれば、この世界には神の裁きが下る」
どこまでも芝居がかった動作で、水岐は指を打ち鳴らす。
応じて彼の背後から現れたのは、やはり深きものどもの群れだった。
弓を取り出した小蒔が、構えかけて水岐の言ったことを思いだす。
「あれも……元は人間だったの?」
「残念だけど~、一度ああなってしまったら~、もう元には戻らないわ~」
「そんな……」
いつもと変わらぬ口調で告げるミサに、小蒔は絶句したが、
前衛の龍麻と京一が戦闘準備を整えるのを見て覚悟を決めた。
斃さなければ、新たな犠牲者が増える。
それでも、人間に戻る可能性があると聞かされていたら、どうしてもためらってしまっただろう。
葵は、ボクが護る――
誓いを思いだした小蒔は矢を番えると、向かってくる一匹に向かって放った。
五匹いた深きものどもの、最後の一匹が斃れる。
苦戦を予想していた龍麻の勘は外れ、戦いは簡単に終わった。
深きものどもは見た目通り、陸上ではあまり機敏には動けないようだったが、それ以上に奇妙に鈍かったのだ。
まるで龍麻達に触れることをためらってでもいるかのようで、
どうしようもない悪臭にさえ耐えられれば、ものの数分とかからずに退けることができた。
その原因は、ミサが龍麻達に渡した小さな五芒星が刻まれた石にあった。
落書きのような星が描かれた石は、超自然的な力で龍麻達を闇の眷属から護っていたのだ。
底知れぬミサの知識だったが、彼女はそれを誇るでもなく、
ただ怪しげな微笑を浮かべて龍麻が倒した深きものを観察しているだけだった。
「この化け物が……」
辺りに半魚人の骸が散乱しているが、その中に水岐のものはない。
形勢不利と見て取り、いちはやく行方をくらませたようだった。
「水岐の野郎……逃げやがったか」
悪臭に顔をしかめながら、京一が毒づく。
元から生臭い臭いを漂わせていた半魚人は、生命活動を止めたことで腐臭をも放ちはじめていたのだ。
一秒でも早くこの場から離れたいところだったが、逃げ出した水岐を放っておくわけにもいかなかった。
その水岐の声が、下水道内にこだまする。
「フフフ……君達の『力』、面白い。それに、五芒星形の印を持っているとはね」
「水岐、どこにいやがるッ!」
「まもなくこの世界は変わる……深き海の底から甦る破壊の神と、
僕が手に入れたこの『力』によってね。それに僕の下僕はそいつらだけじゃない。
鬼達も、僕に力を貸すと言っている」
「鬼……だと」
京一達の気づかないところで、龍麻の形相が変わる。
鬼──鬼道衆。
比良坂紗夜の兄を利用して自分達を襲わせ、
そして彼女の死に深く関わっている敵の名を、龍麻は忘れるはずがなかった。
鬼道衆を倒し、必ず彼女の讐を取る。
仲間達にも言っていない、自分一人の誓いだった。
ひとりでに膨れ上がろうとする氣を懸命に抑える龍麻の耳に、どこか酔っているような水岐の声が響く。
「まもなくある場所の地下に眠る『門』が開く。破壊の神が目覚める刻も近い。
そうすれば、僕は新しい世界の王になれるのさ」
「詩人が王とはな。随分俗物的じゃねえか」
「……フフフ、待っているよ。君達が僕の元に辿り着くのをね」
龍麻の痛烈な皮肉が堪えたのか、わずかに声を乱して、水岐は消え去った。
その残響が完全に静まり、気配が完全になくなったのを確かめてから、
龍麻は仲間の方を振り向いた。
「逃げたか……」
「よし、追うぞッ」
「追うぞったって……どうやって?」
小蒔の疑問はもっともで、東京の地下に網の目状に張り巡らされている下水道をあてずっぽうに探しても、水岐や深きものどもを見つけられるはずもない。
するとミサが、懐から何かを取り出しながら言った。
「ミサちゃんに、おまかせ~」
「おまかせ……ってよ」
何を言い出すのか、と言いたげな京一を無視して、ミサは取りだしたものを下水に投げ入れる。
固唾を飲んで見守る一行が見たのは、やがて浮かび上がってきた何かだった。
何か、と言っても、それは不自然に浮かび上がったことを除けばどう見てもゴミにしか見えない。
しかしミサは真剣な表情でゴミに向かって手をかざし、ひとつ頷いて龍麻に告げた。
「青山霊園?」
「うん~、水占いではそう出てるわ~、信じるかどうかは緋勇くんの自由だけど~」
全く意味不明な水占いとやらであったが、既に龍麻はミサの知識に一目置いていたし、
青山霊園というのはアン子のもたらした情報とも一致していた。
だから、龍麻の返事は多少ひねくれていても素早かった。
「自信はあるんだろう?」
「うふふふふ~、緋勇くんったら~、うふふふふ~」
ミサと会話を成立させている龍麻を見た京一が首を振ったのは、
充満する悪臭のせいだけではなかったかもしれない。
「よし、とにかく一旦上に戻ろうぜ」
龍麻達が地上に戻ると、辺りはもう薄暗く、お互いの顔もかろうじて見える程度だった。
遅くなればなるだけ龍麻達にとって不利になるのだから、すぐにも青山霊園に行きたいところであったが、
これから更に行動するとなると、気がかりがひとつある。
ひとつ咳払いした醍醐は、重い口調で三人の女性に告げた。
「美里に桜井、それに裏密も、ちょっといいか」
「なに?」
「もう、日も暮れるな」
「そうだね。でも、暗くなってもちょっと蒸すよね」
「暗くなれば、いろいろと女には物騒になる」
「うんうん。最近は特にいろいろあったからねぇ」
「……」
先手を取って軽やかに受け流す小蒔に、元々話術が巧みとは言えない醍醐はすぐに言葉を詰まらせてしまう。
すると小蒔は、その隙を逃さず反撃に転じた。
「醍醐クン。まさか、ボク達に帰れとは言わないよねぇ?」
「……」
小蒔は冗談めかしているが、本気なのは明らかだ。
下水道にさえ同行した彼女達なのだ、夜になったくらいで帰るとも思えなかった。
ただ、明らかにこの先は危険の度合いが違う──そう考えた醍醐は一応の説得を試みたのだが、
案の定、小蒔は帰るつもりなど全くないようだった。
困った醍醐は龍麻に目配せして助けを求める。
三人の顔を順に見た龍麻は、そのうち二人の意志が硬いことを確かめると、あっさり言った。
「わかった、行こう……皆で」
裏切られた醍醐も小さく首を振っただけで異議を唱えなかったのは、
おそらく彼にも返事は解っていたのだろう。
しかし大きな身体の割に心配性なこの男は、当の本人でさえ失念していた細かい問題を指摘した。
「ところで、三人とも家の方はどうするんだ?」
「あ、そっか……うーん……そうだ、葵はボクの家に泊まることにしときなよ。
ボクはアン子の家に泊まるってことにしとくから。
事件に関わることだし、アン子も協力してくれると思うんだ」
「そうね、小蒔の家には前にも泊まったことがあるし、大丈夫だと思うわ。
……それじゃ、ちょっと電話してくるわね。……うまく、嘘……つけるかしら」
「ボクも電話に出てあげるから大丈夫だよ」
公衆電話を探しに行った二人の姿は、すぐに夕闇に紛れて見えなくなる。
その方向を見ていた醍醐が、言うともなしに呟いた。
「……少し、罪悪感を覚えるな」
「親に嘘をついてまでってコトか? ま、いいんじゃねぇの。
性質の悪い嘘じゃねぇし、あいつらが行きてぇってんだからよ。な、緋勇」
「ああ」
京一の台詞は突き放しているようでもあり、本人達の意思を尊重しているようでもあった。
