※ハーメルン、pixivにてマルチ投稿
「だからね門主様?私たちの芸術活動を咎めて欲しくないだけなんだよ。別に認めて欲しいなんてのは求めてないのよ。ただ犯罪者集団の捜査だの手配だのってなった時の優先順位を門主様権限で低くして欲しいだけなのよ」
龍華キサキは気付いたら知らない部屋で拘束されていた。それもただ手足を縛った程度のものではない。
両手には球が握らされており、その上から肘の手前まである長さの皮袋、更に手首、肘の手前、その中間の三点をベルトで締められている。これだけでもいくら縄抜けの技術があろうと抜けられそうにないが、後ろ手で何か大きいものを抱くように手首が繋げられている。
その大きいものの下側に大きめのポケットがあり、そこへ膝を置く形で自身の体重を支えているので自重で苦しむことは無い。しかしこちらも足首同士を繋がれ自由はない。
試しに手足を動かしてみたが若干鎖の擦れる音がした程度。それも見えはしないがサンドバッグに強く締め付けられているのだろう。耳を澄ませて漸く聞こえる程度のものだ。
背中の感触、身動ぎをすると揺れる視界、目の前で顔を隠した生徒が語る芸術活動という単語。そして最近世間を騒がす悪趣味な動画──水責め窒息腹パンに的当て等──を売る集団。
自分はサンドバッグに貼り付けられる形で拘束されている。そう判断するのは容易い事だった。
「それで?同意をしなければ妾が好きに嬲られる映像を売ると?この山海経の門主が随分低く見積もられたものじゃの」
「いーや、初めに言ったろ、交渉だよ。門主様が受け入れようと断ろうと今日ここで撮った映像はどんな大金でも外部に漏らす気はないよ。ああ、あのカメラ。アレはほら、記録用だよ。それに売る気なら服は全部剥くよ。あんたの外套は取ったけどそのよく分からん黒くて装飾が綺麗な薄い布は取っ払ってないだろ」
「そんな戯言を信じるとでも?」
「それなんだよねぇ。こっちは違える気なんて更々ないのに。証拠としては弱いかも知れないけど、私たちが売ってる作品知ってるかい?そこにゃ自治区のトップは一人もいないだろ?それが証拠だ。約束は守るよ。それにいくら阿漕な商売しようと侵してはならない神の領分ってもんがあるんだからな」
「だから神の領分は守ると?」
パイプ椅子の背もたれに顎を置きながら大げさに頷いた。それでも信じる気のないキサキを見て、仮面を投げ捨てカメラに向かってピースをした。
「ほら、これでどうだ。話してみたくなったかい?」
「下らん。それに粗末な脅し文句じゃの。それだけならまだしもこんなに拘束しないと交渉も出来んとは、キヴォトスで話題の犯罪者集団の長は随分と情けないの」
「まあまあ門主様、落ち着きなさって。それにこっちは静かにアンタを攫うくらいは造作もないんですぜ。誘拐犯が言うにゃおかしいが、余り刺激なさんな。酷い目に合っちまっても責任は取れねぇですぜ」
「……」
「ああ、一応言っておくと半日は誰も門主様が攫われた、なんて話にゃならないですぜ。とは言ってもこっちの都合もあるんでここで顔を突き合わせるのは八時間ってもんかね。一日の公務分って考えれば、短く感じるかどうかは知らないがね」
目の前の相手は犯罪者集団の頭であるらしい。そこまで分かれば最早話す必要性はない。仲間たちを信じて口を噤み続けていずれ逮捕するだけだ。
キサキの事など言葉ほど興味もないのだろう。返答もないのに一人で楽しそうに話している。
「まず私たちからの要求は詳しく言うとこうだ。
一つ、山海経の治安維持活動で私たちの優先順位を低くすること。偶々捕まえたような奴は気にしなくていい。捕まるような未熟者のアンポンタンを無罪放免なんてしなくていいのよ。そんな足が付く粗末な仕事をする同士なんてこっちからも願い下げだからね。
