高円寺駅の南口は、夜になってもざわついている。串焼きの焦げた匂いと笑い声が、ネオンの光の方から漂ってくる。天気予報に雨のマークはなかったはずだけど、どこかの雲が気まぐれを起こしたらしい。アスファルトは濃い鼠色に染まっている。
シャツの襟に滲んだ湿気を指で押さえ、スマートフォンの画面を僕はまた見直した。
〝今夜、高円寺駅に、八時。来られますか。〟
それだけの短いメッセージ。
名乗りも、挨拶もなかった。
文末の句点が、やけに重たく見えた。
ユーザー名は「マドカ」。
丸いアイコンは臙脂色に塗りつぶされている。
――冗談か、あるいは罠か。
それでも、手は勝手に「お伺いします」と打っていた。
誰が来るのか分からないまま、約束の時間を過ぎて十五分。
人波の中で立ち止まるのは、自分だけのような気がしてきた。
電車がホームに滑り込む音が聞こえた。その一瞬、視界の端で何かが揺れる。白い傘だ。ふんわりしたボブカットを揺らし、女の子が周辺を一瞥した。
「あっ……?」
芸能人が道端を歩いているなんて、考えてみれば当たり前のことではある。ただ、僕たちは普段そういう人種をテレビの中やステージの上でしか見ないから、人混みに紛れてしまうと意外と気付けない。
(――もしかして、円香ちゃん……?)
目を疑った。握手会で会ったばかりの女の子が数メートルの距離にいる。単なる一般人の僕になんて気付くはずがない――と思ったら、視線がぶつかる。
まさか、そんなはずが。
彼女が近寄ってくる。
こっちを見ている。
何か僕が悪事を働いたのだろうか。
「逃げることないじゃないですか」
「す……すみません」
心臓が突然暴れ出した。
前髪を留める何本かのヘアピン。
薄いパープルピンクの瞳に泣きボクロ。
今日の雨みたいな冷たい目つき。
どこか投げやりに結ばれた口元。
間違いない。
人違いではない。
彼女は、あの子――樋口円香だ。
「今日の今日。突然の呼び出しなのに、よく応じてくれましたね」
雨の音にかき消されるほどの小さな声。
それでも、確かにそう言った。
彼女の頬には、傘の縁から伝った雨粒が一筋、光っていた。
「ひ……樋口円香ちゃん?」
「そんなに似てますかね?」
「えっ」
「ドッペルゲンガーみたいなものだと思います。確かに下の名前は同じですが、樋口さんのことは嫌いですよ、私」
雨粒が傘の縁を叩く音が、やけに耳に残った。言葉を探しているうちに、彼女は踵を返した。改札の外に、ぬかるんだ光の筋が伸びている。
「冷えますし、場所を移しませんか?」
彼女の瞳を、飲み屋の黄色いネオンサインが照らしていた。
* * * * *
「野口聡、さん……」
「すみません、つい習慣的に渡してしまいましたが、別に捨ててしまっても」
「……それは失礼ですよ」
ウーロンハイのグラスを前に、彼女は僕の名刺をしまった。名刺入れを持っているようには見えない若さだったけれど、この子がもし僕の思い描く通りの人物だったら、自然なことだった。
暖簾の奥は、比較的静かだった。夜の高円寺にしては落ち着いた店で、壁には安い短冊メニューが並んでいる。生ビールの泡が喉を撫でても、緊張は解けない。
「この会社の名前、知ってます」
「一応、大手の一角ではありますね」
円香ちゃんが(十中八九本人だろう)、グラスの水滴を指で掬った。
「商社って、どんな仕事をするんですか」
俯いたまま、視線だけがこちらに上がってくる。長い睫毛に縁どられた目は、心臓を鷲掴みにするほど美しい。目元のホクロが、瞳の涼しげな透明感を強調していた。
「簡単に言うと、ある会社と別の会社の取引の間に立つ仕事です。エネルギーとか、金属とか、機械とか――総合商社なので、ありとあらゆるものを」
