※この作品はR-18です。

樋口円香の救済   作:夜の機動戦士

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握手会で対面した円香から受け取ったくしゃくしゃの紙には、メッセージアプリのIDが書かれていた。そのユーザー名は「マドカ」。マドカからの呼び出しに応じ、野口は夜の高円寺に向かった。


3.現実に傷ついた僕たち

 高円寺駅の南口は、夜になってもざわついている。串焼きの焦げた匂いと笑い声が、ネオンの光の方から漂ってくる。天気予報に雨のマークはなかったはずだけど、どこかの雲が気まぐれを起こしたらしい。アスファルトは濃い鼠色に染まっている。

 

 シャツの襟に滲んだ湿気を指で押さえ、スマートフォンの画面を僕はまた見直した。

 

〝今夜、高円寺駅に、八時。来られますか。〟

 

 それだけの短いメッセージ。

 名乗りも、挨拶もなかった。

 文末の句点が、やけに重たく見えた。

 

 ユーザー名は「マドカ」。

 丸いアイコンは臙脂色に塗りつぶされている。

 

 ――冗談か、あるいは罠か。

 それでも、手は勝手に「お伺いします」と打っていた。

 誰が来るのか分からないまま、約束の時間を過ぎて十五分。

 人波の中で立ち止まるのは、自分だけのような気がしてきた。

 

 電車がホームに滑り込む音が聞こえた。その一瞬、視界の端で何かが揺れる。白い傘だ。ふんわりしたボブカットを揺らし、女の子が周辺を一瞥した。

 

「あっ……?」

 

 芸能人が道端を歩いているなんて、考えてみれば当たり前のことではある。ただ、僕たちは普段そういう人種をテレビの中やステージの上でしか見ないから、人混みに紛れてしまうと意外と気付けない。

 

(――もしかして、円香ちゃん……?)

 

 目を疑った。握手会で会ったばかりの女の子が数メートルの距離にいる。単なる一般人の僕になんて気付くはずがない――と思ったら、視線がぶつかる。

 

 まさか、そんなはずが。

 彼女が近寄ってくる。

 こっちを見ている。

 何か僕が悪事を働いたのだろうか。

 

「逃げることないじゃないですか」

「す……すみません」

 

 心臓が突然暴れ出した。

 前髪を留める何本かのヘアピン。

 薄いパープルピンクの瞳に泣きボクロ。

 今日の雨みたいな冷たい目つき。

 どこか投げやりに結ばれた口元。

 

 間違いない。

 人違いではない。

 彼女は、あの子――樋口円香だ。

 

「今日の今日。突然の呼び出しなのに、よく応じてくれましたね」

 

 雨の音にかき消されるほどの小さな声。

 それでも、確かにそう言った。

 彼女の頬には、傘の縁から伝った雨粒が一筋、光っていた。

 

「ひ……樋口円香ちゃん?」

「そんなに似てますかね?」

「えっ」

「ドッペルゲンガーみたいなものだと思います。確かに下の名前は同じですが、樋口さんのことは嫌いですよ、私」

 

 雨粒が傘の縁を叩く音が、やけに耳に残った。言葉を探しているうちに、彼女は踵を返した。改札の外に、ぬかるんだ光の筋が伸びている。

 

「冷えますし、場所を移しませんか?」

 

 彼女の瞳を、飲み屋の黄色いネオンサインが照らしていた。

 

 

 * * * * *

 

 

「野口聡、さん……」

「すみません、つい習慣的に渡してしまいましたが、別に捨ててしまっても」

「……それは失礼ですよ」

 

 ウーロンハイのグラスを前に、彼女は僕の名刺をしまった。名刺入れを持っているようには見えない若さだったけれど、この子がもし僕の思い描く通りの人物だったら、自然なことだった。

 

 暖簾の奥は、比較的静かだった。夜の高円寺にしては落ち着いた店で、壁には安い短冊メニューが並んでいる。生ビールの泡が喉を撫でても、緊張は解けない。

 

「この会社の名前、知ってます」

「一応、大手の一角ではありますね」

 

 円香ちゃんが(十中八九本人だろう)、グラスの水滴を指で掬った。

 

「商社って、どんな仕事をするんですか」

 

