※この作品はR-18です。

花一匁に唾を吐け!   作:スズカワ


原作:落第忍者乱太郎
タグ:R-18 ボーイズラブ 鬼義
鬼義になれなかった√の義のおはなし。
※鬼←義
※舳義(️⭕️親愛❌恋愛)
※重←舳

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第1話

 

一

 

鬼蜘蛛丸という名の通り、ほんの小さな子供の頃の彼というのは、たいそう頼りないほどの虚弱であった。

「まるで仁王か何かかって厳(いかめ)しさだろう。街中なんかで名前を呼ばれると、そこらの通行人がギョッとして振り返る」

今でこそそう冗談めかして笑う鬼蜘蛛丸は、誰もが知る兵庫水軍きっての山立、押し出しの効く海の男だ。思慮深く胆力のある、人々の信頼を恣にする偉丈夫である。すっかり人並み以上の体躯を持つ鬼蜘蛛丸だが、そんな彼も、信じられぬほどに病弱だった過去がある。

普通の子供より小さく生まれた子というのは、総じてひ弱なものだ。生命力の劣る個体は長く生きながらえる確率も低く、慣習として、霊験あらたかな、いかにもといった名づけをされることが多かった。

「鬼蜘蛛丸」もそうだった。義丸の記憶を遡れば遡るほど、その小さな後ろ姿ばかりが思い起こされる。つまり今に至る迄の長い時間、それだけの時を、義丸と鬼蜘蛛丸は共に過ごした。共に瀬戸の海に生まれ、育ち、同じ空と海に親しんで肩を組み歩んできた。鬼蜘蛛丸という男は、義丸の人生を語るには切っても切り離せぬ、象徴的な要素であった。

少しの熱で寝込んでしまうのが幼い頃の鬼蜘蛛丸なら、対照的に、頭の先から真冬の海に落ちたところで咳ひとつしないのが、幼い頃の義丸であった。外で駆け回り砂に転げ回るのが義丸ならば、開け放った戸板の内側で、瀬戸の海を見つめながら読み書きに親しむのが鬼蜘蛛丸だった。

だからといって仲の悪かろう筈もなく、ほんの幼いこの頃から、鬼蜘蛛丸という無二の友を、義丸は心の底から好いていた。

 

秋の風に呼ばれるように顎を上げれば、ほんの少し高くなった空がそこにはあった。掃いたようなひといろの青に点々と白を置いたそれは、まるで魚の美しく光る鱗のようだ。

海鳥の声に混じるように子供の軽い咳が室内に落ちた。義丸が秋空から視線を外して振り返れば、そこにはたった今、自らの肺から滑り落ちた空咳などひとつも気にした素振りも見せない鬼蜘蛛丸が、分厚い本を熱心に読み込んでいるのみである。今にも飛び出して行きたくなるような好天でも、年の半分以上を、鬼蜘蛛丸は低い天井の下で過ごさねばならない。そのことをつまらないと、ほんの少し思いこそすれ、義丸が糾弾するようなことは絶えてなかった。

「今日は何読んでるの」

「星の本。なあ、空には真ん中があるって知ってたか。真ん真ん中で動かないのは北辰だけってのは知ってたけど、だから鼓星は冬と春で西にあったり東にあったりするんだって」

「ふうん?」

細い顎で、細い手首で、興味に紅潮した頬だけがふっくらとまん丸で、緑に透ける黒髪が目にかかるのにも構わず鬼蜘蛛丸の視線は文字と僅かな図だけを追っている。その様を眺めやる義丸の心は、今日の秋風のように心地好いものだった。義丸は満足に読み書きが出来ない。共有出来ない物事でも、他でもない鬼蜘蛛丸がこうして楽しそうにしているのならそれで良い。鬼蜘蛛丸の孤独と虚無を掃きやってくれるのなら、それでいい。

滅多に砂浜を一緒に駆け回ってくれない友が、それを心底残念がっていることを義丸は知っている。陽の明るい晴れ空の下を目一杯転がり回る義丸たちの姿を、この狭い室内から、ただ眺めることしか能わぬ己の虚弱を誰より呪っているのは鬼蜘蛛丸自身なのだと、義丸だけは知っている。

だから、義丸だけは決して糾弾してはならなかった。兄弟同然に育った相棒の、どうにもならない自身への失望を敢えて突き付けることなど、二度と義丸だけはしてはならなかった。

「俺だけはおまえをいじめない。おまえをいじめる奴は、俺が絶対ぶちのめすから。だからおまえは、うんと学んでくれよ。うんと勉強して、誰も何も言えないくらいに物知りになってくれよ。おまえが頭で俺が手足だ。そうしたら、おれたちきっと最強だ」

義丸が癇癪紛いの我欲によって鬼蜘蛛丸を深く傷付けた日。鬼蜘蛛丸が、義丸に向かって拳を奮い、幼い胸に溜め込んだ澱をさんざんにぶち撒けたその日。義丸は泣きじゃくりながらそう誓った。わんわんと泣く鬼蜘蛛丸の頬に頬を合わせながら、たとえ幼く拙かろうと、磨きあげられた貝殻のように真白な誓いを立てた。

「お。なあなあヨシ。おれたちの知ってるのが出てきた。昴だって。これって須麻流のことだよな? 鼓星の右上でたくさんの星を統べるから須麻流、へえ……」

そう呟いて、鬼蜘蛛丸は小さな指先で描かれた星座をそっとなぞった。六つの小さな星々を統べる、かつての人々が信仰の対象としてきた胡の星。富と威と、世界を統べる昴星。

「嬉しいよな。おれたちの大切な須麻流が、ずっとうんと昔から色んな人の扶けになってる。海に何を落としたって、兄ぃたちが須麻流で引っ掛けて引き上げてくれるってみたいにさ、昴がいたら大丈夫、昴があるから大丈夫って、みんな空を見てたってことだろ」

そう誇らしげに言う鬼蜘蛛丸の横顔の、なんと純粋なことだろう。義丸は、心の立てる音というのを自らの内に聴いた。後にも先にも、きっとこれが最初で最後だと思えるような、玻璃の立てるような微かな一音。

この男をよく扶け、そしてきっと共に立とう。そう信じるようになったのはこの頃だろう。

身体の弱く、けれどめっぽう頭の良く、同じ齢で瀬戸の暗礁岩礁をその小さな頭に呑み込んでしまったこの相棒を。寄せては返し、溢れては引く大海原と、渡る風の機嫌を読むのがとりわけ上手なこの男を、他ならぬ自分が扶けるのだ。将来に鬼蜘蛛丸が水軍の脳と立つならば、それを支えるひときわ巨きな柱として立つのは己でなければならない。義丸は、渡り鳥が季節を疑うことのないように、自然とそれを小さな身体に容れてしまった。

