うなじの痕がつくまで 作:自棄ノ原
原作2巻 コミック3巻読了後推奨
上達の手応えを掴むまで馬場を何周もし、日暮間近になって、ようやく執務室に引き上げた。酷使した太腿は重りをつけられたようで、膝は笑い、階段を登るにも疲労を感じた。
書類仕事は明日にまわすことにして、早々に荷物をまとめると、再び愛馬に跨って退勤する。営門を越え、自分の官舎に向かう。
しかし、その門前を通り過ぎると、大通りを避けて国王官邸に向かった。まっすぐ官邸に行くより遠回りになる。国王官邸もアンファングリア旅団員が警護しているから、旅団長の日々の訪いは隠しようもないのだが、勇んで直行していると思われるのは恥ずかしいのだ。
旅団長の朝帰りについては、知らぬふりをしてくれているらしい。彼女の氏族長時代から親しく、忠誠心の篤い精兵を選抜したのが、妙なところで役に立っているのだ。
ただし、今のところは、である。噂が立つまで時間の問題だろうとは、ディネルースも覚悟している。覚悟だけは、だが。
「国王陛下は、本日の執務が長引いておりまして。少将閣下におかれましては、夕食までゆるりとお過ごしありたいと仰せでございました」
コボルトの執事はそう言って頭を下げた。愛妾としてではなく、あくまで軍高官の女性としての扱いが、ディネルースには好ましい。
「かしこまった。憚りながら、今日も湯をお借りできるだろうか。ご夕食に遅れるよりはと、訓練の後、そのまま来てしまったのだ」
「かしこまりました。お預かりしているお召し物を運ばせます」
毎日泊まっているといえ、ディネルースは恐縮したように礼を言った。
そして熱いシャワーを浴び、海綿の石鹸で身体を清めていく。くれぐれも入念に。馬や汗の匂いがすると、あの牡から思われないように。
型破りな国王は、手や舌をどこに伸ばしてくるやら分からない。政務や軍務に劣らぬほど、手抜きなく、入念に接してくるのだ。
あれから幾夜も続けて臥所を共にし、その度、丹念に幸されたことを思い出す。いつも丁寧に、しかし執拗に、彼女を開花させていく。
(馬場では馬を馴らしているのに、こちらでは馴らされていくみたいだ)
などと、妙な喩えを思いつき、彼女は熱いシャワーの中で人知れず赤面した。
浴室から出て身体を拭い、彼女の吊るし棚から、替えの軍服を手に取る。糊の効いた硬質な感触が手に触れ、ふと、イアヴァスリルを思い出した。
<姉さまは、昔から肩肘を張りすぎですから>
妹分は、いつでも適切な助言を呉れてきた。少なくとも、これまでは。
念のためにと持ち込んだ、気楽な部屋着も手に取る。
片や、漆黒に銀の飾りをあしらった将校服。
片や、妹たちが作ってくれた、素朴なだけのワンピース。
「肩の力を抜いて、か」
参謀長の助言を容れてみることにした。
その姿で食堂に向けて、廊下の鏡に写る自分を見て、すぐに後悔した。
なにせ、豪奢なドレスではない。素人仕事の部屋着なのだ。故郷の村で集会ならば許されよう。しかし、いくら質実な気風でも、実質は宮廷といえる官邸の装飾には似合わない。
やはり軍服にすべきだった。歴とした礼装だからだ。それが、レース飾りの一つもない、村娘のような身なりでは。
やはり闇エルフは田舎者の山賤と、職員達にも失笑されはすまいか。まして、グスタフは何と思うだろう――と、ディネルースは案ずるというより恐れた。
さりとて国王、それも残業で腹を空かせているだろう牡を待たせるのも忍びない。ままよ、とばかりに、執事の開けた扉をくぐる。
「やあ、ディネルース。今日は一段と麗しいな」
耳に心地よい低音の挨拶が彼女を迎えた。はっとして牡を眺めれば、牡もいつもの軍服姿ではない。
夏らしい麻のジャケットはくすんだ白色で、その下のシャツは淡い水色に染めてある。首元にネクタイはなく、ボタンを二つばかり外して、薄桃色の肌を覗かせている。足元は薄茶の紐なし靴。
避暑地で涼んでいるような風情が、彼女を安心させた。それに気づかぬように、グスタフは続けた。
「今日は肩が凝った。グレーベンが厄介ごとを持ち込んで来てね。まあ、食べながら話そう」
そう言って、今夜の王は彼女のために椅子を引いてくれた。
