ミアはくるりと椅子を回し、いつものようにキーボードへ指を乗せる。
――その瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
(……また、来る)
わずかなノイズが頭の中を走り、視界が別の光景に切り替わる。
小さなアパートのリビング。
カレーの匂い。
テレビの音。
母の笑い声と、分厚い父の手。
「ミア、宿題終わったのか?」
「うん! 今日は全部できたよ!」
父が笑い、母がテーブルを拭く。
あまりに当たり前すぎて、永遠に続くと信じていた時間。
ドォォン――。
窓が白く閃いた。
世界がひっくり返る。
ガラスが砕け、家具が浮き上がり、空気そのものが燃えるような轟音が押し寄せた。
「……っ、お父さん……?」
瓦礫の下で、ミアは震えていた。
伸ばした手の先に、両親の姿がある。
何度呼んでも、肩を揺すっても、返事は返ってこなかった。
その日を境に、ミアは二度と“トリガー”に触れなくなった。
「……っ」
短く息が詰まり、ミアは目を閉じる。
数秒だけ、過去に飲み込まれかける。
(大丈夫。もう大丈夫)
自分に言い聞かせるように深呼吸をして、ゆっくりと目を開けた。
モニターには、“助けられなかった家族”の代わりに、今守るべき人たちのコードネームが並んでいる。
CROW
RAVEN
IRON JACK
SAND VIPER
BULLET HAWK
そして――
「……龍斗」
その名前のところで、指先が止まった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「絶対……守るから」
小さくつぶやいた声は、誰にも届かない。
ミアはヘッドセットを装着し、表情から迷いを消していく。
画面の中にいるのは、仲間たちを遠隔から支える“完璧な戦闘支援者”だ。
「S.E.A.L.D.s’支援システム、オンライン。龍斗、聞こえる?」
明るさを少しだけ足した、いつもの仕事用の声。
その裏には、“もう大切な人を失わない”という静かな誓いが息づいていた。
深夜を過ぎた港湾の倉庫街は、油と鉄と、うっすらとした血の匂いが混じり合って空気を濁らせていた。
コンテナが迷路のように積み重なった通路を、龍斗は影のように進む。
足音ひとつ立てない。防弾繊維の黒いコートが、夜風にわずかに揺れた。
ここは腐敗した武器密売組織の拠点。
表向きはただの物流倉庫だが、実際には世界中の紛争へ違法な兵器を流す“汚れた血管”だ。
耳元の通信機が震える。
「S.E.A.L.D.s’支援システム、オンライン。龍斗、聞こえる?」
冷え切った夜気の中で、ミアの声だけが柔らかかった。
「ああ、聞こえてる」
「右の路地に監視役がひとり。
銃は持ってるけど、構えが甘い。反応速度も遅いタイプだね」
「了解」
短い会話。それだけで、胸の締めつけが少しだけ緩む。
ミアの声はいつも、龍斗の緊張を溶かしてくれた。
(これが……初任務か)
怖い、とはあまり思わない。
ただ、胸の奥に冷たい石が一個、入っているような感覚だけがあった。
(この街……どこまで腐ってるんだ)
鼻を刺す匂いが、それを教えている。
路地の角を曲がると、監視役の男が背中を見せて立っていた。
タバコを咥え、片手でスマホをいじっている。
(足の向き、重心の位置……
反応に要する時間、約〇・七秒)
頭の中で、勝手に数字が弾き出される。
龍斗は一歩だけ踏み込んだ。
その一歩で、もう男の背後にいる。
口を塞ぎ、腕を極め、音を立てないようにゆっくりと地面に倒した。
「……っ」
短い息が漏れ、そのまま男の意識は闇に落ちる。
龍斗はそっと壁にもたせかけると、呼吸を整えながら心の中で確認した。
(大丈夫。殺してない)
十三歳の彼には、その確認がまだ必要だった。
『……龍斗、その……』
「ミア?」
『驚いたよ。ほんとに“無音”なんだね。
十三歳でその動きは反則だよ』
「普通だろ」
『普通じゃないってば。
――でも、そういうところ、ちょっと安心する』
「何がだよ」
『龍斗ってさ、ちゃんと“加減”するから』
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
「……そういうの、分析項目に入れる必要あるか?」
『あるよ、私の中では重要情報』
他愛ないやり取りが、不安を少しだけ薄めてくれた。
倉庫をぐるりと囲むように、S.E.A.L.D.sの影が散っていく。
簡易マップのホログラムが暗闇の中に浮かび、クロウの顔を青く照らした。
「レイヴン、屋上の制圧は?」
『二名無力化。異常なし。
東側からの増援反応もゼロ』
低く落ち着いた女の声。ソフィア・ハーツ――RAVEN。
その声だけで、どれほどの修羅場を潜ってきたかが分かる。
「バレットホーク、図面は?」
「逃走ルートは三つ。
北と西は塞げるが、南側は抜かれやすい」
冷静にデータを読み上げるのは、ルーカス・ビショップ――BULLET HAWK。
空と地上をつなぐ“目”と“足”だ。
「サンドヴァイパー、爆発リスクは?」
「骨組みがだいぶガタが来てる。
内側で派手にやれば、全部まとめて崩れ落ちるぞ」
しゃがれた声で答えるのは、ラシード・アル・ファーリス――SAND VIPER。
その一言一言に、現場上がりの重みが宿っている。
クロウは最後に、無骨な爆薬を担いだ男へ視線を向けた。
「ジャック、準備は?」
「おう。あの分厚い扉、きれいに吹き飛ばしてやるよ」
イーサン・ラング――IRON JACK。
豪快に笑うその顔を見ると、不思議と恐怖が薄れる。
龍斗は、そんな仲間たちのやり取りを聞きながら、密かに深呼吸した。
(自分も……ちゃんと力にならないと)
「爆破五秒前!」
ジャックのカウントに合わせて、全員が物陰へ身を隠す。
鉄扉の前だけが、ぽつりと空白になる。
四、三、二――。
龍斗は肺いっぱいに夜気を吸い込んだ。
(怖くない。……大丈夫だ)
一。
ドォォォン――!