鬼蜘蛛丸にとっての昴星となろう。たとえそう望まれなくとも、求められなくとも、無条件に信頼されるような相棒となろう。

「ヨシ、頼めるか」

「お前なら出来るだろう、ヨシ」

「流石ヨシだな、助かった」

当たり前だ、出来ますよ、俺はあんたの昴星なんだから。鬼蜘蛛丸がひ弱な少年ではなくなり、背中を預ける相棒となり、遂には二人と並び立つ者の居ない山立となり。二人の間に転がる名称が音だけを変えながら、それでも変わらず、何度となく内心で繰り返す言葉がそれだった。鬼蜘蛛丸からの信頼が積み重なるように、義丸の統べる星々も一つ一つ増えてゆく。

両手には抱えきれぬと我に返ったその時ついに、これは恋だと思い至った。

そうやって、義丸の恋心というのはひっそりと積み重なっていった。

 

 

舷側と舷側に挟まれた細かな波が激しくのたうち跳ね回り、その音が飛沫となって全身をしとどに濡らした。鈎を携え船の先端に構えた義丸には、向かいの船から数多の穂先が向いていた。

「投げるぞっ」

距離を見極め、一言宣言する。応とこたえる声が重く響く。今日の船戦はうねりのつよい海面で行われた。離しの風で敵船に向かう一番船は、誰よりも早く、敵船へ接舷する必要があった。

一足先に焙烙船が投げ焙烙を打ち込んだ敵船は、文字通り火をつけたような騒ぎであった。そのような有様の小船が前後左右でひしめき合い、辺りは酷い喧騒で溢れかえっている。

諸肌を脱いで舷側から身を乗り出し、須麻流を大きく回し始めた義丸へと雨のように矢が降り注ぐ。鈎の風を切って回る重い音は、敵にとっては不気味な宣告と同義である。なんとかして阻止しなければならぬ、兵庫水軍を優位に立たせてはならぬと躍起になって妨害をする。霰となって襲いかかる矢の数々を、身隠しの盾が総出で義丸を防ぎきった。

矢先の髪を掠めるのも気にならない。義丸の肚は、錨のように船縁に据えられていた。怒号の飛び交う喧騒の中、義丸の視線は一点のみに集中している。

重力と遠心力の乗り切った鈎の、その力が最も発揮される場所で手を離した。解き放たれた鈎は索を伴い、弧を描いて荒れる波上を飛び越していく。

「掛かったァ!」

「接舷するぞっ」

鈎が敵船の船縁に喰らいつく。確かな手応えを逃さぬうちに、相手側に外されぬうちに、義丸は血管の浮き立つほどに渾身の力を込めて索を手繰り寄せる。導を得た小早は、うねりも波も関係なく、ぐんぐんと敵船へと近付いてゆく。

危ういほどに激しく船が横揺れていた。うねりが強く、波も波頭に白く泡を吹くほどに海域全体が荒れていた。海賊衆に濡れていないところの残っている者などおらず、全員が戦内容以前に消耗しているのは明らかであった。こういう日は、手足のちぎれて帰る者も多い。

今日、鬼蜘蛛丸は義丸の傍には居ない。

水夫の時から常に傍で戦ってきた義丸と鬼蜘蛛丸が持ち場を異にするようになったのは、つい最近のことである。山立見習いとして旗艦の安宅船に乗り込むようになった鬼蜘蛛丸は、遂に今日から、独り立ちをして船戦の差配を執り行うことになった。

義丸は肌を紅く染めながら、ただひとつのことのみを考えるようにつとめた。

言わば今日が鬼蜘蛛丸の初陣だ。ならば義丸は、持ちうる全てでもって、鬼蜘蛛丸に成功を掴み取らせるよう立ち回るべきなのだ。そうしたかった。鬼蜘蛛丸の手に、輝かしいまでの初陣の勲章を握らせてやりたかった。

我ながら健気なものだと思う。望まれたわけでも、強請られたわけでもない。ただ、作戦立案を務める鬼蜘蛛丸に「一番の鈎はヨシが掛けろ」と言われた。それだけなのだ。鬼蜘蛛丸にしてみれば、例えば義丸が一投を失敗したところで、魚が跳ねた程度のことなのかもしれない。控えの鈎役もそのためにある。

しかしそうではないのだ。義丸にとって、鬼蜘蛛丸の一言とはそういうものだった。「一番の鈎はヨシが掛けろ」。ならば、なにがなんだって必ず掛けてやらねばならない。例え無数の槍が向こうと、どれだけ外力が強かろうと、向かい風がうねりを上げて吹き荒んでいたところで何の言い訳にもならない。

「一番の鈎はヨシが掛けろ」。その通りにする。その通りにしてみせる。愚直なまでの己の中での決め事は、ほんの幼い頃に濡れた頬を合わせて立てた誓いと何も変わってなどいなかった。幼い誓いは今やそのように形を変え、けれど根元だけは決して変わらず、義丸の深いところに一本の芯として立っている。

目前に数多の槍先が突き立てられた。接舷してきた義丸ら兵庫水軍の海賊衆を害さんと、無数の凶器が針山を横倒しにして突き立てるようにして向かってくる。

「鈎を外せッ」

「鈎役から殺れェっ」

両手を索に取られた最も無防備な鈎役を狙う濁声が飛び交うと、統率のとれた虫のように、槍がいっぺんに義丸を掠めていった。視界は鋼色に埋め尽くされ、ほんの少し空いたところに冗談みたいな空の青が切り取られたように浮いている。

「おい爪竿とれ、早くっ」

「義っ、さっさと手ェ離せッ」

最も近くで義丸を庇っていた年嵩の身隠しの盾役が、堪らずといったふうに声を荒らげた。いつのまにか義丸の視界は紅く染まり、そうして漸く、額を割られたことに気が付いた。

まだだ。耳を割るほどの喧騒と剣戟と、赤濡れた視界に覆われた内でも、義丸を突き動かす思考は冷静そのものだった。船同士のぶつかり合う衝撃に、激しいうねりに、義丸の握る索が気を抜けば離れていきそうになる。それを渾身の力で引き留めながら、横目で自軍の様子を見やる。まだ、海賊衆が十分に乗り移っていない。まだ、十分に役割を果たしていない。

身隠しの盾が、危うく義丸に迫った凶刃を弾き止めた。前後左右の怒号に混じり、何度も義丸を急き立てる声が掛かった。

義丸自身も頼りとするこの剛健な先達は、義丸の何代も前から鈎役の傷を一身に受けてきた古参であった。義丸が船戦に立つそれよりずっと前から、無防備にその身を晒す鈎役の盾として、最前に立ってきた歴戦の猛者である。

