※この作品はR-18です。

君は僕のアンカー   作:最高司祭アドミニストレータ

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鏡の中の不協和音

 昨夜の熱が、まだ肌の奥で微かに燻っている。たけしは、駅前の賑やかな雑踏の中を歩きながら、隣で楽しそうに話す美咲の横顔を盗み見た。

 

 制服を脱ぎ、柔らかな素材の白いワンピースに身を包んだ彼女は、昨夜とはまた違う、親しみやすい輝きを放っていた。長い黒髪が風に揺れ、そのたびにシャンプーの甘い香りがふわりと鼻をかすめる。道行く男たちが、誰もが振り返り、羨望と、あるいは嫉妬の混じった視線を投げかけてくるのが分かった。

 

 

「ねぇ、たけし。あそこのカフェ、新しいケーキが出たんだって。食べていかない?」

「ああ、いいな。行こうか」

「やった! たけしと食べるケーキは、世界で一番美味しいから」

 

 

 屈託なく笑う美咲に、たけしの心も温かくなる。手を繋ぎ、指を絡め合う。彼女の指は驚くほど細く、そして柔らかい。自分の、節くれだって分厚い掌で包み込むと、まるで壊れ物を扱うかのように、自然と力が籠もるのを抑えなければならなかった。

 

 この幸福が永遠に続けばいい。昨夜のユニゾンでひとつになった魂が、まだ確かな温もりとなって胸の内にある。今は、ただそれだけで満たされていた。

 

 カフェでケーキを食べ、雑貨屋を冷やかし、古本屋で互いに好きそうな本を探し合う。そんなどこにでもある恋人たちの、ありふれた午後。しかし、たけしにとってそれは、何物にも代えがたい宝物のような時間だった。

 

 美咲が笑うたびに、世界の彩度が一段階上がるような気がした。彼女が「楽しいね」と囁くたびに、彼の存在そのものが肯定されるような、そんな全能感すら覚えていた。

 

 問題は、ふと立ち寄ったブティックの前で起きた。美咲が、ショーウィンドウに飾られた秋色のスカーフに目を留めたのだ。

 

 

「わぁ綺麗。これ、たけしに似合うかも」

「え、俺に? こういうのは、お洒落な人がするもんだろ」

「何言ってるの。たけしはお洒落だよ。私が保証する」

 

 

 そう言って、彼女はたけしの腕を引き、ウィンドウの前に立った。そして、その瞬間、たけしは見てしまったのだ。ガラスに映った、自分たちの姿を。

 

 それは、あまりにも残酷な対比だった。陽光を浴びて輝くように立つ、細身で、完璧なシルエットの美咲。その隣には、彼女の二倍はあろうかという巨体の男が、ぼんやりと突っ立っている。ワンピース姿の彼女は軽やかで、まるで今にも空に舞い上がってしまいそうだ。

 

 対してミリタリージャケットを着た自分は、重力に魂を引かれたかのように、どっしりと、いや、ずんぐりと地面に張り付いている。

 

 

 美しい白鳥と、泥にまみれたカバ。

 洗練された彫刻と、無造作に置かれた岩塊。

 

 

 残酷なまでに正確な鏡像は、二人の間に横たわる、埋めようのない外見的な格差を、一分の容赦もなく突きつけてきた。

 

 

「ほら、やっぱり。素敵だよ」

 

 

 美咲の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。彼女は、ガラスに映るたけしの首元に、スカーフの映像を重ね合わせながら満足そうに頷いている。彼女の瞳には、この絶望的な不協和音が見えていないのだろうか。それとも、見えていながら、気づかないふりをしているのだろうか。

 

 ズキリ、と。

 

 胸の奥に、冷たくて鋭い何かが突き刺さる感覚があった。昨夜までの幸福感が、まるで嘘だったかのように急速に色褪せていく。あの聖域で交わされたユニゾンは、本当に現実だったのだろうか。

 

 あの薄暗いトイレの中だからこそ許された、一瞬の夢だったのではないか。明るい太陽の下に引きずり出された途端、魔法は解け、自分はただの「太った醜い男」に戻ってしまった。

 

 

「…そう、かな」

「そうだよ。今度プレゼントするね」

「いや、いいよ。俺には勿体ない」

 

 

 思わず口から出たのは、棘のある言葉だった。美咲が、きょとんとした顔でたけしを見上げる。その純粋な瞳が、今はかえって辛かった。

 

 

「勿体なくなんかないよ。どうしたの、急に」

「……なんでもない。ちょっと、疲れただけだ」

 

 

 たけしは、彼女の視線から逃れるように顔を背けた。一度気になってしまうと、もう駄目だった。周囲の視線が、すべて自分たちに向けられているように感じる。「あの美女、なんであんな男と?」という声が、幻聴となって耳にこびりつく。人々は、自分を嘲笑い、美咲を憐れんでいるに違いない。

 

