野口は再びノクチルの握手会を訪れていた。
円香に報告すべき事項を、その胸に秘めて。
ノクチルの握手会は、前回よりもさらに盛況だった。前から10番目を狙ってみたけれど、今日は25番目ぐらいだろうか。ずらっと並ぶ長蛇の列の彼方に、微かにあのボブカットが揺れている。
二か月前の、あの夜の後。僕と円香ちゃんは互いをブロックした。もう二度と連絡を取り合えないように。僕も納得していたし、彼女も納得していた。ずるずる接点を握り続けるのは、どちらのためにもならなかった。
この日まで僕は彼女のSNSにいいねもつけなかったし、リプライなんてもちろん送らなかった。情報自体は追っていたけれど、意識的に円香ちゃんから遠ざかろうとしていたかもしれない。
それでも、切ってしまおうとは思わなかった。僕はあのアイドルの内側にいる女の子――ただの樋口円香が少しだけ心配だった。ただそれは、性愛の対象でもなく、ましてや疑似的な恋愛感情でもなく、それとは層が一枚異なる感情だった。
列が少しずつ進む。スタッフの「お一人様10秒です、ご協力くださーい」という声が耳に入るたび、胸の奥が締め付けられるようだった。あの10秒が、どれだけ重いものになるのかを、僕はよく知っている。
ようやく順番が近づき、彼女の姿が少しずつ大きくなってきた。
樋口円香。
画面越しでも、ステージの上でもない、現実の円香ちゃん。
アイドルとしてのすました顔つきで、涼しげに佇んでいた。
無表情――に見えて、実際には細かい表情の変化がある。
視線を合わせ、頷き、口角をわずかに動かして相手の言葉を受け取る。
プロの表情を見ているうちに、心のどこかでホッとした。
「次の方、どうぞ」
係員の声で、現実に引き戻された。僕の番だ。心臓の音が大きくなる。彼女の目は既に僕を捉えていた。心なしか、瞳孔がきゅっと膨らんだように見える。きっと気のせいだけど。
「円香ちゃん、久しぶり」
「……いつもありがとうございます」
マニュアル通りの対応だったけれど、その語尾にほんの僅かな揺れがあった。あの夜の記憶が、彼女の中にも残っている――その確信が、言葉にならないまま伝わってくる。僕の手を取った彼女の指先は、プロとしての距離を保ちながらも、どこか優しかった。
「……婚活、始めたんだ」
思わず、口が勝手に動いた。
彼女の表情が、一瞬だけ止まる。
「今からじゃ遅いかもしれないし、まだサイトに登録したばかりだけど」
手を握ったまま、円香ちゃんが静止した。
よく回る頭で、適切な言葉を探していた。
「”|It is never too late to be what you might have been.《なりたかった自分になるのに、遅すぎることなんてない》” ……ご武運を」
それだけ言って、彼女は目を細めて笑った。
ファンサービスの笑顔でも、営業スマイルでもない。
柔らかくていい笑顔だった。
スタッフの声が「お時間です」と告げ、手が離される。
手のひらの熱と指先の温もりが消えていく。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
――これで、よかった。
僕は「現実」に戻れた。
あの夜に置き去りにしたものを、ようやく送り出せた気がした。
6-2に続きます。