◇◇◇
扉の閉まる音を最後に聞いたあと、鍵を閉めると真昼はベッドにすとんと倒れ、意識は急速に沈んでいった。
身体も心も限界を超えていたのだろう。泥のように重い瞼が完全に閉ざされる直前、かすかに香る男の匂いが鼻腔をかすめた気がしたが、それも束の間のことだった。
◇◇◇
どれくらい時間が経ったのか。
ぼんやりと意識が浮上し始めたとき、
最初に感じたのは鉛のように重い頭と腰の鈍痛だった。
身体を起こそうとすると関節がギシリと軋む。
「……うっ」
微かに呻いて真昼は枕に顔を埋めた。
カーテンの隙間から差し込む光はすでに強く、西に傾きかけている。
午後だ。
(あっ、今日は日曜。そうだ……もう、周くんが帰ってくる)
その思考が火花のように脳裏を走り抜けた。
昨日約束した。彼がお土産持って来るねと。
この部屋に……
しかし――今の自分が周くんとどんな顔で会えばいいのか?
昨夜の出来事がフラッシュバックする。
裸で組み敷かれ、貫かれ、絶頂までさせられた記憶。
そして今朝の早朝の……。
「……っ!」
顔から火が出るようだった。慌ててシーツを跳ね除ける。
しかしそこに広がっていたのは更なる現実だった。
濃密な情事の匂い――汗と体液が混ざった独特の匂いが部屋中に立ち込めている。
シーツには乾ききっていない赤黒い染みがいくつか。
(これ……私の血……?)
初めてだったのだ。
当然といえば当然の痕跡だが、改めて目にすると衝撃が走る。
自分の純潔が物理的に汚された証拠のようで、胸が締め付けられる。
「早く……消さないと」
真昼はよろめきながらベッドから降りた。
全身が怠くて立つのも億劫だが、時間がない。
まず窓を全開にして換気する。
新鮮な空気が流れ込んでくると少し頭が冴えた。
次にシーツを剥がして洗濯機に叩き込み、コンセントにプラグを刺す。
脱水機能付きの洗濯機のボタンを乱暴に押す。
高速回転が始まるガタガタという音を聞きながら、真昼は部屋を見回した。
床には脱ぎ捨てられた服が散乱し、ゴミ箱には使用済みのティッシュやコンドームの包装が丸まって突き刺さっている。
浴室へ続く廊下にも微かに湿気と匂いが残っている気がした。
いつもの女の子らしい、キレイに片付いた部屋が
たった一日でここまで荒れ果てるものか……
(こんな部屋じゃ……もしここに周くんが来たら……)
普段の清楚なイメージを保つには完璧に片付けなければならない。
洗濯を回しながら真昼は床掃除と空気の入れ替えに没頭した。
ティッシュやゴミを袋に詰めて厳重に口を結び、窓を開け放したまま換気扇も回す。
だがどうしても消えない匂いが部屋の隅々にこびりついているように感じた。
◇◇◇
洗濯機の稼働音だけが響く部屋。
真昼は必死で痕跡を消し続けていた。
シーツを洗い終わりベランダに干したあと、バスルームの湿気も換気しようと足を踏み入れたその時だった。
ゴミ箱ではなく、洗面台の下に無造作に放置されていた小さなビニール袋が目に入った。黒いゴミ袋の口が半分開いている。
中を覗くと――
「ひっ……!」
思わず小さな悲鳴が漏れた。
そこには使用済みのコンドームが数個。
口がしっかり結ばれているものの、中の白濁した液体が微かに透けて見える。
卓夫が昨夜と今朝の行為の後、処理してここにそのままにしていたのだろう。
あまりに無神経で雑な扱いに怒りがこみ上げると同時に、
猛烈な羞恥心が襲ってきた。
(信じられない……こんなもの……置いていくなんて……!)
真昼は震える手で袋ごと掴む。
しかし、それを捨てようと持ち上げた瞬間――
鼻をついた生々しい匂いに身体が硬直した。
(この……匂い……)
それは栗の花のような甘ったるい臭気と、微かに塩辛いような特有のにおい。
卓夫の体内から搾り出された生の精液の香りだった。
直接的な不快感が胃のあたりを締め付ける。
こんな汚物のような物体、今すぐ焼却したいとすら思った。
(こんなの……最低……!)
心では激しく嫌悪しながらも――不思議なことに、
その匂いを嗅いだ瞬間、真昼の頭がクラリと揺れた
。
まるで強いアルコールを嗅いだような酩酊感。
同時に下腹部の奥がキュッと収縮し、これまで感じたことのないような
熱い湿り気を感じた。
「え……?」
自分の身体の反応に愕然とする。
(なんで……? こんな臭くて汚いものに……)
理性は全力で拒絶している。
しかしその一方で、身体の芯が火照り始め、
無意識に太ももを擦り合わせてしまっていた。
(違う……これはきっと疲れてるせい……こんなことで感じるはずがない……!)
