戦争の覚悟 作:自棄ノ原
原作2巻、コミック4巻まで読了後推奨。
長い夜が明けた朝――グスタフはそっと寝台を抜け出すと、執務室の引き出しから小さな箱を取り出した。
ディネルースが目覚め、その意識がはっきりしてから、その箱を女に贈った。
指輪ではない。宝石でもない。
まだ珍しい発明品、腕時計である。
能う限りに小さく作った時計に革ベルトをつけ、懐中にいれるのではなく、手首に巻けるようにしたものだ。
実用品を好む女は喜んだ。また、瞬時にその意義を理解した。
「これはいいな……! 騎兵には最高の品だ。馬に乗りながら使えるとはな。指揮をとるにも突撃するにも、役に立ちそうだ。ありがとう、グスタフ!」
その言葉選びが、つまり「貴方の気持ちは分かっているよ」ということだった。
そのような品をはなむけに渡すということが、自分の女が「最前線で戦うことを止めない」と、彼が覚悟した証だった。
それから、ディネルースは目が回るほど忙しい数日間を送った。
何せ、彼女の旗下には八千余もの兵と、その馬がいる。首都近郊から国境地帯へと、無事に移動させるだけでも大仕事だ。
かねて計画してあるとはいっても、言うは易し、行うは難しである。綿密な計画を立てたときには想像もしなかったほど、細かく、下らない、しかし疎かにはできない小問題が数限りなく生じた。それらの処理に忙殺されて、ディネルースは鉄道乗車の当日を迎えた。
彼女自身の身支度は、簡単なものである。なにせ狩人は、軽捷機敏が信条なのだ。その限られた荷物の中に、これまでグスタフから贈られたものが全て入っている。
野戦望遠鏡。故郷の味に近いものを探してくれた火酒。香油に石鹸。手首には、もちろん腕時計を巻いている。
こうして支度してみると、彼からの贈り物は何もかも戦陣の合間に使えるものばかりだった。牡の思慮深さに感心して、その思いやりに包まれるような気がした。
――ずっと、そばにいるんだ。離れていても。
心と身体の深いところに温もりを感じつつ、ようやく作れた短い時間を使って、彼女は官邸に赴いた。
グスタフの姿は執務室になく、図書館のような私室に寛いで、楽しげに本を読んでいた。
「おお、ディネルース。来たな。今から出発か?」
彼はふだんと同じ様子だった。やあ、野遊びに行くのかい、とでも言うようだ。
ディネルースの心に、沸々と喜びが湧いた。
彼女の牡は、もう泣いてはいない。もう、恐れも迷いもしていない。
彼は覚悟を決めたのだ。彼女がそうであるように。
「……どうした?」
「いや、なに――」
ふたりして涙を流し、互いに縋り付いて愛し合い、身も心も情炎で燃やし尽くした時間のことを、すっかり忘れたような呑気顔ではないか。
その図太さがおかしくて、ディネルースは笑い出した。
「大いに結構……! 事態ここに至るも我が王が普段と変わらぬとは、臣下として、これほど頼もしいことはない、と――そう思えてな」
あくまで臣下としては、だ。
彼の女としては、今からでも牡をからかい、いじめてやりたい。なんとも可愛い、彼女だけのグスタフ・ファルケンハインを。
その後、グスタフは彼女に本を一冊、貸してくれた。
「読み終わったら、棚に返しておいてくれ。いいな?」
牡は言葉ではそう言った。もちろん彼の声は、ディネルースに届いている。
帰ってきておくれ。もしも、私がここにいなくても――そう言っていた。
「そうか。わかった。ありがたく」
それだけを言って別れた。それ以上のやりとりは、数日前の夜に全て済ませていたから。
それでも牡は、彼女の声を聞いたであろう。
――分かったよ。魂だけじゃ、本は持ち帰れないものね。
ディネルースは兵を率い、まずは鉄道に乗った。