 俯いたまま、視線だけがこちらに上がってくる。長い睫毛に縁どられた目は、心臓を鷲掴みにするほど美しい。目元のホクロが、瞳の涼しげな透明感を強調していた。

 

「簡単に言うと、ある会社と別の会社の取引の間に立つ仕事です。エネルギーとか、金属とか、機械とか――総合商社なので、ありとあらゆるものを」

 

 ふぅん、と鼻で呟き、円香ちゃんがグラスの縁に唇をつけた。ちびりちびり、一口ずつ呑むタイプらしい。こんな距離で彼女の唇を見るのなんて当然初めてだ。直視するのが恥ずかしくなって、目を逸らす。

 

「事業推進部長――って、やっぱり有能なんですね。社会の仕組みもよく知らない馬鹿な若者にも、一言で分かりやすく仕事内容を伝えられて。……すみません、口が悪くて」

 

 商社とか、事業推進部長とか、そういうワードになると途端に抑揚が平坦になる。彼女はあくまでも正体を隠していたが、僕たちの生きる世界は決定的にズレている。

 

 彼女がカラカラとグラスの氷を鳴らしていると、出汁焼き卵が運ばれてきた。おあつらえ向きに、偶数個に切り分けられている。二人で食べる前提にしたような配慮が、かえって居心地を悪くする。

 

「お酒、飲むんですね」

「もうそういう歳です。……便利ですよね、お酒って」

「便利?」

 

 唇の端が吊り上がった。

 ほんのわずかな棘が笑いに混じっている。

 

「やらかしても言い訳になるじゃないですか。『お酒の勢いで』って。そして周りの人も、それならしょうがないかってなぁなぁに許してしまう」

 

 アルコールは人の心を解放する。良い意味でも、悪い意味でも。警戒心を緩めて商談を進める便利なツールではあるが、思わぬトラブルを引き起こすリスクと背中合わせだ。

 

「野口さん、おいくつですか?」

「……今年、四十になりました」

 

 僕の左手に、円香ちゃんの視線が刺さった。

 そこに何も着けていないのも見られただろう。

 

「自分の半分しか生きていない小娘に、敬語なんて使う意味あります?」

「そうかもしれませんが、いきなりタメ口で話すような関係性でもないでしょう。社会人の標準装備ですよ」

「……そうですか」

 

 握手会ではもっと親しげだったくせに。

 言外にそう責められている気がした。

 

 でも、円香ちゃんはそれ以上何も言わなかった。――まるで、知らないふりを続けることが、二人の間のルールだと言わんばかりに。

 

「私から見て、四十年って途方もない長さに思えます。それだけ生きてると、嫌なものもいっぱい見てきたんじゃないですか」

「……そうですね」

 

 相槌で時間を稼ぎながら、彼女の腹を探った。マドカという他人の空似を演じて、初対面の振りをしている。それなのに、どうもネガティブな話をしたいらしい。

 

 笑いも怒りもしない、ニュートラルな眼差しが、僕の返事を待っていた。その沈黙には含みがあった。「あなたも同類なんですよね」と確認を取られているみたいだった。

 

「……嫌なものなんて、腐るほど見てきましたよ」

「たとえば?」

 

 ジョッキに残ったビールを空にして、心の準備をしながらタブレット端末で次の一杯を探る。

 

「大学の頃、好きな人がいました」

「……そういう方向ですか」

「マドカさんの年齢を聞いて、思い出したんです」

 

 四十歳の腹に炭酸はもう十分。ちょうど目の前のグラスに誘われるように、ウーロンハイを注文した。彼女の箸がたくあんを摘まむ。

 

「いわゆる『サークルの姫』ってヤツです。優しくて、面倒見がよくて――女に免疫のない男だったら、コロッと行っちゃうんです」

「アイドルとか、そんな感じですか」

 

(円香ちゃんが、それを言うのかい)

 

 口が苦笑の形に歪むのが、自分でも分かった。

 

「でも、気づいたら僕は笑い話のネタにされてた。友達の間で、『あいつ、また勘違いしてる』って、下品な笑い声だったなぁ」

「……ひどい人。優しい顔をしてたなら、余計にそう」

「僕は学びましたよ。頑張るべき現実が他にある。そっちに目を向ければいい、って。現実逃避してたわけですね。信じたいものを信じて、見たくないものには背を向けてた」

 