まだだ。奥歯の軋む音が脳に響く。ともすれば遠のいてしまいそうな意識を全力で掻き集め、手のひらに索を巻き付け握り直した。波の揺れに合わせ、索が手のひらにくい込んだり緩んだりする。肉のちぎれてしまいそうな圧力を飼い慣らしながら、まだだ、まだだ、と意地のように「まだ」を重ね続ける。

噴き出してしまいそうに熱い血潮を全身に迸らせた視界の端には、兵の字を高々と掲げた大安宅が悠々と浮いていた。

 

 

案の定義丸は、盛大に灸を据えられることとなった。

相手としては始終義丸を庇いきった盾役代表こと義丸に索を離せと散々忠告し総スカンを食らった古参の男と、騒ぎを聞きつけてやってきた疾風が主な相手である。無茶をした自覚もさることながら、パックリと額を割っている以上義丸に異議を唱える資格などあろうはずもなく、日頃の鬱憤を五倍は上乗せられたような叱責を延々頭を垂れて傾聴した。

絶対安静を銘打たれた一室に取り残された義丸は、ポツンとひとりで眠り続ける他には瞼の上まで掛かる包帯を煩わしさに任せて弄り回す以外にすることもない。今日だけで算えて三十を超える寝返りをうった頃、ひとつの淀みない足音がやってきては戸の前で止まった。

「ヨシ。起きてるか」

「はいはい、どうぞー」

他でもない鬼蜘蛛丸の声に嬉々として振り返り、結果義丸は顎を外しかけた。

待て待て待て。声に出なかったのは我ながら褒めて然るべき対応だろう。しかし表情までは繕えようはずもなく、あんぐりと顎を落としたまま気の利いた言葉のひとつも捻り出すことも出来ぬうちに、鬼蜘蛛丸はさっさと枕元に腰を下ろしてしまった。

真っ赤に変色した大痣に左顔面を侵食されている鬼蜘蛛丸は、何食わぬ顔で笑った。

「大した男ぶりだなあヨシ。額の向こう疵だなんて、余計女が放っておかないんじゃないか」

「いや嫌味かよ。山立サマはお偉いですもんねえ? ご心配おかけして申し訳ありやせぇん。オラ満足か」

「それだけ軽口叩けてたら大丈夫か。心配して損したぜ」

「言ってろ。そんなこたどうでもいい、鬼蜘蛛丸、なんだァその面。俺とは比べ物にならねえくらいに男前じゃあねェの。安宅には鼠一匹通さなかった筈なんだがなあ?」

「気にすんな」

いや気にするわ。気になるわ。義丸の内心で盛大に文句が飛び交う。しかしこうなった鬼蜘蛛丸は、意地でも口を割ることがない。仕方がないので、溜息を呑み込んで話題を変える他はない。「何しに来たんだよ」

「別に。ヨシが派手に頭割って血塗れで帰城したって大騒ぎだったからな。どんなもんかと見に来た」

平静を努める鬼蜘蛛丸のその様子に、義丸は嫌でも勘づいた。間違いなく、長年の連れ合いは、かつてなく最大にご立腹である。

だからどうした。

義丸の中にむくりと湧いた反抗心が、爆発的に膨れ上がった。

未だかつて、義丸が鬼蜘蛛丸に対してこれまでに刺々しい感情を抱いたことはない。太く根ざす大樹のような穏やかさをもつ鬼蜘蛛丸と、気儘に渡る風のように軽やかな気性の義丸とは折り合いがよく、幼少の頃より今に至るまで、喧嘩らしい喧嘩をしたことなど片手で数える程しかない。いがみ合い、互いに棘を相手に剥き出しにして、憎むわけではなくとも剣呑な感情を向けることなどなかったのだ。沖に突如現れた雨域に最大速力で突っ込んだように、雰囲気は一気に様変わりした。

文句があるなら言えばいい。生き急ぐな、無茶すんな、人の迷惑も考えろ、自分を安売りするもんじゃねえ。つい先程有難く頂戴した数々の叱責を思い出す。どれもこれもがごもっともと言わざるを得ない真心たち。

反論の余地もなかった。言葉なく項垂れ、まるで生身の肉に突き刺されるように、素直に容れる他なかった。このとき初めて、義丸はどれだけ自分が過信と不遜で戦に臨んでいたかを、本気で叱ってくれた人々の表情から言葉から思い知ったのだ。今命があるのは実力でもなんでもなく、単に運が向いていただけに過ぎない。それは生き残った海賊衆全員にいえる。

しかし、鬼蜘蛛丸だけはダメだ。

鬼蜘蛛丸だけは、義丸にその言葉を向けることを許容するわけにはいかない。

無茶をするな。身勝手に突っ走るな。海戦から耳にタコが出来るほどに繰り返されたその言葉を、賢くも鬼蜘蛛丸が口にすることはなかった。けれど似たようなことを考えている。義丸には理解る。ただ口に出すことが能わず、こうして口を引き結んで静かな黒目で、じっと義丸を見つめている。怒りに燃えた目で、その熱を持て余しながら、苛立ちを隠すことが出来ずに義丸を見詰めている。

「俺の目につくところにいろよ」

「ハッ、お前が言うのかよ」

「そうだ」

言うに事欠いてそれか、と義丸が意地悪く言葉を返したら、思わぬ断言で鬼蜘蛛丸が義丸に仕掛けてきたものだから面食らう。何往復か余地があると踏んでいた義丸は、思わぬ分断にギョッとして視線を上げた。変わらない眼差しで義丸を睨め据える鬼蜘蛛丸がいるのみで、思わず、それを真正面から容れてしまう。

どの口で。お前がそれを言うのか。どの口で。どの口で。

俺が勝手に守ってきたあの日の約束を、俺が勝手に、後生大事に持っていただけの約束だけれど、他でもないお前が反故にしてくれるなよ。

「無茶言うな」

やっとの思いで口に出した。砂に塗れたようにざらついた響きで二人の間に落ちたそれを、二人して呆然と眺め下ろすことしか出来ない。

義丸の隣に立つのは鬼蜘蛛丸ではない。鬼蜘蛛丸はもう、義丸の傍で戦うことは出来ない。

幼い頃の約束だ。初めて掴み合いの喧嘩をして、言葉で互いに傷つけ泣きじゃくり合ったあの日の約束だ。その通りになった。夢を叶え、それぞれの場所でそれぞれを扶けるようになっただけなのに。

『俺だけはおまえをいじめない。おまえをいじめる奴は、俺が絶対ぶちのめすから。だからおまえは、うんと学んでくれよ。うんと勉強して、誰も何も言えないくらいに物知りになってくれよ。おまえが頭で俺が手足だ。そうしたら、おれたちきっと最強だ』

