今夜の戦術方針 作:自棄ノ原
書籍版1巻 コミック版3巻読了後を推奨
彼女は、ゆっくりと寝台の上へ降ろされた。柔らかいマットが揺れ、身体が埋もれる。
オーク用の寝台は大きくて当たり前だが、これは小部屋一つ分ほどもある。グスタフの大柄な体格に合わせ、さらに余裕を持たせたのだろう。字義通り、
その広さが、彼女に物を思わせる。
(ずっと、独り寝だったのかな)
上体を起こした彼女から少し離れて、グスタフも寝台に腰かけた。
なぜ離れるのか、彼女には分からない。この後に起こるべきことも、為すべきことも、実のところはろくに知らない。
女しかいないダークエルフの中でも、同族同士で嗜みのある者は何かを心得ているのだろうが、彼女はそうではないのだ。おまけに氏族長の立場と権威があるから、その類の艶話とは酒席であっても距離を置いてきた。
だから、自ら迫り、いよいよという時を迎えても、何も思い浮かばない。
いたずらに呼吸が早まり、心音が早鐘を打つ。百二十年前、ロザリンド会戦に臨んだ時にも、これほど緊張はしなかったように思う。
積極的に誘っておきながら、何もかも牡任せになりそうだ。どうやら仕方がない。彼女が忠誠と愛情をともに捧げる牡、オークの王グスタフ・ファルケンハインなら、信じ、委ねて間違いはあるまい。
ずっと年下とはいえ、彼の方は――彼の方は?
心得があるのだろうか。あって欲しい。頼もしく、たくましく、自分を導いて欲しいという気持ちがある。
しかし同時に、まったく逆の不穏な心が、熾火のように燻っている。
(誰かと比べられたり、するのだろうか)
グスタフはオークだが、同族を色恋の目では見られないらしい。王でありながら婚姻の勧めを全く却下し、登極から百二十年も独身を貫いてきたのが、その証だ。
性愛に貪欲なオークには考えられない異常な潔癖。それが、ディネルースに気づきを与えた端緒の一つだ。
グスタフはオークではない。
今の肉体はオークでも、身体に宿る心とも、魂とも呼ぶべき部分は、明らかに違う。
彼は人間だ。
エルフの伝説にいう
かつて白エルフとして生まれた転生者たちも、その自意識は人間であり、エルフ族の庇護者を任じていたという。
同様に、オークとして生まれ、過ごし、王として君臨しても、グスタフの意識は人間なのだ。君主としてオークの民を愛しはしても、個として性愛の対象にはならない――いや、できないに違いない。種がちがうのだから。だから彼は、人間の女に近い、ダークエルフのディネルースに惹かれてくれた。
ディネルースは、グスタフの手に目をやった。躊躇いがちに、彼女の方へ伸びてくる。抱きすくめ、引き寄せられる。
彼女は抗わない。オークの厚い胸に抱き寄せられる。
温かく、弾力がある。軍服越しに王の心音が伝わる。
牡の腕がやや緩み、至近に見つめ合う格好になる。
牡もまた緊張していると分かり、彼女は少し安堵した。
だから、口づけを受け入れるのに、恐れはしても迷う心はなかった。唇が触れ合うとき、オークの牙の先が当たらぬように牡が気を使っているのが分かった。
最初は触れあうのみ、ついばむように。回を重ねるうち、少しずつ深く触れ合い、擦れ合い、混ざり合うように。
まったく未知の感触が、彼女から明敏な思考を奪っていく。唇が重なるたび、息は荒くなっていく。彼女の王もそうなのだと、ごく間近の呼吸音で分かる。これほど近くに誰かの息遣いを感じるのは、無論、初めてのことだ。
グスタフは、ようやく彼女の唇を解放し、次いで他の部分へ移った。頬に。額に。こめかみに。そっと触れていくオークの唇の心地よさに、瞳を閉じる。すると、そのまぶたにまで。皮膚の薄いあたりを探るように唇が触れていく。こそばゆさが、牡の温度と感触を刻印していく。
その繰り返しの中で、彼女の緊張は解けていった。それは牡にも伝わったのだろう。ついにオークの太ましい指が、彼女の軍服の胸ボタンにかかった。
そこで動きが止まる。
恐れと混乱の中にいるディネルースを、グスタフは見つめている。
何だろう。私は、何かまずいことをしたのだろうか。
わけが分からなくなりかける。しばしの静止の後、彼が無言のうちに尋ねているのだと、やっと了解した。
