283プロのプロデューサーと影でこっそりいい感じになっていた円香でしたが、透から「283プロの真実」を耳にしてしまいます。
現実を知る。
私の嫌いな表現だった。
現実を『知る』人間は、その時点で『現実』を知らない。見えていなければならないものを見落としている――そう突きつけられることに他ならないからだ。
『え、知らなかったの、樋口』
そうぽつりと口にした透の顔が頭から離れない。
まるで、箸の持ち方を知らない人を見るような目だった。
浅倉透ですら知っている常識を、樋口円香は知らなかった。
憮然とした自分の顔が、同性でも見惚れる綺麗な瞳に映っていた。
アットホームな283プロの皮膜の下には、見なければよかった現実がある。折り目正しく誠実な[[rb:大人 > あの人]]は、爽やかな笑顔の裏で、私の世界を裏切っていた。
掴みどころのない透の説明を噛み砕けば噛み砕くほど、体温が下がっていく。快晴の朝が、夕方の家路ではどんより曇っていた。
薄暗い住宅街に、ブーツの籠った足音が響く。
もう十分に反芻した。
もう十分に現実を知り直した。
あの人の声から逃げるように事務所を出てからも。
スーツの男性から目を逸らしながら改札を通ってからも。
座席の隅で、最寄り駅まで狸寝入りを決め込む間も。
――駅前の明るさを振り返る気にはなれなかった。
喉がヒリヒリした。
283プロの――プロデューサー。
あの人に抱いた警戒心が、こういう形で正しかったなんて。
とうにガードを解いて、腕の内側に入れてしまったのに。
透に愚痴なんて言わなければ、知らずにいられた。いっそのこと、その方が良かっただろうか――いや、それでは蚊帳の外の道化だ。
『最近さ、冬優子さんの仕事ばっかりじゃない?』
『ん、プロデューサー?』
『別にまぁ、冬優子さんは人気高いし、事務所の稼ぎ頭なんだろうけどさ』
『あ、あれか~? 樋愚痴円香』
『うっさい』
レッスンルームで水を飲みながらの軽口。
いつも通りの応酬だった。
突然、透が爆弾を放った。
『まぁ、してるからね、[[rb:営業 > ・・]]。[[rb:黛さんも > ・・・・]]』
『……どういうこと?』
聞き返して、後悔した。
どうして「ふーん」で終わらせなかったんだろう。
知ってしまうのと、知らないままでいるのと、どっちが良かったんだろう。
守ろうとして追ってきた幼馴染が、目の届かない所で誰かの手の中にいた。
よりにもよって。
よりにもよって――
よくある「枕営業」とはちょっと違うけれど、自身の芸能活動を支える柱が相手という点では似たようなものだと思う。事務所内枕営業とでもいうか。優先的に仕事を取ってきてもらうために、そういうコトをする流れに仕向けていくこともあるんだとか。私は、そういうつもりではなかった。
あの人は、まぁ――女の人が放っておかないと思う。
左手の薬指に指輪でもしていれば、また違っただろうけど。
日頃から見目麗しい美女や愛らしい女の子に囲まれて、額に汗して、いつも一生懸命で、あの人は誠実に笑う。そつがなくて、かゆい所にも手が届く。
いわゆるスーパーダーリンだ。「私は別に、絆されませんけど」と言う代わりに、皮肉を込めて「ミスターなにがし」と言ってやりたくなるぐらい。
彼に信頼以上の好意を向けている人がたくさんいるのは知っていた。知りたくなくても分かってしまう。たぶん、みんなそう。純真な小宮さんでさえ、きっと。
みんなそれとなく、互いの意識の矛先は悟っているはず。私みたいに。女の勘の持ち主が、283プロには山のようにいる。
顔がいいとは、よく言われた。あの人にも、「円香の目は綺麗だね」と歯の浮くようなことを言われた。でも、それだけ。私みたいな紛い物は、虚勢を張らなければ自分を守れない。中身を透かして見られたらすぐに化けの皮が剥がれる。
本物は違う。ルックスがいいなんて当たり前。283プロに私以外「人並の子」なんて一人もいない。顔が小さくて手足も長くて、笑った顔に華がある。心の底から愛想を振りまける。
よそのユニットの人と目が合った瞬間、生きる世界の層が違うと感じたことが、何度あっただろう。そんな、磨けば光る才能を秘めた原石が宝石になっていくのが、ここの事務所。
冬優子さんも、透も。
多分、有栖川さんとか、櫻木さんも。
……雛奈や小糸まで、そうかもしれない。
あの人と私的な関係を結んで、時に仕事の優劣をつけられている。
冬優子さんが最近伸びているのは、それだけプッシュが強いから。
プッシュしてもらうために、あの人が女の武器を隅々まで磨いているから。
ファンを裏切り、オスとメスになって、劇薬みたいな背徳に身を浸しているんだ。
(…………最低)
私はなんて愚かだったのだろう。
一緒に食事に行って、並んで街を歩いて。
夜空の下に広がる光の絨毯を見ながら、肩を寄せあって。
街から遠く離れたホテルで、夜を共に過ごして。
そんな風に、ガードを下げて。
あの人の特別になったのだと思い込んでいた。
(透、あっさりしてたな……)
one of themに過ぎなかったという無慈悲な現実。透はいつそれを知ってしまったんだろう。どこか諦めを帯びた横顔は、私よりも遠い場所を見つめていた。幼馴染で、実家も隣なのに、透は私より先に大人になっていた。
――何だろう、大人になるって。
私は大人になれたと思い込んでいた。
子どもはそのうち、勝手に大人になる。
そういうものだと無邪気に信じていた。
あの人に投げかける言葉が丸くなっていくのが怖かった。
打算のない「ありがとうございます」を口にする自分に冷や汗が出た。
これ以上内側に入られたら、見せたくない自分を見られてしまう。それが嫌だったはずなのに、ひたむきな熱に毒されていく日々に、抵抗できなくなっていった。
初めての夜は、私が引っ張ったつもりだった。流されるのは弱さの証。そう思い込んでいなければ、自分を守れなかった。踏ん張っていなければノクチルからも逃げてしまいそうで、歯を食いしばるしかなかった。
でもそれも、全部水の泡。
私は特別なんかじゃなかった。
選挙権を手にしても、アルコールの味を覚えても、大人になんてなっていなかった。シニカルな仮面を被って、虚勢の鎧を脱ぐこともできなくて。
「……ただいま」
一人暮らしの部屋に戻ると、背後で静かに扉が閉まる。
ブーツを揃えて、コートを架けて、リビングのソファーに腰を下ろす。
耳鳴りがしそうな沈黙に、鼻を啜る音が混じり始める。
誰だろう。うるさいな。マナー違反だ。
左の頬が湿っていた。
雨なんて降ってたっけ。
「あ……」
サイドテーブルに置かれた鏡に、一滴の涙が映っていた。
嫌だ。
泣くんじゃない。
私はそんなに弱くない――
私は鏡を裏返し、自分からも目を背けてしまった。
2.に続きます。