それがこんなにも、半身を失くしたようなもどかしさとやるせなさを伴うようなものだなんて、思ってなどいなかったのだ。

 

「ア? 知らねえのかヨシ、あいつ岩の兄ィに盾付きやがったからあんななってんだ。身隠しの盾が鈎役守りきれねえで何やってたんだっつってさ。そりゃもう大目玉よ。一発ブン殴られただけで済んで良かったなァ。ま、お前らも仲良いのは良いけどよ、たいがいにな」

後日、兄役にあっけらかんと種明かしをされた義丸は、思わず立ち尽くしたくなるような空虚感を味わうこととなる。じんわりとしたよろこびに温む胸を、声の通らぬ場所から眺めやることしか出来ずにいる。矛盾する二つのこころを持て余し、途方に暮れた。

よろこんでいる場合ではない筈なのに、確かに芽吹いた恋心が、決して出さぬと決めた恋心が、やわらかな慈雨に頬を差し出し、身を浸しているようであった。

義丸も鬼蜘蛛丸も、見え透くような無茶を振りかざすようなことをしなくなったのはその一件以来であろう。正確に言えば、相棒を失くした空白を無理に埋めようとするような衝動を、上手く自らの内に収める術を得た。二度と、無二の相棒の哀しげな表情など見たくなかったのだ。

それぞれの持ち場がそれぞれの誇りとして確立する今となっては、遠い昔を懐かしむような話である。

 

 

義丸は、ありもしない想像をする。

命を取る手段など幾らでもあった。

心の臓を突けば動きを止めるし、首を縊れば呆気なく地に伏せる。多少手間は掛かるが、頭蓋の横を拳で撲ち続ければ白目を剥いて四肢から力を抜くであろうし、何より手っ取り早いのは真冬の荒れ狂う波頭目掛けて突き落としてやることだった。指先を浸そうものならたちまち真っ赤に腫れ上がる厳寒にひとたび身を沈めたならば、半刻の後には黒黒しい波間にぽっかりと浮かぶだろう。

手段を選ぶ余裕のあるくらいには、それなりに心得もあった。

義丸の両の手には、ひとつの小ぶりな鉢が収まっている。

小さなものだった。未熟ともいえた。数枚つけた葉は健やかな緑に色づいていたが、花をつけるには遠いだろう。取るに足らない植物だった。それを持て余すように、しかし何処にもやれずに、臍の前あたりに抱くようにして提げ持っている。

例えば、投げ捨てたら音を立てて割れるだろう。

土を撒き散らし、細く拙い根を無惨に晒し、そうして朽ちていくだろう。それが最も早く、簡単で、当たり障りない手段に思えた。何せ此処には義丸以外の誰も居ないのだ、小言を言う者もなければ叱責を受けることもない。

しかしどうにも気が乗らなかった。

義丸は上唇を突き出し思案した。目の前には錠の掛かる板戸がある。

暫しの後、結局義丸は戸を開けた。予想通りの房間だった。暗く、風もなく、全く何も無い空間だった。戸を閉め錠を落とせば、きっと空気すら通らない。そんな房間だった。

その奥に、ずっと後生大事に抱えていた鉢を置いた。

振り返ることなく戸を閉めた。淀みない動作で錠を掛ける。一念発起のその行動は、呆気なく終わってしまった。

全てが後のことだった。引き返せない現実を噛み締めるように、板戸に手のひらを押し当てた。己の傷だらけの皮膚越しに、あの小さな緑が透けて見えるような気がした。

暗く、光も風も届かない房間で、ゆっくりと死んでいくに違いない。

 

 

 

二

 

思うに、今日の自分というのは全てが捨て鉢で、今まで培ってきた人生そのものを脇に放ってしまいたくなるような仕上がりだったのだろう。今日ばかりは兵庫水軍きっての喧嘩自慢、一の鈎役の義丸も霞と消え、ただの自暴自棄な自棄酒喰らいに成り果てた。そんな日だった。

重ねに重ねた杯の儘に正体を無くした脳が、身体を丸ごと呑み込んで支配したようであった。足の先から目蓋の裏まで何もかもがあやふやだというのに、内腑を掻き回され奥を穿たれる感覚だけはやけに鮮明で、直接的で明透な快感は義丸の体内じゅうを滅茶苦茶に逆巻かせ、痺れを伴ったそれは潮に焼けた肌を粟立たせた。

「アンタの中、凄いですよ。よくもまあ、こんななるまで仕込みましたね……」

身も世もなく犬のように這いつくばった義丸の腰を、背後から乱雑に掴み責め立てる男の声も常の無表情とは違い、今ばかりは心を顕にしたような乱暴さを帯びていた。容赦なく叩きつけられる腰が義丸の尻とぶつかり、音を立てては波の引く音に紛れていく。耳を塞ぎたくなるような情交の音も、今の義丸にとっては余程望んだものだった。賑賑しい酒宴の只中にありながら凪いだ静寂の痛さほど、義丸の忌避するものはなかった。

どうかしている。弟分を巻き込んだこの行為に、義丸の良心は非難の声を上げ続けている。しかしその一方で、このまま時化の荒波めいた行為に呑まれたまま、知らぬ程遠くまで追いやられたいという願望が強く勝ってもいた。それは今の今までしかと握りしめていた"義丸"という自己を、布のように引き裂いて粉々にし無くしてしまいたいというような、破れかぶれで馬鹿げた衝動といっても差し支えないだろう。

練達した水練の男の身体は、普段は冷えきっていることを義丸は知っている。けれど今、義丸を掴む手は、触れる肌は、真夏の砂浜のように命の熱を持っていた。

海に住む男の上気した肌は沖の潮の香りがした。

義丸は熱く燃えるような目頭から涙が滴るのをはっきりと自覚した。今だけは堪えることも出来そうになかった。

今自分の望むものを与えてくれているこの優しい男は、自分の欲した男では決してないのだ。

 

 

 

そもそも今日は義丸にとっても重要で重大で、何より決定的な祝日であったのだ。

夕刻より早々に開催された酒宴はひどい盛り上がりを見せていた。大皿に盛られた肴もさることながら、そこかしこにゴロゴロと転がる酒瓶が、今日という祝日と人々の心の浮かれようを代弁しているようであった。元来が無法者の集まりである水軍衆は、とりわけ祝い事や酒の席というのが好物なのだ。その上主役が他でもない四功の山立であるのだというのだから、ここぞとばかりに浮き足立つのも道理であろう。