ふぅん、と鼻で呟き、円香ちゃんがグラスの縁に唇をつけた。ちびりちびり、一口ずつ呑むタイプらしい。こんな距離で彼女の唇を見るのなんて当然初めてだ。直視するのが恥ずかしくなって、目を逸らす。
「事業推進部長――って、やっぱり有能なんですね。社会の仕組みもよく知らない馬鹿な若者にも、一言で分かりやすく仕事内容を伝えられて。……すみません、口が悪くて」
商社とか、事業推進部長とか、そういうワードになると途端に抑揚が平坦になる。彼女はあくまでも正体を隠していたが、僕たちの生きる世界は決定的にズレている。
彼女がカラカラとグラスの氷を鳴らしていると、出汁焼き卵が運ばれてきた。おあつらえ向きに、偶数個に切り分けられている。二人で食べる前提にしたような配慮が、かえって居心地を悪くする。
「お酒、飲むんですね」
「もうそういう歳です。……便利ですよね、お酒って」
「便利?」
唇の端が吊り上がった。
ほんのわずかな棘が笑いに混じっている。
「やらかしても言い訳になるじゃないですか。『お酒の勢いで』って。そして周りの人も、それならしょうがないかってなぁなぁに許してしまう」
アルコールは人の心を解放する。良い意味でも、悪い意味でも。警戒心を緩めて商談を進める便利なツールではあるが、思わぬトラブルを引き起こすリスクと背中合わせだ。
「野口さん、おいくつですか?」
「……今年、四十になりました」
僕の左手に、円香ちゃんの視線が刺さった。
そこに何も着けていないのも見られただろう。
「自分の半分しか生きていない小娘に、敬語なんて使う意味あります?」
「そうかもしれませんが、いきなりタメ口で話すような関係性でもないでしょう。社会人の標準装備ですよ」
「……そうですか」
握手会ではもっと親しげだったくせに。
言外にそう責められている気がした。
でも、円香ちゃんはそれ以上何も言わなかった。――まるで、知らないふりを続けることが、二人の間のルールだと言わんばかりに。
「私から見て、四十年って途方もない長さに思えます。それだけ生きてると、嫌なものもいっぱい見てきたんじゃないですか」
「……そうですね」
相槌で時間を稼ぎながら、彼女の腹を探った。マドカという他人の空似を演じて、初対面の振りをしている。それなのに、どうもネガティブな話をしたいらしい。
笑いも怒りもしない、ニュートラルな眼差しが、僕の返事を待っていた。その沈黙には含みがあった。「あなたも同類なんですよね」と確認を取られているみたいだった。
「……嫌なものなんて、腐るほど見てきましたよ」
「たとえば?」
ジョッキに残ったビールを空にして、心の準備をしながらタブレット端末で次の一杯を探る。
「大学の頃、好きな人がいました」
「……そういう方向ですか」
「マドカさんの年齢を聞いて、思い出したんです」
四十歳の腹に炭酸はもう十分。ちょうど目の前のグラスに誘われるように、ウーロンハイを注文した。彼女の箸がたくあんを摘まむ。
「いわゆる『サークルの姫』ってヤツです。優しくて、面倒見がよくて――女に免疫のない男だったら、コロッと行っちゃうんです」
「アイドルとか、そんな感じですか」
(円香ちゃんが、それを言うのかい)
口が苦笑の形に歪むのが、自分でも分かった。
「でも、気づいたら僕は笑い話のネタにされてた。友達の間で、『あいつ、また勘違いしてる』って、下品な笑い声だったなぁ」
「……ひどい人。優しい顔をしてたなら、余計にそう」
「僕は学びましたよ。頑張るべき現実が他にある。そっちに目を向ければいい、って。現実逃避してたわけですね。信じたいものを信じて、見たくないものには背を向けてた」