二つ、山海経で私たちの活動の許可。これを貰わなきゃどんな芸術活動でも犯罪になっちまうからな。勿論今日貰えないから次の日も、なんて狡い真似はしません。今日貰えないならスッパリ山海経は諦めます。信じられないでしょうが諦めた実績だってあります。最も機密情報何で今までどこの自治区で許可が貰えなかったのかは話せませんが。
たった二点だけですぜ。そうと認めてさえくれる証拠の映像があれば大手を、……振りはしないけど心労なく、後援者様方の為に働けるんです。しかも認めてくれれば直ぐに帰れますよ。こっちも労力割かないで済むんでwinwinです。
認めてくれねぇんだったら、ちょっとばかし説得するほかないんです。ああ、そうだ、特典を追加しましょう。門主様が嬲って欲しい人がいればそいつを主演にしましょう。作品だって無料で差し上げますぜ。ついでに出して欲しくない人は一生出さないと誓いますよ。留飲下げて心労無くなりハッピーエンド、それでいいじゃありませんか」
「……」
誇りある山海経の門主として気を違えた狂人に返す言葉はない。それでも色よい返事を期待しているのか体感五分は返事を待った。
大仰にため息を吐くと聞かせる訳でもないような小声を呟いた。
「あ~メンドくせぇなぁ。どうして自分は耐えられるなんて、み~んな勘違いしちまうんかな。まぁいいや、気が変わったら教えてね」
キサキの顎を力任せに掴んで口を開かせると開口具を無理やり嵌めた。
「多分安心できないけど安心しろよ。これからいくら痛みで歯を食いしばっても、この開口具が歯を守ってくれるからな。歯が欠けたなんてことにはならねえよ。こっちだって主演さんは歯の手入れも出来ない貧者と思われると売り上げに影響するんだ。あんたにはあんま関係ないけどね。
でも今ならまだコミュニケーション取る気があるぜ。認めてくれるなら素早く三回瞬きしな」
キサキは口で伝えられない分、目で侮蔑の感情を伝えるために下手人の顔を睨みつけた。
この門主という立場に縛られた行動を後悔するのには長くない時間で十分であった。
▽▲
「ま、適当にやっていきますか。ああ、私はブツクサ一人で喋りますがこれは職業病みたいなもんです。事前に何をされるか説明しながらやると主演が怯えて良い画が撮れるんです。最も本当の商品にするなら私の声と主演の嗚咽は別になるように色々気を遣いますけど。まあそんな裏事情はどうでもいいか」
吐き捨てる様に語り終えると同時かそれより数瞬早く、キサキの鳩尾に拳が突き刺さる。
「カヒュッ」
と空気の漏れる音が口から出す。続けて肉体的な反射で無意識に漏れた空気を取り戻そうと勢いよく吸い込んだが、その勢いが強く咳き込むこととなった。
「苦しいよな。でもそれはあんたが弱いせいじゃない。ただの肉体の反射反応だよ。膨らんだ肺が潰されて空気を逃しちまったからな、それだけのことさ。でも咳き込むあんたは可愛いからもうちょっとやるな」
吸い込み胸が膨らんだタイミングで再び鳩尾を殴る。来ると分かっていてもそれは抗いようのないものであった。どんなに覚悟をしようと、力を込めようとも拳が突き刺さる度に間抜けな声が出る。そしてその度に咳き込む。
始めのうちは殴るのはキサキの呼吸が整うのを待っていたが、次第に呼吸の回数が五回、四回と減っていき。今は殴られて空気を吸い込んだら直ぐに殴られるといった始末。呼吸が他人に制御されている普通味わうことのない圧倒的な違和感がキサキを逃がそうとするが、拘束がそれを許してはくれない。精々手足を繋ぐ金属が音を鳴らすだけだが、今はその音さえ自分の咳で聞こえやしない。どれだけ体を捩ろうとも正面の拳から逃げられない。
