S.E.A.L.D.s'本部の廊下は、いつもより静かだった。
深夜帯ということもあるが、もう一つ理由がある。
――ブラックアーチの裏に、ヒドラの影。
この情報が全員の胸に、重くのしかかっていた。
龍斗は作戦室へ向かいながら、胸の奥がじわりと冷えていくのを感じていた。
歩くたび靴音が響く。それが今日は妙に耳に残る。
(……ヒドラ。こいつらだけは……)
思考がそこで止まる。
呼吸が浅くなり、喉が熱くなる。
脳裏に白い手術室が再生されそうになる。
(やめろ。もう、あれは終わったんだ……)
拳を軽く握る。
その震えを隠すように。
作戦室に入ると、いつもの顔があった。
クロウは図面を広げ、険しい表情。
レイヴンは無駄のない動きで装備を調節。
ジャックは椅子に寝そべりスナックをつまみ、
サンドヴァイパーは刃物を淡々と整備。
バレットホークは無線チェック。
そしてミアは――
龍斗が入った瞬間、ぱっと花が咲くように表情を明るくした。
「龍斗、おはよ! あ、寝れてた?」
「……普通。」
「“普通”って言った時点でもう寝てないよね」
ミアは笑いながらも、
龍斗の目の下のクマを見逃さなかった。
「……ヒドラの件、気にしてるんでしょ」
「別に」
「別にじゃない顔してるよ」
一歩近づいたミアは、端末を操作しつつ龍斗の横に並ぶ。
「大丈夫。私もいるし、みんなもいるし……龍斗はひとりじゃないよ」
その声はいつもより少しだけ優しかった。
(ほんと……お前は……)
胸の奥の冷たさが少し和らぐ。
クロウが全員を集めた。
「ブラックアーチの資金ルートを追った結果、
地下データバンカーから“ヒドラの刻印”が見つかった」
「……刻印?」
レイヴンが眉を寄せる。
「暗号化ファイルのタグだ。
ヒドラが裏で資金を供給し、ブラックアーチを動かしている可能性がある」
その言葉に、龍斗の肩がわずかに震えた。
ジャックが気づいて声を落とす。
「大丈夫だ。
お前はもうヒドラに囚われる側じゃねぇ。
今のお前は、奴らと戦う側だ」
「……分かってる」
本当にそう思えているかは、自分でも微妙だった。
ミアがスクリーンを操作する。
ログが並び、その一つが赤く点滅する。
「これ。
“レイモンド・パークス博士”の研究ログ。
フューリー長官が言ってた“超人血清”関連の資料」
龍斗の動きが止まった。
心臓が跳ねる。
嫌な汗が背中を伝う。
「やめろ……それは……」
「龍斗?」
ミアが心配そうに覗き込む。
龍斗は無意識に半歩後ずさった。
(血清……注射……拘束具……白い部屋……)
(あの匂い……あの痛み……)
視界が揺れる。
クロウが静かに言った。
「龍斗。落ち着け」
「落ち着いてる……」
声とは裏腹に、握った拳は震えていた。
その拳にそっと触れたのはミアの手だった。
「大丈夫。これは“ヒドラの血清”じゃない。
S.E.A.L.D.s'側が解析してる資料で……
あなたに使うなんて話、一つもないよ」
「……ほんとに?」
「うん。嘘は言わない」
ミアの瞳には嘘がなかった。
龍斗の呼吸はゆっくり戻っていく。
「さてと」
ジャックが立ち上がる。
「ヒドラが資金出してるってなら、根っこをぶっ潰しゃいいだけだろ」
「そう単純じゃない」
サンドヴァイパーが刃を磨きながら呟く。
「ヒドラは顔を出さない。霧の中に潜む。追うほど闇は深くなる」
「でも痕跡は残す」
レイヴンが銃を点検しながら言った。
「奴らは完璧じゃない。どこかに必ず綻びがある」
クロウは全員を見渡し、強い声で言う。
「次の任務は“ヒドラの足跡を拾う”ことだ。
ブラックアーチを潰すだけでは足りない。
本体に繋がる骨を拾う。地道な作業だが重要だ」
全員が真剣に頷く。
ミアが龍斗を横目で見ながら、小さく呟いた。
「……もしヒドラがまた龍斗を狙ってきたら、私が許さないから」
「お前が許す許さないの話じゃないだろ」
「いいの。私は怒ってるんだもん」
龍斗は――ほんの少しだけ肩を落とし、ため息をついた。
(こいつ……相変わらずだな……)
呆れ半分、安心半分の、不思議な息だった。
会議が終わり、部屋を出るとき。
クロウが龍斗の横に歩み寄る。
「怖いか?」
「……ああ」
「正しい恐怖だ。
恐怖を知らない戦士は、真っ先に死ぬ。
だが恐怖を知っている戦士は……生き残る」
龍斗はゆっくり頷いた。
(俺は……生き残れるのか?)