お客様お帰りでーす、という威勢のいい声が響き、「ありがとうございました」が重なる。数人の大学生がぞろぞろと店を出ていく所だった。
「それが、ずっと尾を引いたんでしょうね。社会に出て、いろんな人と関わって、表の顔と裏の顔があるのは当たり前だって分かってるのに――どこかで、まだ理想を探してる」
「……理想、ですか」
「はい。昇進して、会社でも嫌なものが見えるようになってきて、また現実逃避がしたくなった。そんなときに、ふゆちゃんを見つけたんです」
彼女の目がわずかに動いた。
黛冬優子さんですか、とフルネームが返ってくる。
「大学のあの子に、少し似てたんです。あの甘い声とか、笑う時の仕草とか、全体的な雰囲気が。それで、私は――ふゆちゃんにあの頃の自分を救ってほしかったんでしょうね。彼女の推し活を逃げ場にしていました」
「逃げ場?」
「ええ。あの子は完璧でしたよ。清楚で、明るくて、優しくて、絶対に裏切らない。……そう信じてた」
円香ちゃんがようやく、グラスの中身を飲み干した所だった。先ほどの一団が帰ってから、店内のボリュームが少し下がった気がする。グラスの氷が回る音が、やけに大きく響いた。
「その言い方だと……ふゆちゃんからも、何か酷いことを?」
円香ちゃんの物言いは慎重だった。懐からICレコーダーでも取り出さんばかりに、言葉を選んでいた。
「裏切られたというより、現実を見ただけです。アイドルのふゆちゃんの裏側には、黛冬優子という、同じ姿の別人がいて。あぁ、本当にバカだった。そんな気はしてたんですよ。どちらかといえば、僕が入れ込みすぎていただけというか……ははっ、奥さんどころか子どもいてもいい年頃なのに、何やってるんだろうって」
一人のアイドルに失望した話を、乗り換えた先のアイドルにする。
不快感を露にされても当然だと思った。
だけど円香ちゃんは、彼女がどう感じていたにしても、思いを顔に出さなかった。自嘲の笑いが落ち着くのを待って、彼女が小さく息を吐いた。
「建前と本音、ですよね。どちらも本物なのに、一方から見ればもう一方は偽物で」
「え……?」
「そんなの誰だって当たり前なのに、都合のいい面ばかり期待されるのって、息が詰まります。いつか来る破綻を思うと気が滅入りますよね。――あくまでも、一般論として」
冷静な顔にしては、情感のこもったトーンだった。まるで、自分自身に言い聞かせているような。背もたれに寄りかかっていた円香ちゃんが、少し前のめりになった。揺れる前髪から、シャンプーの匂いがふわりと香る。
グラスの氷が、最後の一つを残して溶け切った。円香ちゃんはしばらく無言で見つめていたが、やがて唇を開く。
「……私にも、いました。入れ込む相手というか――期待してくる人が」
反射的に僕は息を呑んだ。その声音は、懐かしさでも恨みでもなく――ただ、冷めた静けさに満ちていた。
「折り目正しく、品行方正で、うんざりするぐらい真っ直ぐな人。期待されることが全く嬉しくなかったといえば、嘘になります。外から自分の価値を認めてもらうことでもありますから。……でも、だんだん怖くなっていきました。膨らむ期待に答える重圧に、潰されそうで。本当の私には重すぎた。それでも――答えないわけにはいかなくて」
彼女はグラスの縁を親指でなぞった。言葉の合間を繋ぐ食べ物は、あらかた片付いてしまっている。
「だから、皮肉を言って、きつく当たって。嫌われた方が楽だと思っていました。予防線を張っておけば、言い訳が効く。でも――ずかずかその人は内心に入り込んできて、虚勢の内側を覗こうとして」
円香ちゃんの肩が、わずかに震えた。
照明の反射が髪に滲んで、表情をぼかす。