そのうちサンドバッグらしく前後にプラプラと揺れるようになったが、相手が半歩踏み込めば消える距離さえ安堵を齎してくれた。
「目元が潤んできたな。それも反射だ、あんたが悪いわけじゃない。こうやってプラプラ揺れてると子供時代を思い出さないか、私は今でもブランコが好きでね。ちょっと楽しそうだなって、いつもこの光景を見てると思うのさ。ほら、友達のブランコの手伝いをしてやるよ。押すのは背中じゃないけど」
キサキを気遣った小休憩では勿論無く、彼女の為の休憩時間だ。近づく度に鳩尾と拳が触れて優しく押す。確かに傍から見ればブランコに似ているが実態はまるで違う。不自然な体勢と乱れた呼吸で揺れる体は浮いた内臓が振り回されるように気持ち悪い。
酸欠で浮ついた頭が真面になって咳き込みもなくなった。しかし現状は変わっていないし、どうにかする手段も見つからない。そうして在りもしない希望を探していると今まで押したら軽く引かれていただけの拳が大きく引かれた。
首を横に伸ばして避けたつもりになったが、そんな気がしただけで現実は変わらない。
「ゴヒュッ」
振り子の分だけ深く拳が沈み込む。先程までは吸い込んだ空気の大部分は肺に残っていたが、今度は漏らされた方が多い。それだけ咳も強くなり体力を削られるが辛さはそれだけではない。
先程は呼吸に合わせてくれていたが、今は揺れに合わせて殴られる。肺に空気を十分に取り込めてなくとも、サンドバッグの揺れで彼女へ近づけばただ機械的に殴られる。
不十分な呼吸しか許されないとこんなにも思考が回らないのか。至極当然なことすら今のキサキには真理に見える。ついに目尻の涙が玉になって流れ堕ち、口へ入る。その程度を気付けとしなければ意識を失いそうだった。
「ちょっとッ、呼吸がッ、できないッ、だけでッ、案外ッ、キツイッ、もんだろッ!ところでッ、私のッ、左手をッ、見ろッ!」
靄がかかった思考ではその指示に逆らうという気すら浮かばなかった。左手を見ようとしたがそれは叶わなかった。殴られていて視線が自然と上を向いてしまうからではない。ちゃんと見て欲しいのか殴るのも揺らすことをせず、左肩を見せつける様に立っている。それでも左手がポケットの中へ突っ込まれており見ることは叶わなかった。
「キヴォトスじゃ肉弾戦のノウハウなんてまず聞かないからな。それでも山海経はカンフーだのなんだのがあるからマシな方か。細かい話は抜きにして話すけど、殴るってのは腕の運動じゃなくて全身の運動なんだ。足で大地を踏みしめて、腰を捻り、打つ手とは逆の手を引いて、放つ。
あー、つまり、何が言いたいかと言うと。始まって一時間もしないのに顔を真っ赤にして耐えてるけど、今までは児戯みたいなもんだったんだ。そしてこれがちゃんとした拳──疾ッ!」
「────ッ!」
説明通りの全身を使ったパンチの衝撃でキサキの思考は白く染まり、肺は潰れた風船程の空気も保持できない。咄嗟に悲鳴を上げよう喉が震えたが、開口具で食いしばることも、声を上げるための息さえない状態ではそれさえ満足に行えず、無様な悲鳴は自分の耳にさえ届かない。
自分の咳き込む音だけが脳内を支配する中、明滅した思考が現実に戻ると構えられた拳が鳩尾に捉えている様子。小さい悲鳴も上げられずに距離を取ろうとし、拘束に阻まれ頭だけでも逃げようと首が仰け反らせようとすることが精一杯だ。最もそれさえもキサキの背後のサンドバッグが許さず、ただただ上へ左右へと頭が揺れるのみである。
