今夜の戦術方針 作:自棄ノ原
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翌朝――国王官邸の者たちは、誰もが少しばかり戸惑い、そして幸福だった。
執事たるフィリクス・アルベルトは、昨夜遅くになってもアンダリエル少将が「お帰りにならない」ことに気づくと、朝食も二名分を用意するよう、直ちに料理長へ使いを走らせた。
料理長は早朝の仕込みに備えて既に床についていたが、連絡を受けるや、なんと直ちに出勤。腕によりをかけて豪華な朝食を作り始めた。
なにせ国王の大慶事、祝い事という思いから、朝食というより晩餐並みの質と量ができあがった。勢いのまま、二段重ねのホールケーキまで焼いてしまった。
払暁、料理長が嬉々としてケーキにデコレーションを施していた時、コボルトの鼻で異変に気づいたフィリクス執事が、副官部部長のダンヴィッツ少佐を伴って厨房に姿を現し、揃って仰天した。
こうして急遽、執事、副官部部長、料理長からなる官邸三頭会議が開かれた。
なるほど、料理長の気持ちは分かる。臣下としては、今日この日を国家の祝日にするよう内務大臣に陳情したいくらいだ。
しかし、当の国王と少将の気持ちからすれば、いかがなものであろう。いきなり大袈裟に祝福されるのも風情がなく、できたばかりの雰囲気に水を差しはすまいか。そして......万が一、そのせいで破局を招いたら不忠の極みではないか、云々。
なお、残りものとなった料理長の労作たちは、官邸職員一同で責任を持って片付けるということにした。勝手ながらも、内々の祝いのつもりである。
ようやく日が昇った後、綿密な談合はおおよそ徒労に終わった。
執事が、今日だけは国王陛下を起こしにいかず、朝食の配膳を監督していたところ、当の国王が意外にも早く姿を現したのだ。
しかも、少将を伴っていなかった。
「やあ、おはよう。美味そうだな。もう食べても良いか?」
あんぐりと口をあけた執事に、国王はくっくと笑って教えた。
「少将なら、先ほど帰ったぞ。私も朝食に誘ったんだが、旅団の課業に遅刻するわけにはいかんと言ってな。官舎に戻って着替えるそうだ」
「さ、左様でございましたか」
「うん。ああ、食事は下げなくていい。私が二名分、頂こう。それくらいは軽く入りそうだ」
そう言って席につき、水の一杯を飲んだところで、国王は何気なさそうに言った。
「……今夜の夕食も、二名分頼むよ。明日の朝もだ。そのような日が増えると思う」
執事は湧き上がる喜色を抑えるのに苦労した。
「かしこまりました、陛下」
「今後は、彼女の洗濯も頼むことになる。ああ、その時は、なんだが」
「家政婦長に申しつけておきます。少将閣下のお召し物は、我らの目には触れぬようにと」
「ありがとう。彼女は気にしないかもしれないがな」
話しながら、王は既に一名分の半ば以上を食べ尽くして、おや、という顔をした。鼻が良いのはコボルトだけではない。
「何やら良い匂いがするな。今朝はデザートも用意してくれたのか?」
談合はともかく、ケーキは無駄にならなかった。
眠気を感じつつ、料理長は満足だった。執事も、副官も、家政婦長に侍女や従僕たちも、少しだけ増えた仕事を心から喜んで、やたら豪華な賄い食にフォークをつけた。
誰もが幸福だった。
その少し前。
目を覚ました瞬間から、ディネルース・アンダリエルは幸福だった。
目の前に滑らかなオークの肌があった。まだ半ば眠った意識で、それを撫でる。眠っている間も、そしてこれからの日常も、その感触と温もりはそばにありつづけてくれる。その確信が心と体の深い部分にある。
初めて感じる満ち足りた気持ちと、全身の気だるさの中で身をよじり、視界の中に時計らしきものを見つけた。
直ちに飛び起きる。
ここは国王官邸。私は旅団長。そして今日は平日だ。
ヴァルターベルクの衛戍地に戻り、朝から訓練の指揮を取らなければ。命からがら亡命し、見知らぬ土地で必死に新生活を築きつつある一万二千の同胞。その誰もから一心に頼りにされている自分が、朝帰りで遅刻? あり得ない。
「ディネルース……起きたのか」
そう呟いた牡の方は、まだ半ば眠っているようだった。
「急いで戻る! あなたは寝てていい」
脱いだままの衣服がベッドまわりに散らばっている。それを集めようと、牡の身体から降りて一歩を踏み出し、生じた痛みにうずくまってしまう。
「大丈夫か。痛むのかい」