「気づいたら、私はあの人の侵入を許していました。必要もないのに二人で会ったりもして。でもある日、分かってしまいました。最初から私は対等に見られていなかった。打算と意図が、そこにはあった」
そこまで言って、彼女は一度、口を閉ざした。沈黙がふたりの間に滑り込み、店の奥からテレビの笑い声がかすかに聞こえる。
「……そのとき、思いました。疑っていた頃の自分のほうが、ずっと正しかったって。それでも、信じてしまったんです。絆されてあの人を信じた自分が、一番、許せなかった」
グラスの底に残った氷が、静かに音を立てて崩れる。その音が、彼女の中で終わらなかった何かを、そっと告げていた。
店内の時計は十時を回っていた。ジョッキもグラスも空っぽで、テーブルの上は来店時のように片づけられている。会話の熱が引いたて静けさが僕たちの間を冷やしていく。
円香ちゃんがスマートフォンに目を落とした。短く息を整えると、微かに赤らんだ顔で、鞄を手に取る。
「そろそろ出ましょうか」
「あ……ええ、そうですね。もういい時間だ」
「お会計は――」
「いやいやいや、社会人が学生と割り勘なんて」
学生とは言ったものの、円香ちゃんは特殊だ。僕よりも稼いでいるかもしれない。それでも年齢差という大義名分がある。彼女の財布を出す仕草を制して、僕は重なったレシートを全て自分の手に収めた。
「……ごちそうさまです」
軽く頭を下げる仕草に、握手会の光景がフラッシュバックする。アイドルとサシ飲みなんて、どれだけお金を積もうが実現できないだろう。ただ、どちらが誰にこれを口外しても大問題だ。
いったい円香ちゃんは、今夜のことをどうするつもりなんだろう。あくまでも「マドカ」という他人の空似で押し通すのだろうか。
レジで会計を済ませると、円香ちゃんがすぐ傍にいた。休日使いのリュックを、その手に持ってくれていた。「重いですね」の一言と共にリュックを渡すと、彼女はレザーのショルダーバッグを肩にかけ、先に暖簾をくぐっていった。
外は夜更けの湿気を含んだ空気。
歩道に積もる水滴が、車のライトを受けてかすかに光る。
円香ちゃんの透き通るような肌に、街のネオンが映っていた。
「……この後、どうされます?」
「この後……?」
駅の方へ体を向ける僕に、円香ちゃんが一歩詰めてきた。その声が妙に近い。畳んだ傘の先が触れ合っていた。
「いえ、特に考えてなかったです。会社人としてなら二軒目がある所ですが」
「真面目ですね」
彼女がわずかに口角を上げた。まるで「そこから先」を予感させるような間が、短く置かれた。
交差点の信号が青に変わる。
人波が動き出す中、彼女がふと立ち止まった。
「……もう少し、夢を見ませんか」
「…………!?」
耳を疑った。
続きを誘われている。
でも、その瞳は冗談の色をしていない。
「現実逃避、したくないですか。――少しだけ」
言葉は穏やかだったが、心臓を掴まれるような圧があった。
握手会のときに触れた手のぬくもりが、不意に蘇る。
「駅から十分ぐらい歩きますけど」
「……それって」
「分かりますよね。――
進行方向の歩行者用信号が、青に変わる。
右折する車のヘッドライトが僕たちを照らす。
その光の中で、彼女の睫毛が震えた。
「それとも、〝また〟幻滅してしまうでしょうか。今から訂正しても、手遅れですが」
「マドカさん……」
「
何かを諦めたように、円香ちゃんが目を伏せた。雨上がりの夜の湿った空気が、頬を掠めていく。歩行者用信号が、僕の返事を急かすように点滅を始めた。
「……分かった。もう少し付き合うよ」
彼女に手を差し伸べたのか。
彼女が手を引いたのか。
どちらかは分からなかったけれど、僕たちは小走りで横断歩道を渡った。
4.に続きます。4.からは濡れ場が始まります。