彼女らふたりの食卓の会話は、さして色気のあるものではない。ふたりに共通の仕事、すなわち軍事の話題が多い。ロザリンド会戦以前からの歴戦の勇士で、エルフィンドの事情を熟知するディネルースに、王はただの旅団長には聞かぬようなことまで相談するのだ。
ディネルースは、己の分際を超えぬように注意しつつも、あくまで参考意見として、王の相談に預かっている。
「作戦計画に変更を……?」
「うん、兵站線が細過ぎるといってね。かねて懸案ではあったが。そこで、グレーベンが言うには……」
「……なるほどな。画期的だ。さすがは参謀次長殿、まさに奇策だな」
「うん。海軍はこれから検討すると言ってる。大きな賭けになる」
グスタフは眉間に皺を寄せた。彼は軍事の専門家ではないが、作戦計画を裁可する立場だ。もし彼が決めた計画が誤っていた時には、大勢の将兵が犠牲になる。
「そうか? むしろ戦理に適っていると思うがな。敵の態勢が整う前に叩くわけだから」
「しかし、エルフの水兵は全員が魔術探知を使えるわけだろう。まして洋上は見通しが効く」
「そうでもないぞ」
「え?」
「私は船戦は素人だがな。魔術探知なら分かる。陸より海の方が難しいんだ。波の動きがあるから、船が紛れてしまう」
「海面反射か! しかし、そんな話は聞いたことがないが」
「種族の違いだろう。エルフの魔術感覚はコボルトより鋭敏だ。リョースタのような主力艦なら間違えようもないが、背の低い船は難しい。例えば、先鋒として――」
「そうか! それなら明日にも海軍に言って――」
食事を終え、場所を王の私室に移してからは、ディネルースの方が語る番だった。蒸留酒をあれこれと味見しつつ、話に花を咲かせる。
「――で、肩に力が入りすぎらしいんだ。ヴァスリーが言うには。ああ、ヴァスリーというのは……」
「分かるよ。君の参謀長だろう。アイナリンド中佐だったか」
「うん。あいつはエルフィンドにいる頃から馬に馴染んでいるんだ。それで――」
話題は果てもない。ディネルースはいつしか、グスタフが何百年も前から連れそっている闇エルフの一員であるかのように、細々とした氏族のことまで話している。
「そうそう、ノアもな。今でこそ作戦参謀に収まってるが――あいつは子供の頃から本当に――それで、ロザリンドでも言うことを聞かなくて――でも、私が思うに――」
激しい訓練の疲れと、気楽な服装も手伝って、酒精がよく周り、彼女は喋り続けた。元来、聞き上手なグスタフは、彼女を妨げない相槌をうち、興味深げにずっと聞いていた。
錬成中の騎兵は重要な戦力であるから、その様子が気になるだろうと、ディネルースも敢えて細かな話をする。
「今日の訓練でも――しかし、それは衛戍地の馬場での話だ。ベレリアントの地形は――明日も朝から――」
気がつけば夜は深まり、官邸の内外はすっかり静まりかえっていた。
少しく飲み過ぎてしまったかと、ディネルースは水で口内を潤し、首元を少し引いて風を入れた。
ふと気づけば、グスタフが何やら落ち着かぬ様子である。
「どうかしたか……?」
酔いに任せて、何か妙なことを言ってしまったかと顧みるが、思いあたりはしない。
「いや、何でもないよ。君といると、時が経つのは早いものだ」
熟慮断行で知られる国王は、その穏やかな視線を部屋中に遊ばせてから、やっと言った。
「そろそろ休まないか。その……今日は、もう疲れてしまったかい?」
ディネルースは、くすりと笑った。訓練の話をし過ぎたらしい。彼女の四肢の重みは、ふたりで過ごす穏やかな時間のうちに、すっかり溶け去っている。
彼女は立ち上がってスカートを翻し、王の膝に横乗りした。
「連れて行ってくれるか?」
「その……ディネルース、私は別に、ふたりでいるだけでも十分に幸せなんだ。君は訓練があるし、求め過ぎてはいないかと思ってる。私はオークだし、つまり、その、君とは身体が違っているからして」
牡の長口上を、ディネルースは自分の唇で塞いだ。
「ゆっくり休みたい時はそう言うよ。それとも……」
ディネルースは、もう一歩、肩の力を抜いてみることにした。
「もしかして、欲しがっているのが自分だけで、エルフにはそういう気分が無いとでも思っているんじゃないか? 大いなる偏見だぞ、それは」
牡の耳元に口を寄せ、吐息を浴びせながら囁く。
「私は森の妖精なんかじゃない。ただの女だ。それも、あなたの女だよ、グスタフ」