ちょっと大きい獲物 作:自棄ノ原
原作2巻、コミック3巻読了後推奨
夏の小麦畑が風に揺れている。
オルクセン王国の首都の近郊、ヴァルダーベルクは、亡命闇エルフ族1万2千が暮らす居留地である。彼女らは元々エルフィンド王国で暮らす少数種族だったが、白エルフによる虐殺に遭い、絶滅の危機にさらされた。命からがらエルフィンドを脱出し、隣国オルクセンに難を逃れて、広大な農地と住居を与えられた。緑色の海原のように見える小麦畑に、闇エルフ達は初めての収穫を夢みている。
その穏やかな農業地帯の中に、アンファングリア騎兵旅団は衛戍地を置いている。オルクセン軍が初めて手にする本格的な機動戦力になるだろうと、参謀本部は公然と、他部隊も興味津々に注目し、高官の視察は引きも切らない。
その練兵場では、砂埃を濛々と巻き上げながら、駿馬たちが地響きをあげて駆けている。大柄過ぎるオークや、小柄に過ぎるコボルトやドワーフでは乗りこなせない、俊敏な中型軍馬だ。その背に乗る闇エルフの女たちは、褐色の肌に大汗をかき、必死に馬術を磨いている。
旅団長ディネルース・アンダリエル少将は、兵たちを鍛える各連隊長を監督している。まだまだ練度に不満は残るが、予定より早めの訓練終了を命じた。兵の疲労がたまり、これ以上の継続は危険だという判断である。
参謀本部から一日も早い戦力化をと期待され、ディネルースも焦ってはいる。しかし、騎兵同士の衝突や落馬事故は命の危険もある。虐殺から危ういところで救出した同胞を平時に失っては、悔やんでも悔やみきれぬというものだ――と、彼女は内心で己に歯止めをかけるのだった。
兵たちを解散させても、彼女たち将校は休めない。兵と馬の体調確認、本日の講評と反省、明日の訓練計画の修正と、仕事は山積みだ。
司令部の事務室に籠り、参謀たちとともに、ディネルースが書類仕事をさばいていた、夕刻のことである。
「ラエルノアが熱を?」
「はい、先ほど休憩所でぐったりとしておりまして。昼間は元気だったのですが」と、報告したのは参謀長のイアヴァスリル中佐だ。
「熱心に各連隊をみてまわっていたからな。暑気にあたったのかもしれん」
ラエルノア・ケレブレン大尉は作戦参謀である。訓練計画も彼女の担当で、このところ目が回るように忙しくしている。
「今は?」
「熱が高いので、従兵をつけました。勝手ながら先に官舎に戻しております」
「うん、それでいい。明日も休ませよう」
イアヴァスリルは、参謀長たる自分の監督不足を詫びた。
ディネルースは鷹揚に頷いたが、内心は忸怩たるものがある。
「それで、奴は今日の当直予定でしたので、私が代わりを……」
「いや、私が残ろう」と、旅団長自ら交代を買って出た。
「旅団長はお帰りになってください。私が代わります」と、イアヴァスリル以下、司令部参謀たちは口々に言ったが、ディネルースは珍しく頑なだった。
部隊の錬成を焦る自分の内心がラエルノアに伝わり、負担をかけ過ぎてしまったのではという悔いがある。
しかし、そんなことは口に出せない。
「どうせ残るつもりだったんだ。いくらか残務も溜まっているし、読み込みたい操典類もある。たまには兵たちの様子も見たいしな。他の者には言うなよ。煙たがられるから」
それに、どうせ今日はグスタフが地方視察で出張だから、官邸にも行かないし――とは、無論、口が裂けても言えない。
てきぱきと未決済書類を裁くと、今日はこれまでとし、参謀たちを追い出すように帰宅させた。
既に日は没している。将校食堂で冷めた夕食をとってから、夜の見回りにでる。
昼間からは一転して静かな衛戍地内で、夏の夜風を浴びつつ、ランプ一つを手にして歩く。
「なかなか、うまくは運ばないものだ……」とは、歩きながらの独り言である。
厩舎をまわった後、兵舎の合間を抜けようとした時、彼女は長い尖り耳をぴくりとさせた。
「でも、旅団長が――ディネルース姉さまが」と、彼女の名前が聞こえたのだ。
兵舎の脇に置かれた煙草缶を囲み、幾名かが小声で話しているらしい。
邪魔したくないと思ったが、妙に気になった。なにせ上司だから悪口を言われていても気にしないが、それにしては悲壮な感じがあったのだ。
声は、嘆き哀しみ、憤っているようだった。
「官邸の方から出勤されてるんだ。国王の下に伺候されてるらしい。毎晩だ」
「……きっと、毎夜オーク王のほしいままに」
「求められて断りきれなかったのよ。今の立場じゃ...」
「ああ、きっと苦しんでいらっしゃる」
「まさか力づくで、なんてことは……なにせ、オークは怪力だから」