義丸は人の輪から少し距離を置いた場所に陣取り手酌を重ねつつ、人々の影の隙間より酒宴の主役を覗き見た。

祝言の中心に居て揉みくちゃにされているのは義丸の幼馴染で親友の男である。素直で実直、思いやりに溢れた有能な山立は、水軍衆の上から下から誰からも慕われている。気恥ずかしげに上役からの酌を受け、けれど心の底より晴れがましく笑う鬼蜘蛛丸の頬が、先程から灯された燭台の火に染められている。

味のしない酒を無闇に重ねたところでひとつだって酔える気などしないのは、時化の沖じみた心境に反してそれを許されない現実の只中にあるからだろう。肴に手をつける気などさらさら起きず、ぼんやりと霞む視界の端を放置して杯をまたひとつ飲み干した。気付けば先程まで共に酒を酌み交わしていた同胞も左右から姿を消し、代わりのように酒瓶が転がるばかりである。

義丸は鬼蜘蛛丸を好いていた。

幼少のみぎりより生を共にし、背中を預けたいわば半身ともいえる存在であった。世に衆道や稚児愛などといった趣向が蔓延っていることは承知しているが、義丸のそれはそのどれとも差異があると自認している。

義丸は何より、鬼蜘蛛丸という男の心根を、魂を好いていた。献身めいたそれは信仰にも余程似ている。

言葉で説明することなど無粋だと、己に明言することを諦めた日は遠く過去のことである。発達途中の人間として最も多感な時期に、義丸はアッサリと、鬼蜘蛛丸という一人の男に身も心も明け渡した。だのにその男は、薄情にもほかの女のものになるという。

義丸が勝手にくれてやったものなのだから、薄情もなにもないのだ。鬼蜘蛛丸に批などひとつたりともありはしない。誰もが舌を巻いて逃げ出すほどの恋を育み、遂にこの日を迎えた鬼蜘蛛丸に物申す資格など、持ち合わせるものが何処にもいる筈がない。

だからこそ堪えた。義丸がかつて着古しの袖で一生懸命に拭い、体裁を整えて鬼蜘蛛丸に渡したそれが、目の前に転がっているようだった。今更手元に戻ったところで、はいそうですかと懐に仕舞うには質も量も膨れに膨れて手のつけようがなかった。

「ヨシ、隣いいか。随分と呑んだなあ」

義丸の肩に気安げに置かれた手のひらの熱は酷く覚えのあるそれで、ともすれば気にも留まらぬほどに肌に馴染んだものだった。顎先を上げれば鬼蜘蛛丸の精悍な笑顔が義丸を見下ろしている。

返事を待たずに当然のように義丸の隣に腰を下ろした鬼蜘蛛丸の手には、持参した酒瓶が握られている。主役自ら酌に回るほど、いつしか夜は更けていたようだ。

「漸く抜け出せた。本番は明日だってのに、みんなはしゃぎすぎなんじゃないか」

「そんなこと言うもんじゃねえぜ。皆嬉しいのさ、それこそ自分のことのようにさ」

「そんなもんか」

「そういうもんですよ。兄ィたちの祝言の時だってそうだったでしょ。全くお前って奴は本当、鈍いんだか抜けてるんだか……」

「そうか」

やけに真面目な顔で頷き、そして鬼蜘蛛丸は含羞むようにして笑った。「嬉しいモンだな。ヨシもそう思っててくれるってことだろう」

「俺の酌も受けてくれよ。俺がここまで来れたのも全部お前のお陰だと思ってるんだ、冗談でも誇張でもなくな。今までもこれからも、お前が居てくれなきゃ困る。なあ、相棒」

人の気も知らないで。そう言ってやれたらどんなにか良いだろう。酒しか食らっていない筈の喉が詰まったように軋む気がした。

それでも、その言葉ひとつで舞い上がるほどに喜んでいる自分もいるのだから、もう今更、どうかできるものでもないのだ。

「なに寝ぼけたこと言ってんだ。俺が、他でもないお前の酒を受けないわけがないだろ?」

 

 

 

 

「……義丸の兄ィ、何してるんですか、こんなところで」

浜の外れにある岩場には人っ子一人居なかった。それもそのはずで、水軍館から離れた岩場は月と星の灯りを頼りにする他なく、足場の悪く怪我のしやすい場所にわざわざ出向く者など余程の理由有りしかいない。

舳丸がそんな場所に顔を出したのは、ひとえに浮上箇所に定めていただけである。真っ黒に塗りつぶされた夜の波間から顔を出した際にばったりと目の合った兄役は、酷く驚嘆した表情をしていたものだった。

岩陰に隠しておいた小袖を肩に引っ掛け、海水と一体化した髪を絞りながら座り込む義丸の元に歩み寄れば、離れていても判るほどの酒精が鼻先を掠めていく。ただでさえ大酒喰らいの兄役は、どうやら相当酒を過ごしてきたらしい。

「宴会はいいんですか。鬼蜘蛛丸の兄ィの祝い事でしょう」

「……いーんだよ。ミヨ、お前こそどうして此処に居る」

どうやら自分は、言外に去ねと言われているらしい。良くも悪くも付き合いの長い相手なだけに、扱いというのは互いにどうにも粗雑になるものだ。何食わぬ顔で真横に腰を下ろした舳丸に、義丸はあからさまに迷惑そうな顔を向けた。

「俺は酔い醒ましに素潜りしてただけです」

「酔って夜の海に入るんじゃねえよ……」

「アンタほど酔っちゃいませんよ。それにたまには夜間に潜水しておかないと、勘が鈍るので」

「そうかい」

暫く岩に波頭のぶつかる音を聴くだけであったが、不意に義丸が小さく言った。

「情けねえよな、俺。素直に祝ってもやれねえ……」

舳丸は虚をつかれたように目を丸くした。

義丸が鬼蜘蛛丸に対して並々ならぬ親愛を向けていることには薄々勘づいていたが、よもや義丸ともあろう者が、それを他人に打ち明けるとは予想だにしていなかったのだ。恐らくは義丸の心の最も柔い箇所の話であり、おいそれと零していい類のものではないはずである。

気の置けない間柄の弟分である自分が相手だからなのだろうか。はたまた酔いに任せた末の襤褸なのか。舳丸が言葉を探しあぐねていると、義丸は悪手と沈黙を払うかのようにさっさと立ち上がってしまった。

咄嗟に手を掴んだのは何故だろう。舳丸は自問した。けれど、きっと意味など自身に探したところで見つかろうはずもないのだろう。

舳丸を見下ろした瞳の揺れる様が、危うさが、何よりもそうさせたのだ。

「まだ戻らない方がいいですよ。……酷え面だ」

それとも、真っ赤になった目が、存外にいじらしく思えたのやもしれない。

どれだけ泣きたいようなことがあろうとも、それでも、この誰よりも耐えるのが上手い兄役は、意地でも泣くまいと堪え続けたのだろうけれど。

 