「ま、安心しろよ。これはこっちも疲れるから、そう多くは打たないよ。それよりも今からは呼吸制御をしようと思っていてね。ほら、ゆーらゆらしながら殴られてた時に、偶々息を吸い込んでるときに殴られた時があっただろ。今度は狙ってそうするよ。
あー、一応聞くけど覚悟はできた?」
どうにか、どうにか会話をしなければ死ぬ。言葉さえ交わせれば如何様にもできる。会話さえできれば。
命乞いにも似た心情で目の前に立つ彼女の目を見ながら瞬きを三回する。しっかりと目が合っているから意図は伝わっているはずだ。
返答は拳で返って来た。
「ははは、遅いっての。目隠しをしてないのは交渉開始の合図を待ってるんじゃなくて、そっちの方が怯える表情をカメラに収められて売り上げに貢献できるからだけだっての。お前の目は怯えて、ただの握り拳に恐怖するためだけのものなんだって。
それにしても山海経の門主は病床の身ってのは本当の事なんかな。音を上げるの、今までの自治区トップの中じゃ一番早いよ」
侮蔑や嘲笑等の見下す感情を隠しもせずに言い放ったが、それによってキサキの自尊心は一つも傷はつかなかった。何故なら息を吸い込む途中で殴られ、無理やり肺の中の空気を排出される。そんな苦しみの中では放たれた言葉を理解することができなかったからだ。
周囲に満ち足りているはずなのに吸えば吐かされて呼吸も満足に行えない。その度に鈍い音が体を伝って鼓膜を叩き、遅れて空気を振動させたそれを聞く。粗末な太鼓みたいな音だけが聴覚を支配している。
口も塞がれていないのに窒息死する。そんな本能からの危険信号にさえ思い至るほどの余力もなく、天井へ視線が無意味に向く。完全な白目を晒して意識を手放そうとしたその寸前、何をしようとも降り注がれていた拳が止んだ。
意識は失わずに済んだが、苦しみが去った訳ではない。脳が酸素を求めて無理にでも肺を動かし、その結果やはり咳き込み苦しむこととなった。
無酸素運動をしたことにより口内の奥から粘性を帯びた唾液が生まれ、開口具によってこじ開けられた口から一筋流れ落ちる。勿論キサキは扇情的とか苦しんでいると解釈される姿だとは理解していた。それでもどうにかしてそれを繕うことより、手慰めに握っては開く動作を繰り返す下手人の手を見るのに精一杯であった。
拳が握られる度に足が竦む。恐怖で震えるのが分かる。根拠がなく信用に値しないと唾棄した誰にも公開しないという約束すら、今のキサキには無様なこの姿がキヴォトス中に晒されなくて良かった、そう心の支えとなる程に心が弱っている。
「肺を押しつぶすように殴る。どーだった?中々だろ。これで三段階の内の一つは終わったかな。じゃあ次に移るぞ」
「あえ、あっへ」
偽りの希望に縋る暇もなく無慈悲に告げられる宣言。それでもどうにか対話を試みようと声を上げたが、喃語未満の音しか出せず、それも空いた口にホースを差し込まれてそれさえ許されない。
それでもどうにか抵抗しようとしたが、無駄な足掻きをする暇もなくホースから流れ込んできた液体が口内を埋め尽くした。頬が自分の知っている限界以上に膨らむが圧力はかかり続ける。開口具とホースの繋ぎ目は特別な作りなのかそこから漏れる気配はない。圧力に耐え切れず鼻の穴から逃げた分もあるが、全体の量からすれば雀の涙にも満たない微量でしかない。
「ただの水だよ。拒まなくていいって言ってもあんたにゃ選択肢なんて無いか」
そう語られるまでもなく、胃へ水を逃がすことだけが苦しみから逃れる術なのはハッキリとしていた。けれども一口飲めばそれ以上の水が注ぎこまれる。この苦しみの終わりは相手の匙加減なのは明白だったが、口が裂ける恐怖から嚥下を繰り返す。