直ちに覚醒したらしいグスタフが気遣ってくれる。原因は明らかだが、彼に『悪いことをした』と思わせるのは本意ではない。
「だいじょうぶ……」
いや、違うな。そうではない。もう、正直になっていい相手なのだ。
「……では、なさそうだ。いささか、きつい」
「医師を呼ぶか?」
「いや、そこまでじゃない。怪我はしていないよ。どっちかというと、筋肉痛だ。慣れない姿勢で……一応、エリクシエルを貰えるか?」
グスタフはそそくさと棚に向かい、万能薬の小瓶を取り出した。無言で彼女に差し出してくる。その表情に申し訳なさを隠しているのが分かった。
受け取って一息に飲み干してから、ディネルースは微笑んだ。
「ありがとう。放っておいても構わないくらいだが、乗馬に差し支えると困るから」
「そうか。うん、ならばよかった。ディネルース、その……」
まだ不安げなオークの頬に口付けを与える。
「もう一つお願いがあるんだが、グスタフ」
「何だろうか」
「気づいたんだが、着替えがないのは困る。今度、持ってきてもいいか?」
「ああ、いいとも。もちろんだ。君の服入れを用意しておくよ」
「いつまでに?」
「すぐにも」
「今夜までに」
「わかった。今夜までに」
ふたりして含羞を浮かべつつ、口元を緩ませたのだった。
「ああ、それから」
「何でも言ってくれ」
「まことに恐れ多いが、我が王よ。向こうを向いててくれないか。服を着るから」
慌てて背を向ける王の滑稽さにくすりと笑い、彼女はそそくさと身支度をした。拭うべきところを拭い、まだ湿りを残す肌着を身につける。
帰ったら着替えなければ。もちろん、湯も使おう。女世帯で気付かれないはずがない。なにより彼女自身が恥ずかしくてたまらない。
だけど、官舎に戻る道のりだけは、このままだ。今朝は着替えがないのだから、これは仕方のないことなのだ。
彼女は軍服のボタンを止め終えた。
牡の頬に口付けをもう一つして、短い抱擁を交わす。そして急いで官邸を出る。
牡の手が触れた服、昨夜の記憶を残す生地に包まれて、早朝の街路に愛馬を駆る。
彼女の幸福な朝だった。
女が慌ただしく出ていった後、ひとりで身繕いをする、国王もまた幸福だった。
ずっと独りで過ごしてきた寝室に、彼女の存在がもう染み付いているように思えた。現官邸を建設し、暮らすようになって数十年になるというのに、帰る所を新たに得た心地がしている。
速足に去る騎乗姿を窓から見送ると、急速な空腹を覚えた。執務の前に湯を使うことにして、部屋着で朝食に向かう。誰も起こしに来なかったのは、心遣いに違いない。
用意の朝食はやはり二名分だったが、軽く平らげてしまえそうだ。無性に腹が減っている。活力が湧いてくる。どんなことでもできる気がする。
その瞬間、脳天を衝撃が走った。
数十年ぶりの感覚だ。ロザリンド会戦のあと、初めて雨を呼んだ時から始まった現象。前世の記憶の甦りである。
もう来ないと思っていた。意味のある記憶、役に立つ知識は、もう残らず思い出したつもりでいたから。
しかし、来た。
それは一瞬の映像だった。彼を見つめ、涙ぐむ老女がいた。髪は白く、目尻には皺があり、頬は薄い。しかし、この世の誰より美しい、その女の顔。
きっと何かの間違いだ。勝手な妄想だ。これが記憶であるはずがない。
なんとなれば、彼女はエルフ。年老いることはないのだ。そして何より、あの世界にエルフはいない。
しかし――脳裏を貫いた老女のイメージは。耳は尖っておらず、肌の色は薄いが、その顔形と印象は。あたかもディネルース・アンダリエルが人間となり、穏やかに年老いたかのようだった。
グスタフは苦笑した。あり得ない。まだ寝ぼけているのだろう。やはり朝食の後にシャワーを浴びて、目覚ましにしなければ。
その後は仕事が山積みだ。エルフィンドとの将来の開戦を見据えて、銃後の統治体制について内務大臣と詰めておかねば。参謀本部からも、侵攻計画について大きな報告があるらしい。
間違いがあってはいけない。国家と種族の未来をかけた全面戦争……なに、楽な仕事だ。
私はオークの王。千万の魔種族を率いる君主なのだ。その証拠に今日からは、世界一の美姫が側にいる。まさしく魔王に違いない。
今ならば、この世界の全てだって、自在に動かしてみせよう。
この上なく爽快な気分で、二名分の朝食に、なぜか用意があったケーキまで平らげた。
食後のコーヒーを傾けながら、窓の外に目をやる。
光が満ちている。鳥の声がする。
なんと幸福な朝だろう。
(おわり)