 

眼前で蠢く背中は紛れもなく屈強な男のそれだというのに、自らの性器を突き入れた中というのは女性のそれと大差のないように思えた。とはいえ、比べるまで数をこなすほど女体にさしたる興味も持たなかった己の感想では、大したあてにはならないのだろう。

ひとたび肌を重ねてしまえば、自分たちの関係性というのはたちまちにあやふやに掻き消えてしまった。朝と夜のように上下関係のはっきりとした組織内に在る兄役と弟分も、今や夜の水平線のように肌の熱と共に曖昧に混ざってしまった。

浜に物置として建つ小屋の中は案の定真っ暗で、いくら夜目の効く舳丸でも義丸の表情までは窺えない。ただでさえ顔を隠すように背を向けた義丸なのだ、舳丸に素顔を晒すふんきりがつかなかったのだろう。

(誰に抱かれてるのかを明らかにしたくないだけなのだろうけど)

自らの身体を放り投げるように舳丸に明け渡した義丸は、先程から身を崩したように泣き喘いでいる。

泣くに泣けず、耐えるにもどうしようもないほどに疲れきっていた。そんな兄役がどうにも見ておられず、柄にもなく声を掛けたのは舳丸の方だった。しかしまさか、こんなことを望まれるとは予想だにする筈がない。

体裁も何もかもがどうでもいい。そんな義丸の姿など初めてだ。舳丸がそう驚くのは無理もなく、普段から飄々と上手く立ち回る義丸というのは他人への気遣いに於いて天賦の才を備えていたのだろう。そんなだから、辛くとも全てを浮ついた笑顔の下に押し込めてきたツケがこうして回ってくるのだ。

『 アイツとどうこうなりたいとか、別にそういう訳じゃないんだ』

思わずと言ったように零したそれは、きっと何にも覆われていない本心なのだろう。

いっそ無理矢理にでも手篭めにして、身体ごと奪ってしまえるほどの傲慢をこの兄役が備えていたのなら、きっとこんなことにはならなかった。こんなに悲しいまでに膨れて弾けてしまった心を、鬼蜘蛛丸以外の誰かに明け渡すこともなかったのだ。

叩きつけるように奥を穿いても、浅いところを擦ってやっても義丸は善がったが、何かにつけて乱暴に扱われるのを望んでいるようだった。最初こそ舳丸も望みのままに力任せに抱いてやったものだが、一度精を吐いてしまえばそんな熱も窄んでしまい、いっそ嫌になるほど丁寧に扱ってやろうという気持ちが勝っていた。

一際大きな声を上げた義丸の脚が痙攣するように慄えた。腹の内側を押し潰すように丁寧に擦ってやるのが好いらしい。締まりの良さに耐えながら何度も同じ箇所を擦ってやれば、とうとう義丸はぐすぐすと鼻を鳴らして泣き出した。

まさか初めて後ろを使った男がここまで素直に快感を拾えるとは思えない。きっと、手に入る望みもないというのに諦めきることが能わなかったのだ。義丸のことだから、そこに他者を介したとは思えない。ひとりきりで後ろを慰め、そして結局、望む人に抱かれることも未来永劫なくなった。

自分では出来ない。舳丸はそう思った。臆病に言い訳を重ねて本心を先送りにし続ける己には、義丸のように、心に素直になることは出来ない。

尾を引いたように胴を慄わせる義丸の背に覆い被さるように身を倒し、その熱を頬に押し当てた。

「アンタのそういう健気で一途なところ、俺は好きですよ」

 

 

 

 

明け染むる空の涯の色が徐々に水面に光を落としていく。夜を残す朝の海というのが、舳丸はいっとう好きだった。

舳丸が一人で端舟の用意をしていると、ひとつの砂を踏む音が近付いて来た。顔を上げずとも、酷くぶすくれた仏頂面であろうことは想像に難くない。

「おはようございます、義丸の兄ィ。もう動いて平気なんですか」

「ナメんなよ。俺を誰だと思ってんだ」

「その調子なら気遣って損でしたね」

「誰の所為だと……」

言葉尻を濁し、結局続く言葉を見失った義丸は、自らの色の薄い髪を乱暴に掻き混ぜた。その様子を確かめるに、もう舳丸の案じる要素は無いらしい。

暫く言葉を探した様子の義丸は、結局舳丸の格好に言及することに決めたらしい。

「昨日も潜って、今からも?」

「昨夜のは俺の趣味です。これからは、浦の海女の後押しがてら、俺達も漁に入ります」

「おう、美味い鮑頼むね」

海が涯から運んでくる風は穏やかだった。錦糸のようにたなびいていた雲も次第に散り、今日は快晴になるだろう。

舳丸は、昨夜から繰り返し考え、遂に言うことの能わなかったことを言ってみた。

「いっそ、いなくなっちまってもいいんじゃないですか。兄ィなら何処でも上手く生きていけそうだ」

「はァ?」

「此処に居続けるのが辛いなら、離れてみるのもいいのかと……」

「いやいや、お前何言ってんだ」

思いがけないことを言われたと言わんばかりに、義丸の両目は大きく瞠られている。そうすると、色素の薄い虹彩が朝の海を反射していっそう光って見えた。

「兵庫水軍一の鈎役ってのは誰にも渡さねえよ。今の若いヤツらにもな」

そう言って、義丸は傷だらけの大きな手のひらで舳丸の髪を掻き回した。

「鬼蜘蛛丸が山立張ってる限り、俺はあいつの一番槍で居続ける。こればっかりはもう、誰にも渡せやしねえんだ。ンなことはお前が一番分かってるだろ」

「そんなことより、」義丸が声を圧して言った。

「昨日のことだけどさ、」

「ハア。言われずとも、誰にも言いやしませんよ」

「そうじゃなくて」

てっきり早朝の来意はそればかりだろうと思っていた舳丸が見返すと、義丸は変な表情をしていた。笑顔と言うには口が曲がり、怒っているにしては眉がひらいている。

「いや、存外後ろって具合が好くてさ」

「馬鹿なこと言わないでください、金輪際まっぴら御免です」

「違くて。……お前、そろそろ準備しといた方がいいんじゃないか? 要があるなら俺、教えるし手伝うし」

声を上げずに胸倉に掴みかかった舳丸を義丸が難なく制したところで、若い声が二人を呼びかけた。

「舳兄! あれ、義丸の兄ィも。おはようございます、早いですね?」

「お〜重、おはようさん。じゃあな舳丸、また後で」

「舳兄、義丸の兄ィと何の話してたんですか?」

「何もない!」

毛を逆立てた獣のような風体で義丸を見送る舳丸と、高らかな笑いを立てながら去っていく義丸を交互に見遣り、結局重は何も言及しないことを決めたようだった。舳丸に向かって笑顔を振りまきながら、おもむろに小袖を脱ぎ捨て始める。