頷いた龍麻は、この場に一人残っている女性に声をかける。
「……裏密は? 電話しなくて大丈夫なのか?」
「うふふふふ~、もう連絡は済んでるから大丈夫~」
「そ、そうか」
愛想笑いで答えた龍麻に、京一が囁きかける。
(おい、いつのまに連絡したんだよ)
(それよかどうやって連絡したんだ)
「な~に~?」
「いッ、いや、なんでもない。連絡したならいいんだ」
他意はない、と両手と首を龍麻は忙しく振る。
すると、彼を背後から呼ぶ声があった。
「なんだあンたら、こんなとこで何してんだ?」
「雨紋!」
龍麻に近づいてきたのは、薄闇にもその金髪が目立つ、雨紋雷人だった。
以前龍麻達が渋谷の街に起きた異変の解決に関わった時に知り合い、
共に闘った渋谷区神代高校の二年生だ。
渋谷の件が解決して以来連絡は取っていなかったが、
龍麻だけは彼に招待されて二度ほどライブを観に行ったことがあった。
チケットを貰ったから行く、程度の認識で出かけた龍麻は、
そこで初めて彼の所属する「CROW」というバンドが中々人気があることや、
ライブハウスの熱気とその後に訪れた強烈な耳鳴りなど、多くのことを知ったのだった。
「お前こそなんでこんな所にいるんだよ」
「オレ様は帰るところだ」
何が入っているのか見当もつかない薄っぺらい学生鞄を見せた雨紋は、
龍麻達を見渡してうさんくさそうな顔をした。
「あンたらがツルんでるってことは……事件か?」
「ああ、まぁな」
あいまいに口を濁した龍麻に、かえって雨紋は興味を持ったようだった。
「……プールで人が消えるってヤツか?」
雨紋の洞察力に、龍麻は目を瞠った。
「なんでわかった?」
「なァに、最近起こったあンたらが首を突っ込みそうな事件なんて、それくらいだろ?」
笑った雨紋は、さらに龍麻を驚かせるようなことを言った。
「よし、あンたらには借りもあるしな、オレ様もつき合ってやるぜ」
「お、おい」
予想外の展開に、龍麻は狼狽する。
するとその肩に、京一が腕を乗せてきた。
「へへッ、もう諦めろよ。俺達ゃ好きこのんで首突っ込んでんだ。
こんなオイシイこと、お前一人に任せておけるかってんだ」
「そういうこった。ま、オレ様に任せておけば何だってこの槍で貫いてやるぜッ」
威勢の良い雨紋に呆れながらも、彼の同行を認める龍麻だった。
そこに、裏工作を済ませた小蒔達が戻ってきた。
「お待たせ、バッチリアリバイ作ってきた……あれ? 雨紋クンじゃない?」
「なんだ、アンタらもいたのか。こりゃますます厄介事みてぇだな」
呆れたように言いながらも、その厄介事を期待しているのがありありと窺える雨紋の口調だった。
「よし、それじゃ青山霊園に行くとしようか」
「青山霊園? ンな辛気臭いとこに何があンだ?」
「歩きながら説明するよ」
総勢七人になった一行は、ミサが水占いで視、
そしてアン子の情報にもあった青山霊園へと歩きだした。
その道すがら、龍麻は雨紋に事情を話す。
自身が異能の『力』を宿している雨紋も、半人半魚の化け物が人を攫う、
という話を聞いた時は、うさんくさそうな目で龍麻を見たものだった。
「なるほどな……でもよ、半魚人の化け物なんて、なんかの見間違いじゃねェのか?」
「俺達もさっき見るまでは信じてなかったよ」
「……ま、あンたらなら半魚人でも宇宙人でも連れてきそうだけどな」
案外あっさりと事情を諒解した雨紋に、龍麻は苦笑いするしかなかった。
大小様々の墓が立ち並び、昼間でも東京とは思えない不気味な雰囲気を漂わせる青山霊園は、
夜ともなるとその不気味さを一層増し、生者の闊歩を拒むようであった。
うっそうと茂る木にビルは隠され、鴉の鳴き声が寂しさを際立たせる。
あまり目立たないように霊園の中央を走る車道は避け、一本中の道を歩いている龍麻達は、
なおさらそんな気分になっていた。
「うわ~、やっぱり夜の墓場って不気味だね」
小蒔の声は言うほど気味悪がってはいないが、
集団の中央をキープしている醍醐は、何やら挙動が怪しい。
「きッ、気のせいか、さっきより少し寒くなってないか……?」
「そりゃ気のせいだろ」
無情に突き放す京一にも、醍醐は気分を悪くするどころではなく、
些細な物音にも過剰に反応するありさまだった。
一行の中で最も大柄な男がびくびくとするものだから、
始めは面白がっていた小蒔なども、次第にうっとうしさが募ってきたらしく、
すたすたと先に行ってしまっている。
その小蒔が、龍麻から数歩離れたところでいきなり立ち止まった。
重く、鈍いものが動く音を、はっきりと彼女の耳は捉えたのだ。
「今、聞こえた?」
「ああ……近いな」
木刀を軽く握り直した京一が、小蒔の横に並んだ。
油断なく辺りを見渡し、音の源を探す。
やがて求めるものを見つけだし、龍麻に顎で指し示した。
「見ろ、あの墓……動いてるぞ」
「なッ、なにッ!」
「醍醐クン、声大きいよ」
「す、すまん」
慌てて口をつぐんだ醍醐が見たものは、
つい数時間前に下水道の中で戦った深きものどもだった。
三体の異形の化け物は、龍麻達に気づくこともなく墓の中へと入っていく。
そしてまた聞こえる重く鈍い音は、墓石が動いているのだろう。
龍麻達はしばらく待ち、他にかの忌まわしい眷属が現れないことを確かめてから墓石に近づいた。
「さっきの化物がここにいるってことは、間違いなさそうだな」
龍麻と京一と醍醐は力を合わせて墓石を押す。
死者の霊が眠っているのなら土下座して謝らねばならない行為であったが、
遺骨が埋まっているはずの場所にあったのは、暗闇へと伸びる階段だった。
懐中電灯をかざしてみても、光は階段しか照らさない。
かなり深く、長い通路であると思われた。
「なるほどな……ここから地下に繋がっているってワケか」
「よし……行ってみよう」
ここまで来てためらう理由はない。
階段は狭く、二人並んでは歩けそうになかったので、
まず京一、醍醐が入り、女性三人、雨紋、龍麻の順で入ることにする。
頷きあい、いざ京一が一歩を踏み入れようとすると、それを留める声があった。
「君達」
「お前……如月」
姿はおぼろにしか見えないが、聞き覚えがあるその声は、如月翡翠のものだった。
プールの時と同じ、神出鬼没と言うしかない登場で、
既に懐中電灯の光がなければ辺りは闇としか認識できない。
しかし、殿を務め、敵だけでなく一般人にも見つからないよう警戒していた龍麻でさえ、
彼の気配が全く判らなかったのだ。
どんな武術を修めているかは判らないが、只ならぬ技量の持ち主といえた。
「君達は、僕の忠告を無視するつもりなのか」
数日ぶりに会った如月の声に、久闊を叙する響きはない。
自分の警告を無視されたとあってはそれも当然といえるだろうが、
龍麻もここで引き下がる訳にはいかなかった。
「なあ如月」
しかし、如月は龍麻の台詞を先回りして封じてしまう。
「悪いが僕は君達と手を組むつもりはない」
ぴしゃりと言いきる如月に、またも邪魔をされた格好になった京一がうんざりしたように言った。
「まだンなこと言ってんのかよ。じゃ、お前はなんでこんなトコにいるんだ」
「君達に話す必要はない。僕は今から地下に降りる。それだけだ」
「地下? それじゃ俺達と同じじゃねぇか」
同じ、という京一の台詞に、殊更如月は反応を示したようだった。
闇の中で、わずかに嘆息したのが龍麻には感じられる。
