ストーリー進行上必要なのでご理解ください。
◇◇◇
卓夫の部屋から出た真昼は、疲労と昨夜の出来事が脳裏をぐるぐると巡り続けているが、登校の時間のため学校に向かう。
幸いにして肝付卓夫が追いかけてくる様子はない。
そのことに胸を撫で下ろしながらも、今日一日どんな顔をして過ごせばいいのかと気が滅入る。
学校に着くと、靴箱のあたりで
「おはよう、椎名さん」
見慣れた愛しい人が近づいてくる。藤宮周だ。
「おはようございます。周くん」
「昨日はたくさんメッセージくれたのに返さなくてごめんなさい。
実は……その……ちょっと家族とメッセージでやりとりしていて沈んでしまっていて……」
真昼は早口で言い訳をする。真実とは大きくかけ離れている。
両親とは随分連絡を取っていない。
「でももう大丈夫なので、気にしないでくださいね」
努めて明るく笑顔を作る。いつも通りの天使様スマイルのはずだ。
「そっか。それならよかった」
周は安堵したように微笑んだが、その瞳の奥には拭えない翳りがあった。
本当はもっと色々聞きたいことがあるのに、踏み込めない自分に歯痒さを感じているように見えた。
(これ以上聞かないで……お願いだから)
真昼は内心で願いながら、何とかその場をやり過ごした。
教室で授業を受けながらも、頭の中は昨夜の出来事と今朝の食事のことで一杯だった。
不意にスマホが震え、卓夫からのメッセージが表示される。
『おはよう。今朝はありがとう。朝食もすごくおいしかった。明日も頼むよ』
(……っ!)
文字列を目で追うだけで胃の腑が冷たくなる。返信しないわけにはいかない。
しかし、このまま従順に応じ続ければ彼は図に乗るだけだと分かっている。
深呼吸をして指を走らせた。
『お断りします。これ以上はもうバレてもいいから警察に行きます』
送信ボタンを押した後もしばらく画面を見つめていたが、既読マークがつくだけで沈黙が続く。
逆上して怒涛のメッセージ攻撃が始まるのではと覚悟していたのだが。
(どういうつもり……?)
不気味な静けさに包まれながらも、その日の授業をどうにか乗り切った。
帰り道。
重い足取りでマンションへ向かう。
しかし、肝付卓夫が待ち構えているというようなことはなかった。
それでも胸騒ぎは収まらない。
自分の部屋に入り鍵を閉めると、ようやく肺に溜まっていた澱んだ空気を吐き出すことができた。
倒れ込むようにベッドに身を投げ出すと、そのまま深い眠りへと落ちていった。
昨夜は数時間しか寝ていないのだ。
◇◇◇
着信音でふと目を覚ますと、スマホ画面には新たな通知が点滅していた。
差出人は案の定、「肝付卓夫」。
その名前を見るだけで心臓が嫌な鼓動を打ち始める。
見たくはない。けれど見ないわけにもいかない。
この男からのメッセは無視できないのだ。まるで呪いのように。
『警察? ぼちぼち本気かな。
じゃあ、僕はこの動画をUSBで周くん家のポストに入れとくよ。
エッチなのじゃないから安心して』
真昼が震えながら動画を開くと、そこに映っていたのは、確かに言葉通り性交を映したようなものではなかった。
今朝の朝食シーンだ。
真昼が調理しているところと、一緒のテーブルで食べてるところが短くまとめられている。
またメッセージが届く。
『平和なもんでしょ。こんなのは脅迫でも何でもない普通の日常シーンだよね。
警察に見せても何にもならない。でも、周くんが見たらどうかなあ』
真昼が周に食事をつくってあげる。
それはふたりの関係を深めた象徴的な、かけがえのないものだ。
それが、太々しいオトコに汚された気がして、真昼は強く下唇を噛む。
(どこまで卑劣に踏み込んでくるの……わたしたちの関係を壊そうとして)
涙が溢れる。
しかし、これを周に見せるわけにはいかないし、何より早くその食事を作りに行かないと夕食が遅くなってしまう。
