戦争の覚悟 作:自棄ノ原
原作2巻、コミック4巻まで読了後推奨。
ディネルースが、オークにしてオルクセン国王であるグスタフ・ファルケンハインと恋仲になってから、半月あまりが過ぎた。
ディネルースの公的な立場は陸軍少将であり、妃ではない。また、国によっては妃に次ぐ二番目以下の夫人として地位が認められる、公的な愛妾でもない。彼女らの関係は、あくまでも私的な範囲のものであり、公には伏せられている。
そのような秘密の恋愛であっても、ディネルースは毎日のように国王官邸を訪れ、王とふたりで夕食をとる。その後は酒盃を傾け、臥所を共にする。
グスタフ王は、ただの陸軍少将には話せぬようなことでもディネルースに話し、その意見を聞くことを好んだ。ディネルースは、越権行為にならぬよう慎重に言葉を選びつつも、率直な考えを述べるようにしている。恋仲にある女の言うことだからと、何もかも鵜呑みにすることはないと、王の知性と分別を信頼しているからだ。
それにグスタフは専制君主として、特有の孤独を抱えている。彼の近臣たちは皆忠義者だが、その大半は何らかの組織の代表者でもあるから、あらゆる意見はその組織の利益や論理に偏る。また、グスタフの方も、各組織の面子や力の均衡に配慮する必要がある。
その点で、自分は王にとって気の置けない相談相手になり得ると、ディネルースは気づいている。恋仲にあるから、だけではない。彼女はオルクセンに亡命してきた闇エルフ族の事実上の指導者でもあるからだ。
オルクセン国民を構成する六種族の一つを代表する者ともなれば、ただの少将ではあり得ぬほど親しく国王に謁し、国家の枢機に触れても、不自然ではないのだった。この点、彼女の立場は王の護衛として常に侍っている巨狼族長のアドヴィンと、まことによく似ている。
昼はアドヴィンが近侍し、夜はディネルースがずっとグスタフの側にいるのが、今では官邸の日常風景であった。
しかし、そのような彼女でも、王の抱える全てに触れられるわけではない。
今夜も彼女は官邸に泊まり、互いだけを見つめる時間を過ごした。
全てが終わった後、グスタフは力尽きたように寝台に仰向けに、ディネルースは牡の巨躯の上にうつぶせて、深い眠りに落ちていた。
そして深夜、王の苦悶の声で目覚めた。
グスタフ・ファルケンハインにとって、悪夢は長年の友である。
ディネルース・アンダリエルを得た彼が、己の心身に溜まったものを存分に吐き出してから眠るようになった後、友人はしばらく留守にしていた。
しかし今日の昼間、とある事があって、どうにも心に掛かった。事は外交事案であり、ディネルース・アンダリエルには、まだ話せないことである。それを抱えたまま、彼は眠りに落ちた。
友人が彼のもとを久々に訪ねてきたのは、恐らくそういうわけであったろう。
彼の目の前で、オルクセンが燃えていた。村に、街に、敵兵の侵入を許し、火を放たれたのだ。
新しい農法を普及させて、実りが増えたはずの畑は焼け焦げて、灰の海になっている。
路上には、逃げようとして敵兵に殺された国民の死骸が山をなしている。
敵兵は、銃剣でオークを刺し、コボルトを銃で撃ち、ドワーフを剣で切り捨て、そして皆で笑い、歌っていた。殺し、奪い、破壊することを楽しんでいる。
――死ね、死ね。汚い魔種族は死ね。いくら殺しても罪にはならない。兵でも民でも、年よりでも、若くても。幼仔や赤仔だって、大きくなってつがう前に殺しておけ。
おっと、牝なら、ちょっと待て。たとえ化け物でも、戦地の飢えた兵どもには、使い物になるかもしれぬ。豚相手でも役に立つか、男の度胸を試してからでも、始末するのは遅くない――
首都ヴィルトシュバインですら、一度は、そのような目に遭わされた。
その全てが彼の責任なのだ。
しかし、魔種族たちは諦めない。皆殺しにされるくらいならばと、牡は誰もが銃を取り、牝は軍服を繕い、工場で働き、死に物狂いで抵抗した。
国土の至る所で戦いは起こり、時に勝ち、時に敗れた。どちらにしても、誰かの故郷が灰となり、大勢が戦いで死んだ。