国王自身が密かに官邸を脱し、特別警護班とともに出発するのは、明日になる予定だ。
ふたりは離れ離れになった。片や、全軍を率いる国王として。片や、その先鋒の将軍として。
彼女らの戦争が始まろうとしている。
所定の位置で降車してからは徒歩と馬での移動になる予定だが、それまでが長い。
何十両もに分乗した八千余名が、車窓の外を流れる景色を眺めながら、ひたすら暇を潰している。
兵たちは三等車両や露天の貨車に押し込まれ、尻の痛さに耐えているだろう。
ディネルースら旅団司令部を始めとする将校たちは、さすがに一等車だ。
四人がけのコンパートメントに座っている。ディネルースの隣には参謀長のイアヴァスリル。対面には作戦参謀のラエルノアと、兵站参謀のリアだ。
ラエルノアは、列車が出発して程なくからウトウトと揺れ始めた。イアヴァスリルはその膝に毛布をかけてやり、微笑ましげに見守っている。
兵站参謀のリア・エフィルディスは、揺れる車内でひたすら帳面をめくっている。補給に休養にと、細々とした数字を一手に預かる彼女は、今後の予定を幾度も確認しているようだった。
長い移動になるから、今から根をつめる必要もなかろうに――と思いながら、見守る。そのようなリアは、ひたすら職務熱心な参謀将校に見える。
しかし、見つめるディネルースには、旅団長としての思案とは別に、複雑な気持ちがある。この女、仕事は正確なくせに……と、密かに逆恨みしているのだ。
――まったく、こいつめ……あんなことを私に吹き込むとは。オークや人間の貴婦人は、みんなそうするらしいです、なんて。自分では、経験なんて無いくせに。
冗談まじりの文句でも言って、仕事を邪魔してやろうかと悪戯心を起こしかけ、危ういところで気がついた。
――駄目だ、駄目だ。文句なんて言おうものなら……。
諦めて、彼女はリアから目を逸らし、溜息をひとつついた。
やむを得ないのである。参謀が意見した作戦でも、それを実施した結果の責任は、指揮官のみにある。軍隊の常識だ。
「……旅団長?」
兵站参謀は、心配そうに彼女の顔を窺った。旅団長は何を案じているのかと。
「もしかして」
真面目な参謀は、猫のような丸い目を煌めかせ、そっと尋ねてきた。
「……試しました?」
ディネルースの顔からさっと血の気が引いた。
「っ、きゃーあ!」
胸の前で手を組み、嬌声をあげはじめた。帳面はもう閉じている。
「どどど、どうでした!? どんなでした!? ノア、起きて起きてっ。参謀長どのっ、重大な報告がありまーすっ!」
参謀たちの視線がディネルースに殺到する。
目覚めた作戦参謀は一瞬で事態を把握し、獲物を見るような目を向けている。
無二の腹心と頼む参謀長は、頬を赤らめた伏せ目がちながら、一言も聞き逃すまいと身構えている。
戦力比は、既に一対三である。あまりの劣勢に、ディネルースはぞっとした。
――こ、孤立無援……!
そればかりではない。
きゃあきゃあと繰り返すリアの嬌声を聞いて、他の席にいた将校たちまで、なんだなんだと寄ってきた。
察しの良い連隊長たちは、早くも顔をニヤつかせているようだ。きっと突撃してくるだろう。
――か、完全に包囲されている……!
彼女を案じていたグスタフの声が蘇る。
<最初に川を渡る者が、一番狙われるんだ>
<もしも気づかれたら、めった打ちにされる……>
確かに、その通りだよ、グスタフ。貴方やっぱり、軍事の才能もあるんじゃないか?
どこにも退路はない。
しかし、まだ、たっぷり半日は汽車の旅である。
長い戦いになるだろう。
戦争には勝って帰るつもりだが、この戦いには負けそうだと、彼女は早々に覚悟した。
(おわり)