「……何度も言うが、君達はこの件から手を引くべきだ。
君達の未熟な『力』では、あまりに危険過ぎる」
「……俺達のことを知っているのか」
確かに龍麻がこれまで闘ってきた相手は異能の『力』を持っているとはいえ、皆人間だった。
だからといって頭ごなしに未熟と言われては面白いわけもないのだが、龍麻は辛抱強く答えた。
そんな龍麻に如月はやや語調を和らげ、なだめるように話す。
「……これは、僕が決着をつけねばならない事件だ。
僕の中に流れる、飛水の血が命じるんだよ。
主の眠りを、この地の清流を汚す者を倒せ……とね」
「飛水……? 如月、お前」
「飛水家は、別名飛水家とも言って、江戸時代、
徳川幕府の隠密として江戸を護ってきた忍びの家系だ」
「忍びぃ!? そりゃまた、随分と時代錯誤な……」
思わず大声をあげた京一はその代償として思い切り小蒔に肘で突かれたが、
龍麻も内心では同じ感想を抱いていた。
自分達の『力』も、東京の地下を闊歩する半人半魚の化け物もおよそ常識とはかけ離れているが、
忍者というのもそれと同じくらいには非常識なはずだ。
しかし如月は、いたって真面目に続ける。
「僕は飛水の末裔として、徳川家の眠りとこの東京を、護る義務がある。
この事件の首謀者は、明らかに徳川の眠りを犯そうとしている。
これを解決するのは僕の使命であり、他の人間を巻きこむ訳にはいかない」
徳川、という、これもまた教科書でしか名を知らない名前を、如月は当然のように出す。
少なくとも今の時代に仕える対象としての徳川家はないはずであるが、
如月の血筋は、主筋がなくなっても江戸を護ると言う命を忠実に護っているようだった。
いかに古臭いしきたりであろうと、それは他人が口を出す筋合いのものではない。
しかし、彼にも使命があるように、龍麻達にもまた引き返せない理由がある。
「聞いてくれ、如月。俺達だって遊びでこんなことをしている訳じゃない。
まだはっきりと正体を掴めてはいないが、鬼道衆という奴らが、
この東京で何かをしようと企んでいる」
「鬼道衆?」
初めて如月は興味を示したようだった。
「ああ。そして今回の事件も、その鬼道衆が関係している可能性が高い」
「僕達の敵は、共通しているかもしれないということか」
顎を指でつまむという、やや古めかしい仕種で考え込んだ如月は、
ついに、決して進んでではなかったものの、龍麻達と同行することを承諾した。
「やむを得ない……か。これ以上無駄な犠牲者を出す訳にはいかない。……共に行くとしよう」
「よろしく、如月」
「言っておくが、僕は君達と親しくするつもりはない。
この件も、あくまでも僕と君達の進む道がたまたま同じとなっただけだ」
「……」
他者をなるべく巻きこみたくないという考えは共通しても、
これほどの隔意を示されれば、さすがに鼻白む。
「ま、そろそろ行こうぜ。誰かに見つかりでもしたら面倒くせェことになるからな」
「そうだな、行こう」
京一にとりなされ、諸々の感情をその一言に圧縮した龍麻は、
改めて地下への探索行を開始することにした。
入り口こそ狭かった通路も、階段を降りて少し歩くとすぐに高い天井の洞窟へと変わっていた。
道はそれほど歩きにくくはなく、人の手が入っているようだった。
始めは立てないように気をつけていた足音も、
これだけ反響してしまってはどうしようもなく、すぐに諦めて普通に歩いている。
時折その足音に被さるように水滴が落ちる音が響き、
下水道の中とはまた異なる不気味さを醸しだしていた。
「鍾乳洞みたいね」
「うん……なんか、ひんやりする」
葵と小蒔の会話を皮切りに、京一達も口を開く。
特に、学校の帰りからいきなり異世界に連れて来られた雨紋は、驚嘆することしきりだった。
「こりゃ凄ェな。東京の地下にこんな場所があるなんてよ」
「あぁ……全くだ。この先に、水岐がいるんだろうな」
「間違いないだろう。奴は『門』が開くと言っていた。
そこで神だか悪魔だかを復活させようってことだろうな」
ここでそれまで無言だったミサがいきなり口を挟んだ。
いかにもこの場所に似つかわしい口調に、皆一斉に黙って彼女に耳を傾ける。
「多分~、復活させようとしているのはダゴンだと思うの~」
「ダゴン……?」
「うん~、あの深きものどもが仕えているのはクトゥルフっていう邪神なんだけど~、
その配下にダゴンっていうのがいて~、深きものどもはそれを復活させようと活動しているの~」
ミサがこの手の話に関して嘘は吐かないことは周知の事実だった。
それでも、ダゴンだのクトゥルフだの、
そんなに邪神とやらが数多くいるというのは、簡単に信じられるものではない。
「けど、そんな物騒なのがこんな東京のど真ん中にいんのかよ」
「うふふふふ~、邪神達が活動していたのは人類誕生以前と言われているわ~。
だから、都市の中に邪神がいるんじゃなくて~」
「邪神の居た場所に人間が街を作っちまったってことか」
「ご名答~」
褒められても嬉しくない京一だった。
更にミサの話によると、クトゥルフの配下であるダゴンは、
神として崇められているだけのことはあり、その力はクトゥルフに較べるべくもないが、
それでも人間が容易に対抗できるものではないという。
つまり、何としても復活の前にそれを止めなければならないという訳だった。
そんな話を聞けば、武者震いと共に否応無しに士気も上がるが、
何しろもう三十分ほども歩いているというのに、目的地はまだ見えない。
目的地が見えなければ敵も見えず、せっかく高まった士気も空回りしてしまうというものだった。
「随分長いな」
「……地の底まで続いていそうね」
ミサの話から五分ほどで、早くも飽きてきた京一がぼやく。
それに律儀に答えた葵の声が、いきなり悲鳴に変わった。
「きゃっ」
「おっと」
足を滑らせた葵が、倒れそうになる。
最も早く反応したのは龍麻で、葵の腰を抱きとめ、力強く引き寄せた。
「大丈夫か?」
「え、ええ……ありがとう。足元が濡れていて」
よりにもよって龍麻に救われた葵は、可能な限り素早く姿勢を直した。
龍麻もこの状況ではそれ以上身体を触ってこようとはせず、彼の腕はおとなしく離れた。
「大丈夫、葵? 足くじいたりしてない?」
「ええ、緋勇君が助けてくれたから」
葵としては事実を告げたにすぎないが、小蒔は意味ありげに小声で囁いた。
「ちょっとドキドキしちゃった?」
「そ、そんなことないわ。それより小蒔も気をつけてね、滑りやすいから」
勘の鋭い親友に、葵は動揺を隠すのに苦労した。
龍麻に強く引っ張られた時、葵は確かに単なる驚きや嫌悪とは異なるものを感じたのだ。
ごく短い時間のことだったので、自覚できるほど明瞭な形にはならなかったのだが、
小蒔に指摘されると、つい思いだしてしまう。
龍麻のことをそれ以上考えたくなくて、興味深げな小蒔の視線にあえて気づかないふりをして、葵は努めて前を見た。
洞窟は次第に広さを増し、緩やかに下っている。
加えて先ほど葵が足を滑らせたように、地面が濡れているのでそちらにも気を配らねばならず、
一同は歩くことに集中せざるを得なくなっていた。
龍麻もそれは同じだったが、ただ一人、全く危なげなく歩いていた如月が、巧みに歩調を合わせて囁いてきた。
「……彼は?」
「ああ、雨紋って言って、前に渋谷で鴉が人を襲う事件があったろ?