そして死ぬときに、彼は、あるいは彼女は、その最期の恐怖に耐えるために叫んだ。
「オルクセン王国万歳!」と、彼の国の名を。
「グスタフ王、万歳!」と、彼自身の名を。
国のために戦え。国のために死ねと、彼が命じたからだ。
数知れぬ腐肉の上に、彼の国は残った。白骨の山の上に、彼の玉座は立った。
彼はそこで王冠を被り、自分が滅ぼした全てを睥睨している。
彼の他、生きている者は誰もない。
否、遠くに、もう一つ国が見える。
険しい山の国だ。緑豊かな国だ。雪積もる冬の国だ。
そこだ。そこに違いない。
次は、そこへ行くのだ。
彼は待ち望んでいる。そのために、準備を重ねてきたのだ。
今こそ、尖兵を遣わせ。あの国に地獄を解き放て。
戦争、戦争、戦争だ。
そしてもう一度、あの景色を作り出せ。
彼は唇を引きつらせる。笑ったつもりでいる。もはや人間ではない、悪魔の王の顔で。
彼が見つめる先で、豊かな栗色の髪をした女が、河を渡っている。
そうせよ、と彼が命じたから。
女の背は遠ざかる。そして、飛び跳ねるように震え、血を噴き出して倒れた。
その肢体に、白骨たちが群がっていく。漆黒の軍服が引き裂かれる。
やめろ、やめろ。彼女に手を触れるな。それは俺の女だ。
しかし白骨たちは、無惨にあばかれた女を連れ去ろうとする。
やめろ、やめろ。畜生め、俺の女に触る奴は死ね。みんな死ね。みんな殺してやる――!
女は、白骨たちに連れ去られ、その胸に刃を突き立てられる寸前に、最期の息を発した。血に汚れた褐色の美貌で、彼だけを見つめながら。
<グスタフ王、万歳!>
そこで目が覚めた。
体毛の無い彼の背中と脇が、冷や汗にまみれている。今宵は、シーツでも吸い切れないほどに汗をかいたらしい。
気持ちが悪く、身じろぎをした。
すると、彼の胸の辺りで声がした。
「……グスタフ」
顎を引いて声の方をみる。豊かな栗色の頭髪がゆっくりと持ち上がり、女の顔が見える。
美しい。疲労と眠気に満ちていてもなお、世界で一番美しいと、彼は確信している。
「……貴方、グスタフ。なぜ、そんな怖い顔をしている?」
女は生きている。まだ生きている。それが何よりも嬉しく、そして恐ろしかった。生きているということは、これから死ぬということだ。
しかし、それまでは、牡は答えねばならない。
「起こしてしまったか? 済まない。何でもないんだ」
彼の女、ディネルース・アンダリエルは顔を険しくすると、這うように彼の身体を登り、顔を近づけてきた。
「何でもない。ちょっと悪い夢を……」
女は両手で彼の頭部を掴み、そして尋ねた。
「話せ。話して楽になるなら、話せ。私に秘密を持とうとするな」
女が上体を起こしたことで、豊かな乳房が揺れた。
一糸も纏わない女は、彼を問い詰めるように言った。それが、彼女の権利であるから。
「もはや私は貴方の女。貴方の何もかも受け入れてやる。だから話せ」
君が生まれた国を、どうやって亡ぼしてやろうかと、夢の中でも考えていたんだよ。
彼の中の、恐らくは王と呼ばれるべき一部が、心の声で答えた。
彼の口は別のことを言う。
「……何でもない」
そう拒絶しても、ディネルース・アンダリエルは彼を見つめている。
「何でもない……」
女は無言のまま、彼の頭部にのしかかるようにして、己の胸に抱いた。
温かい。柔らかい。
女の双丘に顔を埋め、両腕に包まれて、彼は声を抑えて泣いた。
彼がそのまま眠るまで、女はずっとそうしていた。起きた後は、やはり、何一つ尋ねてくることはなかった。
朝――ディネルース・アンダリエルは、いつものように王と朝食を共にした。昨夜の痴態とはかけ離れた、一部の隙も無い女将校の姿になると、愛馬にまたがって官邸を出た。
まったく、いつもと同じ。
しかし、もう彼女は確信している。
やはり、そうなのだ。
理由は分からない。
彼女にはまだ知る由もない、何かが動いているのだろう。
残された時間は、思いのほかに少ないらしい。
戦争が始まろうとしている。
否。違う。断じてそうではない。
彼女の牡が、戦争を始めようとしているのだ。