誰かが語る───彼女はもう死んでいるらしい。
誰かが語る───彼女は自死の成否を決めるらしい。
鬱気味の人は読まない事をお勧めします。
そろそろ死のうかと思う。
今日の話じゃないけど来週中には。暖かくひんやりとした決意を固めて。
死ぬ決断に至った理由は実のところ明確じゃない。自分でも何故と問われれば一瞬答えに戸惑う程度の柔らかい感情だ。
無理矢理、抽象的な大きな囲いに括るならば、人生の苦み、エグみ、辛みといった様々な刺激的スパイスに食当たりを起こしたとも言える。死にたくなるほどの艱難辛苦に見舞われている訳ではないが、毎日の艱苦奮闘に耐えれる訳でもない。鬱病というわけでもない。生存欲求が人より遥か低く、ちょっとした出来事で下回るくらいには精神が脆弱なだけだった。
しかし、現代社会において、人に迷惑をかけずに死ぬことは基本的に適わない。部屋で首を吊れば大家が困り、車中で練炭自殺を図れば救急隊員が困り、電車に轢かれれば何万人が困る。僕如き矮小な存在ですら見知らぬ誰かを困らせることが出来るのだと思うと全く捨てたもんじゃないと思えてしまう。自分自身の存在というのは普段は何一つ他人に影響を与えるの値しない無価値で不可視で透明な存在だと考えるのに、死ぬ寸前になると、それが巨大な壁の如く眼前に出現するのだから本当に面妙な話だと思う。
僕はいち社会人として、つけ加えるならば良識さを兼ね添えたつもりの個人として、この崩れ行くことが運命づけられた闇々ならぬ社会で、それでも未来よ希望よと踏ん張る方々の足を引っ張りたくない。
そういう訳で、
簡単な話、会社に所属したままだと迷惑がかかるからだった。
退職届を認める筆は人生で最も軽く感じた。退職事由もスラスラと浮かんだ。一身上の都合。勿論、一身上が何であるかなんて明記はしない。自殺するから退職しますだなんて言った日には、確実に止められるか、産業医に相談するように言われて七面倒だ。つまりは本当のところ、真の退職理由を露見させない理由は僕の都合だった。
流れるように上司からオンライン面談のMTGが設定された。いつもならカメラをオンにして臨む会議も、後先が無い僕はカメラ設定を切って望むことにした。
15時丁度に始まった退職面談は10分程度で終了した。上司も形だけ引き留めたという実績が欲しかっただけのようで、僕の一身上の都合にはほぼ関心を抱かなかったのである。都合が良いと思う一方で、僕が二年ぽっち過ごした社会人生活で大したバリューを生まなかった表れでもあるのだろう。平易に言って僕は無能だったのだ。全く、暴力的なまでに心に刺さる。
プロジェクトの切れ目だったので引継ぎする業務もなく、有休を消化したのちに退職ということで話がまとまった。取り合えず出社したくないので借りている社内PCや入館証はレターパックと宅急便を駆使して送り付けることにした。
退職処理が全て済むと、これから自殺するというのに雲切れ目から陽光が差すような晴れやかさを覚えた。退職、ああなんて素晴らしい行為なのだろう。この世の社会的生物が味わうことが出来る感情の中で、最も中毒的で快感でさえあるような気さえしてきた。何も成し遂げていないのに達成感すらある。これはとても恥ずべき感情のように思えるけども、僕は恥ずべき存在なので特に何も思わなかった。恥ずべき存在だからこそ死ぬのだ。
退職までに5営業日、そこからの有給休暇消化期間中に早速僕は自殺方法を考え始めることにした。
自宅で首を括ることはまず最初に浮かんだけど、やっぱり却下した。2年余り住んだ愛着ある部屋を事故物件にしたくはなかったし、もしも僕が腐乱死体になって、誰にも見つからず数日が経過し、鼻が捥げるような腐敗臭の発生源と化してご近所騒ぎになるのも勘弁だった。死ぬまでなけなしの良識は大事にしたい。強くそう思う。
次に練炭自殺を思い出した。車内に七輪を持ち込んで一酸化炭素で肺を満たす。日本酒だのウイスキーだのを大量摂取して泥酔状態になれば、臨死状態になることなく僕は死ぬことが出来るだろう。
ただ一つ、問題があった。
生まれも育ちも東京都板橋区である僕は生憎と車を持っていない。都内で車を保持する必要性も無ければカー趣味もなく、それ以上に年収は平均程度にしかないから買う余裕も無かった。即ち練炭自殺を試みるためには車を買うか、レンタカーを借りるかのどちらか二択を選ぶ訳だが。後者は論外として、前者は中古車なら手が届くだろう。でも僕はこの案を廃棄した。なぜか。僕は至極当然で普遍的に存在する本能に従い、私財を投げ打ってまで行う自殺を忌避したからだった。
もし自殺が失敗した場合、中古車は処分する必要がある。毎月の駐車場代や車両保険もバカにならない。死ねなかった後のことを考えることは大変不毛だと思うけど、24年もの間ずっと希死念慮を胸中で飼いならし、なあなあで生きてきた僕は自分のことを信用していなかった。
3つ目に思いついたのは前2つに比べると大変良案に思えた。
自殺旅行。
それは言葉の表す通り、関東平野を離れ、遠く遠くまで旅をして、見知らぬ過酷な土地でくたばってしまおうという素敵な計画だ。場所は玄界灘だろうが奥羽山脈の山林の中だろうがどこでもいい。だってまず旅行という響きが形容しがたい魅力を内包している。
生物は全て定命である以上、遅かれ早かれ死ぬのは必然だ。死ぬまでの暇つぶしに旅をするというのはとても良い。
ただ、最善とは言えない気も同時にしていた。自殺への意欲を失う恐怖感がこの案にはある。僕は死ぬ。24歳という年齢で死ぬ。楽しいことをしていればその楽しみを長く享受したいと考え25歳になって、金が無いから就職をして気づけば26歳になる、などという未来が透けて見える。
だから自殺旅行とは心の端に存在する甘えが生み出した腹案だ。死ぬなら死ね。僕は死ぬ。
そこで折衷案として、僕は懐中電灯と縄が入ったリュックを背負って旅に出た。日帰り旅行……帰るつもりはないから片道旅行というのだろうか?