『わかりました。警察には行きません』
それだけを返して、真昼は隣室に向かう。
◇◇◇
◇◇◇
卓夫は、真昼が自室に来る時のために、あらかじめ複数の撮影用カメラを巧妙に設置していた。
昨夜の情事も当然のごとく全て録画してある。
しかし、その動画を直接的な脅迫材料として使うのは危険すぎる行為だった。
なぜならその映像こそが卓夫自身の性犯罪を如実に示す証拠物件となり得るからだ。
警察に訴えられれば一巻の終わりだろう。
そんな短絡的な行動を行う愚か者ではなかった。
ところが録画データをチェックしていると、
今朝真昼が朝食を作りに来た光景が偶然にも記録されていたことに気づいた。
カメラを切り忘れていたのだ。
その動画を見て彼は新たな閃きを得た。
「これは合法的な日常の一コマだ。」
性的な要素は皆無であり、真昼が自ら進んで卓夫の家を訪れ家事を行う姿がただ映っているだけなのだ。
この映像ならば犯罪を匂わせることなく、真昼が卓夫に傾倒しているかのような印象操作が可能だった。
「フフ……これなら使えるな」
卓夫は歪んだ笑みを浮かべながら画面をスクロールさせる。
そこにはキッチンでエプロン姿の真昼がテキパキと動き回る様子や、
同じテーブルで朝食を共にする二人の姿が映し出されていた。
どの瞬間も自然体であり、そこに暴力や不本意な強要の痕跡は一切無い。
(これが警察沙汰になることはない……しかし藤宮周にコレを見せつけたなら?)
真昼は、自分のいう事を聞くしかない。
大切な彼氏に、自分が他の男のために朝食を作っている映像を見せつけられるなど耐え難い屈辱に違いない。
それだけでなく、藤宮周にとっては真昼が自分以外の男に食事を作るなど、
裏切り行為だろう。
裏切りとは、多分中学時代の藤宮にはトラウマなはずだ。
あの調査報告を信じるなら。
そう結論づけた卓夫は早速編集作業に取り掛かった。
余計な部分をカットし不要な音声も調整するなどして完成した動画ファイルを見つめながら彼は確信した。
これは間違いなく新しい武器になると。
夕方、真昼に脅迫めいたメッセージと共にその動画を送りつけると、
真昼の反応は予想以上のものだった。
(しかし、焦るな。あまり一気に追い詰めてはダメだ)
卓夫は翌朝の準備をして、静かに眠りについた。翌朝の反応を期待しながら……
◇◇◇
翌朝。スマホのアラームが鳴る前に目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗く、街は静まり返っている。
真昼はベッドから起き上がり、深いため息をついた。
(行かなきゃ……行かないと)
昨夜卓夫から届いた脅迫めいたメッセージが脳裏にちらつく。
周への裏切り行為を記録した動画。あれを周の目に触れさせるわけにはいかない。
ただの朝食シーンだが、周にとっては裏切りだ。彼の心を傷つけたくない。
クローゼットを開け、制服に着替え、エプロンを手に持つ。
鏡に映る自分の顔は疲れ切っていた。昨夜もほとんど眠れなかったせいだ。
それでも真昼は気丈に振る舞った。玄関のドアを開け、隣の部屋に向かう。
503号室。深呼吸してドアをノックするが返事はない。まだ寝ているのか。
『鍵は投函箱の中に入ってるから』
昨夜届いたメッセージを思い出し、おそるおそる自室に戻って確認すると、封筒に入った一本の鍵があった。
それを持って再びドアの前に立ち、意を決して差し込む。
ガチャリという音とともに扉が開いた。
「お邪魔します……」
中は昨日と変わらず荒れ放題だった。
脱ぎ捨てられた衣類、飲みかけのペットボトル、埃の積もった家具。
その奥のベッドでは巨大な塊が膨らんでいる。
卓夫はいびきをかいて熟睡中だ。
(さっさと終わらせよう……)
エプロンを身につけ、キッチンに向かおうとする真昼だったが、あまりの惨状に足が止まった。