鉄扉が内側から破裂し、爆風と煙が一気に吹き抜けた。
鉄片が雨のように降り、倉庫内から怒号が飛ぶ。
「何だ!?」「伏せろ!」
クロウの低い号令が、それを上書きする。
「――突入!」
S.E.A.L.D.sの影が、一斉に倉庫へ流れ込んだ。
龍斗もそのひとりとして駆け出す。
(右の男、引き金に指をかけるのが遅い。
左は銃身が長すぎて室内戦に向かない)
脳裏に浮かぶ“危険度の順番”に従い、体が勝手に動く。
右の男の手首をはじき、関節を極めて床へ沈める。
左の男の足を払って転ばせ、拾い上げた銃を後方へ蹴り飛ばした。
(……殺してない)
また、確認。
そのとき、視界の端で“何か”が転がるのが見えた。
龍斗は反射的に足を止めた。
「……ジャック。足元、あれ」
ジャックが何気なく視線を落とし、眉をひそめる。
床の上には、腕が一本、転がっていた。
乾ききっていない血が、ぽたりぽたりと床に点を描いている。
(……近くで見るのは、初めてだ)
喉がきゅっと硬くなる。
胃のあたりが冷たくなっていく。
「龍斗!」
鋭い声が飛んだ。
「前だ。今は意識を切らすな!」
レイヴンの声だ。
その一喝で、龍斗ははっと我に返る。
(……大丈夫。まだ動ける)
恐怖は消えない。
それでも、足は前に出る。
その一歩が、影の兵士としての第一歩だった。
鎮圧戦は、十分少々で終わった。
武器密売組織の構成員はほとんどが拘束され、生き残った者たちは床に伏せられている。
龍斗は壁にもたれ、震えそうになる手をポケットに押し込んだ。
無線から、ミアの声がそっと流れてくる。
『龍斗、大丈夫? 怪我はない?』
「……ああ。問題ない」
『嘘。声がちょっと揺れてる。
初任務だし……怖かったんじゃない?』
「怖いわけじゃない。……ただ」
言葉がのどでつかえた。
ミアは急かさず、静かに待ってくれる。
「……人が死ぬのを見るのは、まだ慣れてない」
『……そっか』
ミアの声が、少しだけ柔らかくなる。
『龍斗、それはね、“普通”なんだよ。
怖いって思えるのは……ちゃんと人間ってこと』
「……そうなのか?」
『うん。私が保証する』
その一言が、胸の奥へ静かに沈んでいった。
「……ありがとな」
『えっ……あ、その……ど、どういたしまして』
ミアの声が、ほんの少し裏返る。
龍斗は気づかない。
モニター越しに、彼女の頬が真っ赤になっていることに。
その少し離れた場所で、クロウは血のついた書類を拾い上げていた。
黒い蛇の紋章が、紙の端に刻まれている。
レイヴンが息を呑む。
「……ヒドラ?」
クロウは険しい顔を崩さず、短く答えた。
「ああ。やはり裏で動いていたか」
その言葉を聞いた瞬間、龍斗の胸が冷たく震えた。
白い手術室。
冷たい器具。
幼い自分の腕に刺さる注射針。
『大丈夫だ。実験はすぐ終わる――』
笑っていたのは、ヒドラの科学者だった。
拘束具に縛られ、叫び声が喉を裂く。
胸が焼けるように痛む。
扉が破られたのは、その直後だった。
盾を掲げた男の影が、逆光の中に立っていた。
「もう大丈夫だ。君は自由だ」
キャプテン・アメリカの声が、今も耳の奥に残っている。
倉庫で見た“腕”の生々しい感触に、その記憶が重なった。
(……あの時の匂いだ)
恐怖が、喉元までせり上がる。
それでも、龍斗は歯を食いしばった。
「……俺は、逃げない」
救われた側として終わらない。
今度は、自分が誰かを救う側に立つ番だ。
「ヒドラ……まだ終わってなかったのか」
小さくつぶやいた声は、誰にも聞こえない。
ただひとつ、確かなことがある。
この夜の“腐った街”での任務は、
やがて龍斗自身の運命を根っこから揺さぶる物語の、ほんの序章にすぎなかった。