旅程は一日。目的地は富士の麓にある青木ヶ原樹海。言わずと知れた自殺の聖地だった。
僕は中央線を使って大月駅まで行くと、富士急行線に乗り継ぎ、河口湖駅で降りた。大体3時間強の長い道のりだった。朝日が昇ってすぐに行動を起こしたのにもう昼手前である。特急料金をケチって普通電車で来たからしょうがない。死ぬと分かっていてもなぜかムダ金を惜しむのだから人間の感情というは合理的じゃないなと感じる。
バスで川口湖まで向かう。
山梨県にある河口湖は目の前に富士山が聳えることから、写真スポットとして人気の場所だ。湖畔沿いにはお土産屋や飲食店も疎らながら連なっていて、人気は多くないものの全く過疎という訳でもない。
取り合えず湖のほとりまで歩いて、富士山の写真をパシャリと一枚何気なく取った。TwitterことXにアップロード。ちなみにこれは1時間経ってもリプライは愚か、いいねの一つも来なかった。通常営業である。
適当な飲食店で昼を済ませて、バスで富岳風穴に向かう。この周辺には富士五湖と呼ばれる湖の他に風穴と氷穴が点在する。折角の自殺前最後の旅行なのだからと特に予定も目的も死ぬ以外にない僕は取り合えずバスで巡ることにした。
氷穴の方が寒くて風穴の方が温かいのかと思っていたけど、どうも違うとのこと。
風穴と氷穴の違いは、竪穴式か横穴式かで識別されるようで、決して洞窟内の温度に差があるからじゃないらしい。実際、二つともに洞窟内は0度を少し超すくらいの冷気で保たれていた。半袖で来てしまったものだから僕は双方の洞窟を順路上の看板には一切目もくれず早歩きで巡り外に出た。外に出るや否や5月上旬の暑さが身に染みる。でも洞窟内よりは快適だった。
その後は日帰り温泉に入ったりして時間を潰した。想像以上にバスで巡れる観光スポットがこの周辺は少なかったのだ。
夕方、大体午後六時を回ったあたりで僕は適当な歩道から反れて青木ヶ原樹海に入り込んだ。
この日の為に懐中電灯を持ってきた僕はその不気味さに驚いた。
木々が風に吹かれざわめていて、鳥の鳴き声が四方八方から聞こえてくる。リラクゼーション出来そうな空間に思えるのに、どこか瘴気が漂っている。陰湿というか、閉塞感というか。
はたまた、これは僕がこの場所の使用用途を穿った認識をしているから、そう思ってしまうだけなのかもしれない。本来の青木ヶ原樹海といえば美しい原初の自然と動物を眺めることが出来て、日々の人工的な騒々しさを忘れられる場所のはずだ。そして実際、目の前の樹海はそういった側面から色彩を見ることもできる気もする。でも時間帯がやはり違うのか。夜間近の樹海は非常に不気味で、死という概念が木々の隙間を縫ってカーテンみたいに広がって、忽ち僕の周囲を包囲していく錯覚を感じる。
死に場所としては下等も良いところだけど文句は言えない。一見人通りのなさそうなこの獣道でも、やはり死ねば誰かに迷惑がかかる。その罪の意識だけは常に僕は持ち合わせている。この場所で僕は死なせてもらうのだから、恙なく、そして身を弁えて粛々とすべきだ。
僕はちょうどいい高さの木を発見したので、リュックから縄を取り出すと枝に括る。
木に登って、手間取りながらもやい結びをすると、立派な絞首台が出来上がった。
「ようやく死ねる」
純粋な感想が口から出た。
息が止まる。舌の根が乾く。鼓動が終わる。人生が水泡と帰す。その何分前が今で。じゃあ何分後、僕はどこにいて何思うのか。それとも何も思わないのか。主体としての僕は残るのか。
この世界はそもそも僕が見ている夢という可能性はないだろうか。全ては観測者たる僕を軸としたまやかしで、僕が死んだ刹那に世界が終わる。僕はまた別の誰かの夢見る世界へと舞い戻る。
生とは何か。僕らは生を取り上げた瞬間を貴び、死の瞬間も貴ぶ。死後も回忌にお彼岸といったお礼参りで貴び続ける。相対的に生を消費する間は尊くないみたいだ。生きているのは当然だから、生死の瞬間や死後を重視しているようにも思える。生きるのが当然。死は格別。
もやい結びをした縄を眺めながらずっと考えていると夜が来た。僕は立ち尽くしたまま首に縄をかけることすらできていない。
自殺する環境はある。
自殺する動機もある。
自殺する意思もある。
でも自殺する勇気が無い。
死への未知。古くから様々な宗派の仏教が死後の世界の在り方を謳いどすれど、それらすべては空想妄想で空中楼閣。死後について知っている人間はおらず、これを生きとし生ける物全てに拡大しても絶無であるのは間違いない。
だからこそ死には人を惹きつける魔力がある。未知には価値があるからだ。死ねば終わる。終わった先に何もない事を期待する人間もいれば、極楽浄土を期待する人間、はたまた来世なんてものを期待する人間だっている。
僕は何を死に期待しているのだろう?
分からない。僕は漠然と死にたいと強く念じて仕事を辞めた。それで青木ヶ原樹海にいる。
何も考えたくない。生きるのはつらい事ばかりだ。
少なくとも動機はある。楽になりたい。解放されたい。幸せになりたい。物事が全て思い通りに運んでほしい。現実はそれらの対偶にあるから僕は死ぬ。
でも死んだ後にどうなりたいなんて、考えたことはなかった。
ああ、馬鹿だ僕は。後先を考えるべきでない話で、僕は後先を考えてしまっている。僕の強固な現実主義が裏目に出た。
僕は強烈な希死念慮を持ち合わせていない。まるで甘美な死の匂いに誘因されてやってきた羽虫だ。だからこそ縄を首に括れない。死を前に僕はぐちゃぐちゃと本能的に思考を重ねて時間稼ぎをしてしまっている。
ああ、本能的に理解してしまった。
一人で死ねるほど、僕は死に酩酊していないのだ。
僕は自殺を諦めた。
ただし、青木ヶ原樹海での、という注釈が付く。
死ぬ意思は依然として、冷凍した鰹節みたいな硬さを帯びていて。木に括り付けた吊り縄を解くこの瞬間も惜しいとすら思えてしまう。
「こんばんわ。こんな時間に珍しいですね」
青木ヶ原樹海を出て道沿いに歩いていると、初老の男に話しかけられた。無地のTシャツに黄土色の短パン、肩にかかった黒いポーチ。片手には僕と同じくライトが握られている。
まあこんな場所だ。僕みたいな余所者が夜に彷徨く理由など、他者からすれば一つしか思い当たらないに違いない。
僕は予め考えていた言い訳を並べることにした。
「こんばんわ。トレッキングをしていたんですけど、迷って道から逸れてしまってまして。漸く道に出れたんです」
「そうでしたか。それは大変でしたね」
ここは青木ヶ原樹海のトレッキングコースからは全然外れている場所だったが、男は僕の言い分に会得が行った顔になった。
