大手の商社に勤めて昇進したいわゆる「勝ち組」だが、大学時代に抱えたトラウマが基で女性経験がなく、空っぽの現実の穴埋めをアイドルの推し活という現実逃避で埋めていた。「ふゆちゃん」が最推しだったが、彼女の現実を目にしてしまったことで、次の推しとして樋口円香に目をつける。
現実は時に劇物だ。
それを直視し続けていられるほど、人間は強くない。
だから人間には現実逃避が必要なんだ。
僕のその信条は、四十年生きてきても変わらなかった。
野口聡、四十歳。国立大学に合格し、大手の商社に入社した。仕事を覚え、昇進して、責任ばかりが増えていったが、世間一般で言う「勝ち組のルート」とやらに乗っている自覚も多少は生まれていた。
世の中で生きるというのは、調整の連続だ。人付き合いを上手にやれなければ、組織でのし上がれない。誰かに嫌われないように、場を荒らさないように、自分をすり減らしながら、少しずつ感情の角を削っていく。
そうして気づけば、何者でもない自分だけが残った。ただ、お金ならある。金のかかる趣味を持たない独り身では貯まっていくばかりだ。アイドルへの「推し活」が、重役になった僕の現実逃避先だった。
僕の目を引いたのは、ふゆちゃん――黛冬優子だった。
甘くて可愛らしい喋りに、つやつやした清楚な黒髪。いわゆる「地雷系」のファッションも、大学時代に好きだったあの子の面影があった。にこにこしていて、誰よりも場の空気を読めて、気配りができるところも、あの子に似ていた。
僕はふゆちゃんに夢中になった。成功の内側に広がる空洞を満たすのに、アイドルは最高のコンテンツだった。夢と愛想を振りまき、輝こうとひたむきな姿が胸を打つ。「あぁ、尊かったなぁ」という実感は、平日の満員電車に耐える心のスタミナを育んでくれる。
理想に酩酊する時間は間違いなく幸せだった。
もちろん、頭では分かっていた。
アイドルが100%の現実だと信じるほど、僕はナイーブじゃない。
アイドルは商品だ。企画があり、コンセプトがあり、裏方のスタッフがプロデュースする「パッケージされた夢」だ。誰のものでもない個人をスカウトし、あるいはオーディションで篩にかけて、選別する。極上の素材を腕の確かなシェフが仕上げる一皿――それを分かっていて、僕たちはアイドルに熱中する。
「ふゆちゃん」にも一人の人間としての顔はあるんだろう。
そう分かっていたけれど、僕は彼女に理想の女の子を投影していた。
だからだろう。
ネットで見かけた疑惑の流出音声は、僕が想像もしなかったほど、深く胸を抉った。
ステージ近くで録音された(おそらく盗撮と思われる)スタッフとの雑談のようだった。「アンタ」という二人称が聞こえた。ふわっと丸い声と根っこは同じだが、鋭くて通る声。強気で、テンポが速くて、乱暴だとも感じた。
その声の主がふゆちゃんでさえなければ、それはそれで素敵な子だな、と思った。語気は強かったけれど、熱意が乗っていた。何か強固な意思を孕んだ、ある意味真っ直ぐな芯が通っていた。
だけど、ふゆちゃんの甘いビジュアルに合うとは、やはり言えない。何より僕を打ちのめしたのは、「ふゆちゃんは作り物なのではないか」という3%の疑念が真実を引き当ててしまったことだった。
ネットでは黛冬優子の噂があった。
「冬優子は猫被りだ」と。
あの笑顔は演出されたもので、あの声色は作ったもので、あざといほどの清楚さも計算されたもの。
でも、納得できてしまった。あの強気な女の子もまた黛冬優子で、彼女の理想か、あるいは事務所の方針という名の仮面を忠実に被っている。アイドルという存在に対して誠実に向き合おうとしているともいえた。
――ただ、僕は醒めてしまった。
真実を追う熱を、手放してしまった。