真昼は慌てて袋の口を固く縛り直し、ゴミ袋に乱暴に投げ込み
そちらもぎゅっと縛った。
それでもなお鼻腔にこびりついたような精液の残り香が
追いかけてくる気がする。
「っ……」
真昼は唇を噛みしめて洗面台に向き直り、冷水で顔を洗い、歯を磨く。
鏡に映る自分の顔は、羞恥と混乱で歪んでいた。
しかしその中に――ほんのわずかだが、熱に浮かされたような潤んだ瞳が潜んでいることに、真昼本人はまだ気づいていなかった。
(あの人の……せいだ……)
卓夫に強制された行為。暴力的な快感。そして彼の荒々しい匂い。
それら全てが真昼の内側で複雑な化学変化を引き起こしていた。
嫌悪と同時に感じた奇妙な陶酔感。
それはまだ言葉にできない微かな萌芽だった。
真昼は濡れたままの顔でバスルームを飛び出し、
再び部屋の片付けに没頭した。
頭をフル回転させて現実逃避しようとしても、
下腹部のじんわりとした熱と湿り気がなかなか消えてくれなかった。
◇◇◇
ピンポーン
「真昼さん? 俺だけど……周だよ。お土産買ってきたんだけど……いる?」
インターホン越しの声。穏やかで優しい周の声に、真昼の心臓が跳ね上がった。
うれしさではなく、マズいという意味で。
彼が帰ってきたのだ。言われていた時間より少し早いかもしれない。
(しまった……!)
まだ部屋の換気が完了しているとは言い切れない。
シーツは干したものの、血痕が完全に落ちたか確認する暇もなかった。
床に散らばっていたティッシュの山こそ片付けたが、
微かな情事の残り香が漂っている可能性は否定できない。
「ご、ごめん……周くん……ちょっと待ってて!」
声が裏返りそうになるのを必死で抑える。
玄関へ急ぎながらも部屋の隅々を最後にチェックする。
開け放たれた窓。回り続ける換気扇。
それでもまだ……不安が拭えない。
(どうしよう……こんな部屋じゃ……)
普段のきちんとした自分の部屋とは程遠い惨状に近い。
だが玄関のドアは既に周によって軽くノックされている。
コンコン
「真昼、真昼さん? 大丈夫? 何かタイミング悪い?」
心配そうな周の声。
断り続けるわけにもいかない。深呼吸して覚悟を決めた。
「だい……大丈夫。今、開けるね」
ドアを開けると、そこには少し疲れた表情ながらも笑顔の周が立っていた。
手には周の地元の有名な菓子の紙袋を持っている。
「おかえりなさい……周くん。ちょっとお掃除していて」
ぎこちなく声をかける真昼に、周は微笑み返す。
「ただいま。遅くなってごめん。これお土産。和菓子だけど……真昼好き?」
「うん……ありがとう」
受け取ろうと一歩踏み出した時だった。
ふわりと部屋から漏れ出す空気が周の鼻孔をかすめた。
(あっ……!)
真昼も気づき、息を呑む。
それは間違いなく――情事の後の残り香。
汗と体液と……そしてコンドームに残った精液の微かな匂いが混ざり合った、
独特の濃密な気配。
「……?」
周が微かに眉をひそめる。鋭い彼なら気づかないはずがない。
「どうしたの? 真昼。なんか……部屋、少し変わった匂いがしない?」
「え……そ、そう? お掃除中だし、芳香剤も変えたからかな……?」
苦し紛れの嘘が口を突いて出る。
手が震えそうになるのを必死で押さえつけた。
周はしばらく真昼の顔を見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「……まぁいいか。それより……少し顔色悪いけど本当に大丈夫?
昨日、何かあった?」
昨日――その言葉が昨日の卓夫との行為をより鮮明に思い出させ、
真昼は眩暈に近い感覚を覚えた。
(ダメ……これ以上周くんをここにいさせたら……気づかれちゃう……!)
焦りと恐怖で冷や汗が背中を伝う。
「ご、ごめんなさい周くん! 今日はちょっと……その……体調が優れなくて……!」
早口で言い訳を捲し立てる。
「え? 本当? 大丈夫なのか?」
「うん……だから……ご実家の話は……また今度にしてもいい……?」
「まあ法事だし、そんな話すこともないけど……でも心配だな。
体調悪いのに、掃除してたの? 何か買ってこようか? 薬ある? ……」
「だ、大丈夫! 単なる疲れだから!
それより……その……今日は……帰ってもらえると……嬉しいかな……って……」
「え……?」
周の表情が曇る。
今まで一度も彼の訪問をこんな風に拒んだことはなかった。
真昼自身も言葉にした途端、激しい罪悪感が込み上げてきた。周くんを傷つけてしまったかもしれないという後悔。
(ごめん……周くん……本当は何もかもすべてを聞いて欲しいのに……!)