 お客様お帰りでーす、という威勢のいい声が響き、「ありがとうございました」が重なる。数人の大学生がぞろぞろと店を出ていく所だった。

 

「それが、ずっと尾を引いたんでしょうね。社会に出て、いろんな人と関わって、表の顔と裏の顔があるのは当たり前だって分かってるのに――どこかで、まだ理想を探してる」

「……理想、ですか」

「はい。昇進して、会社でも嫌なものが見えるようになってきて、また現実逃避がしたくなった。そんなときに、ふゆちゃんを見つけたんです」

 

 彼女の目がわずかに動いた。

 黛冬優子さんですか、とフルネームが返ってくる。

 

「大学のあの子に、少し似てたんです。あの甘い声とか、笑う時の仕草とか、全体的な雰囲気が。それで、私は――ふゆちゃんにあの頃の自分を救ってほしかったんでしょうね。彼女の推し活を逃げ場にしていました」

「逃げ場?」

「ええ。あの子は完璧でしたよ。清楚で、明るくて、優しくて、絶対に裏切らない。……そう信じてた」

 

 円香ちゃんがようやく、グラスの中身を飲み干した所だった。先ほどの一団が帰ってから、店内のボリュームが少し下がった気がする。グラスの氷が回る音が、やけに大きく響いた。

 

「その言い方だと……ふゆちゃんからも、何か酷いことを?」

 

 円香ちゃんの物言いは慎重だった。懐からICレコーダーでも取り出さんばかりに、言葉を選んでいた。

 

「裏切られたというより、現実を見ただけです。アイドルのふゆちゃんの裏側には、黛冬優子という、同じ姿の別人がいて。あぁ、本当にバカだった。そんな気はしてたんですよ。どちらかといえば、僕が入れ込みすぎていただけというか……ははっ、奥さんどころか子どもいてもいい年頃なのに、何やってるんだろうって」

 

 一人のアイドルに失望した話を、乗り換えた先のアイドルにする。

 不快感を露にされても当然だと思った。

 

 だけど円香ちゃんは、彼女がどう感じていたにしても、思いを顔に出さなかった。自嘲の笑いが落ち着くのを待って、彼女が小さく息を吐いた。

 

「建前と本音、ですよね。どちらも本物なのに、一方から見ればもう一方は偽物で」

「え……?」

「そんなの誰だって当たり前なのに、都合のいい面ばかり期待されるのって、息が詰まります。いつか来る破綻を思うと気が滅入りますよね。――あくまでも、一般論として」

 

 冷静な顔にしては、情感のこもったトーンだった。まるで、自分自身に言い聞かせているような。背もたれに寄りかかっていた円香ちゃんが、少し前のめりになった。揺れる前髪から、シャンプーの匂いがふわりと香る。

 

 グラスの氷が、最後の一つを残して溶け切った。円香ちゃんはしばらく無言で見つめていたが、やがて唇を開く。

 

「……私にも、いました。入れ込む相手というか――期待してくる人が」

 

 反射的に僕は息を呑んだ。その声音は、懐かしさでも恨みでもなく――ただ、冷めた静けさに満ちていた。

 

「折り目正しく、品行方正で、うんざりするぐらい真っ直ぐな人。期待されることが全く嬉しくなかったといえば、嘘になります。外から自分の価値を認めてもらうことでもありますから。……でも、だんだん怖くなっていきました。膨らむ期待に答える重圧に、潰されそうで。本当の私には重すぎた。それでも――答えないわけにはいかなくて」

 

 彼女はグラスの縁を親指でなぞった。言葉の合間を繋ぐ食べ物は、あらかた片付いてしまっている。

 

「だから、皮肉を言って、きつく当たって。嫌われた方が楽だと思っていました。予防線を張っておけば、言い訳が効く。でも――ずかずかその人は内心に入り込んできて、虚勢の内側を覗こうとして」

 

 円香ちゃんの肩が、わずかに震えた。

 照明の反射が髪に滲んで、表情をぼかす。

 

