深夜の倉庫街を後にし、S.E.A.L.D.s'本部へ戻ったのは午前二時を少し回った頃だった。
車窓の向こうに流れていく街の灯りは、曇りガラス越しにぼやけて見える。その色は、いつもより幾分か冷たく感じられた。
簡単な検査を終え、龍斗は医務室のベッドに腰を下ろす。
アルコールの匂いと、どこか薬品くさい空気。シーツの白さが、さっきまで見ていた血の色を逆に思い出させた。
(……初任務は成功。だが)
目を閉じると、すぐにあの光景が浮かぶ。床に転がった、人間の腕。
切り口の乾ききっていない赤と、指先にこびりついた煤。
脳裏のどこを拭っても、そこだけはしつこくこびりついたままだ。
そんな龍斗の隣に、いつの間にかレイヴンが立っていた。
何も言わず、冷えたペットボトルの水を手渡してくる。
「……飲みな、」
「助かる…」
龍斗が一口含むと、喉を通る冷たさでようやく呼吸が落ち着いた。
レイヴンは壁にもたれ、腕を組んだままじっと彼を観察する。
「十三歳。初任務。さっきの状況で平常心を保てたのは立派だ」
「……保ててない」
思わず本音が漏れる。
レイヴンは、ふっと口元だけで笑った。
「それでいい。人を殺すことに慣れる必要はない。
慣れてしまったら、兵士としては終わりだからね」
鋭い瞳の奥に、かつて同じものを見てしまった人間だけが持つ影が一瞬揺れた気がした。
龍斗は何かを聞こうとして口を開きかけるが、レイヴンの方が先に視線をそらす。
「……過去の話だ。忘れろ」
(レイヴンも、いろいろ背負ってるんだな)
龍斗がそう思ったとき、医務室のドアの方から軽い足音が近づいてくる。
「龍斗!」
勢いよく飛び込んできたのはミアだった。
小柄な体で、息を切らせながらベッドのそばまで駆け寄ってくる。
「よかった……ほんとに怪我してないんだね」
「心配しすぎだ」
「心配するよ!」
ミアはぷくっと頬をふくらませた。
「初任務なんだよ? 怖くなかったの?」
「……別に」
「嘘つき」
ミアはベッドの端に腰を乗せると、顔を近づけて小声で囁く。
「声、まだちょっと震えてる」
図星だった。龍斗は思わず視線を逸らす。
(……こいつ、よく見てるな)
そんな二人の様子を見て、レイヴンが小さく笑う。
「……若いっていいわね」
「レイヴン、今なんか言ったか?」
「別に?」
肩をすくめるように言うと、レイヴンは医務室を出ていった。
ドアが閉まると、部屋には龍斗とミアの呼吸だけが残る。
少しの沈黙のあと、ミアが恥ずかしそうに視線を落とした。
「本当に……おかえり、龍斗」
「ただいま」
それだけのやりとりなのに、胸の中の冷たい石が少しだけ丸くなった気がした。
作戦室に戻ると、空気の温度がまた変わる。
机の上には、血の跡がついたままのファイルが広げられていた。
クロウ隊長が椅子に座り、額に手を当てている。
モニターの前ではミアがデータを並べ替えながら眉をひそめていた。
「拾った書類、分析できたわ」
ミアが画面を操作しながら言う。モニターには、不気味な紋章と英文のレポートがいくつも表示されていた。
「これ……かなり深刻だよ」
クロウはファイルのページを手のひらで押さえ、ゆっくり顔を上げる。
視線がひとりひとりをなぞり、最後に龍斗で止まる。
「S.E.A.L.D.s’。お前たちは、ヒドラがどれだけ“世界の裏側”に噛みついているか知っているか?」
誰も、すぐには口を開かなかった。
知っている者も、知らないふりをしたかったのかもしれない。
クロウは、わずかに息を吐いて続ける。
「奴らは“完全に死んだ組織”じゃない。
焼かれ、切られ、千切られても……必ず再生する。“本物の怪物”だ」
「また、厄介な連中が出てきたな」
ジャックがわざとらしく口笛を吹く。
サンドヴァイパーは腕を組み、薄い笑みを浮かべた。
「砂漠にも似たような連中はいた。
だが……ヒドラは別格だ」
淡々とした声なのに、その一言で部屋の空気がさらに重くなる。
龍斗は小さく唾を飲み込んだ。
耳鳴りのように、さっき聞いた“ヒドラ”という単語が頭の中で反響する。
クロウは表紙の紋章を指で叩いた。
「今回奪還した書類には、“次の標的”が記されていた」
ミアの指がキーボードの上で一瞬止まり、再び走り出す。
「……標的は――政府防衛局の暗号保管庫。
もし奪われたら……国家レベルどころか、同盟国ごと巻き込む大損害になる」
作戦室の空気が、一瞬で凍りついた。
クロウは椅子から立ち上がり、龍斗へ真っ直ぐに視線を向ける。
「龍斗」
「……はい」
「お前の初任務は――ここからだ」
その言葉に、龍斗は深く息を吸い込んだ。
倉庫で見た腕の感触も、過去の記憶も消えない。
それでも、今は立ち止まっていられない。
「……分かった」
返事をした自分の声が、先ほどより少しだけ落ち着いているのが分かった。
作戦室が解散になり、それぞれが自室へ戻っていく。
龍斗が廊下を歩いていると、背後からそっと袖を引かれた。
「ねえ、龍斗……」
振り返ると、ミアが少しだけ俯き加減で立っていた。
「どうした?」
「今日ね……本当に怖かったら、ちゃんと言ってね。
私でよければ……話、聞くから」
龍斗は一瞬、足を止める。
そんなふうに誰かから言われたことは、これまでほとんどなかった。
「……そういうの、慣れてない」
「知ってる」
ミアは小さく笑った。
その笑顔は、モニター越しのときよりもずっと幼くて、でも頼もしかった。
「だから言ったの。
龍斗は、ひとりで背負いすぎるから」
「そんなことは――」
「あるよ」
ミアの声が、かぶせるように響く。
「あなたのこと、ずっと見てきたから分かる」
それは、言い逃れできないほどまっすぐな視線だった。
胸の奥で、小さな火がぱち、と灯る。
どう返事をしていいのか分からず、龍斗はただ「……ああ」とだけ呟いた。
それでもミアは満足したように笑い、「おやすみ」と手を振って去っていく。
彼女の背中を見送りながら、龍斗は自分の手のひらを見つめた。
あの倉庫で、人の腕を見たときと同じ手だ。
けれど今は、ほんの少しだけ、違う温度を持っている気がした。
同じ時刻――照明を落とした作戦室には、クロウ隊長だけが残っていた。
テーブルの上に置かれた書類。
その一番上、黒い蛇の紋章の上に指先が触れる。
「……まさか、ここまで動きが早いとはな」
ぽつりと落とした独り言は、静まり返った部屋にすぐ飲み込まれる。
窓の外では、まだ街の灯りが瞬いている。
しかし、そのきらめきの下で、世界の影は静かに牙を研いでいた。
「世界の影は……もうすぐ牙をむく」
クロウは目を閉じる。
その牙はきっと、最も若い兵士――真神龍斗にも、容赦なく向けられるだろう。
それでも彼は、あの少年を戦場に立たせる。
守るべきものがある限り、選択肢はそれしかなかった。