結局ホースが取り外されたのは数えるのも億劫になる程水を胃へ落とした後、見もせずに腹が膨れたと判別できた後のことだ。
「次に殴るのはさっき殴った鳩尾と臍の間らへん。内臓でいえば胃を狙う形で拳を叩き込む」
そう語りながらキサキの体に予告するように対象の箇所を撫でる手付きが嫌に優しいのが不気味である。そんな気持ちを抱いていることは百も承知であろうが、努めてそれを無視している事実がキサキを怯えさせる。
そう思うことすら相手の手の中で弄ばれていると理解していても、奪われた体力がそれを隠せない。
「今あんたの腹の中に、無意味に水を詰め込んだからな。これを今度は口から出して貰うよ。どうにか耐えても、盛大に吐いても、どっちにしろこっちとしては笑えるからあんたは気にしなくていいぞ」
予行演習だ。そう言うと手の平で軽く圧迫してきた。それだけで食道を逆流した水が口から溢れ、キサキの服を濡らす。飲み込んだ量の一割にも満たない量だが、それでも嘔吐の不快感が背筋を不愉快に撫でつけた。
頭の中のやけに冷静な部分で自分は今、梅花園の子供が駄々を捏ねる様に頭を振っていると分析する。しかしいくらそうしようと目の前に立つその人は優しい教官ではなく、自分を拉致して犯罪行為の許可を求めに来た悪人だ。
慈愛に満ちた視線とは程遠い、悪辣さを微塵も隠さない無遠慮な視線が射貫くのみである。
態々手を目線の高さまで上げ、ゆっくりと握りしめる様を見せつけられる。
「さっきと同じだ。まずは軽く」
昔、縁日で買った水風船で遊んだ記憶を思い出す。そんな音が自分の腹から響いた。
どうにか耐えようと歯を食いしばったが、開口具で嵌められている口ではそれも満足にできず、仮にできたとしてもこのせり上がる波に抗うことは出来やしなかった。
水が殆どなので見た目は透明だがそれでもゲロに変わりない。そんな液体がキサキの服を穢す。山海経の門主としてどれだけ高等な服を、そこに込められた歴史と誇りを知っているのか。
そうやって自らを奮い立たせようとするが、自分に迫る拳を見れば立ち所に気概は折れ、目を閉じても痛みが逃がしてくれない。それでも負けた心でどうにか折り合いを付けた結果、殴られて吐く自分が悪いのではと思い至る。
門主としての誇りがあれば耐えきれるはずだ。無意味な決心をした頃には既に飲まされた水を半分以上吐いた後で、現実逃避で存在しないはずだと目を背けていた重い拳が、残り大半の水と決意を流した。
「はは、ダイエット成功だな。それにしてもあんたの服、いかれてんね。そんな下着よりも薄い布で服を名乗るなんて烏滸がましくないか?あんたのゲロのせいで体にピッタリ張り付いて、娼婦だってもうちょっとマシな服装選ぶよ。
まあ、いいや。じゃあ残りの水でゲームしよっか」
疑問を挟む余地も与えられず、壁を押すように上半身を倒してサンドバッグを大きく揺らす。数回押して今まで以上の揺れを起こし、最後は押したタイミングでさっと離れ間髪入れずに前へ踏み出し、相乗速度の付いたアッパーを腹へ叩き込んだ。
ヴェ、と潰れた蛙みたいな声と共に、ゲロをピュッと吐き出した。
「うーん、一メートルも飛ばなかったか」
飛び散ったゲロの飛距離を見てそんな軽い感想を言い放つ。その間、キサキは殴られた余韻から胃液を絞り出すようにして吐き出していた。先ほどまで吐いていたほぼ水のものとは違う明確な汚物。それで好き放題に山海経の歴史を穢しながら嗚咽を絞り出していた。