その時に知り合ったんだ。……あいつも、『力』を使える」
「そうか……」
如月は頷いたものの、あまり歓迎してはいないようだった。
徳川に仕える隠密と言う彼の出自からすれば、それも当然だろう。
だがあの半人半魚の深きものどもに対するには一人でも仲間が多い方が良く、
まして雨紋の槍術と『力』は龍麻達の大いなる助けとなるはずだった。
再び黙した如月が、突然立ち止まった。
何か、と龍麻が尋ねる前に、険しい顔で頭上を見上げる。
「おい、なんか音がしねぇか?」
「ひッ、緋勇クン、上ッ!!」
先頭を歩いていた京一が振り向くのと、小蒔が叫ぶのはほとんど同時だった。
天井から、人間の頭ほどもある岩が、龍麻と如月の位置めがけて落ちてきていた。
岩を砕こうと構える龍麻の横を、冷たい空気が走りぬける。
次いで起こる、大きな水音と岩が砕ける音。
水飛沫を浴びただけで済んだ龍麻は皆の無事を確かめると、一人平然としている、危険を救った男を探し当てた。
「如月が……やったのか?」
「あァ」
「そうか……助かった」
簡潔に頷くのみの如月に、龍麻は戸惑いながらも礼を言った。
京一達もどうやって窮地を脱したのか、興味津々の態で如月を見るが、
如月は視線を避けるように軽く目を閉じ、これでこの話題は終わりとばかりにそっけなく告げた。
「君が無事ならそれでいいさ」
本人が言わなければどうしようもないので、
龍麻達はさっさと歩き始める如月に渋々ながらも続こうとする。
すると、一人の男が飛び出し、彼の前に立ちはだかった。
「おッ、おい……如月さん、あンた何者だ?」
いつもどこか人を食ったような態度の雨紋が、目を丸くしていた。
真剣な表情でこの日初対面の如月をじっと見つめ、訊ねる。
龍麻達は軽くかわした如月もその勢いに気圧されたのか、説明を始めていた。
「大した事じゃないさ。ほんの少し、水の力を借りたんだ」
「水の……力?」
「飛水流は水に纏わる術を最も得意とする。
四神のひとつで、水を司る玄武を守護神として崇めているのさ。
そして『飛水』の姓を受け継ぐ者には、元来その血筋として、
水を自在に操る能力が備わっていたという」
「いたという……って、簡単に言うけどよ」
事もなげに言う如月に、京一が呆れて呟く。
しかし雨紋の耳には入っていないようで、
いたく感動したように如月の手を強引に取り、両手で握りしめた。
「如月さんッ! オレ様の名前は雨紋雷人ッてンだ、よろしくな」
「あ、ああ、よろしく」
見た目には麗しい先輩と後輩の友情成立だった。
その傍らで、すっかり蚊帳の外にされてしまった他の先輩がぼやく。
「如月クン、なんだか随分尊敬されてるね」
「ああ……俺達も一応先輩なんだけどな」
小蒔と京一の会話を耳にしながら龍麻は、雨紋が如月の隔意を取り除いてくれたことを喜びながらも、
どこか釈然としないものを感じるのだった。
落石から更に三十分ほど歩いた頃、ようやく景色に変化が訪れた。
「向こうに明かりが見えるぜ」
地下に灯りがあるはずもなく、京一が示した先が深きものどもの巣窟なのは間違いなかった。
懐中電灯を消した龍麻達は、そっと光の源に近づいていった。
「ここが……その『門』とかがある場所なのかな、葵」
核心に近づきつつある興奮からか、声を上摺らせて小蒔が囁く。
しかし、葵から返ってきたのは、苦しそうな呻きだった。
「……身体が……熱い……」
「葵ッ!」
「何かが、流れこんでくる……苦しみ……悲しみ……憎悪……」
「どうした」
異変に気づいた龍麻が、狭い通路を無理やり彼女に近づく。
膝をついてしまった葵の肩に触れた龍麻の掌に、膨大な『氣』が伝わってきた。
そのほとんどは禍々しいものであり、眩暈を起こしそうな陰氣であったが、
それらはすぐに清涼なものへと変わっていく。
葵の『力』が、不浄の氣を清めているのだった。
ただしそれにも容量があり、あまりに膨大な量が一度に集まったために、
浄化される前の氣が彼女の精神に悪影響を及ぼしたのだ。
「もう……大丈夫」
「無理だと思ったら、すぐに退がれ」
「ええ」
龍麻の肩を借りて、葵は立ちあがる。
半強制的に連れてこられたにせよ、仲間に迷惑をかけたくないという思いもあった。
「どうなっているんだ、ここは」
「おい、醍醐、あれを見ろッ」
広間の様子を覗っていた京一が、醍醐の肩を掴んだ。
葵を龍麻に任せ、京一の隣に立った醍醐が見たものは、圧倒的な数の深きものどもと、
彼らを率いるように岩の上に立つ水岐の姿だった。
下水道で会った時とは違う、力感に溢れた立ち居で何事か叫んでいる。
「罪深き邪教の申し子よ。汝等の慟哭の歌声と噴き上げる泉の如き鮮血が、
破壊の神──汝等の父たる者を蘇らせる。その時こそ、世界は変わるであろう。
目を閉じて、大いなる父の姿を思い浮かべよ。さあ、今こそ迎えよう、大変容の時を!!