彼女が小さく頷くと、牡の手は動きを再開した。ひとつ、またひとつと、彼女の上衣のボタンを外す。外し終えると、彼女の動きを手伝って、仕立てられたばかりの黒い軍服から上半身を解き放つ。その下の、刺繍の一つもない支給のシャツに指をかける。
その更に下は、胸部にサラシを巻いているだけだ。人間の婦人がつけるという、華麗な下着を彼女は持たない。そもそもオルクセン王国の衣類商は、エルフの女性用下着など扱っていない。軍から支給されない肌着類は、自分たちで縫った簡素な品しかないのだ。
彼女が何も考えられずにいるうちに、シャツも剥ぎ取られた。乗馬戦闘のために胸部を押さえ込むという、ただそれだけの実用品にオークの手が伸びる。
彼女を怯えさせず、しかし間も置かず、滑らかな手並みに思えた。すると、不安と期待に制圧された脳裏で、疑念の熾火が立ち上がった。
言葉が口をついてしまったのは、彼女がまったく混乱していたせいである。
「グスタフ」
最後の防壁を奪い去る寸前で、グスタフの手はぴくりと震えて止まった。
口に出したからには、彼女はもう止まれなかった。
「あなたは……慣れているの」
言ってから甚だ後悔したが、もう遅い。このような時に聞くべきことか、否、そもそも恋仲の相手にそのようなことを尋ねるのが真っ当なことなのか、彼女に判断材料はない。
「いや、いいんだ。当然だ。私は気にしない……」
と、そう言葉に出してから、これでは「気にしている」と自白したも同然だと気づいた。だから正直になることにした。もう恥も外聞もない。
「き、気にしないから、教えて欲しい。あなたの方は……あるのか」
言葉尻は消えいるようで、彼女は俯いてしまう。上衣を脱がされている時よりも恥ずかしい。
答えた王の低音からは迷いが感じられた。
「『今の私』になってからは……いや、無くはない。私は王だから。今は後悔している」
「どうして?」
「傷つけてしまったから」
意外な言葉に、闇エルフは顔をあげ、グスタフの表情を伺った。そこには押し殺した悲痛さがあった。グスタフはすぐ、彼女の疑念に気づいた。
「相手の気持ちを、ね。昔の話だ。デュートネ戦争より前で、私は即位したばかりだったが……ああ、いや。このような話は」
「いい。私が知りたいんだ。嫉妬じゃない、とは言えないが。ただ……あなたは、人間なんだろう」
人間の自意識を持ちながら、オークとして生きる。仮面を被って生きる。オークとしての、そして王としての。
いまディネルースの関心は、君主の振る舞いではなく、彼女の肌に触れようとする一頭の牡の正体にある。それを知らないで、自分だけ裸になることはできないと、彼女は己の理不尽さを眼差しだけで訴えた。
彼女の王は、やがて語りはじめた。
「重臣たちの心遣いでね。私にオークの妃を娶らせようとしたんだ。
当時の私は、人間だった頃の記憶が頻繁に立ち現れて、ずいぶん混乱していた。オークとしての自分と、人間だった頃の自分が入り混じっていたんだ。
もちろん、何とかオークとしての自分を保とうとした。なにせ国王だからね。そして王は妃を娶るべきだと、皆は考えていた。私が断ると、気を回してくれたわけだ。経験がないから牝が怖いのだろうと。
それで、美しい牝のオークを私の寝所に遣わして、ああ、何というか……」
「手解きをさせようとしたわけだ」
あの百戦錬磨の老将軍たち、シュヴェーリン、ゼーベックやツィーテンが雁首を並べ、そんな下世話な相談をしたかと想像すると、ディネルースはおかしかった。
しかし、不思議と納得できもする。彼らは臣下であって、王に絶対の忠誠を誓っているが、どこか庇護者を任じているふしもある。シュヴェーリンは特にそうだ。
だからグスタフは手慣れているということかと、彼女は納得した。不満はない、はずである。
「そうか。そうだろうな。うん、当然だ。国王として――」
彼女を遮った王の言葉は、意外な苦さに満ちていた。
「そうだ。王として、義務だと思った。でも、できなかった」
グスタフは、かつて見たことがない表情をしている。誰かを嘲り、罵倒するような顔だ。
「私の中の何かが、猛烈に拒否したんだ。でも、相手を傷つけたくもない。しかし、こう思ってしまうんだ。私の前に身体を投げ出しているのは人間じゃなくて……動物の牝なんだと。私はオークなのに!」
王は戦慄き、己の顔を手でおさえた。もう、その表情を窺うことはできない。