結局それはホースを口へ取り付けようとする作業の手で止めさせられた。頭は碌に拘束されていない事を幸いとばかりに、頭を在らぬ方向へ振りかざして抵抗する。どうせ捕らえられて同じことを何度もさせられるのは既に嫌と言う程察している。それでも満足な抵抗を出来ているというだけの満足感に浸りたかった。
画になるのだろう。暫くはにやついた顔で無駄な足掻きを観察していたが、不意に髪を掴み上へ引っ張り上げて動きを止める。その涙と鼻水で濡れた顔を擦るようにサンドバッグへ拳を叩き込む。口径の大きい銃弾を撃ちつけたような重い音が部屋中に響く。
混乱した思考でも分かる。間違いなく今まで見た中で一番鋭い一撃だ。これが顔へ向けられたら、失禁も気にならない程の恐怖を味わった。
「キサキちゃん、私はね、あんまりストレスを溜めたくないの。だから、賢いキサキちゃんなら、どうすればいいか分かるよね」
この部屋に連れ込まれてから一番優しい声でそう言われた。この声だけを録音して事情を知らない人へ聞かせれば、聖母を連想するような、慈愛に満ち溢れた声であった。
けれど瞼を引くつかせながらそう言い放つ顔は仏の様な慈悲もなく、抗ったならば歯を全て失うことになるであろうことは容易い予想できる。
キサキにできたのは少しでも不興を買わない様にと口を差し出すことのみであった。
「じゃあ、最高記録目指そうか。ゲームみたいで楽しいだろ。取り合えずもう一回ね」
そう言って再び開口具に接続され、吐かされて空っぽの胃に水を流し込まれる。体温を奪う冷たさが食道のどこを通っているのかが分かる。暫くすればそれも冷たさに慣れて不明瞭になり、今度は逃げ場のない水で腹が膨れてくる。妊婦のみたいに膨れたら殴られて服を穢す。
キサキに数えられたのは四度目までであった。
気付いたら服は濡れてない部分が無くなり体を冷やし、内臓に冷水を浴びせられて底冷えする寒さで震えているというのに、何度も拳を打ち込まれた打撃痕だけはジンジンと熱を放っている。
床へ残る直線状に飛び散ったゲームの跡のを意味もなく見つめながら、何処がゲームの基準だったのだろうと、無益な事を考えているとふと鼻腔に胃液の酸っぱい臭いではないものを感じ取る。
甘い香りだ。それもココアの。
残り少ない気力を絞り、匂いの源を探せば直ぐに見つかった。彼女がマグカップにココアを淹れて飲んでいる。
何度も殴り消耗した体力を回復させるために飲んでいるに違いない。それにこの部屋は少し冷える。全身が濡れているキサキにはその少々の冷えでさえ致命的だが、彼女にとっても心地よいものではないのだろう。マグカップから湯気に立っている。
「あえ、うああい」
言語にはならなかったが、温かい飲み物を懇願する声を抑えられなかった。幾度も殴られて消耗した体力、内臓すら震える寒さ、時間も分からず摩耗する精神。それらがキサキを責め立て、どうせ貰えもしないのは分かり切っていても、卑しく乞うてしまった。
そうは分かり切っていても、反応してココアの注がれたマグカップを手に近づく彼女へ期待をしてしまう。
「久しぶりにあんたが生者だって思ったよ。寒いよな。温かいココアを飲みたいのか」
必死に頭を上下に振る自分は彼女にどう写っているのだろうか。少なくとも好意的ではないのは目を見れば明らかだ。それでもと、開口具で引き延ばされた口の端が卑屈な笑みを作るのを止めることができない。
結論も決まっているだろうに、無駄に目が回る程頭を振らせる様子を残ったココアを飲みながら眺めている。マグカップの淵を垂直になるまで傾けて飲み切ってから、マグカップの底を見せつけてきた。
「悪いけど美味しいから飲み切っちゃったよ。こんなカスみたいな量で良ければ飲むかい?」
必死になって首を振る速度を上げると、マグカップを股下に差し出した。