「少し眠りたいの。ごめんなさい……」
でも、そんな事を話したら周くんはどう思うだろう。きっと嫌われる。
まずはこの部屋の秘密を守らないと。
周はしばらく真昼の顔を見つめていたが、にっこり笑って小さく頷いた。
「……わかった。無理するなよ。お大事にね。また明日」
彼は紙袋だけを手渡すと、静かにドアを閉めて立ち去っていった。
足音が隣の部屋に入るのを聞きながら、真昼はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
(どうしよう……周くんに嘘をついて……追い出してしまった……)
胸が潰れそうな自己嫌悪に苛まれる。
大切な人を、自分の理解者をこんな形で拒絶してしまったこと。
それは卓夫への嫌悪とは別の種類の深い罪の意識となって真昼の心を蝕んでいく。
ドアを閉めた後、真昼は膝を抱えて泣いた。
涙はいくら泣いても止まらなかった。
◇◇◇
◇◇◇
自室に戻った藤宮周はソファに深く身を沈めていた。
「はぁ……」
溜め息が自然に漏れる。真昼の様子は明らかにおかしかった。
いつもなら笑顔で迎えてくれるのに、今日は青ざめた顔で、妙にそわそわしていて、
最後には「帰ってほしい」とまで言った。
いつもなら、お土産を喜び、すぐに「お茶にしましょう !」と部屋に入れてくれるはずなのに。
何より、玄関を開けた瞬間、感じたあの臭いが妙に気になった。
(あれは……芳香剤のはずがない……)
何か生々しい香りだった。
真昼が魚か何か海産物を料理していた? それにしては……。
(まさか……まさかだけど、あれは、あれは精子の臭いに似ていた気がする?
自分でオナニーした後、ティッシュを片付ける時の臭いに……)
胸の奥に黒い霧が立ち込める。
(よもや、まさか俺がいない間に……他の男と……?)
考えたくもない想像が頭をよぎる。
この土日の短い間に、誰かが彼女に近づいたのではないかという疑念が鎌首をもたげる。
(は、バカバカしい。ゲスいエロ小説かよ。あの孤高を守っていた潔癖な天使様に限って、そんなことあるわけない。
輸入もののちょっと変わった芳香剤とか、栗の料理とか何かだ)
気を取り直し、スマホを取り出しメッセージアプリを開く。真昼とのトーク画面。
『具合ほんとに大丈夫? 何かあったらすぐ言えよ』
◇◇◇
真昼は、震える指で画面に触れた。周から届いたメッセージ。
『具合大丈夫?何かあったらすぐ言えよ』
その優しさに胸が締め付けられる。
本当に話せたらどんなに楽だろう。しかし――
〈大丈夫です。ありがとう〉
送ってしまった。
反射的に。嘘のGoodマークがついたスタンプと共に。
(なんて……ひどいことを……)
彼の心遣いを裏切るような行為に、涙がまた溢れそうになる。
こんなにも自分を気遣ってくれる人がいるのに、
その優しさを踏みにじってしまった。
(最低だ……私……)
スマートフォンをベッドサイドに投げ捨てるように置き、真昼は天井を見上げた。
現実的な解決策が頭を巡る。
警察に相談すること。当然の選択肢に思えた。
あの肝付卓夫は、法で裁かれるべき人間だ。
しかし……。
「もし……私が警察に行ったら……」
卓夫の言葉が蘇る。
『警察に行ってもいいよ』
『もう最高の体験をしたしね。思い残すことはない』
あの自暴自棄な宣言。本当に何もかもを諦めているような口調だった。
警察沙汰になったところで、彼が反省するとは思えない。
むしろ、仮に刑務所に入ったとしても、その後何をするかわからない恐ろしさもある。
(それよりも……私の家は……)
真昼の家庭環境。
冷たく、形式的。厳格な父親と神経質な母親。
もし娘が隣人と……となればどうなるか。
おそらく一人暮らしは即刻終わりだ。
どちらかのもとに連れ戻され、監視の目が厳しくなるだろう。
そして、彼らは事態を解決するというよりは、家の「メンツ」や「評判」を
守るために動くに違いない。
そして学校も――
(転校……)
その言葉が重くのしかかる。周くんと離れる。この日常が終わる。
それは耐え難いことだった。
「でもそんなの……ただの計算じゃない……」
真昼は拳を握りしめた。親への恐怖や将来への打算。
そんなものが自分の判断基準になっていることに嫌悪感を覚える。
まるで卓夫につけ込まれた脆い部分が、自分自身を蝕んでいくようだ。
(周くんに……こんな惨めな姿を見せたくない)
優しい彼はきっと同情してくれるだろう。
でも同時に、失望もするかもしれない。
純粋だと思っていた少女の汚された姿に。
「結局……私は何を選べばいいの……」
答えは見つからない。
ただ、このまま何もしなければ卓夫はまた接触してくる。
そして自分は――周くんを欺き続けなければならない。
(このままじゃ……駄目だ……)
その思いだけが、虚ろな部屋の中でかすかに燃える導火線のように感じられた。
真昼は再びスマホに手を伸ばし、メッセージアプリを開く。
周とのトーク履歴が並んでいる。