 完璧だったはずの世界に、亀裂が入った瞬間だった。小さな、しかし決して無視できない不協和音が、彼の頭の中で鳴り響き続けていた。

 

 その日、デートの帰り道は、どちらからともなく口数が少なくなっていた。たけしは、自分の心に突き刺さった棘をどう処理すればいいのか分からず、ただ黙り込んでいた。

 

 美咲は、そんな彼の様子を気遣わしげに見つめていたが、何を言えばいいのか分からないようだった。二人の間に、目に見えない、薄い壁ができてしまったかのようだった。

 

 家に帰り、一人になったたけしは、姿見の前に立った。そこに映っていたのは、紛れもなく、ショーウィンドウで見たのと同じ、太って不格好な中年男の姿だった。だらしなく突き出た腹。たるんだ顎の肉。優しい光などどこにもない、ただ疲れて濁った瞳。

 

 

 これが、自分だ。

 これが、あの完璧な美咲の恋人。

 

 

 ありえない。どう考えても、この組み合わせは間違っている。

 

 

「なんで、なんだ…」

 

 

 絞り出すような声が、静かな部屋に落ちた。

 

 

「なんで彼女は、こんな俺を…」

 

 

 その問いは、答えのないまま、彼の心の中をぐるぐると回り始めた。

 

 その夜、たけしは眠れなかった。目を閉じると、ショーウィンドウの光景がまざまざと蘇る。そして、彼の思考は過去へと遡っていった。美咲との出会いの日。

 

 それは確か、今日のようによく晴れた日ではなかった。そうだ。冷たい雨が、アスファルトを叩きつけていた日だ。

 

 たけしは、取引先への営業回りの途中だった。慣れない土地で道に迷い、雨に濡れ、おまけに大事な書類をどこかに落としてしまったことに気づき、半ばパニックになっていた。

 

 汗と雨でシャツは肌に張り付き、ぜいぜいと荒い息を吐きながら、彼はみっともなく辺りを見回していた。その姿は、客観的に見て、不審者そのものだったに違いない。

 

 そんな彼の前に、すっ、と傘が差し出された。見上げると、そこにいたのが、交番勤務中だった制服姿の美咲だった。

 

 

「大丈夫ですか? 何かお探しですか?」

 

 

 凛とした、しかしどこか温かみのある声。雨に濡れた彼女の長い黒髪が、頬に張り付いていたのを覚えている。そして、彼女の手には、たけしが落としたクリアファイルが握られていた。

 

「あ、ああ、それ、俺の…!」

「やっぱり。中、濡れてないといいんですけど」

 

 

 彼女はそう言うと、ハンカチでファイルの表面を丁寧に拭いてくれた。その時、たけしは自分の姿が恥ずしくてたまらなかった。汗と雨でぐしょ濡れの巨漢。荒い息。焦りで血走った目。そんな醜い男に対して、彼女は嫌な顔ひとつせず、ただただ親切に、そして優しく微笑みかけてくれたのだ。

 

 

「ありがとうございます…本当に、助かりました」

「いいえ。お仕事、頑張ってくださいね」

 

 

 去り際に向けられたその笑顔が、まるで女神のように見えた。その時からだ。たけしが、彼女に心を奪われてしまったのは。

 

 後日、彼は菓子折りを持って交番に礼を言いに行った。そこから、少しずつ話をするようになり、連絡先を交換し、デートを重ね、そして恋人になった。すべてが、夢のように順調だった。彼は、自分の外見に対するコンプレックスを、彼女への愛情で蓋をして、見ないようにしてきたのだ。

 

 だが、今日、その蓋はこじ開けられてしまった。

 

 思い返せば、最初からおかしかったのだ。あの雨の日、なぜ彼女は、あんなにもみっともない自分に、あんな優しい笑顔を向けてくれたのだろう。なぜ、その後も自分の誘いを断らず、会ってくれたのだろう。そしてなぜ、恋人になることを受け入れてくれたのだろう。

 

 

 分からない。

 どれだけ考えても、分からない。

 

 

 彼女が自分に見せている優しさも、愛情も、すべては彼女の生来の人の良さからくるものであって、本当は、心の底では自分のことを醜いと思っているのではないか。本当はもっと格好のいい、自分にふさわしい恋人が欲しいと思っているのではないか。

 

 そんな疑念が、毒草のように彼の心に根を張り、蔓を伸ばし始めた。

 

 

「なぜ…」

 

 

 たけしは、ベッドの上で身体を丸めた。大きな身体が、今はひどく邪魔で、重たいだけの肉の塊にしか思えなかった。

 

 昨夜、あれほどまでに誇らしかったはずの「大樹」も、今はすっかり萎れて、その存在を消している。彼女を満たしたはずの自信は、ガラスに映った不協和音の前で、脆くも砕け散ってしまった。

 

 完璧だったはずのユニゾン。あの聖域での出来事は、すべて幻だったのだろうか。たけしの心に突き刺さった棘は、夜が更けるにつれて、さらに深く、痛みを増していくのだった。

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