「無理矢理に、何とかしようとした。オークになろうとしな。そして吐いた。相手は私を労わってくれたよ。緊張したんだろうと。そんな優しい彼女を、私は汚く感じていたというのに」
日頃の威厳を無くして、グスタフは王というより怯える囚人のようだった。
「そんなことが何度もあった。相手を変えてね。それがまずかった。当時の私は、ますます混乱して……危ういところだった。
よりによって、デュートネ戦争の直前だ。そんな時に、頼みの国王が『私は人間だ』なんて口走り始めたんだ。一時は実権を取り上げられたよ。責任の重さで悩乱したと思われてたんだ。廃位されなかったのは、シュヴェーリンたちが私の狂態を隠してくれたおかげだ」
想像を超えた告白に、ディネルースは二の句が告げなかった。グスタフもまた、彼女に何かを言わせるつもりはないらしい。ただ、体内の澱みを吐き出そうとしているようだ。
「やがて諦めた。私の心は、やはり人間だ。それでもオークの王だ……さもないと、デュートネには勝てない。国が滅ぶ。種族が絶滅する。
だから覚悟を決めたんだ。私は人間じゃないが、完全なオークにもなれない。牡としてオークを愛することはできない。でも王として、民を愛することはできると……もう、ずっと昔の話だ」
王は虚脱したように続けた。
「ああ、人間の頃は、また別だよ。顔も思い出せないが、妻もいたと思う。もちろん人間の。これが、君に話せる全てだ。嫌になったかい」
ディネルースは激しくかぶりをふった。酷く後悔している。彼をこのように傷つけることは、全く彼女の本意ではなかった。
「グスタフ、私は……私は……」
言葉が震え、自分の目尻に涙が滲むのが分かった。正しい言葉がでてこない。しかし、何かを伝えてやらねばならない。彼女の目の前にいる、この世界で独りきりの生き物に、伝えるべきことがある。
その時、天啓が走った。
グスタフは曝け出したのだ。傷つきながら、彼女のために。ならば、自分の番だ。
国王、そう呼ばれる一頭の牡に、彼女は挑みかかった。力任せに抱きしめる。その大きな頭部を、自分の胸に押し付ける。
しばらくそうした後、腕を解くと、王の軍服に手をかけ、瞬く間に暴いていく。グスタフは身じろぎし、彼女のなすがままになった。たちまちオークの上半身が現れた。
そのあちこちに、彼女は唇で触れていく。逞しい肩に、分厚い胸板に。貫禄のある腹部から脇腹に手を這わし、上肢の形を確かめるように撫でていく。
ひとしきり確かめ終えると、そっとグスタフの身体を押して、寝台に横たわらせる。その上からのしかかり、唇と唇を合わせた。
しばらくして離れ、オークの顔を上から見つめた。思いは伝わったらしかった。
しかし、そうと確信はしきれない。なにせ経験がないのだ。だから言葉にもすることにした。
「グスタフ、あなたが好きだ。人間でも、オークでも、そのどちらでもなくてたっていい。ひとりで苦しんできた、優しい、あなたのことが」
「ディネルース……」
「傷つけて、すまない。あなたも、私に遠慮しなくていい。まだ私を欲しがってくれるなら」
そう言うと、彼女はまだ纏ったままだった晒しを外した。牡が小さく息を飲むのがわかった。
横たわったままの牡のベルトに手をかけた。バックルを外す作業の間に、牡の存在感に彼女の肘が触れた。軍袴の内側で牡が震えたのが分かり、どきりとしたが、躊躇ってはいられない。
牡は彼女の作業にあわせ、わずかに腰を上げた。軍袴と下履きを一挙に剥ぎ取り、膝の辺りまで下ろす。あとは牡が自ら足を動かして脱いだようだ。
ディネルースはといえば、露わになった部分の雄大さに息を飲んでいる。エルフの体でいえば、腕ほどの太さがあるのではないか。
不安が増大したが、迷いは全くない。これ以上、彼の心を傷つけるわけにはいかないのだ。自分の身体がいくらか傷ついたとしても。
いや、違う。
自分が苦しがれば、グスタフはやはり酷く傷つくだろう。申し訳なく思うだろう。人間でなくなった己を、もっと嫌いになってしまうかもしれない。
それではいけない。彼のことが好きなら、きちんと受け入れてあげなければ。彼にも、いまの自分を好きになって貰いたい。
そう悟った衝動に従って、彼女の手が牡のその部分に触れ、唇が後に続いた。