「こんなに少ないといくら傾けても落ちてこないからな。ほら、さっき沢山水を飲んだから小が近いんじゃないか?飲みたいんならあんたの小便で嵩ませば飲ませてやるよ」
痣だらけで痛む腹に力を込めて余計に痛みを増してでも飲みたかった。トイレでもない場所で用を足すとか、犯罪者のいいなりとか、見られながらも、その過程で山海経の門主として伝統を穢すこともゲロを口へ戻すことになることも小事であった。
無様を晒してでも甘味と温もりが欲しかった。
服に阻まれて狙い通りに入らないので、動かせる分だけでも腰を振って注ごうと努力する。どんな些細な事を不敬と看做されて取り上げられるのかが分からないから全力を出す。
努力の甲斐もあり小便の勢いがなくなった頃には器の半分程度は満たすことができた。
「うわキモ。流石にドン引きっすわ」
そうして作られた無色の尿が過半なせいで、底へへばり付く粉がよく見える汚物という名が相応しい液体は床へ捨てられた。分かり切った結果ではあったが溢れる涙を止められない。
顔の前で逆さに振って一滴だけ落としてくれたが、首と舌を限界まで伸ばして尚も指三本分は遠くで床へ吸い込まれた。
「まあ落ち着けって、そろそろ最後だからな。ところで最後は何処を殴られるのか分かるか?鳩尾臍部と来たら今度はその下の下腹部さ。
ところで先生ってのは魅力的なのかい?そういう話は五万と聞くけどあんたもそう思うのかい?いやなに。やっぱり幾ら門主といえども素敵な人と出会ったら、その人との子供が欲しくなったりするんかなって。
謝ったりはしないよ。だって悪いのは直ぐに私たちの活動を認めてくれなかったあんただからな。でも流石に下腹部を殴られて、その下で守られてる子宮がぶっ壊れて、子供を孕めなくなりました。なんてなったらちょっとは可哀そうだって思うけど」
手首を走る枷が喰い込む痛みを知るまで全力で逃げようとしていることに気付かなかった。それから漸く拳によって避妊という結果が自らの体に降りかかるかもしれない、という現実に追いついた。生命の遺伝子を残す本能が今までの比ではないほどに逃げようと肉全体に指令を与える。肉を裂いてでも枷から逃れようと、遠くへ逃げようと胎の底から胆力を絞る。
しかし、やはり、枷は冷たく不変であり、精々が揺れの最大値を更新した程度で奇跡は起きる気配がない。寧ろ水槽へ投げ込まれた生餌の如く、見る者の嗜虐心を煽る負の効果を得るに留まるのみであった。
顔面から血の気が引いて青ざめていくのがよく分かる。許して欲しいと懇願を重ねられるだけ重ねたいが、口枷のせいでそれすらも出来ない。最も無かったところで恐怖に震える口では真面に言葉を発せられたのかすら不明だ。
不自由な体で足掻いていても気に掛ける様子もなく、着々と準備を続けている。両脚を開き大地へどっしりと構え、弓を引き絞るが如く狙いを定める。彼女の視線は的を鋭く射抜く。どれだけ身を捩ったところで拳一つ分も逃げられない。
「──ッ」
打つ瞬間に力を込めて耐える。そうした浅知恵が頭に浮かんではいた。けれどいざその瞬間が来たところで早すぎて見えやしなかった。
殴られたと気付いたのは体の内側を伝う打撃音を聞き、拳を放った姿を捉え、脊髄を痛みが昇った後であった。
まず感じた異変は温かい液体が股を伝う感覚。絞り切ったと思い込んでいた膀胱から漏れた尿であってくれと祈る。
次に生命の根幹を揺らぐ不快感から胃液がせり上がる。とうに吐くものなど残っていないはずなのに、喉を焼く口から溢れる。
声は出なかった。胃液を吐いているのとは関係なく、許容量を超えた痛みと絶叫を脳が結びつけられなかったからだ。