「すみません、バス停はこのまま真っ直ぐですか?」
「ええ。一本道をずっと真っ直ぐに歩けば30分で着きますよ。夜道で暗いですが、街灯沿いに進めば間違いはありません。よければご案内しましょう」
「有り難い申し出ですが、本当に大丈夫なんです。ありがとうございます。それでは失礼します」
僕は男の丁寧な誘いを固辞した。きっと男は普段より青木ヶ原樹海を巡回して、自殺しそうな人間に声を掛けているのだろう。余所者で軽装で深夜の樹海から出てきた僕は、旋毛から足元まで自殺者に見えたはずだ。当たりである。死に損ないでもあるが。
ともあれ、僕は先を急いだ。こんな樹海でバスを逃して夜を明かすのは死ぬよりも避けたい。
急いだお蔭で、丁度バスが来るタイミングでバス停に辿り着けた。
バスには殆ど人影はない。颯爽と流れる夜の木々に目を配りながら、これからどうしようかと思う。
死ぬのは決定事項だ。でも、どうしても、一歩を踏み出せない。
生きる気力を失って久しく、死ぬ気力もそう多くはない。
世の中には中途半端な僕みたい人間で溢れていると思いたくなった。情けなくなるから。
「すみません」
10分ほど座席に凭れ掛かって、呆然としていれば声を掛けられた。
女だった。それも若く、10代後半に見える。
黒髪を一つに縛り上げたポニーテールに、くっきりした目鼻立ち。瞳はどこか夜の帳と似て、薄く暗色が滲んでおり、世界が滅べば好都合と今にも言いそうな虚さを感じさせる表情には親近感が湧く。
「貴方はこれからですか?」
僕の目を見ながら、大樹海の中で聞いたら鳥の囀りで掠れてしまいそうなほど小さな声で言う。
明らかな年下を前にして、僕は自ずと敬語が外れる。これはかなり久しぶりのことだった。
「帰り……になるかな。色々と決心が付かなくて」
「だと思いました。よかった。私もそうなんですよ」
「君も、もしかして?」
「そんな感じです」
安堵したように息を吐く女の表情は、この社会の暗がりに照らされているようだった。
自己紹介をした。
僕は白河亨といって、少し笑ってみせた。ノリが良いのか笑い返してくれた。
女の名前は
バス内で会話を交わしたところ、彼女も僕と同様同様の目的で青木ヶ原樹海に踏み入れたとのこと。
つまり自殺志願者。
そうは見えない、とはとても言えなかった
関城は恵まれた容姿をしているとは思う。顔の造形はアイドル並みとは言わずとも、人の視線を一瞬奪いそうな程度には整っているし、初夏の軽装から垣間見える胴回りだったり腰元のスタイルも良い。
ただ、それ以上に表情が物憂げで、瞳の焦点は常に遠大なるイデアを捉えるように掴みどころが無い。
さながら幽鬼のような、掴みどころのない少女だった。
まさか青木ヶ原樹海で自殺志願者、しかも未遂同士でこうも会話が続くとは、なんて考えていれば関城は唇を湿らせて言う。
「実は三浪してるんです」
「それは大分だね……失礼かもしれないけど、何処を受験したの?」
「別に失礼じゃないですよ」
関城はおかしげに笑った。
「国立医学部です。母親からは受かれば何処でもいいと言われたので、一番偏差値が低いところ」
「それはまた凄い」
「身の丈に合ってないんですよね。凄くないから三浪目なんですよ」
「なるほど」
「今年は私立の理工学部を密かに受けてたんですけど、無駄でした。合格届をシュレッダーに掛けるとか、酷いですよね」
「苦労してるんだ」
「苦労とは思ってませんよ。死にたいとは思ってますけど」
澄んだ表情のまま関城は僕の安い同情を流した。言われ慣れているのだろう。
「私は母親のマリオネットなんです。或いは第二の転生体と言っても過言じゃありません。私の将来に私の意志は挟まらない。母親からすれば私の自由意志なんて目障りな煤汚れくらいに思ってるんだと思います。だから頭の上でピンと張った糸を堪らなく切りたいんです」
世の中には大変な家庭環境があるとはネットやテレビで知ったつもりになっていたが、こうも現実で触れると掛ける言葉が思い当たらない。
僕の様子に関城は「あっ」と声を上げた。
「すみません。他人の不幸自慢ほどウザいものもありませんよね」
「そんなことはないよ。寧ろその……新鮮だったかな」
「新鮮……ですか?」
どこか怪訝そうに僕に視線を送ってくる。
他人の自殺動機をこうして実際に聞いたことはこれまでの人生、一度たりともなかった。ましてや自殺未遂をした直後の人間からは。
「なんとなく、救われたような気になったんだよ、不思議とね。僕以外にも死にたい人間がいる、それだけの事実で世界がちょっとだけ明るくなった気分だ」
退職する前、社内では誰もが勇猛果敢に日々激流のように雪崩れ込んでくる仕事を熟し、会社と自分の未来を語る。そんな強者ばかりが棲息する組織の中、希死念慮を抱えた無能である僕は堪らなく異物で異質で、息苦しかった。世界は未来志向で溢れていて、人生から中座したい人間など一人もいないと思っていた。この出会いがあったから、失敗に終わってしまったけども青木ヶ原樹海に来た意味はあったのかもしれない。
「まあ、死ぬけどね」
───だからと言って自殺を止めようとは思わないけども。
僕の言葉に少し考えて、関城も頷く。
「それはよかったです。実は私も今、同じ感情を抱いているのに気づきました」
「なるほど。同志か」
「同志です。我々は」
そう言って浮かんだ笑みは、悲壮感で皺が引き攣り、歪な形をしていた。
バスで駅まで移動すると、次は電車に乗り継いだ。
行き先は特に決めてなかったけど、今日はもう帰れないため取り敢えずの一泊は確定している。
そんな話をすれば関城も乗っかるように、駅のホームでひらりと一回転。
「私も同じなんです。実は家出中でして」
「へえ……家はどこに?」
「名古屋です」
「そりゃ随分遠い」
「夜行バスは大変でした」
隣のおじさんの寝息がうるさくて……と零す関城。自殺するために割く労力としてはかなり上等だろう。
「それよりも折角ですから居酒屋行きませんか? 飲みましょうよ。一期一会と青木ヶ原に是非乾杯したいです」
「うんいいよ、僕もアルコールで喉を焦げしたい気分だったんだ」
と、そんなわけで勢いで僕と関城は大月駅を降りると、ホテルの予約もせずに早速適当な居酒屋に入った。取り合えず生という注文を唱えて、黄金色の液体がやってくる。
対面に座る関城を見た。顔がまだ成人に見えないから酒を持たせると犯罪的だった。というか店主から事前に「悪いねぇ~姉ちゃん可愛いから一応年齢確認できるもん見せてくれんか?」と年確もされていた。
「私って子供っぽいですか?」
「高校生っぽいかもしれないね」