「後押しまでは時間があるだろ、重こそどうした」

「へへ、だからですよ。舳兄と仕事の時間までひと泳ぎしようと思って!」

「何を急に……」

「ほらほら、舳兄も脱いでくださいよ! まずは牛糞鼻まで競泳しよう」

『 鬼蜘蛛丸が山立張ってる限り、俺はあいつの一番槍で居続ける。こればっかりはもう、誰にも渡せやしねえんだ。ンなことはお前が一番分かってるだろ』

朝日よりも綺麗に微笑んでみせた兄役の表情が不意に思い出され、舳丸は思わず重の姿に見入った。

そうだった。それは舳丸の体内を満たす海の水のように、不可侵で不変の事実であった。

たとえ手には入らなくとも、だからといって離れることなど考えることすら出来ない。

波打ち際を恐れず跨ぎ越した重が、ざぶざぶと音を立てて海へと入っていく姿を見詰めた。朝を迎えたばかりの海が、夜の色を底に沈めたまま、生まれたての光を表面に散らしている。その只中に居る重の姿の、なんと綺麗なことだろう。

惹かれるように足を踏み出した。

もう止まることは出来ない。引き返すことは出来ない。一度望んだなら、心の在り処まで明け渡したなら、最も近くまで往くしかないのだ。

舳丸は連られるように、自然と笑っていた。

 

「今行く」

 

 

 

夜明けに沈む水軍館は、未だ深く眠りについている。朝日を受けてきらめく波際から戻った義丸は、世界の反対側に引き返すように、そっと薄闇に足を踏み入れる。

皆が皆、思い思いの形で雑魚寝をしたらしい広座敷を通り抜け、自室に戻る前にふと思い立ち、厨に立ち寄ろうと右に折れた。水でも飲んで、ついでに顔でも洗い、形だけでも澄んだ心のまま二度寝を決め込もうという魂胆だ。昼を迎えるまで二日酔いを決め込めば、起き出した頃にはきっと全てが終わっている。この期に及んで往生際が悪い自覚はあるも、見たくないものは見たくないし、嫌なものは嫌なのだ。面と向かって己の心の砕かれる様を凝視したいものなどそういない。

厨に近付けば近付くほどに、厨仕事のささやかな音が明らかになってきた。

足音を立てぬように進む義丸の息遣いにもともすれば混じりこんでしまうほど、それは気を使って潜められたものだった。泥酔した寝坊助たちを、いたずらに起こしては悪いから。そんな擽ったいまでの親愛に一歩近付くほど、ついさっきまで、確かに義丸の胸を占めていた意地悪い考えが掃かれたように散っていく。

引き返すべきだ。

来た道を戻り、自室に続く廊下を脇目も振らずに直行し、頭まで掛布を被って酔漢を装い狸寝入りを決め込むべきだ。朝が終わるまで起き上がらず、宴の余韻の消えた頃に何食わぬ顔で皆の輪の中に戻ればいい。そうするべきだ。そうすれば、いつも通りの毎日に何事もなく戻れる筈だ。そのつもりで今日を迎えた筈だった。

そっと厨の内側をうかがった。

そこにはやはり、鬼蜘蛛丸が立っていた。

気に入りの白い割烹着を小袖の上から掛け、義丸に背を向けて、やわらかな湯気を立てる麦飯を握っている。手元の器には、既に握られ整形された握り飯が数個、綺麗に並んでいた。いい塩梅の塩に、香ばしく焼いた魚の身。きっと今の季節なら、刻んだ紫蘇が混ぜ込まれているはずだ。中身を見ずとも、義丸には分かる。背を向けていて表情の見えないにも関わらず、何故か義丸には、鬼蜘蛛丸の口元がやわらかく持ち上がっていることまで透かし見たように分かるのだった。

ほんの少しだけ。そう決めて、義丸は鬼蜘蛛丸の後ろ姿を見詰めた。こうしていれば、あちらが気付いて振り返るかもしれない。そんな期待の胸に過ぎるのを自覚して、即座に取り消すように名を呼んだ。

「ヨシか。やけに早起きだな」

呼び掛けに振り返った鬼蜘蛛丸が破顔する。格子の外から降り注ぐ朝日を受けたそれに、まるで眩しいものであるかのように目を細め、義丸は卒のない笑みで応えた。なんでもないふうに、いつも通りに。そう鬼蜘蛛丸が感じるように努めて、結局、どんな表情になったのかは分からない。

「おまえこそ。今日出発だってのに、こんな朝っぱらから厨で何をしてんだか」

「弥次郎さんたちが来て下さるのは巳の刻だからな、まだまだ時間があるんだ。それよりミヨたちが浦の海人さんたちの後押しに行くってんだから、飯でも握ってやろうかと思ってさ」

そう言いながらも鬼蜘蛛丸の手は麦飯を握り続けている。温かな匂いにつられるように近寄ってきた義丸に笑いかけ、鬼蜘蛛丸は潜めた声のまま続けた。

「昨夜、おまえ何処かに行っていただろう。このまま昼まで帰ってこないんじゃないかとヒヤヒヤしてたんだが、良かった」

「……別に、今日が最後ってわけじゃないだろ」

今日、鬼蜘蛛丸は正式に婿入りをする。

他家に入るといえど、鬼蜘蛛丸が兵庫水軍から去るわけではない。住居を異にするだけで、鬼蜘蛛丸が瀬戸の海から離れるというわけではない。

言外に義丸がそう言うと、鬼蜘蛛丸は「そうだけどな」と困ったように笑った。きっと、説明のしようもない空虚というのを、鬼蜘蛛丸も義丸と同じように持て余している。

義丸は、どうしようもなく込み上げてくる想いを放り投げたい衝動に駆られた。嬉しいくせに虚しい。喜んだところで糠喜びであることなど知れている。何処まで行っても報われることのない想いを、出来ることならくしゃくしゃに丸めて投げつけてやりたかった。

そうすることの出来ぬ代わりに、キチンと整列した握り飯を一つ鷲掴み、音でもしそうな勢いでかぶりついた。自棄めいた衝動のままに噛み締めた味は、義丸の慣れ親しんだ鬼蜘蛛丸のそれだった。程よい塩加減に、綺麗に焼き目のついた魚のほぐし身、涼やかに鼻を抜ける紫蘇の風味。水軍衆のなかでも郡を抜いて料理の上手い鬼蜘蛛丸のその秘訣は、家族を思いやるまごころである。