いあ、いあ、だごん!!」
水岐の声に合わせて、深きものどもが唱和する。
人間の口ではないものから叫ばれる声は、鳴き声に近いものであった。
自らの絶叫に興奮しているのか、深きものどもは全くこちらに気づく気配もない。
見つかる心配はなさそうだが、この数が相手では容易に突入などできない。
顔を見合わせる京一と醍醐に、近づいてきた如月が言った。
「膨大な量の瘴気が溢れ出しているな……『門』が開きかけているのかもしれない。
あの化け物どもの氣が、水岐とかいう男の近くに吸いこまれている。
どうやら、あそこが異界への入り口らしい」
京一が改めて水岐の方を見ると、確かに『氣』が竜巻のように渦巻いている。
化け物数十体ほどの氣が一箇所に集まって、目視出来るほどになっているのだ。
「気をつけて~、『門』が開いちゃったら、石の力も役に立たなくなるわ~」
やはり京一の傍らにやって来たミサが、これだけ化け物の絶叫が響き渡っている中、
何故かはっきりと通る声で囁いた。
「石……って、ああ、これか。何か意味あんのか?」
「これを持っていれば~、あの子たちは手を出せないの~」
「そうだったのか。それでさっきも」
得心したように醍醐は頷いたが、京一はどこか半信半疑のようだった。
そうしている間にも、水岐の声はいよいよ声量と狂熱の度合いを増していく。
「さあ、使徒たちよ。新たなる同志と共に、大いなる父を呼ぶのだ。
その呼び声で、異界の地に縛られた我等の神、父なるダゴンを呼び戻すのだ──!!」
「がががががががぎぎぎぎいいががぎいいいい……」
「まずい、一段と瘴気の濃さが増している」
これ以上相談している暇はなさそうだった。
木刀を握り直す京一の横で、醍醐は上着を脱ぎ捨て、雨紋も槍を取り出している。
目だけを後ろに走らせた京一は、葵は無事だと龍麻が頷くのを確認すると、
化け物の合唱に劣らぬよう、闘いの高揚を乗せて声の限りに叫んだ。
「よし……行くぜッ!」
しかし、京一が機を測り、隠れていた岩場から一気に飛び出そうとしたまさにその瞬間、
足元に何かが突き刺さった。
それ自体よりも、それが切り裂いた空気によってこそ存在を知らしめる。
薄暗い洞窟内とはいっても、拾いあげなければその正体が解らないほど、
投擲されたものは闇に溶けこんでいた。
それは禍々しい黒色をした道具で、十五センチほどある全体の長さの、半分ほどが四角錐になっている。
岩盤にその四角錐の半分ほどが易々と埋まっているところを見ると、
その切れ味も、投擲した人物の腕も相当なものと言うべきだった。
「苦無……だと?」
拾い上げた如月は、それが見知った道具であることに驚きの声を上げずにいられなかった。
四百年の血が知る、忍びの武器。
自らも懐に何本かを忍ばせていた道具を用いた人物を、如月は思わず探していた。
刺さっていた角度から暗闇へと、視線を真っ直ぐに伸ばし、求めるものを見つけ出す。
如月の視線を受けてか否か、濃色の古風な装束を纏い、鬼の面を被った人影は、
普通の人間では到底無理な距離を一飛びに近づいてきた。
「このような処に、大きな鼠がおるわ」
「てめえは……鬼道衆ッ!!」
「いかにもわらわは鬼道五人衆がひとり、水角ぞ」
顔は鬼の面に阻まれ、身体つきも忍者装束に隠されて窺えないが、
声と、肩の辺りで縛られている長めの髪が、女性だと推察させた。
もちろん女性だからと言って、鬼道衆を名乗る者に手加減するつもりなど、龍麻達には微塵もない。
しかし、やはり目的のためなら手段を選ばない非道な連中の中に女性がいたことに、
意外さは隠せなかった。
「てめえら……あんな化け物の崇める神なんざ復活させて、何を企んでやがる」
「神? ほほほッ、そのようなものどうでも良いわ。
我等の目的は、あの『鬼道門』を開く事にこそあるのじゃ。
あの男はその為に役だってもらっただけよ」
「何だと……?」
「あの『門』より魑魅魍魎どもが溢れ出し、この憎き江戸の地を焼き払う事こそ我等が悲願」
江戸、と言う言い回しに、その時代から連綿と続く飛水の家系に連なる男が眉を跳ね上げた。
「鬼道衆……どこかで聞いた名だと思っていたが、そうか、貴様らが──」
相手は如月以上にお互いの宿縁を意識しているようだった。
向ける声に、憎しみがこもる。
「忌々しき飛水の末裔よ、あの時、あの者らと貴様等一族に受けた屈辱、
ひとときたりとも忘れた事はないぞえ」
もちろん如月は彼女が言う屈辱とやらを知る訳ではない。
しかし、彼女の宿怨の念は、それが尋常なものではないと伝えていた。
「この真上は徳川共の眠る増上寺、そして『鬼道門』を封じておるのは徳川の残した霊力じゃ。
じゃが、それももういくばくも保ちはしまい」
勝ち誇るように笑った水角は、岩場に立つ水岐に向けて何事かを呟いた。
「ほほほほ、もうあやつは用済みじゃ。じゃが、もう少し役に立ってもらわねばの」
すると突然、水岐が苦しみ始めた。
頭を抱えて激しくくねる身体から、光が放たれる。
光は水岐が身体を折るごとに明度を増し、それに伴って恐ろしい現象が起こっていた。
「ううう……ううううああいあああいういいいいうういいあいあ!」
おぞましい悲鳴を上げながら、目の前で、水岐が輪郭を失っていく。
あまりに冒涜的な光景に、龍麻達は一歩も動くことができなかった。
線は細いながらも整っていた顔立ちは見る影もなく崩れ、人ならざる物へと変じていく。
眼球は魚のように膨らみ、鼻はこそげ落ち、口はだらしなく開いていく。
「僕は、彼らを導き、この腐敗した世界を、う、海……海に……う……いういいあいあいいい」
「ほほほ……我等が外法の力、とくと見るがよい」
水角は更に何事かを呟く。
まばゆい光が水岐を包み、それが失われた時、既に水岐涼はそこにはおらず、
半魚半人の忌まわしい存在があるのみだった。
「こん……な……」
決して好いてはいなかったにせよ、同世代の人間が異形のものに変わり果てる様を見せられて、
さしもの龍麻達も恐怖と嫌悪に身が竦んでしまっていた。
いっそ完全な化物だったら、こうも怯えはしなかっただろう。
水岐だったものはその恐怖を糧とするように慄然たる叫びをあげ、襲いかかる。
頭では判っていても、龍麻の足は動かなかった。
もちろん氣など練れるはずもなく、無防備に立ち尽くすだけだ。
水角の嘲笑と共に、深きものが飛びかかる。
しかし、口を開け、龍麻を呑み込まんとしたその瞬間、深きものは大きく弾き飛ばされていた。
「キヒィッ!」
獣じみた絶叫が洞窟に響き渡る。
ようやく恐慌から立ち直った龍麻が見たものは、
両手を前にかざし、何かを打ち出すような姿勢を取っているミサの姿だった。
「裏密……さん」
「ダゴンが復活してしまったら~、次はクトゥルフが目覚めてしまうわ~。
そうなったら人類はおしまいよ~」