「とても複雑です。大学生や有職者の身分で言われるなら嬉しい言葉ですが、生憎と無職ですので……」
「まあまあ。乾杯しよう乾杯」
「……そうですね、乾杯!」
「乾杯!」
保険証を握りしめながら自身の若々しい容姿に複雑な顔色をしていたものの、ビールが入れば途端に表情を破顔させる。
「うわ、苦いですねこれ。ホップってこんな味なんだ」
「あれ、もしかしてビールは初めて?」
「はい。母親が酒は毒だの害悪だのと私に近づけなかったので」
「それでよく居酒屋誘ったね」
「変だって自覚はあります。今日の私、凄いテンションが高いんですよ。念願が叶わず失敗したのに不思議ですよね」
「分かるな、僕もいつもより変だ」
「あはは、変です」
今だから分かるけど、僕も関城も多分生と死の境界線を行き来したことで、情緒がおかしくなっていたのだろう。
一人じゃここまで良い気分にはならなかったに違いない。死の恐怖を間近で肌で感じ、目の前に鎮座する死について悩むという、同じ経験をした人間と一緒だから生を分かち合えている。
「それより関城さん、僕に敬語は不要だよ。同志だろう、僕たち」
「口説いてるんですか白河さん?」
「いやいや。僕はそんな浅ましいやつじゃない」
「確かに女っ気なさそうですよね白河さん」
「凹むな。一応これでも高校で女子とは良く会話したんだけど」
「それって委員会とか文化祭準備とかで話しただけじゃなく?」
「……探偵かい、関城は?」
「いえ浪人生です。ところで大学卒業されてるんですよね、サークルの甘酸っぱい思い出とかは」
「察してるくせに追撃を掛けないでくれ。オーバーキルだよ」
にひひと薄い笑みを浮かべて関城はビールを口に含んだ。グビリと飲んだ後、訝しげに関城の眉根が上がる。
「これ不味いです。よく飲めますね」
「大人は飲み慣れるもんなのさ」
「おーかっこいいセリフですね。私は慣れないです、これ」
「じゃあカルーアミルクとか、カクテル系頼む? 甘いよ?」
「いいえ、今日は私の人生で特別な日なので。子供舌に合う酒より魂に刻む酒を飲むべきと私の直感が言っています。取り合えず黒霧島って響きクールなのでこれにします」
「ほう、チャレンジャーだね」
芋焼酎は酒初心者からすれば結構癖あると思うんだけど……多分それすら知らないだろうな。
ビールを思い切り飲み干すと、関城は追加オーダーで酒と同時に卵焼きや焼き鳥をいくつか頼んだ。ついでに僕もハイボールを注文。ここのハイボールはブラックニッカなので少し趣味が合わない。酒に五月蠅い訳じゃないけど、こういう庶民居酒屋で飲みたいのは角瓶一択だ。
「生と死って良く対義語みたいに扱われてますけど、私違うと思うんですよ」
届いた黒霧島の水割りに眉を顰めて、ちびちび飲みながら関城は唐突に言う。
生き死にの話。それは正しく僕達にとっては喫緊な命題とも言える。
「状態としては対義語で合ってるんじゃないかな? 生はドクドクと心臓が動いていることで、死は極限の静止状態だ」
「見解の相違、いえ、前提の相違です。まず生はいつだって苦しいのです。生きるためには努力が必要不可欠で、努力は大抵の場合で苦行です。更に言うなら生は一部死を内包しています。意識があると死ぬ寸でのところで、死ぬ、苦しい、怖い……そんなマイナスの感情が脳で瞬くじゃないですか。これは死の一部ではなく生の一部だと私は考えます。生こそが息苦しさの根源です」
「じゃあ関城さんにとって、死はなんだと思うの?」
「これは理想ですが……完全なる無であってほしいなと思います」
妙に哲学的な回答だ。
「身体は無くて、自意識は無くて、輪廻転生も無くて……みたいなことかな?」
「近しいですが範囲がもっと広いです。時間も空間も観念も論理も、抽象的な概念まですべて含めて無であってほしい。私の考える理想の死です」
「ビッグバン以前の世界みたいな感じか」
「それは駄目です。ビッグバンを引き起こす素粒子だかダークマターだかが存在する時点で無ではありませんので。それに時間も空間もあるじゃないですか。そういう小洒落たものは要らないんですね。死後に万物は不要です」
「ビッグバン以前は時間も空間もないよ」
「え? そうなの?」
アルコールで赤らんだ頬でコクリと首を横に傾けた。浪人生だが物理は得意じゃないらしい。
関城はまあいいやと言わんばかりに芋焼酎を一気呵成に呷る。
「悪酔いするよ?」
「消えたいんです。私、生まれ変わったら無になりたい。美少女にもイケメンにも鳥にも草木にも空に浮かぶお星さまにもなりたくない。何物にもなりたくはない。万物には役割があるんです。アオミドロみたいな微生物はもちろん、土にも水にも塵芥でさえ各々の役割が……存在意義があるんです。そんな重荷を担ぐなんて私はもう懲り懲りなんですよ。あーもう、期待も失望も意味も世界も光も闇も……私とは無関係に消えてほしい!」
ぷはぁと息を吐いた。アルコール混じりの甘芋の香りがする息が鼻孔を擽る。
泥酔した瞳が虚ろに僕を覗く。
自暴自棄とは違う。絶望と言うには絶望に馴染み過ぎている。
糸が中途半端に切れたマリオネットみたいに。切れかけの一糸によってぷらりぷらりと現世で垂れ下がる。
マリオネットが糸で吊り上げられたように、不自然な動きで関城は首を上げた。
「白河さん、よければ私と一緒に死にませんか」
「君と……?」
「心中ってやつですよ。一人はダメでも、貴方と二人なら上手に死ねる気がするんです」
会った時から察していたけど。
きっと。
関城文奈は、とっくのとうに壊れていた。
居酒屋は二人で飲み食いした割には安かった。しめて2500円。ここは大人の懐の見せ所だと考え、僕が全額持ったことは語るべくもないだろう。
そうして酒を酌み交わして二時間強の時間が経ち、店を出るころには泥酔していた。
もちろん、関城が、である。
「白河さんーベンチありますよー。ちょうどいいのでその辺で寝ていいですかー?」
「駄目だ。危ないだろ」
「でも私ー、どうせ死ぬのでーその辺のリスクは織り込み済みっていうかー」
駄目だ、会話になっていない。
僕は溜息を吐いて、仕方なく近くのビジネスホテルを二部屋取った。
「あのー頭ふわふわでも流石にホテル代払ってもらうのはー申し訳ないんですけどー」
「うるさいな。さっさと寝てくれ」
「ひどー」
関城は明らかに酩酊の極みに陥っていたが、僕も僕で柄になく酒を飲み過ぎて結構キツかった。
無理矢理隣の部屋に押し込めると僕はシャワーを手っ取り早く浴びて、備え付きの部屋着を羽織って速攻でベッドに倒れた。
意識はすぐに僕の支配下から離れていった。
夢を見た。
遠い遠い、世界の果ての密林で僕は首を吊っていた。
首を吊る僕を、僕自身が俯瞰していた。