「……驚いた。これ、胡麻か? 初めて食べた」

「お、流石ヨシだな。気付いたか」

つい先程までの投げやりな気分などすっかり忘れた義丸が、目をキョトンと丸くして鬼蜘蛛丸を見上げる。義丸の、なんの力もこもらぬ素を見慣れた数少ない一人である鬼蜘蛛丸は、ただ嬉しそうにしている。

「炒った白胡麻を混ぜてみた。香ばしくて食感も面白くなるだろ? オマケに栄養も満点だ。まだまだ水温も冷たいからな、潜るんなら力をつけなきゃな」

「うん、美味いよ」

素直な賞賛が義丸の口からこぼれ落ちた。大葉の爽やかさが焼き魚を引き立て、更に香ばしい白胡麻が加わることで、全体の風味がまろやかに広がっている。成程これだけ食べ応えもあれば、体力仕事にも身が入ろう。そしてふと、気付くのだった。白胡麻の加わったこの握り飯が、義丸にとっての食い収めなのだ。

「そんなわけないだろう。婿入りするとはいったって、水軍(ここ)を抜けるわけじゃないんだ。今までと何も変わらないさ」

思いがけず、口に出してしまっていたらしい。義丸の独り言になんでもないふうに、鬼蜘蛛丸が応えた。つい先程交わした遣り取りと真逆のことを言っている。互いにそうと自覚しながら、可笑しさから目をそっと逸らすようなぎこちなさを享受している。

そんなわけがない。義丸は表情にこそ出さなかったが、きっぱりと胸の内で否定した。鬼蜘蛛丸の傍付きとして仕える若い男に、山立としての様々を教えこんでいることを知っている。義丸の守るべき山立は、いずれその若い男へと代替わりする。

「いや、これが最後だよ」

不思議と心は凪いでいた。嵐の前のそれではなく、それはまさしく、晴れた朝日を照り返す海の、穏やかな鏡面のような凪であった。

これまでや昨夜のような心境はすっかりなりを潜めていた。全てが腑に落ちたともいえる。言葉に表せずとも、何はともあれ、義丸の中では今を受け入れるための欠片が揃った。そのようだった。

鬼蜘蛛丸を横にして、味のしない食事のあろうはずもない。一口ぶん残った最後の握り飯を口の中に放り込み、その味と食感を楽しんだ。文句なしの味付けに、自然と義丸の口の端は緩く上がっていた。

鬼蜘蛛丸に、視線だけでなく顔ごと向き直る。遂に義丸の背を追い越すことこそなかったが、太い首に強靭な骨肉は、幼少の虚弱さなど嘘のようだ。けれど今でも、季節の変わり目に喉を痛めやすいことを義丸は知っている。ひとたび喉を悪くしたら、そこから熱を出すことも多い。

穏やかな黒目が義丸を見返す。瀬戸の海のように朗らかなそれが、義丸はいっとう好きだった。鬼蜘蛛丸が義丸を映す、その真っ直ぐな眼差しが好きだった。低い声が自分の名を呼ぶ気安さ、自分もまた、それと同じ響きで鬼蜘蛛丸の名を呼べることが、それが。

「結婚おめでとう、鬼蜘蛛丸」

薄い玻璃のたてるような微かな響きだ。

胸の内に確かに聴いたそれは、それはきっと、この世にあまねくすべての祝福を掻き集めたことほぎにも勝る一音に違いない。

 

 

錠の掛かった戸を開けた。

ともすれば記憶の底に置き去りにされてしまうような、狭く暗い房間だった。

義丸は惑うことなく薄暗闇のなかへと足を踏み入れる。窓もなく、空気も通らぬこの房間のことを、しかし忘れた日などついぞなかった。義丸の胸のやわらかく無防備な部分に、だからこそ、それをずっと、囲って守ってくれていた場所だった。

房間の奥には、変わらずに一つの小ぶりな鉢が置いてあるのみだった。

決して弱々しくなどはない枝に芽吹く緑は、日も空気も、水すらないというのに青々しい。年輪を重ね、少しずつ歪に成長しつつも、凛と立つ姿は健気といえた。

そこに人知れずついた蕾が、薄紅に綻んでいる。

ハ、と込み上げた笑いが漏れた。

「どんだけ図太いんだか」

笑おうとして失敗した。中途半端に歪な表情を、しかし今は咎める者など居ない。

義丸は思わず手を伸ばした。

叩き落としてやれたらどんなにか良かった。握り潰し、ちぎり捨て、色の変わるほどに踏みつけてやればよい。そうしてやれたらよかった。顧みられぬまごころなど、パッと意趣返しをして忘れるべきだ。

もとより、見るに見かねて閉じ込めたものだった。

暗く空気の通らぬ房間で、知らぬ間に朽ちていれば良いと思った。だからそうした。手を下す決心も度胸もなく、人知れず枯れ死んでくれるのを待っていた。だから閉じ込めた。見ぬようにした。

指の腹でそっと触れた花弁は、そんなはずはないのに、何故だか少しだけあたたかかった。肉厚でしっとりとした感触は、まるで頬を寄せられているかのようだ。瞼を落とし、漸くの邂逅に、義丸にその身を預けてくれている。

酷い仕打ちなど、出来るわけもない。

義丸は鉢を掻き抱くようにして胸に押し込めた。言葉が胸の内に溢れては、形になる前に零れてゆく。唇をわななかせ、ついぞ言葉を紡ぐことも能わず、結局、傷を腕で覆うようにして縮こまり、歯を噛み締めて息の漏れるままに咽び泣いた。

消えやしないのだ。

殺すことも出来ぬ。失くすことも出来ぬ。一生、義丸の心臓の裏で生き続ける。これはそういうものなのだ。縋るようにして掻き抱くそれが咲かせた一輪の花に、落ち度などひとつもありやしない。死ななくてはならぬ理由など、ひとつだってありやしない。

息継ぎの拍子に涙が零れた。音でもしそうなそれが義丸の頬を打つ。そうして漸く義丸は、酷く傷付いた己を自覚した。

「好きだ。好きだよ。……愛してる、鬼蜘蛛丸」

これまで充分傷付いた。しなくても良い我慢をし、しなくても良い虚しさを享受した。けれどそれと同じだけ、義丸の胸は満たされもしたのだ。辛いと思うそれと同じだけ、ともすればそれ以上に、鬼蜘蛛丸と隣合う日々というのは義丸にとっての至幸であった。

死なせない。失くさない。胸に根付く枯れない花を、きっと一生かけて守ってゆく。幼い頃に立てた誓いを鬼蜘蛛丸が覚えていなくとも構わない。それは義丸だけのものだった。この恋心は、義丸だけのものだった。

薄紅色の花弁に額を寄せた。

死なない花を胸に抱き、これからも生きてゆく。

 


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