翌朝、卓夫は爽快に目覚めた。
在宅での昨日と今日二日分の仕事を馬力をあげて片付け、夕方に近所の評判のパティスリーへ向かった。
選んだのはショーウィンドウの中で最も華やかで、真昼のイメージに近いフルーツタルトと季節のシュークリームだった。『彼女に喜んでもらいたい』その純粋な動機でお礼の品を買ったのだ。
昨日彼女から受けた心温まる介抱への感謝の気持ちであり、決してやましいものではなかった。
もちろん、あわよくば「まあ、素敵。ご一緒に」なんて誘われて真昼の部屋に上がり込み、談笑しつつお茶の時間を過ごすなんてことを夢想したのは、女慣れしていない童貞だから許してやって欲しい。
卓夫はスキップしかねない軽やかな足取りで歩く。
夢の破綻が目の前だとは知る由もなく。
意気揚々と自宅マンションへ向かう途中、ふと歩道の先を歩くふたりを見た瞬間、彼の期待は凍りついた。
同じデザインの制服を着た男女の学生が歩いている。
(あれは、あの亜麻色の長い髪の女の子は、椎名真昼ちゃんだ……隣は、クラスメイトか ?)
真昼は、屈託のない笑顔を隣の男性に浮かべていた。ふたりの距離は、手こそつないでいないものの、クラスメイトというには近い——。
長身で端正な顔立ちの青年。制服の着こなし一つとっても、卓夫のようなだらしなさは微塵も感じらない。そして、彼にもどこか見覚えがある気がする。
ふたりは、そのまま連れ立って卓夫の真昼のマンションに入っていった。
(そうだ、男の学生になんて何の興味もなかったが、確かに見かけたことのあるやつだ。そんな、まさか、そんな……)
慌てて、ふたりの後を追い、しかし追い付かない程度に加減すると……エレベーターは、自分と真昼のフロアの五階まで上がって止まり、そのまま一階に戻ってきた。
(あいつも同じフロアの住人なんだ……いや、考えたくないが真昼ちゃんの部屋に一緒に行った可能性も……)
卓夫は、エレベーターに乗り込みながら、大事に抱えていたお菓子の箱をどうしたものか途方にくれた……
(いや、別に関係ない。真昼ちゃんには、ちゃんとお礼を伝え、手土産にタルトを渡す。それだけだ。うん、社会人として学生にお世話になりっぱなしはよくない)
フロアに到着すると、真昼の部屋の呼び出しを鳴らす。
ピンポーン……
(あれ?反応がない。帰ったばかりのはずなのに)
ピンポーン、再度鳴らす。
カチャリ
真昼の部屋でなく、隣の部屋のドアが開く。
そこには、ドアから様子を伺う真昼の顔が覗いている。
「あっ、やっぱりわたしの部屋だった。
肝付さん、元気になられたんですね。よかったぁ」
こちらを認識した真昼は、振り返り部屋に向かって。
「周くん、やっぱりわたしの部屋だった。ちょっと出るね」
「肝付さん、顔色も良さそうでよかったです。今朝も心配だったんですけど、しつこいかなぁと。
何か御用ですか?」
「あの、昨日のお礼をしたくて、これ……」
「あら。そんな、気をつかわれなくても。わたしがおせかいでやったことですから……
わぁっ、これ駅前のパティスリーのですよね !! わたし、これ大好物なんです !! いいんですか?」
無邪気に笑い、
可愛らしく小首を傾げ、上目づかいに聞いてくる。
そのとんでもない可愛さに、卓夫は息が詰まる。
「やっ、も、もちろん。お世話になったし……ど、どうぞ」
「ありがとうございます !!!