僕の死体は誰にも見つからない。誰にも迷惑を掛けない。
未来の理想形だと思った。
でも何故だろうか。
とても哀れに見えた。
この世界の掃き溜めに打ち捨てられたその姿に、小さく身震いを起こしそうになる。
僕は死にたいはずだ。
その気持ちに間違いはない。
なのに、心の奥底から沸き起こる根源的な畏怖。恐怖。戦慄。
きっとそれは生物に標準的に備わっている本能で。
死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。
繰り返し、繰り返し。
希死念慮と本能が鬩ぎ合う。
生きていたって良いことは無い。
生きることは苦しむことだ。
例え一時の安寧があったとしても、それは嵐の目にまやかされているだけ。
この世界は生きとし生ける者全てに等しく厳しい。
生存を望めば苦渋を与え、死を望めば苦痛を与える。
もし神様が設計したというのなら、相当に性格が悪いに違いない。
僕らは生命と言う檻に囚われ、四肢を肉体に繋がれている。
死は救済だ、などと過度に死を持ち上げるつもりもないけども。
それでも生の苦しみを味わい続けるくらいならば、束の間の死の苦痛を受け入れ、その先に身を投じる方が賢明だと思っていたはずなのに。
僕は縄を手に取れなかった。首を捧げることができなかった。
僕は中途半端だ。
死にたいはずなのに死ねない。
死が羨ましいはずなのに羨ましくない。
中途半端だ。
この世で一番生きる価値が無い生命体だ。
早く死ねばいい。死ね。死んでくれ。
頼むから独りでに僕の身体を動かして、誰か僕を───殺してくれ。
寝苦しさから僕は目を覚ました。
深夜だと思っていたけど朝日が窓から差し込んでいたから、昨晩は随分とすやすやと寝れたらしい。その割には背筋が寝汗でびっしょりで、これはシャワーを浴びる必要があるなと僕は上体を起こす。
なんだか非常に良くない悪夢に魘されていた気がする。
まあ内容が全く思い出せないから大した夢でもなかったのだろう。
朝日に手を翳して太陽の暖かさを感じ取る。
僕は今日こそ、死ねるのだろうか。
寝汗をシャワーで流すとドアがノックされた。
ホテルマンの清掃の時間には随分と早いなと考えながらもドアを開くと、部屋着姿の関城が佇んでいた。
「おはようございます。そのー昨晩はごめんなさい。かなり酔っちゃった……それもかなり悪酔いしちゃったようで」
「いやいや、気にしなくていいよ。お互い様だから」
「ですよね。うるさいなって言われたのは酷いと思いましたよ」
覚えていたのか……。
僕は関城が着替え終わるのを待って、ホテルの無料モーニングを食べに一階へと下りた。昨日は酔っていてあまり記憶がないけど、このホテルは10階建てで1階に共有スペースが集中しているらしい。
幸運にも二日酔いは無かったものの、食欲は減衰していたから味噌汁と卵焼きだけ手に取った。関城もサラダしか手に付けなかったり、僕と似た体調なのだろう。
「それで、今日はどうしますか?」
関城は僕と行動を共にするのを前提の疑問を投げかけてきた。
「関城さんは帰らないの?」
「帰るに帰れないですし、帰りたくもありませんから。問題ありませんよ。旅に出ただけだから警察には連絡するなって書置きだけは何とか残してきたので」
「それでいいのか……?」
「大丈夫でしょう、たぶん。母親も父親も私が消えたくらいで動じる人間じゃありませんよ。それより白河さんは帰るんですか?」
それ以上の身内の話題を嫌うように関城は会話を打ち切る。
ふと考えてみる。
死のうと思っていたから、実のところ、帰るとか帰らないとか考えることすらしていなかった。
「着替えがないからね」
突いて出た言葉は帰宅を暗示するものだった。
お金はある。しかし行き場が無い。咄嗟にあのワンルームに逃げてしまうのも仕方がない。
「買えばいいじゃないですか」
関城は純粋な疑問から言ったみたいに、食事を止めてピタリと僕を見詰めた。
「社会人なんですよね白河さん」
「まあ、そうだけども。なんか勿体なくて」
「これから死ぬのにお金を気にする必要あります?」
正論だった。
全く、自殺しようだなんて人間は似た思考回路にでもなるのか、僕の心を雁字搦めにする鎖を的確に把握している。
でも僕と関城は境遇が違う。親元で暮らす彼女と一人暮らしをする僕、金銭の重みに対する捉え方は差異がある。
「一人暮らしだと予防線は必要なんだよ。お金が無ければ生きれないだけじゃない、余裕も無くなるんだ」
「そうなんですか?」
「経済的に満ち足りた自殺と、心身追い詰められた状態での自殺。絶対に前者の方がいいと僕は思うんだ」
「そうかも……? そうなんだ……?」
2回ほど咀嚼するように頷く。眉根は困ったように曲がり、あまり納得出来ていない様子だった。
「ともかくですよ。私、まだその、自殺したいんです」
関城の声量が小さくなった。
あまりにも不吉な話をし過ぎて周囲から怪訝な目で見られていることに気づいたからだろうと、僕もその控えめな態度に合わせる。
「そうだね。同じ気持ちだ」
「ここまで来て樹海で死なないのは、なんか違います」
「それも分かるよ」
「なので改めて。白河さん、私と一緒に死にませんか?」
真っ直ぐ告げられて、僕は目の前の少女にたじろいだ。少し気恥ずかしい。
冷静さをすぐに取り戻すと、関城は薄暗い目で僕を見ていた。僕を通して何か陰惨たる結実でも見据えているような円な深淵に魅入られてしまう。
「……樹海じゃなくてもいいんじゃないかな」
僕は4歳も下の女子相手にそう返すのが精一杯だった。
「と、言いますと?」
「僕たち生者には死に場所を決める権利がある。いま青木ヶ原樹海にいるからと言って、死に場所をそこに決める必要性はないんじゃないかな。少なくとも僕は青木ヶ原樹海には何の思い入れもないし、精々自殺の聖地だから来たってだけだしね」
「なるほど。私も別にないですね。青木ヶ原樹海か東尋坊の二者択一で、樹海の方が近いから来ました」
「東尋坊……?」
「崖からこう、やーって飛び降りかなって思ったんです」
それはとても痛そうだ。
「確かに私も本当ならもっと明るい場所で死にたいんですけどね。お花畑の上とか。でも目立っちゃいますし、死に姿をSNSに上げられるのは嫌ですから」
朝食を食べ終え、湯気の収まった生温いコーヒーを関城は啜る。気持ちは正反対だな。僕は誰にも知られず光も閉ざされた場所を死に場所にしたい。死に姿で注目を集めたくないという点は同じだけども。
「あ、そうです」
関城はポンと手を叩いた。
「では旅をしましょう。そう、旅です、自殺の旅々」
「それはまた……てかやけに楽しそうに言うね」