床にはゴミが散乱し、カーテンは閉めっぱなしで空気が淀んでいる。
真昼の几帳面な性分がむくむくと頭をもたげた。
(昨日はあんまり気にしなかったけれど、こんなところでお料理なんて……)
眉間に皺を寄せながらも掃除道具を探す真昼。
ごみ袋を見つけ、まずは目に付くゴミを集め始めた。
タバコと思われる臭いも気になり、ついでに窓を開けて換気する。
冷たい朝の風が入ってきて室内の重い空気を押し流していく。
続いて埃の溜まった家具を拭き、乱雑に投げ出された服を畳み始めた。
無心に掃除に没頭する真昼。
彼女の意識の中では「この人はだらしがない」といった苛立ちよりも
「キレイにする」という目標が勝っていた。
まるで自分や周くんの部屋のようにテキパキと動く。
その物音に気づいたのか、ベッドの上の塊がもぞもぞと動き始めた。
大きな欠伸とともに卓夫が身体を起こす。
「んぁ……?」
彼の目に飛び込んできたのは、丁寧に床を拭きながらも時折物憂げな表情を浮かべる真昼の姿だった。
制服の上にシンプルなエプロンをつけたその姿は今朝も聖母のように神聖で、思わず息を飲む。
「お……おはよう」
卓夫が声をかけると、真昼は手を止めずに小さく会釈した。
「おはようございます。朝ご飯の準備をしようと思ったのですが、
あまりにも散らかっているので先に片づけをさせてもらっています」
淡々とした口調だったが、まるで自分の家の掃除をしているかのように自然な様子に、卓夫の胸が熱くなる。
「君が……俺のために掃除を?」
驚きのあまり上擦った声が出た。
「別にあなたのためにというわけではありません。
ここで料理を作るのなら、衛生的な環境が必要ですから」
言い方は冷たいが、その姿勢は献身そのものだった。
卓夫は衝動に駆られるままベッドから飛び出し、掃除中の真昼を背後から抱きしめた。
「まひるっ! 君は本当に素晴らしい子だ!」
突然の接触に真昼の肩が小さく跳ねる。
「ちょっ……!」
「君みたいな子が俺の隣人だなんて夢みたいだ! 君は女神だ! 天使だ!」
卓夫の熱烈な言葉に真昼は顔を赤らめた。
しかし彼女は冷静さを失わなかった。
「掃除中なんですけど……」
その一言で我に返った卓夫は慌てて腕を緩めた。
真昼はくるりと振り向き、少し怒ったような表情を見せる。
「これから朝食を作るんです。あなたはベッドに戻って待っていてください」
凛とした声が響く。
◇◇◇
卓夫は真昼の冷たい叱責に怯むどころか、むしろ嬉しそうに顔をほころばせた。
「すまないね……君があまりにも魅力的だったからつい……」
慌ててベッドに戻ろうとする卓夫の後ろ姿を真昼は呆れたように見つめた。
その刹那、「これって……」という奇妙な既視感が脳裏を掠めた。
(まるでカップルみたいなやり取りをしてる……)
ハッとして首を横に振る。馬鹿な。
こんな男とそんな甘い関係になるわけがない。
けれど、その思い込みが崩れ始めていたのも確かだった。
彼との行為が繰り返されるほどに、嫌悪感は薄れ、代わりにある種の慣れのようなものが生まれてきていた。
生理的な拒絶反応は収まりつつある。
それどころか……
(わたし……なんだかこの人の存在に慣れてきちゃってる……)
嫌悪感と奇妙な居心地の良さ。相反する感情が真昼の中で渦巻いていた。
何せ、何度も肉の繋がりを持ち、強い快感を与え合ってしまったのだから、
人間どうしたって情が湧く。
まだ彼氏である周とは一度も行っていない行為を、先に何回もしてしまった。
キスひとつするのに、相手の反応に少しビクビクするような関係とは大違いだ。
一方の卓夫はベッドに腰掛けながらも内心は小躍りしていた。
(やっぱり彼女は完璧だ……家事ができて叱り方も上手くて……
まるで理想の嫁じゃないか)
妄想が膨らむ。
もし真昼が本当に自分の妻だったら?
