ブルッ、寒さで卓夫は目が覚めた。
昨夜、寝る前にやけにくしゃみが出ると思ったが……
(ヤバイ、やっぱ風邪引いたな、これは)
ふらつく足で体温計を探して測る。
(38.9度か。結構あるな)
在宅勤務ゆえ、こんな時一日休養していても問題ない。
そのツケは自分に回って来るわけだが。
(問題は、この部屋にはろくな食い物がない……ってことか。
缶ビールとつまみが少々。カップ麺が三つ。ひとまずスポーツドリンクでも……いや、ゆうべ喉が渇いて全部飲んでしまったか)
潰した2ℓのペットボトルが転がっている。
高熱のせいもあってか食欲はない。とてもではないが、カップ麺を食べる気にもならない。
仕方なく水道水を飲む。
ぷはっ、熱があるせいでこんなものでもうまい……ヤバイ。
こんな時、頼れるような友人は……いない。
いや正確にはいないことはないが、近くにはいない。
大学時代のオタク友だちがいるが、独身のやつは九州だ。あと二人は家庭持ちだから、最近連絡をほとんどとっていない。
両親は、高校卒業以後連絡は取っていない。
離婚したらしい。
大学の学費だけは振り込まれたが……
仕方ない、買い出しに行ってついでに解熱の風邪薬を……
しんどい身体を起し、寝間着代わりのジャージに上着を羽織る。
ピンポーン !
突然インタフォンが鳴る。
(宅配便 ? いや、この音は……)
ガチャリ、警戒するのも億劫で無造作にドアを開ける。
「どなた……??」
天使が立っていた。
艶やかな亜麻色の髪が、朝陽に照らされてエンジェルリングが見える……
「おはようございます。
あの……突然お邪魔してすみません……
って、顔赤いじゃないですか。大丈夫ですか、熱があるんじゃないですか?
……と、熱い !
まさか出かけようとしてるんですか !?
ダメですよ、寝てなきゃ。さあ、お部屋に戻りましょう。」
「上着なんで脱いで。あぁっ、寝間着のまま外出しようだなんて……さあさ、そのまま横になってください」
何やら、天使にぐいぐいと押し切られて、あっという間にベッドに逆戻り。
「やっぱり昨日雨に打たれたせいで、風邪をひかれたんですね。何となく心配な気がして 来てみたら、案の定でした。
ゆっくりしないと、ひどくなっちゃいますよ。」
だいぶ年上の中年男をたしなめながら、真昼は冷蔵庫を開ける。
「あれ、なーんにもなーい。缶ビールだけ?
あの、お米とか食料品は?」
「いや、特には……あっ、そこにカップ麺が……」
「もぉ、ダメですよそんなの。それより、まずは風邪薬は飲みました?熱は?」
「風邪薬は……切らしてる。熱は38度くらい……」
なぜか嘘をついて低く言ってしまう卓夫。
「もっと熱いと思ったけれど……じゃあ、ちょっとだけ待っていてください」
そう告げると、バタバタと天使は飛び立って行った。
(椎名さん……突然どうしたんだろ。ボクを……しんぱい?)
ガチャリ、すぐにまた扉が開いた。
天使が、スポーツドリンクと紙コップを持って現れた。
「まずは、これ飲んで休んでてください。風邪薬とか、買ってきますんで……」
「えっ、そんな、悪いよ。おーい」
ペットボトルとコップを押し付けると、天使はまた飛んで行ってしまった。
スポーツドリンクをコップに注いで飲む。
「ウマい」水道水とは段違いだ。もう一杯飲んで横たわる。
(椎名さん、どうしてこんなオヤジの面倒見てくれるんだ……)
などと考えていると、眠りに落ちた。
コトコト。料理の気配に目が覚める。
キッチンにエプロン姿の少女の後ろ姿が見える。
起きると、誰かが料理をしているなんて、実家にいたころ小学校以来だ。人の気配を感じて目が開くとは、なんて暖かいことなんだろう。
そんなことを考えながら、てきぱきとよく動く少女の姿を見つめる。か
柔らかなオレンジ色のエプロンがよく似合う。ミニスカートの下の脚の白いすんなりした脹脛が引き締まっていて美しい。
なぜ高校生の少女がここにいて、風邪を引いている自分の面倒を見ようとしてくれるのか。ただ、お隣さんというだけで。
こんな時が、自分の人生に訪れるなんて。
これは、風邪の熱に浮かされて見た夢なんじゃないだろうか……
視線を感じて、天使が振り向く。
「あっ、目が覚めたんですね。ちょうどお粥が出来上がりましたから、召し上がられますか?」
にっこり微笑む彼女の笑顔はサイコーだ !!