「だって楽しそうじゃないですか」
顔を綻ばせながら関城が口にした提案に僕は驚く。
なにせ、それは僕の自殺プランの一つでもあったからだ。
なんというか、どうにも彼女と僕は思考の波長が合う。
「同志ですからね」
関城は僕の思考を読み取ったように目を細めてそう言った。
死者のような冷たい笑みを浮かべて。
僕たちはホテルをチェックアウトした。どうも関城はお金をあまり持っていないらしく、やはり僕が支払った。これは見栄と言うより年下の異性に対する義務のようなものだ。
しかしどうも僕たちが止まったビジネスホテルはかなり安い部類だったのか、一泊したにしては1万円を少し超える程度の出費で収まった。これで無料の朝飯も入っているのだから中々凄い。
関城とは出立前に会話を交わした。
結局僕は都内にある小さな8畳ワンルームに帰ることは止めた。関城に説得されたからだった。
関城は言った。
「仕事を辞めて自殺をしようだなんて考えている人間が、お金なんかに縛られるのはやっぱり変ですよ。私思うんですけど、白河さんはきっとお金を社会の最後の繋がりだと思ってしまっているんではないでしょうか。数百年以上前からこの国は貨幣経済です。お金が無ければ生きるどころか就労すら難しい世の中で、しかし、本当に生を終わらせたいなら未練は断ち切るべきです。白河さん風に言えば予防線を切るべきなんですよ、きっと」
概ね同意せざるを得ない内容だった。僕はどっちつかずで生と死の合間に立っている。いや、どちらかと言えば生の境界線側に僕の身体の半身以上が浸かっている。死に近づくためには生たらしめる要素を切り落さねばならない。
そうやって私財を投げ打つことを僕は決断した。死に一歩歩み寄ったとも言える。
この決断が出来たのは絶対に関城のおかげだった。僕一人では生活の保障まで棄却するほどの勇猛果敢な選択肢を取れなかっただろう。
金銭に糸目を付けなくなったことで、旅費やそれに付随する諸経費に拘泥しなくなった僕はまず服を買った。ズボンは使いまわす想定で、シャツを3日分、下着を1週間分である。関城も似たように服を購入していたが、ここでは自費だった。買った下着を見られるのが恥ずかしいらしい。僕も女性物の下着を買い物かごに放り込むのは気が引けたので正直助かった。関城は「自分の物は自分で買う、それくらいの社会常識はあるんですよ私」と澄ました顔で言っていた。ホテル代と飲み代も返してほしいなと思った。
「いや、初めて行きますよ岐阜県」
普通列車に長椅子に背をもたれさせながら、眼前の車窓に顔を固定させつつ口を開いた。大体電車に乗って10分程経った頃合いだったと思う。
きっと通り過ぎる景色に飽きてきたのだと推察しつつ、微かに違和感を覚えて僕は反応する。
「初めて? 名古屋住みなら岐阜は近いんじゃないの?」
「用事も無かったので行きませんでした」
「でもちょっと遠出するなら良い場所じゃないかな。色々あるよね岐阜県」
岐阜市近郊なら金華山に養老渓谷、少し離れれば飛騨高山なんかもある風光明媚な土地柄だろうに、とか観光地を脳内で挙げていれば関城は口元の口角を持ち上げる。
「私、小中高と愛知から出たことないんですよ」
「そうなの?」
「既に薄っすら気づいているかもしれませんが、親が学歴に狂っているもので。勉強以外は僅かな娯楽しか許してもらえませんでした。ゲームは当然、時間の浪費でしかないお出かけなんて以ての外です」
「それは……」
筆舌し難い家庭環境に言葉にならない。
そういえば、会社を辞める数日前に似たような境遇を聞いたことがある気がする。自分の子供を医学部に入れようと高校3年生から20代後半に至るまでずっと自宅に監禁していて、最終的には子供によって殺害されてしまった痛ましい事件の話だ。親がいる限り自分の人生は始まらないと供述した子供に情状酌量の余地があるとして、最終的には親殺しを行った事件としてはかなり軽い刑になったはずで。
そんな事件の首謀者と関城には似通った要素が幾つもあるような気がしている。
しかし明確に違うのは一点。
関城はその害意を親ではなく自分に差し向けたという点。
「息苦しいね」
関城は僕を少し驚いた目で見た。
「同情の目で見てこないのは高ポイントです」
「もしかしてそう目で見られるとウザい?」
「ええ、とてもウザいです。心の距離が100光年離れます」
「大分遠ざかるね。地球と太陽の距離より遠い」
「そんなに遠いんですか?」
首を傾げる関城。やっぱり物理は苦手らしい……物理というか地学な気もするけども。
「でも高校とかじゃ同級生からよくそういう目で見られたんじゃないの?」
「そりゃあもう。全部毛嫌った結果、しっかり私は孤立しましたよ。同窓会すら呼ばれません」
「僕と同じだね」
「え、そうなんですか? 白河さんって結構しっかりしてそうですけど」
「人間関係は共通試験の範囲外だったんだ」
「あー分かります」
冗談のつもりだったけど、関城が非常に理解した素振りで頷くもんだから僕は曖昧に「そうそう」と追加で相槌を打つことにした。まあ人間関係が終わっているのは本当のことで、友人や恋人がいないのも本当のことだ。
取り留めのない会話をしている間にも静岡を越し、愛知県が近づいている。
僕たちは黒部ダムを目指していた。発端はダムであれば身投げすれば死ねるんじゃないかと言う安易な発想だった。無論、簡単な話じゃない。有名観光地である以上一目はあるし、怖気づいて躊躇する間にも不審がられて声を掛けられてしまう可能性だって高い。それでも黒部ダムへと向かうことに決めたのは単純に旅行という側面が強かった。何せこれは死地探しの旅だ。行った場所で絶対に自殺する必要性など欠片も無い。
その日は松本まで行ったところで夕方前になっていたので、またビジネスホテルで一泊した。
新幹線で行けば今日中に黒部ダムまでたどり着いてたのだろうが、ここではやはり金をケチった。これは僕よりも関城の事情のためだ。
「お金ないんですよ。ほら、私って浪人生ですし、バイトは家で禁止されてますし」
その時の関城はあっけらかんとした物言いだったが、顔には少し寂寥感も浮かんでいた。
ともあれ急ぐ旅でもないから特急を使わない普通列車の旅でも問題ない。そんな感じで青春12きっぷでもないのに、鈍行列車の旅を僕たちは始めたのである。
「なんか青春小説みたいで楽しいですね」
夜になって関城は僕の部屋にやってきた。関城の部屋は一個上のフロアだから移動も面倒だろうに。
「分かるよ。流石にこの年で青春って言うのも気が引けるけどね」
「白河さん、まだ20歳前半ですよね。全然青春可能な年齢じゃないですか」
