うなじの痕がつくまで 作:自棄ノ原
原作2巻 コミック3巻読了後推奨
兵どもの訓練を終えた夕方、ディネルース旅団長は馬場に居残る習慣がある。彼女自身の訓練のために馬を練り、技を磨くのである。
旅団長たるもの、指揮ぶりがよいだけではいけない。馬術においても、旅団中一番とはいかないまでも、相当に秀でているのが望ましい。
少将の身で自ら乗馬突撃する機会などはあり得ないが、それでも「さすがは……」と仰ぎ見られる個人技があれば、旅団員への統率力は高まる。また、旅団長自身も練磨に励む姿勢を見せることで、編成されたばかりの未熟な騎兵たちの訓練意欲を高めてやる意味もある。
今夕は、参謀長にして長年の友、イアヴァスリル中佐を伴い、ともに愛馬を駆って、ひとしきり汗を流したところだ。
息を整えつつ馬首を返し、再び走路へ向けたところで、後ろからの視線を感じた。
「ヴァスリー?」
腹心にして長年の妹分は、追従しつつ、考え込んでいるようだった。やがて騎乗のまま言った。
「旅団長、もう少し背の力を緩めてみてはいかがですか」
馬術ならばイアヴァスリルの方が上である。彼女はかつて、ディネルースの隣の村で氏族長を務めていた。その村は平地が多く、農耕馬を飼っていたのだ。ベレリアント時代から豊かな乗馬経験をもつ友の助言に、ディネルースは小首を傾げた。
「背を、か? 力を抜いては姿勢がブレるんじゃないか?」
「完全に脱力するのではないのです。伸ばしながら緩める。空から引っ張られているように想像して下さい」
ディネルースは言われるままにした。頭頂部を吊り下げられている気分になる。自然、背は緩み、肩は僅かに下がった。知らぬ内に肩を怒らせていたことが分かった。
「そうです。そうして、ある程度は馬の動きに任せて下さい。所詮、走るのは騎手ではなく馬です。ある意味、良い荷物にならねばなりません」
「ある程度、というのが難しそうだな」
得たりとばかり、イアヴァスリルは余裕の笑みを見せた。
「そこはそれ、愛馬と馴染むしかありませんね。馬を御しつつ、委ねるところは委ねて、二者で一体になるのです」
「委ねるところは委ねて、か……」
ディネルースは、その言葉を反復し、内心で転がした。
委ねるところは委ねて。
それが昔から苦手なのだ。氏族随一の狩人、皆が頼りにする姉として、何でも率先してやってきた。
そんな彼女をよく知る長年の友は、参謀というより妹分の顔になると、年の離れた姉を気遣うように言った。
「姉さまは、昔から肩肘を張りすぎですから。私たちもおります。今少し、気楽にお過ごしください。このところ訓練の後も、すぐ国王官邸に出仕されて」
「出仕というほどでは……」と、ディネルースは受け流そうとするが、うまく言葉がでてこない。
「分かっております。ご機嫌伺い、というものでしょう? 我ら亡命闇エルフは微妙な立場ですから。でも近頃は、首都のオークたちも優しく迎えてくれておりますよ。姉さまも、そろそろ政治を忘れられても……」
働き過ぎを気遣う言葉に、ディネルースは曖昧にうなづいた。国王との仲のことは、まだ誰にも言っていない。聡明なイアヴァスリルが気づかないのは、生真面目さゆえか、常識が邪魔をしているに違いない。
闇エルフは女のみの種族で、牡と添うことはない。まして異種族のオーク相手にとは、確かに想像しづらいことではある。
だからイアヴァスリルは、ディネルースが足繁く国王に伺候しているのを、政治的に解釈しているのだ。亡命種族の代表としてオーク王の機嫌を伺い、卑屈なほどに日参し、忠誠心を態度で示す。そうして種族の地位を確保すべく、疲れた身体に鞭打って努めている――と、思い込まれているわけだった。
気まずい。
ひたすらに気まずい。
心配してくれるのが申し訳ない。
確かに彼女は、国王官邸へ毎日通っている。
国王、グスタフ・ファルケンハインと食事を共にし、あれこれと語り合い、そして毎夜、臥所を共にするためである。
確かに当初は、政治的意図もあった。オークの国王が噂通りに淫蕩で、彼女の身体を望めば、種族の安泰のために甘んじて差し出すつもりだった。白エルフによる虐殺から逃げ場をくれた王には、既にそれでも返せぬ大恩を受けていた。
そして実際、彼女は国王に身を捧げることになったわけだが、それは全く、彼女自身の主体的な意志の結果だった。
恋をしている。
生まれて初めて、種族の差を超えて異性に惹かれた。相手も自分に好意を持っていると信じ、思い切って彼女から誘い、そうなるようになった。種族や立場ではなく、女と牡として共にいたいと思ったのだ。
とはいえ、国王とそのような仲になってから、数日が経ったばかり。妹分に事情を打ち明けるには心の準備ができていない。なにせディネルースは、長い生涯を経ていても、色恋沙汰は今回が初めてなのである。生真面目なイアヴァスリルにどう思われるか、という不安もある。
いつか話すことになるだろうが、まだその時ではないと思われた。さりとて、嘘をつくのも心苦しい。
だから彼女は、妹分の心配に曖昧な言葉で応じた。
「大丈夫さ、ヴァスリー。疲れてはいないよ。国王陛下は私によくしてくれる。心配することはない」
イアヴァスリルは微笑を浮かべて頷いた。
それで誤魔化せたと思った。