ふゆちゃんは、喉の奥に詰まる現実になってしまった。
* * * * *
それから一年。性懲りもなく次の逃避先を求めて彷徨っていた僕の目に、四人組アイドルが留まった。ノクチルという、全員が幼馴染同士のユニット。リーダー浅倉透の透明感が印象的だったけれど、その脇に寄り添う冷えた顔立ちの子が気になった。
樋口円香。
クールな佇まいは、ストレイライトの和泉愛依ちゃんを思い起こさせた。でも、ミステリアスな寡黙さの奥に情熱を秘めた愛依ちゃんよりも、円香ちゃんの目つきは底冷えしていた。
前髪のヘアピンと、薄いパープルピンクの瞳に、左目の泣きボクロがトレードマーク。抑圧的な喋り方と低く湿った声は、ふゆちゃんと好対照だった。ふゆちゃんとタイプは全く違うけれど、円香ちゃんは円香ちゃんで魅力的だ。
SNSで見る彼女は淡々とした美少女なのに、ステージでは不器用なほどまっすぐだし、流れる汗を隠しもせず、手を振ってくれた。逆光で見えなかったけれど、笑っていたように思う。あの温度差に、僕は救われたのかもしれない。
真面目さと不真面目さが同居した不器用な彼女に、僕の心は惹きつけられていた。そして何より、ムスッとした顔に滲む卑屈さに――僕はシンパシーを覚えていたのだと思う。
この日、僕はノクチルの握手会に来ていた。回を重ねるたびに、列が長くなっていく。僕はただの消費者なのに、なぜか誇らしくなる。
いつものように僕は円香ちゃんの列に並ぶ。ふゆちゃんの時とは違い、列の先頭の奪い合いに参加しようとは思わなかった。前から10番目ぐらい。
目立ちすぎず、でも遠目に移る姿がだんだん大きくなっていく過程も楽しめる、ちょうどいい位置。そんなベストポジションに、今日も陣取ることができた。
スタッフが流れを調整する。前の客が脇を通り過ぎるたび、仕切り越しに見える円香ちゃんの姿が少しずつ近づいてくる。
透明のパーテーション越しに光が反射し、彼女の輪郭を曖昧にしていた。人の密度が上がっていくのに、ざわめきが静まっていく。自分の靴底の音だけが響く。
僕の番になった。スタッフの合図で、前に進む。
円香ちゃんは目の前の客が去った瞬間、すっと顔を上げた。
うっすらと唇が弧を描く。
作り笑顔だろう。だが露骨な疑わしさもない。
その中間にある、ほどよい自然な温度だった。
「……いつもありがとうございます」
彼女の声は、思っていたより低く、大人びていた。
「ノクチル、人気上がってるね。まだ列があんなに」
「ええ、おかげ様で」
今年で二十歳だったか。弊社に新卒で入ってきた大卒社員と比べても落ち着いている。傷一つない手がそっと僕の手のひらを包んだ。理想の世界の住人が、僕たちの現実と地続きに生きている実感を持てる瞬間だ。
「次は、どこへ?」
「もう一度、円香ちゃんに並ぼうかな、って」
「それは光栄ですが、是非みんなに会ってもらえると。浅倉は列が長いですし、小糸はどうでしょう。ファンサが優しいですよ、あの子」
体温が離れていく。
ところが――
(……紙?)
カサついたしわくちゃのものが、手のひらに貼りついている。
「これは――」
「すみません、お時間です」
厄介ファンにはなれない。
スタッフに促されて、急ぎ足で列を離れた。
遠ざかりながら、丸められた紙に視線を落とす。
メッセージアプリのIDが、ルーズリーフに書かれていた。
「連絡ください」と手書き文字も添えられている。
一体なんだろう。
誰かの悪戯か。いや、そんなはずはない。
握手の一瞬で、彼女が何かを渡すなんて――。
会場の隅でスマートフォンを取り出し、IDを入力する。
「――えっ」
マドカというユーザー名が、画面に表示されていた。
3.に続きます。