思わず見とれてしまう……
「やっぱり……熱でしんどいですか? 何かお腹に入れてからお薬は、飲まないと……」
心配させてしまう。
「い、いやダイジョーブ。食べる、いただきます」
「よかったぁ、それじゃあさめないうちに」
お粥を茶碗によそい、スプーンと一緒にベッドに持ってきてくれる。
「食べさせましょうか?」
(な、なんて極上のプレイを……)
「い、いや自分で食べられるよ。ありがとう」
梅干しの入ったシンプルなお粥だが、今はこれがありがたい。
ふーっ、ふーっ、さましながら食べる。
その様を天使に見つめられて、慌ててしまう。
「アチッ !」
「クスッ、慌てなくてもいいですよ。ゆっくり召し上がれ。デザートにプリンがありますから。その後に、お薬飲みましょう」
そこは、桃缶じゃないんだと、そんな昭和じみたことを考えてしまうが、口には出さない。通じるわけがない。自分も物語のお約束として知るだけだ。
美味しくいただいて風邪薬を飲み、ベッドにまた横になると、天使が額に冷却ジェルシートを貼ってくれる。
「椎名さん、本当にありがとう。何とお礼を言えばいいか……何か色々買ってもらってしまって、これを……」
真昼に、一万円札を握らせる。
「えっ、大したもの買ってないですから、多過ぎます」
「思いやり代というか、こんなに動いてくれたわけだから……」
「そんな……じゃあ、また何かお持ちしますね。さあさ、またゆっくり休んでください。ごゆっくり」
真昼は、立ち上がる。ふわっとスカートが僅かにめくれ、膝上の真っ白な太ももが目に眩しい。
カチャリ。
ドアが閉まり、真昼が去ってしまうと、途端にいつもの独り身の部屋に戻り、急に寒々しさを感じる。
それが嫌で目を瞑る。
真昼の姿を思い出す。
やはり、そもそもなぜここまで気にかけてくれるのか、どうしても理解できない。
あり得ないけど、実は自分に好意を持っていた? しょんぼりしている姿に母性本能でもくすぐられた? いやいや、どれもあり得ない。考えてもわからない。
ただ一つ言えることは、自分の仕事のミスも、昨日の会社での叱責も吹き飛んだ ! 落ち込んだ気持ちも消えてしまった。
ココロにあるのは「椎名真昼ちゃんの愛らしい姿」だけ。
彼女の一挙手一投足を瞼の裏に思い浮かべる。なんていい娘なんだろう。
年甲斐もなく、彼女のことを考えるとドキドキが止まらない。
これは風邪のせいじゃないぞ。このときめきと、甘酸っぱい感覚は、いつ以来だろうか。学生時代、オタクサークルに気の迷いで紛れ込んできた一年生のあのコを見た時かな。
一か月もしないうちに来なくなってしまったけれど。
会社員になって感じたことは……ないな。
真昼ちゃん……多分……三十歳くらい離れてるよな
いや、彼女をどうこうしたいわけじゃないさ。どうにもできるはずないさ……
いつしか卓夫は眠りに落ちた。笑いかけてくる真昼の夢を見た。
夢の中では、天使にお粥を食べさせてもらっていた。