いつになく真剣な表情で告げるミサに、龍麻達もなんとか恐慌から立ち直る。
彼女の言うことが本当かは判らないが、陰氣はいつしか洞窟を満たし、
不快な瘴気となって精神に影響を及ぼすまでになっていた。
こんなものを糧にする何かが復活すれば、大変なことになるのは明らかだった。
「裏密の言う通りだ。ダゴンだかなんだか知らねぇが、ヤバい氣がどんどん集まってやがる。
なんとかしねぇと」
「よし、行くぞッ!!」
木刀を構える京一に答え、龍麻は深きものどものただ中へと突っこんでいった。
大半は『門』を開くために氣を吸い取られているが、
それでも十体を優に超える深きものどもが襲いかかってくる。
「緋勇サンっ、スペースを作ってくれッ!」
雨紋に頷いた龍麻は醍醐と背中合わせになり、深きものの肩を狙って氣を放つ。
もともと足が短い深きものは、容易にバランスを崩しよたよたと倒れた。
反対側では醍醐が力任せに蹴りを見舞い、二体まとめて吹き飛ばしている。
そこに出来た空間に、大見得を切るように雨紋が踊りこんだ。
「せいッ!」
一瞬も止まることのない動きで槍を振るう。
黄の残像が線を描き、鮮烈な軌跡をこの場にいるもの全ての網膜に焼きつける。
雨紋は己が手の一部のように操る槍の先端から雷の氣を疾らせ、
近寄って来る深きものの腹に容赦のない斬撃を叩きこんだ。
しかし、深きものどもは意外に耐久力があるのか、
斬られて吹き飛んでも再び起きあがり、襲いかかってくる。
辟易しながらももう一度槍を振るおうとした雨紋の目の前で、
いきなり深きものが真横に吹き飛んでいった。
頭から落ちた化け物はべしゃり、という嫌な音を立て、それきり動かなくなる。
驚いた雨紋が化け物が吹き飛んだのとは反対の方向に目を向けると、
まだ彼が名前しか知らない、裏密ミサという真神の女生徒が両手で三角形を模ったポーズをとっていた。
「もっと~、氣を練らないと駄目だよ~。槍の先に集める感じで~」
「お、おう」
全く瞳が見えない底の厚い眼鏡をかけ、
口だけを笑わせているミサは不気味さを抱かずにはいられない風貌だったが、
離れた場所から武器も使わず一撃でこの化け物を倒した彼女の実力は雨紋を圧倒していた。
改めて槍を握り直した雨紋は、言われた通り、
練った氣を穂先の一点に集めようと意識する。
春に突然宿った『力』を、意識して操ろうとしたことはなかった。
槍術に自信があったからでもあるが、これまではそこまでの必要もなかったのだ。
しかし、今対峙している、ここが東京の地下だと忘れさせるような異形の怪物には、ほとんど通用していない。
倒さなければ、やられる──その危機感は、雨紋の集中を途切れさせることはなく、逆に極限まで研ぎ澄ました。
新たな敵が近づいてきていたが、まだ動かない。
「おい、雨紋!」
危機を呼びかける龍麻の叫びも無視し、氣を撓める。
動きを止めた雨紋に対し、ためらう理由などない深きものが、
その大口で獲物を呑みこもうと一気に跳躍した。
瞬間。
みっともなく口を開けて飛びかかった深きものは、顎から脳天までを貫かれていた。
断末魔の悲鳴を上げることさえ許されず息絶えた怪物は、
雨紋が槍を引きぬくと、どさりと落ちて大きく一度痙攣したきり、動かなくなった。
氣を放出したことによるわずかな虚脱感と、それ以上に大きな満足感が雨紋の裡を疾る。
これまで漫然と振るっていた『力』が全身を流れているのを、
今ははっきりと感じることができた。
血液の循環と共に新たな氣が生まれ、狂おしいほどの活力を与える。
一度要領を掴んでしまえば、あとは面白いように不可視の力を制御できた。
会心の笑みを浮かべて倒した化け物を見下ろした雨紋は、そのきっかけを与えてくれたミサに、
素早く視線を滑らせ、目だけで礼を言うと、新たな敵に向かっていった。
混戦から巧みに距離を取った水角が、龍麻を狙って苦無を放つ。
正確に龍麻の頭部をめがけて放たれた苦無は、しかしその寸前、
突然勢いを減じて地面へと落ちた。
「お前の相手は、僕だ」
声の主が言い終える前に、新たな苦無が水角の手から投げられる。
状況判断といい反応速度といい、常人が到底反応出来る疾さではなかった。
事実龍麻への一投目を防ぎとめた声の主も、自分を狙った二投目にはただ立ち尽くしているだけだ。
しかし、眉間をめがけて投擲された苦無は、またしても突然落ちた。
場違いな程澄んだ音を立てた苦無には、多量の水分がついている。
玄武を奉る飛水の血筋を引く如月が、その力を以って水を操り、弾き落としたのだ。
「鬼道衆とやら……飛水の一族として、江戸の平穏を妨げるものを許す訳にはいかない。
引導を渡してやる……覚悟しろ」
「飛水の末裔め……幾百年の刻を経て、なお我らの邪魔をするか。
引導を渡すのはこちらの方よッ!」
憎々しげに呻いた水角は、標的を如月に変えて襲いかかった。
現代の東京で、江戸を転覆させようとする者と、徳川を護る定めを持つ者が相撃つ。
話だけ聞けば滑稽であったが、当人達は真剣であり、そこには命を賭した闘いがあった。
悪い足場をものともせず、常人ならざる体術で岩場を駆け上り、空中で短刀を撃ち交わす。
交差する瞬間に三合交えた刀もお互いの身体にかすり傷さえつけることは出来ず、
サーカスのように合した二つの影は一度別れた。
着地し、ひねりを加えてもう一度飛ぼうとした如月は、
足先が地面を捉える寸前何かを察知し、向きを変えず、力も溜めず、
水面に置いた紙を踏むが如き軽やかさで小さなステップを踏む。
果たして、水角から放たれた苦無が着地する間さえ与えず如月を襲ったが、
足を縫いつけようと撃たれた苦無はその目的を果たせず、己のみを地面に束縛した。
「甘いッ!」
しかし、苦無が地面に刺さった時にはもう新たな跳躍をしていた如月が、
飛び越した水角を宙で振り向きざまに放った、水角のものとは少し形の異なる苦無もまた、
標的に命中することはなく、地面に空しく刺さる。
余裕をもってこれを躱し、その勢いを利用して宙へ飛んだ水角が、
極少の動作で新たな苦無を取り出し、投げようとしたその時。
突然、彼女の背中に小さな衝撃が加えられた。
如月が天井の岩盤に含まれた水分を操り、囮に使ったのだ。
普段ならば取るに足らないほどの小さな衝撃は、一瞬を削り取る死闘において致命傷となりうる。
何分の一秒かの間、水角は如月を見失う。
その間隙に水角の背後を取った飛水の忍びは、
敵の落下する勢いに自らの体重を加え、頭から地面に叩きつけた。
さしもの忍びも、両手を極められては脱出する術なく激突する。
「こ……このような処で、このような処でェェッ!! こ、九角さまァ──ッ」
鬼の面から血を流し、まさしく鬼神を思わせながら、
水角はなお手を伸ばして立ちあがろうとしたが、もうその力は残されていなかった。
宙を掴んだ手は、そこで勢いを失って落ちる。
刀を構え、とどめを刺すつもりであった如月は、