答えはまだない。
ただ、歩くべき道は見えている。
――ヒドラの影を追う。
――そして、過去に決着をつける。
会議が終わり、
本部のキッチン兼リビングは夜の静けさに沈んでいた。
冷蔵庫の小さな灯りだけが青白い光を落とし、
ステンレスのカウンターを淡く照らしている。
サンドヴァイパー――アルは、
温かい紅茶をマグカップに注ぎながら小さく息をついた。
その背中に、柔らかい声がかかる。
「眠れないの、アル?」
レイヴン――ソフィアが扉の影から現れた。
帽子を外した長い髪が肩に落ち、
どこか疲れたように微笑んでいる。
「……ソフィアこそ。
珍しいじゃない、こんな時間まで起きてるなんて」
「喉が渇いただけだよ。少し気が張ってたみたい」
ソフィアのために、アルはもうひとつカップを用意してそっと差し出す。
二人はカウンターに並んで座り、
湯気だけが静かに立ち上る時間が流れた。
やがて、ソフィアが小さく口を開く。
「さっき……ヒドラの話が出た時。
アル、少し顔色が変わったよね」
「……見えてた?」
「分かるよ。同じような顔、私もしてたから」
アルは紅茶を見つめたまま、
ゆっくりとまぶたを閉じる。
「昔のことを思い出した。
イギリス軍にいた頃……
仲間が“売られた”の。
裏切ったのは、同じ部隊の人間だった」
ソフィアの表情が曇る。
「……そんな」
「助けられなかった。
気づいた時には、もう遅かったのよ」
アルは静かに続けた。
「それ以来……私、人を信じるのが怖くなった。
“また裏切られるんじゃないか”って」
ソフィアはその言葉に胸が締めつけられるのを感じた。
だから、自分の話を始めた。
「私もね……
CIA時代に、誤射したの」
アルが息をのむ。
「味方の情報が偽物で……
本当は守るべき人を傷つけた。
あの時の光景、忘れられないの。
引き金を引いた感触が、今でも残ってる」
手が震えて、カップの表面を揺らす。
アルはそっとソフィアの手に触れた。
「……あなたが悪いんじゃないわ」
「でも、私が撃ったのは事実だよ」
「それでも。
それを抱えて、ここに立ってる。
その強さは、本物よ」
ソフィアは目を伏せたまま、
ぽつりと呟く。
「……ありがとう」
静かな沈黙が流れ、
二人の間にあった“壁”がひとつ崩れ落ちていくのが分かった。
ソフィアが顔を上げ、少し照れたように笑う。
「ねぇ、アル。
もしまた辛くなったら、私でよければ聞くよ。
夜中でも、任務中でも」
「……ソフィアもよ。
一人で抱えちゃダメ」
アルは微笑み、
二人はそっとカップを合わせた。
カン……
ほのかな陶器の音が、静かな部屋に優しく響く。
温かな紅茶の香りの中で、
二人はほんの少しだけ心の傷を預け合った。