「言いづらいよ。大人になってから青春とかなんか痛いじゃんか」
不思議そうな顔をする関城に僕は諭すように言う。
だってそれは学生時代に碌な青春を過ごせなかったと自供するに等しい戯言だ。自らそんな情けない独白をする趣味は僕には無い。
「いいじゃないですか。どうせ白河さんは私と一緒に死ぬんですから、私の前でくらい痛々しい姿を見せたって構わないんですよ」
「これは僕の矜持だからね。下らないと思われても、捨てるのは難しいよ」
ただでさえ普通の社会的生活を送れていない僕だ。それを砂で塗り固めて隠すような陳腐な考え方は信念が許さない。
でも関城は僕が反駁してもなお真面目ぶって、僕を仄暗く青い火が灯った瞳で見る。
「そんな矜持も捨てられないのに、死ねるんですか? 青木ヶ原樹海でも死ねなかったのに?」
言葉が詰まった。その通りだと思ってしまった。
僕には、無意味に、無価値に、拘泥している凝り固まった人生観がある。
決して重みは無いが、自殺を踏み留まるに足る観念が。
「私は失敗してから思うんです。自殺を踏みとどまってしまう原因の一つは余念です。余念は未練以外からも湧きます。それは人生哲学だったり、今まで歩んできた人生の系譜そのものだったり。でも自殺するにはそんなもの全て不要なんです。特に衝動的ではなく、理性的に死ぬのであれば猶更。白河さん、本当に死ねるんですか? 私を一人で死なせる気ですか?」
「関城さん……?」
「同志、ですよね。私たちは」
瞳が黒く瞬く。口角が冷たく歪む。
さながら闇そのものと対峙している気分になる。
その闇は僕の身体を照らし、砂浜を浚う白波のように、僕から生きる理由を削り本質を洗い出していく。
関城の言う通りだと思う。僕は中途半端だ。生に無意識にしがみ付こうとしている。取っ払われるべき下らない観念だ。
本当に自分が恥ずかしい。年下の少女がここまで僕と死ぬと覚悟を決めていて、僕だけが曖昧模糊に希死念慮を溶かしている。
僕は芯まで凍るような決断を固めると同時に疑問にも思う。
何を経験すればここまで人生の艱難辛苦と絶望を煮詰めたような目になるのだろう。
きっと、それは想像も出来ないほど非道徳的な仕打ちによる結果のはずだ。
「関城さん、君は何でそこまで死のうと思っているの」
「決まっているじゃないですか」
関城は赤ん坊に言い聞かせるようにゆっくりと僕に語り掛ける。
「無になりたいからですよ、白河さん」
翌朝は朝早くから出発した。
松本から信濃大町に到着すると、バスを使ってダムへと向かう電気バス乗り場まで揺らされる。
「なんで黒部ダムに行くのに岐阜経由なんですか? 詳しくないですけど黒部って富山ですよね」
道中で関城がそんな疑問の声を上げたので、僕は地図アプリを見せながら答える。
「黒部ダムに行くだけなら富山よりも岐阜の方が近いんだよ。ほら、立山アルペンルートって聞いたことはない?」
「ああ、なんか冬とか春先に行くと雪の大壁が有名だとか」
「そうそれ。富山側から黒部ダムに行く途中は3000m級のアルプスを越えなきゃならないから時間がかかるんだ。乗り換えだって3回とか4回くらいしなきゃいけないし、所要時間は4時間程度でかなり遠い。黒部ダム自体は実は岐阜寄りってことだね」
「へー」
納得の声を上げながら関城は意外そうに眼を輝かせた。旅行すらしたことがほぼ無いであろう彼女からすれば、こういう旅知識は新鮮なのかもしれない。
電気バスに乗り継ぐと、黒部ダムはすぐだった。
「高いですねえ」
ダム湖畔を見下ろしながら関城は感嘆の声を上げる。
黒部ダムに来るのは僕は2度目だったが、相変わらず壮観であった。丁度タイミングだったのか、コンクリート色のダムから大量の水が霧状になって河川へと放水される。
それを見た関城は顎に手を当てた。
「投身自殺を図るには確実性が無いですね」
「いや、あると思うけど。かなり高いよ」
「周囲を見てください白河さん」
僕は辺りを見回す。
観光客が沢山いる。
「止められます」
「まあそりゃね」
「分かってたことではありますけどね。素直に観光しましょうか」
と言っても黒部ダムの光景は10分も眺めてみれば飽きる。
僕たちは併設のレストランで遅めの昼飯として黒部ダム湖カレーを食べて、黒部ダムグッズを観て回った。
「飽きました」
その一言で黒部ダムを早々に去ることを決めた。観光と言いつつも僕たちの主眼はあくまで自殺。僕も関城も結局、壮大なダム湖も美しい高原も押し並べて現実の光景として陳腐な感想しか抱くことができないのだ。
その日は5時間かけて富山県富山市街まで移動すると、ビジネスホテルに泊まった。
「次は何処に行きますか?」
夜、またもや僕の部屋に訪ねてきた関城は開口一番でそんなことを宣う。
「折角北陸に来たんだから、近くがいいかな」
「近く……と言いますと?」
「それこそ東尋坊とかどうかな。福井県だからここからも近いし、関城さんも興味あったよな」
「観光地としては興味ないですが、自殺スポットとしては興味あります」
淡々とした冷やかな口調。
本当に東尋坊という場所に、死に場所以上の好奇心を抱いていないようだった。
次の日、言葉通りに僕達は東尋坊へと向かった。
道中の僕達に会話はなかった。電車内で関城は無表情のまま前に座っている。
不意に、僕は目の前の少女に既視感を抱いた。
どこかで関城の容姿を見たことがあるような。
それに僕は関城の声音を知らないような。
「どうかしました?」
関城が疑問を呈すように僕を見上げた。
「いや……何でもない」
僕達は二人旅をしている。
青木ヶ原樹海から二泊三日の行程を経て日本列島を縦断して、福井までやって来た。
それなのに僕は関城という少女の存在性に疑念を抱いていた。
触れれば立ち消えてしまいそうな、幻夢の如き儚さを併せ持ったこの美しい少女に、僕は言いようもない畏敬の念すら覚えていたのだが、何故だろう、それは概念に覚えるそれと似ていた。
それこそ死に対して慄くような。
鎌を振るわれて恐れるような。
「君は死神……じゃないよね」
自殺者に見せかけた、中途半端な僕を殺しに来た死神。それが彼女の正体だというのなら、全てが正しく思える。
突いて出た言葉はしっかりと関城の耳まで届いた。
彼女は一瞬間を置いて、面白がるように言う。
「間違ってはないかもしれないですね。ある意味では、私は貴方を殺すわけですから」
それはそうだ。
心中とは自殺教唆を含意する言葉である。
「死ぬのは怖いですよね。大丈夫ですよ。私もいますから」
「君は……」
その先を言葉にしようとして、形にならなず霧散する。
形にしてしまえば、僕の弱さを認める気がした。