敵手が屍と化したのを確かめ、ゆっくりと構えを解いた。
「邪妖……滅殺」
片手で印を結ぶ彼の瞳に、後悔は浮かんでいない。
それが一族の定めであり、彼の持つ宿命であったから。
龍麻達を援護しようと踵を返そうとした如月は、
うつ伏せに倒れている水角の身体に異変が生じているのに気づき、足を止めた。
確かに息の根を止めた水角が、突然まばゆい光を放ち始めたのだ。
「これは、一体……?」
それは先ほど水岐が悪しき力によって怪物に変えられた時の光にも似ており、
深きものどもを殲滅させた龍麻達も近寄ってくる。
「どうした、如月」
「いや、僕にもわからない」
水角の身体を見えなくするほどの輝きは、しかしすぐに小さくなっていき、
収まった後に彼女の姿はなく、小さな珠が転がっていた。
顔を見合わせ、代表となった龍麻が近寄って覗きこんでみる。
特に害はないように思われ、充分に注意しながら手に取ってみても、
珠は何の変化ももたらさず、ただ鈍い輝きを放つのみだった。
皆に見えるように差し出した珠を、小蒔が鼻がつきそうなほど近くから観察する。
「なんだろう、これ……模様があるね。龍みたいに見えるけど」
「持ってってみようぜ。何かの役に立つかも知れねぇ」
頷いた龍麻は珠をしまい、仲間達の無事を確かめた。
どうやら全員大した怪我もないようで、『門』とやらを開くのを阻止することもできたようだった。
「瘴気が薄れていく……どうやら間に合ったようだな」
「ああ……良かった」
如月は口許を、かろうじて視認できる範囲で半瞬だけ笑う形にした。
それでも慣れないことだったのか、如月は照れを隠すようにひとつ咳をした。
「それにしても、君たちの『力』を見くびっていたよ」
「いや、如月こそ。本物の忍術を拝めるなんて思ってもなかった」
互いに称え合ったあと、如月は、ややためらいがちに言った。
「君達は……今後も戦い続けるのか?」
「ああ……この『力』の謎が解けるまでは、そうすると思う」
「そうか……」
一度言葉を切り、再び口を開いた如月の声には、それまでとは異なる波動があった。
「緋勇君。もし良かったら僕にも、鬼道衆からこの地を護る手伝いをさせてくれないか?」
「一体どういう風の吹き回し──ぐッ」
「俺達にだって東京を護りたいっていう気持ちはある。こっちこそよろしく、如月」
一言多い友人のわき腹にしたたかなひじ打ちをくれた龍麻は、
新たな仲間となった男に向けて手を差し出した。
水岐涼は、まだ生きていた。
だが、それも時間の問題であるのは明らかだった。
全身には痣があり、顔からは血の気が全く失せている。
手加減できる相手ではなく、斃したことに後悔もないが、それでも、死は斃した龍麻だけでなく、
死に立ち会う全ての人間に苦痛を与える。
救えるのならば救おうと、龍麻は癒しの『力』を持つ葵に頼んだ。
「『力』を使ってやってくれないか、美里」
「……はい」
葵の掌が、淡く光る。
それはこれまで幾度となく龍麻たちを助けた、癒しの光だった。
しかし光は水岐の身体を照らしをしても、痣を消し去り、顔色を元に戻すことはない。
何かが、葵の『力』を阻んでいるのだった。
「この人の身体には~、もう氣がほとんど残ってないわ~」
ミサの言葉の意味にいち早く気づいたのは、死に瀕している水岐当人だった。
再び手をかざそうとする葵を押し留め、小さく笑う。
それはかつて見た皮肉を口の端に浮かべたものではなく、赤ん坊のような邪気のないものだった。
「君とは……どこかで会った気がする……」
水岐は呟いたものの、それ以上葵に関心を払うことはなく、目を閉じる。
黙然とたたずむ龍麻達の耳に、小さな声が漂ってきた。
「かくて、今……かくて、いま、長き葬列、楽声も読経も無く──
静かに我が魂の奥を過ぎ、希望、打ち砕かれて忍び泣く。
心無き圧制者の苦悩──うなだれし我が頭上に、黒き旗深々と打ち込み……たる……」
声はそこで途切れ、それきり何も聞こえてこない。
それが意味するものの重さに、一行は闘いの興奮も醒め、粛然と水岐の冥福を祈った。
息苦しい沈黙に呑みこまれた一行であったが、俄に鳴動が聞こえてくる。
足元だけでなく、洞窟全体が揺れ始めていた。
「むッ……まずいな、崩れるぞ」
「げッ、とっとと逃げようぜ」
龍麻たちは洞窟を後にして逃げだした。
階段を上りきった後も、鳴動は続いていた。
墓石を戻した龍麻は、入り口に完全に蓋をする寸前、階段が崩れ落ちていくのを目にする。
これではもう、地下に入るのは不可能だろう。
「崩れちゃったね」
「ああ……真実は土の中となってしまったな」
醍醐の言うとおりで、龍麻は忌々しげに自分たちが出てきた墓石を睨んだ。
今回もまた、龍麻たちは鬼道衆の陰謀を阻止はできたものの、
彼らの正体と、突如身についたこの『力』の謎についてはまったく判らなかったのだ。
その間にも水岐涼を含め、多数の犠牲者が生じてしまっている。
彼らの目的が何であるにせよ、たやすく人の命を奪う輩を、許すわけにはいかなかった。
それは龍麻が『力』に目醒めた時からの、誓いだった。
如月とは今後も連絡を取りあうことを約束して別れる。
龍麻たちもそれぞれ解散したが、その前には一悶着あった。
「あァ、腹減った。ラーメン食ってこうぜ、緋勇」
「いや、今日は駄目だろう」
「なんでだよ」
「こんな臭いさせて食べ物屋なんて入ったら、行きつけの店だって追いだされるぞ」
「うッ……」
よほどのことは気にしない京一も、さすがに下水の臭いをつけたままラーメン屋に入る
危険には気がついたらしく、断念せざるを得なかったようだ。
「くそッ、とんだタダ働きだぜ……帰ろうぜ、醍醐」
「ああ、それじゃな、緋勇」
京一と醍醐は連れ立って帰っていく。
雨紋は如月にくっついて帰り、ミサはいつの間にか帰っていた。
後に残ったのは葵と小蒔で、二人は困り果てていた。
「どうしよう、泊まるつもりでウソついちゃったから、家に帰れないや。
今から泊めてくれる子探すのも難しいよねえ」
「そうね……」
二人が思案していると、聞いていた龍麻が爆弾発言をした。
「困ってるんなら、俺の家に泊まっていけばいい」
「えッ!?」
男性の家に泊まるという考えは全くなかった二人は、揃って驚いた。
「誰か当てがあるとしても、その臭いじゃ説明が面倒くさいことになるぞ。
俺の家なら洗濯機はあるし、何なら新しい制服を買ったっていい」
「うーん……」
確かに龍麻の家なら問題のほとんどは解決できる。
小蒔は前向きに検討を始めたようだが、葵にとっては冗談ではなかった。
「いくらなんでも、そこまで甘える訳にはいかないわ」
「別に、甘やかしてる訳じゃねえよ。強いて言うなら礼だな。臭い所につき合ってもらった」
「緋勇クン家って、乾燥機もあったよね」
「ああ」
「ね、葵、泊めてもらっちゃわない?