最後に全身から脂汗が噴き出す。痛みという入力を胃液や声で出力できない分噴き出たような感覚。
全身で汗の不快感を覚えた頃、漸く子宮を外部から潰す痛みを意識が認識し始める。
悶えたりとか悲鳴を上げるよりも、攻撃された急所を守るために手をかざしたり、背中を丸めた防御体勢を取りたかった。勿論体を突き抜ける衝撃の最大値を更新したところで現実は変わらないので、手は後ろへ回されたままで、背中は張られ足を腹側でへ折り畳むことも出来ない。首から上だけ丸まり、結果として突き刺さった腕をよく見えた程度の結果しか残らなかった。
悪い夢だ。起きたら先生の膝の上で目を覚ますに違いない。そんな幸福を味わうのだからその前借で不幸を体験しているに違いない。浮ついた頭は都合のいい現実を夢想し、意識は深い水底へ沈む、
「もう一発!」
寸前。脇腹へ引いた腕が叩き込まれる。そして次は反対の腕が、また反対の拳が、絶え間なく子宮を殴り続け、重く鈍く低い音が内臓で反響する。
一撃打ち込まれる度に意識が飛びそうになるが、続く拳がそれを許さない。もうキサキの頭の中では山海経の生徒たちの安全など米粒ほども考えてはいなかった。時が戻るならこの犯罪組織の行動を諸手を上げて歓迎してもいい。そうじゃなくても、せめて一瞬だけでも意識を夢へ飛ばし、偽りの温もりを感じさせて欲しい。
しかし幾ら願おうとも時は戻らず、拳の雨が止むことも無い。ならばせめて女児のように大声を上げて泣き喚きたい。量販店で玩具を強請る子供のように床へ這いつくばって泣き喚きたい。その様子をカメラに収められて、販売をされてキヴォトス中に広がってもいい。一分だけでも許してくれるように交渉をしてもいい。
しかし開口具は言葉を封じ、大声だって満足に出せやしない。
キサキに出来るのは涙を流し続けて相手の体力が早く尽きることを祈るのみ。つまり自発的な行動は何一つない。
結局、子宮サンドバッグはキサキが体力の限界を迎えて気絶した後も続いた。
▽▲
「ちんけな犯罪組織が出たの。彼奴の事は捨て置け、どうせキヴォトス中で活動しておるのじゃ。もうこの山海経には残っておらぬじゃろう。そこへ人員を割くだけ無駄じゃ」
あの恐ろしい出来事の後、恐ろしいほど静かに自室で目覚めた。周囲に話を聞いてみても静かに自室に籠っていたと返されるばかり。本当に悪い夢なのではとも考えたが、腹中に残る痣がそれを否定する。
「……はい。…………しかし、そうは言っても門主様。被害者は増して行くばかり、それにまだ外へ逃げておらずに山海経へ残っている可能性も」
門主まで昇り詰めたキサキの頭脳を以てしても、下手人はおろか手法さえ思い付きやしなかった。唯一方法があるとするならば、この門主の部屋へ近づける者の中に、あの組織の工作員が紛れ込んでいれば可能かも知れない。
「話にならんの。そこまで思うのなら自分で探せばよかろう。勿論自らの使命は果たした後の話じゃが」
仲間を疑うことなど決してしたくない。しかし、自室へ知らないうちに置かれていた、底へココアの粉が張り付き軽く異臭を放つマグカップが、その考えを補強する。
「妾の決定に異存があるものはいるであろう。しかし、貴様らの我儘に付き合って自治区の運営を疎かにしてしまえばそれこそキヴォトスの笑いものじゃ」
とはいえマグカップが有無は行動に関係ない。心身に刻み付けられた恐怖から彼女たちの活動の咎めやしない。
「では、これにて会議は終了じゃ」
自治区の誰が犠牲になったとしても、門主様はもう被害に遭わない。そんなメッセージが届いたのならば、他の望みなどキサキには存在しないからだ。