ディネルースの頭に血が上りかけた。あの王は、彼女の牡は、決してそんなことはしない。彼女と王との仲が噂になるのは時間の問題と覚悟してはいた。しかし、彼女自身は何と言われようと、王に不名誉な濡れ衣が着せられるのは看過できなかった。
さっと姿をあらわすべきか。しかし、いったい、何と言えば――と迷っている間に、別の声が割って入った。
「……おまえたち、つまらん事を言うな」
ディネルースは、ほっとした。そのざらついた低い声の持ち主は、エラノール・フィンドル。第3連隊長で間違いない。豪放磊落な彼女は、旅団きっての愛煙家でもある。
ディネルースとは異なるタイプの指揮官ながら、部下の士心を得ている女だ。その彼女であれば、威厳をもって叱るなり、豪快に笑い飛ばすなり、上手に収めてくれることだろう。
果たして、エラノールは兵を説諭し始めた。
「考えてみろ。あのディネルース姉さまだぞ。手篭めになんざ、されるはずがない」
物陰で耳をそばだて、ディネルースは大いに頷いた。我が意を得たりという思いである。
第3連隊長は続けた。
「そんなことになれば、オークのあれを噛みちぎるに決まってる。そういうお方だ」
ディネルースはランプを落としかけた。
更に聞いていると、どうやら思い描く光景が、彼女と部下たちの間でかなり違うと分かった。
マッチを擦る音が一つした後、第3連隊長はやりきれぬように言った。
「……何もかも、お覚悟の上でのことだ。最初からな。我らの保護と引き換えに、自らの意思で、お身体を国王に捧げられたのだ」
「なんてこと……まことですか、連隊長」
「エルフィンドからの救出作戦の折、この耳で、しかと聞いた。王の腕に身を投げ出して、あの方は言っておられた。『約束通り、ディネルース・アンダリエルの命は貴方のものだ』とな」
「そ、そんな。あの時、既に」
「約束ということは」
「そうだ。オーク達にとっては、我ら闇エルフもロザリンド以来の仇。それを救助し、あまつさえ亡命を受け入れる代償に、あの方は……」
兵達が息を呑む気配を感じる。
「ご自身の身を捨てて、我ら一万二千の命を贖われたのだ。分かったな。我らには、案じる資格もないのだ。あの方がそうして下さらねば、みんなエルフィンドで殺されていた」
鼻をすすり、頬を拭うような音がする。
勇猛なエラノールが、なんと泣いているらしい。一方のディネルースは冷や汗を流している。
「………もはや、我らに出来ることは一つ。我らも騎兵として、オルクセン王国に身命を捧げるのだ。旅団長の恩に報いる道は他にないと、私は思う。なあ、みんな。だから、ひとつ、明日からも訓練を頑張ろうじゃないか」
それに応じる部下達は、声涙ともに下るようである。
「覚悟を決めます、私たちも」
「が、頑張ります!」
「この命、我らの旅団長のために」
答える連隊長も声を震わせている。
「ありがとう……ありがとう、お前たち」
さすがは第3連隊長、部下指揮官の鑑であった。上司の名誉を守り、部下たちの忠誠をこの上なく強固にし、その士気を高めている。武人肌の連隊長なればこそ、その誠忠は将兵に響き、その心を掴まずにはおかない。
第3連隊は、きっと強くなるだろう――などと、頭の片隅の冷静な部分で思いつつ、ディネルースはいたたまれずに逃げ出した。
情けないやら、恥ずかしいやらである。
絶対に気づかれぬように足音を抑える、その内心に嵐が起こっている。
――ディネルース・アンダリエルの命は貴方のもの――
言った。確かに言った。もっと直接的なことも言った。しかし、王は決して、彼女をそのように扱おうとはしなかった。
――自らの意志で、お身体を国王に捧げ――
確かにそうだ。誘ったのは自分からである。しかし、文脈があまりにも違い過ぎる。代償などではない。彼が好きだから、一向に何もしようとしないのに業を煮やして、彼女の方から迫ったのだ。
――きっと、夜毎オーク王のほしいままに――
されている。それはもう、なされるがままだ。自ら望み、妹たちには想像もつかぬだろうことまで。しかし、無論、合意の上のことで、それで自分は喜んでいるのだ。
根も葉もある噂である。誰のせいにもできない。全て身に覚えがある。とはいえ、いくら何でも、誤解が過ぎるというものではないか。
――どうなってるんだ! 誰か助けてくれ!
しかし、助けを求めようにも、日頃は頼りになる部下指揮官が、誠心誠意を尽くして、誤解を増幅させているらしい。
――早くなんとかしないと。でも、部下達にどんな顔をして、なんと言えば……。あんなに誤解をされていては、否定したところで...逆効果なのでは...
彼女は頭をかかえながら執務室に戻った。