毎日こんなやり取りができたら?
(いやいや落ち着け。そんな高望みしたらダメだ)
現実と空想の境界線が曖昧になりそうな卓夫。
その時、ふと気づいた。
(この子……今さっき掃除しながらずっと無言で考え事をしているようだったな)
普段なら罵詈雑言を浴びせてきそうな場面なのに妙に静かだ。
顔を見るとどこか思索に耽っているようにも見える。
「真昼ちゃん?」
声をかけると真昼は我に返り、「なんですか?」と短く返した。
その反応から卓夫はある仮説を立てた。
(もしかして……周との関係を思い出してるのか?)
卓夫はゆっくりと立ち上がりキッチンに向かう彼女の背中に話しかけた。
「周くんとの生活ってこんな感じなのかな?」
真昼の肩が僅かに震えた。
「……全然違います」
否定の言葉とは裏腹に彼女の表情は曇っていた。
「ほんとに?だって今君が俺に言ったセリフ、
まるで世話焼きの奥さんみたいだったよ?」
挑発的な言い方に真昼はムッとした表情を浮かべた。
「紳士な周くんとの関係と、あなたと一緒にしないでください」
「でもさっき掃除してるとき君の目が……」
卓夫は真剣な面持ちになった。
「なんか寂しそうだったよ?」
核心を突かれた真昼の瞳が揺れる。「そんなこと……」
否定しようと口を開いたが言葉が続かなかった。
たしかに心の奥底では周くんのことが気になっている。
こんなふうにだらしない男の世話を焼いている自分を彼はどう思うだろう。
(周くんもだらしないところがあるから仕方ないのよ……)
無意識にそう言い訳していた自分に気づき愕然とする。
何故周くんとこの男を同列に扱う必要があるのか。
そもそも彼とは根本的に違う。
周くんは自分の意思で選んだ相手だし、この男は強引に付き纏ってくる
ストーカーでレイプ犯だ。
しかし卓夫の言う通りさっきの一連の流れは……あまりに自然過ぎた。
まるで日常の一部みたいに。
(違う……こんなの普通じゃない)
必死に自分に言い訳する真昼だったが、卓夫の勘は鋭かった。
「そうか……やっぱり君は誰かの世話を焼くのが好きなんだね」
卓夫は満足げに微笑んだ。「俺も周くんも似たような存在ってことかな?」
その言葉に真昼は真っ赤になって否定する。
「そんなわけありません!あなたと周くんを一緒にするなんて ! 」
「ごめんごめんじゃあいいや。
もう追及しないから、ひとつお願いを聞いてくれるかな? エッチなのじゃないよ」
卓夫はゆっくりと真昼に近づく。
「今日は俺の好きなメニューを作ってほしいんだ」
料理を強要する言葉。今までなら反抗していただろう。だが今は違った。
真昼の心に一瞬迷いが生じた。
(それぐらいなら……それに、時間がないし)
「……わかりました」
小さな承諾の言葉が零れる。卓夫の顔が輝いた。
「やった! 君の料理をまた食べられるなんて幸せだなぁ」
無邪気に喜ぶその姿に真昼は複雑な気持ちになった。
なぜだろう。少し嬉しいとさえ感じている自分がいる。
(おかしいわ……私は周くんのものなのに)
頭では分かっているはずなのに。身体も心も少しずつ侵食されているような不安感。
卓夫がスキップしそうな足取りでベッドに戻っていく。その背中をぼんやりと見つめながら真昼は思った。
(これでいいのかしら……)
答えはまだ出ない。
ただ確かなのは二人の距離がまた一歩近づいてしまったということだけだ。
料理を始める真昼の手がかすかに震えていた。