うなじの痕がつくまで 作:自棄ノ原
原作2巻 コミック3巻読了後推奨
翌朝、ディネルースはシャワーで清めた身体を漆黒の軍服で包んだ。髪は整えて、いつものようにまとめる。
そして早めの朝食を国王と共にし終えると、存分に抱擁を交わす。
互いの背を撫で合い、頬を擦り合わせ、今夜の再会を約してから官邸を出た。
一部の隙もない軍装に、騎兵用のサーベルを吊り、愛馬の背に揺られる。しかし今朝の彼女は、軍馬ではなくふわふわとした雲に乗り、天上に遊んでいるような心地でいる。
この自分。あの牡のことを好きになり、好かれ、心と体の欲するまま、存分に愛し合える自分。牡の薄桃色の肌から離れても、自分が愛されているという、その事実は変わらない。安心して、何もかも委ねていい相手がいる。その確信に満たされている。
生まれてから数百年を経て、初めて全き自分自身になれたかのような心地だった。
衛戍地までの道も殆ど馬に任せて、闇エルフの衛兵たちに返す敬礼も、半ば無意識の動作だった。
さて、すぐには執務室に向かわず、馬の足を衛戍地の内周道路に向ける。訓練が始まる前に、将兵の何気ない様子を観察することも、指揮官の仕事である。
それに今は、部下の参謀達の顔を見る前に、もう少し気を引き締めておくべきだと思った。まだ顔が緩んでいる自覚はあるのだ。
旅団食堂での朝食を終え、談笑しながら歩く兵たちは、馬上の彼女を認め、はっとして敬礼する。
「おはようございます!」
「うん、おはよう」
彼女はにこやかに、しかし正確な敬礼を返す。部下たちの締まった動作に安心する。和気藹々としつつも、士気は高いようだった。
満足して通り過ぎると、何やら背中がもぞもぞとする。視線を感じるのだ。そっと振り向くと、遠ざかりゆく部下たちは決まりが悪そうな笑顔を浮かべ、会釈して彼女を見送った。
そのような事がもう一度あった。
さては、旅団内で昨夜のうちに何か事件でもあったのか、それを旅団長には隠そうとしているのではと、彼女は真剣に案じ始めた。
後で報告があればいいが、なければ探りを入れて――などと思ったところで、見慣れた将校が駆けてきた。将校にあるまじき全力疾走だ。
その異様さを見咎め、なお驚いた。
「旅団長ッ!」
必死の形相で駆けてきたのは、イアヴァスリル中佐であった。常に冷静沈着で、それゆえに参謀長へ任じた妹分が、どうしたことであろう。
さては彼女の勘働きの通り、事件があったに違いない。旅団内の喧嘩で、怪我人でも出たか。あるいは近在のオークとの間に悶着でも。はたまた、まさか旅団内で窃盗騒ぎでも――と身構える。
はずれた。
妹分は顔を近づけ、囁くように告げた。
「旅団長、その……今日は髪を結ばれないか、急いでエリクシエルを飲まれたほうが……」
怪訝な顔で見返すと、参謀長は褐色の頬を、それと分かるほどに赤く染めている。そして旅団長に、というより、年の離れた姉に、そっと教えた。
「その……うなじに……うなじに、痣のようなものが……!」
たちまち思い返す。そういえば、あられもない姿勢で責められ、力尽きてうつ伏せているときに、その辺りに口づけをされたような――今朝も、何やら感触が残っていたような気がしたのだった。
「………………」
妹分の顔を見返すこともできず、言い訳も浮かばず、彼女はただ無言で髪を下ろした。
参謀長は、旅団長の首筋を見て何かを悟った兵たちが噂しているのをエルフの聴覚で察知し、急ぎ駆け付けてくれたのだろう。そうして旅団長を、姉を支えようとしてくれているというのに、この自分ときたら。
決まりの悪さに耐え兼ね、無言のまま、執務室の方へ馬首を向ける。
イアヴァスリルは何も言わず、何も聞かず、さっと姿を消した。後で執務室で会うわけだが、その時は何事もなかったように振る舞ってくれるに違いない。
果たして、その時、旅団長の方は、この燃えるような頬の紅潮を静めていられるものだろうか。
恥ずかしさが高じるあまり、だんだん腹が立ってきた。このような時は、牡に責任を押し付けるに限る。
「グスタフの奴……! あの馬鹿……!」
こうも露骨な証拠を、ひとの身体に残しておくとは。
国王の立場と性格からして、意地悪ではありえない。何も考えていなかったに違いない。
いったい、どうしたものか――部下たちにどう告げたものかは何の思案も湧かない。
しかし、それとは別に、やることは決まっている。
彼女は復讐を決意した。
(おわり)