お言葉に甘えていただきますね。」
ぺこりと頭を下げて、受け取る真昼。
にこやかな笑顔が、なぜか心に痛い。
「じゃ、じゃあ僕はこれで」
「ありがとうございました。
まだ無理しないてくださいねぇ」
真昼は軽やかに自然に、自分の部屋ではなく隣室に入って行く。
パタン……
ゆっくりドアが閉まる。
「これ、いただいちっゃたぁ……」
はしゃいでいるのか、閉まるまで間に微かに外に声が漏れる。
はぁぁぁっっ……
大きなため息をつきながら、卓夫は、自室に戻る。
誰もいない部屋は、いつもより少しだけ片付いている。
昨日、寝ている間に真昼が整理をしてくれたのか、衣服が散乱していることはないし、本や雑誌はまとめられている。
今朝は、あまり気づかなかったが……
気づまりから、窓を明けベランダに出る。
ふぅ……タバコに火をつける。
この部屋は、割と眺めが良いから気に入っている。
天気が良ければ、富士山もよく見える部屋だ。
午後なので、朧に影が見える。
それを眺める卓夫に、出かけるまでの高揚感は、当然消え失せている。
本日分の仕事は、凄い勢いで済ませられたので、急いですることもない。
(このまま、適当にweb小説を読んだり、動画を漁るいつもの日常を過ごすのか……
そうだよ、女子高生それもとびきりの美少女がなぜか現れて、自分のお世話をしてくれる。
そんな妄想が現実に起きるはずないんだ。これは夢だった。忘れよう、それしかない。)
◆◆◆
「真昼がお世話したって言ってたお隣さんが、これくれたんだ? 美味しいね」
突然、男の声が耳に入る。どうやら、窓が少し空いていて声が漏れているらしい。
(真昼ちゃんが入って行った部屋だ……あの学生の声だ)
ピンと気づくと
「うん、このパティスリー結構高いのに、こんなにいただいちゃって。そのお相伴に預かるなんて、ラッキーだったね周くん」
気さくに話かける真昼の声が聞こえる。そこには気安い関係を感じさせるものがある。
「たまに見かける中年のおじさんだろ? なんでそんなことしたの?」
「うーんとね、周くんのせいかな?」
「えっ、俺? なんで?」
「あのね、あの人もそこの公園のブランコに雨の中座ってたの」
「えぇっ、真昼と同じところに、あのおじさんが??」
「うん。それでつい気になって声をかけたの。
そしたら、
『私は好きでここに居ますのでお気になさらず』
なんて言うのよ」
「それって……」
「そう、あの日わたしが周くんに言った言葉と同じなの。わたし、びっくりしたし、おかしくて。笑っちゃったわ」
「ハハハ、すごい偶然」
「それで、わたしは周くんとは違って放置する人でなしじゃないから……」
「いや、それは……真昼が……だいたい傘わた」
「『帰りましょう』って言ったら……同じマンションのお隣さんだった、というわけ」
「なんじゃそりゃーーー」
「ホント、凄い偶然よね。だからかな、周くんと同じように、風邪ひいてるんじゃないかと気になって。そおしたら、やっぱり。
となったら、ほっておけないから、少しだけお世話したの」
「さすがは天使様らしい振舞いだね」
「もぉっ、これはそういうのじゃないのっ !!」
◆◆◆
(ハハ、ハハハっっっ…………なんだ、そうだったのか。そうだよな。こんなおっさんの濡れ鼠、普通はほっておくよな。キモイって。大事なカレシとの思い出と重なったから、心優しい天使様だつたわけだ……あぁ、学校でも本当に天使様とか言われてるみたいだな。そうだよな、あんなアイドルにも負けない美少女、天使様と崇められて当然か)
楽し気な話声が続いているが、とても聞いてられない卓夫は窓を閉め、ベッドに寝転がった。
(終わった、完全に終わった。いや、もともと始まってもいなかったか。これをきっかけにお隣さん同士、何かが起きるかもなんて甘い空想妄想は木っ端みじんだ……ちくしょう。
俺はいつもこうだ。ごく稀に女性と何か縁があつても、相手は俺のことなんて、ハナから視界に入っていないんだ。
今回も、あくまでも周くん?との何やら雨の日の思い出と少し重なっていただけ……添え物だ。
ご丁寧に高い金出してタルトを渡して、楽しいお部屋デートの演出のお手伝いときたもんだ……)
卓夫は眠りに落ちた。夢は見なかった。