緋勇クンの言うとおり、こんな臭いで友達のトコには行きたくないよ」
「でも……」
龍麻の家に泊まるなど、自ら虎口に飛びこむようなものではないか。
いくら小蒔と一緒でも、龍麻がその気になれば二人ともその牙にかけるということだって可能だろう。
他に案がないか、必死に考える葵に、龍麻が追い打ちをかける。
「悪いが、シャワーは先に使わせてもらう。で、終わったら何か食い物買ってくるから、
その間にシャワーと洗濯をしておいてくれ。乾燥機の使い方はわかるか?」
「うん、ありがと」
龍麻の対応は紳士的と言えるほどで、葵も口を挟めず、
結局二人とも龍麻の家に泊まることになってしまった。
ただし、油断させておいて後から、という可能性もあるので、安心はできない。
とにかく明日龍麻の家を出るまでは、油断してはいけないと葵は気を引き締めた。
「それじゃ、そろそろ寝るか」
「うんッ、おやすみ、緋勇クン」
「おやすみなさい」
灯りを消し、葵と小蒔は布団に入る。
これまでのところ、龍麻の接待はほぼ完璧で、
小蒔などは本気で時々遊びに来たいなどと言いだしていた。
龍麻もそれを拒まず、葵を不安にはさせたが、それは未来のこととして、
ひとまずは今日を無事にやり過ごすことに集中する。
隣ではすでに小蒔が健やかな寝息を立てていた。
葵は息を殺し、いつ扉が開いて龍麻が入ってくるか、ずっと警戒している。
灯りを消してから、一時間が過ぎていた。
龍麻はまだ動きを見せない。
忍び寄る睡魔と戦いながら、葵は、彼がいっそ行動を起こしてくれれば良いのにとさえ思っていた。
このまま待ち続けるべきか――迷った葵は、彼が眠ったのかどうか、確かめてみようと思い始める。
もし龍麻が起きていて気づかれたら何をされるかわからず、あまりにも愚かしい行動ではないか。
そう自制もしてみたが、もしももう彼が寝ていたら、
これ以上無駄な時間を過ごす必要もなくなるという誘惑には勝てず、
龍麻が眠っているか、確かめるだけ――という言い訳を自分にして、
葛藤の末、起きて制服を着た葵は、そっと居間の様子を伺った。
龍麻はソファに横たわっていた。
眠ってはいない。
何かの本を読んでいたが、戸を開けた小さな音にも気づいて、葵と目が合った。
「どうした」
警戒している葵を取り越し苦労だと笑うような、優しい声だった。
気づかれてしまった以上素知らぬ顔もできず、葵は居間に入った。
身体を起こした龍麻は、葵に座るようソファの端を指し示す。
以前治療と称して身体を触られた場所に座る気にはなれず、葵が立ったままでいると、
勘づいたのか、肩をすくめた龍麻は、今度はソファの前に置かれたテーブルを指し、自ら床に座った。
ソファよりはましだと、諦めて葵も彼の向かいに座る。
「眠れないのか」
「ええ……緋勇君も?」
「まあな。今日のあの場所……増上寺の地下だと言っていたな、ずいぶん陰の氣が溜まっていた。
あんなのに当てられたら、そう簡単に治まるもんじゃないだろう。
お前が眠れないのも、その影響かもしれねえな」
手を口に当て、考える表情をした龍麻は、おもむろに言った。
「背中を向けろ。少し、陽の氣を入れてやる」
「い、いいわ、そんなことしてもらわなくても」
深夜であることも忘れ、葵は声を大にして拒絶した。
この部屋で氣を使った治療をされ、その後どうなったか、鮮明に記憶が蘇る。
ここ最近の変調も、あれが全ての始まりではないかとさえ疑われるのだから、
氣など注入されるわけには絶対にいかなかった。
「いいから早くしろ。単に氣が多くて昂ぶってるだけなら構わないが、
あそこにあったのは全部陰の氣だからな。悪影響が出てるんなら、早く治した方がいい」
「陰の……氣?」
「氣には陽と陰がある。半々が理想的なんだが、
そんな奴は中々いなくて、大体はどっちかに寄ってるらしい。
これは性質の話で善悪の問題じゃないが、あまり一方に偏ると、心身に影響が出る」
龍麻は治療と称する行為を止めるつもりはないらしい。
彼が力づくで行おうとしたなら、引っぱたくなり大声を出すなりできただろう。
けれども龍麻の説明には説得力があり、強引ではあっても乱暴ではなかった。
そしてもうひとつ、何も音のない深夜にあって、龍麻の声は催眠術のように葵の聴覚を懐柔し、
結局葵は、彼に背中を――服を脱げと言われたら、断固として拒否しただろう――
預けることに同意してしまった。
「ゆっくり深呼吸しろ……そうだ、もっとゆっくり……深く、長く……」
龍麻の掌が背中に触れる。
温かく、そして気持ち良い。
「俺もうかつだった。あんなに陰の氣が溜まってる場所だと判ってりゃ、お前を連れて行きはしなかった」
悔いているような発言が意外で、それほど氣というものの影響力は大きいのかと葵は心配になった。
「小蒔や、他の皆は大丈夫なの?」
「俺や、たぶん如月もだな、訓練を積んだやつなら意識して半々を維持できるし、京一達は少し陽に寄ってるんだろう。別に、気分が悪いとか言ってなかっただろう?」
「ええ」
身体が温まるにつれ、澱みのようなものが抜けていくのを感じる。
それは悪くない――悪くなさすぎる心地だった。
呼吸を繰り返すうち、身体に熱が溜まっていく。
病気の発熱時とは違う、気怠さを伴わないそれは、
葵にここ最近馴染みとなりつつある感覚を思いださせてしまった。
「もう……だいぶ楽になったわ。ありがとう」
危険を自覚した葵は、龍麻から離れようとする。
だが、性急だったのが災いしたのか、バランスを崩してしまった。
「あッ……!」
葵は龍麻の腕の中にいた。
床に転ぶのは免れた代わりに、より大きな災厄に飛びこんでしまったのだ。
「は、離して……!」
あれほど警戒していたというのに、自分の浅慮を呪いながら、葵はもがく。
それほどの抵抗にはならなかったが、龍麻はそれ以上狼藉を働こうとはしなかった。
あっさりと葵を離し、あっけにとられる葵に囁きかける。
「そろそろ気づいても良さそうなもんだが」
「……何を……言っているの……!?」
龍麻は答えず、興味はなくしたとばかりにソファに身体を投げだした。
「俺は寝るから、電気を消していってくれ」
小さなあくびを一つして、龍麻は本当に眠ってしまった。
窮地を脱しながら、狐につままれた表情で葵は寝室に戻り、
小蒔が起きていないのを確かめると布団に入った。
といっても寝つけるわけがなく、龍麻の言ったことを何度も反芻する。
いったい、何に気づくというのだろうか。
それに気づいたことで、何が変わるというのだろうか。
龍麻が転校してから今日まで、嫌な記憶も含めて思いだしてみたが、心当たりは何もない。
もっともらしいことを言って、幻惑させようとしているのか――
それにしては自信たっぷりだった。
彼が言う何かに気づいたとしても、彼の思い通りには絶対にならない――
そう決心するしか、今の葵にはできなかった。
さっきまでは感じなかった疲労が、急速にやってくるのを感じて、葵は目を閉じた。
龍麻はもう、今日は何もしてこない気がした。
だからといって、それは決して彼に対する信頼ではない、
と自分に言い聞かせながら、葵は深い眠りに落ちていった。