「気づいたら、私はあの人の侵入を許していました。必要もないのに二人で会ったりもして。でもある日、分かってしまいました。最初から私は対等に見られていなかった。打算と意図が、そこにはあった」

 

 そこまで言って、彼女は一度、口を閉ざした。沈黙がふたりの間に滑り込み、店の奥からテレビの笑い声がかすかに聞こえる。

 

「……そのとき、思いました。疑っていた頃の自分のほうが、ずっと正しかったって。それでも、信じてしまったんです。絆されてあの人を信じた自分が、一番、許せなかった」

 

 グラスの底に残った氷が、静かに音を立てて崩れる。その音が、彼女の中で終わらなかった何かを、そっと告げていた。

 

 店内の時計は十時を回っていた。ジョッキもグラスも空っぽで、テーブルの上は来店時のように片づけられている。会話の熱が引いたて静けさが僕たちの間を冷やしていく。

 

 円香ちゃんがスマートフォンに目を落とした。短く息を整えると、微かに赤らんだ顔で、鞄を手に取る。

 

「そろそろ出ましょうか」

「あ……ええ、そうですね。もういい時間だ」

「お会計は――」

「いやいやいや、社会人が学生と割り勘なんて」

 

 学生とは言ったものの、円香ちゃんは特殊だ。僕よりも稼いでいるかもしれない。それでも年齢差という大義名分がある。彼女の財布を出す仕草を制して、僕は重なったレシートを全て自分の手に収めた。

 

「……ごちそうさまです」

 

 軽く頭を下げる仕草に、握手会の光景がフラッシュバックする。アイドルとサシ飲みなんて、どれだけお金を積もうが実現できないだろう。ただ、どちらが誰にこれを口外しても大問題だ。

 

 いったい円香ちゃんは、今夜のことをどうするつもりなんだろう。あくまでも「マドカ」という他人の空似で押し通すのだろうか。

 

 レジで会計を済ませると、円香ちゃんがすぐ傍にいた。休日使いのリュックを、その手に持ってくれていた。「重いですね」の一言と共にリュックを渡すと、彼女はレザーのショルダーバッグを肩にかけ、先に暖簾をくぐっていった。

 

 

 

 外は夜更けの湿気を含んだ空気。

 歩道に積もる水滴が、車のライトを受けてかすかに光る。

 円香ちゃんの透き通るような肌に、街のネオンが映っていた。

 

「……この後、どうされます?」

「この後……?」

 

 駅の方へ体を向ける僕に、円香ちゃんが一歩詰めてきた。その声が妙に近い。畳んだ傘の先が触れ合っていた。

 

「いえ、特に考えてなかったです。会社人としてなら二軒目がある所ですが」

「真面目ですね」

 

 彼女がわずかに口角を上げた。まるで「そこから先」を予感させるような間が、短く置かれた。

 

 交差点の信号が青に変わる。

 人波が動き出す中、彼女がふと立ち止まった。

 

「……もう少し、夢を見ませんか」

「…………!?」

 

 耳を疑った。

 続きを誘われている。

 でも、その瞳は冗談の色をしていない。

 

「現実逃避、したくないですか。――少しだけ」

 

 言葉は穏やかだったが、心臓を掴まれるような圧があった。

 握手会のときに触れた手のぬくもりが、不意に蘇る。

 

「駅から十分ぐらい歩きますけど」

「……それって」

「分かりますよね。――誘ってる(・・・・)んです」

 

 進行方向の歩行者用信号が、青に変わる。

 右折する車のヘッドライトが僕たちを照らす。

 その光の中で、彼女の睫毛が震えた。

 

「それとも、〝また〟幻滅してしまうでしょうか。今から訂正しても、手遅れですが」

「マドカさん……」

「円香ちゃん(・・・・・)でも、いいんですよ」

 

 何かを諦めたように、円香ちゃんが目を伏せた。雨上がりの夜の湿った空気が、頬を掠めていく。歩行者用信号が、僕の返事を急かすように点滅を始めた。

 

「……分かった。もう少し付き合うよ」

 

 彼女に手を差し伸べたのか。

 彼女が手を引いたのか。

 

 どちらかは分からなかったけれど、僕たちは小走りで横断歩道を渡った。

 




4.に続きます。4.からは濡れ場が始まります。
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