福井からえちぜん鉄道に乗り、最寄り駅からはバスで東尋坊を目指した。横に座る関城は人形のようにストンと座り、外の光景を漠然と眺めている。
到着した東尋坊は正しく断崖絶壁であった。
白波が荒々しく岩肌にぶつかり、飛沫を上げる度に大きな波の唸り音を上げる。鈍色の雲も相まって、陰鬱とした空気が漂っている。
観光客を掻き分け、人の少ない場所で関城は崖際から見下ろす。東尋坊は景観維持のために柵がなく、見ていて少し危なかっかしい。
「刑事ドラマで見たことありますね、犯人が追い詰められて最後は自ら落ちるんですよね」
「落ちないよ。大抵は自首するんだよ」
「そうですか? ちゃんとは見たことないので良くは分からないです。親が見てるところをチラリと見ていただけなので」
僕も同じように崖下を眺める。
日本海の白波。寄せては砕けてを繰り返す。今日は風が強いから余計に荒々とした波しぶきに、僕は元初の恐怖心を思い起こさせられる。
取り込めば死ぬなと確信できる。黒部ダムで湖面を見たときよりもより確実たる死の気配。
でも僕はそれを現実のものとして捕捉出来なかった。
あまりにも非現実的に思えてしまったのだ。
首吊りとか練炭自殺と比べて、大自然で飛び込み自殺だなんて、自分が決行できるイメージが湧かない。
「白河さん、私は貴方の死神かもしれません」
唐突に関城は言った。僕は頭を振る。
「意味がわからないよ」
「いえ、そのままの意味です。私は貴方を殺す存在として今ここに存在しています。それ以外に意味がないってことに気づきました」
「やっぱり意味が分からない」
それを聞いて優しげに微笑みを湛え、関城は何かを言った。その何かはとても言語としては聞こえず、相互意思疎通の手段として機能してるとは思えない、言わばノイズのようなチリついた音だった。
「分かりますか?」
「何を言っているか分からなかった」
「そうですか」
確認を求められて首を横に振る。
僕に何を伝えようとしているのか。
関城は冷たく手を僕へ差し向けた。そっと陶器には触るような繊細な動きで。
トンと。
僕は背中から押し出される。崖下へ。断崖絶壁、その真下の大海原へ。
「白河さん。私は先に行きます」
背後から何か言われた気がしたが、その時には僕はもう自由落下に伴う重力の匂いに思考中枢が支配されていた。
数日前よりも鮮明に躙り寄っては身体を掌握しようと全神経を支配しようとする死の感覚。
目の前には海。コンクリートよりも固い水面。
死ぬのか。死ぬんだな。
身を任せつつも、もう少しこの時間が続いてほしいと願うようになる。次第にその欲求は長くなり、もうちょっと生きていてもよかったな、なんて思ってしまう。
死という概念は生きとし生きるもの、その全てから得体の知れない何かであると思われている。
結局、恐怖の根源を呼び起こすものは未知なのだ。
知らないものは怖い。死ぬのは怖い。同じ意味である。
目の前に迫る青い闇に僕は目を瞑る。
死ぬ。
脳裏で予期する身体への衝撃に身が強張る。
そして僕は───。
目が覚めたとき、白かった。良く見れば天井だった。
ここは……病院か?
僕は辺りをそそくさと確認する。ナースコールはすぐに見つかった。
押してすぐに看護師と医師がやってきて、色々と確認されるうちに記憶を思い出した。
僕は身投げして自殺未遂を図ったのだ。
しかしそれは自宅のアパートの4階からで、東尋坊からではない。
僕は青木ヶ原樹海にも行ってなければ、当然、関城文奈なんて少女も居ない。
全ては南柯之夢で、僕は人生に嫌気が差して自殺未遂を起こしただけの傍迷惑な独身男性でしかなかった。
飛び降りた後遺症で、僕の身体はかなり大変なことになっていると医者は言う。
ギブスでガチガチに両足と右腕を固定されていたが、どうも僕は10カ所ほど骨折しているらしい。
起き上がろうとすれば確かに骨折を報せる鋭い痛みが走る。生きている痛みだ。そう思うと少し泣けてくる。
夢の中、関城以外に誰もいない東尋坊で背中を押されて死ぬ瞬間、その間際、僕はもうちょっと生きていたいと考えてしまった。どれだけ複雑怪奇な構造をしていようと人間というのは安直なもので、死に際にはやはり未練がましく生を引きずる生物なのだろう。
現実で一回、夢で一回自殺を試みたからか、希死念慮は既に薄れている。
少なくとも合間を置かず、再度死のうという気概は起きない。暫く入院らしいのでそもそも思ったとて実行に移せない。
関城文奈という少女は何だったのだろう。
僕の深層心理から突如現れた存在と言われればそうかもしれない。でも非常に既視感があった。存在感も。無から現れたにしてはあまりにも解像度が高く、自死哲学を持っていた。
もやっとしたまま入院生活を続ける日、偶々流れてきた昼間のニュースで僕は目を見張ることになる。
関城文奈は母親を殺害して、そして彼女は首を吊って自死をしたと言う。無理心中だ。
荒んだ家庭環境に議論が飛び交うスタジオを尻目に、僕はもう儚い記憶になりつつある関城について思い出す。
夢の中で見た関城文奈は本物だったのかもしれない。
でも彼女は死んだ。自殺していた。死んだ彼女と死の淵を彷徨っていた僕は夢で交差したんじゃないか、なんて考えた。
非現実的で意味の無い空想だけど、そう思うと納得出来る気がする。
でも違う気もした。
そうと言うには彼女はあまりに闇を帯びていた。
ひとまず、退院したら彼女の墓を探しに行こうと思う。
死後のことは誰にも分からないけど、夢であった出来事は何となく嘘じゃないような気がするから。
今のところの生きる意味。
それが生きる目標。
墓参りした後は──どうしよう。
どうせ金には困るだろうから再就職はすると思う。
そして生きて生きて、またその間に希死念慮が胸で膨らむだろう。
その時になってみてまた自殺を試みるようなら、やはり僕は社会に適応できず希死念慮を燻ぶらせ続けた、それだけの人間だったということで。
僕にとっての人生は、吹き荒れる暴風が過ぎ去るのを耐え忍ぶだけの時間なのだから大いにあり得る未来である。
私は先に行きますと、関城は言った。
僕の背を押しながら言い放った。
彼女はきっと死神だ。
自殺者の生死を裁く死神。
僕は彼女に生のベクトルに見初められた。
それでいて先に行くと宣った。
先とは深淵。
行く先は未知。
即ち死。
「また自殺をすれば会えるのだろうか」
益体もない呟きは病室の窓から忍び込む風の音によって浚われる。
生こそが息苦しさの根源。
死は完全なる無。
とことん死と相性が良く、生を憎む少女に薄く笑みすら浮かんだ。
僕の心は未だに玄界灘の底にある。
こんなのは駄文です。この上なく。